ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート142 もち食のルーツは西アフリカ 

 私が「イモもち」に関心を持ったのは、鳥浜・三内丸山縄文遺跡で発掘されたヒョウタンの原産地がニジェール川流域であることを知り、ナイジェリアで「アフリカ水田農法」の指導を行っている若月利之島根大名誉教授から「イボ族(とヨルバ族)の主食はヤムもち(日本の自然薯と同種)で、大鯰と一緒に食べるのが最高の御馳走。古ヤムのモチは日本のつき立てものモチよりさらにおいしい。貝は大きなタニシをエスカルゴ風に食べます。男性の精力増強に極めて有効」という返事をいただいてからでした。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」参照

 もちが大好きな私としては、「もち食のルーツ」を確かめないわけにはいきません。

両親が千歳に住んでいたことがあり、北海道のじゃがいもを使った「いももち(もちだんご)」は知っていましたし、ナイジェリアで縄文人由来のY染色体D型人が見つかり、共通の祖先から分岐したY染色体E型人がナイジェリアを含む熱帯雨林地域に多いことから、「もち食文化」もまた西アフリカからヒョウタン容器に入れられて日本列島に持ち込まれた可能性についてまとめておきたいと考えます。

 民族のルーツを生活文化から探るには、現代に残る希少性・恒常性のある生活文化の比較こそが重要であり、「もっちり・もちもち・ねばねば」好きのもち食文化の分析は最適と考えています。

 なお、「縄文ノート140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」において、イモ食が焚火を利用した「焼・蒸しイモ食」から土器鍋を使った「イモ煮食」、さらに臼と杵でついた「イモもち食」へと変わったという説を述べましたが、縄文時代には「石臼」とともに「木臼」があった可能性があると考えています。

 引用が多くて恐縮ですが、お付き合いいただければ幸いです。

 

1.これまでの考察

 イモ食については「縄文ノート140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」で詳しく述べましたが、これまで石臼(石皿)の用途の可能性として粉食は考えましたが、石臼・木臼を使った「もち突き」による「もち食」の可能性についてはきちんと検討できていませんでした。

 

⑴ 縄文ノート25 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」

 縄文遺跡から石臼が数多く発見されている以上、縄文人が粉食を行っていたことは確実であり、ドングリから作ったとされる「縄文クッキー」だけでなく、穀類やイモ類の「土器鍋食」の可能性を検証しないということは考えられません。・・・

 アフリカ原産のタロイモ(タイモ、エビイモ、タケノコイモ、サトイモ)やヤムイモ(ヤマノイモ、山芋)を主食とした熱帯・亜熱帯・温帯のイモ食文明の解明は「穀物文明史観」のもとで遅れているといわざるをえません。・・・

 中秋の名月サトイモを供えて月見する芋名月や、輪切りにしたサトイモを模した「丸餅」を雑煮として食べる習慣などからみて、その起源は稲や粟を備える祭りより古い可能性があります。縄文土器の底のおこげの再現実験や縄文人の歯石の分析など、イモ食文化について本格的な研究が求められます。

 

⑵ 縄文ノート28 ドラヴィダ海人・山人図2 2 モチイネの栽培圏

 国立民族学博物館名誉教授・元館長の佐々木高明氏の『照葉樹林文化の道』によれば、ミャンマービルマ)から雲南ラオスにかけてはオコワや餅、チマキなどをハレの食物とする日本と同じ「モチイネ(糯)」の栽培・文化圏であり、中尾佐助氏によればブータンでは日本で今も神事に使われている赤米が栽培されており、写真は対馬市豆酘(つつ)の高御魂(たかみむすび)神社(霊(ひ)を産む始祖神の高皇産霊を祀る)の赤米の神田です。寒さや病害虫に強い赤米などは条件の悪い日本の棚田などでずっと栽培されており、木簡からは7~8世紀に丹波、丹後、但馬などから藤原京平城京へ貢物として赤米が運ばれたことが記されています。民俗学者柳田國男氏は赤飯の起源は赤米であると主張しています。

       

 

⑶ 縄文ノート29 「吹きこぼれ」と「おこげ」からの縄文農耕論 

 縄文遺跡から石臼が数多く発見されている以上、縄文人が粉食を行っていたことは確実であり、ドングリから作ったとされる「縄文クッキー」だけでなく、穀類やイモ類の「土器鍋食」の可能性を検証しないということは考えられません。・・・石臼がある以上、未発見ですが「木臼・杵」(脱穀だけでなくイモ類、穀類・豆類やナッツ類の粉砕)も考えて再現実験で検討すべきでしょう。ことによれば小豆を潰した「縄文お汁粉」などもあったかもしれません。

 

⑷ 縄文ノート62 日本列島人のルーツは「アフリカ高地湖水地方」 

 重要な点は、このイシャンゴ文明が石臼・粉砕用石器とともに多くの骨製の銛と魚骨を伴い、漁業が主要な生業であったとされ、さらにサハラ砂漠の南(ニジェール川流域であろう)、ナイル川中流域にも類似の文化があり、近縁関係にあるとされていることです。

 穀類を挽いた石臼を伴う穀類・魚介食文化となると縄文文明と同じであり、さらに東南アジアやアンデス文明とも類似しています

 

⑸ 縄文ノート77 「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産登録の次へ 

 世界中の石臼(石皿)石器時代から現代まで穀類をすり潰す道具とされているにも関わらず、なぜか日本だけは「クリ類」をすり潰してクッキーにするための道具とされ(クリ・クルミなどはそのまま食べるでしょう)、縄文土器鍋は「ただの深鉢」「ドングリあく抜きの深鉢」にされ、土器鍋のおこげに見られるC3植物(イモ、イネ、オオムギ、アズキなど)とC4植物(アワ、キビ、ヒエ、モロコシ)のイモ・豆・穀類食は無視されています。

 

⑹ 縄文ノート111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論

 人類進化関係の『別冊日経サイエンス』を図書館でまとめて借りたところ、1998年4月の122号の『DNAから見た生物進化』に、9万年前の骨製の銛がコンゴ民主共和国(ザイールは1971~97年の国名)のセムリキ川(エドワード湖から北に流れアルバート湖に注ぐ)で見つかったという記事がありました。

私はこのエドワード湖とアルバート湖のほとりの高地湖水地方に20000~8000年前頃のイシャンゴ文明があり、穀類を粉にする石臼・粉砕用石器とともに多くの骨製の銛と魚骨を伴い、糖質・魚介食であったということを『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(木村愛二著)から引用しましたが、その骨製の銛の起源が9万年前へと遡ることが明らかとなったのです。

 

2.西アフリカの主食「フフ」(イモもち)

 前述の若月島根大名誉教授から教えられた「イボ族(とヨルバ族)の主食のヤムもち」は、次のように西アフリカでは重要な主食であり、作るのには木臼と木杵を使って突いていることが確認できます。この「突きもち食」文化のルーツはアフリカからの人類の移動に遡る可能性があります。

 DNA分析によってヤムイモやタロイモのルーツの解明が求められます。

 

⑴ アフリカの食料難を「イモ」が救う、ヤムイモを食べる唯一の先進国・日本の専門家が指摘 - ganas – 途上国・国際協力に特化したNPOメディア 

https://www.ganas.or.jp/20180605yam/

 東京農業大学志和地弘信教授はヤムイモ(山芋、長芋などの総称)、キャッサバなどのイモ類に注目する。世界でも数少ないヤムイモ専門家の同教授は「アフリカには豊かなイモ食文化がある。イモ類は高温、乾燥など気候の変化に強い。干ばつのリスク対策にもってこいだ」と言う。・・・

 西アフリカや中部アフリカでは、イモ類から作る「フフ」が伝統的な主食だ。「フフ」はヤムイモやキャッサバ、調理用バナナを茹でて臼でつき、湯で練った餅のような食べ物。野菜や肉、魚のスープに浸して食べる。

          

 西アフリカのナイジェリアでは、ヤムイモの収穫を祝う儀式があるという。儀式の日がくるまではヤムイモを勝手にとって食べてはいけない。ヤムイモはまた、結婚式で新郎から新婦への贈り物としても欠かせないもの。昔はヤムイモ畑の広さがその家の富を表していたといわれる。

 

⑵ アフリカの主食は何? (africa-trivia.com) 

http://africa-trivia.com/bunka/entry5.html

 西アフリカ…フフやウガリなど、イモ類や穀物粉などから作られた餅状の食べ物。黒目豆やプランテンも主食として定着している。

         

⑶ 西アフリカの主食、「フフ」とは? - 岡本大助の太陽料理館 (goo.ne.jp) 

https://blog.goo.ne.jp/okamoto_dalian/e/bdc0767d6ffacc43b33bc9598b0507a2

 今回ご紹介するのは、西アフリカやアフリカ中部で主食として食べられている「フフ」です!白くて、一見するとお餅にも見える「フフ」。

 フフはキャッサバやタロイモ、ヤムイモなどの芋類を臼で粉砕し、熱湯で混ぜてつくります。練っていく過程で好みの硬さになったら完成です。

 地域によっては先に芋を茹でてから叩き潰す場合もあるそう。フフをつくる様子です。日本の餅つきのようですね。

      

 

3.東アジアのイモもち

 ネットで調べた限りでは、チベットブータンミャンマーラオス・タイでイモもち食は確認できず、メラネシアミクロネシアポリネシアと台湾、中国のベマ族(後述)、日本各地の「イモもち」があります。コメ食の前の古いイモ食文化は周辺で残ったことを示しています。

 なお、西アフリカの「フフ」と後述する中国・チベット高原のベマ族のイモもちは突きもちですが、日本の鹿児島・宮崎・和歌山・高知のいももちは米もちにサツマイモ混ぜた「突きもち」で、他の地域のイモもちは「練りもち」です。

 熱帯雨林がルーツのサトイモは、沖縄・南九州など暖かい地域から寒さに強い品種が太平洋沿いに広がったと考えられます。

 なお、3万5千年前にはメラネシアの島々の遺跡からニューギニア原産の黒曜石などが多数発見されていることは、日本列島の黒曜石利用のルーツもまたニューギニアやジャワ島などの火山地域由来の可能性を示しています。

⑴ サトイモ - Wikipedia 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%A2

 東南アジアが原産のタロイモ類の仲間で、サトイモ科の植物。

原産地はインドや中国、またはマレー半島[9]などの熱帯アジアと言われているが、インド東部からインドシナ半島にかけてとの説が有力視されている。少なくとも、紀元前3000年ごろにはインドで栽培されていたとみられている。

 日本への伝播ははっきりしていないが、イネの渡来よりも早い縄文時代後期と考えられている。なお、鳥栖自生芋(佐賀県鳥栖市)のほかに、藪芋、ドンガラ、弘法芋(長野県青木村)と呼ばれる野生化したサトイモが、本州各地にあることが報告されている。・・・伝播経路は不明であるが、黒潮の流れに沿って北上したと考える研究者がいる。

 日本の食文化とサトイモの関わりは関係が深く、古い時代から月見の宴などの儀礼食に欠かさない食材で使われており、サトイモを餅の代用にした「餅なし正月」の習俗も日本各地で見られた。・・・

 熱帯のアジアを中心として重要な主食になっている多様なタロイモ類のうち、最も北方で栽培されている。栽培は比較的容易である。水田などの湿潤な土壌で日当たり良好で温暖なところが栽培に適する。原産地のような熱帯の気候では多年生だが、冬が低温期になる日本では一年草になる。日本では、一般的に畑で育てるが、奄美諸島以南では水田のように水を張った湛水で育てている。・・・

 昭和30年代ごろまでは、高知県熊本県(五家荘)などでは山間地での焼き畑輪作農業により栽培されていた。

⑵ さといも(サトイモ・里芋)の産地|全国、都道府県別生産量(収穫量)の推移/グラフ/地図/一覧表|統計データ・ランキング|家勉キッズ (ieben.net) 

https://ieben.net/data/production-vegetables/japan-tdfk/s-satoimo.html

⑶ 里芋日本の食文化と関わりの深い伝統野菜 - びお編集部 | びおの珠玉記事 | 住まいマガジン びお (bionet.jp) 

https://bionet.jp/2019/11/06/satoimo/

 里芋の原産地は、インド東部からインドシナ半島にかけてという説が有力です。少なくとも紀元前3000年ごろにはインドで栽培されていたようです。

 そこから、原始マライ民族の移動とともに、フィリピン・ミクロネシアポリネシア・オーストラリア・ニュージーランドに至る太平洋一帯に広がりました。現在でも「タロ(タロイモ)」として利用されており、多くの民族・地域で重要な主食となっています。・・・

 日本への渡来については、紀元前に中国から渡来したという説と、南方から太平洋諸民族の渡来により伝えられたという説があります。渡来時期ははっきりしませんが、稲の渡来(縄文晩期)より古いとされています。

 日本で稲作が始まったのは弥生時代ですが、それ以前、縄文時代に焼き畑農業が行われており、その中心作物は里芋で、里芋は稲作以前の主食だったと考えられています。

 里芋は、「ウモ」とか「イエツイモ」と呼ばれていました。・・・

 里芋の記録として最も古いものは『万葉集』にあります。「蓮葉(はちすば)は かくこそあれも おきまろが いえなるものは 宇毛之葉にあらし 長意吉麻呂(ながのおきまろ)」・・・

 奈良・京都を中心とした関西地方では、お雑煮にお餅とともに里芋を入れます。鹿児島など地方によってはお餅は入れず、大きな八つ頭だけ、というところもあるようです。

⑷ メラネシア - Wikipedia 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2

     

 メラネシアでは根菜農耕でヤム芋タロイモなどの芋類を栽培し、主食としている。

 メラネシアの先住民はおそらく今日のパプア系の祖先に当たる人たちであったと考えられる。彼らは数万年前にニューギニア島を占め、放射性炭素年代測定によれば少なくとも3万5千年前にはメラネシアの島々、おそらく一番東はソロモン諸島やその東の小さな島々にまで到達した。そのことは、同時代の遺跡からニューギニア原産の有袋類(クスクス)や黒曜石などが多数発見されていることから推定できる。

 約4000年前、ニューギニア北部やニューギニア東方の島々において、オーストロネシア語族の人々が先住のパプア系の人々と接触したと思われる。

⑸ ローカルフード;主食編 | ミクロネシア連邦 ポンペイ州観光情報 (ameblo.jp) 

 https://ameblo.jp/imattigo/entry-10497666876.html

 昔から食べられている主食はタロイモ、ヤムイモなどイモ系ですが、今は米もよく食べます。

 これらヤム、タロ、バナナなどの主食たちは調理方法も様々。バナナと一緒に煮込まれたり、ココナッツミルクでクリーミーに仕上げられたり、発酵させて酸味を楽しんだり。

⑹ タロイモ - Wikipedia 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%A2

 ポリネシアでは、タロイモから作るポイというペースト状の食品が主食とされていた。また、ハワイではタロは「カロ」(kalo) と呼ばれて、伝統料理に豚肉をカロの若葉で包んで蒸し焼きにするラウラウという料理があり、もともとハワイ先住民の神話では祖先のハーロアの死産した兄弟からタロイ モができたとされて、大切にされてきた。

 古代マレー地方が原産と考えられている。

       

⑺  ポイの伝統|ハワイ州観光局公式ラーニングサイト (aloha-program.com) 

 https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/390?course=1

 ハワイアンの主食といえばタロイモ(ハワイ語でカロ)。

 ポリネシア全体でタロイモは珍重されてきましたが、ハワイにおけるタロイモの重要性は、他の島々のそれを遥かに凌ぐもの。一時は300種以上のタロイモがハワイで作られ、今も80種が栽培されています。

 中でもタロイモを蒸してペースト状にしたポイが、古来ハワイアンの大好物でした。

         

⑻ 【台湾】九份・基山街で食べ歩きの定番!地元民に愛される「阿蘭草仔粿」の草餅とは | TABIZINE~人生に旅心を~ 

 https://tabizine.jp/2019/05/15/258421/

 草仔粿(チャウアコエ)とは、日本の草餅やよもぎ餅のようなスイーツ。春の七草の一つであるゴギョウを練りこんだもちもちの草餅のことで、台湾では伝統的なおやつとしてお正月や帰省のお土産にするそうです。・・・

