ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート142 もち食のルーツは西アフリカ 

 私が「イモもち」に関心を持ったのは、鳥浜・三内丸山縄文遺跡で発掘されたヒョウタンの原産地がニジェール川流域であることを知り、ナイジェリアで「アフリカ水田農法」の指導を行っている若月利之島根大名誉教授から「イボ族(とヨルバ族)の主食はヤムもち(日本の自然薯と同種)で、大鯰と一緒に食べるのが最高の御馳走。古ヤムのモチは日本のつき立てものモチよりさらにおいしい。貝は大きなタニシをエスカルゴ風に食べます。男性の精力増強に極めて有効」という返事をいただいてからでした。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」参照

 もちが大好きな私としては、「もち食のルーツ」を確かめないわけにはいきません。

両親が千歳に住んでいたことがあり、北海道のじゃがいもを使った「いももち(もちだんご)」は知っていましたし、ナイジェリアで縄文人由来のY染色体D型人が見つかり、共通の祖先から分岐したY染色体E型人がナイジェリアを含む熱帯雨林地域に多いことから、「もち食文化」もまた西アフリカからヒョウタン容器に入れられて日本列島に持ち込まれた可能性についてまとめておきたいと考えます。

 民族のルーツを生活文化から探るには、現代に残る希少性・恒常性のある生活文化の比較こそが重要であり、「もっちり・もちもち・ねばねば」好きのもち食文化の分析は最適と考えています。

 なお、「縄文ノート140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」において、イモ食が焚火を利用した「焼・蒸しイモ食」から土器鍋を使った「イモ煮食」、さらに臼と杵でついた「イモもち食」へと変わったという説を述べましたが、縄文時代には「石臼」とともに「木臼」があった可能性があると考えています。

 引用が多くて恐縮ですが、お付き合いいただければ幸いです。

 

1.これまでの考察

 イモ食については「縄文ノート140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」で詳しく述べましたが、これまで石臼(石皿)の用途の可能性として粉食は考えましたが、石臼・木臼を使った「もち突き」による「もち食」の可能性についてはきちんと検討できていませんでした。

 

⑴ 縄文ノート25 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」

 縄文遺跡から石臼が数多く発見されている以上、縄文人が粉食を行っていたことは確実であり、ドングリから作ったとされる「縄文クッキー」だけでなく、穀類やイモ類の「土器鍋食」の可能性を検証しないということは考えられません。・・・

 アフリカ原産のタロイモ(タイモ、エビイモ、タケノコイモ、サトイモ)やヤムイモ(ヤマノイモ、山芋)を主食とした熱帯・亜熱帯・温帯のイモ食文明の解明は「穀物文明史観」のもとで遅れているといわざるをえません。・・・

 中秋の名月サトイモを供えて月見する芋名月や、輪切りにしたサトイモを模した「丸餅」を雑煮として食べる習慣などからみて、その起源は稲や粟を備える祭りより古い可能性があります。縄文土器の底のおこげの再現実験や縄文人の歯石の分析など、イモ食文化について本格的な研究が求められます。

 

⑵ 縄文ノート28 ドラヴィダ海人・山人図2 2 モチイネの栽培圏

 国立民族学博物館名誉教授・元館長の佐々木高明氏の『照葉樹林文化の道』によれば、ミャンマービルマ)から雲南ラオスにかけてはオコワや餅、チマキなどをハレの食物とする日本と同じ「モチイネ(糯)」の栽培・文化圏であり、中尾佐助氏によればブータンでは日本で今も神事に使われている赤米が栽培されており、写真は対馬市豆酘(つつ)の高御魂(たかみむすび)神社(霊(ひ)を産む始祖神の高皇産霊を祀る)の赤米の神田です。寒さや病害虫に強い赤米などは条件の悪い日本の棚田などでずっと栽培されており、木簡からは7~8世紀に丹波、丹後、但馬などから藤原京平城京へ貢物として赤米が運ばれたことが記されています。民俗学者柳田國男氏は赤飯の起源は赤米であると主張しています。

       

 

⑶ 縄文ノート29 「吹きこぼれ」と「おこげ」からの縄文農耕論 

 縄文遺跡から石臼が数多く発見されている以上、縄文人が粉食を行っていたことは確実であり、ドングリから作ったとされる「縄文クッキー」だけでなく、穀類やイモ類の「土器鍋食」の可能性を検証しないということは考えられません。・・・石臼がある以上、未発見ですが「木臼・杵」(脱穀だけでなくイモ類、穀類・豆類やナッツ類の粉砕)も考えて再現実験で検討すべきでしょう。ことによれば小豆を潰した「縄文お汁粉」などもあったかもしれません。

 

⑷ 縄文ノート62 日本列島人のルーツは「アフリカ高地湖水地方」 

 重要な点は、このイシャンゴ文明が石臼・粉砕用石器とともに多くの骨製の銛と魚骨を伴い、漁業が主要な生業であったとされ、さらにサハラ砂漠の南(ニジェール川流域であろう)、ナイル川中流域にも類似の文化があり、近縁関係にあるとされていることです。

 穀類を挽いた石臼を伴う穀類・魚介食文化となると縄文文明と同じであり、さらに東南アジアやアンデス文明とも類似しています

 

⑸ 縄文ノート77 「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産登録の次へ 

 世界中の石臼(石皿)石器時代から現代まで穀類をすり潰す道具とされているにも関わらず、なぜか日本だけは「クリ類」をすり潰してクッキーにするための道具とされ(クリ・クルミなどはそのまま食べるでしょう)、縄文土器鍋は「ただの深鉢」「ドングリあく抜きの深鉢」にされ、土器鍋のおこげに見られるC3植物(イモ、イネ、オオムギ、アズキなど)とC4植物(アワ、キビ、ヒエ、モロコシ)のイモ・豆・穀類食は無視されています。

 

⑹ 縄文ノート111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論

 人類進化関係の『別冊日経サイエンス』を図書館でまとめて借りたところ、1998年4月の122号の『DNAから見た生物進化』に、9万年前の骨製の銛がコンゴ民主共和国(ザイールは1971~97年の国名)のセムリキ川(エドワード湖から北に流れアルバート湖に注ぐ)で見つかったという記事がありました。

私はこのエドワード湖とアルバート湖のほとりの高地湖水地方に20000~8000年前頃のイシャンゴ文明があり、穀類を粉にする石臼・粉砕用石器とともに多くの骨製の銛と魚骨を伴い、糖質・魚介食であったということを『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(木村愛二著)から引用しましたが、その骨製の銛の起源が9万年前へと遡ることが明らかとなったのです。

