ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松

 9月11日は「守矢・諏訪・安曇一族のルーツと信仰」(縄文とスサノオ大国主建国の繋がり)と「縄文石棒(墓石→神代(かみしろ))→男根道祖神→男女性器道祖神→夫婦道祖神」の変遷をテーマにして、諏訪湖北岸から安曇野、佐久へと調査しました。

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 まず諏訪大社下社秋宮の摂社と末社を調べ、その北にある男根型道祖神へ向かいましたが、集中豪雨被害の道路閉鎖があり、かなり大回りして捜したので下社春宮には行く時間がなくなり、建御名方が出雲に出向いた時に尾が残ったという壮大な龍神伝説のある「尾掛松(杉の木神社)」を見て、安曇野穂高神社へ向かいました。

 私はスサノオ大国主の建国史の解明は、古事記播磨国風土記の分析が鍵であると考えてきましたが、縄文時代からスサノオ大国主建国と農耕・文化・宗教の繋がりの解明には「古事記二重構造論」にたった諏訪・信州の遺跡・神社・伝承の分析が重要であり、さらに各地の取り組みが必要と考えるようになりました。

 

1 諏訪大社下社秋宮 9:40

 私が神社でまずチェックするのは、なぜこの地が祭祀の場所として選ばれたのか、背後の神名火山(神那霊山)の有無と境内を区切る川の配置、宗教地と集落との位置関係などの立地条件です。続いて、本殿の主祭神と摂社・末社の祭神との関係で、そこから祭神氏族・部族と後世に合祀された支配者との関係を確かめます。

 これは資料では十分に確認できないので、今回、現地を訪ねました。

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<概要>

① 江戸・日本橋から熊谷・高崎・軽井沢を通る中山道に、八王子・甲府を通る甲州街道が合流する交通の要衝にあり、春の春宮から8月1日には秋宮に神霊(翁・媼の憑り代)を柴舟に乗せて移す遷座祭(お舟祭)が行われます。柴舟に神霊を乗せて移すという祭りは、海人族系の祭りと考えられます。

② 元々の信仰対象の神山を確認したかったのですが、曇天であり樹木で見通しが悪く、境内図でも信仰対象となる神名火山(神那霊山)は確認できませんでした。

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③ 祭神については、諏訪大社の上社前宮、上社本宮、下社春宮(秋宮より古いとされる)、下社秋宮を合わせて一覧表にしました。

 

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<考察>

① ウィキペディアでは霧ケ峰高原の「旧御射山(もとみさやま:鷲ヶ峰)」を神山としているようですが、秋宮参拝者が直接見ることができ、神社右手の御手洗川の源流域の神山となると御手洗川の奥の「武居」地区の山などが考えられます。

 「神代の頃、諏訪に建御名方神が入ってくると、武居夷(たけいひな)神は建御名方神に諏訪の国を譲り、自らは蓼科山の上に登ったという」という伝承からみて、この武居の地は縄文から続く「ひな神」信仰の神域であった可能性が高いと考えます。―縄文ノート「35 蓼科山を神那霊山(神名火山)とする天神信仰について」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」参照

② 大国主が筑紫日向(ちくしのひな)(旧甘木市の蜷城(ひなしろ))の鳥耳(私説:大国主に国譲りさせたアマテル)との間にもうけた鳥鳴海の妻が「日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてるぬかだびちをいこちに)」、大国主に国譲りさせた穂日(ほひ)の子が「武日照(たけひなてる):武夷鳥・天夷鳥・天日名鳥・建比良鳥」、筑紫大国主王朝5代目の甕主日子の妻が「比那良志毘賣(ひならしひめ)」であることや、琉球では「ひ」、天草・大和などでは「ひな」が女性器名であることからみて、「ひな=霊那」は神名火山(神那霊山)や神籬(霊洩木)と同じく、霊(ひ)の聖地と私は考えています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 その起源は縄文時代に伝わった東南アジアのドラヴィダ系海人・山人族の「ピー信仰」であると考えます。―「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」参照

③ 祭神については、次の5点が注目されます。

 第1点は、上社前宮と下社春宮・下社秋宮の主祭神が建御名方(たけみなかた)の妻の八坂刀売(やさかとめ)であり、女神信仰であることです。

 これは、守矢氏の八坂刀売に出雲から逃れてきた建御名方が妻問した入り婿であったことを示しています。

 第2点は、下社春宮・下社秋宮に事代主が祀られていることです。大国主の筑紫妻の鳥耳(記紀スサノオの異母妹の天照に置き換え)の子の穂日(ほひ)・夷鳥(ひなとり:ひなてる=日照)親子との後継者争いで敗れた事代主と建御名方の両方が祭られているのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

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 事代主は出雲の美保神社や各地の神社に祀られており、後継者の争いの敗者でありながら、一族が皆殺しされることもなく、死後は神として子孫に祀られるという「八百万神信仰」をよく示しています。

 死者の霊(ひ)は子孫に祀られる必要があることからみて、出雲の美保ケ崎で入水自殺した事代主の御子がこの地まで建御名方とともに守矢氏を頼って逃れ、事代主を神として祀ったと考えられます。

 第3点は、本殿から見て左手(上位)に摂社として境内図やウィキペディアに書かれている皇大神宮社(天照、豊受)と稲荷社(倉稲魂、大宮比売、佐田彦)が、現地の説明板では末社にされていることです。

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 かつてはスサノオ系の稲荷社と天皇系の皇大神宮社を本殿の左(向かって右)に配置し境内図に乗せながら、現在は末社としていることは、大国主系の建御名方一族の主張と思われます。

 第4点は、大国主が妻問した越(高志)の沼河比売(ぬなかわひめ:沼河姫)が建御名方の母であることを記紀は明記していませんが、子安社に祀られていることです。糸魚川のヒスイがこの地の縄文遺跡で見つかっているように、縄文時代からこの地と越との交易・交流があったことを示しています。

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 第5点は、表1で赤と緑に色分けしたように、吉備・大和スサノオ系と出雲スサノオ7代目の大国主の両方の神が祀られ、スサノオに一番近い一族が祀られている末社の八坂社(素戔嗚尊奇稲田姫、八柱御子)の「八坂」が守矢氏の「八坂刀売(やさかとめ)」に付けられていることです。

 縄文ノート99で私は次表のように武居夷一族は縄文系、守矢一族は吉備・大和を拠点としたスサノオ大物主大神)2代目の物部氏系、建御名方は大国主系(出雲のスサノオ7代目)と整理しましたが、この下社秋宮の祭神でも確認することができました。

 

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2 性器型道祖神津島神社・真清神社・高尾穂見之宮) 10:10

<概要>

① 諏訪大社下社秋宮から国道142号線和田峠方面に向かうと、来迎寺を越して民家の先の右手の駐車場の奥に津島神社の鳥居があり、その奥の「大六天」の石碑の横に男根型の道祖神があります。

 注:イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡には、「信玄が『天台座主沙門信玄』と署名したのに対して、信長は仏教に反対する悪魔の王、『第六天魔王信長』と署名して返した」と書かれ、信長が篤く信奉していたのに対し、秀吉は拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したとされています(ウィキペディアより)。

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② さらに津島神社の上に急な斜面を登ってみる真清神社があり、その社殿の左奥に「金精様御用」の立て札があり、「奇石夫婦石」があるのを見つけました。予想外の収穫です。

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③ 最初、私はブログの紹介を頼りにして、来迎寺を越して右手の急な道路を登り、「東明館集会所裏」という説明をもとに高尾穂見之宮(祭神:保食神(うけもちのかみ))横の「鎌倉街道ロマンの道」に沿った多くの石仏・石神(主には不動明王)・石碑を探したのですが、細い山道を何度往復しても男根型道祖神を見つけることはできませんでした。

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 ところがなんと、入口の石の鳥居のところに、男女性器型の道祖神があったのです。第2の大きな予想外の収穫でした。

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<考察>

① 津島神社の男根道祖神については、縄文時代の石棒に後世に「道祖神」と彫ったのか、それとも、最初から道祖神として作成したのかはっきりしませんが、いずれにしても、「女神に捧げる男根」あるいは「女神の神代(かみしろ:依り代)」であることは確実です。

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② 私は今回、北方御社宮司社などで確認することができませんでしたが、「神体として石棒が納められているのが典型的なミシャグジのあり方であるという今井野菊の観察」(ウィキペディア:大和岩雄)や、「ミシャグジ(御蛇口)」という名称、縄文時代の集団墓地での石棒・円形石組、女神像や土器・土偶の蛇文様などによれば、縄文時代から続く女神信仰・神山信仰・水神信仰・龍蛇神などの信仰が現代まで途切れずに続いていることが明らかです。

③ また群馬県片品村の性器型などのツメッコを入れた汁粉を裏山の十二様(山の神:女神)に捧げる祭について、私は「元々は女神とされた山神に奉げるのですから、『金精形』だけであったのが、いつの頃か縁結び・夫婦和合・安産・子だくさん・子孫繁栄を願って『女性器形』が追加されたと考えられます。さらに、大地に糞尿を撒いて農作物を栽培したことから、豊作を願う『うんこ形』が追加されて地母神に供えられたのではないでしょうか」としましたが、金精・道祖神についても同じように『金精形(男根型)』から『男女性器型』、さらには『夫婦型』に変ったのではないか、と考えます。―縄文ノート「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)について」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」参照