 あっさりとした小豆が、甘すぎず食べやすいのが特徴。生地には、もち米とタロイモを使用しているので日本の草餅よりもお餅が柔らかくモチっと感が強い印象です。

      

⑼ 芋圓 - Wikipedia 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B%E5%9C%93

 芋圓(うえん)は蒸して柔らかくし潰した里芋に水及びサツマイモの粉もしくはジャガイモの粉を混ぜて成形し、再度茹でて作る。芋の食感はサツマイモの粉を使うと弾力のあるもの、ジャガイモの粉を使 用すると柔らかいものが出来上がる。潰した里芋の色により、芋圓の色は紫もしくは灰色のものがある。

        

⑽ 芋餅 いももち レシピ >> 中国茗茶 翠泉 (plala.or.jp) 

 http://www13.plala.or.jp/chinatea-suisen/cake/index10.html

 中国風「芋餅 いももち」。中国では、このようなお菓子をよく食べるようです。ほっくり甘いサツマイモを使い、素朴な味に仕上がりました。材料:さつまいも・卵黄・・小麦粉・砂糖  

        

⑾ いももち - Wikipedia 等

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%82%82%E3%82%82%E3%81%A1

① 北海道の「いももち(いも餅)」別名「いもだんご(いも団子)」:明確な区切りは無いが、焼いたもの(味付けしたもの)を「もち」。汁に入ったもの(味付けしていないもの)を「だんご」とも呼ばれる。皮をむいて火を通した(茹で・蒸す)ジャガイモを潰し、これにジャガイモ澱粉、又は片栗粉を加えてよく練り上げ、小さな丸餅や団子状に整形し、餅と同様に焦げ目が付くまで焼きあげる。

② 和歌山県高知県の「いももち」:通常の餅米で作る餅に蒸したサツマイモを混ぜてつきあげる。中に餡が入り、きな粉をまぶしたものがポピュラーである。通常の餅より柔らかく、時間が経つと自らの重さで変形してゆくほどである。食感もなめらかである

③ 岐阜県の「いももち」:通常米を炊く要領で、皮をむいた里芋とうるち米を一緒に炊き上げる。炊き上がったものを棒などでつぶして混ぜ合わせ、それを丸餅形に整形する。すりおろした生姜と醤油を混ぜて作ったタレで餅を味付けして焼き上げる。

④ 鹿児島県や宮崎県の「ねりくり」: 茹でたサツマイモと餅をつき混ぜて作る郷土料理で、和歌山県高知県の「いももち」に似ている。

⑤ 佐渡の「いももち」:米がとれず、さつまいもで代用していた佐渡の伝統食で、現在でもおやつとして定番のスイーツで、市内のスーパーでも売られています。ふかしたさつまいもに砂糖と小麦粉を少し加えて短冊状に形成し、乾燥させたものです。

 

4.ベマ族のイモもち

 2020年2月8日に初回放送し、2021年12月28日の再放送を見たNHKBSの「謎の民『哀歌 山の民、山の神』」では中国甘粛省四川省チベット高原に住むベマ族のジャガイモを突いて作るツーバー(餅)を紹介していました。

 木臼を木杵で撞いてジャガイモもちを作るので、臼は日本とは異なる横臼、杵は日本と同じ横杵で、「じゃがいものツーバー」は俳優の満島真之介さんによると中国に何回もきているけど「ベスト3に入る」というおいしさという評価でした。

 文字を持ないベマ族の歌、「美しい山河我らはお借りする 人生は来世への旅路

草木の命と同じで儚い 美しい山河は我らのものにあらず 我らはどこから来てどこへ向かうのか 悲しい世を生きてきた 万物は我らのものにあらず 我らはこの世の客人いつの日かここを去る はじまりの場所にかえるだけ」という歌は、山からこの世に降り、また山から天に帰るという「神山天神信仰」を示すとともに、いずこからきてチベット高原の東端に住むようになり、またその先祖の地に帰りたいと願うベマ族の歴史を示している可能性もあります。

 ベマ族は氐族(ていぞく)の末裔とされ、「麻の畑を有し馬・羊・漆・蜂蜜を特産」とし、五胡十六国時代の4世紀には長安に進出して「前秦」を建国し、漢族や匈奴、羯、鮮卑と争い、中国の北半分を統一しますが、淝水(ひすい)の戦いで東晋に大敗し、分裂して滅びます。

 鳥の羽を挿した帽子をかぶるのは、わが国の烏帽子(えぼし)=カラス帽子の正装と同じ宗教思想を示しており、土壁・木板で石を載せた屋根、樹皮を使った草鞋づくり、囲炉裏の火を囲む風習、山の神信仰と神と交信する祈祷師、山の神を宿るマージョー(木のお面)を被り邪悪な鬼を追い払う踊りなど、何か懐かしさを感じます。

 茹でただけで美味しいジャガイモをわざわざ撞いてもちにしてお汁に入れて食べるという食文化は、ジャガイモを使うようになる前はタロイモやヤムイモを使ったイモもち食やもち米を蒸して突いたコメもちを食べていた伝統が伝わった可能性が高く、「突きもち」であることからみて漢民族系というより、東南アジア系の可能性が高いと考えます。

 なお、もち食好きの私は、イタリア料理のニョッキ(ジャガイモと小麦粉でつくるダンゴ風パスタ)が大好きですが、「元々は現在のようにジャガイモやカボチャで作るものではなく、小麦粉を練って作っていた。ジャガイモのニョッキが作られるようになったのは、16世紀の後半に南米のアンデス山脈原産のジャガイモがヨーロッパに持ち込まれ、17世紀になって、イタリアでも栽培されるようになってからである」(ウィキペディア)と同じであり、ジャガイモがこの地に伝わってから、材料が他のイモから置き換わった可能性が高いと考えます。

 日本人のルーツを探るためには、東南アジアから中国にかけての少数民族タロイモ・ヤムイモ・もち米・赤米・ソバなどのDNAの調査が求められます。また、各地の民族のイモもちの伝承やイモ栽培などについては、若い世代の人たちで統一調査マニュアルをつくり、各地にいる日本人に協力を求めて共同調査・研究ネットワークを作って欲しいものです。

 

5.東アジアの米もち食

 「図2 モチイネの栽培圏」(再掲)と「図6 もち米の分布」(後掲)は範囲が異なりますが、「突きもち」の文化はミャンマ―・ベトナムにはあることが確実で、ネットで調べた限りでは米を主食とする南インドバングラデシュブータンにはもち食がなく、ラオス・タイ・カンボジア・台湾・中国・韓国は「練りもち」のようです。

          

 ウィキペディアでは「餅は中国、朝鮮、東南アジアなどに多くの種類がある。古くは主に小麦を粉にして平たく固めてから加熱した粉食のことを指していたが、米、大麦、粟、トウモロコシなど他の食材を用いた粉食のことをも含めるようになった。・・・ここでいう練り餅は、主にもち米を粉にしてから湯を加えて練る方法で作るものを指し、餅=搗き餅とする日本では一般に団子と呼ばれる」としています。

 なお、「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説・稲作伝搬説」が根強く、伝統的に「和魂漢才」の拝外主義傾向の根強い知識人・官僚のわが国では、中華思想の中国人研究者の「稲作長江起源説」「こめ食文化中国起源説」などの支持が見られ、紹介したウィキペディアやNHKやなどにもその影響が見られますが私は誤りと考えています、要注意です。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」「26 縄文農耕についての補足」「28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」「55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」参照

 後述の中国の小麦粉でつくる「餅」と米粉でつくる年糕(ねんこう)の違いをみると、米粉の「練りもち」のルーツは東南アジアの可能性が強く、わが国の「突きもち」とは異なる食文化です。

⑴ アジアのもち分布 | NHK for School

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005402642_00000

 もち米は稲の突然変異で生まれました。中国、東南アジア、韓国、日本、東アジアの広い地域で、祝い事や祭りなどに餅を食べる文化が受け継がれています。

 中国では、もち米のことを江米(チャンミイ)と言います。チャンは川、ミイは米です。現在、中国のもち米の大半は長江流域で栽培されています。・・・長江の流域で稲作が始まったという説もあります。

       

⑵ ミャンマーの餅、赤紫色のコーボウッ - Enjoy Yangon ヤンゴン, ミャンマーで暮らす旅する (enjoy-yangon.com) 

https://enjoy-yangon.com/ja/enyanblog/362-myanmar-mochi-khawpoke

 家に帰って葉っぱを広げると、赤紫色をした物体が現れる。井村屋のあずきバーにそっくりな色だ。赤紫色をしているのはもち米の一種であるンガチェイを使っているから。こうした色の米は、日本では古代米とか言われている珍しい米だが、ミャンマーでは普通に食べている。もちろん、白いもち米もあるが、なぜかコーボウッでは赤紫色のものが多い。

       

 生乾きのコーボウッは日本のモチと同じで、そのままだと固くて食べられない。1.5cmくらいの厚さに切って油で揚げるのがミャンマースタイルだ。口の中に入れると、もち米の粒の感触がほんの少し残っている。そして、独特の風味をほのかに感じた。これはかなりいける。日本のモチはもち米以外には何も入ってないが、ミャンマーのモチにはもち米以外に何かが入っている。何人かに聞くと、塩と油とゴマだという。

 こちらはピンレブーの市場で売っているコーボウッ。形が日本の丸餅にそっくり。それに、油で揚げるのではなく炭火で焼いていた。

      

 ところで、シャンではコーボウッのことはカオプックと呼ばれている。カオが米でプックが叩く(つく?)という意味だという。このカオプックが訛ってコーボウッとミャンマー語ビルマ語)化したわけだ。他の呼び方(こちらが正式な名称らしい)で、カオタムンガというのがある。カオが米、タムが叩く(つく?)、ンガがゴマという意味という。やはりゴマが入るのがコーボウッの特徴のようだ。

 また、カチンにも独自のモチがある。カチン語(ジンポー語)ではパパと呼ばれている。色も白と紫色の2種類ある。ゴマをふりかけたり、中にヤシ砂糖を入れたり、スィードーフ(腐乳の一種)をつけて食べたりするという。

⑶ 意外にハマるタイのローカルおやつ「カノムタイ」5選と簡単レシピ | Guanxi Times [海外就職] (wakuwork.jp) 

https://wakuwork.jp/archives/6111

 もち米(カオニャオ)、塩、黒豆、バナナ、そして定番のココナッツミルクを蒸したものがバナナの葉で包まれているのが一般的。ほんのりとした甘さで食べやすいのが特徴です。

 屋台でも良く売っているので、どこでもトライできる手軽さがポイントの一つ。

       

⑷ ベトナムのおもち料理、バインザイと白玉ぜんざいを食べてみた。 | 海外転職・アジア生活BLOG (iconicjob.jp) 

 https://iconicjob.jp/blog/vietnam/really_want_mochi_thatsall

① ベトナム語で「BANH DAY(バインザイ)」。これがベトナムのお餅。ベトナム人の奥様を持つ日本人スタッフ曰く、「味は日本の餅とまったく一緒」だそうですが日本と違う点は、ハムを挟んで食べるのだそうです。

         

② Che Troi Nuocとは緑豆餡が入っている白玉に、ココナッツミルクをかけて食べる、温かいスイーツなのだとか。ココナッツミルクをかけるデザートは、東南アジアならではで美味しそうです。・・・要するにベトナム風ぜんざいなのですが、食べてみると…日本のお餅に引けを取らないのどごしと滑らかさ!もちもちした食感はお餅と白玉の中間で、程よい弾力がします。

      

⑸ 【保存版】ラオスに行ったら絶対食べておきたい定番おすすめローカル料理はコレ!|Trip-Nomad 

 https://trip-nomad.com/food/laos-localfood/

 「カオ・チー」は、ラオス版五平餅。

 お米を平べったくして棒にさして、炭火でこんがり焼きあげます。見た目は、笹かまみたいです。

       

⑹ នំផ្លែអាយ カンボジアのデザート ノムプレアイ | カンボジアツアーガイドローズのブログ (ameblo.jp) 

 https://ameblo.jp/sakurose1225/entry-11117551228.html

 このデザートはカンボジア語でノムプライアイと言います。周りは餅で中に砂糖やしの砂糖が入っています。日本人の口にピッタリです。

       

⑺ 日本の「餅」と中国の「餅」 - FoodWatchJapan 

 https://www.foodwatch.jp/chnandjpn0015

 日本の「餅」と中国の「餅」は、字は同じでも、意味は全く違います。中国の「餅」は「ピン」「ビン」(bǐng)と呼ばれます。ピンは小麦粉をこねて平らな形にし、焼いたり、蒸したり、油で揚げたりしたものの総称です。無発酵と発酵、その中間的なものなどさまざまな種類があり、地域によっても多様な餅があります。それらは調理法によって、焼餅、油餅、煎 餅、菜餅などに分けられます。

        

⑻ 年糕 - Wikipedia 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E7%B3%95

 年糕(ねんこう、中国語北京語:ニェンガオ)とは、中国の旧正月春節)に食べられる餅である。中国語で、一年成長したという意味の「年高」と読みが同じであるため、縁起物とされる。除夜に神霊や先祖に祀られ、その後春節で食される。この習慣は、紀元前の周の時代から始まったとされる。

 餅は通常もち米粉から作られるが、地域によって様々なバリエーションがある。

        

⑼ 韓国の餅「トッ」特集 | ソウルナビ (seoulnavi.com) 

 https://www.seoulnavi.com/special/5032626

 ある説では、紀元前100年くらいの楽浪郡の遺跡から蒸し器のようなものが発見されたことから、その当時ヒエやキビ、小麦などを使って蒸した餅が作られていたのではないかという推測がされているそうだし、また紀元後1~2世紀くらいの蒸し器が半島の何か所かで発掘されたり、高句麗時代の古墳の壁画に蒸し器で何かを蒸しているような絵が見られたり、新羅時代の青銅製の蒸し器が発掘されたりと、いくつかその手がかりになるようなものが発見されているよう。・・・

        

 韓国で「トッ」(餅)と呼ばれるものは種類がとっても豊富。原料や作り方によってホントに様々な種類がありますが、大きく分けると4種類に分類されるとか。・・・

・蒸した餅:「餅の種類の中で、最も古くから作られていたのではないかといわれる餅。穀物を挽いて粉にし、せいろなどを使って蒸し器で蒸して作られます」

・蒸してついた餅:「もち米やうるち米をそのまま、または挽いて粉にしたものに水を足したりして蒸したあと、杵などでついたりこねたりしてから食べやすい形に整えて作られる餅」

・粉をこねて茹でたり蒸したりした餅:「ダンジャ(団子)、またはキョンダン(瓊團、瓊団)」

・焼いた餅:「もち米など粘りのある穀物の粉に水分を加えながらこね、形を整えてから油で焼き付けて作られる餅」

⑽ 餅 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85

 中国の広東省福建省江西省などや台湾に住む客家湖南省西部の漢族や貴州省ラオスなどのミャオ族(モン族)などには杵と臼で作るつき餅がまだ残っている。餅つきは中国語で「打糍粑」(ダーツーバー、dǎ cíbā)と称し、親戚や近所の人が集まって行う行事となっている。

 この他に、蒸したもち米を使うものとして、中国にはもち米を底の浅い器に敷き込み押し固め、半分潰したようにするものもあり、「糯米糕」(ヌオミーガオ)、「糯米糍」(ヌオミーツー)などと呼んでいる。加工法としてはぼた餅(お萩、半殺し)に近い。いずれも「餅」という字を用いないのは、「餅」は主に小麦粉を使って円盤状に加工した食品を指すためである。

