ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート10 大湯環状列石と三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰

 2014年に縄文社会研究会に参加したのは、スサノオ大国主建国論から縄文時代の船や武器(弓矢と槍)、稲作、宗教を分析する必要を感じたからです。群馬県片品村のむらおこしの資源調査では、金精信仰やお山信仰・地母神信仰が縄文時代から続くと考えるようになりました。
 本論は2015年7月にまとめたレジュメ「大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰―北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録への提案」を『季刊日本主義31号150925』の原稿としたものを修正したものです。
 なお私は「石器―縄文式土器弥生式土器―古墳」の時代区分ではなく、「石器―土器(縄文)―鉄器」の時代区分を提案していますが、ここでは従来の「縄文時代」をそのまま使用しています。

はじめに

 7月1日、縄文研究仲間の石飛仁氏より誘われ、梁山泊のみなさんと秋田県大曲市で行われた花岡事件の419人の中国人労働者の慰霊祭に参加し、翌7月2日から3日にかけ、小坂町の康楽館で常打芝居(岬一家)を見て、かねてから念願であった秋田県鹿角市大湯環状列石三内丸山遺跡、亀ヶ岡石器時代遺跡などを見学しました。
 両遺跡を中心に「北海道・北東北の縄文遺跡群」は世界遺産暫定一覧表に記載され、登録実現の取組みが進められていますが、両遺跡の世界的な文化的価値を縄文人の宗教から明らかにしたいと考えます。

1.ストーンサークル(環状列石)は集団墓

 ストーンサークル(環状列石)が死者を埋葬し、祖先霊を祀る祭祀の場所であることは、イギリスのストーンヘンジ(直立巨石:紀元前2500~2000年、円形土塁:前3100年頃)の立石の下に人骨があり、ほぼ同時代の大湯環状列石(紀元前2000年前)や三内丸山遺跡(紀元前3500~2000年)の環状配石墓においてもすべての配石の下に墓壙があり、甕棺や副葬品と考えられる石鏃、朱塗りの木製品、高等動物由来の脂肪酸コレステロールが見つかっていることから、定説となっています。

   ストーンヘンジ(イギリス南部)は祖先霊信仰の墓地か太陽信仰の神殿か? 

    f:id:hinafkin:20200307191844j:plain

  さらに、ストーンヘンジの人骨が各年齢層の男女であることから、王や戦士、男性宗教者などを葬る墓地ではなく、部族長の一家を葬り、祭祀を行う場所であることが、イギリスのストーンヘンジ研究(考古学者マイク・パーカー・ピアソン教授のチーム)により明らかにされています。

2.ストーンヘンジの直線道路状地形の意味

 ストーンヘンジには、アベニューと言われる、幅30m、長さ3㎞の2カ所で折れ曲がった直線道路状(2本の堀と土塁)の遺構があり、その最後の南西に向かう軸線に正確に合わせてストーンサークルが作られ、祭壇が設けられています。最近の研究では、このアベニューは氷河期時代に水が流れ出して自然にできた地形であることが証明されています。

      エイボン川からストーンヘンジへと続く自然のアベニュー 

      f:id:hinafkin:20200307191924j:plain

  ストーンヘンジに合わせてアベニューが作られたのではなく、アベニューに合わせてストーンヘンジが作られたのです。石器人たちは、エイボン川から続く折れ曲がった直線道路状の自然地形の先端に聖なる墓地を設けたのであり、この直線道路の先端に死者の国(黄泉)があると考え、その特別の場所に一族の指導者たちを埋葬し、祭礼を行ったのです。

3.ストーンヘンジに方位線はなかった

 ストーンヘンジと日本の環状列石について、日没・日の出を示す方位線(レイライン)があり、太陽信仰が行われていた、という説がみられますが、それは自然が作りだした単なる偶然であったことが明らかとなったのです。
 太陽が昇り、沈むことを生命の誕生と死と重ね、その方位線(レイライン)に合わせて墓地を配置したという仮説は否定されたのです。自然にできたアベニューの方向が、たまたま冬至の日没の方向を向いていただけでした。
 大湯環状列石についても、ストーンヘンジ方位線仮説の影響を受け、夏至の日没の方位線に合わせて建設されたという主張が見られましたが、現地に行って子細に見てもそのような方位の規則性はどこにも見いだせませんでした。

   
     大湯の万座環状列石            大湯の野中堂環状列石

 f:id:hinafkin:20200307165538j:plain

  環状列石の入り口は北向きや南東向き、西向きなどさまざまであり、周辺の四角い柱の立つ遺構の入り口は、儀式が行われたと見られる場所の方向を向いていました。
 さらに「日時計説」のある立柱を中心にした円形石組は、東西南北の方位を正確に示す石の配置になっていませんでした。