 

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④ ウィキペディアは「道祖神は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている」「平安時代の『和名抄』にも『道祖』という言葉が出てきており、そこでは『さへのかみ(塞の神』という音があてられ、外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている」としています。

 しかしながら、「あいういぇうぉ」から「あいういう・あいうえお」母音への変遷を考えると「ひ=へ」であり、「さ」は古くは「さ」であった可能性があり、「ひ=い」(戦前までの「アカヒ アカヒ アサヒハアカヒ」など)の表記からは「塞」=「さ」=「さ」であり、元々は「さひの神」であった可能性が高いと考えます。

 「さひの神」に「道祖神」の漢字を当てているのは、「さ霊(ひ)の神」信仰を「鬼道=祖道」とし、「祖道」を「道祖」に置き換えたのであり・「鬼道」と同じく「祖先霊信仰の道」を示していると考えます。

 

3 尾掛松(杉の木神社) 下諏訪町高木 11:10

<概要>

① 諏訪大社下社から諏訪湖畔沿いの国道20号線を東に進み、高木交差点を山側に旧甲州街道に向けて進むと「橋本政屋」の手前の右手(東側)の細い道を進むと小さな杉の木神社があり、ここにかつて「尾掛松」があり、1752年にこの御神木が枯れ、代りに“ひむろ″(びゃくしん・柏槙:別名いぶき)を植え、それも枯れたので屋根をかけて「杉の木神社」としたとされています。

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② その奥の民家の石垣の下には祠があり、八ヶ岳原人氏のHPによると『下諏訪町誌 民俗編』に「智児神社 もと御社宮司社」との記載があるとのことで、この神社の神木であったと思われます。

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③ 四隅に御柱を立てる形式は守矢氏の社(やしろ=屋城)の形式であり、御室(みむろ)の中に藁、茅、またはハンノキの枝で作った数体の蛇形「そそう(祖宗)神」を安置し、翌春まで大祝が参籠して神長官守矢氏とともに祭事を行うことからみて、祖先霊信仰の「ひむろ=霊室」を神木の前に設けていたものが、後に「ひむろ」を神木名と誤って伝わったと考えます。―「縄文ノート39 「トカゲ蛇神楽」が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照

④ この尾掛松には、建御名方神が蛇に姿を変え、十月の出雲の「神集い」に出かけた時、他の神々に顔だけで「尾はどこに」と聞かれ、信濃の国より外には出ないという約束をしたので「尾は諏訪湖のそばの高い松の木に掛けてある」と答えたという、古事記の神話に沿った出雲と諏訪を繋ぐ雄大な伝説があります。

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④ 高木交差点から400mほど東に進むと「大和(おわ)」になり、「尾は(大和)諏訪湖のそばの高い木(高木)に掛けてある」という伝説に由来した地名が生まれたとされていますが、いかにも後世の親父ギャグの「語呂合わせ」の雰囲気です。

⑤ 『古事記』の「国譲り神話」では、高天原の「天照大神」から「建御雷(たけみかづち)」が派遣され、大国主の御子の事代主は国譲りを承諾して入水自殺しますが、御子の建御名方は承諾せず建御雷と力競べをして敗け、建御名方は科野の「州羽の海(諏訪湖)」まで逃げ、「この国から出ない」と降参したという記載に対応しています。

 

<考察>

① 論点は2つあり、1つは「大国主の国譲り神話」の真相であり、2つ目は「大和(おわ)」の地名の由来です。

② 私は「史聖・太安万侶」の古事記は「真実のスサノオ大国主国史」の上に「天皇家のための武力統一建国史」を巧妙に重ねた二重構造になっていると主張してきましたが、前者の視点から解釈してみましょう。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

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 「建御名方が蛇に姿を変え、頭だけが十月の出雲の『神集い』に出かけ、『尾』は地元に残った」という伝承を「太安万侶流の神話表記」とみて解釈すると、「建御名方(頭)は神集いに参加できたが、子孫(尾)は参加できなかった」ということになります。

 また、下社秋宮に武甕槌(たけみかづち)の鹿島社 が置かれているということは、武甕槌への建御名方の屈服の印とも言えますが、有利な和平条件を示した武甕槌に感謝を示した可能性もあります。

  ヤマトタケルの東国への派遣の「言向和平(ことむけやわす)」を文字通りに東国のスサノオ大国主一族への「交渉和平」と私は考え、皇国史観は「東征=武力征服」としていますが、実際にどうであったか、各地の伝承と照らし合わせてみて頂きたいと考えます。―『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 武甕槌は同族の建御名方へ「言向和平」に来たのであり、それは大国主からの絶縁ではなかったのではないか、というのが私の解釈です。

 なお、ここでは大国主の国譲りの詳しい謎解きは行いませんが、対馬天若日子(あめのわかひこ)、筑紫日向(ひな)の穂日、出雲の事代主、越の建御名方の4人の大国主の御子の後継者争いにおいて、雉鳴女(きじのなきめ)天若日子暗殺事件の犯人が誰なのかによって、大国主の後継者争いの性格は大きく異なってきます。記紀は雉鳴女・天若日子暗殺事件を天若日子と穂日と母アマテルの争いとしていますが、私は『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』では両事件の真犯人は自殺した事代主と逃げた建御名方によるものと推理しました。

 しかしながら、建御名方が出雲の『神集い』に出かけることができたとすると、真犯人は自殺した事代主の単独犯の可能性が高くなり、私は前著を修正する必要がでてきました。

 なお、古事記によれば、武甕槌は出雲の稲佐の浜に舟から降り、十束剣を抜いて、逆さに波の穂に刺し立て、その剣の前に座り、大国主と交渉したとしていますが、剣を逆さに立てて後ろに突き挿して交渉したというのは武器を使えないように置いた話し合いと私は解釈します。皇国史観は「剣の上に座った」などと解釈していますが武力征服史観の歪曲という以外にありません。

③ 2点目の「大和(おわ)」の地名起源ですが、私はスサノオの「委奴国(いな国=稲国)」が7代目の大国主と美倭(美和=三輪)の大物主(スサノオの子の大年:代々襲名)連合の成立により百余国の「大倭(おおわ)=大和」を称するようになり、さらに薩摩半島南西端の笠沙・阿多の山人(やまと)族の傭兵部隊が10代かけて大物主(代々襲名)の権力を奪い、「大和(おおわ)」を「やまと」と呼ばせるようになったと書いてきましたが、諏訪湖畔の「大和(おおわ→おわ)」は大物主一族の物部氏の守矢氏のこの地への進出によって付けられた地名であり、「高木=高城」はその環濠城のあった場所ではないか考えます。―「縄文ノート74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」「『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)」参照

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 この尾掛松のあった高木・大和の地は宅地が進み、もはや「高城」の発見は不可能と思いますが、さらになんらかの伝承がえられないか、期待したいところです。

  また推理小説ファンの皆さんには、「史聖・太安万侶」が残した古事記の雉鳴女と天若日子の2人の暗殺事件の真犯人が誰か、天若日子の「天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ:天鹿食弓)」と「天之波波矢(あめのははや)」と天若日子が雉鳴女を射た「天之波止弓(あめのはじゆみ)」と「天之加久矢(あまのかくや=天鹿食矢)」、天若日子の胸に刺さった「天之加久矢(あまのかくや)」から推理してみたいただければと思います。「雉も鳴かずば撃たれまい」からの太安万侶の「凶器の暗号」を読み解いてみませんか? 「真実は細部に宿る」です。

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 なお、天若日子大国主の娘の下照比売(高比売)を妻とした後継者の有力候補ですが、この下照比売は大国主と多紀理毘売(宗像族:スサノオの娘の宗像3女神の名前を代々襲名)の娘で、阿遅鉏高日子根あじすきたかひこね)の妹ですが、死んだ天若日子の葬儀に阿遅鉏高日子根が現れた時、天若日子が生き返ったと親族が大騒ぎして怒った阿遅鉏高日子根が喪屋を切り倒したというエピソードを太安万侶は長々と書いていますが、二人が瓜二つなのは大国主の異母兄弟であることを秘かに伝えたと私は推理しています。

 古事記では、大国主のもとにアマテルが最初に穂日、続いて天若日子を派遣したとしていることからみて、このアマテルはスサノオと同時代ではなく、7代目の大国主と同世代であり、大国主の筑紫日向(つくしのひな)高天原(甘木高台)の妻・鳥耳であると私は推理しています。下照比売が間違えられた兄・阿遅鉏高日子根の素姓を明かして詠んだ歌は「夷振(ひなぶり)」として載せられており、高天原の歌であることを示しています。二重構造の上部だけでなく、下部のスサノオ大国主一族の「ひな国」の歴史を読み解いていただきたいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡

 9月11日は、朝、蓼科山(別名:女神(めのかみ)山)のふもとの池之平ホテルから白樺湖を一周して女神湖までざっと見学。まちづくりプランナー時代のクセが抜けず景観・環境条件などをチェックしてから朝食をとり、縄文時代からの信仰対象であった女神(めのかみ:ヒジン=霊神)の住むとされる蓼科山の写真をとりながら、ビーナスラインを下りました。