⑾ 鏡餅、お雑煮……お正月に欠かせない「もち」、一体いつから食べられている?(tenki.jpサプリ 2016年12月30日) - 日本気象協会 tenki.jp 

 https://tenki.jp/suppl/okuyuki/2016/12/30/18741.html

 そんなおもちの故郷は、なんと東南アジア。はるか昔、海を渡って稲作が伝わるとともに、おもちを作って食べる文化も伝わったと言われています。

 今でも東南アジアには、「おもち」や「おこわ」に似た料理やお菓子がたくさんあるようですよ。・・・

 韓国のおもち「トック」も、スーパーマーケットなどで手に入りやすくなりましたね。・・・

 こうして見ると、日本の多くの地方では「つき餅」が主流。ですが、粉から作る「ねり餅」も、多くの国で食べられているのですね。・・・

 国や地方によって「つき餅派」と「ねり餅派」があるのは、どうしてなのでしょうか? おもちが伝播していった過程で、そうなったのか?食べ方の好みや、お米の品種(硬さや粘り気)などが影響したのか? このあたりの事情も、調べてみると楽しそうです。

 

6.日本の「イモもち、コメもち、イモ・コメもち」と「突きもち、練りもち」

 日本のもち文化は、「コメもち、イモ・コメもち」の「突きもち」が中心で、「練りもち」は一般的には「だんご」になります。

 ウィキペディアは、コメ食は「ねり粉食(水練りもち)→粒食→突きもち食・練りもち食」の順番とし、コメを蒸す道具は古墳時代からとし、「もち」の語源は「モチヒ・モチイヒ(糯飯、黐飯、毛知比)」から「長持ちするイイ」で、神への供物=御饌(みけ)の「粢(しとぎ:生米を水に浸し柔らかくし、つきつぶして作る)」からきているとしています。

 しかしながら、里芋が「宇毛:ウモ」(万葉集)と書かれ、「モチヒ」が「毛知比」(倭名類聚抄)と書かれ、「モ」に「毛」字が当てられているていることをらみると、「毛が生えているサトイモ」からの漢字使用と思われ、「チ」は「乳」の可能性があり、「ウモ(里芋)チ(沖縄弁で乳房)」は「里芋を練った乳房のようなむっちりとしたウモチ」の可能性もあります。

 私が過ごした岡山・姫路・京都など関西では雑煮に必ずサトイモを入れることや、餅を使わない雑煮を作る地方もあり、西日本の丸餅が角餅より先行し、南方系の「里芋の輪切り」からきているという説からみて、日本のもち食文化は、サトイモ食からの「もっちり」「もちもち」大好きから来ている可能性が高いと考えます。

 なお、日本のサトイモ(後にサツマイモ、ジャガイモに転換)ともち米を混ぜて突く「突きもち」文化は、「イモもち」→「コメもち」(コメ食を祝う特別な行事食)→「イモ・コメもち」(イモによる増量、代用)へと変化したと考えます。

⑴ 餅 - Wikipedia

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85

① 「餅」という名で呼ばれるものには、粒状のもち米を蒸して杵で搗いた搗き餅(つきもち)と、穀物うるち米、アワ、キビなど)の粉に湯を加えて練り、蒸しあげた練り餅(ねりもち)の二種類に大別される。沖縄県を除く日本で「餅」といえば一般にもち米からなる搗き餅を指し、練り餅は「団子」と区別されることが多い。

② イネ科の植物の果実である穎果は小粒で、1つ1つが籾に包まれ、さらに加熱加工しにくい果皮が包み、これらの除去を大量に行う必要がある。このため、食用とするには技術と手間がかかる。これは穀物を杵などで叩く(「搗(つ)く」という)ことで除くことができる。人類史上、このような加工の初期段階では、コメにおいてもおそらく他のイネ科の穀類と同様に粉状にし、水とともに練ってそのまま食したと考えられる。やがてコメの煮炊きが始まり、さらにコメは小麦や大麦などよりも吸水性がよいことから粒食が発達することになるが、原始の形のコメの食法は神饌として残り、日本ではこれを「粢(しとぎ)」と言った。日本語の「モチ」の語源について、古語の「モチヒ」「モチイヒ」(糯飯、黐飯)から、または望月の形状から、など諸説ある。

③ 考古学の分野では、間壁葭子が古墳時代後半(6世紀頃)の土器の状況からこの頃に蒸し器の製作が社会的に普及したと判断し、日常的に蒸す調理による食品の種類が増し、米を蒸す事も多くなり、特に餅を作る事も多くなったと考えている。・・・佐原眞の『食の考古学』(1996年)によれば、6世紀時点の西日本では土器の状況から蒸す調理より煮炊き中心で、蒸す食物(餅も含む)はハレの時に用いられたとし、むしろ東日本の方が蒸す調理用土器が普及していたとしている。

④ ・・・『豊後国風土記』(8世紀前半)には次のような内容の話が語られている。富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的となった餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり飛び去り、その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落したとされる。この記述は、白鳥信仰と稲作信仰の密接な繋がりを示す証拠として語られ続けている。また、この記述自体が古来から日本で白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている。

⑤ 10世紀中頃成立の『和名類聚抄』巻十六における表記としては、「毛知比=モチイ」とあり、モチイイ(長持ちする飯=イイ)から簡略されているが、まだモチの読みではない。

⑥ 日本においては、古来より神への供物(御饌の『粢(しとぎ)』:はんごろしやきりたんぽ等と同様米粒をつぶした供物から発展した)として祭りや慶事の際に用いられ、江戸時代には婚礼、小正月節句、不祝儀、建築儀礼(棟上げ)に供え、贈答用として利用された。

⑵ 世界の人々の食生活 1 主食の話から始はじめよう

 https://www.town.kadena.okinawa.jp/kadena/soukan/book/90.html

 はるか大昔、琉球の島々をふくめた日本列島には、稲はありませんでしたから当然、お米は食べていませんでした。稲が伝わる前の琉球の人びとは、何を中心に食べていたのでしょうか。研究者の間では、タロイモやヤマイモを主に食べていたという意見があります。もしその意見が正しいとすれば、琉球の島々は、東南アジアの文化圏の一角をしめていたことになります。

⑶ 地域で違う餅の形:農林水産省 (maff.go.jp) 

 https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/2001/spe2_02.html

 日本の東側と西側で形が異なり、その境目は岐阜県関ケ原辺りになります。関ケ原より東の都道県は角餅、西の府県は丸餅が一般的。ちょうど境界線上にある、岐阜、石川、福井、三重、和歌山の5県では、角・丸2種類とも使われているところもあるようです。

 日本の餅は、もともと丸い形をしていました。角餅の由来は諸説ありますが、江戸時代に、平たく伸ばした餅を切り分ける方法が生み出され、これが角餅となりました。角餅は運搬に便利なことから、江戸から徐々に広まっていったとされています。

     

7.臼と杵

 最近、アフリカ東部の高地湖水地方のイシャンゴ文明では9万年前の骨製銛が見つかり、これまで20000~8000年前頃とされていた穀類を粉にする石臼・粉砕用石器についてもさらに古いものが見つかる可能性がありますが、日本でも旧石器時代の石臼(石皿)と磨石(すりいし)が発見されており、「定住化の普及した縄文時代全期を通じて出土し、特に早期以降の集落遺跡で多く出土する」とし、「ドングリなど堅果類の製粉など植物加工をはじめ、顔料や土器の材質となる石の粉砕などの用途が考えられている」(ウィキペディア)とされています。

 石臼(石皿)をドングリの殻を外し、ドングリ粉を作るための道具とするのは日本の考古学者・歴史家のガラパゴス的解釈ですが、私は古くは木臼にイモ類や穀類を載せてイモもちを作ったり、陸稲やソバなどの籾摺りや精米、精白、製粉などに使用されていた可能性が高く、元々は木臼に木杵や磨石(すりいし)、叩き石で使用していた可能性が高いと考えていますが、木臼と木杵は弥生時代中期~後期(紀元前3~2世紀)のものしか発見されておらず、旧石器・縄文時代のものは見つかっていません。

 下記の「表1 農業・食物の倭音倭語・タミル語・呉音漢音漢語の比較表」に示すように、農業・食物関係の名詞は、「臼(うす)」がドラビダ語「usu(ウス)」に対し、呉音漢語「グ」、漢音漢語「キュウ(キウ)」であるように、ドラヴィダ語との類似性が高く、ヒトやコメのDNA分析と合わせてみても、農耕開始は弥生人(長江流域中国人や朝鮮人)によるものではないことが明らかです。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「26  縄文農耕についての補足」「28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」「55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」「29 『吹きこぼれ』と『おこげ』からの縄文農耕論」「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「45 縄文人 ドラえもん宣言」「46 太田・覚張氏らの縄文人『ルーツは南・ルートは北』説は!?」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」等参照

 なお、私はニジェールのひょうたんボウルを見て縄文土器ヒョウタン容器を模して作られたのではないかと考えていますが、下掲の唐古・鍵遺跡の臼のデザインは実用的というより縄文土器的デザインであるとの印象を受けており、縄文時代に木臼があった可能性が高いと考えており、発掘を期待しています。

         

⑴ 臼 - Wikipedia 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC

① 臼にはひき臼(碾き臼、挽き臼)とつき臼(搗き臼、舂き臼)の2種類がある。英語ではひき臼は「Millstone」、つき臼は「Mortar」と呼ばれる。

 日本語の「臼」の意味は非常に広く、ひき臼(すり臼)もつき臼も「臼」の字で表現される。中国語では「臼」はつき臼であり、ひき臼は「磨」の字により表現する。

② ひき臼は大きく石板の上で石塊を往復させるサドルカーン(英: saddle quern)と2枚の円板を重ねて片方を回転させるロータリーカーン(英: rotary quern)に大別される。

 サドルカーンは「鞍形石皿」と訳されるもので、学術上は磨臼とも呼ばれる石皿の範疇である。大きな板状の「石皿」と、石皿の幅に合わせた長さの棒状の「磨石」が一対になっており、石皿の上に少量の穀物を載せ、磨石の棒を押し引きする運動によって磨り潰す。

③ 碓(たい)、唐臼(からうす)、踏み臼(ふみうす)は、中国で発達したつき臼の一種で、てこの原理などを利用して足で踏んで杵を動かすことによって精米や製粉、餅つきを行う足踏み式の臼。有史以前に日本にも伝来し、近年まで使われていた。東南アジア等にも広く普及し使われている。

④ もともと臼にはすり潰す機能があったが、日本では石製の臼から木製の大型の臼が一般的になり、上下につく機能が強化されて処理能力は増大した反面、すり潰す機能が失われたため手頃な発明としてすり鉢が出現したといわれている。

⑵ 杵 - Wikipedia 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B5

① 形状は大きく分けて竪杵(たてぎね)と横杵の2種がある。・・・大阪府水間寺奈良県三重県の伊賀地方などでは現在も千本杵を用いた餅つきを行っている。

② 杵本体と柄が垂直に交わる槌状の横杵は、打杵(うちぎね)ともいい、江戸時代になってから使用されるようになったと思われてきたが、広島県の草戸千軒町遺跡で室町前半のものが発見されており、日本で使用開始は14世紀から16世紀に遡るとされる。

③ 穀物の穂を臼に入れ、それを杵で打つことで臼と穀物とや穀物同士が摩擦され脱穀される。もみすりにおいても同様に、籾を臼に入れ、それを杵で打つことで臼、もみ同士が摩擦され籾摺り(米においては精米)される。・・・また、打つことに適することから餅をつくことにも用いられる。日本では弥生時代から用いられ、現代では脱穀もみすり用途よりも餅つきの道具としてなじみ深い。

④ 中国では、広西チワン族自治区チワン族福建省のシェ族が「粑槌」と呼ばれる千本杵と「粑槽」と呼ばれる長方形の飼い葉桶に似た臼を用いて餅つきを行う伝統を残している。湖北省湖南省貴州省の漢族や、客家やミャオ族は横杵を用いて餅つきを行う伝統を残している。

⑶ 倭国について(3) 米、稲作、畑作、農具: Selfpit-1 (way-nifty.com) 

  http://selfpit.way-nifty.com/selfpit/2009/03/post-77fd.html

   

⑷ 縄文ノート28 ドラヴィダ海人・山人族による日本列島稲作起源

 下表に明らかなように、畑作・稲作・食事関係のタミル語(ドラヴィダ語の一部:アーリア人に支配されたインドの原住民)と日本語は符合しており、ブータンなど東インドミャンマー高地にはインダス文明を作り上げたドラヴィダ族が支配を嫌い、自立を求めて移住した可能性が高いのです。

8 「もっちり・もちもち・ねばねば」好きの食文化

 鴻上尚史氏司会で、世界各地出身の外国人たちがスタジオで意見を述べるNHKの「COOL JAPAN〜発掘!かっこいいニッポン〜」ではよく日本食の「もっちり・もちもち・ねばねば」が話題になっていましたが、外国人にはよほど珍しいようです。

 下のホームページ「もっちりへの考察」では、日本人の由来の「もっちり」「もちもち」「ねばねば」食の由来をもち米でつくる餅に置き、そのコメのルーツを長江流域とし、「弥生人」が日本列島に持ってきたかのように書いていますが、佐藤洋一郎総合地球環境学研究所名誉教授によるRM1遺伝子の国別分布(図8)では、日本はa・b・c型で、中国・朝鮮にみられるd・e・f・g型がないことからみて、d・e・f・g型が中国で生まれる前にインド東部・ミャンマー高地からa・b・c型が早い段階に持ち込まれた可能性が高いと考えます。―「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」参照

             

 東南アジアから中国・雲南にかけての山岳地域で「もっちり」「もちもち」「ねばねば」大好きな食文化が生まれたのであり、そのルーツは下掲の図9の「納豆」の分布とも重なります。

 日本人の「もっちり・もちもち・ねばねば食文化」は、「突きもち」から生まれたのではなく、東南アジア・南太平洋地域のサトイモ食と東南アジア・雲南山岳地域のコメもち・納豆食を受け継いだものであり、私はそのルーツは西アフリカ熱帯雨林のイモもちに遡ると考えます。

⑴ もっちりへの考察 (bimikyushin.com) 

   https://www.bimikyushin.com/chapter_8/ref_08/mochi.html

① 世界の国々と比較すると「もっちり」は日本人の好む特徴的な食感であることが分かってくる。・・・他国の人や、他国の食文化圏で育った人であれば、日本の「もっちり」が特別な食感であることに気付くに違いない。なぜなら日本人の感じる「もっちり」を的確に言い表す的確な言葉が外国語にはなかなか見つからないからである。

② 「もっちり」,「もちもち」は、語感から分かるように、もともとは餅に対する食感を表現するための言葉であったと考えられる。こうした餅の食感は、餅米を搗いて粘りのある柔らかな状態にすることによって生まれる。

     

③ さて日本人の好む「もっちり」食感は、主食である米に大きく依存したものであることについては理解頂けたかと思うが、他にも米を主食とする国々はアジア圏に多く存在する。米食文化圏のなかでも特に日本人が「もっちり」を好むようになったはなぜなのか。それは日本で栽培されている米の種類や特徴に理由を求める事が可能であろう。

 先にジャポニカ米とインディカ米の違いについて述べたが、世界の米生産量における占める割合についても検討しておく必要がある。その割合を見るとジャポニカ米は世界の米生産の15%ほどしかなく、世界的な主流品種はインディカ米なのである。つまりジャポニカ米を好む嗜好の人々は世界的に見ると少数派なのだ。こうした日本人の米への嗜好の偏りから考えるならば、日本人独特の「もっちり」という食感も、当然のように世界的にみても少数派であり、特有の感覚であると考えられないだろうか。

④ 日本人の好む米の遺伝子を解析すると、それは長江流域にまで遡るものであることが科学的に明らかになった。・・・長江流域の気候は米作りに適した気候だったのだろう。さらには水耕栽培を行う為には豊富な水資源が必要になる。こうした好条件を兼ね備えていたのが長江流域であり、このエリアから太古に、我々、日本人は米と共に日本に移動してきた民族ではないかと言う説が近年では主流になりつつある。

 

⑵ 選科A活動報告「納豆と旅をする〜新たな時代に向き合う世界の果て〜」 – CoSTEP – 北海道大学 大学院教育推進機構 科学技術コミュニケーション教育研究部門 (hokudai.ac.jp) 

 https://costep.open-ed.hokudai.ac.jp/news/11593

 アジアには多種多様の納豆があり、韓国のチョングッチャン、中国湖南省の豆鼓、ミャンマー・ナガ産地のチュシュエ、ミャンマー・タウンジー碁石納豆、タイ・チェンダオの蒸し納豆、タイ・チェンマイのせんべい納豆、インドのバーリュ、ネパールのキネマなど、その数は日本人が想像しているよりも多いことがわかりました。

