ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート118 諏訪への鉄の道

 古部族研究会編の『諏訪の祭祀と氏族』に触発され、「縄文118 『白山・白神・天白・おしらさま』信仰考」では伊勢(大国主一族)と諏訪の宗教における繋がりを書きました。

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 続いて「伊勢から諏訪への鉄の道」について考察を進め、縄文1万数千年の歴史と紀元1~3世紀のスサノオ大国主建国との繋がりを解明したいと考えたいと思います。

 縄文研究・民俗研究が最も進み、大天白神・御左口(みしゃぐち)神・道祖神信仰や御柱祭が今に伝わる諏訪と、記紀風土記文献と神社伝承が濃く残る播磨・吉備・伊勢を「鉄の道」で結びつけることにより、紀元1~4世紀の歴史は解明できると考えます。

 

1 伊勢国の麻績(おみ)の御糸村

 今井野菊氏は「伊勢津彦命、天日別命に伊勢の国を天孫に奉る約束をして諏訪に入る」(伊勢国風土記)を引用し、「お明神さまのお后さまは、伊勢の国の麻績(おみ)の御糸村の八坂彦命の娘だそうナ」と聞いて育ち、伊勢に赴いて「御左口神あり、出雲神あり、大天白神あり、御左口神祭祀の記録あり、神楽歌あり、上宮文庫あり、・・・・諏訪人が諏訪人なりの目や耳をもって聞きますと、伊勢の国ほど諏訪に近いところはなく、まさに祖母神八坂止女命のなつかしいふるさと、伊勢の国でした」とし、伊勢と諏訪の宗教・文化・交流を指摘しています。

 この「伊勢の国の麻績(おみ)の御糸村」は現在の多気明和町で、松阪市伊勢市の中間の海岸部に位置し、7世紀には伊勢神宮の祭祀を行う皇女が派遣された斎宮が置かれるなど、古くから三重県南部の中心地でした。

   南西に約23km離れた松阪市の粥見井尻遺跡からは13000年前頃の日本最古級の女性土偶が発見され、この地には縄文草創期から人々が居住しています。―縄文ノート「69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」「75 世界のビーナス像と女神像」参照

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 さらに約15㎞離れた埴山(はにやす)姫を祭神とする丹生神社のある多気町丹生の丹生鉱山では縄文時代から辰砂(しんしゃ:硫化水銀)の採掘が行われて土器の着色等に使用され、東大寺大仏殿の金メッキに使われた約2tの水銀はこの鉱山の辰砂から製造されています。「麻績の御糸村」名に見られる麻織物と合わせてこの地域は縄文時代からの重要な鉱工業地帯であったと重要な地域と考えれられます。

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2 八坂彦について

 八坂刀売(やさかとめ)諏訪大社上社前宮と下社春宮・秋宮の主祭神で、夫は上社本宮に祀られた建御名方ですが、そのルーツは伊勢なのでしょうか?

 「八坂」というとまずは地形・地名からきている可能性がありますが、大町市(旧八坂村)にはあるものの諏訪には地名がなく、八坂神社は松本市千曲市安曇野市などにありますが、疫病除けのために京都の八坂神社からスサノオの分霊を勧請したもので起源は古くはないようです。三重県では北部の平野部の桑名に「八坂」地名があり、いなべ市の丹生川の近くや菰野町に八坂神社がありますが、南部の明和町などには見られません。

 地名説では、イヤナミ(伊邪那美)が葬られた出雲の「揖屋」の黄泉との境の「伊賦夜坂(いふやさか)」からきた可能性があるほか、「弥栄(いやさか=万歳)」を後世に「やさか」と呼んだ可能性も考えられます。

 斉明天皇2年(656年)創建の京都の八坂神社についてみると、疫病退散のために、播磨(姫路)の広峯神社からスサノオの神霊が山車(後の山鉾行列)に乗せられて京都に運ばれていますが、社伝では東御座にスサノオの8人の御子(八島篠見、五十猛、大屋比売、抓津比売、大年、宇迦之御魂=稲荷、大屋毘古、須勢理毘売)が祀られていることからみて、「八坂」は四国・近畿・中部・関東に多い「八王子神社」と同じようにスサノオの8人の御子を「弥栄(いやさか)」する名前とみる説の可能性もあります。

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 ここで興味深いのは、八坂神社の東御座には実際には蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られていることからみて、8人の御子説は後世の付会であり、「八坂」は元々は「ヤマタノオロチ(八岐大蛇)王」に由来する名前の可能性があると私は考えています。その可能性については後に「鉄」の分析で述べたいと思います。

 なお「蛇」は倭音倭語では「へび、み」ですが、呉音漢語では「ジャ、タ、イ」、漢音漢語では「シャ、タ、イ」のほか慣用音の「ダ」があり、蛇毒気神(だどくけのかみ=じゃどくけのかみ)は龍蛇神・蛇神・海蛇神信仰のスサノオ一族に関係している名前と見られます。

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 「八坂刀売(やさかとめ)」の由来が伊勢の八坂彦由来である可能性については確定できませんでしたが、いずれにしてもスサノオゆかりの名前の可能性が高いと考えます。

 

3 天白神・御左口神・倭系神の諏訪への先後論

 今井氏は御左口神・出雲神・大天白神とも、伊勢津彦あるいは八坂彦命により伊勢からワンセットで諏訪に伝わったかのように書いていますが、一方では、前回引用したように「天白神信仰民は原始農耕・原始漁撈の人たちで、遺跡は原始狩猟民よりも山岳を下った海辺や河川に住み、沼地などで水稲文化の御左口神を受け入れて共存共営した」と書き、さらに「(注:天白神信仰の)麻や菜種・粟・稗等を作っていた焼き畑農耕神が先住者で、稲文化を持ち込んできた御左口(みしゃくじ)神があとから土着して祭られた神であると推考するよりほかはない」とも書き、天白神信仰→御左口神信仰の2段階伝来説の迷いが見られます。

 そして「草分け土着民の天白信仰と御左口神信仰の氏子たちと、更にあとから移動して来たであろう倭系神とその氏子の対立話」「御諏訪さまはじめ出雲神・天白神・御左口神を産土神として祀る山地や平地の中へ、倭系神の鎮守さまが割り込んで権勢を張ったと伝える話」を伝え、建御名方の諏訪神信仰が加わり、さらに大和天皇家による倭系神の進出があったとしています。

 今井氏は「原始狩猟→原始農耕(焼畑)・原始漁撈→稲作」という3段階時代区分と、「原始狩猟民宗教(石棒・石皿?)→天白神信仰→御左口神信仰→出雲・諏訪神信仰→倭系神信仰」という5段階の宗教変遷説を提示しており、その分析・整理は高く評価されますが、それらと守矢氏・伊勢津彦・八坂彦・諏訪氏の関係、縄文時代の妊娠・女神土偶や環状列石、御柱信仰、蓼科山の女神(めのかみ)=武居夷(たけいひな)・ヒジン(霊神)信仰との関係、縄文からの蛇神・龍神信仰との関係、御左口(みしゃぐち)=御蛇口の可能性、陸稲栽培の可能性、石皿(筆者説は石臼・石すり鉢説)と採集・原始農耕との関係、黒曜石や鉄器の役割など、未解明・未整理の論点がまだ多く残されていると考えます。―縄文ノート「98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社」「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」等参照

 なお、現段階の私の考察は、今井氏らの全ての著作を読む前のメモであることをお断りしておきます。

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 また「守矢氏=縄文人」「諏訪氏弥生人」とする説もあり、私は「縄文ノート100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」などにおいて守矢氏=物部氏スサノオ系、建御名方=大国主系として整理しましたが、すべてをここで再検討する必要がでてきました。特に鉄と水利水田稲作の伝播と合わせて総合的に検討したいと考えます。

 

4 播磨から伊勢に移った伊勢津彦

 私がこれまでスサノオ大国主建国論から伊勢津彦につい書いてきたことをまず紹介しておきたいと考えます。

⑴ YAHOOブログ「霊の国:スサノオ大国主命の研究」(廃止)

 ―「51 『霊の国史観』の方法論20:霊(ひ)の国の地名論2 人名にちなむ地名」

 

 播磨国風土記の揖保郡には、次のような興味深い記述が見られる。

 

  『伊勢野と名づけた処以(ゆえ)は、この野、人の家ある毎に、静安(やす)きことえず。ここに、衣縫猪手、漢人刀良等の祖(おや)、この処に居らむとして、社を山本に立て敬い祭りき。山の岑に在す神は、伊和大神(注:大国主)の子、伊勢都比古命・伊勢都比売命なり。これより以後、家家は静安くなり、ついに里を成すこと得たり。即ち伊勢と号く」(沖森卓也佐藤信・矢嶋泉編著『播磨国風土記』をもとに一部、読みやすいようにした)

 

 ここから、明らかなことは、伊勢都比古命・伊勢都比売命の名前から、伊勢の地名が付けられたとされていることである。

 『伊勢国風土記』には、「伊勢と云うは、伊賀の安志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり」と書かれており、伊勢国の名前もまた、伊勢都比古命(伊勢津彦命)から付けられていることが明らかである。

 

⑵ Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」

 ―「88 摂津・播磨・丹波・丹後の古墳・神社を訪ねて その1」

 

 「この安師比売(あなしひめ)を祀る安志姫神社は13代成務天皇の時代に大和の穴師坐兵主(あなしにますひょうずじんじゃ)神社(兵主神大国主)から当地に勧請し祭祀したと伝えられているが、播磨国風土記の記載からみて、元々、安志姫はこの安師の地の神と考えられ、大和に穴師族とともに移ったと考えられる。後述する伊勢津彦はこの林田川を下ったところに祀られており、伊勢国風土記逸文では『伊賀の安志(あなし)の社に坐す神』としていることからみて、同じように穴師族とともに伊勢に移ったと考えられる。なお、砂鉄採取に従事する人たちを『鉄穴師(かなじ)』と呼ぶことから見て、『穴師』は穴を掘って銅や鉄など鉱石の採掘に従事していた集団と考えられる」

 「古事記では『天火明命』は天忍穂耳命の子(ニニギの兄)とされているが、播磨国風土記では火明命は大国主の子となっている。播磨国風土記には大国主の子の伊勢津彦が登場し、伊勢国風土記逸文ではこの伊勢津彦を伊賀の安志(あなし)の社に坐す神としていることからみて、大国主の子どもたちが、播磨から丹後(火明命)、尾張(同)、伊勢(伊勢津彦)、葛城(アジスキタカヒコネ)、紀伊(丹生都比売)など、各地に勢力を広げた可能性が高い。」

 

 伊賀の穴石神社(あないしじんじゃ)奈良県桜井市の纏向の穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)系とされ、兵主神は播磨総社では大国主の別名としていることからみて、播磨国風土記伊勢国風土記と合わせて考えると、大国主の御子の伊勢津彦は播磨から大和の纏向、伊賀、伊勢へと移り、さらに伊勢から諏訪に移ったことになります。

 ただ、古事記によればスサノオ大国主は7代離れていることからみて、スサノオや御子の大年(大物主)、アマテル(天照)などは代々襲名していることが明らかであり、伊勢から諏訪に移った伊勢津彦が播磨から伊勢に移った伊勢津彦と同一人物なのか、それともずっと後の時代の後継王なのかは検討の必要があります。また伊勢国御糸村の八坂彦命は伊勢津彦より先に諏訪に入っていたのか、それも同時なのか、要検討です。

 さらに、大国主と越の沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)との間に生まれ、大国主の御子間の後継者争い(天照一族の征服ではないと私は考えます)で筑紫日向(ひな:蜷城(ひなしろ))の穂日・日名鳥親子に敗れた建御名方は、出雲から諏訪の八坂氏や守矢氏を頼って逃れてきたのか、それとも伊勢の八坂刀売(やさかとめ)とは出雲で縁結びにより夫婦となり、共に諏訪に逃れてきたのかも要検討です。

 

5 スサノオ大国主建国論

 信州・諏訪における縄文時代から鉄器時代の水利水田稲作時代への移行と守矢氏や伊勢津彦・八坂彦・建御名方の関係を論じるためには、前提として「スサノオ大国主建国」史の全体をまず見ておく必要があります。

 温帯ジャポニカ水稲栽培が弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服によってもたらされたとする稲作起源・弥生人征服説は人とイネのDNA分析、さらには倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の2層構造、日中韓史書により成立せず、縄文人の内発的・自律的発展としてスサノオ大国主建国がなされたという私の説全体は再掲しませんが、スサノオ大国主建国説についてだけはざっと紹介しておきたいと思います。―『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)等参照