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 女神(地母神・山神:乳房・腹・性器を強調した妊娠像、出産像)と神を祀る巫女(みこ:卑弥呼=霊巫女など)とビーナス(ギリシアの女奴隷の影響)の3者をごっちゃにした「ビーナスライン」や「縄文のビーナス」のネーミングはいただけませんが、その違いについては縄文「75 世界のビーナス像と女神像」「86 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰」「90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制」を参照ください。

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 今回、蓼科山北約20kmの北佐久郡立科町蓼科神社を調査候補に入れていたのですが時間的に調査できず、事前準備が不十分で見逃してしまった白樺湖畔の池ノ平御座岩遺跡と合わせて、こここで紹介しておきたいと思います。

 これまで書いてきたことの繰り返しが多くて恐縮ですが、新たに追加した表の部分だけでもざっと見ていただければと思います。

 

1.これまでの検討経過

① 2020年8月の「縄文ノート23 縄文社会研究会 八ヶ岳合宿報告」では次のように書き、スサノオ大国主一族の神名火山(神那霊山)信仰が縄文時代に遡る可能性があると主張しました。

 

 「紀元1世紀前後からの洩矢氏の神名火山(かんなびやま:神那霊山)・神籬(ひもろぎ:霊洩木)信仰は、縄文中期の阿久遺跡の立柱と列石に見られる蓼科山信仰から考えると、縄文時代に遡る可能性が高いと私は考えます」「今回の合宿の大きな成果は、阿久遺跡(縄文前期)の環状集積群の中心の石柱・列石が蓼科山方向を向いていることを確認でき、中ツ原遺跡(中期~後期前半:約5,000~4,000年前)の8本柱についても蓼科山を神那霊山とする宗教施設との確信を深めたことです。」

 

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② 「縄文ノート35 蓼科山を神那霊山(神名火山)とする天神信仰について」(2020年8月の合宿資料)では次のように書き、「武居夷(たけいひな)神=ひな神=霊神(ひじん)=女神(めのかみ)」が「ひな=女性器」信仰で、「女神に金精様=男性器を捧げる」信仰であるとの解釈を提案しました。

 

蓼科山は海人族が信仰する円錐形の美しい「神那霊山(神名火山)型」であり、諏訪富士と呼ばれています。吉田金彦元大阪外大教授の「信濃=ひな野説」によれば、「たてしな=たてひな」であり、「霊那(ひな)=霊の国」のシンボルとなる山になります。沖縄の南西諸島では女性器を「ひー」、天草地方では「ひな」といい、倭名類聚抄ではクリトリスのことを「ひなさき(雛尖)」としていることからみて、「たてひな山」は地母神の女性器信仰を示している可能性があります。

 ウィキペディアによれば「神代の頃、諏訪に建御名方神が入ってくると、武居夷(たけいひな)神は建御名方神に諏訪の国を譲り、自らは蓼科山の上に登ったという」とされ、「蓼科山にはビジンサマという名のものが住んでいるという伝承がある。姿は球状で、黒い雲に包まれ、下には赤や青の紙細工のようなびらびらしたものが下がっており、空中を飛ぶ」という伝承もあることからみて、この地はもともと「武居夷神(たけいひな神=強い委の日名神)」の支配地であり、「夷(ひな)=ひ=び」の神「ビジン=霊神」という山神の山、頂上部が丸い黒い溶岩の山として信仰されていたことを示しています。」

群馬県片品村の金精信仰に見られるように、女性神である『お山』に男性が金精を捧げ、『霊継ぎ(ひつぎ)』を願う母系制社会の信仰・民俗は現代に続いているのです。女性が関われないのは、女性神である『お山』が嫉妬するからであり、男の祭りとなっているは男性優位・女性差別ではありません。」

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③ 「縄文ノート40 信州の神奈備山(神那霊山)と『霊(ひ)』信仰」では次のように書き、女神(目の神)信仰が倉稲魂(うかのみたま=稲荷神)神・木花佐久夜毘売(このはなをさくやひめ)信仰に信仰に引き継がれていることを明らかにしました。

 

 「『ヤマケイオンライン』によると、「蓼科山は、コニーデ型の山容をした信州きっての名山のひとつで、諏訪富士とも呼ばれている。また、高井山、飯盛山(いいもりやま)、黒斑山、女ノ神山などの別称もある。山頂は岩石累々とした偏平な噴火口跡で、中央に蓼科神社奥宮の石祠がある」とされており、まず「女ノ神山」とされていることに注目したいと思います。

 また山頂の蓼科神社奥宮の石祠には、「高皇産霊(たかみむすひ)神・倉稲魂(うかのみたま)神・木花佐久夜毘売(このはなをさくやひめ)」が祀られていますが、倉稲魂はスサノオと瀬戸内海の大三島の大山祇(おおやまづみ)の娘の神太市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれた女性であり、同じく大山祇(おおやまづみ:代々襲名)の子の木花佐久夜毘売播磨国風土記によれば大国主の妻であり、いずれも女性神です。

 蓼科神社奥宮は男性神・高皇産霊を主祭神としていますが、本来は女性神の神皇産霊(かみむすひ)を祀っていたものを皇国史観に合わせて男性神に置き換えたものと考えます。」

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④ 「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)について」では次のように書き、片品村の2つの祭り、女体山への「金精様」の奉納と山の神『十二様」(女神)への「砂糖ツメッコ」の奉納から、女神山への「女体山崇拝の男性器奉納」から「縁結び・夫婦和合・安産・子だくさん・子孫繁栄の男女性器奉納」さらには「豊作祈願」へと祭りが変わった可能性を示しました。

 

 「女体山(日光白根山)は女性器の形状を想起させるエロチックな活火山であり、その北にはそびえ立つ金精山があり、かつては、この女体山には村の男たちが木の金精(男根)を奉納していました。

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片品村の針山地区の山の神『十二様」(女神)の祭りでは、男が性器型などのツメッコを入れた汁粉を裏山の十二様に供え、十二様が嫉妬するので集落の十三歳以上の女性は甘酒小屋に集まり参加できません」「普通、『ぜんざい』には餅や団子などが入れられますが、『性器型ツメッコ(すいとん)』というのは片品独特です。地元にあった金精信仰、女性器の形を思わせる『女体山(日光白根山)』などの山の神に金精(男性器形の木棒や石棒)を捧げるという金精信仰が、『性器型ツメッコ(すいとん)』に形を変えた、と考えられます。

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 元々は女神とされた山神に奉げるのですから、「金精形」だけであったのが、いつの頃か縁結び・夫婦和合・安産・子だくさん・子孫繁栄を願って「女性器形」が追加されたと考えられます。さらに、大地に糞尿を撒いて農作物を栽培したことから、豊作を願う「うんこ形」が追加されて地母神に供えられたのではないでしょうか。」

 

④ 「縄文ノート23 2020八ヶ岳合宿報告」では次のように書き、さらに「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」でも詳述しましたが、巨木の中ツ原遺跡の8本柱、三内丸山史跡の6本柱は、神名火山(神那霊山)である蓼科山八甲田山を崇拝するための楼観神殿である、というのが私の結論です。

 

 「今回の合宿の次の大きな成果は、阿久遺跡(縄文前期)の環状集積群の中心の石柱・列石が蓼科山方向を向いていることを確認でき、中ツ原遺跡(中期~後期前半:約5000~4000年前頃)の8本柱についても蓼科山を神名火山(神那霊山)とする宗教施設との確信を深めたことです。」

 

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 「出雲大社本殿の『田の字型」が農家住宅に戦前までほぼそのまま引き継がれていたことからみても建築思想・技術は継承される可能性が高く、縄文時代の6本柱・8本柱建築物は2世紀の大国主の48mの出雲大社本殿の『天御巣』『天御舎』、3世紀の邪馬壹国、一大国(壱岐)や吉野ヶ里の『楼観』と建築思想・技術において連続していると見るべきです。

 柱の太さから想定される強度からみて、これらの建物は単に神を祀る神殿・神塔ではなく、多くの人々が昇って神那霊山を崇拝する『楼観神殿』の可能性が高いと私は考えます。」

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2.蓼科山信仰と蓼科神社

<概要>

① 「縄文ノート40」では奥宮の祭神を「高皇産霊(たかみむすひ)神・倉稲魂(うかのみたま)神・木花佐久夜毘売(このはなをさくやひめ)」の3神としましたが、調べなおすと里宮と奥宮(蓼科山山頂の祠)の祭神は次の表1のとおりです。

 

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 奥宮の祭神は、高皇産霊と倉稲魂(女神)、木花佐久夜毘売(女神)は共通していますが、里宮には大己貴(おおなむち)命(大国主)、奥宮には「水分(みくまり=みくばり)神」「保食(うけもち)神(女神)」「稚産霊(わくむすひ)神(女神)」が祀られており、後世に様々な神が習合されています。

 これらの神々については、表2のような伝承、記紀記述があります。

 

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<考察>

① 表1の祭神からみても、蓼科山縄文時代から現代に続く女神信仰の神山であったことが明らかです。男神の高皇産霊(たかみむすひ)大国主は後世の男系社会を反映した合祀と考えられます。―縄文ノート「32 縄文の『女神信仰』考」「73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社」参照

 

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 さらに重要な点は、この女神信仰・地母神信仰が人類の誕生、家族・氏族誕生に遡り、世界の文明に共通しており、戦争・侵略の男性中心社会になりながらもその宗教・民俗を日本文明は明確に残していることです。日本中央縄文世界遺産登録の大きな価値はこの点にあります。―縄文ノート「75 世界のビーナス像と女神像」「86 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰」「90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制」参照