 そして、先ほど作成したマップに、アジアで作られている納豆の分布を重ねてみると、見事に一致! やはり納豆はアジアの辺境食である、ということが示唆されました。

         

 

9 日本のもち文化のルーツは西アフリカ熱帯雨林

 以上、世界のもち食文化を、「イモもち、コメもち、イモ・コメもち」と「突きもち、練りもち」のマトリックス(構造図)で整理すると次のようになります。

 

 考古学・歴史学は「出たとこ勝負」であり、遺跡や文献が「出てこないものはなかった」とするのが科学的であると錯覚している奇妙な学問で、理論物理学などとは異なりますが、それが非科学的であったことは、例えばシュリーマンのトロイ遺跡とか、日本の荒神谷・加茂岩倉遺跡で証明されています。ギリシア神話古事記大国主神話を後世の創作とみなす説こそ誤りであったことが証明されたのです。

 人骨や石器がでてきた南アフリカや東アフリカが人類発祥の地であるというのは、何の証明にもならないにも関わらず考古学・歴史学では常識のようですが、チンバンジーやゴリラの生息地が西アフリカ熱帯雨林であることからみて、私はこの地こそ人類が誕生した場所と考えています。

 そして、この地に住むY染色体E型人とY染色体D型の縄文人は分かれたのであり、西アフリカ原産のヒョウタンが縄文遺跡で見つかっている以上、人類移動とともにヒョウタン容器に入れられてのタロイモやイネ科穀類もまた、インド・東南アジアを経て、南太平洋諸島や台湾、日本列島に持ち込まれ、縄文人の主食となり、「イモもち」が生まれたと私は考えています。

 イネはアフリカの陸稲がインドのインディカ米となり、雨季に冠水する東南アジアの河川のほとりで水稲(ジャバニカ米)が生まれ、山岳地域で寒さに強いジャポニカ米となり、「もっちり・もちもち・ねばねば」好きのわが祖先たちは、寒さに強いサトイモタロイモ)ともち米・うるち米を選別して「海の道」を通って日本列島人に持ち込み、「イモもち・イネもち」の突きもちの食文化を育て、赤米の赤飯・おこわ文化を継承したと考えます。

 その証明に向け、さらに世界各地のイモ食・もち食の民俗学的調査と「もっちり」系のイモ・コメの遺伝子調査が求められます。若い世代の国際的なネットワーク調査に期待したいと思います。

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート141 魚介食進化説:「イモ・魚介、ときどき肉食」その2

 私が西欧中心史観の「肉食進化説」を批判するようになったのは、縄文社会研究で「縄文狩猟社会説」と「縄文人ドングリ主食説」に反発したことからでした。

 その出発点は、私などの戦後に育った世代の生活実感として、そもそも肉食はめったいないごちそうであり、瀬戸内海の沿岸では毎日のように魚介類を食べていたことや、夏休みに田舎に行くと、1か月の間、毎日網を持って従兄弟と川に行き、時々、海にも行き、キスやハゼを釣り、アサリ・ハマグリ・マテ貝などを獲っていた体験にあります。春には、毎年、親戚一同で潮干狩りに行くなど、川や海の幸は実に豊かだったのです。

 別の従兄弟たちとは和舟で艪を漕いで釣りをし、千歳空港でイタオマチプ(板綴り船)の展示をしていた秋辺得平氏(元北海道アイヌ協会副理事長)に出会い、「アイヌは漁民である」「沖縄のサバニと同じ構造」と聞いたことも、旧石器・縄文時代からの魚食文化に確信を持たせました。

 さらに、「栗(九里)よりうまい十三里」という江戸から十三里の川越のサツマイモの売り文句ではありませんが、私はサツマイモや里芋、山芋、ジャガイモなどの「イモ好き」であり、米などの穀類以前の主食がドングリ・クリであるとはとうてい考えられませんでした。播磨の母方の田舎で、十五夜の縁側のお供えが生の里芋であり、甘いダンゴではなかったのでガッカリしたことは子ども心に忘れられませんが、全国各地で同じように芋祭りが行われており、正月の丸餅の雑煮のルーツは里芋の輪切りという話もラジオで聞いて知っていました。また、昔はおやつとしてそら豆や大豆、葛湯やきな粉・はったい粉(香煎、麦焦がし)もよく食べていました。

 このように、昔の多くの日本人の生活や祭りなどの伝統からみて、人類の起源に遡ってみても「肉食進化説」は私にとては信じられるものではなく、「海辺の熱帯雨林人類進化説」「糖質・DHA食(イモ・マメ・魚介食)人類進化説」「縄文人イモ主食説」「縄文農耕鳥獣害対策狩猟説」などについてこれまで書いてきましたが、今回は「魚介食進化説」について補強しておきたいと考えます。

 

1 「肉脳」説から「イモ・魚介食脳」説へ

某球団の有名な監督は現役時代、脳みそが筋肉でできている「脳筋」と呼ばれていましたが、人類は石槍で狩りをし、肉食によってサルからヒトになったという「肉食人類進化説=脳筋説」がいまだにまかり通り、研究者・マスコミでも「脳筋派」が主流のようです。なお、この某有名監督は運動神経抜群であれこれ考えなくても打てたので、「脳筋」は彼をバカにしているのではなく「アホやなあ」がほめ言葉の大阪人にとっては愛すべき「すごいなあ」の呼び名であったのであり、私も好きでしたが・・・

 旧約聖書ユダヤ教の食物に関する戒律・カシュルートでは「ヒレやウロコがない魚を食べてはいけない」と書かれており、アフリカで大好物のナマズやサメ・エイ・イカ・タコ・エビ・カニ・貝類などを避けるからでしょうか、『サピエンス全史』の著者ユバル・ノア・ハラリ氏もまた狩猟大好き派の「肉食人類進化説」です。貝塚をよく知っている日本の歴史学者・考古学者は、「隠れ日ユ同祖説信者」「単なる翻訳研究者」ではないならば、石槍を持った男性中心の「狩猟進化史観」「肉食進化史観」に対し、異を唱えるべきでしょう。

ちなみに、「採集・狩猟・漁労(漁撈)」の語順についてインターネットで検索してみると、私などの化石世代が習った男中心史観の「狩猟・漁撈・採集」が6.4万件に対し、「採集・狩猟・漁撈」が16.9万件、「採集・漁労・狩猟」は30万件であり、女性・子ども中心の「採集中心史観」に変わってきていることは、世界の中で日本の歴史・考古学が最先端であることを示しています。

 

 「採集・漁労食中心説」の日本の縄文研究者こそ「魚介食文明」についてもっともっと発信し、ユダヤ・キリスト・イスラム教の西欧中心の「肉食人類進化史観」「男性進化主導史観」を覆し、全国各地の縄文遺跡の世界遺産登録を進めて「狩猟・殺戮・戦争文明史観」の人類史に変えるべきでしょう。若い世代の研究者に期待したいのですが、先輩たちの後追いの「閉じられた島国根性」の「重箱の隅研究」に明け暮れている場合ではないと考えます。「イモ」の研究者が世界で20人しかいない、というところから縄文研究をやっている場合ではありません。

 生活習慣病が広がり、異常気象による食料危機や工業化された大規模畜産による化石水の枯渇(アメリカ)やメタンガスの温室効果、放牧による森林破壊(アマゾン)や過放牧による砂漠化などが心配されている現在、間違いだらけの「肉食人類進化史観」に対し科学的な批判が求められ、イモ食や焼畑のソバ食、魚介食こそ重視されるべきと考えます。

 

2 ゴリラ、チンパンジーボノボ(ピグミーチンパンジー)、ヒトの食物の違い

 草食動物や肉食動物が進化せず、小さく弱くて樹上に逃げた雑食のサルからヒトに進化し、雑食の犬や鳥の知能が発達したことを見ると、頭脳が大きくなりその機能が発達した進化には、食事と生活の両方が関係しているのではないか、というのは子どもでもわかる推理ではないでしょうか? 肉食獣が一番かしこくはならなかったのです。

 体を大きくして肉食獣から群れを守り地上で暮らしほとんど樹上に登らないゴリラは「硬い木の葉や樹皮、根などを食べられるように頑丈な歯と胃を持ち、長大なそしゃく器官と消化器官を収める大きな体を発達させた」「地上にはセロリやアザミなど、水分に富んだおいしい草がふんだんにあり、マウンテンゴリラは一年中それらの草を食べて暮らしている」「ゴリラも甘い果実が大好き」「サファリアリや、樹上にフットボールのような形の巣を作るツムギアリ、お尻を上げてピコピコ歩くシリアゲアリなどをよく食べます」(山極寿一:ゴリラの好物って何? | どうぶつのくに.net (doubutsu-no-kuni.net)とされていますが、小さくて主に樹上で暮らし地上にも降りる脳容量は400gほどのチンパンジーボノボ(ピグミーチンパンジー)がゴリラよりも知能が高く、さらに脳容量1200~1400gもある人間との違いがどこにあるのでしょうか?

 

 

 このサル・チンパンジーボノボ・ヒトの主な食料の比較から明らかなことは、サル・ゴリラ・チンパンジーからボノボ(ピグミーチンパンジー)さらにヒトへの大きな飛躍は、魚介食にあるのではないか、と考えざるをえません。次に脳科学からみてみたいと思います。

 なお、チンパンジーボノボ、ヒトの違いは表3のとおりです。

 

3 脳の働きを支える物質と役割

 脳科学の発達はめざましく、図1・図2のように、脳の認知・記憶・分類・推測・判断・創造・想像などの総合的な働きを行う神経細胞の巨大なネットワークのメカニズムが解明されてきています。


 筋肉を増やすプロテイン(タンパク質サプリメント)を飲んでいれば、脳が活発に働くというのではないのです。

 表4は脳を構成する物質の働きを、ウィキペディアなどからまとめたものです。

 

 この表から明らかなことは、脳はタンパク質や脂肪で形成され、脳の神経機能はオメガ3脂肪酸やリン脂質、カルシウムなどにより機能を発揮し、糖質によって動きます。

 重要なことは、「DHAは精液や脳、網膜のリン脂質に含まれる脂肪酸の主要な成分で、脳の記憶装置の『海馬』に特に多い」「オメガ3脂肪酸(DHAなど)の欠乏により学習能力、視力の低下をきたす」「オメガ3脂肪酸は授乳期の赤ちゃんの脳や体の発育に欠かせない脂肪酸で、シーフードをたくさん摂取するところほど母乳内のDHAは高い」という点であり、人類の脳の発達にDHAを始めとした脳構成物質の摂取が欠かせなかったことです。

 なお、神経伝達物質ドーパミンについて、ウィキペディアは「運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などに関わる」「中脳皮質系ドーパミン神経は、とくに前頭葉に分布するものが報酬系などに関与し、意欲、動機、学習などに重要な役割を担っていると言われている。新しい知識が長期記憶として貯蔵される際、ドーパミンなどの脳内化学物質が必要になる」としており、「幸せホルモン」とも呼ばれています。―「縄文ノート107 ドーパミン からの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か」参照

 ボノボが疑似性的行為で親しくして対立を和らげ、ヒトがキス・抱擁で挨拶したり、ボノボが発情期とは関係なくセックスすることや、ボノボやヒトのメス・子どものおしゃべりや歌(音声コミュニケーション)、さらにはボノボの水浴や水中食物の採集、ヒト族の移動・拡散などをみると、「幸せホルモン・ドーパミン」により「楽しいことをする」ことが人類の発達に繋がった可能性が高いと私は考えており、それは必須アミノ酸トリプトファン食によって可能となったと考えます。

 

 

4 魚介食こそがヒトの脳の発達を支えた

 「表2 サル・大型類人猿・ヒトの主な食料」と「表4 脳を構成する物質と働き」とをまとめると、次の「表5」になります。

 

 

 

 表2と表5を合わせ、入手可能性を加えて検討すると、草食動物や肉食動物と較べて樹上のサルは果実・昆虫食によって知能を発達させ、ゴリラ・チンパンジーにはマメ食が加わり、ボノボとヒトはさらにイモ・魚介食によって脳の機能を高めた可能性が高いと考えます。

 

5 アフリカ熱帯雨林での魚介食

 チンパンジーからボノボ、さらにヒトへと魚介食によって進化した可能性については、すでに次のような例を挙げてきました。

 

⑴ 縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと 210422

<若月利之島根大名誉教授からの返事>

① ナイジェリアの3大部族は北のハウサ(イスラム、軍人向き?)、南西のヨルバ(キリスト教と祖霊信仰、文化人向き)、南東のイボ(キリスト教と祖霊信仰、科学者向き?)と言われています。

② イボにはJujuの森があり、日本のお地蔵さまと神社が合体した「聖なる」場所は各村にあります。③ イボの根作は多様性農業の極致です。

④ イボ(とヨルバ)の主食はヤムもち(日本の自然薯と同種)で、大鯰と一緒に食べるのが最高の御馳走。古ヤムのモチは日本のつき立てものモチよりさらにおいしい。貝は大きなタニシをエスカルゴ風に食べます。男性の精力増強に極めて有効。

 

⑵ 縄文ノート84 戦争文明か和平文明か 210712

 『アフリカを歩く』(加納隆至・黒田末寿・橋本千絵編著)によれば、コンゴ(ザイール)の人たちはティラピアナマズ・ウナギ・ナイルパーチ・小魚・カニ・エビ・オタマジャクシ・カエル・ヘビ・ミズオオトカゲ・カメ・スッポン・ワニなどを食べており(安里龍氏によれば最も美味なのはミズオオトカゲ)、一般的な漁法は女性や子どもたちが日常的に行う「プハンセ(掻い出し漁:日本では田や池の水を抜く「かいぼり」)」(武田淳氏)で、他にも多種多様な漁法で魚をとっているというのです。

 私はサルが水を怖がることから、ヒトもワニや大蛇、カバなどを恐れて川に近づくことを怖がったのではないかと最初は思いましたが、ニジェールに海外協力隊員として赴任していた次女に聞くと肉は貴重なのでワニを見つけると捕まえて食べると言っており、武田氏によれば「ワニを見つけた女性は、いち早く山刀で頭部を叩くように切り付けて殺し、家に持ち替えって調理する」(前同)というのです。

 

⑶ 縄文ノート85 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか 210713

 熱帯雨林の小川や沼、海に浸かって毎日のように顔だけ水上に出して立って足で何時間も泥や砂の中の獲物を探していたサルのメスや子たちは、浮力によって長時間直立することは容易であり、オスが草原で獲物を追うよりもはるかに早い段階で二足歩行を定着させた可能性が高いと考えます。

⑷ 縄文ノート89 1段階進化説から3段階進化説へ 210808

 チンパンジーが3歳で食の自立を果たせることからみて、この時期に水を怖がらないボノボの母親と子ザルは首まで水に浸かり足を伸ばして水中の川底や沼底のミミズや根粒菌などの採集活動を毎日、数時間、浮力の助けを借りながら二足歩行して行ってきたサルの生存率は高く、人類の先祖となったと考えられます。・・・

 私は子どもの頃、母の田舎に行ったとき、たつの市(旧御津町)の新舞子に潮干狩りや海水浴に必ずのように行きましたが、当時(昭和20・30年代)は立って足で砂を掘るとハマグリやアサリが実によく採れました。泳ぎに飽きると貝を足で掘り、足指で挟んで拾い上げ、海水パンツに入れたものです。

 

⑸ 縄文ノート92 祖母・母・姉妹の母系制 210826

 『アフリカを歩く』の中で武田淳氏(執筆時:佐賀大教授)は「森の生活をもっとも安定させてきたのは、コンゴ盆地のなかを毛細血管状に発達した大小の河川で捕れる魚類なのである。とくに女性と子どもたちが日常的に従事するプハンセ(注:搔い出し漁)を通して供給される動物性たんぱく源の安定した補給が大きく寄与している言える。もっともシンプルであるが、捕獲がゼロということはありえない、もっとも確実な漁法であるからである。