 このブログをすでにご覧になっておられる方は、パスしていただければと思います。

⑴ 「委奴国王」スサノオ

① 桓武天皇第2皇子の52代嵯峨天皇(三筆の一人、最澄空海を優遇、源氏の祖)は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈るなど、天皇家スサノオ大国主一族の建国を公認し、スサノオを「天王(てんのう)」と呼ぶことを公認しています。天皇家スサノオ建国を認めているのです。

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 後のこの地の領主であった織田信長(先祖は福井県丹生郡越前町織田のスサノオを祀る剣神社の神官)はその歴史・伝統を受け継ぎ、自らの安土城に「天主閣」を設け、スサノオ天王の後継王の「天主」たらんとしました。

 ② 紀元57年の後漢光武帝の「漢委奴国王」の金印付与、59年の4代新羅王の倭人の脱解(たれ)の倭国との国交(三国史記新羅本紀)、スサノオ・イタケル(五十猛=委武)親子の新羅訪問記載(日本書紀)からみて、百余国の「委奴国王」(筆者説:いな国王=ひな国王)はスサノオ以外にありえません。

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③ スサノオは大人になっても母の根の堅州(かたす)国に行きたいといって泣いたと貶めて太安万侶古事記に書き、秘かにスサノオは出雲の揖屋でイヤナミ(伊邪那美)から生まれた長兄であることを伝え、イヤナミの死後に筑紫に移ったイヤナギが各地で妻問いして生んだ綿津見3兄弟、筒之男3兄弟、天照(アマテル)、月読らはスサノオの異母弟・異母妹であるという真実の歴史を記しています。太安万侶聖徳太子蘇我馬子による「国記」をもとにして、スサノオを天照・月読などの末弟にしながら、スサノオ長兄の真実の歴史を巧妙に神話的な物語として伝え、残したのです。中国の司馬遷とはまた異なるタイプの歴史の表裏を書き伝えた「史聖」と太安万侶を呼びたいと考えます。

④ 古事記によれば、スサノオはイヤナギ(伊邪那岐)から「海原を知らせ(支配せよ)」と命じられた海人族の王であり、安曇族の綿津見3兄弟に後漢との交渉に派遣し、その本拠地の志賀島に「朝貢貿易」に必要な金印を保管させたと考えられます。

⑤ 『新唐書』は、天皇家の祖先を「天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以『尊』爲號(ごう)、居筑紫城。 彦瀲の子神武(じんむ)立」としていますが古事記には始祖・天御中主から薩摩半島西南端の彦瀲(ウガヤフキアエズ)までは16代しかなく、「16代の欠史」が見られる一方、「スサノオ大国主16代の建国神話」が挿入されており、真実の歴史は「天御中主~イヤナギ・イヤナミ」11代、「スサノオ大国主」16代、「アマテル・オシホミミ」の高天原(筑紫日向)2代、笠沙・阿多の「ニニギ・ホヲリ・ウガヤフキアエズ」3代の合計32代と考えます。

 そして30・40代天皇の確実な即位年から最小二乗法で計算すると、スサノオの即位年は紀元60年となり、紀元57年、59年の後漢新羅との委奴国王の遣使・交易と符合します。―「『古事記』が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)」「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者(『季刊山陰』38号)」「スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―」参照

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⑥ 「倭国王師升(すいしょう)」の後漢への107年の遣使は、102年即位推定年のスサノオ5代目「淤美豆奴(おみずぬ)」に「すい=みず」が対応し、146~189年頃の「倭国大乱」はスサノオ7代目の大国主が筑紫で鳥耳に妻問いしてもうけた鳥鳴海(襲名したアマテル)の即位推定年122年の次の代になり、大国主の筑紫日向(ちくしのひな)のホヒ・ヒナトリ親子対出雲・諏訪(事代主・建御名方)の後継者争いの「国譲り」と符合します。

⑦ さらに「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國乱相攻伐歴年」の「7~80年の男王時代」はスサノオ大国主7代に符合し、「百余国」から「九州30国」の邪馬壹国(やまのいのくに)が反乱・分離独立したことに符合し、卑弥呼が魏へ遣使した238年は筑紫大国主王朝10代の次のアマテル(天照:代々襲名)の即位推定年の紀元225年の次の代となります。

 紀元1~3世紀の日中韓の文献をそのまま読めば、紀元1~3世紀のスサノオ大国主一族の建国の歴史は完全に解明できるのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

⑵ 「鉄交易王」スサノオ

① 魏書東夷伝によれば、3世紀の倭人辰韓(後の新羅)の鉄を「従いてこれを取る」新羅王脱解(たれ)と委奴国王スサノオの官制交易と「諸市買、皆鉄を用いる」(壱岐対馬の海人族の「乗船南北市糴(してき)」の「入+米+羽+隹(とり)」の鳥船による民間交易)の2ルートで米鉄交易が行っており、前者が「百余国-三十国」の出雲を中心とした「天鄙(あまのひな)国」(李巡)、後者が三十国の筑紫日向(ちくしのひな)記紀記載の高天原を王都とする「倭人国=邪馬壹国(山のいの国)」であったことが日中韓3国の記録から明白です。

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 スサノオはイヤナギから「海原を知らせ」と命じられたとおり「日中韓の交易・外交王」であったのです。

② 『三国遺事』に、脱解(たれ)は現在の慶州市(新羅王国の首都・金城)で「この家がある場所は元々私の土地だ。私の祖先は鍛冶屋だったから、掘れば砥石や炭が見つかるだろう」(『日朝古代史 嘘の起源』より)と述べた書かれていることからみて、倭人新羅で鉄製品を製造していたことが明らかであり、スサノオは米鉄交易だけでなく新羅訪問で製鉄技術を持ち帰った可能性が高いと考えます。

③ スサノオヤマタノオロチ王を切った「十拳剣(とつかつるぎ)」(古事記)を日本書紀は「韓鋤剣(からすきのつるぎ)」としており、「韓鋤(からすき)」の軟鉄を鍛えなおした十拳=十束=約1mの鉄剣であり、スサノオ一族の鍛造技術を示しています。

⑶ 「製鉄王」ヤマタノオロチスサノオ

① 出雲を支配していたヤマタノオロチ王の草薙刀が、天皇家皇位継承三種の神器(剣・鏡・玉)の1つとして天皇家の武力統治の象徴とされ、スサノオを祀る八坂神社の左殿に「蛇毒気神」が祀られていることは、吉備のヤマタノオロチ王の親族は「蛇毒気神」としてスサノオの最高の補佐役に取り立てられ、「ヤマタノオロチ王→スサノオ天王→天皇家」へと王位継承が行われた歴史を示しています。

② スサノオが「十拳剣」でオロチ王を切った時、オロチ王の「都牟刈(つむがり)乃大刀(草那藝之大刀)」によりスサノオの剣の刃が欠けたというのであり、十拳剣(韓鋤剣)は韓鋤鉄を剣に作り変えた「軟鉄刀」、草那藝之(くさなぎの)大刀は後のハイテク日本刀のような「軟鉄と鋼鉄を合わせて鍛えた大刀」の可能性が高いと考えます。

③ 日本書紀によれば、ヤマタノオロチ王を切ったスサノオの十拳剣=布都之魂は吉備の神部(赤坂郡=現赤磐市)の備前一宮の石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)に物部氏により祀られており、この地には布都之魂についた血を洗ったとする伝説がある血洗の滝・血洗池があります。

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 出雲国風土記にオロチ王の本拠地や歴史が書かれておらず、古事記が「高志(こし)八俣遠呂智やまたのおろち」としていることからみて、オロチ王は中国山地を越して出雲を支配した吉備製鉄王であり、スサノオはオロチ王を討って出雲を解放するとともに、その本拠地の赤坂を支配したと私は考えています。

 なお、石上布都魂神社のスサノオの十拳剣(布都之魂)は、仁徳天皇の代に大和の石上神宮に遷され、物部氏により祭られています。

④ 出雲では鉄鉱石は産出せず、吉備から播磨にかけて鉄鉱石を産しており、「赤坂」は赤鉄鉱(赤目砂鉄)の産出地であり、5世紀後半には岡山県内第3の規模の両宮山古墳が築かれ、8世紀には備前国分寺が置かれ、下流の長船は備前長船刀の産地であり、黒田官兵衛の先祖の地でした。

⑥ 出雲の金屋子神社などの伝承によれば、出雲のたたら製鉄金屋子神により図のように「播磨→吉備→伯耆→出雲」へと伝えられており、石上布都魂神社のある赤坂は播磨の宍粟から吉備中山へのルートの途中の古代の重要な製鉄拠点であり、この赤坂を支配したスサノオは「朱砂王」と呼ばれた赤目(あこめ)砂鉄製鉄王と私は考えています。なお、吉備津神社のある吉備中山は、「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」(古今和歌集)と詠まれたように鉄の産地であり、後に天皇家の進出拠点となります。

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⑦ 関の孫六や村正で有名な刀工・赤坂関派の本拠地は岐阜県赤坂町(現大垣市)に赤坂鉱山があることからみても、「赤坂」地名や播磨の「赤穂(あこう:赤生)」「明石(あかし:赤石)」などは赤目砂鉄・赤鉄鉱の産出であったと考えます。

⑧ 前述のように京都・八坂神社の東御座に蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られていることからみて、ヤマタノオロチ王の同族はスサノオの建国を助けたことにより京都・八坂神社の左殿に祀られ、その大刀は美和の大年(大物主)一族が継承し、後に大物主(代々襲名)の権力を奪った天皇家皇位継承のシンボル「三種の神器」の1つとされたのです。なお、現在、熱田神宮に祀られている「草薙の剣」は銅剣であり、オロチ王の「草那藝之(くさなぎの)大刀」とは異なる後世のニセモノであり、「剣と大刀」「銅と鉄」の違いを無視する歴史学者たちの空想には困ったものです。

⑨ スサノオの御子の大年が美和(三輪)を拠点として「大物主」と呼ばれ、スサノオが「大物主大神」として祀られており、赤坂の石上布都魂神社や大和の石上神宮物部氏が祀っていることからみて、私は紀元1世紀頃からの赤坂・物部氏スサノオ(大物主=大神主)の部民となったオロチ一族の可能性が高いと考えています。

 一方、物部氏にはアメノホアカリ(天照国照彦天火明櫛玉饒速日)を始祖とする尾張・海部氏らがありますが、記紀がアマテル(天照大御神)の孫としているのに対し、播磨国風土記大国主の子とし、播磨のたつの市の粒坐天照神(いいぼにますあまてらすじんじゃ)などに祀られていることからみて、私は大国主スサノオ7代目)の御子と考えます。そして、大国主が赤坂・物部氏の王女に妻問いして生まれた御子であることから物部氏系と称した可能性があると考えています。

⑩ 『先代旧事本紀』(日本書紀以前に物部氏系により作成)は八坂彦を天火明の部下で「伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)」の祖としており、「麻続(おみ)」名は前述の「伊勢の国の麻績(おみ)の御糸村」に符合しています。従って八坂氏は大国主の御子の物部氏系であり、大国主の御子の伊勢津彦と同じく、伊勢から諏訪にはいったと考えられます。

⑷ 「鉄先鋤王」大国主

① 出雲国風土記は、大国主を「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」とし、その180人の御子の一人の阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)=迦毛(かも)大御神には「鉏(すき)」の名前を付けています。

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② 播磨国風土記の賀毛郡では、大水(おおみず)神の「吾は宍(しし)の血を以て佃(つくだ)を作る。故、河の水を欲しない」という陸稲栽培あるいは水辺水田稲作固執する王らを紹介していますが、大国主一族はそのような王たちを説得し、木鋤(こすき)の先に鉄を付けた鉄先鉏(鋤)により水路開削・農地開拓工事を行い、水利水田稲作への農業革命を行ったのです。

③ 大国主は「八千矛(やちほこの)神」の別名を持っており、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡から銅槍(通説は銅剣)・銅矛・銅鐸のわが国最大の集積地であることが明らかになったことから、スサノオ大国主一族を銅器時代の王とする説がみられますが、「五百鉏鋤(いおつすきすき)王=鉄先鋤王=スコップ農業土木王=水路水田開拓王」として鉄器稲作時代を切り開いた王と見るべきです。