② 「諏訪に建御名方神が入ってくると、武居夷神は洩矢神と共に建御名方神と対抗した」という伝承と、洩矢神(「らりるる=らりるろ」から「もりや=もれや」)は守屋山、武居夷神は蓼科山を神山としていることからみて、私は両者とも在地の縄文系ではなく、表3のように武居夷一族は縄文系、守矢一族は吉備・大和を拠点としたスサノオ大物主大神)2代目の物部氏系による妻問夫招婚の氏族・部族ではないかと考えています。―「縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」参照

 

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③ 阿久遺跡の環状集積墓地の中心の石柱・列石と中ツ原遺跡の高楼神殿が蓼科山を向いていることから、蓼科山信仰が5~4000年前頃の縄文中期・後期前半に遡ることが明らかであり、東南アジア山岳部のドラヴィダ系山人族の祖先霊信仰である「ピー」信仰を受け継いだ山神=女神=霊神信仰の神名火山(神那霊山)であったと考えます。―縄文ノート「23 2020八ヶ岳合宿報告」「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」「38 『霊(ひ)』」とタミル語peeとタイのピー信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」参照

 この神山天神信仰は、エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明などに共通しています。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57 4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」参照

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④ 南の諏訪側では蓼科山諏訪大社上宮本宮・前宮の前を流れる上川の源流域であり、北の佐久側では蓼科神社の前を流れる芦田川の源流域であり、蓼科神社が高井明神(高い井の神)と呼ばれていることや水分(みくまり=みくばり)神の習合、諏訪大社上社前宮の「水眼(すいが)」信仰や、湧水地の「ミジャグジ(御蛇口)」信仰、縄文土偶・土器の龍蛇デザインなどを見ても、蓼科山は水神=龍蛇神信仰の対象でもあったと考えます。―縄文ノート「36 火焔型土器から『龍紋土器』 へ」「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体」「98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社」参照

 

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 それはルウェンゾリ山・アララト山カイラス山などの神山源流からのナイル川・チグリスユーフラテス川・インダス川流域などの「母なる河」「水神信仰」「龍神信仰」と共通する農耕文明を示しています。―縄文ノート「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体」「80 『ワッショイ』と山車と女神信仰と『雨・雨乞いの神』参照 

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⑤ これまでわが国の歴史は中国・西洋の文化・文明をどう取り入れたか、地方史は天皇家の武力・政治・経済支配がどう地方に及んだかという中国・西欧中心史観、大和天皇家中心史観、戦争中心史観という2重の「外発的発展史観」により歪曲されてきましたが、縄文1万数千年の歴史からの「内発的発展史観」による全面的な見直しが必要であり、世界史全体・文明史全体の見直しを世界に提案すべきときと考えます。表4に主な論点を示します。

 

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3 池之平御座岩遺跡

 佐久穂町の北沢川大石棒信仰の神山が北沢川源流の八ヶ岳のどれにあたるか調べているうちに、大石川上流に旧石器時代の黒曜石加工の池之平遺跡群があることが判り、さらに白樺湖畔に池之平御座岩遺跡があることに気づきました。池之平ホテルに泊まりながら、このような蓼科山信仰に関わりある重要な遺跡があることを見逃していたのです。

 ここで紹介しておきたいと思います。

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<概要>

① 昭和21年に造られた人造湖である白樺湖のほぼ中央の西側の標高約1416mのところに安山岩の岩塊群があり、旧石器時代の石器(和田峠産と思われる黒曜の石槍先形尖頭器9、ナイフ形石器2、掻器・削器17、刃器状破片6、細石核4)、縄文早期から晩期にかけての石器・土器・土偶・耳飾り、弥生式土器・土師器・須恵器・滑石製の幣玉・宗銭・鉄鏃などが見つかっています。

 

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 茅野市尖石縄文考古館HPによると、宮坂英弌(ひでふさ)氏は1955年、白樺湖の対山館(たいざんかん)遺跡と南岸遺跡で土器のない黒曜石の石器を発見していますが、白樺湖周辺で住居などは未発掘です。

 

<考察>

① 池之平御座岩遺跡は表5のように「峠神信仰遺跡」「交流拠点遺跡」「岩陰祭祀遺跡」の3説がみられますが、私は「蓼科山・池之平湿原の山神・水神(女神(めのかみ))祭祀遺跡と考えます。

 

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② 地層などからこの池之平御座岩遺跡の年代は割り出されていませんが、旧石器時代遺跡となると、6000年前頃の阿久遺跡の石棒と石列、5~4000年前頃の中ッ原遺跡の8本の楼観神殿などよりずっと古くから蓼科山信仰があったことになります。

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 和田峠や男女倉・星糞峠などでの黒曜石採掘開始時期は縄文時代草創期(16000前頃)のようですが、その頃から蓼科山信仰があった可能性はあるのでしょうか?

 魚介類や猪・鹿、栗など食料が豊富で暖かい海岸部から、塩がなくて寒い中部・関東山岳地域になぜ縄文人が住むようになったのか、平野部での地母神信仰からなぜ天神神山信仰に変わったのかなどと合わせて、これはずっと悩ましい問題点でした。

③ その謎の1つは鬼怒川温泉に行った機会に、屋上の露天風呂から北に見える高原山(たかはらやま)で、剣ヶ峰(1540m)から続く大きな稜線の南斜面の森林限界を400mも超えた1440mの高地に日本最古の後期旧石器時代初頭(19000~18000年前頃)の黒曜石の露頭と採掘・加工跡(高原山黒曜石原産地遺跡群)があることが判り、解決できました。―「縄文ノート44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

 

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 この黒曜石はたまたま猟などで見つけたのではなく、旧石器人・縄文人には神山信仰があり、さらに火山に黒曜石があって利用価値が高いことを知っており、高原山登る機会に黒曜石を見つけたとしか考えられないのです。

 ここから出てくる結論は、神山信仰も黒曜石利用も日本の旧石器人・縄文人が独自に獲得した文化・文明ではなく、アフリカか途中のアジアを移動する時に獲得した可能性が高く、神山信仰はアフリカと南・東南アジア山岳地域で、黒曜石利用はエチオピアかチグリスユーフラテス源流域のアララト山地域で獲得した可能性が高いのです。―縄文ノート「56  ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57  4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」「38 「霊(ひ)」とタミル語peeとタイのピー信仰」等参照

 それはY染色体DNAのⅮ型、「主語-目的語-動詞」言語構造、縄文のヒョウタンやジャポニカイネ・ソバの原産地、女神信仰などとも重なるのです。―縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「41 日本語起源論と日本列島人起源」「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」「28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」「81 おっぱいからの森林農耕論」「75 世界のビーナス像と女神像」等参照

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④ 八ヶ岳山麓の山神・水神信仰、女神信仰(性器信仰)、黒曜石文化の解明は、人類の文明史解明に決定的に大きな手掛かりを与えるものであり、池之平御座岩遺跡を中心とした白樺湖畔周辺遺跡の再調査による女神(めのかみ)祭祀起源の調査が求められます。

 信州人はいつ、なぜ、どのルートで内陸山岳地域を目指したのか、人類の大移動(グレートジャーニー)から明らかにすべきと考えます。  

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社

 長野県諏訪市を中心に中部・関東に広がる「ミサク神」「ミシャグジ神」の解明に向けて、9月10日には中央構造線の断層に沿って「神長官邸みさく邸」から西に進んで北方御社宮司社を見学し、時間がなくて有賀千鹿頭神社はパスし、11日には諏訪湖北岸の下浜御社宮司神社を見学しました。

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 私は「ミサク神」「ミシャグジ神」や「鹿頭(かとう)祭祀」は縄文時代の信仰を受け継いだスサノオ系の物部一族の守矢氏の祭祀と考えており、「守矢氏=縄文人諏訪氏弥生人」説ではなく、縄文時代の信仰を受け継いだ「守矢氏=スサノオ一族、諏訪氏大国主一族」説を神社の立地と環境、祭神から確認したいと考えました。

 なお、下浜御社宮司神社では「ミサク神」「ミシャグジ神」は女神ではないか、という結論に達しましたが、地元でのさらなる調査を期待したいと思います。

 

3.北方御社宮司(みしゃぐじ)社 

  諏訪市大字湖南字砥沢2993 9月10日13:10

<経過>

① 神長官守矢家の屋敷神の「神長官邸みさく神境内社叢」では、神木・かじのきを「みさく神」(御左口神)として祀っており、神=霊(ひ=魂=祖先霊)が神木に憑りつくという「神山天神信仰」(神名火山(神那霊山)信仰)「神籬(ひもろぎ:霊洩ろ木)」信仰を示すと考えてきました。―「縄文ノート23 2020八ヶ岳合宿報告」参照

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② その語源としては2つの説を考えました。

 1つは、『古事記』の石析神根析神(いわさく・ねさく:日本書紀:磐裂神・根裂神)と同じで、「さく=裂く=咲く」(ちなみに、蕾が一斉に裂くのが桜)から、「みさく神」は「御裂神」で死者の霊(ひ)が大地に帰り、大地を割いて木となり天に伸びていく地母神信仰=神木信仰=霊(ひ)信仰であった可能性です。