・・・(3~4月)種類数も29種ともっとも多くなる。水生のヘビ類やワニの捕獲がこの時期に多いのも、その活動が活発になることを裏付けるものである。一方、女性や子どもたちが食用幼虫類の採集に集中する8~9月は、魚の摂取頻度が12種ともっとも少なく、3~4月の半分以下になる」と紹介していますが、女性たちは子どもとともに、植物食だけでなく、魚介類・爬虫類・昆虫を安定的に実現していたのです。

 

 

6 アフリカ西部・中部での魚介食

 さらに現在のアフリカ西部・中部での魚介食についてホームページから検索すると、次のように魚介食は肉食を上回わっていると思われますが、さらに関心のある方は留学生や大使館、アフリカ研究者などにヒアリングして確かめてみて下さい。

⑴ 西アフリカ料理(ウィキペディア

https://en.wikipedia.org/wiki/West_African_cuisine

 西アフリカ人は過去にはるかに多くの野菜とはるかに少ない肉を食べましたが、今日では彼らの食事は肉、塩、脂肪が重いです。シーフードは海岸沿いで特に人気があり、多くの料理が魚と肉の両方を組み合わせています。シーフードは、西アフリカで最も一般的なタンパク質源の1つです。

 この地域ではシーフードが非常に普及しているため、この産業は労働力の4分の1を占めています。乾燥魚や燻製魚は、他の多くの料理のアンチョビやベーコン風味の食品とほぼ同じように、ソース、シチュー、調味料を含む他の料理の多くを味わう。それはしばしばフレークで油で揚げられ、時には唐辛子、タマネギ、トマト、様々なスパイス(スンバラなど)と水で作られたソースで調理され、微妙な風味の信じられないほどの組み合わせを作り出します。

 

 家族で漁に出る理由(カメルーン) | アフリック・アフリカ (afric-africa.org)

https://afric-africa.org/essay/country/cameroon-essay/fish02/

 アフリカの漁労民と言うと、東アフリカ大湖地帯の湖や、西アフリカのサバンナの専業漁民が有名だが、熱帯雨林各地にも、森や川の生態を巧みに利用する漁労文化が人びとの生活に深く根付いている。森に棲む人びとの漁労活動の特徴は、多様な魚種(ジャー川流域だけで160種以上)や水棲動物を対象とした漁法の多様性(カメルーンのバクウェレ人だけで、25種類以上)にある。河川本流で行う成人男性中心の漁だけではなく、森林内を流れる小河川の水を堰き止めたり、森林内のみずたまりの水をかいぼりして中の魚をつかみ取る掻い出し漁など、女性やこどもの得意とする漁が含まれていて、参加者の多くはなんらかの漁で活躍できる。

           

⑶ 辛くて美味しい!ナイジェリア料理を大紹介

https://africalove.jp/nigeria-food/

・クロッカーフィッシュ:ナイジェリアで広く食べられている魚

・サバ:ナイジェリアではサバも結構食べられています。

ティラピア:西アフリカで広くたべられている淡水魚。

・キャットフィッシュ(ナマズ):「ナイジェリア人は1日に100万匹以上以上なまずを食べるんだぜ!」と聞いて、「絶対嘘だ。」と思っていましたが本当でした。 ナマズの屋台が街のいたるところにあります! 1つのナマズを3-4人で食べるので、人口2億のナイジェリアだと確かに1日100万匹くらいは消費している計算になります。

        

⑷ ナイジェリアの食文化を紹介。卵を食べると泥棒に!?

https://www.olive-hitomawashi.com/column/2018/08/post-2800.html

・南部と北部で大きな差があり、貧困と宗教制限から、肉料理を食べられるのは富裕層だ。主食は芋である。

・魚はナマズなどの川魚が多く、ナイジェリアビールの「スター」と合わせて、肉や卵は大人だけの贅沢品として食べられることが多い。

 

⑸ JICAが伴走するアフリカの食

https://www.facebook.com/jicapr/posts/4657858450916932

 西アフリカ・ギニアでは、魚は大切なおかず🐡

 沿岸部ではニシンや海ナマズの仲間、内陸部では川の恵みであるナマズティラピアなどスープや煮込み、燻製などにして日々の食卓に並んでいます🍲

    

⑹ 西アフリカ・セネガルの「国民食」と言えばチェブジェン…魚の煮汁の炊き込みご飯 

https://www.yomiuri.co.jp/hobby/travel/20220511-OYT1T50119/

・西アフリカ・セネガルの「国民食」と言えばチェブジェン。地元のウォロフ語で「チェブ」は「コメ」、「ジェン」は「魚」。文字通り、魚の煮汁の炊き込みご飯だ。・・・雑穀類に代わり主食になったコメと、地元で取れた新鮮な魚が出会って生まれたのがチェブジェンだ。

・大西洋に面する港町ダカールは、高層ビルがそびえる中心部のすぐそばに漁港が散在し、新鮮な魚が次々に水揚げされる。焼き魚にタマネギソースをかけた「ヤッサ・ポワソン」とご飯の組み合わせも、セネガル料理の定番だ。

セネガルでは、ハタの一種の「チョフ」が国民魚とされ、チェブジェンにもよく使われる。「ヤーフ」のほか、ニシンの仲間の「ヤボーイ」も人気だ。身が軟らかく、「ポワソン・バナヌ(バナナ魚)」と呼ばれる魚も、ダカールの魚市場に並んでいた。

        

7 狩猟・肉食進歩史観からイモ・魚食進歩史観

 アフリカ人のイメージは南部のブッシュマンに代表される槍や弓で大型草食動物を狩る肉食の狩猟民のイメージが強いのですが、以上から明らかなように、アフリカ西部・中部の海岸沿いの熱帯雨林では「森林内を流れる小河川の水を堰き止めたり、森林内のみずたまりの水をかいぼりして中の魚をつかみ取る掻い出し漁など、女性やこどもの得意とする漁」が行われ、脂肪・タンパク質は魚でとっているのです。そして、その地域こそ、Y染色体D型の縄文人が分岐したE型人が住み、ゴリラ・チンパンジーボノボが棲む地域なのです。

 イモもち食がアフリカ西部熱帯雨林地域や雲南、北海道で行われ、米もち食が東南アジア高地と日本にあることとも重なります。

 

 「アフリカ人=狩猟肉食民」の思い込みから「ホモ・サピエンス=狩猟肉食民」とする誤った類推とともに、「アイヌ==狩猟肉食民」の思い込みから「縄文人=狩猟肉食民」の誤った類推を捨てるべきです。

 次回は「もち食」について検討したいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート140補足:Y染色体・ミトコンドリア図の追加

 「縄文ノート140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」(220603)に次の2つの図を追加するとともに、図6からの図番号を入れ替えました。

 「肉食・狩猟民史観」「男性中心史観」「ウォークマン史観」「西欧中心史観」の思い込みにより、水・果物・イモ・魚介類などの豊かな熱帯・亜熱帯の「海・海辺の道」ではなく、水や食料の乏しい砂漠地帯や草原地帯での狩りをしながらの人類大移動の思い込みが強いのですが、図9は珍しく「海・海辺の道人類拡散説」をとっています。

 また、図9のY染色体遺伝子は男性だけに継承されるのに対し、図10のミトコンドリア遺伝子は女性だけにつたわるのですが、両者はいずれもアフリカの熱帯雨林地域をルーツとして家族ぐるみの集団で移動したことを示しています。なお、図10では日本列島のB型は草原の道をやってきたとしていますが、南方系のヒョウタンやウリ、リョクトウ・シソ・エゴマなどが鳥浜遺跡などで見つかっていることからみて、寒冷な草原地帯を通っての伝播は考えれらません。

 次回は、魚介食について書きます。

 

 

縄文ノート140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生

 ヘブライ大学教授のユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』の「第2部 農業革命」批判を書いていますが、「ユダヤ人によるアラブのイスラエル占領・建国を正当化するための嘘話人類史観」のお粗末なトンデモ説の批判は楽しくもなく、先に私の「アフリカ熱帯雨林人類起源説」「糖質・DHA食進化説」の補強を行いたいと考えます。

 私の縄文への取り組みは、次女が青年海外協力隊員として赴任していたニジェールに見事なヒョウタン細工やイネがあることを知り、ヒョウタンの原産地がニジェール川流域であることを確かめ、若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前)の南方系のヤシの実やヒョウタン・リョクトウ・シソ・エゴマ・コウゾ属・ウリのルーツ探しからの縄文研究でした。

 そして、ジャポニカ・インディカの原産地、Y染色体D型族(縄文人)・E型族が住んでいたアフリカの場所、「主語-目的語-動詞」言語族のアフリカのルーツ、イネ科3大穀物(米・小麦・トウモロコシ)のアフリカ単一起源仮説、糖質・DHA食による頭脳発達、ゴリラ・チンパンジーボノボの生息地、サバンナ雑穀農耕文化(中尾佐助説)、倭音倭語の農耕・宗教語のドラヴィダ語起源説(大野晋説)、風土記に見られるイモ食や各地に残る芋祭・芋行事食などから、私はサルからヒトへの「肉食進化説」に対し「糖質・DHA食進化説」を、「人類誕生サバンナ説」に対し「人類誕生アフリカ熱帯雨林説」、「穀類農耕説」に対し「イモ農耕説」を展開してきました―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「26  縄文農耕についての補足」「2 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」「55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「81 おっぱいからの森林農耕論」「85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか」「88 子ザルからのヒト進化」「89 1 段階進化論から3段階進化論へ」「107 ドーパミン からの人類進化論」「126 『レディ・サピエンス』と『女・子ども進化論』」等参照

 今回は「イモを食べてサルからヒトになった」という「イモ食進化説」の補強を行いたいと思います。

 

1 焼イモ食からの人類進化

 糖質・DHA食による頭脳発達では、熱帯果実からの糖質摂取や昆虫やカニ・貝などからのオメガ3脂肪酸食(わかりやすくDHA食と表現)摂取により、まずサルからゴリラ、チンパンジーボノボへの頭脳の進化が第1段階でおこり、さらに第2段階として人類の誕生に繋がったと考えます。

 

 チンパンジーよりも人類が頭脳を発達させた糖質食としては、火事や噴火などで地中の焼イモ・蒸しイモの匂いに気付き、手や棒で掘ってイモムシなどを食べていた延長でイモを掘り、焚火で焼いてあるいは土中に埋めてその上で焚火をして蒸しイモを食べるようになるとともに、焼麦や焼米を食べた体験から穀物食と穀類栽培(焼畑農業)が生まれたと考えます。

 穀物食は煮るか粉にして焼く必要があるのに対し、焼イモ・蒸しイモは焚火ができれば容易に食べられ、焚火とともにまず焼イモ・蒸しイモ食が進み、次の段階で穀物食が生まれたと考えられます。そして、森を焼けば焼イモ・蒸しイモ・焼麦・焼米が手に入り、さらに焼野原からイモや穀類が育つことを知り、種イモや麦・米を植える焼畑農業への転換は雷火事や火山から火を入手できれば容易であったと考えられます。

 イモ類はそのままでは長期の保存ができず、保存食としては対馬のサツマイモを発酵させてデンプ質だけを取り出して保存する「せんだんご」や、クズやカタクリの根、ジャガイモからデンプンだけを取り出した葛粉・片栗粉・馬鈴薯デンプン(通称:片栗粉)がありますが、かなりの工夫と手間が必要です。一方、穀類は乾燥させればそのままで長期保存が可能であるため、冬季の安定した食生活を可能とするとともにイモよりは軽量で運搬・交換が容易であるという利点があり、主食として世界に広まりました。

 イモ食は焼イモ・蒸しイモ・イモ煮など簡単に食べられるのに対し、米は「収穫→乾燥→脱穀→籾摺り→炊飯など」、麦は「収穫→乾燥→脱穀→製粉→窯焼きなど」の作業が必要であり、加工具や調理器具(土器鍋、石窯・壺窯など)を必要としますから、人類誕生からの糖質食は長い期間、焼イモ・蒸しイモ食、続いて石焼イモ煮食、土器鍋蒸しイモ・イモ煮食へと発展したと考えられます。

 

 穀類のようなプラントオパールも残らず、木の芋掘り棒やイモ餅をつくる臼・杵などは痕跡が残らず、直接的な考古学的証拠の発見は難しいのですが、人類誕生のアフリカ熱帯雨林地域がヤムイモ・タロイモの原産地でヤムもち食が行われていること(ヤム餅・フフを大ナマズと食べるのが最高のごちそう)、縄文土器おこげの炭素窒素同位体比分析、現在の採集狩猟民のイモ食生活、さらには日本各地に残る田芋祭や里芋祭、いも正月や芋名月十五夜)などの祭り、イモ雑煮を引き継いだ正月の丸餅雑煮の行事食、米の餅食文化などを総合的に検討すると、人類が焼イモ食から穀物食へと進化を遂げたことは「最少矛盾仮説」として成立すると考えます。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「26  縄文農耕についての補足」「2 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」「縄文70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」「89 1 段階進化論から3段階進化論へ」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」等参照

 なお、いささか大胆な私の仮説を述べておくと、恐竜の子孫である鳥類が頭脳が小さいにも関わらず知能が高く、歌い話すことができるのは、果実と昆虫などの糖質・DHA食による進化の可能性があるのではと夢想しています。―「縄文ノート115 鳥語からの倭語論」参照

 

2.イモ食のルーツ

 2014年6月に書いた「『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」(縄文ノート25 として公開)では主に穀類食の起源について論じましたが、最後に「8 イモ食のルーツ」として次のように書きました。

 

 旧石器人・縄文人の主食を論じる時、すっぽり抜け落ちているのは、籾やプラントオパール、土器圧痕などの痕跡が残らない「イモ類」です。

 アフリカ原産のタロイモ(タイモ、エビイモ、タケノコイモ、サトイモ)やヤムイモ(ヤマノイモ、山芋)を主食とした熱帯・亜熱帯・温帯のイモ食文明の解明は「穀物文明史観」のもとで遅れているといわざるをえません。

 現在、ヤムイモの生産地はナイジェリアが7割近くを占め西アフリカが中心で、タロイモナイジェリアが34%を占め、中国17%、カメルーン16.%、ガーナ14%、マダガスカ2%と続いています。

 ヒョウタンや稲と同様に、「マザーイモ」もまた西アフリカを原産とし、「海の道」を通ってタロイモ・ヤムイモは東進し、日本にたどり付いた可能性があります。「田芋・里芋(タロイモ)」「山芋(ヤムイモ)」の「田・里・山」の名称区別や「タロ=田」「ヤム=山」の名称の符合からみて、芋栽培の起源は旧石器時代に遡る可能性があります。

 

 イネのルーツについて、アフリカイネとアジアイネの原産地が別であるかのような主張に対し、私は「3大穀物(米・小麦・トウモロコシ)アフリカ単一起源説」を提案しましたが、イモ類についても同じではないか、と考えてきました。

 サトイモについて「原産地は・・・インド東部からインドシナ半島にかけてとの説が有力視されている」(ウィキペディア)とする一方、同じサトイモ科のタロイモについては「熱帯アジアやオセアニア島嶼域、アフリカの熱帯雨林地帯ではさらに多くの種や、その品種群が多く栽培されており、これを主食としている民族や地域も多い。畑作だけでなく水田耕作でも栽培されている」(前同)とし、ヤマイモ科のヤムイモについては「アフリカ・熱帯アジア・ラテンアメリカ西インド諸島にかけての広い地域で主食や根菜として栽培されている」(前同)としながら、アフリカ熱帯雨林地帯原産地説については検討していません。

 縄文ヒョウタンの原産地がアフリカ熱帯雨林ニジェール川流域あり、里芋・田芋と「タロイモ」、山芋と「ヤムイモ」の名称の類似点や餅食文化、縄文人Y染色体D型から分かれたE型の人たちの分布と重なることからみても、アフリカ熱帯雨林地域原産のイモ類が人類拡散とともにインド、東南アジア・中国・日本に広がったことが明らかです。

