ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート118 諏訪への鉄の道

 古部族研究会編の『諏訪の祭祀と氏族』に触発され、「縄文118 『白山・白神・天白・おしらさま』信仰考」では伊勢(大国主一族)と諏訪の宗教における繋がりを書きました。

                                         f:id:hinafkin:20220111181459j:plain

 続いて「伊勢から諏訪への鉄の道」について考察を進め、縄文1万数千年の歴史と紀元1~3世紀のスサノオ大国主建国との繋がりを解明したいと考えたいと思います。

 縄文研究・民俗研究が最も進み、大天白神・御左口(みしゃぐち)神・道祖神信仰や御柱祭が今に伝わる諏訪と、記紀風土記文献と神社伝承が濃く残る播磨・吉備・伊勢を「鉄の道」で結びつけることにより、紀元1~4世紀の歴史は解明できると考えます。

 

1 伊勢国の麻績(おみ)の御糸村

 今井野菊氏は「伊勢津彦命、天日別命に伊勢の国を天孫に奉る約束をして諏訪に入る」(伊勢国風土記)を引用し、「お明神さまのお后さまは、伊勢の国の麻績(おみ)の御糸村の八坂彦命の娘だそうナ」と聞いて育ち、伊勢に赴いて「御左口神あり、出雲神あり、大天白神あり、御左口神祭祀の記録あり、神楽歌あり、上宮文庫あり、・・・・諏訪人が諏訪人なりの目や耳をもって聞きますと、伊勢の国ほど諏訪に近いところはなく、まさに祖母神八坂止女命のなつかしいふるさと、伊勢の国でした」とし、伊勢と諏訪の宗教・文化・交流を指摘しています。

 この「伊勢の国の麻績(おみ)の御糸村」は現在の多気明和町で、松阪市伊勢市の中間の海岸部に位置し、7世紀には伊勢神宮の祭祀を行う皇女が派遣された斎宮が置かれるなど、古くから三重県南部の中心地でした。

   南西に約23km離れた松阪市の粥見井尻遺跡からは13000年前頃の日本最古級の女性土偶が発見され、この地には縄文草創期から人々が居住しています。―縄文ノート「69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」「75 世界のビーナス像と女神像」参照

                                   f:id:hinafkin:20220122172204j:plain

 さらに約15㎞離れた埴山(はにやす)姫を祭神とする丹生神社のある多気町丹生の丹生鉱山では縄文時代から辰砂(しんしゃ:硫化水銀)の採掘が行われて土器の着色等に使用され、東大寺大仏殿の金メッキに使われた約2tの水銀はこの鉱山の辰砂から製造されています。「麻績の御糸村」名に見られる麻織物と合わせてこの地域は縄文時代からの重要な鉱工業地帯であったと重要な地域と考えれられます。

                          f:id:hinafkin:20220122172325j:plain

2 八坂彦について

 八坂刀売(やさかとめ)諏訪大社上社前宮と下社春宮・秋宮の主祭神で、夫は上社本宮に祀られた建御名方ですが、そのルーツは伊勢なのでしょうか?

 「八坂」というとまずは地形・地名からきている可能性がありますが、大町市(旧八坂村)にはあるものの諏訪には地名がなく、八坂神社は松本市千曲市安曇野市などにありますが、疫病除けのために京都の八坂神社からスサノオの分霊を勧請したもので起源は古くはないようです。三重県では北部の平野部の桑名に「八坂」地名があり、いなべ市の丹生川の近くや菰野町に八坂神社がありますが、南部の明和町などには見られません。

 地名説では、イヤナミ(伊邪那美)が葬られた出雲の「揖屋」の黄泉との境の「伊賦夜坂(いふやさか)」からきた可能性があるほか、「弥栄(いやさか=万歳)」を後世に「やさか」と呼んだ可能性も考えられます。

 斉明天皇2年(656年)創建の京都の八坂神社についてみると、疫病退散のために、播磨(姫路)の広峯神社からスサノオの神霊が山車(後の山鉾行列)に乗せられて京都に運ばれていますが、社伝では東御座にスサノオの8人の御子(八島篠見、五十猛、大屋比売、抓津比売、大年、宇迦之御魂=稲荷、大屋毘古、須勢理毘売)が祀られていることからみて、「八坂」は四国・近畿・中部・関東に多い「八王子神社」と同じようにスサノオの8人の御子を「弥栄(いやさか)」する名前とみる説の可能性もあります。

      f:id:hinafkin:20220122172549j:plain

 ここで興味深いのは、八坂神社の東御座には実際には蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られていることからみて、8人の御子説は後世の付会であり、「八坂」は元々は「ヤマタノオロチ(八岐大蛇)王」に由来する名前の可能性があると私は考えています。その可能性については後に「鉄」の分析で述べたいと思います。

 なお「蛇」は倭音倭語では「へび、み」ですが、呉音漢語では「ジャ、タ、イ」、漢音漢語では「シャ、タ、イ」のほか慣用音の「ダ」があり、蛇毒気神(だどくけのかみ=じゃどくけのかみ)は龍蛇神・蛇神・海蛇神信仰のスサノオ一族に関係している名前と見られます。

  f:id:hinafkin:20220122172621j:plain

 「八坂刀売(やさかとめ)」の由来が伊勢の八坂彦由来である可能性については確定できませんでしたが、いずれにしてもスサノオゆかりの名前の可能性が高いと考えます。

 