 

2.西アフリカの主食「フフ」(イモもち)

 前述の若月島根大名誉教授から教えられた「イボ族(とヨルバ族)の主食のヤムもち」は、次のように西アフリカでは重要な主食であり、作るのには木臼と木杵を使って突いていることが確認できます。この「突きもち食」文化のルーツはアフリカからの人類の移動に遡る可能性があります。

 DNA分析によってヤムイモやタロイモのルーツの解明が求められます。

 

⑴ アフリカの食料難を「イモ」が救う、ヤムイモを食べる唯一の先進国・日本の専門家が指摘 - ganas – 途上国・国際協力に特化したNPOメディア 

https://www.ganas.or.jp/20180605yam/

 東京農業大学志和地弘信教授はヤムイモ(山芋、長芋などの総称)、キャッサバなどのイモ類に注目する。世界でも数少ないヤムイモ専門家の同教授は「アフリカには豊かなイモ食文化がある。イモ類は高温、乾燥など気候の変化に強い。干ばつのリスク対策にもってこいだ」と言う。・・・

 西アフリカや中部アフリカでは、イモ類から作る「フフ」が伝統的な主食だ。「フフ」はヤムイモやキャッサバ、調理用バナナを茹でて臼でつき、湯で練った餅のような食べ物。野菜や肉、魚のスープに浸して食べる。

          

 西アフリカのナイジェリアでは、ヤムイモの収穫を祝う儀式があるという。儀式の日がくるまではヤムイモを勝手にとって食べてはいけない。ヤムイモはまた、結婚式で新郎から新婦への贈り物としても欠かせないもの。昔はヤムイモ畑の広さがその家の富を表していたといわれる。

 

⑵ アフリカの主食は何? (africa-trivia.com) 

http://africa-trivia.com/bunka/entry5.html

 西アフリカ…フフやウガリなど、イモ類や穀物粉などから作られた餅状の食べ物。黒目豆やプランテンも主食として定着している。

         

⑶ 西アフリカの主食、「フフ」とは? - 岡本大助の太陽料理館 (goo.ne.jp) 

https://blog.goo.ne.jp/okamoto_dalian/e/bdc0767d6ffacc43b33bc9598b0507a2

 今回ご紹介するのは、西アフリカやアフリカ中部で主食として食べられている「フフ」です!白くて、一見するとお餅にも見える「フフ」。

 フフはキャッサバやタロイモ、ヤムイモなどの芋類を臼で粉砕し、熱湯で混ぜてつくります。練っていく過程で好みの硬さになったら完成です。

 地域によっては先に芋を茹でてから叩き潰す場合もあるそう。フフをつくる様子です。日本の餅つきのようですね。

      

 

3.東アジアのイモもち

 ネットで調べた限りでは、チベットブータンミャンマーラオス・タイでイモもち食は確認できず、メラネシアミクロネシアポリネシアと台湾、中国のベマ族(後述)、日本各地の「イモもち」があります。コメ食の前の古いイモ食文化は周辺で残ったことを示しています。

 なお、西アフリカの「フフ」と後述する中国・チベット高原のベマ族のイモもちは突きもちですが、日本の鹿児島・宮崎・和歌山・高知のいももちは米もちにサツマイモ混ぜた「突きもち」で、他の地域のイモもちは「練りもち」です。

 熱帯雨林がルーツのサトイモは、沖縄・南九州など暖かい地域から寒さに強い品種が太平洋沿いに広がったと考えられます。

 なお、3万5千年前にはメラネシアの島々の遺跡からニューギニア原産の黒曜石などが多数発見されていることは、日本列島の黒曜石利用のルーツもまたニューギニアやジャワ島などの火山地域由来の可能性を示しています。

⑴ サトイモ - Wikipedia 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%A2

 東南アジアが原産のタロイモ類の仲間で、サトイモ科の植物。

原産地はインドや中国、またはマレー半島[9]などの熱帯アジアと言われているが、インド東部からインドシナ半島にかけてとの説が有力視されている。少なくとも、紀元前3000年ごろにはインドで栽培されていたとみられている。

 日本への伝播ははっきりしていないが、イネの渡来よりも早い縄文時代後期と考えられている。なお、鳥栖自生芋(佐賀県鳥栖市)のほかに、藪芋、ドンガラ、弘法芋(長野県青木村)と呼ばれる野生化したサトイモが、本州各地にあることが報告されている。・・・伝播経路は不明であるが、黒潮の流れに沿って北上したと考える研究者がいる。

 日本の食文化とサトイモの関わりは関係が深く、古い時代から月見の宴などの儀礼食に欠かさない食材で使われており、サトイモを餅の代用にした「餅なし正月」の習俗も日本各地で見られた。・・・

 熱帯のアジアを中心として重要な主食になっている多様なタロイモ類のうち、最も北方で栽培されている。栽培は比較的容易である。水田などの湿潤な土壌で日当たり良好で温暖なところが栽培に適する。原産地のような熱帯の気候では多年生だが、冬が低温期になる日本では一年草になる。日本では、一般的に畑で育てるが、奄美諸島以南では水田のように水を張った湛水で育てている。・・・

 昭和30年代ごろまでは、高知県熊本県(五家荘)などでは山間地での焼き畑輪作農業により栽培されていた。

⑵ さといも(サトイモ・里芋)の産地|全国、都道府県別生産量(収穫量)の推移/グラフ/地図/一覧表|統計データ・ランキング|家勉キッズ (ieben.net) 

https://ieben.net/data/production-vegetables/japan-tdfk/s-satoimo.html

⑶ 里芋日本の食文化と関わりの深い伝統野菜 - びお編集部 | びおの珠玉記事 | 住まいマガジン びお (bionet.jp) 

https://bionet.jp/2019/11/06/satoimo/

 里芋の原産地は、インド東部からインドシナ半島にかけてという説が有力です。少なくとも紀元前3000年ごろにはインドで栽培されていたようです。

 そこから、原始マライ民族の移動とともに、フィリピン・ミクロネシアポリネシア・オーストラリア・ニュージーランドに至る太平洋一帯に広がりました。現在でも「タロ(タロイモ)」として利用されており、多くの民族・地域で重要な主食となっています。・・・

 日本への渡来については、紀元前に中国から渡来したという説と、南方から太平洋諸民族の渡来により伝えられたという説があります。渡来時期ははっきりしませんが、稲の渡来(縄文晩期)より古いとされています。