 志和地弘信東京農大教授によれば「ヤムイモの研究者は、志和地教授自身を含めて世界でたったの22人。うち8人は日本人だ」(「アフリカの食料難を『イモ』が救う、ヤムイモを食べる唯一の先進国・日本の専門家が指摘:米澤佳代子ganas記者」という状況では、DNA分析によってイモ類のルーツ「マザーイモ」の原産地を特定するに至っていないようですが、Y染色体D型の縄文人のルーツ(ナイジェリアなどの諸国にE型。D型も1人見つかっている)を解明するためにも、「先進国でヤムイモ(山芋、自然薯、長芋など)を食べる文化があるのは日本だけ。栽培や増産などの方法について研究してきた蓄積も日本にはある。日本人はヤムイモ研究で世界に貢献できる」(志和地教授)というわが国でのDNA分析が求められます。

 あわせて、ヒョウタン、イネ、雑穀(シコクビエ、ササゲ、ゴマ)のDNA分析により、それらのルーツと人類誕生地の解明を進めて欲しいものです。なお、ゴマは「アフリカのサバンナに約30種の野生種が生育しており、ゴマの起源地はサバンナ地帯、スーダン東部であろうというのが有力である。ナイル川流域では5,000年以上前から栽培された記録がある」(ウィキペディア)とされています。

 

3.アフリカ熱帯雨林地域のヤムイモ・タロイモ

 「ヤムイモ生産の現状と将来性」(志和地弘信・豊原秀和)をもとに、ヤムイモ・タロイモの生産国と生産量を示すと次のとおりです。―_pdf (jst.go.jp)

 

    

4.イモ食進化説を裏付ける参考図

 図4~24に明らかなように、このヤムイモ・タロイモのイモ餅(フフ)食地域は、ゴリラ・チンパンジーの生息地(図4・5)、Y染色体D型族(縄文人)とE型族との分岐地域(図6~10)、主語-目的語―動詞(SOV)族のアフリカのルーツ(図11)、ヒョウタンや雑穀・マザーイネ(イネ科穀類の原産地)のルーツ地(図12~14)と重なり、さらに人類の拡散により、イモ食の拡散とアフリカからの神山天神信仰の伝播(図15~17)、黒曜石利用の伝播(図18・19)が重なります。さらに祖先霊「ピー・ピュー・ぴ・ひ」信仰(図20)やソバ食(図21)から日本列島への伝播(図22)に繋がります。

 そして、縄文食がイモ糖質食であったことが縄文土器鍋のおこげから裏付けられ(図23)、縄文焼畑農耕によるイモや米・雑穀の栽培は総合的に証明されます(図24)。

 




















          

 

  

      

 

   

 

 

 

    

 

   

    

 

 

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート139 『サピエンス全史』批判5 狩猟採集民の「平和と戦争」

 間違いと誤魔化しだらけのハラリ氏の『サピエンス全史』の批判など楽しくもなく、時間と労力の無駄なのですが、始めてしまったので続けざるをえません。

 取り組んでいるうちに、「終末思想・絶滅思想・天国再生思想・選民優生思想・男性優位思想」のユダヤ教キリスト教ユダヤ教回帰派・旧約聖書派)・イスラム教が滅ぼしてきた全世界の女神信仰・地母神信仰・霊(ひ)信仰などの「未来志向・生類生命尊重・生活文化充実・自然継承・持続可能型農耕」の宗教思想の豊かさを感じずにはおれません。その整理・総合化に集中すべきなのですが・・・

 ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』は「第1章 唯一生き延びた人類種」「第2章 虚構が協力を可能にした」で、①ホモ・サピエンスが他のサピエンスを絶滅させた、②それができたのはホモ・サピエンスが嘘話によって団結したからだ、という2つの「ハラリ嘘話」を作り上げています。

 ユダヤ人がカナンの農民たちを殺戮により征服したのは「汝らは人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である」「涜神者(非ユダヤ人)の血を流す者は、神に生贄を捧ぐるに等しき」「他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである」などと命令した「ヤハウエ神」の嘘話を信じたからだ、キリスト教徒がアフリカ・アジア・アメリカで多くの国を植民地化し、奴隷制度を作り上げることができたのは「ゴッド・イエス聖霊」を信じて団結しその命令に従ったからだという歴史の代わりに、「神の嘘話による団結」はホモ・サピエンスが誕生した時から持っていた認知革命であるとしてすり替えています。

 ユダヤ教の神を嘘話としたハラリ氏の勇気は高く評価したいと思いますが、かつてユダヤ人が征服し、第2次世界大戦後にアラブ人居住地の英領パレスティナの再度の占領を正当化するために、ユダヤ教の嘘話(2つの聖典旧約聖書』と『タルムード』)の代わりに、嘘話づくりを人類普遍の法則であるかのようにして正当化しているのは認めることはできません。ユダヤ人が負うべき原罪を、人類全ての原罪であるとして正当化する新たな「嘘話」ではないでしょうか?

 ルーマニアユダヤ人の子孫のアメリカ人で、日本人の血をひくポーランド人を妻とし、生物学者文化人類学者として人類史や文明論で素晴らしい分析を行い、『人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り』『銃・病原菌・鉄』『文明崩壊―滅亡と存続の命運を分けるもの』『昨日までの世界―文明の源流と人類の未来』『危機と人類』などを発表したジャレド・ダイアモンド氏が、このようなハラリ氏のインチキ本を推薦しているのは実にガッカリです。

 そうすると、ハラリ本を推奨したダイアモンド氏の主張にも共通する問題点がある可能性があり、次の段階で検討したいと思います。

                             

1.「狩猟採集民の豊かな暮らし」

 『サピエンス全史』の「第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし」はぼんやりしていると見過ごしますが、そもそも「狩猟採集民」とするか「採集狩猟民」とするかは大違いであり、この両表現に対して「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産に登録では縄文人の食生活を正確に反映し「採集漁労狩猟」としていますが、私は人類誕生の食生活条件からみてもこの順にすべきとしてきました。

     

 ホームページで検索すると、「狩猟採集」94.5万件、「狩猟漁撈採集」9.5万件、「狩猟採集漁撈」1.7万件に対し、「採集漁労」32.7万件(採集漁撈27.4万件)、「採集狩猟」24.2万件、「採集漁労狩猟」32.3万件、「採集狩猟漁撈」21.8万件であり、人類進歩説には狩猟採集主導派と採集漁撈主導派が見られることがわかります。なお、漁撈53.6万件、漁撈51.9万件と同一内容でありながら漢字使用に乱れが見られ、私もこれまで「漁撈」を使っていましたが、これからはよりわかり易く「漁労」に統一したいと思います。

 ハラリ氏は「第1章 唯一生き延びた人類種」「第2章 虚構が協力を可能にした」につづいて、「第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし」ではダイアモンド氏の主張を巧妙にパクリながら、農耕民より採集狩猟民が豊かで優れていたと主張し、狩猟・遊牧民であったユダヤ人優生思想を「科学的」な装いで裏付けようとしています。

 さらに、次の「第4章 史上最も危険な種」では、ホモ・サピエンスがオーストラリアやアメリカ大陸で大型動物を絶滅させたとしてホモ・サピエンスが生まれながらの殺戮・絶滅者であると主張し、さらに「第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇」では農耕文明の問題点をあげ、農耕民のカナン人などを絶滅した狩猟・遊牧民ユダヤ人の行為をホモ・サピエンスの野蛮なDNAがもたらした必然の歴史として正当化しょうとしています。

 ハラリ氏は第1章において、ホモ・サピエンスが「つい最近までサバンナの負け組の一員だったため、自分の位置についての恐れと不安でいっぱいで、そのためなおさら残忍で危険な存在となっている。多数の死傷者を出す戦争から生態系の大惨事に至るまで、歴史上の多くの災難は、このあまりに性急な飛躍の産物なのだ」としていますが、このハラリ説には科学的な裏付けがあるでしょうか?

 そもそもサピエンスがゴリラやチンパンジーなどが住む熱帯雨林から乾燥したサバンナに追い出された負け組で、食料の乏しい危険なサバンナで肉食獣と戦いながら二足歩行を行い頭脳を発達させたという証明がありません。乾燥したサバンナで骨や石器が見つかった、というだけなのです。高温多湿で酸性土壌の熱帯雨林では死体はすぐに分解されて痕跡を残さず、木の棒でイモ類やイモムシなどを掘り、木の銛で魚類やカニ、カエル、ヘビ、カメ、ワニなどを獲っていたサピエンスの骨や木の道具の痕跡は残らないのです。

 また、果実や昆虫、動物の豊かな熱帯雨林の樹上から、負け組のチンパンジーがサバンナに追い出されてサピエンスになったという証明もなく、ハラリ氏の空想に過ぎません。

 「縄文ノート107 ドーパミンからの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か」で書きましたが、河田雅圭(まさかど)東北大教授によれば、ドーパミン放出量が多く不安を感じにくいタイプはアフリカの人たちには1割以下に対し、アフリカ出て大移動(グレートジャーニー)を行ったアジアやヨーロッパの人たちは1/3ほどに増え、山田真希子量子科学技術研究開発機構脳機能イメージング研究部グループリーダーによれば、「自己評価の度合いが平均より高い人ほどドーパミンの放出量が多く、危険なことでも頑張ってやってみようという傾向が強く、知らない土地への冒険心を支えた」というのです。

 

 私は女・こどもが熱帯雨林で地上や水中の食物を探して二足歩行とイモ・魚介類の糖質・DHA・たんぱく食により頭脳を発達させ、好奇心・冒険心・探検心がおおせいな子ども・若者が人類の拡散を主導したとしてきたと主張してきましたが、両氏のドーパミン説は私の説と符合します。―縄文ノート「85 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか」「88 子ザルからのヒト進化」「89 1段階進化説から3段階進化説へ」

 ハラリ氏のホモ・サピエンスは「つい最近までサバンナの負け組の一員だったため、自分の位置についての恐れと不安でいっぱいで、そのためなおさら残忍で危険な存在となっている。多数の死傷者を出す戦争から生態系の大惨事に至るまで、歴史上の多くの災難は、このあまりに性急な飛躍の産物なのだ」という説の「残忍で危険なホモ・サピエンス」は、「残忍で危険なユダヤ教ユダヤ教化したキリスト教イスラム教信者」に置き換え、「戦争から生態系の大惨事」は彼らによるカナン・アフリカ・ヨーロッパ・アジア・アメリカの諸民族の征服や現在のグローバリズムに置き換えるべきでしょう。

 帝国主義者の絶滅宗教・思想をホモ・サピエンスが等しく持っている宗教・思想に置き換えるという「ハラリ嘘話」のペテンです。

 

2 「肉食史観」対「糖質・魚介食史観」

 ハラリ氏は「男が槍を持って集団で草食動物を狩猟するようになり、言葉と二足歩行、火使用によりホモ・サピエンスが進化した」という①サバンナ人類誕生説、②肉食進化説、③武器・戦争進化説、④男性主導進化説、⑤白人中心進化説の信奉者ですが、農学や栄養学、脳科学言語学、霊長類学、人類学(形質人類学・文化人類学)、遺伝学、考古学、歴史学などの研究結果をことごとく無視しています。

           

 野生チンパンジーの食物は95%が果実などの植物性であり、アフリカの旧石器人の摂取カロリーの5割以上が糖質であることが明らかとなっています。―「縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」参照

 ダイアモンド氏は『人間はどこまでチンパンジーか?』(1993年)の中で、「現代の狩猟採集民を研究すると、一家のカロリーのほとんどは、女性が集めてくる植物性食物でまかなわれていることがわかります」と書き、その訳者の長谷川真理子氏(執筆時:専修大助教授)は『オスとメス=性の不思議』(1993年)で「狩猟という仕事はきわめて予測性が低いので、男性が食物を持って帰ってくるかどうかは、あてになりません。ティウィの人々の生活は、基本的に、女性たちが毎日確実に集めてくる植物食でまかなわれます。そんな生活ですから、当然、母親を中心とする家の女性ネットワーク、かなり重要な存在となります。・・・女性にとって一番重要なのは夫の助力ではなくて、自分の出自の家族の女性たちの助力になります」と採集社会における女性の共同性を強調しています。―「縄文ノート92 祖母・母・姉妹の母系制」参照

                   

 また『アフリカを歩く』(2002年)で古市剛史氏(執筆時:明治学院大教授)は「男の仕事は『本当の食べもの』を取ってくることだなんていって、ときどきは槍やら網やらをもって森に狩りにでかけていくけど、獲物をもって帰ってくることなどほとんどない。夫が最後に小さなダイカーをおおいばりでもって帰ってきたのは、もう二カ月も前のことだ」という女性の言葉を伝え、武田淳氏(執筆時:佐賀大教授)は「森の生活をもっとも安定させてきたのは、コンゴ盆地のなかを毛細血管状に発達した大小の河川で捕れる魚類なのである。とくに女性と子どもたちが日常的に従事するプハンセ(注:搔い出し漁)を通して供給される動物性たんぱく源の安定した補給が大きく寄与している言える。もっともシンプルであるが、捕獲がゼロということはありえない、もっとも確実な漁法であるからである」と伝えています。―「縄文ノート84 戦争文明か和平文明か」参照

 人類の脳の発達には脳を働かせる「糖質」と高度な神経情報回路を生み出すシナプスを活性化させる「DHA」、脳を形成する「タンパク質」が必要であり、その条件を満たすのは糖質・魚介食であり、それはアフリカの海岸のにそった熱帯雨林で獲得されたものなのです。

 ハラリ説はこれらの研究を無視した古くさい「狩猟民史観」であり、まともな歴史書とはみなせない狩猟放牧民のユダヤ人中心イデオロギーの「嘘話」という以外にありません。

 進化論を論じるなら、アフリカでのサルからサピエンス、ホモ・サピエンスへの人類誕生の総合的な分析が必要不可欠です。人類誕生について論じるべきテーマ全体について、これまで書いてきた表1~4を再掲します。―縄文ノート「133 『サピエンス全史』批判2 狩猟・遊牧民族史観」「85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか」「84 戦争文明か和平文明か」参照

3 現代人の肥満のルーツは狩猟採集民?