3 天白神・御左口神・倭系神の諏訪への先後論

 今井氏は御左口神・出雲神・大天白神とも、伊勢津彦あるいは八坂彦命により伊勢からワンセットで諏訪に伝わったかのように書いていますが、一方では、前回引用したように「天白神信仰民は原始農耕・原始漁撈の人たちで、遺跡は原始狩猟民よりも山岳を下った海辺や河川に住み、沼地などで水稲文化の御左口神を受け入れて共存共営した」と書き、さらに「(注:天白神信仰の)麻や菜種・粟・稗等を作っていた焼き畑農耕神が先住者で、稲文化を持ち込んできた御左口(みしゃくじ)神があとから土着して祭られた神であると推考するよりほかはない」とも書き、天白神信仰→御左口神信仰の2段階伝来説の迷いが見られます。

 そして「草分け土着民の天白信仰と御左口神信仰の氏子たちと、更にあとから移動して来たであろう倭系神とその氏子の対立話」「御諏訪さまはじめ出雲神・天白神・御左口神を産土神として祀る山地や平地の中へ、倭系神の鎮守さまが割り込んで権勢を張ったと伝える話」を伝え、建御名方の諏訪神信仰が加わり、さらに大和天皇家による倭系神の進出があったとしています。

 今井氏は「原始狩猟→原始農耕(焼畑)・原始漁撈→稲作」という3段階時代区分と、「原始狩猟民宗教(石棒・石皿?)→天白神信仰→御左口神信仰→出雲・諏訪神信仰→倭系神信仰」という5段階の宗教変遷説を提示しており、その分析・整理は高く評価されますが、それらと守矢氏・伊勢津彦・八坂彦・諏訪氏の関係、縄文時代の妊娠・女神土偶や環状列石、御柱信仰、蓼科山の女神(めのかみ)=武居夷(たけいひな)・ヒジン(霊神)信仰との関係、縄文からの蛇神・龍神信仰との関係、御左口(みしゃぐち)=御蛇口の可能性、陸稲栽培の可能性、石皿(筆者説は石臼・石すり鉢説)と採集・原始農耕との関係、黒曜石や鉄器の役割など、未解明・未整理の論点がまだ多く残されていると考えます。―縄文ノート「98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社」「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」等参照

 なお、現段階の私の考察は、今井氏らの全ての著作を読む前のメモであることをお断りしておきます。

f:id:hinafkin:20220122172815j:plain

 また「守矢氏=縄文人」「諏訪氏弥生人」とする説もあり、私は「縄文ノート100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」などにおいて守矢氏=物部氏スサノオ系、建御名方=大国主系として整理しましたが、すべてをここで再検討する必要がでてきました。特に鉄と水利水田稲作の伝播と合わせて総合的に検討したいと考えます。

 

4 播磨から伊勢に移った伊勢津彦

 私がこれまでスサノオ大国主建国論から伊勢津彦につい書いてきたことをまず紹介しておきたいと考えます。

⑴ YAHOOブログ「霊の国:スサノオ大国主命の研究」(廃止)

 ―「51 『霊の国史観』の方法論20:霊(ひ)の国の地名論2 人名にちなむ地名」

 

 播磨国風土記の揖保郡には、次のような興味深い記述が見られる。

 

  『伊勢野と名づけた処以(ゆえ)は、この野、人の家ある毎に、静安(やす)きことえず。ここに、衣縫猪手、漢人刀良等の祖(おや)、この処に居らむとして、社を山本に立て敬い祭りき。山の岑に在す神は、伊和大神(注:大国主)の子、伊勢都比古命・伊勢都比売命なり。これより以後、家家は静安くなり、ついに里を成すこと得たり。即ち伊勢と号く」(沖森卓也佐藤信・矢嶋泉編著『播磨国風土記』をもとに一部、読みやすいようにした)

 

 ここから、明らかなことは、伊勢都比古命・伊勢都比売命の名前から、伊勢の地名が付けられたとされていることである。

 『伊勢国風土記』には、「伊勢と云うは、伊賀の安志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり」と書かれており、伊勢国の名前もまた、伊勢都比古命(伊勢津彦命)から付けられていることが明らかである。

 

⑵ Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」

 ―「88 摂津・播磨・丹波・丹後の古墳・神社を訪ねて その1」

 

 「この安師比売(あなしひめ)を祀る安志姫神社は13代成務天皇の時代に大和の穴師坐兵主(あなしにますひょうずじんじゃ)神社(兵主神大国主)から当地に勧請し祭祀したと伝えられているが、播磨国風土記の記載からみて、元々、安志姫はこの安師の地の神と考えられ、大和に穴師族とともに移ったと考えられる。後述する伊勢津彦はこの林田川を下ったところに祀られており、伊勢国風土記逸文では『伊賀の安志(あなし)の社に坐す神』としていることからみて、同じように穴師族とともに伊勢に移ったと考えられる。なお、砂鉄採取に従事する人たちを『鉄穴師(かなじ)』と呼ぶことから見て、『穴師』は穴を掘って銅や鉄など鉱石の採掘に従事していた集団と考えられる」

 「古事記では『天火明命』は天忍穂耳命の子(ニニギの兄)とされているが、播磨国風土記では火明命は大国主の子となっている。播磨国風土記には大国主の子の伊勢津彦が登場し、伊勢国風土記逸文ではこの伊勢津彦を伊賀の安志(あなし)の社に坐す神としていることからみて、大国主の子どもたちが、播磨から丹後(火明命)、尾張(同)、伊勢(伊勢津彦)、葛城(アジスキタカヒコネ)、紀伊(丹生都比売)など、各地に勢力を広げた可能性が高い。」