 日本で稲作が始まったのは弥生時代ですが、それ以前、縄文時代に焼き畑農業が行われており、その中心作物は里芋で、里芋は稲作以前の主食だったと考えられています。

 里芋は、「ウモ」とか「イエツイモ」と呼ばれていました。・・・

 里芋の記録として最も古いものは『万葉集』にあります。「蓮葉(はちすば)は かくこそあれも おきまろが いえなるものは 宇毛之葉にあらし 長意吉麻呂(ながのおきまろ)」・・・

 奈良・京都を中心とした関西地方では、お雑煮にお餅とともに里芋を入れます。鹿児島など地方によってはお餅は入れず、大きな八つ頭だけ、というところもあるようです。

⑷ メラネシア - Wikipedia 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2

     

 メラネシアでは根菜農耕でヤム芋タロイモなどの芋類を栽培し、主食としている。

 メラネシアの先住民はおそらく今日のパプア系の祖先に当たる人たちであったと考えられる。彼らは数万年前にニューギニア島を占め、放射性炭素年代測定によれば少なくとも3万5千年前にはメラネシアの島々、おそらく一番東はソロモン諸島やその東の小さな島々にまで到達した。そのことは、同時代の遺跡からニューギニア原産の有袋類(クスクス)や黒曜石などが多数発見されていることから推定できる。

 約4000年前、ニューギニア北部やニューギニア東方の島々において、オーストロネシア語族の人々が先住のパプア系の人々と接触したと思われる。

⑸ ローカルフード;主食編 | ミクロネシア連邦 ポンペイ州観光情報 (ameblo.jp) 

 https://ameblo.jp/imattigo/entry-10497666876.html

 昔から食べられている主食はタロイモ、ヤムイモなどイモ系ですが、今は米もよく食べます。

 これらヤム、タロ、バナナなどの主食たちは調理方法も様々。バナナと一緒に煮込まれたり、ココナッツミルクでクリーミーに仕上げられたり、発酵させて酸味を楽しんだり。

⑹ タロイモ - Wikipedia 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%A2

 ポリネシアでは、タロイモから作るポイというペースト状の食品が主食とされていた。また、ハワイではタロは「カロ」(kalo) と呼ばれて、伝統料理に豚肉をカロの若葉で包んで蒸し焼きにするラウラウという料理があり、もともとハワイ先住民の神話では祖先のハーロアの死産した兄弟からタロイ モができたとされて、大切にされてきた。

 古代マレー地方が原産と考えられている。

       

⑺  ポイの伝統|ハワイ州観光局公式ラーニングサイト (aloha-program.com) 

 https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/390?course=1

 ハワイアンの主食といえばタロイモ(ハワイ語でカロ)。

 ポリネシア全体でタロイモは珍重されてきましたが、ハワイにおけるタロイモの重要性は、他の島々のそれを遥かに凌ぐもの。一時は300種以上のタロイモがハワイで作られ、今も80種が栽培されています。

 中でもタロイモを蒸してペースト状にしたポイが、古来ハワイアンの大好物でした。

         

⑻ 【台湾】九份・基山街で食べ歩きの定番!地元民に愛される「阿蘭草仔粿」の草餅とは | TABIZINE~人生に旅心を~ 

 https://tabizine.jp/2019/05/15/258421/

 草仔粿(チャウアコエ)とは、日本の草餅やよもぎ餅のようなスイーツ。春の七草の一つであるゴギョウを練りこんだもちもちの草餅のことで、台湾では伝統的なおやつとしてお正月や帰省のお土産にするそうです。・・・

 あっさりとした小豆が、甘すぎず食べやすいのが特徴。生地には、もち米とタロイモを使用しているので日本の草餅よりもお餅が柔らかくモチっと感が強い印象です。

      

⑼ 芋圓 - Wikipedia 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B%E5%9C%93

 芋圓(うえん)は蒸して柔らかくし潰した里芋に水及びサツマイモの粉もしくはジャガイモの粉を混ぜて成形し、再度茹でて作る。芋の食感はサツマイモの粉を使うと弾力のあるもの、ジャガイモの粉を使 用すると柔らかいものが出来上がる。潰した里芋の色により、芋圓の色は紫もしくは灰色のものがある。

        

⑽ 芋餅 いももち レシピ >> 中国茗茶 翠泉 (plala.or.jp) 

 http://www13.plala.or.jp/chinatea-suisen/cake/index10.html

 中国風「芋餅 いももち」。中国では、このようなお菓子をよく食べるようです。ほっくり甘いサツマイモを使い、素朴な味に仕上がりました。材料:さつまいも・卵黄・・小麦粉・砂糖  

        

⑾ いももち - Wikipedia 等

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%82%82%E3%82%82%E3%81%A1

① 北海道の「いももち(いも餅)」別名「いもだんご(いも団子)」:明確な区切りは無いが、焼いたもの(味付けしたもの)を「もち」。汁に入ったもの(味付けしていないもの)を「だんご」とも呼ばれる。皮をむいて火を通した(茹で・蒸す)ジャガイモを潰し、これにジャガイモ澱粉、又は片栗粉を加えてよく練り上げ、小さな丸餅や団子状に整形し、餅と同様に焦げ目が付くまで焼きあげる。

② 和歌山県高知県の「いももち」:通常の餅米で作る餅に蒸したサツマイモを混ぜてつきあげる。中に餡が入り、きな粉をまぶしたものがポピュラーである。通常の餅より柔らかく、時間が経つと自らの重さで変形してゆくほどである。食感もなめらかである

③ 岐阜県の「いももち」:通常米を炊く要領で、皮をむいた里芋とうるち米を一緒に炊き上げる。炊き上がったものを棒などでつぶして混ぜ合わせ、それを丸餅形に整形する。すりおろした生姜と醤油を混ぜて作ったタレで餅を味付けして焼き上げる。

④ 鹿児島県や宮崎県の「ねりくり」: 茹でたサツマイモと餅をつき混ぜて作る郷土料理で、和歌山県高知県の「いももち」に似ている。

⑤ 佐渡の「いももち」:米がとれず、さつまいもで代用していた佐渡の伝統食で、現在でもおやつとして定番のスイーツで、市内のスーパーでも売られています。ふかしたさつまいもに砂糖と小麦粉を少し加えて短冊状に形成し、乾燥させたものです。

 