④ 播磨国風土記には大国主の妻の佐用都比売(さよつひめ)が「金の鞍を得た」と書かれており、「12の谷あり。皆、鉄生ふること有り」の記述からみても佐用郡が鉄産地であったことが明らかです。この地は前述の金屋子神の本拠地である宍粟市千草町岩野辺(近くに美作富士と呼ばれる日名倉山)より南西に直線距離で19㎞ほどのところであり、播磨は隣接する吉備・赤坂とともに鉄生産の先進地であり、大国主がこの地の女王に妻問いして鉄器生産の拠点としたと考えられます。

⑸ 「穴師坐兵主神大国主

① 播磨国風土記によれば、大国主はこの作用郡では「鹿の腹を割いて稲をその血に種いた苗」を植えた玉津日女のもとを去り、その東約22㎞で金屋子神の本拠地から南東に22㎞ほどの宍粟郡安師村(現姫路市安富町)では安師比売(あなしひめ)に妻問いしてフラれ、川をせき止めて別の方向に流したので水量が減ったという話があり、佐用・宍粟両郡の製鉄部族の穴師集団に水利水田稲作を提案したが拒否されたことをリアルに伝えています。

② 出雲国風土記大国主を「大穴持(おおあなもち)」と伝え、播磨国総社や県北の但馬では大国主を「兵主(ひょうず=つわものぬし)神」としていることからみて、奈良県の美和(三輪)の纏向(間城向)の祭祀の中心の穴師坐兵主神社(元は穴師坐大兵主神社)は、穴師山の山中・弓月岳にあった穴師坐兵主神社と穴師山にあった卷向坐若御魂神社を合祀しており、この地は大国主一族の製鉄と祭祀の拠点になります。

③ 古事記は、少彦名の死後、御諸山=美和山(三輪山)に大物主(大物主大神スサノオ)を祀ることを条件に、大国主と大物主は国を「共に相作」としており、大国主・大物主連合は、大国主一族が美和山の大物主大神スサノオ)を祀ることによって成立したのです。

 この美和山(三輪山)467mは穴師山409mの真南1.5kmのところにあり、三輪山を神体とする麓の大神(おおみわ)神社は主祭神大物主大神スサノオ)、配神を大己貴(おおなむち:大国主)・少彦名(すくなひこな)とし、大物主を三輪山の蛇神としています。出雲大社が「龍蛇神」=「龍神様」を祀っているのと同様に、海人(あま)族の海神信仰を示しています。

④ 少し脱線しますが、次図に明らかなように「纏向矢塚古墳-纏向石塚古墳-大型建物-珠城古墳」はほぼ一直線に古くは巻向山(古くは穴師山)を向き、「箸墓古墳-ホケノ山古墳-穴師坐兵主神社」や「崇神天皇陵」もまたこの穴師山を向いて配置されています。これらの「直線配置」は、纏向が穴師山を神名火山(筆者説:神那霊山)とする天神信仰大国主一族の拠点であったことを示しています。

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 「箸墓古墳卑弥呼墓」「大型建物=卑弥呼宮殿=太陽信仰神殿」「卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメ」「卑弥呼=アマテル」説など、魏書東夷伝倭人条と記紀をまともによみ、神社祭神と神名火山(神那霊山)信仰を考えると成立の余地は100%ありません。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 

⑹ 「水穂国王・天下経営王・稲作技術王・百姓王」大国主

① 古事記大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には大和の美和(三輪)の大物主(スサノオの子の大年一族:代々大物主を襲名)と国を「共に相作り成し」し、その国名を「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国(みずほのくに)」とし、日本書紀の一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝え、出雲国風土記は「所造天下大神」(天の下つくらしし大神)としています。―「縄文ノート「24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」「28 ドラヴィダ海人・山人族による稲作起源説」参照

② 記紀スサノオ7代目の大国主をこの国の建国者として認めているのですから、古代史研究はスサノオ大国主7代の建国からスタートすべきです。大国主は「五百鋤々王」「千年水穂国王」「天下経営王」「稲作技術王」「百姓王」として記紀に書かれ、奈良時代には広く人々に認められていたのです。

③ 「千秋長五百秋水穂国」という表現は荒唐無稽な誇張ではなく、紀元1~2世紀のスサノオ大国主の時代から1000年前頃の紀元前930年頃の佐賀県唐津市の菜畑遺跡での水辺水田稲作の開始や、紀元前500年前頃の岡山県総社市の南溝手遺跡や岡山市の津島岡大遺跡の500年前頃の土器胎土内のプラント・オパールや籾痕のついた土器など、水利水田稲作の開始と符合しています。ー「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」参照

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⑺ 「朱丹王」大国主

① 前掲の最小二乗法による大国主の即位推定年は紀元122年ですが、同時代の出雲市の小高い丘の上の紀元200年頃の「西谷3号墳」には水銀朱が敷きつめられた木棺に王は葬られており、死者の霊(ひ)は山から天に昇り、死者は母なる大地の「棺=霊継ぎ」の血の中から「黄泉帰る」という魂魄分離(死者の魂と肉体分離)の宗教であったことを示しています。

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② 魏書東夷伝倭人条には、邪馬壹国の「山には丹あり」「朱丹を以てその身体に塗る」という記述があり、卑弥呼は243年に丹=辰砂(しんしゃ:水銀朱)を魏に献上しています。丹=は口紅に使うとともに、秦の始皇帝が愛用したように不老不死薬の水銀原料となり、最高級の朝貢貿易品でした。

③ 播磨国風土記には大国主の子の丹津日子(につひこ)が書かれ、風土記逸文には大国主の子の爾保都(にほつ)比売=丹生都(にゅうつ)比売が国造の石坂比売に乗り移って赤土を神功皇后に差し出し、「私を祀り、赤土を矛に塗って船首に建て、船や軍衣を染めて戦えば、丹波(になみ)でもって平定できるであろう」と神託を下したという記載があり、明石(赤石)の地名や神戸市北区の丹生山の丹生(にぶ)神社からみて、大国主一族が丹(水銀朱)やベンガラ(鉄朱:酸化第二鉄の赤色顔料)の生産を行っていたことを示しています。

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 「真金吹く」は吉備・丹生にかかる枕詞であり、万葉集で「真金吹く丹生のま朱 (そほ) の色に出て言はなくのみそ我が恋ふらくは」と詠まれたように鉄と丹(鉄朱・水銀朱)の生産は鞴(ふいご)で送風する精錬作業とみられていたのです。

 ④ 辰砂の産地は九州から伊勢地方まで、中央構造線沿いに各地に点在し、丹生神社・丹生都比売神社は辰砂(硫化水銀)や鉄朱(ベンガラ)採掘に携わった丹生氏の神社で全国に丹生神社88社、丹生都比売神社108社があり、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある丹生都比売神社が総本社で、紀伊国一宮となっています。

 奈良県御所市の高鴨神社は大国主の播磨の賀毛郡の御子のアジスキタカヒコネ(迦毛大御神)の拠点ですが、南西に直線距離で約24㎞のところに丹生都比売神社があることからみて、播磨の大国主の子の丹生都比売は賀茂族とともに明石郡からこの地にやってきた可能性が高いと考えられます。

⑤ 出雲市の3500年前頃の縄文後期終末期の京田遺跡の土器と石器から水銀朱の赤色顔料が見つかっており、硫黄の同位体比(δ34S)から北海道で採掘された辰砂鉱石が使用された可能性が高いとされており、貝やヒスイ、黒曜石だけでなく、水銀朱もまた縄文海人族が対馬暖流を利用して広域交易を行っていた可能性が高くなり、スサノオ大国主一族はその後継者であったことが明らかです。

⑥ 紀元前後の北九州に多い甕棺や石槨、石棺内部を朱で満たしている例からみて、スサノオ大国主一族は縄文時代からの伝統を受け継いで朱生産を支配し、古代王の送葬儀式を仕切ったと考えられます。卑弥呼が辰砂(しんしゃ)を魏に献上できたのは、卑弥呼が筑紫大国主一族の後継王であったことを示していると考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

6 伊勢から諏訪への鉄生産

① 前掲のように、記紀播磨国風土記伊勢国風土記三国史記新羅記、魏書東夷伝倭人条の記述と神社伝承・民間伝承を総合すると、鉄や朱の生産・交易を進め、沖積地などで水利水田稲作を普及させたのがスサノオ大国主一族であることが明らかです。

 播磨から大和・伊賀・伊勢への「鉄と丹生の道」をまとめると図5のとおりです。

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② 冒頭で書いたように今井野菊氏指摘の「伊勢津彦命、天日別命に伊勢の国を天孫に奉る約束をして諏訪に入る」(伊勢国風土記)、「お明神さまのお后さまは、伊勢の国の麻績(おみ)の御糸村の八坂彦命の娘だそうナ」と聞いて育ったということからすれば、八坂彦・伊勢津彦一族により伊勢から諏訪へ鉄器水利水田稲作スサノオ大国主系の神々の信仰が伝えられた可能性は高いと考えます。

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③ しかしながら、富士見町の金谷製鉄遺跡は「平安時代?」とされ、1800年前頃の佐久市西近津遺跡群の竪穴住居跡から出土した壺や高杯、鉢には赤彩がみられ千曲川流域の他の遺跡でもみられるようですが(『信州の遺跡』第7号)、諏訪地方でのベンガラ・水銀朱の利用は確認できておらず、製鉄とともに物証の裏付けはまだありません。

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 ベンガラについては、北海道・青森県縄文文化の系統の可能性もあり、赤色顔料の成分やその産地の探求が求められます。

④ なお、出雲から諏訪への建御名方の移住ルートは、母親が越の沼河比売(奴奈川姫)であることや上田市の生島足島(いくしまたるしま)神社の伝承、諏訪神社の分布などからみて日本海から姫川・信濃川をたどるルートと考えられます。

 

7 縄文人と守矢氏、八坂彦、伊勢津彦一族、諏訪氏の関係

 記紀風土記と諏訪の伝承からの検討結果を整理すると次のようになります。

① 守矢氏、八坂氏(八坂彦)、伊勢津氏(伊勢津彦)、諏訪氏(建御名方)は全てスサノオ大国主をルーツとする部族です。

 なお、大国主スサノオから70年程後の出雲スサノオ家の7代目で、大物主(美和スサノオ家)と協力し、米鉄交易と妻問夫招婚により百余国に部族連合の委奴国を建国しますが、赤坂スサノオ家の物部氏など他の国のスサノオ後継王家に妻問いしている可能性があります。

② 『先代旧事本紀』は八坂彦を天火明(大国主の播磨を拠点とした御子)の部下としていますが、京都・八坂神社で左殿にスサノオ神を補佐する「蛇毒気神」が祀られていることからみて、備前赤坂・物部氏スサノオヤマタノオロチ王一族の御子の系統)の可能性が高いと考えます。

③ 鉄器水利水田稲作を諏訪にもたらしたのは、前後関係はともかくとしてこの4部族になります。

 さらに、これまで「縄文ノート」でまとめてきたことから、次のように考えます。

④ 諏訪大社の下社春宮・秋宮の祭神が八坂刀売であり、御神渡(おみわたり)の神事が諏訪明神が上社から下社の女神の所に行く神幸とされていることからみてから見て、建御名方は先住していた諏訪湖畔の八坂刀売に妻問いしたと考えられます。

⑤ また諏訪大社上社前宮の祭神が八坂刀売であり、その祭祀を守矢氏が行っていることからみると、守矢氏と八坂氏は同族であり、その神長官(じんちょうかん)であった可能性があります。守矢(洩矢)氏は建御名方に対抗して破れ、娘は建御名方に嫁ぎ、上社前宮の祭祀を主催するとともに神長官(じんちょうかん)として諏訪氏の祭祀にも関わった可能性があります。

⑥ 守矢氏について、私は御室(みむろ)の中に数体の蛇形「そそう(祖宗)神」を安置し、翌春まで諏訪氏の大祝が参籠する祭事を神長官守矢氏が行っており、それは古事記スサノオ大国主を蛇の室に入れたという神話に似ていることや、諏訪神社の神体が蛇で神使も蛇であるとされ、御左口神(ミシャグチ神=御蛇口神)が守矢家に祀られていることなどから、守矢氏=スサノオ系、諏訪氏大国主系と考えてきました。―縄文ノート「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」「53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」参照

⑦ さらに信州に守矢氏=物部氏説があり、鉄鐸(サナギ鈴)を神具とした祭祀や守屋山中に「鋳物師ヶ釜」の地名が残っていることと、岡山市で小学校まで過ごした私には「守屋」名字が同級生などにあり調べると「守屋」名字は岡山県に一番多いことなどから、守矢氏のルーツを備前赤坂のスサノオがオロチ王を殺した剣を祀る石上布都魂神社の物部氏としてきました。八坂彦が大国主の子の天火明の部下であり、隣接する播磨を拠点としたことからみて、守矢氏と八坂氏は大国主の妻問婚により近い関係にあった可能性があります。