 

 伊賀の穴石神社(あないしじんじゃ)奈良県桜井市の纏向の穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)系とされ、兵主神は播磨総社では大国主の別名としていることからみて、播磨国風土記伊勢国風土記と合わせて考えると、大国主の御子の伊勢津彦は播磨から大和の纏向、伊賀、伊勢へと移り、さらに伊勢から諏訪に移ったことになります。

 ただ、古事記によればスサノオ大国主は7代離れていることからみて、スサノオや御子の大年(大物主)、アマテル(天照)などは代々襲名していることが明らかであり、伊勢から諏訪に移った伊勢津彦が播磨から伊勢に移った伊勢津彦と同一人物なのか、それともずっと後の時代の後継王なのかは検討の必要があります。また伊勢国御糸村の八坂彦命は伊勢津彦より先に諏訪に入っていたのか、それも同時なのか、要検討です。

 さらに、大国主と越の沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)との間に生まれ、大国主の御子間の後継者争い(天照一族の征服ではないと私は考えます)で筑紫日向(ひな:蜷城(ひなしろ))の穂日・日名鳥親子に敗れた建御名方は、出雲から諏訪の八坂氏や守矢氏を頼って逃れてきたのか、それとも伊勢の八坂刀売(やさかとめ)とは出雲で縁結びにより夫婦となり、共に諏訪に逃れてきたのかも要検討です。

 

5 スサノオ大国主建国論

 信州・諏訪における縄文時代から鉄器時代の水利水田稲作時代への移行と守矢氏や伊勢津彦・八坂彦・建御名方の関係を論じるためには、前提として「スサノオ大国主建国」史の全体をまず見ておく必要があります。

 温帯ジャポニカ水稲栽培が弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服によってもたらされたとする稲作起源・弥生人征服説は人とイネのDNA分析、さらには倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の2層構造、日中韓史書により成立せず、縄文人の内発的・自律的発展としてスサノオ大国主建国がなされたという私の説全体は再掲しませんが、スサノオ大国主建国説についてだけはざっと紹介しておきたいと思います。―『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)等参照

 このブログをすでにご覧になっておられる方は、パスしていただければと思います。

⑴ 「委奴国王」スサノオ

① 桓武天皇第2皇子の52代嵯峨天皇(三筆の一人、最澄空海を優遇、源氏の祖)は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈るなど、天皇家スサノオ大国主一族の建国を公認し、スサノオを「天王(てんのう)」と呼ぶことを公認しています。天皇家スサノオ建国を認めているのです。

     f:id:hinafkin:20220122173105j:plain

 後のこの地の領主であった織田信長(先祖は福井県丹生郡越前町織田のスサノオを祀る剣神社の神官)はその歴史・伝統を受け継ぎ、自らの安土城に「天主閣」を設け、スサノオ天王の後継王の「天主」たらんとしました。

 ② 紀元57年の後漢光武帝の「漢委奴国王」の金印付与、59年の4代新羅王の倭人の脱解(たれ)の倭国との国交(三国史記新羅本紀)、スサノオ・イタケル(五十猛=委武)親子の新羅訪問記載(日本書紀)からみて、百余国の「委奴国王」(筆者説:いな国王=ひな国王)はスサノオ以外にありえません。

         f:id:hinafkin:20220122173159j:plain

③ スサノオは大人になっても母の根の堅州(かたす)国に行きたいといって泣いたと貶めて太安万侶古事記に書き、秘かにスサノオは出雲の揖屋でイヤナミ(伊邪那美)から生まれた長兄であることを伝え、イヤナミの死後に筑紫に移ったイヤナギが各地で妻問いして生んだ綿津見3兄弟、筒之男3兄弟、天照(アマテル)、月読らはスサノオの異母弟・異母妹であるという真実の歴史を記しています。太安万侶聖徳太子蘇我馬子による「国記」をもとにして、スサノオを天照・月読などの末弟にしながら、スサノオ長兄の真実の歴史を巧妙に神話的な物語として伝え、残したのです。中国の司馬遷とはまた異なるタイプの歴史の表裏を書き伝えた「史聖」と太安万侶を呼びたいと考えます。

④ 古事記によれば、スサノオはイヤナギ(伊邪那岐)から「海原を知らせ(支配せよ)」と命じられた海人族の王であり、安曇族の綿津見3兄弟に後漢との交渉に派遣し、その本拠地の志賀島に「朝貢貿易」に必要な金印を保管させたと考えられます。

⑤ 『新唐書』は、天皇家の祖先を「天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以『尊』爲號(ごう)、居筑紫城。 彦瀲の子神武(じんむ)立」としていますが古事記には始祖・天御中主から薩摩半島西南端の彦瀲(ウガヤフキアエズ)までは16代しかなく、「16代の欠史」が見られる一方、「スサノオ大国主16代の建国神話」が挿入されており、真実の歴史は「天御中主~イヤナギ・イヤナミ」11代、「スサノオ大国主」16代、「アマテル・オシホミミ」の高天原(筑紫日向)2代、笠沙・阿多の「ニニギ・ホヲリ・ウガヤフキアエズ」3代の合計32代と考えます。