4.ベマ族のイモもち

 2020年2月8日に初回放送し、2021年12月28日の再放送を見たNHKBSの「謎の民『哀歌 山の民、山の神』」では中国甘粛省四川省チベット高原に住むベマ族のジャガイモを突いて作るツーバー(餅)を紹介していました。

 木臼を木杵で撞いてジャガイモもちを作るので、臼は日本とは異なる横臼、杵は日本と同じ横杵で、「じゃがいものツーバー」は俳優の満島真之介さんによると中国に何回もきているけど「ベスト3に入る」というおいしさという評価でした。

 文字を持ないベマ族の歌、「美しい山河我らはお借りする 人生は来世への旅路

草木の命と同じで儚い 美しい山河は我らのものにあらず 我らはどこから来てどこへ向かうのか 悲しい世を生きてきた 万物は我らのものにあらず 我らはこの世の客人いつの日かここを去る はじまりの場所にかえるだけ」という歌は、山からこの世に降り、また山から天に帰るという「神山天神信仰」を示すとともに、いずこからきてチベット高原の東端に住むようになり、またその先祖の地に帰りたいと願うベマ族の歴史を示している可能性もあります。

 ベマ族は氐族(ていぞく)の末裔とされ、「麻の畑を有し馬・羊・漆・蜂蜜を特産」とし、五胡十六国時代の4世紀には長安に進出して「前秦」を建国し、漢族や匈奴、羯、鮮卑と争い、中国の北半分を統一しますが、淝水(ひすい)の戦いで東晋に大敗し、分裂して滅びます。

 鳥の羽を挿した帽子をかぶるのは、わが国の烏帽子(えぼし)=カラス帽子の正装と同じ宗教思想を示しており、土壁・木板で石を載せた屋根、樹皮を使った草鞋づくり、囲炉裏の火を囲む風習、山の神信仰と神と交信する祈祷師、山の神を宿るマージョー(木のお面)を被り邪悪な鬼を追い払う踊りなど、何か懐かしさを感じます。

 茹でただけで美味しいジャガイモをわざわざ撞いてもちにしてお汁に入れて食べるという食文化は、ジャガイモを使うようになる前はタロイモやヤムイモを使ったイモもち食やもち米を蒸して突いたコメもちを食べていた伝統が伝わった可能性が高く、「突きもち」であることからみて漢民族系というより、東南アジア系の可能性が高いと考えます。

 なお、もち食好きの私は、イタリア料理のニョッキ(ジャガイモと小麦粉でつくるダンゴ風パスタ)が大好きですが、「元々は現在のようにジャガイモやカボチャで作るものではなく、小麦粉を練って作っていた。ジャガイモのニョッキが作られるようになったのは、16世紀の後半に南米のアンデス山脈原産のジャガイモがヨーロッパに持ち込まれ、17世紀になって、イタリアでも栽培されるようになってからである」(ウィキペディア)と同じであり、ジャガイモがこの地に伝わってから、材料が他のイモから置き換わった可能性が高いと考えます。

 日本人のルーツを探るためには、東南アジアから中国にかけての少数民族タロイモ・ヤムイモ・もち米・赤米・ソバなどのDNAの調査が求められます。また、各地の民族のイモもちの伝承やイモ栽培などについては、若い世代の人たちで統一調査マニュアルをつくり、各地にいる日本人に協力を求めて共同調査・研究ネットワークを作って欲しいものです。

 

5.東アジアの米もち食

 「図2 モチイネの栽培圏」(再掲)と「図6 もち米の分布」(後掲)は範囲が異なりますが、「突きもち」の文化はミャンマ―・ベトナムにはあることが確実で、ネットで調べた限りでは米を主食とする南インドバングラデシュブータンにはもち食がなく、ラオス・タイ・カンボジア・台湾・中国・韓国は「練りもち」のようです。

          

 ウィキペディアでは「餅は中国、朝鮮、東南アジアなどに多くの種類がある。古くは主に小麦を粉にして平たく固めてから加熱した粉食のことを指していたが、米、大麦、粟、トウモロコシなど他の食材を用いた粉食のことをも含めるようになった。・・・ここでいう練り餅は、主にもち米を粉にしてから湯を加えて練る方法で作るものを指し、餅=搗き餅とする日本では一般に団子と呼ばれる」としています。

 なお、「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説・稲作伝搬説」が根強く、伝統的に「和魂漢才」の拝外主義傾向の根強い知識人・官僚のわが国では、中華思想の中国人研究者の「稲作長江起源説」「こめ食文化中国起源説」などの支持が見られ、紹介したウィキペディアやNHKやなどにもその影響が見られますが私は誤りと考えています、要注意です。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」「26 縄文農耕についての補足」「28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」「55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」参照

 後述の中国の小麦粉でつくる「餅」と米粉でつくる年糕(ねんこう)の違いをみると、米粉の「練りもち」のルーツは東南アジアの可能性が強く、わが国の「突きもち」とは異なる食文化です。

⑴ アジアのもち分布 | NHK for School

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005402642_00000

 もち米は稲の突然変異で生まれました。中国、東南アジア、韓国、日本、東アジアの広い地域で、祝い事や祭りなどに餅を食べる文化が受け継がれています。

 中国では、もち米のことを江米(チャンミイ)と言います。チャンは川、ミイは米です。現在、中国のもち米の大半は長江流域で栽培されています。・・・長江の流域で稲作が始まったという説もあります。

       

⑵ ミャンマーの餅、赤紫色のコーボウッ - Enjoy Yangon ヤンゴン, ミャンマーで暮らす旅する (enjoy-yangon.com) 

https://enjoy-yangon.com/ja/enyanblog/362-myanmar-mochi-khawpoke

 家に帰って葉っぱを広げると、赤紫色をした物体が現れる。井村屋のあずきバーにそっくりな色だ。赤紫色をしているのはもち米の一種であるンガチェイを使っているから。こうした色の米は、日本では古代米とか言われている珍しい米だが、ミャンマーでは普通に食べている。もちろん、白いもち米もあるが、なぜかコーボウッでは赤紫色のものが多い。

       

 生乾きのコーボウッは日本のモチと同じで、そのままだと固くて食べられない。1.5cmくらいの厚さに切って油で揚げるのがミャンマースタイルだ。口の中に入れると、もち米の粒の感触がほんの少し残っている。そして、独特の風味をほのかに感じた。これはかなりいける。日本のモチはもち米以外には何も入ってないが、ミャンマーのモチにはもち米以外に何かが入っている。何人かに聞くと、塩と油とゴマだという。

 こちらはピンレブーの市場で売っているコーボウッ。形が日本の丸餅にそっくり。それに、油で揚げるのではなく炭火で焼いていた。

      