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⑧ 守矢氏の蛇神信仰や守屋山信仰などは縄文時代に遡る可能性があり、縄文の巨木建築と御柱祭の繋がりなどから守矢氏は諏訪縄文人から続く一族とみることもできますが、御室(みむろ)の蛇形「そそう(祖宗)神」神事や鉄鐸(サナギ鈴)神具などからみて、スサノオ大国主一族とみるべきと考えます。

⑨ 国土地理院地図で分析すると諏訪大社上社前宮は蓼科山を向き、後ろには守屋山があり、三者はほぼ一直線であることが確認できました。2020年8月3日に前宮に行った時の写真では遠くはかすんでいて蓼科山を直接、確認することはできなかったのですが、是非、地元で撮影していただきたいものです(ドローンにより前社から守屋山の撮影も)。縄文時代御柱祭を繋ぐ証拠の1つになると考えます。

 備前縄文系の守矢氏は諏訪に入った時、同じ縄文文化に属していたことから、妻問夫招婚により、諏訪縄文人蓼科山の「女神(めのかみ)=武居夷(たけいひな)=ヒジン(霊神)信仰」を継承し、蓼科山を崇拝する中ツ原8本柱巨木建築・阿久尻遺跡巨木列柱建築の神名火山(神那霊山)拝殿の伝統を受け継いだと考えます。―縄文ノート「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

 それは前掲の美和(三輪)の「図4 穴師山(現:巻向山)に向かう2本の直線配置」と同じであり、出雲族の神名火山(神那霊山)信仰を示しています。

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⑩ 八坂・守矢一族が諏訪に入った後、大国主の後継者争いに敗れた建御名方一族が同族を頼って諏訪に入ります(征服ではありません)。さらに美和(三輪)・巻(纏向・間城)の大物主・大国主一族の権力を奪い、御間城姫を妻とした御間城(真木)入彦(10代崇神天皇)は美和スサノオ王朝の後継王として支配を広げ、「伊勢津彦命、天日別命に伊勢の国を天孫に奉る約束をして諏訪に入った」(伊勢国風土記)というのは10代崇神天皇が権力奪取した4世紀末以降のこととみられます。播磨から伊賀・伊勢に入った伊勢津彦と、諏訪の諏訪氏・八坂氏・守矢氏を頼って諏訪に逃げた伊勢津彦は別人で、諏訪に入ったのは襲名した後継王と考えます。

⑪ 以上の検討は限られた点と点を結んで「最少矛盾仮説」を構築したものであり、さらに各地の神社伝承、地名などの分析とともに、富士見町金谷製鉄遺跡の年代測定と赤目砂鉄との微量成分分析の比較対照、諏訪における鉄由来地名での製鉄遺跡の調査が課題です。

 

8 石器・土器・鉄器時代の諏訪の歴史段階

 表2に示した今井氏の諏訪における「原始狩猟→原始農耕(焼畑)・原始漁撈→稲作」という3段階時代区分と、「原始狩猟民宗教(石棒・石皿)→天白神信仰→御左口神信仰→出雲・諏訪神信仰→倭系神信仰」という5段階の宗教変遷説に対し、私の整理は表4のとおりです。

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 日本国内だけを視野に入れた細かな石器・土器様式区分の研究も重要ですが、縄文文化・文明の研究をどう世界の石器・土器・鉄器時代や氏族社会・部族社会・国家、宗教・文化・文明全体の分析に提案し、寄与するという視点で取り組んでいただきたいものです。

 さらに、弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観の「弥生人稲作開始説」「新羅鉄輸入説」の思い込みから、縄文時代スサノオ大国主建国を繋ぐ鉄器生産と水利水田稲作の研究はなされておらず、出雲・安芸・吉備・播磨・美和・伊勢などにおいても製鉄と鉄器農具、神名火山(神那霊山)信仰、記紀風土記と神社伝承分析の総合的な研究が求められます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

 

縄文ノート118 「白山・白神・天白・おしら様」信仰考

 会社を移転・縮小した時と自宅1階事務所を閉鎖した時の2段階で集めた各分野の本を泣く泣く大幅に処分し、まだレンタル倉庫に段ボールに入ったまま残っている反省から、本の購入は絞り、図書館で借りることができない本だけ買うようにしています。

 借りていた古部族研究会(野本三吉・北村皆雄・田中基)編の『諏訪の祭祀と氏族』が返却期限となったので、「白山・白神・天白・おしらさま」信仰について考察しておきたいと考えます。

 

1 天神信仰

 私のそもそもの関心は、スサノオ大国主一族の死者の霊(ひ)が「神名火山(神那霊山)」から天に昇り、降りてくるという「八百万神信仰」のルーツが縄文時代に遡るのではないか、という仮説でした。

 

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 蓼科山に向かう阿久遺跡の石列や中ツ原・阿久尻・三内丸山遺跡の巨木高層拝殿、女神(めのかみ)山伝承などからその証明はできたと考えています。―縄文ノート「縄文ノート23 縄文社会研究会 八ヶ岳合宿報告」「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)について」「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と霊(ひ)信仰」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」参照

 さらにDNA分析とヒョウタンやイネの伝播から縄文人のルーツが東インド・東南アジアの照葉樹林帯であり、さらに南インド、アフリカ高地湖水地方ニジェールコンゴ川流域の熱帯雨林での人類誕生に遡り、「神山天神信仰のルーツはアフリカ高地湖水地方の白い万年雪を抱くルウェンゾリ山・ケニア山・キリマンジャロ」であり、そこからエジプト文明の上が白く下が赤いピラミッドや、メソポタミア文明アララト山信仰や聖塔ジッグラト、インダス文明カイラス山(仏教の須弥山)信仰、日本の蓼科山などの神名火山(神那霊山)信仰が生まれた、という結論に至りました。―縄文ノート「57 4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」参照

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 そして、鬼怒川温泉に行った際にその上流の奥の高原山の1440mの高地に日本最古の後期旧石器時代初頭(19000~18000年前頃)の黒曜石の露頭と採掘・加工跡(高原山黒曜石原産地遺跡群)があることを知り、黒曜石文化もまたアフリカをルーツとし、メソポタミアや縄文の黒曜石文明が生まれた、と考えました。―縄文ノート「27 縄文農耕からの『塩の道』『黒曜石産業』考」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

 

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 以上の神名火山(神那霊山)信仰論を前提にして、『古諏訪の祭祀と氏族』の中の今井野菊氏の「諏訪の大天白神」、野本三吉氏の「天白論ノート」に触発されて考察を進めたいと思います。

 

2 天白信仰について

 ウィキペディアは、「天白信仰(てんぱくしんこう)は、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰である。その分布は長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっている」「信仰の対象・内容が星神・水神・安産祈願など多岐にわたることから様々な研究・解釈が行なわれたが、1980年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなった」と要約し、「柳田國男・・・『風の神』である可能性を指摘」「堀田吉雄は・・・中国由来の天一太白の合成と考えるのが自然とした」「今井野菊は・・・天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとした」「茂木六郎はラマ教性神としての「大天白」の信仰」「田中静夫は『天白波神天白羽神)を祀った』とした」「山田宗睦は・・・『天白の起原を天ノ白羽に求める』」と各説を紹介しています。

 最有力説は天白羽神起源であり、今井氏の「縄文起源説」は異端説となっています。

 これに対して、今井野菊氏は諏訪の天白神と御左口神分布や伝承をもとに、「天白神信仰民は原始農耕・原始漁撈の人たちで、遺跡は原始狩猟民よりも山岳を下った海辺や河川に住み、沼地などで水稲文化の御左口神を受け入れて共存共営した」というものであり、それらの祭祀集落の焼畑農耕と水稲栽培の立地条件から前者を焼畑農耕神、後者を水稲栽培神と分析しています。

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 大天白神と御左口神の信仰の内容を具体的に対比した貴重な分類はここではその全体を引用しませんが、注目すべきは、前者・後者とも石棒と石皿(私説:石臼・石すり鉢)を祀り、縄文時代との連続性を示しているのです。ただ、どちらの信仰も由緒不明として縄文時代からの起源として追究していないの残念ですが、今井説は、他の文献・伝承だけに頼った分析より即地的であり、はるかに質の高い科学的なものと私は評価します。

 また「天白神の志摩・伊勢以東の呼び名と宛字は、シラ神、シラ、オシラサマ、大天白神、天白神、天馬駒太白神、天狛神、大手白神等であります」という指摘も重要で、「シラ神」信仰がもともとのルーツであったと私は考えます。

 そして、それは上が白くて下が赤いピラミッドと同じく、赤道直下のアフリカで白い万年雪を抱くルウェンゾリ山・ケニア山・キリマンジャロ信仰などをルーツとし、ヒマラヤ山脈を望む南・東南アジア高地を経た日本列島に伝わった神山天神信仰=白神であり、倭音倭語の「天白神(あまのしらかみ)」が仏教伝来とともに漢音漢語が普及した時期から「天白神(てんぱくしん)」と呼ばれるようになったと考えます。

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  この天白神=白神信仰は、白い雪を頂く活火山のある縄文社会の各地に存在し、大国主一族の神名火山(神那霊山)信仰に繋がったと考えます。

 なお、呉音漢語・漢音漢語使用以前の歴史分析においては、「一大国」を「いちだいこく」、「邪馬壹国」を「やまいこく」などと読むのではなく、「いのおおくに」「山のいのくに」と読むべきであり、全て倭音倭語で分析する必要があると考えており、「天白神」も「あまのしらかみ」と読むところからスタートすべきなのです。

 また、琉球で「あいういう」5母音であったことから、古くは「あいう・いぇ・うぉ」5母音で、琉球などでは「あいういう」、本土では「あいうえお」の5母音に変化したのであり、白=「しら・しろ」であり、「しら」がより古い音と考えます。―「縄文ノート97 『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」参照

 

3 白山・白神・おしらさま信仰について

⑴ 白山信仰

 白山は富士山・立山とともに日本三霊山の1つであり、古くは倭音倭語で「越白嶺(こしのしらね)」(奥の細道では「白根が岳」)、次に「白山(しらやま)」と呼ばれ、現在は漢音で「はくさん」と呼ばれています。

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 ウィキペディアによれば「古代より白山は『命をつなぐ親神様』として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川手取川長良川流域を中心に崇められていた」とされています。

 私は現役時代、合併して今は白山市となった鶴来町(金釼宮から劔=剣=鶴来名に)へ仕事で行きましたが、白山比咩(しらやまひめ)神社とともに菊姫の銘酒、小型幅広の使い勝手のいい「かわとり包丁」などが有名で、全国各地の約2700社の白山神社の総本社が加賀国一宮の白山比咩神社です。そして、白山市全域は「白山手取川ジオパーク」として2020年にユネスコ世界ジオパーク認定へ向けて推薦することが決定しています。

 この白山信仰で重要なのは、浅間(あさま)大神=木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)を祀る富士山と同じく、白山比咩(しらやまひめ)大神=菊理媛(くくりひめ)を祀っていることで、私は縄文時代から続く女神(めのかみ)の山神(やまのかみ)信仰が、1~3世紀のスサノオ大国主建国とともに御子(巫女)神の女神信仰が加わったと考えます。

 

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⑵ 白神山

 白神山はNPO白神自然学校一ツ森校の代表理事の永井雄人氏のホームページによれば、1753年に作成された『津軽領内山沢図』には「白神嵩」「白神沢」と記載され、津軽藩博物学者・菅江真澄の日記『菅江真澄遊覧記』(1783~1829年)には「白上」「白髪が岳」と記されています。

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 今に続く山神信仰の痕跡はみられませんが、その名称からみて古くは「白神」信仰の聖山であった可能性が高いと考えます。

 縄文人琉球から九州西海岸→出雲→若狭→能登→ヒスイ海岸・糸魚川津軽へとオオツタノハなどの貝輪を運び、ヒスイを持ち帰った時、

 1993年に「白神山地」は「屋久島」とともに、原生的な状態で残存するブナ林で、動植物相の多様性で世界的にも特異な森林として世界遺産登録されています。

⑶ おしら様

 ウィキペディアは「おしら様(おしらさま、お白様、オシラ様、オシラサマとも)は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。茨城県などでも伝承されるが、特に青森県岩手県で濃厚にのこり、宮城県北部にも密に分布する。『オシンメ様』『オシンメイ様』(福島県)、『オコナイ様』(山形県)などの異称があり、他にオシラガミ、オシラホトケ、カノキジンジョウ(桑の木人形)とも称される」「女の病の治癒を祈る神、目の神、子の神としてのほか、農耕神として田植え、草取り、穀物の刈り入れなどに助力するともいう」「神体は、多くは桑の木で作った1尺(30センチメートル)程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである」「おしら様の『命日(めいにち)』におしら様に新しい衣を重ね着させ、本家の老婆が養蚕の由来を伝えるおしら祭文を唱えたり、少女がおしら様の神体を背負って遊ばせたりするので、かつては同族的な系譜を背景とする女性集団によって祀られていたとも考えられる」「盲目の巫女であるイタコが参加することも多い」「切られた馬の首に娘が飛び乗り空へ昇り、おしら様となった」などとしています。