 そして30・40代天皇の確実な即位年から最小二乗法で計算すると、スサノオの即位年は紀元60年となり、紀元57年、59年の後漢新羅との委奴国王の遣使・交易と符合します。―「『古事記』が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)」「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者(『季刊山陰』38号)」「スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―」参照

f:id:hinafkin:20220122173302j:plain

⑥ 「倭国王師升(すいしょう)」の後漢への107年の遣使は、102年即位推定年のスサノオ5代目「淤美豆奴(おみずぬ)」に「すい=みず」が対応し、146~189年頃の「倭国大乱」はスサノオ7代目の大国主が筑紫で鳥耳に妻問いしてもうけた鳥鳴海(襲名したアマテル)の即位推定年122年の次の代になり、大国主の筑紫日向(ちくしのひな)のホヒ・ヒナトリ親子対出雲・諏訪(事代主・建御名方)の後継者争いの「国譲り」と符合します。

⑦ さらに「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國乱相攻伐歴年」の「7~80年の男王時代」はスサノオ大国主7代に符合し、「百余国」から「九州30国」の邪馬壹国(やまのいのくに)が反乱・分離独立したことに符合し、卑弥呼が魏へ遣使した238年は筑紫大国主王朝10代の次のアマテル(天照:代々襲名)の即位推定年の紀元225年の次の代となります。

 紀元1~3世紀の日中韓の文献をそのまま読めば、紀元1~3世紀のスサノオ大国主一族の建国の歴史は完全に解明できるのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

⑵ 「鉄交易王」スサノオ

① 魏書東夷伝によれば、3世紀の倭人辰韓(後の新羅)の鉄を「従いてこれを取る」新羅王脱解(たれ)と委奴国王スサノオの官制交易と「諸市買、皆鉄を用いる」(壱岐対馬の海人族の「乗船南北市糴(してき)」の「入+米+羽+隹(とり)」の鳥船による民間交易)の2ルートで米鉄交易が行っており、前者が「百余国-三十国」の出雲を中心とした「天鄙(あまのひな)国」(李巡)、後者が三十国の筑紫日向(ちくしのひな)記紀記載の高天原を王都とする「倭人国=邪馬壹国(山のいの国)」であったことが日中韓3国の記録から明白です。

      f:id:hinafkin:20220122173408j:plain

 スサノオはイヤナギから「海原を知らせ」と命じられたとおり「日中韓の交易・外交王」であったのです。

② 『三国遺事』に、脱解(たれ)は現在の慶州市(新羅王国の首都・金城)で「この家がある場所は元々私の土地だ。私の祖先は鍛冶屋だったから、掘れば砥石や炭が見つかるだろう」(『日朝古代史 嘘の起源』より)と述べた書かれていることからみて、倭人新羅で鉄製品を製造していたことが明らかであり、スサノオは米鉄交易だけでなく新羅訪問で製鉄技術を持ち帰った可能性が高いと考えます。

③ スサノオヤマタノオロチ王を切った「十拳剣(とつかつるぎ)」(古事記)を日本書紀は「韓鋤剣(からすきのつるぎ)」としており、「韓鋤(からすき)」の軟鉄を鍛えなおした十拳=十束=約1mの鉄剣であり、スサノオ一族の鍛造技術を示しています。

⑶ 「製鉄王」ヤマタノオロチスサノオ

① 出雲を支配していたヤマタノオロチ王の草薙刀が、天皇家皇位継承三種の神器(剣・鏡・玉)の1つとして天皇家の武力統治の象徴とされ、スサノオを祀る八坂神社の左殿に「蛇毒気神」が祀られていることは、吉備のヤマタノオロチ王の親族は「蛇毒気神」としてスサノオの最高の補佐役に取り立てられ、「ヤマタノオロチ王→スサノオ天王→天皇家」へと王位継承が行われた歴史を示しています。

② スサノオが「十拳剣」でオロチ王を切った時、オロチ王の「都牟刈(つむがり)乃大刀(草那藝之大刀)」によりスサノオの剣の刃が欠けたというのであり、十拳剣(韓鋤剣)は韓鋤鉄を剣に作り変えた「軟鉄刀」、草那藝之(くさなぎの)大刀は後のハイテク日本刀のような「軟鉄と鋼鉄を合わせて鍛えた大刀」の可能性が高いと考えます。

③ 日本書紀によれば、ヤマタノオロチ王を切ったスサノオの十拳剣=布都之魂は吉備の神部(赤坂郡=現赤磐市)の備前一宮の石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)に物部氏により祀られており、この地には布都之魂についた血を洗ったとする伝説がある血洗の滝・血洗池があります。

       f:id:hinafkin:20220122173520j:plain

 出雲国風土記にオロチ王の本拠地や歴史が書かれておらず、古事記が「高志(こし)八俣遠呂智やまたのおろち」としていることからみて、オロチ王は中国山地を越して出雲を支配した吉備製鉄王であり、スサノオはオロチ王を討って出雲を解放するとともに、その本拠地の赤坂を支配したと私は考えています。

 なお、石上布都魂神社のスサノオの十拳剣(布都之魂)は、仁徳天皇の代に大和の石上神宮に遷され、物部氏により祭られています。

④ 出雲では鉄鉱石は産出せず、吉備から播磨にかけて鉄鉱石を産しており、「赤坂」は赤鉄鉱(赤目砂鉄)の産出地であり、5世紀後半には岡山県内第3の規模の両宮山古墳が築かれ、8世紀には備前国分寺が置かれ、下流の長船は備前長船刀の産地であり、黒田官兵衛の先祖の地でした。