 「佐久」地名があることや、ウィキペディアで「今井(野菊)の実地踏査で古木の根元に石棒を祀るのが最も典型的なミシャグジのあり方であることが判明した」とあることからみても、地母神信仰の石棒が合祀された可能性が高いと考えます。なお「み」は「蛇」の可能性があり、「蛇裂口」であった可能性もあります。

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 2つ目は、「ミシャクジ神(御左口神)」とも表現されることから、「シャ(漢音)=ジャ(呉音)=蛇(へび、み)」から「御蛇口神」であった可能性です。信仰の対象であった神籬(ひもろぎ:霊洩木)の下に蛇の出入口があり、霊(ひ)を運ぶ神使の蛇信仰の可能性で、出雲大社の龍蛇信仰、大神大社の蛇信仰と同じです。あるいは神名火山(神那霊山)からの地下水が湧き出る「蛇口」信仰であり、諏訪大社上社前宮の「水眼(すいが)」信仰と同じであった可能性もあります。

 諏訪上社では御室(みむろ)の中に藁、茅、またはハンノキの枝で作られた数体の蛇形、「そそう(祖宗)神」が安置され、翌春まで大祝がそこに参籠し、物部氏の神長官守矢氏とともに祭事を行い、諏訪神社の神体は蛇で、神使も蛇であるとされていることと、古事記スサノオ(代々襲名)のもとに大国主スサノオ7代目)が訪ね、スセリヒメ(須勢理毘売)に妻問した時、スサノオ大国主を「蛇の室」に寝かせたという神話が符合していることからみて、「ミシャクジ神」は縄文から続く「蛇神=龍蛇神=龍神信仰」の可能性が高いと考えます。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「36 火焔型土器から『龍紋土器』へ」「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照

③ 以上のような経過をふまえて、今回,他の北方御社宮司(みしゃぐじ)社と下浜御社宮司(みしゃぐじ)神社を見学しました。長野県に750余り(諏訪109社、上伊那105社、下伊那36社、小県104社など)あるミシャクジ社の中から、諏訪大社上社本宮に近いところと、湖畔にあるものを選びました。

<概要>

① 北方御社宮司(みしゃぐじ)社は、諏訪大社上社本宮から中央構造線にそって諏訪湖方向に約2㎞ほど進んだところにあり、本殿aとその右横b、右奥c、後d、左奥e、左手前f、少し離れた右手前gの5つの小祠があります。

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② いずれも神木を背にし、参拝者は神名火山(神那霊山)を望み、eとfには水脈があり、gの石には「水神」と書かれています。

③ 主祭神は「諏訪大神御子神」で、「軻具土神、大山祇命五十猛命少彦名命事解男命、速玉男命、素戔嗚命、菅原道眞、市杵嶋姫命、伊弉册尊、火産靈神」など、スサノオ大国主系の神が合祀されています。

<考察>

① これまでの「ミシャグジ」説は次のとおりであり、私は縄文時代からの地母神・性器信仰と天神信仰(神名火山(神那霊山・神籬(霊洩木)・水神・龍蛇神信仰)・農業神信仰が習合されたと考えています。

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② 今回、うかつなことにウィキペディアの「神体として石棒が納められているのが典型的なミシャグジのあり方であるという今井野菊の観察」(大和岩雄)を見ていなかったため、石棒祭祀を確認することができませんでしたが、北方御社宮司社の古い小祠は大木を背にした石祠であり、水源であることが確認でき、地母神信仰と天神(神山・水神・龍蛇神)信仰の習合は確認できたように思います。

 

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③ そのルーツは縄文時代の神名火山(神那霊山)信仰と龍蛇神信仰に遡り、水稲稲作をもたらしたスサノオの御子の大物主系の物部族の神長官守矢家から、スサノオ7代目の出雲の大国主の御子の後継者争いに敗けて追われて頼ってきたタケミナカタ(建御名方)に引き継がれたと考えます。

  なお、私は海人族のスサノオ大国主一族も薩摩半島南西端の笠沙・阿多の猟師である山幸彦(山人(やまと):漁師の海幸彦=隼人(はやと)の弟)を祖先とする天皇家のどちらもが縄文系であり、弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服の支配者などではなく、守矢家=縄文人諏訪氏弥生人が制服したという説は支持しません。縄文陸稲稲作から水稲稲作への転換はスサノオ大国主一族の新羅との米鉄交易と製鉄自製による鉄先鍬の普及による縄文農耕からの内発的な発展であったと考えています。―縄文ノート「24 スサノオ大国主建国論からの縄文研究」「53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」「83 縄文研究の7つの壁ー内発的発展か外発的発展か」参照

④ 「縄文ノート38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」で書きましたが、民族学者の佐々木高明氏や大林太良氏、文化人類学者の岩田慶治氏によれば、死霊(祖霊:ピー)が聖山に集まるという「ピー信仰」は中国南部から東南アジアの照葉樹林帯の焼畑民やタイの農耕民社会の間に広くみられ、タイでは「常住するピー」は添付のような祠に祀られているのです。

 

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 この祖先霊の「ピー信仰」は日本人に多いY染色体D型の分布やソバの原産地と重なっており、さらに国語学者大野晋氏によれば、「pee」信仰は南インドのドラヴィダ族にもみられ、小正月(1月15日)のカラスに赤米を炊いて与える「ポンガ」の祭りは青森・秋田・茨城・新潟・長野の「ホンガ」「ホンガラ」の祭りに繋がるとともに、屋敷神の石祠を敷地の西北に設ける信仰とも似ています。

 

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 なお、稲作指導にナイジェリアに通っている若月利之島根大名誉教授によれば、イボ族(ビアフラ内戦で大虐殺された)について「イボにはJujuの森があり、日本のお地蔵さまと神社が合体した『聖なる』場所は各村にあります」と述べています。

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 このナイジェリアのニジェール川流域は若狭の鳥浜遺跡や青森の三内丸山縄文遺跡から見つかったヒョウタンの原産地であり、Y染色体D型と分かれたE型はイボ人などコンゴイド人種に多く、私はチンパンジーボノボの住むニジェール川コンゴ川熱帯雨林こそ日本人(縄文人)のルーツと考えており、「ミシャクジ神」を祀る祖先霊信仰の原点はこの地から東南アジア高地をへて伝わったのではないか、などと大それたことを考えています。―縄文ノート「62 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」「85 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか」「88 子ザルからのヒト進化」「縄文89 1 段階進化論から3段階進化論へ」「92 祖母・母・姉妹の母系制」参照

 

4.有賀千鹿頭(ちかとう)神社 

 諏訪市豊田有賀 

 有賀千鹿頭(ちかとう)神社は北方御社宮司社から中央構造線にそって諏訪湖方向に約3㎞ほど進んだところにあり、今回は会議時間が迫りパスしましたが検討した点をメモしておきます。

① 諏訪大社上社では、4月15日御頭祭において鹿の頭(現在は剥製:昔は75もの頭も)や鳥獣魚類等が備えられるとされ、「千鹿頭神社」のことがずっと気になっていました。

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② この行事を縄文時代から続く鹿の豊猟を願う狩猟民の祭礼とし、守矢氏を縄文系とする説が見られますが、私は農耕儀式と考えています。

③ 播磨国風土記には、「大神(伊和大神:大国主)の妻の妹玉津日女が生きた鹿の腹を割いて、稲をその血に播いた時、一夜で苗が生えた」(讃容郡讃容:今の佐用市)、「太水神は『吾は宍(しし)の血をもって田を作るので河の水は欲しない』と述べた」(賀毛郡雲潤里:今の加西市加東市)という記載があり、鹿や猪の血が稲の生育を助けるという血(子宮をイメージ)の中から生命=稲が生まれる「黄泉帰り」の宗教思想があったことが明らかです。―「縄文ノート7 動物変身・擬人化と神使(みさき)、狩猟と肉食」参照

 古事記大国主は少彦名と「国を作り堅め」、少彦名の死後には美和の大物主と「共に相作り」とし、日本書紀大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」、「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」とし、出雲国風土記大国主を「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」とし御子を阿遅鉏高日子根あじすきたかひこね)と書いていることからみても、鉄先鋤を各地に配り、水利水田稲作を進め、朝鮮半島に輸出した海人族の大国主一族に対し、それまでの陸稲栽培・水辺水田稲作を行っていた玉津日女や太水神の一族は鹿や猪の血を使う霊(ひ)信仰の農耕を止めようとしなかったことを播磨国風土記は伝えています。

 このような例から見て、鹿の頭を神にささげるのは狩猟行事ではなく、豊作を祈った宗教行事の可能性が高いと考えます。

④ さらに古事記は、薩摩半島笠沙の天皇家の祖先の山幸彦(火遠命、穂穂手見命)は「毛のあら物、毛の柔(にこ)物を取っていた」猟師、山人(やまと)としており、食用の肉より、毛皮をとることを仕事としていた猟師の書き方です。

 岡山県の山奥の山村に住んでいた私の父方の祖父は、田畑に猪や鹿が出てくる季節になると「そろそろ猟師に使いを出せや」と叔父に命じいましたが、山間部での林業・農業にとって、害獣駆除は猟師の重要な役割であったのです。

  播磨国風土記には、大国主一族と品太天皇応神天皇)らの狩りや肉食、鹿と猪の飼育、鹿と猪の血での稲作に関する次のような記述が見られます。

 