            大湯環状列石の円形石組・立棒 

       f:id:hinafkin:20200307192209j:plain

  また、当時の大湯環状列石がある場所は太陽の日の出・日の入の山の稜線位置を観察できるような平原ではなく、周辺は深い縄文の森であった可能性もあります。
 さらに、石器人が太陽の年間の運行を観察し、冬至夏至の太陽の沈む方向や昇る方向を正確に知る必要があり、観察していたかどうか、という問題があります。
 太陽や月の運行の把握は、栽培農業が始まって定住化し、広大な地域からなる国家が誕生し、暦を作成して決まった時期に税を取り立て、各地域から部族長を集めて年間行事を行うようになってからと考えれます。
 太陽の運行を年間にわたって観察してその法則性を掴むためには、専門の観察者と文字による記録が必要ですが、石器時代にそのような痕跡はみられません。
 加えて、石器人達が、夏至に太陽が昇る方角を生者の国とし、冬至に太陽が沈む方向に死者の国があり、その太陽の軌跡を人の生死と重ね合わせるという宗教思想を持っていた(マイク・パーカー・ピアソン教授)という仮説の証明が必要です。
 私は、石器人は人の生死を、植物が大地から生え、種子が落ち、枯れて大地に帰り、春に再生するのと同じように考えたという地母神信仰説を支持していますが、日々の太陽の動きや年間の太陽の動きに生死を重ねたという説のどちらがより合理的でしょうか?
 ストーンヘンジを作った石器人にとっては、アベニューの方位に意味があったのではなく、この自然が創り出したエイボン川から続くアベニューが、死者を死の国へ送る葬送儀式を行う上で価値があったのです。

4.円形の意味

 一族の支配者たちを、日本や英国で円形の集団墓地に埋葬したのはなぜでしょうか?
 石器人にとって、円形はぐるっと見渡した天空、太陽や月、丸石、水滴、水面に石を投げた時の波紋、地面に水を垂らした時の染み、昆虫が掘った穴、木の断面や植物の茎や果実や花、人間などの瞳、鼻や女性器の穴などを連想させる形状です。また、手や木で穴を最も効率的に掘るとすればその平面は自然と円形になります。
 家を作る場合には、縄文人の竪穴式住居やティピー(アメリカのスー族の住居)のように木を円錐状に立てかけて上を蔓で縛り、周りに木枝や茅などを立てかけた構造が一番シンプルです。
           三内丸山遺跡の復元住居

      f:id:hinafkin:20200307192153j:plain

  このように見てくると、人が地面に掘る穴の円形の形状、昆虫があけた円形の穴、大地から生える木や植物の茎の円形の断面、子どもが生まれてくる女性の膣の形状、住居の円形平面などから、石器人たちは地中の死者の国は円形と考え、その範囲を円形に石で囲った可能性が高いと考えます。
 円形は天の太陽信仰ではなく、地母神信仰の入口を示しているのです。

5.地母神信仰の黄泉帰り信仰5を示す「円形石組・立棒」

 ストーンヘンジを作った人々は、アベニューの先端の地下に死者の国を想定し、円形に土塁で囲んで墓地とし、次いで列石をたててその下に遺体を葬り、葬送儀式を行ったのです。その重要な手掛かりは、これまで「日時計」説のあった大湯環状列石などの「円形石組・立棒」墓です。

          大湯環状列石の中の「円形石組・立棒」 

f:id:hinafkin:20200307192108j:plain

  大湯環状列石ストーンサークル(万座:直径45~46m、野中堂:同40~42m)の外環全体が地下の死者の国の範囲し、この外環は円形や菱形の石組(それぞれ48基、44基)で構成され、その下に死者が埋められたのです。
 円形の石組の中心立てられた立棒は、東日本の各地の住居内の炉の近くや土坑の中央や縁に直立して発見されている男根型石棒と同じであり、円形石組は女性器を形象し、母なる大地の女性器に男根を立てて精液を注ぎ、黄泉の国の死者が再生することを願ったものと私は考えます。

     群馬県渋川市赤城地区の滝沢石器遺跡の石棒(赤城歴史資料館) 

         f:id:hinafkin:20200307192316j:plain

  縄文時代の竪穴式住居の入口に壺が埋められ、死んだ乳児が埋められていた例からみて、縄文人は死んだ子ども霊(ひ)が、その上をまたぐ母親の胎内に再び宿ることを願っていたと考えられ、死者が黄泉の国から再生する宗教思想を持っていた可能性が高いことを裏付けています。
 三内丸山遺跡の環状配石墓から赤色顔料(ベンガラ)が見つかり、古墳時代の甕棺や木棺・石棺の内部が水銀朱やベンガラで赤く染められていたのは、母なる大地の血で満たされた子宮に死者を葬り、再生を願ったもので、縄文時代からの黄泉帰り宗教はその後も続いているのです。