 ところで、シャンではコーボウッのことはカオプックと呼ばれている。カオが米でプックが叩く(つく?)という意味だという。このカオプックが訛ってコーボウッとミャンマー語ビルマ語)化したわけだ。他の呼び方(こちらが正式な名称らしい)で、カオタムンガというのがある。カオが米、タムが叩く(つく?)、ンガがゴマという意味という。やはりゴマが入るのがコーボウッの特徴のようだ。

 また、カチンにも独自のモチがある。カチン語(ジンポー語)ではパパと呼ばれている。色も白と紫色の2種類ある。ゴマをふりかけたり、中にヤシ砂糖を入れたり、スィードーフ(腐乳の一種)をつけて食べたりするという。

⑶ 意外にハマるタイのローカルおやつ「カノムタイ」5選と簡単レシピ | Guanxi Times [海外就職] (wakuwork.jp) 

https://wakuwork.jp/archives/6111

 もち米(カオニャオ)、塩、黒豆、バナナ、そして定番のココナッツミルクを蒸したものがバナナの葉で包まれているのが一般的。ほんのりとした甘さで食べやすいのが特徴です。

 屋台でも良く売っているので、どこでもトライできる手軽さがポイントの一つ。

       

⑷ ベトナムのおもち料理、バインザイと白玉ぜんざいを食べてみた。 | 海外転職・アジア生活BLOG (iconicjob.jp) 

 https://iconicjob.jp/blog/vietnam/really_want_mochi_thatsall

① ベトナム語で「BANH DAY(バインザイ)」。これがベトナムのお餅。ベトナム人の奥様を持つ日本人スタッフ曰く、「味は日本の餅とまったく一緒」だそうですが日本と違う点は、ハムを挟んで食べるのだそうです。

         

② Che Troi Nuocとは緑豆餡が入っている白玉に、ココナッツミルクをかけて食べる、温かいスイーツなのだとか。ココナッツミルクをかけるデザートは、東南アジアならではで美味しそうです。・・・要するにベトナム風ぜんざいなのですが、食べてみると…日本のお餅に引けを取らないのどごしと滑らかさ!もちもちした食感はお餅と白玉の中間で、程よい弾力がします。

      

⑸ 【保存版】ラオスに行ったら絶対食べておきたい定番おすすめローカル料理はコレ!|Trip-Nomad 

 https://trip-nomad.com/food/laos-localfood/

 「カオ・チー」は、ラオス版五平餅。

 お米を平べったくして棒にさして、炭火でこんがり焼きあげます。見た目は、笹かまみたいです。

       

⑹ នំផ្លែអាយ カンボジアのデザート ノムプレアイ | カンボジアツアーガイドローズのブログ (ameblo.jp) 

 https://ameblo.jp/sakurose1225/entry-11117551228.html

 このデザートはカンボジア語でノムプライアイと言います。周りは餅で中に砂糖やしの砂糖が入っています。日本人の口にピッタリです。

       

⑺ 日本の「餅」と中国の「餅」 - FoodWatchJapan 

 https://www.foodwatch.jp/chnandjpn0015

 日本の「餅」と中国の「餅」は、字は同じでも、意味は全く違います。中国の「餅」は「ピン」「ビン」(bǐng)と呼ばれます。ピンは小麦粉をこねて平らな形にし、焼いたり、蒸したり、油で揚げたりしたものの総称です。無発酵と発酵、その中間的なものなどさまざまな種類があり、地域によっても多様な餅があります。それらは調理法によって、焼餅、油餅、煎 餅、菜餅などに分けられます。

        

⑻ 年糕 - Wikipedia 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E7%B3%95

 年糕(ねんこう、中国語北京語:ニェンガオ)とは、中国の旧正月春節)に食べられる餅である。中国語で、一年成長したという意味の「年高」と読みが同じであるため、縁起物とされる。除夜に神霊や先祖に祀られ、その後春節で食される。この習慣は、紀元前の周の時代から始まったとされる。

 餅は通常もち米粉から作られるが、地域によって様々なバリエーションがある。

        

⑼ 韓国の餅「トッ」特集 | ソウルナビ (seoulnavi.com) 

 https://www.seoulnavi.com/special/5032626

 ある説では、紀元前100年くらいの楽浪郡の遺跡から蒸し器のようなものが発見されたことから、その当時ヒエやキビ、小麦などを使って蒸した餅が作られていたのではないかという推測がされているそうだし、また紀元後1~2世紀くらいの蒸し器が半島の何か所かで発掘されたり、高句麗時代の古墳の壁画に蒸し器で何かを蒸しているような絵が見られたり、新羅時代の青銅製の蒸し器が発掘されたりと、いくつかその手がかりになるようなものが発見されているよう。・・・

        

 韓国で「トッ」(餅)と呼ばれるものは種類がとっても豊富。原料や作り方によってホントに様々な種類がありますが、大きく分けると4種類に分類されるとか。・・・

・蒸した餅:「餅の種類の中で、最も古くから作られていたのではないかといわれる餅。穀物を挽いて粉にし、せいろなどを使って蒸し器で蒸して作られます」

・蒸してついた餅:「もち米やうるち米をそのまま、または挽いて粉にしたものに水を足したりして蒸したあと、杵などでついたりこねたりしてから食べやすい形に整えて作られる餅」

・粉をこねて茹でたり蒸したりした餅:「ダンジャ(団子)、またはキョンダン(瓊團、瓊団)」

・焼いた餅:「もち米など粘りのある穀物の粉に水分を加えながらこね、形を整えてから油で焼き付けて作られる餅」

⑽ 餅 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85

 中国の広東省福建省江西省などや台湾に住む客家湖南省西部の漢族や貴州省ラオスなどのミャオ族(モン族)などには杵と臼で作るつき餅がまだ残っている。餅つきは中国語で「打糍粑」(ダーツーバー、dǎ cíbā)と称し、親戚や近所の人が集まって行う行事となっている。

 この他に、蒸したもち米を使うものとして、中国にはもち米を底の浅い器に敷き込み押し固め、半分潰したようにするものもあり、「糯米糕」(ヌオミーガオ)、「糯米糍」(ヌオミーツー)などと呼んでいる。加工法としてはぼた餅(お萩、半殺し)に近い。いずれも「餅」という字を用いないのは、「餅」は主に小麦粉を使って円盤状に加工した食品を指すためである。