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 これらの記録から、大国主応神天皇(山幸彦=山人の子孫)らは軍事訓練を兼ねて「鳥獣の害をはらう」狩りをひんぱんに行っていたことが明らかです。

 諏訪大社の御頭祭が4月に行われる「農作物の豊穣を祈って御祭神のお使いが信濃国中を巡回する際のお祭り」であることからみても、「狩猟祭」ではなく「農耕祭」として農作物を荒らす鹿の霊(ひ)を祀り、稲の発芽・成長を祈ったと考えています。―縄文ノート「27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

⑤ 神に神饌(しんせん:食事)を供え、そのお下がりを参列者が食べる「神人共食」の儀式には鹿肉があればよく、鹿の頭を供えるのは鹿の霊を神のもとに送る行事であり、「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰」を示しており、動物にも人と同じように霊(ひ=DNAの働きを解釈)があると考える宗教思想と考えます。

⑥ 金生遺跡で円形土坑から焼けたイノシシの下顎骨138個体(うち115体は幼獣)が発見されているのは、アイヌイヨマンテ同じように捕獲した猪の子どもを育てて霊送りの儀式と考えられていますが、鹿の頭を供える儀式に受け継がれた可能性が高いと考えます。

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  なお、播磨国風土記には「讃容郡町田:(賛用都比売)鹿を放した山を、鹿庭山と号す」「賀毛郡猪飼野:難波高津宮御宇天皇(注:仁徳天皇)の世に、日向の肥人、朝戸君・・・此の処を賜って、猪を放って飼った」としており、縄文時代から子鹿や子猪を捕まえて飼っていた可能性もあります。

⑦ 諏訪大社上社の鹿の頭を捧げる宗教行事は、75もの頭が供えられることからみて、最大75の氏族が各地区から捧げ、それぞれの地区でも同様の祭祀を行っていた可能性が高く、千鹿頭(ちかとう)神社がどのようなものか、見ておく必要がありましたが、次の機会としたいと思います。

 ウィキペディアに「ミシャグジや天白神と同様に石棒を神体として祀るところもある」と書かれているので、千鹿頭神社の古い祠がミシャグジ社と同じ様式なのかどうか、いずれ調べたいと思います。

⑥ 明治初期の『神長守矢氏系譜』では、千鹿頭神は守宅神(洩矢神の息子)の子であり、祭政を受け継ぐ守矢氏の3代目で、その名前は守宅神が鹿狩りをした時に1,000頭の鹿を捕獲したことから由来するとされていますが、どうでしょうか? なお「建御名方神御子神の内県神と同視されることもある」とされ、後世に諏訪系の内県神と合祀されていますが、元々は守矢系とみて間違いないようです。

⑦ ウィキペディアには、今井野菊氏の調査で千鹿頭社は長野県13社、山梨県8社、埼玉県12社、群馬県20社、栃木県12社、茨城県7社、福島県15社などに分布し、「千鹿頭」「千賀多」「千方」「千勝」「近津」「近戸」「近外」「血方」「血形」「智方」「智勝」「智賀都」「地勝」「親都」などの表記があり、発音も「ちかた」「ちかつ」「ちかと(う)」などが見られるとしています。

  琉球方言などに残る原日本語の3母音の「たちつちつ」と5母音「たちつてと」からみて、「ちかつ」が「ちかと→ちかとう」になり、「千鹿頭」の当て字となった可能性があり、鹿の狩猟からの名前と言うよりも、諏訪湖の「津=港」に由来した「近津」名の可能性もないとはいえないと考えます。―「縄文ノート97 『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」参照

 

5 下浜御社宮司(みしゃぐじ)神社

 岡谷市下浜字浜浦(湖畔公園傍) 9月11日 9:10

<経過>

① 「ミシャグジ社」のうち、この神社に着目したのは、「専女(たうめ→とうめ)=老女」神(雛元解釈:田産女神)、さらには「三狐神(みけつかみ)=保食神(うけもちのかみ:日本書紀)=大気都比売(おおげつひめ:古事記:イヤナギ・イヤナミの子)=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ=稲荷神:スサノオの子)」と習合され、女神の食物神とされていたからです。

② また諏訪湖畔に祀られていることから、海人族(漁撈民)の神である可能性があり、縄文人がドラヴィダ系海人・山人族であるという私の説とも関係します。―「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論」参照

③ 私は縄文ノート「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか」「88 子ザルからのヒト進化」「89 1 段階進化論から3段階進化論へ」などにおいて、二足歩行はアフリカ熱帯雨林での湖沼・小河川地域での水に浸かってのサルの足での採集活動が起源で、糖質とDHAの摂取が脳の発達を助け、母・祖母・姉妹ザルが子育てを通して家族・氏族集団を生み出し、そのコミュニケーション・おしゃべり・遊びが脳の発達を急速に促したと考えており、棒を使った銛漁と根菜類採集活動が手の機能を高め、芋豆穀類の栽培に繋がったことから女性を中心にした地母神信仰が生まれたと考えてきました。

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 日本各地の田植え神事・祭りを女性が行っているのは、この農作物栽培の起源からの地母神信仰・穀霊信仰に基づいているのではないか、と私は考えています。

 

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 魏書東夷伝倭人条で卑弥呼が「婢千人自ら侍らせ」と書き、古事記スサノオがアマテルの「営田の畔」や「服屋」を壊す乱暴を働いたという記述は、卑弥呼(霊巫女)=オオヒルメ(大霊留女)=アマテルが大勢の女性を集めて稲作と絹織物生産を行っていたことを示していると考えます。

 なお、兵庫県たつの市の私の母方の家は、私の祖母まで代々の娘は大阪の住吉大社から御座船が迎えに来て住吉さんに仕えていましたが、ひょっとしたら日本三大御田植の1つの住吉の御田植に参加したことがあったかも、などと空想しています。

<概要>

① 諏訪湖北岸東北端の岡谷湖畔公園の「希望の広場」の北側に、西方を拝むように建てられた「浜弁財天神社」があり、鳥居は諏訪湖へ向き、社殿は西へ向いています。

 

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 弁財天はヒンドゥー教の女神が仏教に取り込まれ、スサノオの子の宗像三女神の市杵嶋姫(いちきしまひめ)と習合されることが多い女神です。

 本殿の北側には小さな石の祠があり、これも四隅に柱を立てている形式から見て、弁財天を祀るようになる以前の本来の「ミシャグジ社」であった可能性が高いと考えます。

 鎌倉時代製作の弁財天像には頭に蛇を載せているものがあることからみて、巳(み=蛇)、蛇(シャ・ジャ)の神として考えられていたことが明らかであり、「ミシャグジ」名と符合しています。

② 道路を隔てた北側には「下浜御社宮司(みしゃぐじ)神社」があり、八ヶ岳原人氏のHPによれば、「元御社宮司大明神。明治以降御社宮司社と称し、大正11年御社宮司神社と改称」「往古御三狐神(みけつかみ)とも書り」「専女(とうめ)神は保食神(うけもちのかみ)御同體」「専女(とうめ)神は三狐神同座神」などと紹介されています。

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③ 三狐神(みけつかみ)は、「狐」を3母音の「かきくく」で「きつね」、5母音の「かきくこ」で「けつね」と呼んだことから、稲荷神のことを「みけつね神→みけつ神」と呼び、稲の神を表すとともに、神使の「狐」を示したと考えれられます。―「縄文ノート97 『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」参照

④ 本殿脇にはいくつもの祠があり、元々、この地の各家・集落などに祀られていた祠が祭主がいなくなったなどで集められたと考えられます。

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<考察>

① 重要なことは、守矢氏族の「御社宮司(みしゃぐじかみ)」が前述の弁財天、市杵嶋姫や、御食津神(みけつかみ)=三狐神(みけつかみ)=専女神(とうめのかみ)=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)倉稲魂神=稲荷神、保食神(うけもちのかみ)など全て女神に習合されていることです。なお、保食神(うけもちのかみ)古事記には登場せず、日本書紀の一書・第11にのみ登場しており、古事記に書かれた大気都比売神(おおげつひめのかみ)が置き換えられたと私は考えます。

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 このような女神の習合は、次の重要な事実を浮かび上がらせます。

  第1は、「ミシャグジ神は女神」である可能性が高いことです。

  第2は、「ミシャグジ神は食物神・稲神」の可能性が高いことです。

  第3は、「ミシャグジ神はスサノオ大物主大神)一族」の可能性が高いことです。

  第4は、「ミシャグジ神は蛇神」の可能性が高いことです。

  第5は、「ミシャグジ神は縄文時代の女神信仰・龍蛇信仰を引き継いでいる」可能性が高いことです。頭に蛇を載せた弁財天像は、井戸尻藤内頭蛇土偶に見られるような龍蛇信仰の影響を受けた可能性があります。

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 「守矢氏=縄文系、諏訪氏=弥生系=中国・朝鮮系の征服者」とする説に対し、私は「守矢氏=スサノオ系、諏訪氏大国主スサノオ7代目)系」説であり、いずれも縄文系とみています。

② 古事記は、イヤナギが子の迦具土(かぐつち)を殺した時、その血から8神、死体から8神が生まれたとする男系神話であるのに対し、スサノオが姉の大気都比売を殺し、その死体の頭から蚕、目から稲種、耳から粟、鼻から小豆、陰(ほと)から麦、尻から大豆が生えたとし、女性の死体からの蚕・五穀誕生という黄泉がえり神話としており、養蚕・農耕の地母神であることを神話形式で太安万侶は秘かに伝えたと私は考えています。