                  吉野ヶ里遺跡の甕棺の復元模型 

        f:id:hinafkin:20200307192335j:plain

  播磨国風土記には、「大神(伊和大神=大国主命)の妻の妹玉津日女が生きた鹿の腹を割いて、稲をその血に播いた時、一夜で苗が生えた」(讃容郡讃容:今の佐用市)、「太水神は『吾は宍(しし)の血をもって田を作るので河の水は欲しない』と述べた」(賀毛郡雲潤里:今の加西市加東市)と、鹿や猪の血で稲の栽培を行うという呪術的な縄文式稲作の記述が見られます。水路工事を行い、水田稲作を普及させようとする大国主親子に対し、血から生命が再生するという縄文式稲作の方法に固執する王女や王の姿が描かれています。
 このように、縄文時代からスサノオ大国主時代にかけて、わが国では大地を母とする地母神信仰のもとで、その子宮(壺や甕、棺)の血の中から死者は再生するという「黄泉帰り」の宗教思想による埋葬が行われていました。大湯環状列石などの「円形石組・立棒」はその有力な物証です。
 この性器信仰は、わが国では「縁結び・夫婦和合・子宝・子孫繁栄」の金精信仰(母なる山神に男根を奉納する)として今も続いています。インドや東南アジアではリンガ(男根)・ヨニ(女性器)信仰が今も行われており、ヨニ(女性器)の中心に立つリンガにミルクを注いで拝まれています。その形状は「円形石組・立棒」そのものです。

     インドのリンガ・ヨニ信仰(ブログ「わたしの里美術館」より) 

       f:id:hinafkin:20200307192353j:plain

  リンガ・ヨニ崇拝は、紀元前4世紀から紀元4世紀頃に書かれた叙事詩マハーバーラタ」に書かれており、その宗教起源はヒンズー教よりもさらに古い土着宗教を示しています。
 縄文の「円形石組・立棒」は、世界の石器人の宗教思想を解く重要なキーストーン(要石)です。

6.ストーンサークルの石のルーツ

 注目すべきは、ストーンヘンジの中心部の82個のブルーストーン(斑点輝緑岩、約4t)が遠方240kmの西ウェールズから、その回りの円形立石のサーセン・ストーン(砂岩、最大50t)は32㎞離れた場所から運ばれていることです。
 大湯環状列石石英閃緑ひん岩)の河原石も、すぐ西の大湯川からでなく、北東4~7㎞離れた安久谷川河床から運ばれ、青森市三内丸山遺跡の22基の直径約4mの環状配石墓の河原石もまた、すぐ北側の沖館川からではなく、北に7㎞も離れた場所から運ばれています。

            三内丸山遺跡の環状配石墓 

     f:id:hinafkin:20200307192447j:plain

  これらのストーンサークルを作った人々は、なぜ遠く離れた場所から、苦労して石を運んできたのでしょうか? 
 親しい死者をわざわざ遠く離れた場所に葬る可能性は少なく、墓地は居住地の近くに設けられ、墓石を遠く離れた聖地から持ってきた、と見るべきでしょう。
 その手掛かりは、日本の古墳時代熊本県宇土半島阿蘇ピンク石(ピンク色の凝灰岩)が海を渡って岡山・兵庫・大阪・奈良・滋賀に運ばれ、兵庫県高砂市の竜山石(淡緑色や青色、黄色、赤色の凝灰岩)が岡山・広島・山口・大阪・奈良に運ばれて「大王の石」として石棺に使われたことが参考となります。その中に葬られた死者にとって、阿蘇石や竜山石が聖なる墓石であったとみる以外にありません。
 妻問婚の時代、大王や王の子ども達は母方で養育され、成人して父方に引き取られた後、死んだ時には、母方の祭祀に従って祖先から続く聖石で棺を作り、海を運び、居住地近くの墓地に遺体を入れて埋葬したとしか考えられません。
 三内丸山遺跡の子どもの墓に石を入れ、身につけていた勾玉を死者とともに葬った縄文人は、死者の霊(ひ)を「たましい」といい、石に宿ると考えていたと見られ、この祖先霊が宿る石を「霊(ひ)継ぎ=棺、柩」として使用したのです。
 ストーンサークルを作った石器人たちは、聖石があった所に先祖代々が住み、そこからストーンサークルの近くに移住した一族は、その葬儀にあたっては、祖先霊が宿る故郷の聖石を運んで死者を埋葬し、祖先霊を受け継ぐ儀式として聖地から石を運び、一族の結束を固めたと考えられます。
 その後、彼らの一族がさらに各地に分住した後も、先祖が誕生した聖地の祖先霊が宿る石を、第2の故郷の墓地・ストーンサークルに運ぶ葬送の共同作業を行うことによって、同じ祖先を持つ同族としての絆を深めたと考えられます。
 大湯環状列石の周辺には、いくつもの柱跡が残されており、この地に同族が各地から集まって家を建てて祭祀期間には留まり、聖地から石を運んで葬るという葬送儀式を共同で行い、同じ祖先霊を祀る同族意識を高めたに違いありません。