⑾ 鏡餅、お雑煮……お正月に欠かせない「もち」、一体いつから食べられている?(tenki.jpサプリ 2016年12月30日) - 日本気象協会 tenki.jp 

 https://tenki.jp/suppl/okuyuki/2016/12/30/18741.html

 そんなおもちの故郷は、なんと東南アジア。はるか昔、海を渡って稲作が伝わるとともに、おもちを作って食べる文化も伝わったと言われています。

 今でも東南アジアには、「おもち」や「おこわ」に似た料理やお菓子がたくさんあるようですよ。・・・

 韓国のおもち「トック」も、スーパーマーケットなどで手に入りやすくなりましたね。・・・

 こうして見ると、日本の多くの地方では「つき餅」が主流。ですが、粉から作る「ねり餅」も、多くの国で食べられているのですね。・・・

 国や地方によって「つき餅派」と「ねり餅派」があるのは、どうしてなのでしょうか? おもちが伝播していった過程で、そうなったのか?食べ方の好みや、お米の品種(硬さや粘り気)などが影響したのか? このあたりの事情も、調べてみると楽しそうです。

 

6.日本の「イモもち、コメもち、イモ・コメもち」と「突きもち、練りもち」

 日本のもち文化は、「コメもち、イモ・コメもち」の「突きもち」が中心で、「練りもち」は一般的には「だんご」になります。

 ウィキペディアは、コメ食は「ねり粉食(水練りもち)→粒食→突きもち食・練りもち食」の順番とし、コメを蒸す道具は古墳時代からとし、「もち」の語源は「モチヒ・モチイヒ(糯飯、黐飯、毛知比)」から「長持ちするイイ」で、神への供物=御饌(みけ)の「粢(しとぎ:生米を水に浸し柔らかくし、つきつぶして作る)」からきているとしています。

 しかしながら、里芋が「宇毛:ウモ」(万葉集)と書かれ、「モチヒ」が「毛知比」(倭名類聚抄)と書かれ、「モ」に「毛」字が当てられているていることをらみると、「毛が生えているサトイモ」からの漢字使用と思われ、「チ」は「乳」の可能性があり、「ウモ(里芋)チ(沖縄弁で乳房)」は「里芋を練った乳房のようなむっちりとしたウモチ」の可能性もあります。

 私が過ごした岡山・姫路・京都など関西では雑煮に必ずサトイモを入れることや、餅を使わない雑煮を作る地方もあり、西日本の丸餅が角餅より先行し、南方系の「里芋の輪切り」からきているという説からみて、日本のもち食文化は、サトイモ食からの「もっちり」「もちもち」大好きから来ている可能性が高いと考えます。

 なお、日本のサトイモ(後にサツマイモ、ジャガイモに転換)ともち米を混ぜて突く「突きもち」文化は、「イモもち」→「コメもち」(コメ食を祝う特別な行事食)→「イモ・コメもち」(イモによる増量、代用)へと変化したと考えます。

⑴ 餅 - Wikipedia

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85

① 「餅」という名で呼ばれるものには、粒状のもち米を蒸して杵で搗いた搗き餅(つきもち)と、穀物うるち米、アワ、キビなど)の粉に湯を加えて練り、蒸しあげた練り餅(ねりもち)の二種類に大別される。沖縄県を除く日本で「餅」といえば一般にもち米からなる搗き餅を指し、練り餅は「団子」と区別されることが多い。

② イネ科の植物の果実である穎果は小粒で、1つ1つが籾に包まれ、さらに加熱加工しにくい果皮が包み、これらの除去を大量に行う必要がある。このため、食用とするには技術と手間がかかる。これは穀物を杵などで叩く(「搗(つ)く」という)ことで除くことができる。人類史上、このような加工の初期段階では、コメにおいてもおそらく他のイネ科の穀類と同様に粉状にし、水とともに練ってそのまま食したと考えられる。やがてコメの煮炊きが始まり、さらにコメは小麦や大麦などよりも吸水性がよいことから粒食が発達することになるが、原始の形のコメの食法は神饌として残り、日本ではこれを「粢(しとぎ)」と言った。日本語の「モチ」の語源について、古語の「モチヒ」「モチイヒ」(糯飯、黐飯)から、または望月の形状から、など諸説ある。

③ 考古学の分野では、間壁葭子が古墳時代後半(6世紀頃)の土器の状況からこの頃に蒸し器の製作が社会的に普及したと判断し、日常的に蒸す調理による食品の種類が増し、米を蒸す事も多くなり、特に餅を作る事も多くなったと考えている。・・・佐原眞の『食の考古学』(1996年)によれば、6世紀時点の西日本では土器の状況から蒸す調理より煮炊き中心で、蒸す食物(餅も含む)はハレの時に用いられたとし、むしろ東日本の方が蒸す調理用土器が普及していたとしている。

④ ・・・『豊後国風土記』(8世紀前半)には次のような内容の話が語られている。富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的となった餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり飛び去り、その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落したとされる。この記述は、白鳥信仰と稲作信仰の密接な繋がりを示す証拠として語られ続けている。また、この記述自体が古来から日本で白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている。

⑤ 10世紀中頃成立の『和名類聚抄』巻十六における表記としては、「毛知比=モチイ」とあり、モチイイ(長持ちする飯=イイ)から簡略されているが、まだモチの読みではない。

⑥ 日本においては、古来より神への供物(御饌の『粢(しとぎ)』:はんごろしやきりたんぽ等と同様米粒をつぶした供物から発展した)として祭りや慶事の際に用いられ、江戸時代には婚礼、小正月節句、不祝儀、建築儀礼(棟上げ)に供え、贈答用として利用された。

⑵ 世界の人々の食生活 1 主食の話から始はじめよう

 https://www.town.kadena.okinawa.jp/kadena/soukan/book/90.html

 はるか大昔、琉球の島々をふくめた日本列島には、稲はありませんでしたから当然、お米は食べていませんでした。稲が伝わる前の琉球の人びとは、何を中心に食べていたのでしょうか。研究者の間では、タロイモやヤマイモを主に食べていたという意見があります。もしその意見が正しいとすれば、琉球の島々は、東南アジアの文化圏の一角をしめていたことになります。

⑶ 地域で違う餅の形:農林水産省 (maff.go.jp) 

 https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/2001/spe2_02.html

 日本の東側と西側で形が異なり、その境目は岐阜県関ケ原辺りになります。関ケ原より東の都道県は角餅、西の府県は丸餅が一般的。ちょうど境界線上にある、岐阜、石川、福井、三重、和歌山の5県では、角・丸2種類とも使われているところもあるようです。