⑥ 出雲の金屋子神社などの伝承によれば、出雲のたたら製鉄金屋子神により図のように「播磨→吉備→伯耆→出雲」へと伝えられており、石上布都魂神社のある赤坂は播磨の宍粟から吉備中山へのルートの途中の古代の重要な製鉄拠点であり、この赤坂を支配したスサノオは「朱砂王」と呼ばれた赤目(あこめ)砂鉄製鉄王と私は考えています。なお、吉備津神社のある吉備中山は、「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」(古今和歌集)と詠まれたように鉄の産地であり、後に天皇家の進出拠点となります。

   f:id:hinafkin:20220122173557j:plain

⑦ 関の孫六や村正で有名な刀工・赤坂関派の本拠地は岐阜県赤坂町(現大垣市)に赤坂鉱山があることからみても、「赤坂」地名や播磨の「赤穂(あこう:赤生)」「明石(あかし:赤石)」などは赤目砂鉄・赤鉄鉱の産出であったと考えます。

⑧ 前述のように京都・八坂神社の東御座に蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られていることからみて、ヤマタノオロチ王の同族はスサノオの建国を助けたことにより京都・八坂神社の左殿に祀られ、その大刀は美和の大年(大物主)一族が継承し、後に大物主(代々襲名)の権力を奪った天皇家皇位継承のシンボル「三種の神器」の1つとされたのです。なお、現在、熱田神宮に祀られている「草薙の剣」は銅剣であり、オロチ王の「草那藝之(くさなぎの)大刀」とは異なる後世のニセモノであり、「剣と大刀」「銅と鉄」の違いを無視する歴史学者たちの空想には困ったものです。

⑨ スサノオの御子の大年が美和(三輪)を拠点として「大物主」と呼ばれ、スサノオが「大物主大神」として祀られており、赤坂の石上布都魂神社や大和の石上神宮物部氏が祀っていることからみて、私は紀元1世紀頃からの赤坂・物部氏スサノオ(大物主=大神主)の部民となったオロチ一族の可能性が高いと考えています。

 一方、物部氏にはアメノホアカリ(天照国照彦天火明櫛玉饒速日)を始祖とする尾張・海部氏らがありますが、記紀がアマテル(天照大御神)の孫としているのに対し、播磨国風土記大国主の子とし、播磨のたつの市の粒坐天照神(いいぼにますあまてらすじんじゃ)などに祀られていることからみて、私は大国主スサノオ7代目)の御子と考えます。そして、大国主が赤坂・物部氏の王女に妻問いして生まれた御子であることから物部氏系と称した可能性があると考えています。

⑩ 『先代旧事本紀』(日本書紀以前に物部氏系により作成)は八坂彦を天火明の部下で「伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)」の祖としており、「麻続(おみ)」名は前述の「伊勢の国の麻績(おみ)の御糸村」に符合しています。従って八坂氏は大国主の御子の物部氏系であり、大国主の御子の伊勢津彦と同じく、伊勢から諏訪にはいったと考えられます。

⑷ 「鉄先鋤王」大国主

① 出雲国風土記は、大国主を「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」とし、その180人の御子の一人の阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)=迦毛(かも)大御神には「鉏(すき)」の名前を付けています。

              f:id:hinafkin:20220122173644j:plain

② 播磨国風土記の賀毛郡では、大水(おおみず)神の「吾は宍(しし)の血を以て佃(つくだ)を作る。故、河の水を欲しない」という陸稲栽培あるいは水辺水田稲作固執する王らを紹介していますが、大国主一族はそのような王たちを説得し、木鋤(こすき)の先に鉄を付けた鉄先鉏(鋤)により水路開削・農地開拓工事を行い、水利水田稲作への農業革命を行ったのです。

③ 大国主は「八千矛(やちほこの)神」の別名を持っており、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡から銅槍(通説は銅剣)・銅矛・銅鐸のわが国最大の集積地であることが明らかになったことから、スサノオ大国主一族を銅器時代の王とする説がみられますが、「五百鉏鋤(いおつすきすき)王=鉄先鋤王=スコップ農業土木王=水路水田開拓王」として鉄器稲作時代を切り開いた王と見るべきです。

④ 播磨国風土記には大国主の妻の佐用都比売(さよつひめ)が「金の鞍を得た」と書かれており、「12の谷あり。皆、鉄生ふること有り」の記述からみても佐用郡が鉄産地であったことが明らかです。この地は前述の金屋子神の本拠地である宍粟市千草町岩野辺(近くに美作富士と呼ばれる日名倉山)より南西に直線距離で19㎞ほどのところであり、播磨は隣接する吉備・赤坂とともに鉄生産の先進地であり、大国主がこの地の女王に妻問いして鉄器生産の拠点としたと考えられます。

⑸ 「穴師坐兵主神大国主

① 播磨国風土記によれば、大国主はこの作用郡では「鹿の腹を割いて稲をその血に種いた苗」を植えた玉津日女のもとを去り、その東約22㎞で金屋子神の本拠地から南東に22㎞ほどの宍粟郡安師村(現姫路市安富町)では安師比売(あなしひめ)に妻問いしてフラれ、川をせき止めて別の方向に流したので水量が減ったという話があり、佐用・宍粟両郡の製鉄部族の穴師集団に水利水田稲作を提案したが拒否されたことをリアルに伝えています。