7.地母神信仰が示す母系制社会

 三内丸山遺跡からは、北海道・長野県霧ヶ峰の黒曜石や、新潟県糸魚川翡翠岩手県三陸琥珀秋田県アスファルトなど、各地からの産物が発見されています。
 一般的な考えは、漁民であった縄文人が丸木舟に乗って広く交易を行っていたという仮説ですが、縄文人が母系制社会であると考えると、これらの貴重品は単なる交易によるものではなく、男は貴重な黒曜石のナイフや槍の穂先、鏃、装飾品の翡翠琥珀などの贈り物を持って、各地から妻問いにこの地を訪れた可能性が高くなります(上田篤著『縄文人に学ぶ』新潮新書)。
 実際、魚を追って漁に出て、遭難の危険もある全国各地の漁師の家では、妻が財布を握っていました。
 瀬戸内海の岡山県備前市日生町では、この地をルーツとする打瀬船を熊本県芦北や千葉・霞ヶ関に伝え、宮崎から軽い杉の舟材を求め、朝鮮半島近海まで漁に出かけ、岡山藩は日生を拠点に密貿易を行っており、「米と味噌と水さえあれば、漁師はどこまでも気軽に魚を追っていった」と加子浦歴史文化館の館長は語っていました。愛媛県八幡浜の漁民は、移民のために打瀬船で明治45(1912)年に5人の漁民が76日かけて太平洋を渡り、翌年には15名が58日かけて渡るなど、渡米は合計5回に及んでいます。―以上『日本主義』26号「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」参照
 時代は異なりますが、海人族であった縄文人もまた、丸木舟を操り、夏は穏やかな日本海を広範囲に航海したことは確実です。そして、この地で女性と出会い、婿入りした男も多く、逆に、この地の男もまた、各地に出かけ、妻問い婚で定着した可能性が高い。
 1500年の長きに渡って三内丸山遺跡に人々が住み続けられたのは、彼らが同族間で近親結婚を繰り返したのではないことを示しており、それは、妻問夫招婚の母系制社会であったからこそ可能であったと考えます。
 女性を形取った土偶は、女性を神とあがめる母系制社会の信仰を示しており、女性が死んだ後、その霊(ひ)が宿る土偶を壊し、母なる大地に帰すという地母神信仰を示しています。もし、男系社会であれば土偶は男ばかりでしょう。

             大湯環状列石土偶 

       f:id:hinafkin:20200307192522j:plain

  古事記には、大国主の妻が「打ち廻る 島の崎崎 かき廻る 磯の崎落ちず(もれず) 若草の 妻持たしめ」と嫉妬して詠んだとされる歌が載せられていますが、彼は糸魚川から筑紫まで船で行き来し、各地の「島の崎崎」「磯の崎」で妻問いし、180人の御子を設けたのです。大国主の時代もこの国の海人族が母系制社会であったことを示しています。
 「父系制農耕社会」の思いこみで縄文社会を見るのではなく、大国主の時代から遡り、「母系制海人社会」であった縄文社会を見なければなりません。

8.石器人(縄文人)の霊(ひ)信仰

 「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(『日本主義』26号140625)で私は次のように書きました。