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 これらの伝承には白山信仰をうかがわせるものは見られませんが、天白神に「シラ神、シラ、オシラサマ」の呼び名があること、おしら様に「オシラガミ」の呼び名があること、死んで天に昇り神となるという伝承があること、女性が祀りを担ったこと、天白神信仰の北限が岩手県で「おしら様」信仰が特に青森県岩手県で濃厚であることなどからみて、白山=天白神信仰信仰が東北に伝わって「おしら様」信仰に変容した可能性があると考えます。東北の「お山=山神(やまのかみ)信仰」と「おしら様」信仰との関係がどうなのか、今後の調査課題としたいと思います。

 なお古事記で大氣都比売(おおげつひめ:イヤナミが産んだ阿波国の別名としていますが、イヤナミが産んだ大氣都比売の国が阿波国ということでしょう)の死体から五穀と蚕が生まれたという地母神神話が見られることや、卑弥呼が千人の女性を集めて絹織物を生産して魏に献上していること、天照(あまてる)大御神が神御衣(絹織物であろう)を織らせていたという記載からみても、おしら様=蚕の神を祀るのは女性たちであったことが明らかであり、白山信仰=山神(やまのかみ)=お山信仰が女神(めのかみ)信仰であったことと符合しています。

 

4 「白山・白神・おしらさま信仰」は命の宗教

 古代から人々は死後にも記憶にいつまでも残る死者の思い出から、死者の霊(ひ)が残り、神山(神名火山=神那霊山)や神木(神籬=霊洩木)から天に昇り、また降りてくると信じ、親と子が似るDNAの働きを「霊(ひ)」の継承=霊継(ひつぎ、棺・柩)として考えていたようです。

 死者が全て神となるという八百万神信仰、霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰は、「霊(ひ)の継承」=「命のバトン」を何よりも大事にする宗教であり、霊(ひ=DNA)が宿る人間を「霊人(ひと)・霊子(ひこ=彦)・霊女(ひめ=比売=姫)」と命名し、妊娠を「霊(ひ)が止まらしゃった」(出雲)とし、子どもが生まれる女性器を「ぴー・ひー」(宮古)、「ひな」(天草・大和・群馬・茨城)と呼んだのです。

 「白山・白神・天白・おしら様」信仰や「お山」信仰は単なる自然信仰ではなく、蓼科山のように「女神(めのかみ)」・「ヒジン(霊神)」信仰であり、霊(ひ:祖先霊)信仰の1つの形態であると考えます。そして、烏帽子(えぼし=からすぼうし)の前に「吉舌(ひなさき=クリトリス)」を付けるのは、死者の霊(ひ)を運ぶカラスを神使とし、女性器を崇める霊(ひ)信仰の別形態であり、女神に捧げ、神代(依り代)とする石棒祭祀もまた同様と考えます。

 次回は「縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」の続きとして、富士見町の金屋製鉄遺跡の「赤目砂鉄製鉄」のルーツが大国主一族の伊勢津彦の可能性について少し深掘りしたと思います。

 

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート117 縄文社会論の通説対筆者説

はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」は116号を迎え、中間の整理を行いました。

 試行錯誤しながら縄文社会についてあらゆる角度から書いてきましたが、さらに各論を書き進める前に、現段階で全体を俯瞰しておきたいと考えます。「最少矛盾仮説」として統合する前の予備作業です。

 考えが変わってきている矛盾点が多々あると思いますが、ここでは記憶(老人ボケが混じっている)だけを頼りにしてオリジナルな主張についてざっと整理してみました。

 ご参考になれば幸いです。

                                              「縄文論」関係の通説対筆者説

 

分類

通説

筆者説

Ⅰ スサノオ大国主建国論からの縄文研究

12

天皇家建国説

②「石器―縄文土器弥生土器―古墳」時代区分説

③外発的発展史観(弥生人(中国・朝鮮人)征服史観)

スサノオ大国主建国説

②「石器―土器―鉄器」時代区分説(生活用品基準分類)

内発的発展史観(縄文人自立発展史観)

Ⅱ 縄文生活・社会論

14

①徒歩族史観(ウォークマン史観)

②山人(やまと)族説

③採集社会説(糖質)

④クリクリ(団栗・栗)主食説

⑤長江・朝鮮稲作ルーツ説

⑥自足自給社会説

⑦父系社会説(妻取り婚社会)

①海人族史観(ラフト・ボートピープル史観)

②海人・山人族説

焼畑農耕社会説(糖質)

④イモ・豆・6穀主食説

⑤海の道稲作伝搬説

⑥分業・交易社会説(貝・黒曜石・ヒスイ・塩等)

⑦母系社会説(妻問夫招婚社会)

Ⅲ 縄文宗教論

1 霊(ひ)信仰

9

①自然崇拝説

②火信仰説(土器縁飾り火焔説)

アニミズム・マナイムズ説(精霊・精力信仰説)

①霊(ひ)信仰の神山・神木・動物神使説

②霊の昇天信仰説(土器縁飾りポンガ説)

③霊神説(祖先霊信仰:八百万神=天神=鬼神、DNA継承)

④ドラヴィダ系海人・山人族pee信仰継承説

2 女神・地母神信仰

9

①石棒・円形石組日時計説(太陽信仰)

②石棒男根崇拝説

③妊娠土偶豊作祈願地母神

①石棒・円形石組地母神天神信仰説(霊(ひ)信仰)

②石棒女神の神代(依り代)説

③妊娠土偶安産お守り説

3 天神信仰

8

①天命(中国の絶対神)信仰説

②天照(アマテラス)太陽神信仰説

③神名日山信仰説(太陽信仰)

④巨木列柱見張り台説

龍神信仰中国起源説

①天神(八百万神=祖先霊=鬼神)信仰説

②海照(アマテル)海神信仰説

③神名火山(神那霊山)信仰説(霊(ひ)信仰)

④巨木列柱神山拝殿説

⑤龍蛇(トカゲ龍)神信仰東南アジア起源説(火焔型土器縁飾り)

Ⅳ 日本語起源論

8

①基礎単語・音韻からの分析法

 

②アルタイ語系説(テュルク語、モンゴル語ツングース語等)

③朝鮮・中国語系説(一部)

①「主語-目的語-動詞」言語構造、宗教・農業単語からの分析法

②ドラヴィダ語系倭語起源説

 

③日本語3層構造論(倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語)

Ⅴ 日本列島人起源論

7

①北方・南方・中国朝鮮起源説

 

②大陸横断移動説(ウォークマン説)

 

①ドラヴィダ系海人・山人族説(海の道・マンモスの道移動南北2ルート説)

②海の道竹筏移動説(ラフト・ボートピープル説)

ニジェールコンゴ川流域熱帯雨林起源・高地湖水地方移動説(DNA・ヒョウタン・神山信仰・黒曜石利用)

Ⅵ 縄文文明論

14

①狩猟・漁労・採集の未開社会説

②自給自足社会説

 

③石器・土器社会説

④分散居住社会説

①縄文文明社会説(木石器・焼畑農耕・土器鍋)

②分業交易社会説(海洋交易:貝・黒曜石・ヒスイ・土器・塩)

③木文明社会説(巨木神殿・うるし加工)

④分散居住・部族共同祭祀社会説(巨木神殿・環状列石)

Ⅶ 人類誕生・拡散論

9

①オス主導進化説

 

②サバンナ進化説

 

③肉食脳進化説

④成人期1段階進化説

⑤槍使用説

⑥火使用焼肉説

①メス・子ども主導進化説(言語・家族形成・教育)

熱帯雨林進化説(イモ・魚介食、二足歩行、手機能向上)

③糖質・魚介食脳進化説

④3段階進化説(母子期・子ども期・成人期)

⑤掘棒・叩棒・突棒(銛)使用説

⑥火使用糖質加熱食説

⑦黒曜石利用アフリカ起源・伝播説

Ⅷ 世界文明論

14

①「野蛮→未開→文明」段階説

 

②都市文明論(灌漑農業・城壁都市・金属器・侵略軍・文字・分業・階級)

③灌漑農業4大文明説

④軍事帝国文明論(ギリシア・ローマ型、ユダヤ型)

一神教文明論

①「母系→父系」「家族・氏族→部族→軍国」文明段階説

②農村共同体文明論(焼畑農業・木石器・交易・分散居住・分業・共同体社会)

焼畑農業・漁撈文明説

④部族連合文明論(オリエント4大文明)

 

⑤霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教文明論(生類共生)

 

 

はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」テーマ別一覧表

<()内番号はブログ「ヒナフキンの縄文ノート」掲載番号>

 

Ⅰ スサノオ大国主建国論からの縄文研究

 Ⅰ-1(1) 縄文との出会い 200106

 Ⅰ-2(2) 私の日本民族起源論、縄文論、言語論、宗教論 200107 

 Ⅰ-3(3) これからの「縄文社会研究」のテーマ(検討中) 200110

 Ⅰ-4(4) 「弥生時代」はなかった 200125

 Ⅰ-5(6) 古代国家形成からみた縄文時代―船・武器・稲作・宗教論 200215

 Ⅰ-6(21) 八ヶ岳縄文遺跡見学メモ191030・31 191103→201207

 Ⅰ-7(22) 縄文社会研究会 八ヶ岳合宿見学資料 200802→1208

 Ⅰ-8(23) 2020八ヶ岳合宿報告

 Ⅰ-9(24) スサノオ大国主建国からの縄文研究 200911→1212

 Ⅰ-10(53) 赤目砂鉄と高師小僧とスサ(富士見町歴史民俗資料館より) 201106→210208

 Ⅰ-11(67) 海人(あま)か山人(やまと)か? 210409

 Ⅰ-12(83) 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展か 210705

Ⅱ 縄文生活・社会論

 Ⅱ-1(5、25) 「人類の旅」と「縄文農耕」と「3大穀物単一起源説」 140613→201213 

 Ⅱ-2(26) 縄文農耕についての補足 200725→1215 

 Ⅱ-3(27) 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考 200729→1216 

 Ⅱ-4(28) ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源説 201119→1217

 Ⅱ-5(55) マザーイネのルーツはパンゲア大陸 210211

 Ⅱ-6(29) 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論  201123→1218

 Ⅱ-7(69) 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)210415

 Ⅱ-8(78) 「大黒柱」は「大国柱」の「神籬(霊洩木)」であった 210611 

 Ⅱ-9(13,91) 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の「縄文1万年」181201→190308→210824

 Ⅱ-10(103) 母系制社会からの人類進化と未来 211017

 Ⅱ-11(108) 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説 211116

 Ⅱ-12(109) 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑 211121

 Ⅱ-13(112) 「縄文2021―東京に生きた縄文人―」から 211204

 Ⅱ-14(114) 縄文アーチストと「障害者アート」 211204

Ⅲ 縄文宗教論

 1 霊(ひ)信仰

  Ⅲ1-1(7) 動物変身・擬人化と神使、肉食と狩猟 140827→0816→200216

  Ⅲ1-2(10) 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰 200307

  Ⅲ1-3(34) 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化) 150630→201227

  Ⅲ1-4(15) 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰 190129・0307→200411

  Ⅲ1-5(30) 「ポンガ」からの「縄文土器縁飾り」再考 201220→1221

  Ⅲ1-6(31) 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文 191004→201223

  Ⅲ1-7(37) 「神」についての考察 200913→210105

  Ⅲ1-8(38) 「霊(ひ)」とタミル語peeとタイのピー信仰 201026→210108

  Ⅲ1-9(74) 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰  210518

 2 女神・地母神信仰

  Ⅲ2-1(32) 縄文の「女神信仰」考 200730→1224

  Ⅲ2-2(73) 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき) 210510

  Ⅲ2-3(95) 八ヶ岳周辺・安曇野・佐久の女神信仰調査 210915

  Ⅲ2-4(96) 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡

  Ⅲ2-5(98) 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社 210924

  Ⅲ2-6(99) 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡 210930

  Ⅲ2-7(100) 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松 211003

  Ⅲ2-8(101) 女神調査報告5 穂高神社の神山信仰と神使 211008

  Ⅲ2-9(102) 女神調査報告6 石棒・男根道祖神 211213

 3 天神信仰

  Ⅲ3-1(33) 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考 200801→1226

  Ⅲ3-2(35) 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰 200808→1228

  Ⅲ3-3(36) 火焔型土器から「龍紋土器」 へ 200903→1231

  Ⅲ3-4(39) 「トカゲ蛇神楽」が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体 201020→210109