 太安万侶は「スサノオによる大気都比売殺人事件」(日本書紀一書は月読による保食神殺人事件)をでっち上げて煙幕を張りながら、養蚕・農耕社会への移行をスサノオ一族の女性たちが担ったことをちゃんと伝えたのであり、嘘っぽい神話仕立にして真実を伝えるしたたかな「史聖」であると私は高く評価しています。

③ 巫女(みこ:御子=神子)は神に仕える女性であり、『魏志倭人伝』では「卑彌呼 事鬼道 能惑衆」と書かれ、通説は「卑弥呼は鬼道で衆を惑(まど)わした」と新興宗教の教祖のような解釈を行っていますが、私は「鬼道で衆を惑星のように引き付けた(魅惑した)」、宗教的・政治的女王と解釈します。

 高句麗馬韓・弁辰では「鬼神」信仰と書きながら、倭国では「鬼道」と書いたのは、孔子の「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」を受けて、儒家陳寿倭国を「道」の国と考えるとともに、「夷狄(いてき)の邦(くに)といえども、俎豆(そとう:供え物を載せる台と高坏)の象(しょう:道理)存り。中國礼を失し、これを四夷(しい)に求む、猶(な)を信あり」と書き、倭国を「道・礼・信」の国とみていたことが明らかであり、「卑弥呼(霊巫女)」の宗教を尊敬とあこがれを込めて「鬼道」としたのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

④ 天宇受売(あめのうずめ)が「胸乳をかき出で、裳緒を陰(ほと)に押し垂らし」てアマテル(本居宣長説はアマテラス)の石棺の上蓋(石屋戸)の上に桶を置いてその上で足音を鳴り響かせて神がかりして踊ったのは、陰(ほと)への死者の「霊(ひ)の黄泉帰り」を願う神楽であったと考えます。

 竪穴式住居の入口に死んだ子を壺に入れて埋め、その上をまたぐ母親のホトへの霊(ひ)の回帰・再生を願った縄文人の宗教思想は、3世紀の卑弥呼(霊巫女)=大霊留女(おおひるめ)=アマテルの時代に引き継がれているのです。

⑤ この「ミシャグジ女神説」については、さらに他のミシャグジ神社の調査が求められ、地元での研究を期待したいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート97 3母音か5母音か?―縄文語考

 女神調査報告2で「千鹿頭(ちかとう)」や下浜御社宮司(みしゃぐじ)神社の「三狐神(みけつかみ)」の語源を書きましたが、その前提として2018年に書いた「3母音か5母音か?―古日本語考」を修正して先に紹介しておきたいと思います。

 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)で書き、前に縄文ノート「93 『カタツムリ名』琉球起源説からの母系制論―柳田國男の『方言周圏論』批判」「94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論」でも少しふれましたが、倭語分析の基本として私は「縄文語からの3母音と5母音の分岐説」を提案します。

 これまで「本土の5母音が琉球で3母音方言に変わった」というのが通説でしたが、「共通の縄文語から琉球の3母音と本土の5母音に分岐した」と私は考えています。

 

1 「3母音」と「5母音」のどちらが先か

 琉球弁が「3母音」、本土弁が「5母音」であるのに対し、通説では「琉球弁は5母音であったが、3母音に変わった」としているようです。

 私は言語学の専門家ではなく基礎知識もありませんが、伊波普猷著「琉球語の母音組織と口蓋化の法則」(外間守善『沖縄文化論叢5』言語編)、石崎博志著『しまくとぅばの課外授業』、亀井孝論文集2『日本語系討論のみち』にざっと目を通した限りでは、「琉球弁3母音化説」には、納得できる説明は見られませんでした。「琉球弁は古日本語の5母音より3母音化した」のか、「3母音の古日本語より、本土弁が5母音化した」のか、本格的な議論が必要と思います。

 古日本語(旧石器人語・縄文人語)は5母音「あいういぇうぉ」であり、1700年前頃(安本美典説)の邪馬台国卑弥呼の時代後に、古事記に書かれたように、龍宮(琉球)をルーツとする薩摩半島の隼人(ハヤト=ハイト=ハエト=南風人:海幸彦)が、龍宮から妻を迎えた山幸彦(ヤマト=山人の笠沙天皇家2代目)と対立し、その支配下に置かれたことにより、琉球と本土の交流は途絶え、琉球では「あいういう」の3母音5音化し、本土では5母音の「あいうえお」に変わったと考えています。

 なお、笠沙天皇家2・3代目の妻が龍宮(琉球)の姉妹であり、笠沙天皇家4代目で大和天皇家の初代大王のワカミケヌ(後に神武天皇命名)の祖母・母が龍宮人であるというは、「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ-記紀の記述から『龍宮』=『琉球説』を掘り下げる」(季刊日本主義43号)に詳しく論証しています。

 

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 さらに、表1のように現代の日本の母音表記には「あ=い、う、え、お」「い=う、お」の母音併用がみられ、倭語の単語や人名・神社名などの意味や語源を考える場合には、注意が必要です。

 大学に入って大阪に行った時、「つねうどん」を「つねうどん」と言うのでびっくりしたことがありましたが、次回に書く稲荷神(おいなりさん)の別名を「ミケツカミ(ミケツネカミ)」を「三狐神」と漢字で書くことにも関係してきます。

 

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  「神」について「かみ、かむ、かん、かも、こう、ひ」の6通りの呼び名があるように、他の単語についても同じように複数の読み方があった可能性があるのです。―「縄文ノート37 『神』についての考察」参照

 なお「神」は呉音漢語では「ジン」、漢音漢語では「シン」であり、日本語が「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であることを大前提にして倭音倭語について分析する必要があることは言うまでもありません。

 

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 参考のために、外来語(借用語)の影響を受けにくい希少性・恒常性の高い宗教用語について、大野晋氏の『日本人の神』よりドラヴィダ語と対照した表3を再掲します。

 

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2 チェンバレンの「琉球語=古代日本語説」

 日本研究家のバジル・ホール・チェンバレン(東京帝大名誉教授。1850~1935年)は、「現今の日本語が古代の日本語を代表せるよりも、却って琉球語が日本の古語を代表せること往々 是れあり」(チェンバーレン『琉球語典及字書』:『伊波普猷全集』第11卷より)としています。

 単語の分析などからこのような結論が得られるとすると、「母音」についても、琉球語の「3母音」が日本の古語を代表しているという説が考えられます。

 

3 「方言周圏説」(柳田國男)と「方言北上・東進説」(筆者)からの検討

 柳田國男氏の「方言周圏説」(図3参照)は、京都を中心にして言語は地方に拡散し、地方に古い方言が残るというのですから、古日本語の「3母音」は、遠く離れた辺境の琉球に「3母音」が残り、都では「5母音」になったということになります。

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 『しまくとぅばの課外授業』で石崎博志氏はこの「方言周圏論」を援用しながら、沖縄ではもともと5母音が3母音に変化したとしているのですから、逆になっています。「方言周圏論」を採用するなら、古日本語の3母音が沖縄に残ったとすべきでしょう。

 一方、「カタツムリ」名と「女性器」名から、私は柳田の「方言周圏論」を批判し、「方言北上・東進説」を証明しています。詳しくは「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(季刊日本主義44号参照)に書いたところです。

 この私の説の「方言北上・東進説」により、私はもともと「3母音」であった古日本語が琉球に残り、本土では「5母音」に変化した、と最初は考えていました。

 しかしながら、現代の琉球弁は正確には「あいういう」の3母音5音であることから考えると、古日本語の「あいういぇうぉ」5母音が、琉球では「あいういう」の3母音5音になり、本土では「あいうえお」5母音になった、と考えられます。

 

4 安本美典氏の「古日本語北方説」の検討

 安本美典氏は、日本基語・朝鮮基語・アイヌ基語からなる「古極東アジア語」から、ビルマ系言語の影響を受けて「古日本語」が成立したという「古日本語北方起源説」ですが、別に「インドネシア系言語」が南九州から本土太平洋岸にかけて分布したとしています。

 一方、アマミキヨ始祖伝説は1700年前ころに邪馬台国のアマテラス(卑弥呼)から沖縄に伝わったという説を唱えています。

 安本氏の説では琉球は「インドネシア系言語」でも「古日本語系言語」でもないことになりますが、1700年前ころに琉球弁と本土弁が分離したとしていますから、その言語は「主語―目的語―動詞」構造の古日本語で、「主語―動詞―目的語」構造のインドネシア系言語ではないことになります。

 この安本図に私は太い点線で追加しましたが、古日本語はビルマ系の海人(あま)族が琉球(龍宮)を起点として北上したと私は考えています。

 

   

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 安本氏は1700年前ころに琉球邪馬台国・アマテラスが支配し、アマテル始祖伝説が伝えられ、アマミキヨ伝説となったとしていますが、同時代に琉球弁と本土弁が分離したとする説と矛盾しています。

 それよりなにより、アマミキヨ伝説は海の彼方のニライカナイよりアマミキヨがやってきたというのであり、安本氏の筑紫の甘木朝倉にアマテラスいたという卑弥呼=アマテラスとは異なり、皇国史観のアマテラスは天上にいたとするアマテラス神話とも異なります。