② 出雲国風土記大国主を「大穴持(おおあなもち)」と伝え、播磨国総社や県北の但馬では大国主を「兵主(ひょうず=つわものぬし)神」としていることからみて、奈良県の美和(三輪)の纏向(間城向)の祭祀の中心の穴師坐兵主神社(元は穴師坐大兵主神社)は、穴師山の山中・弓月岳にあった穴師坐兵主神社と穴師山にあった卷向坐若御魂神社を合祀しており、この地は大国主一族の製鉄と祭祀の拠点になります。

③ 古事記は、少彦名の死後、御諸山=美和山(三輪山)に大物主(大物主大神スサノオ)を祀ることを条件に、大国主と大物主は国を「共に相作」としており、大国主・大物主連合は、大国主一族が美和山の大物主大神スサノオ)を祀ることによって成立したのです。

 この美和山(三輪山)467mは穴師山409mの真南1.5kmのところにあり、三輪山を神体とする麓の大神(おおみわ)神社は主祭神大物主大神スサノオ)、配神を大己貴(おおなむち:大国主)・少彦名(すくなひこな)とし、大物主を三輪山の蛇神としています。出雲大社が「龍蛇神」=「龍神様」を祀っているのと同様に、海人(あま)族の海神信仰を示しています。

④ 少し脱線しますが、次図に明らかなように「纏向矢塚古墳-纏向石塚古墳-大型建物-珠城古墳」はほぼ一直線に古くは巻向山(古くは穴師山)を向き、「箸墓古墳-ホケノ山古墳-穴師坐兵主神社」や「崇神天皇陵」もまたこの穴師山を向いて配置されています。これらの「直線配置」は、纏向が穴師山を神名火山(筆者説:神那霊山)とする天神信仰大国主一族の拠点であったことを示しています。

f:id:hinafkin:20220122173746j:plain

 「箸墓古墳卑弥呼墓」「大型建物=卑弥呼宮殿=太陽信仰神殿」「卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメ」「卑弥呼=アマテル」説など、魏書東夷伝倭人条と記紀をまともによみ、神社祭神と神名火山(神那霊山)信仰を考えると成立の余地は100%ありません。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 

⑹ 「水穂国王・天下経営王・稲作技術王・百姓王」大国主

① 古事記大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には大和の美和(三輪)の大物主(スサノオの子の大年一族:代々大物主を襲名)と国を「共に相作り成し」し、その国名を「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国(みずほのくに)」とし、日本書紀の一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝え、出雲国風土記は「所造天下大神」(天の下つくらしし大神)としています。―「縄文ノート「24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」「28 ドラヴィダ海人・山人族による稲作起源説」参照

② 記紀スサノオ7代目の大国主をこの国の建国者として認めているのですから、古代史研究はスサノオ大国主7代の建国からスタートすべきです。大国主は「五百鋤々王」「千年水穂国王」「天下経営王」「稲作技術王」「百姓王」として記紀に書かれ、奈良時代には広く人々に認められていたのです。

③ 「千秋長五百秋水穂国」という表現は荒唐無稽な誇張ではなく、紀元1~2世紀のスサノオ大国主の時代から1000年前頃の紀元前930年頃の佐賀県唐津市の菜畑遺跡での水辺水田稲作の開始や、紀元前500年前頃の岡山県総社市の南溝手遺跡や岡山市の津島岡大遺跡の500年前頃の土器胎土内のプラント・オパールや籾痕のついた土器など、水利水田稲作の開始と符合しています。ー「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」参照

f:id:hinafkin:20220122173848j:plain

⑺ 「朱丹王」大国主

① 前掲の最小二乗法による大国主の即位推定年は紀元122年ですが、同時代の出雲市の小高い丘の上の紀元200年頃の「西谷3号墳」には水銀朱が敷きつめられた木棺に王は葬られており、死者の霊(ひ)は山から天に昇り、死者は母なる大地の「棺=霊継ぎ」の血の中から「黄泉帰る」という魂魄分離(死者の魂と肉体分離)の宗教であったことを示しています。

      f:id:hinafkin:20220122174144j:plain

② 魏書東夷伝倭人条には、邪馬壹国の「山には丹あり」「朱丹を以てその身体に塗る」という記述があり、卑弥呼は243年に丹=辰砂(しんしゃ:水銀朱)を魏に献上しています。丹=は口紅に使うとともに、秦の始皇帝が愛用したように不老不死薬の水銀原料となり、最高級の朝貢貿易品でした。

③ 播磨国風土記には大国主の子の丹津日子(につひこ)が書かれ、風土記逸文には大国主の子の爾保都(にほつ)比売=丹生都(にゅうつ)比売が国造の石坂比売に乗り移って赤土を神功皇后に差し出し、「私を祀り、赤土を矛に塗って船首に建て、船や軍衣を染めて戦えば、丹波(になみ)でもって平定できるであろう」と神託を下したという記載があり、明石(赤石)の地名や神戸市北区の丹生山の丹生(にぶ)神社からみて、大国主一族が丹(水銀朱)やベンガラ(鉄朱:酸化第二鉄の赤色顔料)の生産を行っていたことを示しています。

       f:id:hinafkin:20220122174302j:plain

 「真金吹く」は吉備・丹生にかかる枕詞であり、万葉集で「真金吹く丹生のま朱 (そほ) の色に出て言はなくのみそ我が恋ふらくは」と詠まれたように鉄と丹(鉄朱・水銀朱)の生産は鞴(ふいご)で送風する精錬作業とみられていたのです。