  Ⅲ3-5(40) 信州の神名火山(神那霊山)と「霊(ひ)」信仰 201029→210110

  Ⅲ3-6(44) 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石 201014→210120

  Ⅲ3-7(104) 日本最古の祭祀施設―阿久立棒・石列と中ツ原楼観拝殿 211025

  Ⅲ3-8(105) 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群 211030

Ⅳ 日本語起源論

 Ⅳ-1(93) 「かたつむり名」琉球起源説―柳田國男の「方言周圏論」批判 180816→0821

 Ⅳ-2(94) 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論181204→200204→210907

 Ⅳ-3(97) 「3母音」か「5母音」か?―縄文語考 181210→190110→210922

 Ⅳ-4(41) 日本語起源論と日本列島人起源説  200918→210112

 Ⅳ-5(42) 日本語起源論抜粋 210113

 Ⅳ-6(52) 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について 201104→210205

 Ⅳ-7(80) 「ワッショイ」と山車と女神信仰と「雨・雨乞いの神」 210619

 Ⅳ-8(115) 鳥語からの倭語論 211213

Ⅴ 日本列島人起源論

Ⅴ-1(43) DNA分析からの日本列島人起源論  201002→210115

Ⅴ-2(45) 縄文人ドラえもん宣言(ドラヴィダ系海人・山人族宣言) 201015→210123

Ⅴ-3(46) 太田・覚張氏らの縄文人「ルーツは南・ルートは北」説は!? 201018→210124

Ⅴ-4(47) 「日本列島人はどこからきたのかプロジェクト」へ  201202→210125

Ⅴ-5(62) 日本人のルーツは「アフリカ高地湖水地方」 210316

Ⅴ-6(63) 3万年前の航海実験からグレートジャーニーへ 210323

Ⅴ-7(70) 縄文人のアフリカの2つのふるさと 210422

Ⅵ 縄文文明論

 Ⅵ-1(8) 「石器―土器―金属器」の時代区分を世界へ 150723→0816

 Ⅵ-2(9) 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産

 Ⅵ-3(48) 縄文からの「日本列島文明論」 200729→210228

 Ⅵ-4(50) 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ 200207→210203

 Ⅵ-5(51) 縄文社会・文明論の経過と課題 200926→210204

 Ⅵ-6(58) 多重構造の日本文化・文明 210222

 Ⅵ-7(11) 「日本中央部土器文化」の世界遺産登録をめざして 150923→200308

 Ⅵ-8(49) 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録をめざして150923→210230 

 Ⅵ-9(59) 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり 210226

 Ⅵ-10(77) 「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産登録の次へ 210603・04・08

 Ⅵ-11(82) 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ 210626

 Ⅵ-12(106) 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ 211107

 Ⅵ-13(110) 縄文社会研究会・東京の第2回例会 211124

 Ⅵ-14(113) 道具からの縄文文化・文明論  211208

Ⅶ 人類起源・拡散論 

 Ⅶ-1(81) おっぱいからの森林農耕論 210622

 Ⅶ-2(85) 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか 210713

 Ⅶ-3(87) 人類進化図の5つの間違い 210724

 Ⅶ-4(88) 子ザルからのヒト進化説 210728

 Ⅶ-5(89) 1段階進化論から3段階進化論へ 210808

 Ⅶ-6(64) 人類拡散図の検討 210330

 Ⅶ-7(65) 旧石器人のルーツ 210403

 Ⅶ-8(107) ドーパミンからの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か 211110

 Ⅶ-9(111) 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論  211128 

Ⅷ 世界文明論 

 Ⅷ-1(66) 竹筏と「ノアの方舟」210405・6 

 Ⅷ-2(68) 旧石器人・中石器人は黒人 210410

 Ⅷ-3(84) 戦争文明か和平文明か 210716

 Ⅷ-4(71) 古代奴隷制社会論 210426

 Ⅷ-5(72) 共同体文明論 210506

 Ⅷ-6(56) ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ 210213

 Ⅷ-7(57) 4大文明論と神山信仰 210219

 Ⅷ-8(61) 世界の神山信仰 210312

 Ⅷ-9(75) 世界のビーナス像と女神像  210524 

 Ⅷ-10(86) 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰 210718

 Ⅷ-11(90) エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制

 Ⅷ-12(76) オリンピックより「命(DNA)の祭典」をアフリカで! 210527

 Ⅷ-13(92) 祖母・母・姉妹の母系制 210826

 Ⅷ-14(116) 独仏語女性語からの母系制社会説 211216

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

 

新年のご挨拶

 新年が少しでもよい年になりますよう、願っております。

 年末に少し無理をして、正月三日間は不整脈で家族イベントに付き合いながら静養していました。やっと新年の挨拶です。

 祖母から繰り返し教えられた「世のため人のため」、父からの陽明学の「知行合一」「山田方谷の特産品開発」と犬養毅の「話せばわかる」の教え、軍人になれとの指示、広島での入市被曝体験、母からの姫路陸軍病院看護婦時代の話など、昔のことを思い出しながら、人生最後に何をなすべきか、何ができるのか、自問し続けています。

 

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「奥の奥読み奥の細道-松尾芭蕉の暗号」の紹介

 この1週間、縄文論を休んで「奥の奥読み奥の細道松尾芭蕉の暗号」のアマゾン・キンドル電子本の原稿にかかりきりでしたが、やっと終えることができ、友人にこれから掲載作業を頼みます。

 本稿は「島根日日新聞」に2016年3月9日から9月21日にかけて29回にわけて連載したものに写真を加え、加筆修正したものです。

 和歌の「寄物陳思(きぶつちんし:ものによせておもいをのぶる)」に「寄事陳思」(きじちんし:ことによせておもいをのぶる)」を加え、「正述心緒」(せいじゅつしんしょ:ただにおもいをのぶる)の「物(自然)+事(歴史)+心(心緒)」の三層構造の名句を完成させたオリジナルな芭蕉芸術論です。なお「寄事陳思」は私の造語です。

 目次は次のとおりです。出版されましたら再度、お知らせします。なお、縄文論と併行してスサノオ大国主建国論、邪馬台国甘木高台説など数冊のキンドル本の出版を予定しています。

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   「奥の奥読み奥の細道松尾芭蕉の暗号」目次

  はじめに

 1 「古池や蛙飛び込む水の音」奥の奥読み

 2 「月日は百代の過客」奥の奥読み

 3 「草の戸も住みかはる代ぞ雛の家」奥の奥読み

 4 「行く春や鳥啼き魚の目は泪」奥の奥読み

 5 「あらたふと青葉若葉の日の光」奥の奥読み

 6 「松島や鶴に身をかれ時鳥(曽良)」奥の奥読み

 7 「夏草や兵どもが夢の跡」奥の奥読み

 8 「五月雨の降りのこしてや光堂」奥の奥読み

 9 「閑さや岩にしみ入蝉の声」奥の奥読み

 10 「五月雨を集めて早し最上川」奥の奥読み

 11 「象潟や雨に西施がねぶの花」奥の奥読み

 12 「汐越や鶴脛ぬれて海涼し」奥の奥読み

 13 「荒海や佐渡によこたふ天河」奥の奥読み

 14 「今日よりや書付消さん笠の露」奥の奥読み

 15 「蛤のふた見にわかれ行く秋ぞ」奥の奥読み

 16 「奥の迷道」:秘すれば花

 <補論 松尾芭蕉与謝野晶子が暴く狭山事件真犯人>

縄文ノート116 独仏語女性語からの母系制社会説

 縄文ノート95~102で「女神」論を書いていて、「女神」を英語でどう表現するか気になって調べると「goddess」で、「女神像」を調べると「goddess statue」でした。ついでに「自由の女神像」を調べると「statue of liberty」(自由の像)で、「女神」にはなっていません。

 こういう細部が気になってすぐに横道に逸れてしまうのは幼児の頃からの私のクセで、母からは「昌弘は気が散る」と言われ続け、街に出ると迷子になってよく困らせていましたが、またまた迷子になりそうですが、ちょっと横道に逸れてみたいと思います。

 ネットがありがたいのは、同じようなクセの人が必ずいるもので、「アメリカのニューヨークには、「自由の女神像」があります。でも英語では “the statue of the liberty” で「自由の像」としか言いません。ではどうして「女」神なのでしょうか。これは、liberty のもとのラテン語 libertas と、像を贈った国フランスの言葉 liberté がともに女性名詞だからなのです」などの解説がありました。

 大学ではドイツ語をやったはずですが女性名詞・男性名詞などすっかり忘れてしまっていましたが、どちらが先に生まれたのか、どのような社会的な性的役割分担や位置づけで決まったのか気になります。

 「アフリカ熱帯雨林での母子・女性・子ども同士のコミュニケーションが言語能力を発達させた」「氏族・部族共同社会は地母神(女神)信仰であった」という私の説は、ヨーロッパ・アジア・日本の女性像・女神像の分析に加えて、ドイツ語・フランス語の女性名詞と男性名詞の分析からも裏付けられました。

 

1.独語・仏語の女性名詞と男性名詞

 ドイツ語・フランス語の女性名詞・男性名詞について、ネットでざっと調べることができたのは、次のとおりです。私の独語・仏語の辞書はレンタル倉庫に入っており調べるのは手間で、後回しにするか他の人に任せたいのですが、仮説として問題提起しておきたいと考えます。独語・仏語の元となったとされるラテン語などは調べられませんでした。

 

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2.メソポタミア神話の女神・男神と独語・仏語の女性名詞・男性名詞の対応

 表1はまだ未完成の穴だらけですが、古代からの名詞では女性名詞が多いことが自然・仕事・食物・住居・生活・感情・文化・都市・施設・政治の各分野において一目瞭然です。食物の穀類・豆類魚肉類、文化の冠婚葬祭、宗教などの名詞が落ちており、さらに調査が必要ですが大勢は変わらないと予想します。

 西欧文明の元となった氏族・部族社会のメソポタミア文明は母系制社会であり、母系制社会こそが女性語のルーツであり、その影響が強く反映して自然・農業・生活・文化・都市などの多くの基本語は女性名詞であったと考えます。

 男性名詞は①狩猟・牧畜・放牧などの名詞の追加(山・森・罠・チーズなど)、②軍国・帝国主義ギリシア・ローマの支配・交易による追加(金属・オレンジ・レモン・ワイン・広場・暦・方位など)、③男性中心の政治・行政・交易・生産・都市形成による追加(市場・資本主義・共産主義など)により、後世になって追加されたと考えます。男性名詞が先に生まれ、女性名詞が後世に加わったのではないのです。

 古代メソポタミアの世界最古のシュメール神話では、表2のように、「海の女神」ナンム(Nammu)が天地を生み、全ての神々を生んだ母なる祖先で、蛇の頭を持つ蛇女神とされています。そして「天空の神」の男神アン(アヌ)と「大地・死後の世界を司る女神」のを生み、さらにアン(もしくは月神シン)と「ヨシの女神」ニンガルの娘のイシュタルは「金星・豊穣・愛欲・戦争」の女神とされ、双子の兄に「太陽神」ウトゥ(シャマシュ)、姉に冥界を支配する「死の女神」エレシュキガルがいたとされます。―「縄文ノート90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制」参照

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 このようにシュメール神話では、女神が重要な位置を占めており、その男女の役割にそってラテン語やその影響を受けた独語・仏語に女性名詞・男性名詞が割り振られた、と考えます。

 メソポタミア神話の女神・男神と独語・仏語の女性名詞・男性名詞の対応は、次のとおりです。空蘭は今後、補充したいと考えます。

 

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3.ナチスの「アーリア民族説=インドヨーロッパ祖語説」をいつまで信奉し続けるのか?