 日本の餅は、もともと丸い形をしていました。角餅の由来は諸説ありますが、江戸時代に、平たく伸ばした餅を切り分ける方法が生み出され、これが角餅となりました。角餅は運搬に便利なことから、江戸から徐々に広まっていったとされています。

     

7.臼と杵

 最近、アフリカ東部の高地湖水地方のイシャンゴ文明では9万年前の骨製銛が見つかり、これまで20000~8000年前頃とされていた穀類を粉にする石臼・粉砕用石器についてもさらに古いものが見つかる可能性がありますが、日本でも旧石器時代の石臼(石皿)と磨石(すりいし)が発見されており、「定住化の普及した縄文時代全期を通じて出土し、特に早期以降の集落遺跡で多く出土する」とし、「ドングリなど堅果類の製粉など植物加工をはじめ、顔料や土器の材質となる石の粉砕などの用途が考えられている」(ウィキペディア)とされています。

 石臼(石皿)をドングリの殻を外し、ドングリ粉を作るための道具とするのは日本の考古学者・歴史家のガラパゴス的解釈ですが、私は古くは木臼にイモ類や穀類を載せてイモもちを作ったり、陸稲やソバなどの籾摺りや精米、精白、製粉などに使用されていた可能性が高く、元々は木臼に木杵や磨石(すりいし)、叩き石で使用していた可能性が高いと考えていますが、木臼と木杵は弥生時代中期~後期(紀元前3~2世紀)のものしか発見されておらず、旧石器・縄文時代のものは見つかっていません。

 下記の「表1 農業・食物の倭音倭語・タミル語・呉音漢音漢語の比較表」に示すように、農業・食物関係の名詞は、「臼(うす)」がドラビダ語「usu(ウス)」に対し、呉音漢語「グ」、漢音漢語「キュウ(キウ)」であるように、ドラヴィダ語との類似性が高く、ヒトやコメのDNA分析と合わせてみても、農耕開始は弥生人(長江流域中国人や朝鮮人)によるものではないことが明らかです。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「26  縄文農耕についての補足」「28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」「55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」「29 『吹きこぼれ』と『おこげ』からの縄文農耕論」「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「45 縄文人 ドラえもん宣言」「46 太田・覚張氏らの縄文人『ルーツは南・ルートは北』説は!?」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」等参照

 なお、私はニジェールのひょうたんボウルを見て縄文土器ヒョウタン容器を模して作られたのではないかと考えていますが、下掲の唐古・鍵遺跡の臼のデザインは実用的というより縄文土器的デザインであるとの印象を受けており、縄文時代に木臼があった可能性が高いと考えており、発掘を期待しています。

         

⑴ 臼 - Wikipedia 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC

① 臼にはひき臼(碾き臼、挽き臼)とつき臼(搗き臼、舂き臼)の2種類がある。英語ではひき臼は「Millstone」、つき臼は「Mortar」と呼ばれる。

 日本語の「臼」の意味は非常に広く、ひき臼(すり臼)もつき臼も「臼」の字で表現される。中国語では「臼」はつき臼であり、ひき臼は「磨」の字により表現する。

② ひき臼は大きく石板の上で石塊を往復させるサドルカーン(英: saddle quern)と2枚の円板を重ねて片方を回転させるロータリーカーン(英: rotary quern)に大別される。

 サドルカーンは「鞍形石皿」と訳されるもので、学術上は磨臼とも呼ばれる石皿の範疇である。大きな板状の「石皿」と、石皿の幅に合わせた長さの棒状の「磨石」が一対になっており、石皿の上に少量の穀物を載せ、磨石の棒を押し引きする運動によって磨り潰す。

③ 碓(たい)、唐臼(からうす)、踏み臼(ふみうす)は、中国で発達したつき臼の一種で、てこの原理などを利用して足で踏んで杵を動かすことによって精米や製粉、餅つきを行う足踏み式の臼。有史以前に日本にも伝来し、近年まで使われていた。東南アジア等にも広く普及し使われている。

④ もともと臼にはすり潰す機能があったが、日本では石製の臼から木製の大型の臼が一般的になり、上下につく機能が強化されて処理能力は増大した反面、すり潰す機能が失われたため手頃な発明としてすり鉢が出現したといわれている。

⑵ 杵 - Wikipedia 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B5

① 形状は大きく分けて竪杵(たてぎね)と横杵の2種がある。・・・大阪府水間寺奈良県三重県の伊賀地方などでは現在も千本杵を用いた餅つきを行っている。

② 杵本体と柄が垂直に交わる槌状の横杵は、打杵(うちぎね)ともいい、江戸時代になってから使用されるようになったと思われてきたが、広島県の草戸千軒町遺跡で室町前半のものが発見されており、日本で使用開始は14世紀から16世紀に遡るとされる。

③ 穀物の穂を臼に入れ、それを杵で打つことで臼と穀物とや穀物同士が摩擦され脱穀される。もみすりにおいても同様に、籾を臼に入れ、それを杵で打つことで臼、もみ同士が摩擦され籾摺り(米においては精米)される。・・・また、打つことに適することから餅をつくことにも用いられる。日本では弥生時代から用いられ、現代では脱穀もみすり用途よりも餅つきの道具としてなじみ深い。

④ 中国では、広西チワン族自治区チワン族福建省のシェ族が「粑槌」と呼ばれる千本杵と「粑槽」と呼ばれる長方形の飼い葉桶に似た臼を用いて餅つきを行う伝統を残している。湖北省湖南省貴州省の漢族や、客家やミャオ族は横杵を用いて餅つきを行う伝統を残している。

⑶ 倭国について(3) 米、稲作、畑作、農具: Selfpit-1 (way-nifty.com) 

  http://selfpit.way-nifty.com/selfpit/2009/03/post-77fd.html

   

⑷ 縄文ノート28 ドラヴィダ海人・山人族による日本列島稲作起源

 下表に明らかなように、畑作・稲作・食事関係のタミル語(ドラヴィダ語の一部:アーリア人に支配されたインドの原住民)と日本語は符合しており、ブータンなど東インドミャンマー高地にはインダス文明を作り上げたドラヴィダ族が支配を嫌い、自立を求めて移住した可能性が高いのです。

8 「もっちり・もちもち・ねばねば」好きの食文化

 鴻上尚史氏司会で、世界各地出身の外国人たちがスタジオで意見を述べるNHKの「COOL JAPAN〜発掘!かっこいいニッポン〜」ではよく日本食の「もっちり・もちもち・ねばねば」が話題になっていましたが、外国人にはよほど珍しいようです。