 「沖縄や鹿児島では、女性の性器を「ひ」「ひーな」と言い、茨城・栃木ではクリトリス(陰核、さね)のことを「ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)」(『和名抄』から続く)と呼んでいる。また、出雲では女性が妊娠したことを「霊(ひ)が留まらしゃった」といい、茨城では死産のことを「ひがえり(霊帰り)」といっている。
新井白石は「人」を「ヒ(霊)のあるところ(ト)」とし、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』の中で、「姫」「彦」「卑弥呼」などを「霊女」「霊子」「霊巫女」と解釈している。
 『古事記』で天之御中主神に次いで二番目・三番目に登場する神は高御産巣日(たかみむすひ)神・神産巣日(かみむすひ)神であるが、『日本書紀』では「高皇産霊神」「神産霊神」と書かれている。「日」=「霊」であり、この二神は「霊(ひ)」を産んだ夫婦神であり、神産巣日神大国主の危機を何度も助ける守り神である。
 この国は「霊(ひ)の国」であり、アマテラスとスサノオの「宇気比(うけひ)」は「受け霊(ひ)」、王や天皇の王位継承儀式の「日継(ひつぎ)・日嗣(ひつぎ)」は「霊(ひ)継ぎ」、「柩・棺」は「霊(ひ)を継ぐ入れ物」、「神籬(ひもろぎ)」は「霊洩ろ木:後の御柱」である。
 DNAによる遺伝法則を知ることのなかった古代人は、親子が似ているのは、親の霊(ひ)が子孫に受け継がれる、と理解した。「人間はDNAの入れ物」ということを、古代人は「人間は霊(ひ)の入れ物」=「霊(ひ)の器」と考えたのである。」

 この霊(ひ)信仰は記紀などに書かれた神話時代から現代にかけての記述ですが、三内丸山遺跡の環状配石墓からベンガラが見つかり、古代の「柩・棺:霊(ひ)継ぎ」を血で満たすという連続性からみて、霊(ひ)信仰は縄文時代から連続しています。
 儒教にとらわれた下級武士たちが明治政府の官僚になり、金精信仰や混浴を禁じ、母系制社会の痕跡を抹消してしまいましたが、縄文から明治の前まで続く霊(ひ)信仰と性器信仰、母系制社会の歴史文化を正当に評価する必要があります。

9.「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録へ向けた提案

 今、三内丸山遺跡大湯環状列石など「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録をめざす取組みが進められ、2009(平成21)年1月5日には世界遺産暫定一覧表に記載されました。

    「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録ののぼり

      f:id:hinafkin:20200307192545j:plain

  大変、喜ばしいことですが、この「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、世界の石器時代の人々の宗教、精神生活を解明する上で一番重要な手掛かりを与える遺跡群である、という世界史的な視点を欠いた、ガラパゴス的な「縄文」認識に止まっていることが実に残念です。
 世界遺産登録の「3 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。」「5 あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)。」「6 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある」の3基準のうち、3と5の基準だけでなく、6の基準への視点が弱いことです。
 遺跡・遺物だけでなく、縄文人たちが母系制社会の地母神信仰と性器信仰、霊(ひ)信仰の文化的・宗教的伝統、文明を持っていたことの普遍的価値を正面に据える必要があると考えます。
 そのためには、それらの遺跡・遺物を、古事記播磨国風土記などの記述や、今も各地に残る性器信仰・性信仰・霊(ひ)信仰と関連づけた主張が重要です。ストーンヘンジを手本に縄文時代を見るのではなく、縄文の歴史・文化からストーンヘンジの解明への手掛かりを提案すべきです。
 私は前掲の小論で「弥生時代はなかった」として、縄文―弥生―古墳の「ドキドキバカ史観」を批判し、弥生人による縄文人の征服などはなく、土器時代から鉄器時代へと連続しているという「トテツ史観」を提唱しましたが、さらに「進んだ弥生渡来人、遅れた縄文人」という「弥生人征服史観」を根底から変え、石器・土器時代(土器=土器鍋)から鉄器時代、石器稲作から鉄器稲作への「自立的・主体的発展史観」に立つ必要があると考えます。
 このように石器・土器時代から鉄器時代が連続していると考えると、縄文土器はわが国の文化・文明の基底として連綿と現代にまで続いているという視点が獲得され、さらに、石器時代→土器時代→鉄器時代という、新たな世界史時代区分への提案が求められます(健康的で豊かな土器鍋食文化についは別の機会に述べたいと思います)
 「優れた中国・西欧、遅れた日本」という視点からしか歴史を見ることができない、拝外主義的な歴史観から脱却し、霊(ひ)信仰の健康的で豊かな海人族の母系制社会の「土器(縄文)時代」を世界史の発展段階に位置づける機会として、私は「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を願うものです。
 一過性のオリンピックで景気回復や国威発揚を考える前に、主要な縄文遺跡の発掘にこそ集中的に予算を使い、全世界からの多くの観光客を招くことを考えるべきでしょう。
 「誇れる日本」は、ギリシア人建築家デザインのバブル時代の遺物のモニュメンタリズムの新国立競技場などではなく、縄文から続く母系性社会のこの国の歴史・文化を正当に評価することから始めるべきです。