 イギリスのインド植民地化やナチス・ドイツの「アーリア民族説」による東欧・アジア征服のための「インドヨーロッパ祖語説」という空想説から離れてみると、残るのは母系制社会のメソポタミア神話の神々に見られるように母系制社会の信仰・文化から女性名詞が先に生まれたのです。

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 ウクライナ・ロシアの草原地帯で牧畜・農業を営んでいた「アーリア語族」がその男性・女性名詞を西欧、西・中央アジア、さらには南アジアのイラン・インドまで伝えたという主張は、アフリカ・アジアの4大文明やギリシア・ローマ文明などを無視し、遅れた辺境であった西欧や東欧があたかも言語文化の中心地であったかのように演出したイギリスとナチス・ドイツの空想・空論なのです。ところが「日独伊3国同盟」の名残りなのか、日本でも「アーリア民族説=インドヨーロッパ語族説」の信奉者が未だに多いのにはあきれます。

 前回の「縄文ノート115 鳥語からの倭語論」において、私は「日本語が『倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語』の3層構造(現在は英語が加わわった4層構造)でありながら、インドシナ語や中国語のように『主語―動詞-目的語』構造でないことは重要で、言語コミュニケーションにおいては、語順が重要であったことを示しています」と述べましたが、日本語を基礎語の倭音倭語ではなく借用語の「呉音漢語・漢音漢語」で分析すれば、日本語は漢語圏になり、さらには弥生人(長江流域漢民族)征服説になってしまいます。

 その程度の幼稚な語学分析のレベルが「インドヨーロッパ祖語説=アーリア民族説」なのですが、「和魂漢才・和魂洋才」と言いながら「倭音倭語」を忘れてしまった拝外主義者たちには見えないようです。DNA分析についても同じで、日本人の中の14%(東京)~26%(九州)のY染色体O3型を中国華北60%、華南30%、朝鮮38%と対照して日本人を中国人系、朝鮮人系というのと同じなのです。沖縄北39%、東京40%、アイヌ88%のY染色体D2型が中国・朝鮮で0%であることと、倭音倭語が中国語・朝鮮語に見られないこと、「主語-目的語-動詞(SOV)」言語構造が中国語の「主語―動詞-目的語(SOV)」言語構造とは異なることをきちんと分析すべきです。―縄文ノート「37 『神』についての考察」「41 日本語起源論と日本列島人起源縄文ノート」「43 DNA分析からの日本列島人起源論」参照

 アフリカで誕生した言語が一足飛びに東欧に飛び、「フランス語を含むヨーロッパの言語の大半は、今から 5000~6000 年前にユーラシア大陸黒海付近で話されていたインド=ヨーロッパ祖語までさかのぼることができる。インド=ヨーロッパ祖語において、名詞は男性/女性/中性の3つのカテゴリーに分類されていたと推定されているんだ。この3つのカテゴリーのうち、男性/女性は雌雄のある生物を示す名詞に用いられ、無生物名詞は中性のカテゴリーに登録されていたと考えられている」「後に言語が変化して枝分かれする過程で、中性のカテゴリーに割り当てられていた無生物の名詞の一部が、男性/女性名詞に振り分けられた」などとまことしやかに説明されていますが、もともと中性であった名詞の多くが文化・文明の辺境であった東欧ウクライナ・ロシア付近の草原のような文明のもとで女性名詞に変わったのか、という説明は何もできていません。

 辺境ヨーロッパと文化・文明先進地の西・南アジアを支配するために、その接点である東欧ウクライナ付近に架空の「アーリア民族」「アーリア民族文明」「インドヨーロッパ祖語」をでっち上げたのです。

 なお、今、ロシアはウクライナをロシア領と宣言して軍事支配を進めようとしていますが、そのうちに「アーリア民族=ロシア民族説」をでっち上げ、プーチン大統領習近平主席の「中国の夢=中華民族の偉大な復興」を真似し、「ロシアの夢=アーリア民族の偉大な復興」を言い出し始めそうです。ヒットラーのように「インドヨーロッパ語族」の盟主たらんとするかも知れません。

 世界の言語学者たちは、イギリス帝国、ドイツ帝国の野望に手を貸し、今度はロシアに手を貸し続けるのでしょうか?

 主語・目的語・動詞言語構造分布図に「アーリア民族」の位置を重ねた図を示しますが、民族言語固有の言語構造(語順)の違いからみて、「インドヨーロッパ語族」説など成立の余地などないことは明らかです。

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 「主語-目的語-動詞」言語、「主語―動詞-目的語」言語のどちらもがアフリカ熱帯雨林で女・子どものコミュニケーションから生まれ、別々に出アフリカを果たし、アフリカかその途中の西アジアで女性名詞と男性名詞を生み出し、世界に広まったのです。

<参考>

⑴ 縄文ノート37 『神』についての考察  200105

 ウィキペディアは「国語学者大野晋は、日本語の原型がドラヴィダ語族の言語の影響を大きく受けて形成されたとする説を唱えている。ただし、この説には系統論の立場に立つ言語学者からの批判も多く、この説を支持するドラヴィダ語研究者は少ない」としていますが、そもそも翻訳輸入の国語学者の「系統論」は支配民族言語の系統分析には役にたっても、タミル(ドラヴィダ)語のような被支配民族言語と日本語のような独立民族言語に比較には役に立ちません。日本語といっても倭音倭語を比較する必要があり、呉音漢語・漢音漢語の借用語で比較したのでは意味がないのと同じです。

 大野氏はタミル(ドラヴィダ)語と倭音倭語の比較において、支配言語の影響を受けやすい基本語や借用語ではなく、「希少性・伝承性」のある宗教用語や農業・食生活用語を比較しており、つまみ食いの「語呂合わせ」を行っているのではありません。次回、「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語pee(ピー)とタイのピー信仰」でも大野説の復権を図りたいと思います。

 

⑵ ブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」 倭語論16 「日本語」「倭語」「土器人(縄文人)語」 200224

さらに、この「倭語」について私は「土器(縄文時代)時代」1万年の「土器人(縄文人)語」にルーツがあると考えています。

                              「日本語」の形成過程

 

 

 日本は南方や北方、中国大陸、朝鮮半島から多様なDNAを持った人々が漂着・移住・避難してきたことはDNAの分析などから明らかですが、フィリピンや台湾のような多言語・多文化コミュニティにはなっていません。アイヌを除いて、方言・文化の差はあっても、沖縄から北海道まで同じ言語・文化のコミュニティであると言っていいと思います。

 

同じ島国でありながら異なる「言語・文化コミュニティ」の国の成立

多DNA・多言語文化コミュニティ

(フィリピン・台湾)

多DNA・同一言語文化コミュニティ

(日本:アイヌを除く)

 

 

 

 

 ほとんどの単語に倭音・呉音・漢音の発音があるにも関わらず、中国語の「主語―動詞―目的語」の言語構造を受け入れず、「主語―目的語―動詞」の言語構造を維持しています。朝鮮語とは同じ「主目動言語」ですが、倭音・呉音・漢音・朝鮮音という単語は見当たらず、数詞や人体語などの基本語が一致していません。弥生人(中国人・朝鮮人)征服説は、倭語―日本語からは成立する余地はありません。

 

⑶ 言語構造からみた日本民族の起源―「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」補論 180424 ― 2018年夏『季刊 日本主義』42号掲載

9.「主語―述語―目的語」族の未来

以上、「主・目・述族」が、中央アジアから「海の道」「草原の道」「マンモスの道」の3つに分かれて日本列島に何次もにわたってたどり着き、南と北から劇的に再会し、遅れて朝鮮半島からの人々が合流したという説を紹介してきました。この「主・目・述族」は、長江(揚子江)流域や華南・インドシナなどから「主・述・目族」の人々を受け入れながら融合し、「言語・文化共同体」としての日本民族の独自性と共同性を創り上げてきたのです。

この「主・目・述語」の3つの部族のうち、活発に交流・交易・共住(妻問い婚)を行い、3部族を融合して豊かな1万年の縄文文化を作り上げたのは、黒潮対馬暖流の流れと舟の文化・技術からみて、南がらの「海人(あま)族」です。

 では、この「頭(主語)―胴体(目的語)―足(述語)」の言語構造と、「頭(主語)―足(述語)―胴体(目的語)」の言語構造は、どのような文化の違いを示しているのでしょうか。

「私は東へ行く」「私は君が好きだ」「誰が、いつ・どこで・何を・なんのために、どうする」と「私は行く。東へ」「私は好きだ。君を」「誰が、どうする、いつ・どこで・何を・なんのために」では、前者が「目的重視・相手尊重・方法手段合意重視・慎重行動」であるのに対し、後者は「行動重視・自分中心・方法手段合意軽視・迅速行動」の違いがあるではないでしょうか。前者は「コミュニケーション・共同性重視」、後者は「コミュニケーション軽視・自分重視」といえます、

日本民族は、好奇心にあふれ、探検心・冒険心に富み、よく目標・方法・手段・合意形成を考え、冷静・慎重な行動力を持ち、他部族を尊重しながら交流・交易・共住を行い、受け入れてきました。この石器・土器時代からの3万年の海洋交易民の歴史・文化こそ、私たちはこれからの民族の指針としなければならないと考えます。目的・目標をしっかりと把握し、平和な交流・交易を行い、健康長寿の豊かな炊き食文化を継承し、豊かで独創的・芸術的な文化を育くみ、世代間の教育・知識伝承をきちんと行い、死ねば誰もが神となる霊(ひ)信仰という、世界の中で他にないこの独自の海人(あま)民族の歴史を受け継いで未来を切り開くべきと考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート115 鳥語からの倭語論

 私が録画してよく見る番組の1つがNHKの『サイエンスZERO』ですが、2021年12月5日放映の「鳥の言葉を証明せよ!“動物言語学”の幕開け」は人語誕生にもつながる興味深い内容でした。

 『サイエンスZERO』2020年10月25日放送の「“羽毛のある類人猿” カラス 驚異の知力に迫る」、『日経サイエンス』2020年8月号の論文「もうトリ頭とは言わせない 解き明かされた鳥の脳の秘密」についても触れ、人語がサバンナの平原ではなく熱帯雨林で生まれたという私の説や、「主語―動詞-目的語」言語構造からの倭語のルーツについて検討しています。

 

1.鈴木俊貴京大白眉センター特定助教の鳥語の発見

 「世界初! 『鳥の言葉』を証明した“スゴい研究”の『中身』(サイエンスZERO) | (現代ビジネス | 講談社 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/90014?imp=0から要約します。

 鈴木氏は16年間、シジュウカラの鳴き声を軽井沢の森の中で研究し、巣箱で子育て中のメスが『チリリリリ(おなかがすいたよ)』と鳴くと、オスは『ツピー(そばにいるよ)』と答えて食べ物を持ってきたり、天敵には『ジャージャー(ヘビ)』『ヒーヒーヒー(タカ)』『ピーツピ(カラス)』と使い分けており、それがコミュニケーションの「言葉」であることを証明しました。

 その方法は「(1)見せる」「(2)聞かせる」「(3)サーチイメージ」という3段階の実験でした。

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 「(1)見せる」」実験ではヘビのレプリカやカラスやテンなどの天敵の剥製を巣箱の上に置いてシジュウカラの行動を観察すると、ヘビを見た時だけシジュウカラは、けたたましく『ジャージャー』と鳴きました。

 「(2)聞かせる」実験は、前もって録音しておいた『ジャージャー』の鳴き声をスピーカーから流して聞かせるとシジュウカラは、巣箱の下や地面に目を向けてヘビを探すような仕草をし、『ジャージャー』は「ヘビ」を示す単語であるとわかりました。

 ここまでは多くの人も考え付くと思いますが、「(3)サーチイメージ」実験は私は思いつきませんでした。シジュウカラが『ジャージャー』と聞いたとき、ヘビのイメージを頭に思い描いているかどうかを調べるのです。

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 その方法は、『ジャージャー』という鳴き声をスピーカーで聞かせながら、ひもをつけた棒を木の幹に沿ってをはい上がるヘビのように引き上げたのです。そうすると12羽中11羽のシジュウカラが木の棒に接近してそれを確認したのです。そして、そのような確認行動はほかの鳴き声を聞かせた実験では、ほとんど見られませんでした。シジュウカラは『ジャージャー』という鳴き声を聞いたとき、頭の中にヘビの姿(サーチイメージ)を思い描き、それを棒に当てはめたことでヘビと見間違えたのだと考えられます。

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  2008年ヘビに対して『ジャージャー』鳴くのを観察し、サーチイメージを論文化したのが2018年で、10年以上かけた研究の成果です。

 さらに、シジュウカラが「単語」だけではなく、「文章」を作れることまで発見しました。

 鈴木氏が注目したのは『ピーツピ・ヂヂヂヂ』と聞こえる鳴き声で、『ピーツピ』は仲間に危険を伝える「警戒しろ」で、『ヂヂヂヂ』は「集まれ」で、『ピーツピ・ヂヂヂヂ』は「警戒しながら集まれ」という意味だと証明しました。