 ④ 辰砂の産地は九州から伊勢地方まで、中央構造線沿いに各地に点在し、丹生神社・丹生都比売神社は辰砂(硫化水銀)や鉄朱(ベンガラ)採掘に携わった丹生氏の神社で全国に丹生神社88社、丹生都比売神社108社があり、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある丹生都比売神社が総本社で、紀伊国一宮となっています。

 奈良県御所市の高鴨神社は大国主の播磨の賀毛郡の御子のアジスキタカヒコネ(迦毛大御神)の拠点ですが、南西に直線距離で約24㎞のところに丹生都比売神社があることからみて、播磨の大国主の子の丹生都比売は賀茂族とともに明石郡からこの地にやってきた可能性が高いと考えられます。

⑤ 出雲市の3500年前頃の縄文後期終末期の京田遺跡の土器と石器から水銀朱の赤色顔料が見つかっており、硫黄の同位体比(δ34S)から北海道で採掘された辰砂鉱石が使用された可能性が高いとされており、貝やヒスイ、黒曜石だけでなく、水銀朱もまた縄文海人族が対馬暖流を利用して広域交易を行っていた可能性が高くなり、スサノオ大国主一族はその後継者であったことが明らかです。

⑥ 紀元前後の北九州に多い甕棺や石槨、石棺内部を朱で満たしている例からみて、スサノオ大国主一族は縄文時代からの伝統を受け継いで朱生産を支配し、古代王の送葬儀式を仕切ったと考えられます。卑弥呼が辰砂(しんしゃ)を魏に献上できたのは、卑弥呼が筑紫大国主一族の後継王であったことを示していると考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

6 伊勢から諏訪への鉄生産

① 前掲のように、記紀播磨国風土記伊勢国風土記三国史記新羅記、魏書東夷伝倭人条の記述と神社伝承・民間伝承を総合すると、鉄や朱の生産・交易を進め、沖積地などで水利水田稲作を普及させたのがスサノオ大国主一族であることが明らかです。

 播磨から大和・伊賀・伊勢への「鉄と丹生の道」をまとめると図5のとおりです。

f:id:hinafkin:20220122174415j:plain

② 冒頭で書いたように今井野菊氏指摘の「伊勢津彦命、天日別命に伊勢の国を天孫に奉る約束をして諏訪に入る」(伊勢国風土記)、「お明神さまのお后さまは、伊勢の国の麻績(おみ)の御糸村の八坂彦命の娘だそうナ」と聞いて育ったということからすれば、八坂彦・伊勢津彦一族により伊勢から諏訪へ鉄器水利水田稲作スサノオ大国主系の神々の信仰が伝えられた可能性は高いと考えます。

         f:id:hinafkin:20220122174511j:plain

③ しかしながら、富士見町の金谷製鉄遺跡は「平安時代?」とされ、1800年前頃の佐久市西近津遺跡群の竪穴住居跡から出土した壺や高杯、鉢には赤彩がみられ千曲川流域の他の遺跡でもみられるようですが(『信州の遺跡』第7号)、諏訪地方でのベンガラ・水銀朱の利用は確認できておらず、製鉄とともに物証の裏付けはまだありません。

       f:id:hinafkin:20220122174535j:plain

 ベンガラについては、北海道・青森県縄文文化の系統の可能性もあり、赤色顔料の成分やその産地の探求が求められます。

④ なお、出雲から諏訪への建御名方の移住ルートは、母親が越の沼河比売(奴奈川姫)であることや上田市の生島足島(いくしまたるしま)神社の伝承、諏訪神社の分布などからみて日本海から姫川・信濃川をたどるルートと考えられます。

 

7 縄文人と守矢氏、八坂彦、伊勢津彦一族、諏訪氏の関係

 記紀風土記と諏訪の伝承からの検討結果を整理すると次のようになります。

① 守矢氏、八坂氏(八坂彦)、伊勢津氏(伊勢津彦)、諏訪氏(建御名方)は全てスサノオ大国主をルーツとする部族です。

 なお、大国主スサノオから70年程後の出雲スサノオ家の7代目で、大物主(美和スサノオ家)と協力し、米鉄交易と妻問夫招婚により百余国に部族連合の委奴国を建国しますが、赤坂スサノオ家の物部氏など他の国のスサノオ後継王家に妻問いしている可能性があります。

② 『先代旧事本紀』は八坂彦を天火明(大国主の播磨を拠点とした御子)の部下としていますが、京都・八坂神社で左殿にスサノオ神を補佐する「蛇毒気神」が祀られていることからみて、備前赤坂・物部氏スサノオヤマタノオロチ王一族の御子の系統)の可能性が高いと考えます。

③ 鉄器水利水田稲作を諏訪にもたらしたのは、前後関係はともかくとしてこの4部族になります。

 さらに、これまで「縄文ノート」でまとめてきたことから、次のように考えます。

④ 諏訪大社の下社春宮・秋宮の祭神が八坂刀売であり、御神渡(おみわたり)の神事が諏訪明神が上社から下社の女神の所に行く神幸とされていることからみてから見て、建御名方は先住していた諏訪湖畔の八坂刀売に妻問いしたと考えられます。

⑤ また諏訪大社上社前宮の祭神が八坂刀売であり、その祭祀を守矢氏が行っていることからみると、守矢氏と八坂氏は同族であり、その神長官(じんちょうかん)であった可能性があります。守矢(洩矢)氏は建御名方に対抗して破れ、娘は建御名方に嫁ぎ、上社前宮の祭祀を主催するとともに神長官(じんちょうかん)として諏訪氏の祭祀にも関わった可能性があります。