 ハラリ氏は「興隆を極める進化心理学の分野では、私たちの現在の社会的特徴や心理的特徴の多くは、農耕以前のこの長い時代に形成された」「私たちの食習慣や争い、性行動はすべて、私たちの狩猟採集民の心と、現代の・・・環境・・・の相互作用の結果だ」として、時代、地域、諸説をごちゃまぜにして事例をあげて読者を混乱させていますが、ハラリ氏に分類・整理・論理能力がないだかなら罪は軽いのですが、わざと混乱させて狩猟採集民の生活・文化・文明・芸術・宗教が農耕・交易民よりも優れていて征服・殺戮は歴史的必然であるかのように誘導している極めて悪質なペテン師と言わなければなりません。

 すでに述べてきたことですが、ハラリ氏独特のホモ・サピエンス肉食史観には、女性・子どもが担ってきた採集・漁撈による糖質魚介食文明など眼中になく、女性・子どもの採集活動の延長上に生まれた農耕文明や、女性の調理活動から生まれた火の利用や土器づくり、さらにアフリカでの製鉄文明などを全て無視しています。―縄文ノート「81 おっぱいからの森林農耕論」「85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか」「88 子ザルからのヒト進化説」「89 1段階進化論から3段階進化論へ」「92 祖母・母・姉妹の母系制」「107 ドーパミンからの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」「122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」「126 『レディ・サピエンス』と『女・子ども進化論』」参照

 その代わりに、例によって時代・場所をぐちゃぐちゃに論じて読者を混乱させて誘導するために、ハラリ氏は甘い物や脂肪分の多いものを貪り食うことによる現代人の「肥満」を例として最初にあげ、狩猟採集民の生活から「大食い遺伝子」が受け継がれたとしています。しかしながら、アフリカやアジア・オーストラリア・アメリカの狩猟採集民が肥満体であり、旧石器人や新石器人に肥満が多く見られ、現代人の肥満が原始時代から引き継がれきたという証明はどこにも見られません。

 アメリカ人に典型的に見られる成人の30%を超える肥満は、ストレスの多い現代人の生活・精神状態からくる代償行為としての糖質・脂肪分の「飽食」、車依存とサービス産業化に伴う運動不足、料理をしない文化からのファーストフード外食依存と低価格加工食品依存などによるものであり、貧困が肥満に影響しているなど、多くの研究があります。

 ハラリ氏は狩猟採集民の「大食い遺伝子」肥満説を主張するなら、これらの医学や栄養学などの説を否定してからにすべきであり、狩猟採集民が肥満であることや旧石器人・新石器人(日本では土器鍋人)が肥満であるという証明を示すべきでしょう。

 

4  「古代コンミューン派」対「永遠の一夫一妻制派」

 次にハラリ氏は、狩猟採集民について、男性には父権がなく女性が複数の男性と関係を持つ「古代コンミューン」であったのか、それとも「多くの学者は、一夫一妻での暮らしと核家族の形成はともに人間社会の根幹を成す行動であると断言」しているとして「永遠の一夫一妻制」説を紹介しています。

 ハラリ氏は前者は「姦淫・乱婚・不倫」奨励説であるかのように書き、後者は「モーゼの十戒」の「姦淫してはならない」に従っているとしたいようです。

 しかしながら、ハラリ氏は「あいにく、狩猟採集民だった私たちの祖先の暮らしに関して、確かなことはほとんどわかっていない」と逃げ、実質的には「モーゼ十戒」を支持しています。

 アメリカでは、南部アラバマ州で、妊娠何週目かを問わず、レイプや近親相姦による妊娠でも中絶を認めない内容の州法が成立するなど反動的な動きが広がっており、連邦最高裁でも人工妊娠中絶の権利を認めた過去の判断を覆えす可能性があるなど極めて政治的な問題でもあり、アメリカに支持された宗教国家イスラエルの国立ヘブライ大学教授のハラリ氏としては、深入りは避けたかったのでしょうが、そのためにここでも「論点ずらし」を行っています。

 「古代コンミューン」派(リベラル派・マルクス主義者派を想定?)対「永遠の一夫一妻制」派(保守派、ユダヤ教カトリックを想定?)の対立としてハラリ氏は論じていますが、採集漁撈狩猟民社会が母系制社会か父系制社会か、という最重要な論点について人類誕生から採集漁撈狩猟社会、農耕社会の歴史的総合的な検討を回避しています。「母系制社会」か「父系制社会」かという論点を回避し、「父権さえない原始共同体」か「一夫一妻制」かという論点に置き換えているのです。

 そのために彼は、例によって時代・空間を越えてあれこれ事例を述べながら、「確かなことはほとんどわかっていない」としながら、「古代狩猟採集民の間の民族的・文化的多様性も壮観」で、それが「虚構が登場したおかげで、非常に異なる想像上の現実を生み出すことができ」たという何の論理性もない嘘話を導いています。

 縄文文明や4大文明がもともとは母系制であったという共通性やそれを示す妊娠女性像が世界各地に見られるという共通性は子どもの安産を願う人類共通の願いを示しているのであり、「嘘話」の信仰によって生まれたのはなく、民族的・文化的多様性どころか人類の共通性を示しています。―縄文ノート「32 縄文の『女神信仰』考」「75 世界のビーナス像と女神像」「86 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰」「90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制」「92 祖母・母・姉妹の母系制」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」「102 女神調査報告6 石棒・男根道祖神」「116 独仏語女性名詞からの母系制社会」「縄文103 母系社会からの人類進化」「126 『レディ・サピエンス』と『女・子ども進化論』」等参照

 さらに死者をていねいに埋葬し、祀った旧石器人、イギリス・アイルランド縄文人ストーンサークルにみられる大規模共同墓地や、世界各地の神山信仰、ピラミッドなどの氏族社会・部族社会の共同性を示す遺跡のどこに「嘘話」の空想が見られるのでしょうか?―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考」「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)」信仰」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57 4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」「104 日本最古の祭祀施設」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列 」「118 『白山・白神・天白・おしらさま』信仰考」参照

 このように、ハラリ氏の「嘘話進化説」には何の科学的な証明もありません。このような「ハラリ嘘話宗教」を信じるかどうかは、貴方の勝手ですが・・・・

 なお、旧約聖書士師記」では、ユダヤ人はカナンの神、男神バアル(農業神の雷・稲妻・雨(男性生殖器)の神)と女神アシタロテ(土地(女性生殖器)の神:アシュラ)崇拝を撲滅したことが書かれていますが、ハラリ氏は人類史において母系制社会とその信仰の歴史を「撲滅」してしまいたいユダヤ教原理主義者のようです。

 「モーセ十戒」の「6 あなたは殺してはならない」「7 あなたは姦淫してはならない」「8 あなたは絶対に盗んではならない」などの戒律はユダヤ教徒にのみ適用されるのであり、ユダヤ教聖典「タルムード」では「汝殺すなかれ、との掟は、イスラエル人を殺すなかれ、との意なり。ゴイ(非ユダヤ人)、ノアの子等、異教徒はイスラエル人にあらず」「ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが、ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず」としているのです。

 また、「あなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない」「ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる」とし、女奴隷との姦淫は許されるのです。

                                 

 ハラリ氏はこのユダヤ人が発明した嘘話のヤハウエ神の残忍な命令を、狩猟採集民であるホモ・サピエンスが生まれながらに持っていたという証明のために『サピエンス全史』を書いたようですが、その論証は成功していません。このようなレベルの嘘話にジャレド・ダイアモンドバラク・オバマビル・ゲイツ池上彰堀江貴文氏らがまんまとだまされ、信者に成り下がっていることからみると人類の未来は暗いと言わざるをえません。ユダヤ人優生思想はヒトラーアーリア人優生思想とユダヤ人虐殺に影響を与えてはいないのでしょうか?

 こんな本を買わされ、おまけに時間と労力を無駄にしていることに怒りは収まりません。

 

5 遺伝子学無視の人類と犬だけの優性思想

 狩猟採集民の豊かな暮らしとして、ハラリ氏は「人類と犬の間には、人間と他のどんな動物の間によりもはるかに深い理解と愛情が生まれた」という例をあげています。

 農耕民であるメソポタミアの雄牛やライオン崇拝、蛇など、エジプトの猫やハヤブサ、雄牛、トキ、蛇などの動物神信仰、インダス文明の角神信仰、中国文明の五家之神(狐・いたち・針鼠・蛇・鼠)や想像上の龍・鳳凰麒麟などの10神獣の信仰、日本文明の鳥・猿・大神・鹿・蛇・海蛇などを神使として信仰する古代文化・信仰を全て否定し、狩猟遊牧民ユダヤ人が使ってきた犬だけを特別扱いしてみせます。

 ユダヤ教聖典「タルムード」は「人間の獣に優れる如く、ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり」「汝らは人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である」としていますが、ここにはユダヤ人優生思想により他宗教民族や他の生類(人と動物)の殺戮を肯定する思想を示しているのですが、ハラリ氏は狩猟・遊牧民の子孫として犬だけを特別扱いしています。

 人間のDNAとチンパンジーのDNAが99%一致し、猫とは90%、ウシとは80%、ネズミとは85%、ニワトリとは60%共通しているという説など認めませんというハラリ氏は、生類の中で犬だけを他の動物から区別して特別の地位に置く自説を論理的に証明してみせるべきでしょう。

 また、ユダヤ人のDNAのルーツを図5のどこに位置するか明らかに、聖典「タルムード」の「人間の獣に優れる如く、ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり」が嘘話であることをまずは明らかにし、それから犬を動物の中で特別扱いする説に入るべきでしょう。

    

 ハラリ嘘話の特徴は、このような人類や動物、植物のルーツの解明に欠かせない遺伝子学の徹底的な無視にあります。ハラリ氏は宗教やイデオロギーを嘘話と言いながら、本音では「神が土のちりを使って人を造った」というユダヤ教の嘘話を信じているのではないか、と疑ってしまいます。

 また、生態学の「生息地分割としての棲み分け」や生態学者・文化人類学者の今西錦司氏の「競争が避けられるなら棲み分ける」「食う-喰われるも棲み分け」という「棲み分け理論」について、ハラリ氏は知らないのでしょうか? 

             

 今、「競争か共生か」が論じられている時代に、池上彰氏は「こういう人類史の本で幸せかどうかを問題に立てる本には初めて出合った」と推奨していますが、池上氏は「競争こそ幸せ」と言いたいのでしょうか?

 さらに、狩猟採集民を論じるなら、ユバリ氏はアイヌの熊送り(クマを神の化身と見なし、クマの魂を天界に送り返したうえで再訪を願う儀式)や狩猟集団・マタギの「獲物の御霊を慰める儀式や獲物を授けてくれた山の神(女神)に感謝する儀式」など、動物も人間と同じような霊(ひ:魂)を持っていると考え、生類の死後の霊を祀る宗教思想について検証すべきでしょう。

         

 天武天皇が675年に檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じ、農耕期間の4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食べることを禁止したことや、第5代将軍・徳川綱吉の動物・嬰児・傷病人保護を目的とした「生類憐れみの令」についてハラリ氏は知る由もないと思いますが、池上彰氏やジャレド・ダイアモンド氏は知っていてもよさそうに思いますが・・・―縄文ノート「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」「7 動物変身・擬人化と神使、肉食と狩猟」「34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」「74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」参照

 

6 サバンナは「原初の豊かな社会」?

 「古代の狩猟採集民は子孫の農耕民よりも、飢えたり栄養不足になったりすることが少なく、一般に背が高くて健康だったことがわかる」「健康に良く多様な食物、比較的短い労働時間、感染症の少なさを考え合わせた多くの専門家は、農耕以前の狩猟採取社会を『原初の豊かな社会』と定義するに至った」については、ジャレド・ダイアモンド氏の説などのパクリと思われ、私も縄文社会研究からそれを部分的には認めたいと思います。

 しかしながら、そのような生活が成立する場所は、雨量が豊かであり年間を通して植物・生物の生産量の豊富な熱帯雨林や亜熱帯地域・温帯地域の海と川のほとりと考えます。人類が農耕を始めたのは、そうしないと食料が足りない場所であり、季節があったからと考えます。果実が豊富な熱帯雨林や亜熱帯・温帯でサルは今も樹上で暮らし続けています。

       

 ハラリ氏の手口として、地域や時代をバラバラにし、都合のいい論点とエピソードをつまみ喰いして嘘話を展開していますが、乾燥気候のサバンナ地方で草食動物を食べて「健康に良く多様な食物」で人類が誕生したという証明がどこにあるのでしょうか?

 また、狩猟採集民であるホモ・サピエンスが他のサピエンスや大型動物を絶滅させて「原初の豊かな社会」を築いたという証明は行ってはいません。疫病や急激な気候変動による他のサピエンスやマンモスなどの大型動物の絶滅説の否定はできていません。

 猿から人への進化はゴリラやチンパンジーが住むアフリカ西海岸の熱帯雨林で生じたのであり、世界4大文明や縄文文明は、雨量の多い「海と川」のある熱帯・亜熱帯・温帯地域で発展してきたのです。

 採集・漁労活動の中心であった女性と子どもたちが、年間を通して安定した食物を確保し、水利に頼らない原始的な農耕を開始し、ボディランゲージに頼れない視界の悪い熱帯雨林で会話コミュニケーション力を高め、水中採集・漁労活動により二足歩行を実現し、木の穴掘り棒や銛の使用により手の機能を高め、雷や火山による火災から火を使用するようになりイモ食や穀類食を実現したのです。

 イモ類や穀類などの採集活動をしながら、ゴミ捨て場での発芽を見つけて原始的な農耕を開始し、雷や噴火による森林火災後の野原でイモ類などがよく育つことを観察して焼畑農業を覚えたのは女性・子どもたちの共同体であったのです。

 ハラリ流の時空を超えたエピソードを交える方法を真似して、この私の主張を補強するエピソードを付け加えると、かつて仕事先の大洲市で飲んだ居酒屋では、大将は魚が釣れないと海岸にはいくらでもあるカメノテやイガイ(ムール貝)を採ってきてつまみとして出していましたし、沖縄では移転を命じられて「海があったので生きてこれた」という具志堅一族の話をテレビでみたことがあります。四万十川では「アユの上を歩いて川を渡れた」という誇張した表現を聞きましたが、私も子どもの頃、龍野の揖保川で潜ってアユの群れを見たことを思い出すと四万十漁師の表現が嘘話とは思えない的確な表現に思えます。

 私の次男は食べたブドウの種をベランダの鉢に植えて育て、今やわが家の2階はちょっとしたブドウ畑になっています。孫たちをみていても、誰に教わったのか果物の種を植えたがりますが、子どもの好奇心が人類の新たな発見の原動力であった可能性もあるのです。

 このように時空を超えた小話を都合よくバラバラと論理もなくかき集めて並べたのがハラリ本であり、歴史本というより小説本というべきものです。

 このような本から、始めて人類の幸せがわかったとして推奨している池上彰氏の責任は大です。

 

7 アニミズム否定による嘘話進化説

 続く「口を利く死者の霊」では、ハラリ氏は「多くの学者は、古代の狩猟採集民の間では一般にアニミズムが信じられていたと考えている」「アニミズムの信奉者は人間と他の存在との間に壁はないと信じている」として紹介し、「太古の霊性の具体的な点を記述しようとする試みは全て、不確実極まりない。頼りになる証拠はほぼ皆無」とし、「学者自身の偏見がはっきりと浮かび上がってくる」と切り捨てています。

 その代わりに何を主張しているかと言うと、ロシアの3万年前のスンギル遺跡で死者が多くの牙製の装飾品で飾られていた理由を文化的信念によるものとして紹介ながら、「サピエンスが3万年前に、DNAの命令や、他の人類種と動物種の行動パターンをはるかに超える、社会政治的基準を考案しえたことを示す、有力な証拠の1つだ」と混乱したあいまいな表現で、「社会政治的基準」=「嘘話」の始まりの証拠であるかのように主張しています。

 しかしながら、ロシアのスンギル人が死者を丁寧に葬ったことが、アニミズムの霊信仰ではなく、「神という嘘話」の発明であるという証明をハラリ氏はどこにも示していません。

 ハラリ氏の主張は「ホモ・サピエンスが嘘話で団結してネアンデルタール人など他のサピエンスを滅ぼした」というものですが、3万年前のスンギル人だけでなく5万年前のネアンデルタール人にも入念な埋葬の習慣があったことが認められており(ナショナルジオグラフィック・ニュース2013.12.27)、しかも世界の現人類のDNAにはネアンデルタール人の遺伝子がわずかにみられるのです。

 ハラリ氏はユダヤ教特有の「神の命令」を類推させるように、「DNAの命令」なる概念をここで突然に持ち出していますが、前述のように各民族のDNA分析でドーパミン(幸せホルモン)の放出量が多い人たちがアフリカを出て世界に拡散した、というようなDNA分析の研究を知らないようです。このドーパミンによる人類進化説は、女・こどもが進化を主導し、好奇心・冒険心・探検心がおおせいな子ども・若者が人類の拡散を主導したとしてきた私の説と符合します。―縄文ノート「85 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか」「88 子ザルからのヒト進化」「89 1段階進化説から3段階進化説へ」「107 ドーパミンからの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か」参照

 ハラリ説は「太古の霊性の具体的な点を記述しようとする試みは全て、不確実極まりない。頼りになる証拠はほぼ皆無」としてアニミズム信仰説を否定しながら、スンギル遺跡は「サピエンスが3万年前に、DNAの命令や、他の人類種と動物種の行動パターンをはるかに超える、社会政治的基準を考案しえたことを示す、有力な証拠の1つだ」としていますが、そこにはなんらの合理的説明もありません。この程度の嘘話を主張して矛盾を感じていないのですから、ハラリ氏の「ホモ・サピエンス選民」説は科学的な研究といえるようなものではありません。

 図7の「仏教」「ヒンドゥー教」「その他」のように、世界には紀元1世紀以降のキリスト教イスラム教以外に多くの宗教があり、それらすべてについて時空を整理して具体的に検討することもなくハラリ氏は「古代人アニミズム」説は信用できないとしながら、人類は神という「嘘話」によって団結して進化したという時空を無視したトンデモ説をとなえているのですが、これらの神のルーツに遡って検討は次回にまわしたいと考えます。