 鳴き声の語順をひっくり返し『ヂヂヂヂ・ピーツピ』という音声を聞かせる実験ではシジュウカラは警戒することも、集まることもしなかったのです。彼らは、語順を理解して鳴き声の意味を解読しており、単に『ピーツピ・ヂヂヂヂ』に反応しているのではなく、『ピーツピ(警戒しろ)』、『ヂヂヂヂ(集まれ)』を合成した行動を取っており、2つの言葉を組み合わせた「文章」、組み合わせの「ルール(文法)」を理解していることが示唆されました。

 そこで「初めて聞いた鳴き声の組み合わせ(文章)を理解する」というさらに難易度の高い実験を鈴木氏はルー大柴さんの「ルー語」からヒントをえて実験したのです。

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 ルー語とは「逆鱗にタッチ」「藪からスティック」のように日本語の文章の一部を英語に置き換えるもので、初めて聞いても組み合わせ(文法)を理解していると意味は通じるのです。

 軽井沢ではシジュウカラはコガラと一緒に群れを作っており、彼らはお互いの鳴き声の意味を理解していました。「集まれ」はシジュウカラ語では『ヂヂヂヂ』ですが、外国語に相当するコガラ語では『ディーディーディー』ですが、シジュウカラはどちらの鳴き声にも近づいていくのだといいます。

 そこで、シジュウカラの『ピーツピ・ヂヂヂヂ(警戒・集まれ)』の『ヂヂヂヂ(集まれ)』の部分をコガラ語の『ディーディーディー(集まれ)』に置き換え、鳥バーションのルー語を作り出して聞かせてみたところ、シジュウカラはちゃんと警戒しながらスピーカーに近づき、天敵を探して追い払うかのような行動を示したのです。しかも語順をひっくり返すと、また意味が通じなくなったというのです。

 シジュウカラは『ピーツピ・ヂヂヂヂ(警戒・集まれ)』を文章として理解していたのです。

 詳しくは前掲のホームページか『サイエンスZERO』、下記論文を参照してください。https://www.pnas.org/content/115/7/1541

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0960982217307662

 

2.鳥語・人語は平原ではなく森で生まれた

 鈴木氏のこれらの実験からえた重要な考察は、森という生息環境でシジュウカラたちの言葉の進化が生まれたという主張です。鳥と鳥との距離が10メートル20メートル離れていることもよくあって。互いに目で見えない間隔で情報を伝え合うためにただ『来て』ではなくて『天敵がいるから警戒しながら近づいて』と、複雑な情報を同時に伝える必要があったというのです。一方、ヒマラヤなどのすごく開けた場所にすんでいるシジュウカラの仲間はお互いを目で確認できるから、かなり単純な声しか出せないというのです。

 私も毎朝の犬散歩の時、鳥を見つけるとよく写真を撮るのですが、10~20m離れていても眼が合うと鳥は逃げるのです。そのため、鳥を見ないようにして腰のあたりでファインダーを起こしてピントを合わせ、カメラだけ鳥に向けて写真を撮るのですが鳥は必ず人の目を見ていることに気づいていました。また、手を振る石でも投げられると思うのか、逃げるのです。「目は口ほどに物を言い」や「ボディランゲージ」のコミュニケーションは鳥同士にも当てはまるのです。

 互いに見えない森の中だからこそ、コミュニケーションの必要から鳥語が生まれたのであり、人語も同じ可能性が高いのです。

 サバンナの平原での狩りのためのコミュニケーションなら、手で前、左右、突進などの合図すればいいのです。か熱帯雨林での母子・メス同士・子ども同士のサルのコミュニケーションで言語が生れた、という私の以下のような主張を鈴木氏の鳥語の研究は裏付けてくれました。

 コンゴ(ザイール)の人たちはティラピアナマズ・ウナギ・ナイルパーチ・小魚・カニ・エビ・オタマジャクシ・カエル・ヘビ・ミズオオトカゲ・カメ・スッポン・ワニなどを食べており(安里龍氏によれば最も美味なのはミズオオトカゲ)、一般的な漁法は女性や子どもたちが日常的に行う『プハンセ(掻い出し漁:日本では田や池の水を抜く「かいぼり」)』」(縄文ノート84 戦争文明か和平文明か)「森の生活をもっとも安定させてきたのは、コンゴ盆地のなかを毛細血管状に発達した大小の河川で捕れる魚類なのである。とくに女性と子どもたちが日常的に従事するプハンセ(注:搔い出し漁)を通して供給される動物性たんぱく源の安定した補給が大きく寄与している言える。もっともシンプルであるが、捕獲がゼロということはありえない、もっとも確実な漁法であるからである。・・・(3~4月)種類数も29種ともっとも多くなる。水生のヘビ類やワニの捕獲がこの時期に多いのも、その活動が活発になることを裏付けるものである。一方、女性や子どもたちが食用幼虫類の採集に集中する8~9月は、魚の摂取頻度が12種ともっとも少なく、3~4月の半分以下になる」(縄文ノート92 祖母・母・姉妹の母系制)というのであり、視界の悪い熱帯雨林でサルたちが地上に降りて小川や沼、湿地帯で水生動物やイモ・マメ・穀類などを食べている時にこそ、鳥語と同じように親子・仲間と連絡を取り合う猿語が生まれ、さらに水に浸かって直立歩行を行うようになり咽頭が下がって共鳴空間が大きくなって複雑な発音ができるようになって人語へと発展したと考えられます。

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<人類の言語誕生についてのこれまでの考察>

① 坂根を叩いて音を出すとピャアピャアピャアと返事する。飼育したボノボは人間の言葉を理解する。(縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと)

② ボノボに見られるようなメス同士と子の群れでの採集活動や食物分配、子ども同士遊びなどはコミュニケーションと言語能力を高め、糖質とDHA摂取により急速に頭脳の発達を促したと考えられます。(縄文ノート85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか)

③ サルからヒトへの言語能力の発達には、採集・分配・子育て・生活の共同・分担を通した「メス同士のコミュニケーションとおしゃべり遊び」と「メスと子ザルのコミュニケーションとおしゃべり」「子ザル同士のコミュニケーションとおしゃべり」の3つが重要な役割を果たしたと考えます。ヒトが話せるようになったのは、単に「コミュニケーションの必要性」だけでなく、「おしゃべりや歌」の遊びがあったと考えます。子どもの道具遊びや追いかけっこなどとともに、「遊び」は人類進化に大きな役割を果たしたのではないでしょうか。・・・

 メスの子育てを他のメスが助けるケニアのアビシニアコロブスと、オスが助けるブラジルのライオンタマリンは前者はメス主導、後者はオス主導の群れですが、いずれも子育てと群れの天敵からの防衛を通した共同体と家族形成の同時進行の萌芽が見られ、コンゴボノボからヒトへの進化の道筋を示しているように思います。いずれも熱帯雨林に住みながら、アビシニアコロブス・ライオンタマリンとボノボの大きな違いは、後者が地上・樹上生活をしている点にあり、ここに人類誕生の鍵があるように思います。草原での狩猟と肉食によって共同体と家族が生まれた、というフィクションは棄却され、共同体・家族形成と言語コミュニケーションによる頭脳発達が先行し、その後に小川・沼での二足歩行と手機能発達が進み、糖質・DHA食によりさらに脳機能の向上があり、最後に草原に進出して体毛の消失になった、と考えられます。(縄文ノート88 子ザルからのヒト進化説)

④ 共同体・家族社会の成立はボノボのようにメスたちの子育ての助け合いと子ザルたちの遊びから生まれ、発情期だけでなくセックスをすることにより、メスザルはオスザルに子育て中の食料確保に協力させるとともに、用心棒としたと考えられます。(縄文ノート89 1段階進化説から3段階進化説へ)

 

3.重要なのは文章構造

 私が縄文人のルーツに関心を持ったきっかけは若狭の鳥浜遺跡のヒョウタンの原産地が次女が青年海外協力隊員で出かけていたニジェール川流域であったことからですが、さらに日本列島への移動ルートについては、ヒョウタンを水瓶・ペットボトルとしたイカダでの熱帯の「海の道」ルートであり、さらにはイネなどのルーツと「主語-目的語-動詞」言語族の分布でした。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」「42 日本語起源論抜粋」参照

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 日本語が「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造(現在は英語が加わわった4層構造)でありながら、インドシナ語や中国語のように「主語―動詞-目的語」構造でないことは重要で、言語コミュニケーションにおいては、語順が重要であったことを示しています。

 鳥語において、シジュウカラが『ピーツピ・ヂヂヂヂ』(ピーツピ:警戒しろ、ヂヂヂヂ:集まれ)の語順をひっくり返し『ヂヂヂヂ・ピーツピ』だと警戒することも、集まることもせず、語順のある「文章」「文法」として理解していることを鈴木氏が証明したことは「人語=ルー語」にも当てはまるのではないか、と思います。

 「逆鱗にタッチ」「芸はボディを助ける」「鯖をリードする」なら「逆鱗にふれる」「芸は身を助ける」「鯖を読む」と理解できても、「タッチ逆鱗に」「ボディを助ける芸は」「リードする鯖を」は理解できるか、ということです。

 インド・アフガニスタンなどを植民地化したイギリスやアーリア人説を唱えたナチスなどは「インド・ヨーロッパ語族」などと言うフィクションを作り上げましたが、これは日本に定着している呉音漢語・漢音漢語・英語などの単語から日本を中国語族・英語語族とするのと同じトンデモ説であり、文章構造からみて成立の余地はないと考えます。

 鳥語・ルー語を認めるなら、同じ結論になるとは思いませんか?

 

4.もうトリ頭とは言わせない

 『サイエンスZERO』2020年10月25日放送の「“羽毛のある類人猿” カラス 驚異の知力に迫る」では「カラス博士」杉田昭栄・宇都宮大学名誉教授により「道路にクルミをおいて車に割らせる」「滑り台やボール遊び」「人の顔を記憶できる」「数を理解する」「写真をモザイク状にバラバラにしても間違えずに選べる」「道具を使ってエサをとる」「20種類以上の鳴き声でコミュニティを維持している」などが明らかされていましたが、カラスがエサ確保の工夫や遊び、会話コミュニケーションで脳力を高めることが明らかにされていました。

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 なお『日経サイエンス』2020年8月号は.論文「もうトリ頭とは言わせない 解き明かされた鳥の脳の秘密」を掲載していましたがちゃんと読んでいませんでしたので、後ほど、調べて内容を追加します。

 私は犬の認識能力が人間の人間の6~12ヶ月齢の赤ちゃんと同程度とされ、あるいは2~3歳程度の知能とされていることや、100程の人間の言葉を覚えていることなどから、サルから人間への基本的な進化は1~3歳の間に形成されるという仮説を立てましたが、「メス同士と子の群れでの採集活動や食物分配、子ども同士遊びなどはコミュニケーションと言語能力を高め、糖質とDHA摂取により急速に頭脳の発達を促した」(縄文ノート85 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか)、「サルからヒトへの決定的に大きな進化は脳の発達であり、それを支えたのは糖質とDHAの糖質魚介食であり、乳幼児への様々な母サルと子育てを助けるメスザル、時々オスからの刺激と子ザル同士の遊びによって獲得された」(縄文ノート88 子ザルからのヒト進化説)ことを明らかにしてきましたが、カラスなど鳥の観察・分析によっても「エサ確保」と「遊び」の「会話」コミュニケーションこそが、鳥たちの知能を高めたことが明らかです。

 

5.鳥語・犬語・猿語・人語研究から「生類愛文明」へ

 「人間と動物」、「文明人と野蛮・未開人」、「唯一絶対神信仰者と異教徒・無神論者」を峻別し、支配・虐待・殺戮を正当化してきた「西欧中心文明史観」「白人優生思想」「ユダヤ・キリスト・イスラム軍国主義」に対し、生類全ての「霊(ひ)」の継承=命を大事にする文明・宗教こそがDNA科学によって今や裏付けられてきています。

 魚・蟹・海亀・鯨・牛・馬・鹿・猪・熊などの動物供養・慰霊の神社・寺院・塚・碑・火葬・墓・霊園などの伝統が各地に広くあり、死刑を廃止を行った52代嵯峨天皇や「生類憐みの令」を出した5代将軍徳川綱吉の歴史を持つわが国においては、DNA・動物語・人語の研究から「生類愛文明」への提案を行うべき時代と考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/