⑥ 守矢氏について、私は御室(みむろ)の中に数体の蛇形「そそう(祖宗)神」を安置し、翌春まで諏訪氏の大祝が参籠する祭事を神長官守矢氏が行っており、それは古事記スサノオ大国主を蛇の室に入れたという神話に似ていることや、諏訪神社の神体が蛇で神使も蛇であるとされ、御左口神(ミシャグチ神=御蛇口神)が守矢家に祀られていることなどから、守矢氏=スサノオ系、諏訪氏大国主系と考えてきました。―縄文ノート「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」「53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」参照

⑦ さらに信州に守矢氏=物部氏説があり、鉄鐸(サナギ鈴)を神具とした祭祀や守屋山中に「鋳物師ヶ釜」の地名が残っていることと、岡山市で小学校まで過ごした私には「守屋」名字が同級生などにあり調べると「守屋」名字は岡山県に一番多いことなどから、守矢氏のルーツを備前赤坂のスサノオがオロチ王を殺した剣を祀る石上布都魂神社の物部氏としてきました。八坂彦が大国主の子の天火明の部下であり、隣接する播磨を拠点としたことからみて、守矢氏と八坂氏は大国主の妻問婚により近い関係にあった可能性があります。

          f:id:hinafkin:20220122174656j:plain

⑧ 守矢氏の蛇神信仰や守屋山信仰などは縄文時代に遡る可能性があり、縄文の巨木建築と御柱祭の繋がりなどから守矢氏は諏訪縄文人から続く一族とみることもできますが、御室(みむろ)の蛇形「そそう(祖宗)神」神事や鉄鐸(サナギ鈴)神具などからみて、スサノオ大国主一族とみるべきと考えます。

⑨ 国土地理院地図で分析すると諏訪大社上社前宮は蓼科山を向き、後ろには守屋山があり、三者はほぼ一直線であることが確認できました。2020年8月3日に前宮に行った時の写真では遠くはかすんでいて蓼科山を直接、確認することはできなかったのですが、是非、地元で撮影していただきたいものです(ドローンにより前社から守屋山の撮影も)。縄文時代御柱祭を繋ぐ証拠の1つになると考えます。

 備前縄文系の守矢氏は諏訪に入った時、同じ縄文文化に属していたことから、妻問夫招婚により、諏訪縄文人蓼科山の「女神(めのかみ)=武居夷(たけいひな)=ヒジン(霊神)信仰」を継承し、蓼科山を崇拝する中ツ原8本柱巨木建築・阿久尻遺跡巨木列柱建築の神名火山(神那霊山)拝殿の伝統を受け継いだと考えます。―縄文ノート「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

 それは前掲の美和(三輪)の「図4 穴師山(現:巻向山)に向かう2本の直線配置」と同じであり、出雲族の神名火山(神那霊山)信仰を示しています。

f:id:hinafkin:20220122174734j:plain

⑩ 八坂・守矢一族が諏訪に入った後、大国主の後継者争いに敗れた建御名方一族が同族を頼って諏訪に入ります(征服ではありません)。さらに美和(三輪)・巻(纏向・間城)の大物主・大国主一族の権力を奪い、御間城姫を妻とした御間城(真木)入彦(10代崇神天皇)は美和スサノオ王朝の後継王として支配を広げ、「伊勢津彦命、天日別命に伊勢の国を天孫に奉る約束をして諏訪に入った」(伊勢国風土記)というのは10代崇神天皇が権力奪取した4世紀末以降のこととみられます。播磨から伊賀・伊勢に入った伊勢津彦と、諏訪の諏訪氏・八坂氏・守矢氏を頼って諏訪に逃げた伊勢津彦は別人で、諏訪に入ったのは襲名した後継王と考えます。

⑪ 以上の検討は限られた点と点を結んで「最少矛盾仮説」を構築したものであり、さらに各地の神社伝承、地名などの分析とともに、富士見町金谷製鉄遺跡の年代測定と赤目砂鉄との微量成分分析の比較対照、諏訪における鉄由来地名での製鉄遺跡の調査が課題です。

 

8 石器・土器・鉄器時代の諏訪の歴史段階

 表2に示した今井氏の諏訪における「原始狩猟→原始農耕(焼畑)・原始漁撈→稲作」という3段階時代区分と、「原始狩猟民宗教(石棒・石皿)→天白神信仰→御左口神信仰→出雲・諏訪神信仰→倭系神信仰」という5段階の宗教変遷説に対し、私の整理は表4のとおりです。

f:id:hinafkin:20220122174812j:plain

 日本国内だけを視野に入れた細かな石器・土器様式区分の研究も重要ですが、縄文文化・文明の研究をどう世界の石器・土器・鉄器時代や氏族社会・部族社会・国家、宗教・文化・文明全体の分析に提案し、寄与するという視点で取り組んでいただきたいものです。

 さらに、弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観の「弥生人稲作開始説」「新羅鉄輸入説」の思い込みから、縄文時代スサノオ大国主建国を繋ぐ鉄器生産と水利水田稲作の研究はなされておらず、出雲・安芸・吉備・播磨・美和・伊勢などにおいても製鉄と鉄器農具、神名火山(神那霊山)信仰、記紀風土記と神社伝承分析の総合的な研究が求められます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/