 下のホームページ「もっちりへの考察」では、日本人の由来の「もっちり」「もちもち」「ねばねば」食の由来をもち米でつくる餅に置き、そのコメのルーツを長江流域とし、「弥生人」が日本列島に持ってきたかのように書いていますが、佐藤洋一郎総合地球環境学研究所名誉教授によるRM1遺伝子の国別分布(図8)では、日本はa・b・c型で、中国・朝鮮にみられるd・e・f・g型がないことからみて、d・e・f・g型が中国で生まれる前にインド東部・ミャンマー高地からa・b・c型が早い段階に持ち込まれた可能性が高いと考えます。―「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」参照

             

 東南アジアから中国・雲南にかけての山岳地域で「もっちり」「もちもち」「ねばねば」大好きな食文化が生まれたのであり、そのルーツは下掲の図9の「納豆」の分布とも重なります。

 日本人の「もっちり・もちもち・ねばねば食文化」は、「突きもち」から生まれたのではなく、東南アジア・南太平洋地域のサトイモ食と東南アジア・雲南山岳地域のコメもち・納豆食を受け継いだものであり、私はそのルーツは西アフリカ熱帯雨林のイモもちに遡ると考えます。

⑴ もっちりへの考察 (bimikyushin.com) 

   https://www.bimikyushin.com/chapter_8/ref_08/mochi.html

① 世界の国々と比較すると「もっちり」は日本人の好む特徴的な食感であることが分かってくる。・・・他国の人や、他国の食文化圏で育った人であれば、日本の「もっちり」が特別な食感であることに気付くに違いない。なぜなら日本人の感じる「もっちり」を的確に言い表す的確な言葉が外国語にはなかなか見つからないからである。

② 「もっちり」,「もちもち」は、語感から分かるように、もともとは餅に対する食感を表現するための言葉であったと考えられる。こうした餅の食感は、餅米を搗いて粘りのある柔らかな状態にすることによって生まれる。

     

③ さて日本人の好む「もっちり」食感は、主食である米に大きく依存したものであることについては理解頂けたかと思うが、他にも米を主食とする国々はアジア圏に多く存在する。米食文化圏のなかでも特に日本人が「もっちり」を好むようになったはなぜなのか。それは日本で栽培されている米の種類や特徴に理由を求める事が可能であろう。

 先にジャポニカ米とインディカ米の違いについて述べたが、世界の米生産量における占める割合についても検討しておく必要がある。その割合を見るとジャポニカ米は世界の米生産の15%ほどしかなく、世界的な主流品種はインディカ米なのである。つまりジャポニカ米を好む嗜好の人々は世界的に見ると少数派なのだ。こうした日本人の米への嗜好の偏りから考えるならば、日本人独特の「もっちり」という食感も、当然のように世界的にみても少数派であり、特有の感覚であると考えられないだろうか。

④ 日本人の好む米の遺伝子を解析すると、それは長江流域にまで遡るものであることが科学的に明らかになった。・・・長江流域の気候は米作りに適した気候だったのだろう。さらには水耕栽培を行う為には豊富な水資源が必要になる。こうした好条件を兼ね備えていたのが長江流域であり、このエリアから太古に、我々、日本人は米と共に日本に移動してきた民族ではないかと言う説が近年では主流になりつつある。

 

⑵ 選科A活動報告「納豆と旅をする〜新たな時代に向き合う世界の果て〜」 – CoSTEP – 北海道大学 大学院教育推進機構 科学技術コミュニケーション教育研究部門 (hokudai.ac.jp) 

 https://costep.open-ed.hokudai.ac.jp/news/11593

 アジアには多種多様の納豆があり、韓国のチョングッチャン、中国湖南省の豆鼓、ミャンマー・ナガ産地のチュシュエ、ミャンマー・タウンジー碁石納豆、タイ・チェンダオの蒸し納豆、タイ・チェンマイのせんべい納豆、インドのバーリュ、ネパールのキネマなど、その数は日本人が想像しているよりも多いことがわかりました。

 そして、先ほど作成したマップに、アジアで作られている納豆の分布を重ねてみると、見事に一致! やはり納豆はアジアの辺境食である、ということが示唆されました。

         

 

9 日本のもち文化のルーツは西アフリカ熱帯雨林

 以上、世界のもち食文化を、「イモもち、コメもち、イモ・コメもち」と「突きもち、練りもち」のマトリックス(構造図)で整理すると次のようになります。

 

 考古学・歴史学は「出たとこ勝負」であり、遺跡や文献が「出てこないものはなかった」とするのが科学的であると錯覚している奇妙な学問で、理論物理学などとは異なりますが、それが非科学的であったことは、例えばシュリーマンのトロイ遺跡とか、日本の荒神谷・加茂岩倉遺跡で証明されています。ギリシア神話古事記大国主神話を後世の創作とみなす説こそ誤りであったことが証明されたのです。

 人骨や石器がでてきた南アフリカや東アフリカが人類発祥の地であるというのは、何の証明にもならないにも関わらず考古学・歴史学では常識のようですが、チンバンジーやゴリラの生息地が西アフリカ熱帯雨林であることからみて、私はこの地こそ人類が誕生した場所と考えています。

 そして、この地に住むY染色体E型人とY染色体D型の縄文人は分かれたのであり、西アフリカ原産のヒョウタンが縄文遺跡で見つかっている以上、人類移動とともにヒョウタン容器に入れられてのタロイモやイネ科穀類もまた、インド・東南アジアを経て、南太平洋諸島や台湾、日本列島に持ち込まれ、縄文人の主食となり、「イモもち」が生まれたと私は考えています。

 イネはアフリカの陸稲がインドのインディカ米となり、雨季に冠水する東南アジアの河川のほとりで水稲(ジャバニカ米)が生まれ、山岳地域で寒さに強いジャポニカ米となり、「もっちり・もちもち・ねばねば」好きのわが祖先たちは、寒さに強いサトイモタロイモ)ともち米・うるち米を選別して「海の道」を通って日本列島人に持ち込み、「イモもち・イネもち」の突きもちの食文化を育て、赤米の赤飯・おこわ文化を継承したと考えます。

 その証明に向け、さらに世界各地のイモ食・もち食の民俗学的調査と「もっちり」系のイモ・コメの遺伝子調査が求められます。若い世代の国際的なネットワーク調査に期待したいと思います。

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/