 ちなみにハラリ流の時空をこえたエピソードを加えた解説を私も行って見せましょうか。

 わが家の2匹の愛犬の一方が死んだ時、残された1匹はすごく落ち込んで元気をなくしてしまいました。心配になって同じ犬種の犬を買ってきてからやっと元のように元気になったのです。動物学者が指摘しているように動物にも仲間の死を悼む気持ちがあることが確認できました。渋谷駅で飼い主を待ち続けた「忠犬ハチ公」も飼い主が戻ってくると信じ続けていたと思います。

 このように身近なエピソードでわかりやすく説明するのなら、ハラリ氏はその分野の科学者の主張を同時に取り上げてその事例の科学的な裏付けを紹介すべきです。

 

8 「平和か戦争か?」は「沈黙の帳」

 「第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし」の最後は、なんなんと、「平和か戦争か?」「沈黙の帳」の2つの項目で締めくくられているのです。

 ここでは「戦争や暴力は農業革命に伴って、すなわち人々が私有財産を蓄え始めたときに、初めて現れた主張する学者いる」としてマルクス主義を紹介し、「一方、古代の狩猟採取民世界は並外れて残忍で暴力的だったと断言する学者もいる」とし、「どちらの考えも空中楼閣」とバッサリと切り捨てています。

 しかも、前掲の表1のように人類の誕生について「タカ派進化史観」と「ハト派進化史観」が争っていることをハラリ氏は知っていて「平和か戦争か?」というテーマを示して見せながら、「戦争や暴力」についてだけ述べ、「ハト派進化史観」に関わる「進化の主体」「進化の場所」「知能の発達」「頭脳の発達」「二足歩行」「道具使用」「火の使用・管理」「共同体」「家族形成」の全論点や事例の紹介は行なっていません。

 ドナウ川流域の400体の骨格から18体に暴力の痕跡が見つかった、スーダンの1万2千年前の墓地の52体の骨格の24体に鏃や槍の穂先が突き刺さっていたなどのショッキングな事例だけを取り上げ、ホモ・サピエンスが生まれた時から残虐であったかのように読者に強烈に印象付けながら、反対例は「ポルトガルイスラエルの無傷の骨格」としてしか言及していません。

 そして「平和や平穏を享受した場所も時期もあれば、残忍な争いで引き裂かれた場所や時期もあったのだ」と一般化し、エジプト・メソポタミア・インダス・ギリシア、日本などの具体的な場所での、旧石器時代から順を追っての検討を回避しています。特に、ハラリ氏はイスラエルの最高学府ヘブライ大学の教授なのですから、真っ先にイスラエルとその周辺のアフリカ・アジア地域の旧石器時代の歴史から順を追って明らかにすべきなのです。

 結論の「沈黙の帳」では、「古代狩猟採集民の生活の全体像を復元するのが難しい」と放り投げているのですから、インチキと言わざるをえません。

 「ホモ・サピエンスだけが嘘話(宗教)で団結し、他のネアンデルタール人やデニソワ人、フローレス人などを絶滅させた」というのがハラリ氏の主張であり、ユダヤ人が唯一絶対神ユダヤ教を発明して他民族を殺戮したのはこの残虐なホモ・サピエンスのDNAを受け継いだだけなのだ、ユダヤ教嘘話を発明したユダヤ人に罪はない、それはホモ・サピエンスが生まれた時から持っていた嘘話の認知革命(宗教)の原罪なんだ、とハラリ氏は主張したかったにも関わらず、狩猟採集民のことはよく解らんというのですから、詐欺という以外にありません。

 「近代や現代にも、肌の色や方言、あるいは宗教の些細な違いから、サピエンスの一集団が別の集団を根絶やしにかかることがくりかえされてきた」「サピエンスがネアンデルタール人に出会った時には、史上初の最も凄まじい民族浄化作戦が行われた可能性が十分にある」として、ユダヤ人のカナン人殺戮やヒトラーユダヤ人大虐殺が3万年前頃からのホモ・サピエンスの認知革命=嘘話から始まったと証明したかったはずですが、成功はしていません。

 「サピエンスの一集団が別の集団を根絶やしする」ことが神の命令としてはっきりと記されている紀元1世紀頃にユダヤ教で正典とされた旧約聖書であり、そこに書かれたモーセの歴史は紀元前16世紀あるいは13世紀ころのこととされており、それを3万年前のホモ・サピエンスの認知革命に遡らせるなど、時空を無視したハラリ氏のペテンという以外にありません。「古代狩猟採集民の生活の全体像を復元するのが難しい」と結論づける以上、「サピエンスがネアンデルタール人に出会った時には、史上初の最も凄まじい民族浄化作戦が行われた可能性が十分にある」などと空想を述べるべきではありません。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

「帆人の古代史メモ 『琉球論8 天皇家と沖縄を考える―龍宮=琉球説から』」の紹介

 ライブドアブログ「帆人の古代史メモ」に「琉球論8 天皇家と沖縄を考える―龍宮=琉球説から」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/

 縄文社会・文化・文明論とは直接は繋がりませんが、縄文からスサノオ大国主建国、邪馬壹国(邪馬台国)、天皇家の権力奪取への歴史的な流れとしてみていただければと思います。

 5月15日の「沖縄復帰50周年記念式典」において、徳仁天皇は御所からオンライン出席し、「一方で、沖縄には、今なお様々な課題が残されています。今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」とのメッセージを寄せました。

 この発言に触発され、『季刊日本主義』43号(2018年秋)の「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ-記紀の記述から『龍宮』=『琉球』説を掘り下げる」、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)改訂版(2020年1月)の「海人(あま)族の海神信仰」をもとに、「龍宮=琉球説」と大和初代天皇の若御毛沼(ワカミケヌ:8世紀に神武天皇諡号)の母・祖母が琉球人であるという説を紹介し、天皇家記紀に書かれた自らのルーツを明らかにすべきと提案しました。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート138 縄文人の霊(ひ)宗教と『旧約聖書』

 楽天ブログ「NOWAR2022」の「26 ロシア兵の残虐性は『旧約聖書』ゆずり?」において、縄文人の女神・霊(ひ)信仰とそれを受け継いだ大国主の全ての死者を神として祀る「八百万神」宗教とはあまりにも異なるユダヤ・キリスト・イスラム教の聖典旧約聖書」について、ウクライナ戦争でのロシア兵の残虐行為から考えてみました。

 以下、参考のために転載しておきたいと思います。

 なお、本日アップした「27 ユダヤ教聖典の『旧約聖書』と『タルムード』の残虐性」と合わせてご覧になっていただければ幸いです。―記事一覧 | NoWar 2022 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

 

      楽天ブログ「NOWAR2022 26ロシア兵の残虐は『旧約聖書』ゆずり?」

 トルストイは真面目に働き、小悪魔・悪魔(ロシア正教会の司祭や総主教)に騙されないロシア民衆を『イワンの馬鹿』の童話に書いて希望を託しており、私も同じでしたが、プーツァーリ・プーターリンのウクライナ侵攻をロシア国民の8割が支持し、ロシア兵が次のような残虐行為を行っていることに対し、なぜなんだと考え続けてきました。―楽天ブログ・NOWAR2022「25 『イワンのばか』の大悪魔の正体はロシア正教会総主教」参照

 ナポレオン・ヒトラーの相次ぐ侵略を受けて多くの犠牲者を出し、恋人を戦地に送り、失った女性の気持ちを「ともしび」や「山のロザリオ」「カチューシャ」で哀愁を込めて歌ったロシア人はどうなったのでしょうか?―楽天ブログ・NOWAR2022「24「山のロザリア」とロシア」参照

 

CNN.co.jp : ロシア軍に深く根付いた「残虐行為の文化」 - (3/3)  2022.04.07

ロシア軍が残虐行為を行う単純な理由 専門家が証言する「緩みきったロシア兵」の振る舞い(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース4/8(金)

ロシア軍、民間人を即決処刑、女性の皮膚を切り暴行…凄惨な戦争犯罪が明らかに (biz-journal.jp) 2022.04.04

ロシア軍が「数百件のレイプ」 ウクライナ大統領 写真6枚 国際ニュース:AFPBB News4月13日

国際法を完全無視したロシアの残虐性、その歴史的背景(JBpress) - Yahoo!ニュース4/22(金)

ロシア兵を「残虐」にしたものはなにか ウクライナに学ぶ日本の安全保障 | | 森永卓郎 | 毎日新聞「政治プレミア」 (mainichi.jp)  2022年4月25日

世界を震撼させたウクライナ市民の虐殺 第一次世界大戦まで遡るロシア軍兵士「残虐性」の思想〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース5/7(土)

許されざるロシア軍の暴虐に、国家による市民や兵士「命の軽視」の歴史 専門家の懸念(1/3)〈dot.〉 | AERA dot. (アエラドット) (asahi.com) 2022/05/07

 

 私が第1に考えたのは、ルーシ(キエフ大公国)がモンゴルの侵略・支配を受けたことにより異民族虐殺の文化を受け継いだ可能性です。「タタールのくびき」の裏返しです。

 第2は、ナチスドイツの「劣等民族スラブ人」虐殺を真似した可能性です。

 第3は、スターリンによる大粛清(記録だけで75万人)の影響を考えました。

 第4は、侵略軍はゲリラ的な抵抗にあい、ウクライナ住民とウクライナ兵の見分けがつかず、住民を無差別あるいは選別して殺戮してしまうことです。これは大日本帝国軍が中国や東南アジアでやったことであり、アメリカがベトナムイラクアフガニスタンで行った無数の例が示しています。

 第5は、ロシア軍が中世軍の伝統を残し、軍隊内のならず者を取り締まる軍律が厳しくない可能性です。織田信長の軍律の「一銭切り(一銭でも盗みを働けば死罪)」などは、実際には略奪が横行したことを示していますが、ロシア軍が「解放軍」としての思想性などない「中世的帝国軍」であることを示しています。

 第6は、貧富の差が激しく、貧しいロシア兵が豊かなウクライナ人・西欧への憎しみから、殺戮や強姦、略奪を行った可能性であり、ベラルーシからロシア兵が貴金属や電気製品の略奪品を故郷に行っていることが確認されていますし、占領した住宅内での略奪・破壊の痕跡が多くの写真から裏付けられます。

 第7として、私はトルストイがあげた「大悪魔=ロシア正教」について述べないわけにはいきません。

 ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』を批判する中で、カナン征服にあたってユダヤ人が異教徒殺戮を正当化するために「ヤハウェ神」を発明し、キリスト教の神「ゴッド・キリスト・精霊」、イスラム教の「アッラー」もそれを受け継ぎ、殺戮戦争を神の意志として行う文化が根強く西欧と東欧・中央アジアに残っていると考えるようになっています。

 ユダヤ教のこの「他民族殺戮神」の発明を誤魔化すために『サピエンス全史』を書いたユヴァル・ノア・ハラリ氏に対し、同じユダヤ系でありながらジャレド・ダイアモンド博士は『昨日までの世界 下』で旧約聖書の「申命記」(神命記を申命記としたのは、神=アマテラスと区別したのでしょう)の異教徒に対する残忍な内容を批判しています。

 私はダイアモンド博士の本を読むまで申命記のこのような内容は知りませんでいたが、ネットには申命記第20章が多く掲載されており、キリスト教徒にとっては常識なようです。申命記20章 | 大田原キリスト教会 (otawara-church.com)より引用します。アンダーラインは筆者です(以下同)。

 

 町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない

 もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい

 しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。

 非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。

 

 さらにヨシュア記は次のように記しており、一部を紹介します。ヨシュア記(口語訳) - Wikisource 

 高校時代でしょうか、「ジェリコの戦い:Joshua fit the battle of Jericho」を何も知らずにジャズナンバーとして歌っていましたが、侵略を鼓舞する歌だったのです。『栄光への脱出』の主題歌「The Exodus Song」などもそうですが、知らず知らずのうちに「This land is mine God gave this land to me・・・」とイスラエルの侵略を支持するように洗脳されていたのでした。

 

 わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。

  あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。

  あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。・・・

  ヨシュアが民に命じたように、七人の祭司たちは、雄羊の角のラッパ七本を携えて、主に先立って進み、ラッパを吹き鳴らした。主の契約の箱はそのあとに従った。

 そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした

 そして火で町とその中のすべてのものを焼いた。ただ、銀と金、青銅と鉄の器は、主の家の倉に納めた。・・・

 イスラエルびとは、荒野に追撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、つるぎをもってひとりも残さず撃ち倒してのち、皆アイに帰り、つるぎをもってその町を撃ち滅ぼした

 その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。

 ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。

 ただし、その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである。

 

 これらの旧約聖書ロシア正教会から学んだロシア兵にとって、殺戮、女子どもの奴隷化、略奪は神の命令として、当然の行為とみなしている可能性があります。

 ロシア正教会のキリル総主教(毎回「キルリ=切るり」と書きそうになります)は、3月10日世界教会協議会(WCC)総幹事代行のイオアン・サウカ氏が3月2日、キリル総主教宛てにウクライナへの攻撃を止めるために「対話と交渉を通じて平和をもたらす努力」を求めた書簡に対し、「あからさまにロシアを敵とみなす勢力がその国境に近づいてきた」「NATO加盟国は、これらの兵器がいつか自分たちに対して使われるかもしれないというロシアの懸念を無視して、軍備を増強してきた」「ウクライナウクライナに住むロシア人を精神的にロシアの敵に作り変えようとした」とのべ、4月23日には「できるだけ早く内戦が終わり待望の平和が訪れますように」とプーツァーリ・プーターリンのウクライナ併合を支持する発言を行っています。

          

 「21 ロシア正教会首長プーチン宗教戦争」でも紹介しましたが、4月24日のBS-TBS報道1930(松原耕二・堤伸輔・パトリック・ハーラン)は「ロシア正教のトップは元KGB?“信仰”と“侵攻” プーチン大統領と宗教の蜜月」では、ロシアにおいてプーツァーリが積極的に宗教軍事国家化を進め、かつての大日本帝国兵士を神社が鼓舞して戦場に送り出したのと同じように、司教がロシア兵を祝福して戦場に送り出すのです。

     

     

 兵士たちは旧約聖書に書かれた神の命令を伝える司祭たちによって、カナンなどを征服したイスラエル兵と同じように、男は殺し、女子どもは奴隷にし、略奪することに疑問は感じないでしょう。「汝の敵を愛せよ」としたキリストの教えとは明らかに矛盾しています。

 また、ウクライナ正教会ロシア正教会から独立の動きを見せているのに対し、ロシア正教会キリル総主教はウクライナでの宗教支配を維持するために旧ロシア帝国時代のように、プーツァーリウクライナ支配を支えているのです。

     

 神を信じる人の割合が40%ほどの日本人にはなかなか理解しにくいのですが、神の存在を信じる人が70%を超えるロシアとウクライナの戦争は宗教戦争の要素も持っている可能性がありそうです。日本の若者が信心深くなっている…旧共産陣営ロシア・ベトナムと並び「神の存在を信じる人」増加の謎 社会主義の凋落が生む「宗教回帰」 (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)参照

  

 さらに、ヒトラーカトリック信者であり、ドイツ人がカトリックプロテスタントであり、そのナチスと戦ったロシア正教会の信者にはプーツァーリの「反ナチ」煽動に容易に同調した可能性が高いと考えられます。

 私はこれまで反戦平和・人権問題に真剣に取り組んできたキリスト教の牧師・信者の人たちを多く知っていますが、旧約聖書聖典とし、神の命令として行われたユダヤ人の侵略・殺戮・奴隷化・略奪の歴史を受け継ぐのかそれとも批判するのか、侵略軍の戦意を高める神を命令をそのまま信じるのかどうか、問う必要があるのではないでしょうか?

 ユダヤ人・スラブ人差別・迫害・虐殺を行ったヒトラーナチス党員がカトリックプロテスタント信者であった事実からこそ、ユダヤ人やスラブ人は旧約聖書聖典とすることに疑問を持つべきなのではないでしょうか?

 なお、大日本帝国軍が「世界を照らす(支配する)アマテラスの子孫である天皇」を神として侵略戦争に国民を動員したことの反省は、未だに伊勢神道では行われておらず、天皇・政府関係者の伊勢神宮参拝が続いていることからみても、戦争に果たす宗教の役割を問うことは日本人にとっても大きなテーマといえ

ます。