 海人(あま)族のアマミキヨ伝説からのアマテラス名、奄美 → 天草 →甘木→海士・海部(隠岐)→天川・天下原(あまがはら)(播磨)→天城(伊豆)などの地名の移動、丸木船を作る南方系の丸ノミ石器の分布、曽畑式土器の分布、性器名の変遷・分布などを総合的に検討するならば、「古日本語南方起源説」「古日本語北上・東進説」にならざるをえません。

 なお「天草」「日下・草下(くさか)」の「草」は倭音倭語で「くさ」、呉音漢語・漢音漢語で「ソウ」ですがり、中世の和語では忍者を指し、漢語には「いなかの(草庵・草莽)」「はじめの(草案・起草)」の意味があり、海人族が古くから住み着いた場所を指し、安本氏と私も邪馬壹国の地と考える「甘木」は「天城」で、初期の都市国家を示していると考えます。

 

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5 宮良信詳氏の「姉妹語説」

 私は通説の「琉球弁は5母音から3母音に方言化した」という説に対し、「古日本語の3母音が琉球では残り、本土では5母音化した」と最初は考え、次には「古日本語は過渡的3母音(あいういぇうぉ=あいうゐを)であり、琉球は3母音(あいう)に純化し、本土は5母音に純化した)」と変更し、最終的には、古日本語は5母音「あいういぇうぉ=あいうゐを」であり、沖縄は3母音5音「あいういう」になり、本土は5母音「あいうえお」に変化した、と考えるようになりました。

 言語学の分野ですでにそのような説があるのかどうかについては、まだ確かめられていませんが、パトリック・ハインリッヒ+松尾慎編著『東アジアにおける言語復興 中国・台湾・沖縄を焦点に』の宮良信詳琉球大教授の「沖縄語講師の養成について」に、言語系統図として次の図があることに気付きました。母音論ではありませんが、同じ結論と思います。

         

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6 日本列島人ルーツからの総合的な検討へ

 私の未解明のテーマとして、「さしい」と「さしい」、「さい」と「さい」、青森の「ねた」と「ねた」、寅さんで有名な「柴又(しまた)」と平安時代の「嶋俣(しまた)」、旧甘木市の蜷城(なしろ)の美奈宜(なぎ)神社、大国主出雲大社の「御巣(す)」と「日栖 (すみ)」、女性器語の「へへ」と「メメ」のような、「は行とま行」の音韻転換があります。

 前述の母音転換と合わせて、アフリカからの日本列島人の移動との関係について、DNAや「主語-目的語-動詞」言語構造、ヒョウタン・イネ・里芋・山芋・ソバのルーツなどと合わせて、母音・子音、宗教・農業単語などの総合的な分析を若い言語学者に期待したいと思います。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源」「「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「縄文26 縄文農耕についての補足」「28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」 「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」等参照

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

縄文ノート96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡

 茅野市での八ヶ岳研究会に誘われたついでに、9月10・11日、周辺のいくつかの遺跡・神社を調べてきました。博物館・資料館はコロナの緊急事態宣言で見学できず、中途半端な調査になりましたが、報告しておきたいと思います。
 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録には「⑥ 顕著な普遍的価値を有する行事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的・文学的作品」として、縄文時代からの石棒・円形石組と金精信仰、神山信仰(お山信仰、山神信仰、神名火山(神那霊山)信仰、神籬(霊洩木)信仰)を明らかにする必要があると考えており、今回はこのテーマを中心に調査しました。

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 なお、群馬県片品村の「金精信仰」は「山神(女性神)に金精を捧げる祭り」(女神が嫉妬するので女性は参加できない男の宗教行事)であり、山梨・長野でも同じような証明ができないかと考えています。

 このような縄文から続く宗教行事は母系制社会の証明として、世界の文明史解明において重要な役割を持っていると考えます。

 

1 釈迦堂遺跡 9月11日10:40

 釈迦堂遺跡博物館は前に見たので今回はパス。ただ、新宿からの高速バスを利用できる中央自動車道釈迦堂PAから直接、見に行けることが判ったのが今回の発見。

 縄文時代中期を中心に早期から後期にかけての4地区の遺跡群で、1,116点の土偶三内丸山遺跡に次いで多く(全国の約1割)、255軒の竪穴式住居跡があり、次回には遺跡群の立地条件や配置などを調べに訪ねてみたいと思います。

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2 金生きんせい遺跡 北杜市大泉町谷戸105(長坂ICから10分) 9月11日11:40

<概要>

① 縄文時代後期(約4,500 - 3,300年前)~晩期(約3,300 - 2,800年前)の遺跡。

      

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② 38棟の住居址(竪穴式住居や敷石住居、石組住居)5基の配石遺構、石組(方形・円形、石棒・丸石など)、200点を越える土偶、石剣、独鈷石、祭祀用土器、日用品や土製耳飾。配石には5kmほど離れた釜無川の石も。

③ 直径1.3m、深さ60㎝程の円形土坑内部から焼けたイノシシの下顎骨が138個体(うち115体は幼獣)発見されており、アイヌのクマ送りのイヨマンテに通じる狩猟儀礼・害獣退治の農耕儀礼で、イノシシ飼養の可能性。

④ 「中空土偶」と言われる全国に例のない奇妙な形の土偶も。

⑤ 5~6本の石棒のうち、1本は明確に金精形で、2本には円形石組が確認できます。

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<考察>

① 残念なのは、A・B・C(図1の赤字追加部分)の3つの住居・墓地跡の全体が公園化されず、B部分とその南の配石遺構しか再現されておらず、村全体の施設配置が理解できないことです。

② Aの円形竪穴式建物は住居、B・Cの四角形の壁付建物は埋葬・供養祭祀のための建物(大湯環状列石の高床式建物の例)、という用途・時代を異にする可能性があります。

③ 樹木が茂り八ヶ岳の方向との関係が判りませんでしたが、古い写真と図面で確認すると、写真の復元住居の入口は神名火山(神那霊山)型の編笠山を向いているように見え、中世の八ヶ岳信仰の権現岳の山頂の檜峰神社が「霊(ひ)の峰」として縄文から続く祖先霊信仰の神山であった可能性があります。

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 「女ノ神山」の別称を持つ蓼科山が「居夷神(いひな神=委霊那神)」「びじん=霊神」を祀っていることと符合します。―「縄文ノート35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「縄文ノート 38 霊(ひ)とタミル語 pee、タイのピー信仰」「縄文ノート61 世界の神山信仰」参照

④ 神山天神信仰、石棒(地母神信仰の金精信仰)、女性土偶(中空土偶)がワンセットあることからみて、この地の縄文人地母神信仰・神山天神信仰があった可能性は高いと考えます。

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⑤ 地母神信仰は冬に植物が枯れて大地に帰り、春に芽吹いてくることから生まれたと考えられ、子どもを産むとともに、採集から芋豆6穀(特にソバ)の焼畑農耕(畑=火+田)を開始した女性による信仰と考えれられます。この焼畑農耕には収穫期を迎えての猪や鹿の害獣駆除(待伏せ猟)が不可欠であり、黒曜石の鏃生産は縄文農耕開始を告げており、「イノシシ幼獣祭祀」は諏訪の「千鹿頭祭祀」と同じく、狩猟祭祀と言うより、農耕祭祀を示していると考えます。

⑤ 金生遺跡の約2万点 77kgの黒曜石の出土について、40km離れた諏訪の星ヶ塔でこの地の人たちが採掘したという説(宮坂編 2014:堤隆「信州黒曜石原産地の資源開発と供給をめぐって」)が見られますが、むしろ活発な交易が成立していた可能性が高い(氏族社会→部族社会)ことを示しています。

⑥ 世界遺産登録を視野に入れると次のような課題が浮かび上がります。

 a.黒曜石成分分析による産地の確定

 b.約15㎞西の井戸尻遺跡(富士見町)で発見されたような石器農具の存在(周辺の20遺跡を含む)

 c.土器鍋底のおこげの分析(縄文農耕の確定)

 d.ヒスイ製品の産地の確定

 e.金生遺跡公園・資料館の拡張(長坂ICバス停からだと約2㎞、JR中央本線長坂駅からバスで15分 城南バス停下車徒歩10分で、釈迦堂遺跡より条件は悪いのですが、遺跡としての価値や八ヶ岳を望む景観からは金生遺跡の拡張整備は価値があるようと思います)

 

3 阿久(あきゅう)遺跡 長野県諏訪郡原村柏木 12:30

<概要>

① 阿求遺跡は6500~5000年前頃の三内丸山遺跡をしのぐ縄文最大の環状集石墓地・集落遺跡です。

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② 縄文時代前期初めの7000年前頃に住み始め、6000年前頃の前期後半になると中央の広場の中心に立石と蓼科山に向かう石列と環状集石墓地が作られ、方形柱穴列の祭祀建物も作られます。

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② 立石(石棒)から蓼科山に向かう2列の通路状石列は、祖先霊を祀る「神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)」の最古の遺跡として、世界の母系姓の氏族・部族共同体社会の解明の鍵となる決定的に重要な史跡と考えます。

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③ 蓼科山の「ビジン様」は神名火山(神那霊山)の「霊神(ひのかみ→ひじん)」であり、古事記に書かれている「始祖二霊」の「産霊(むすひ:霊を産む夫婦神)」やスサノオ・アマテラスの「ウケ ヒ(受け霊)」、出雲で妊娠すると「霊(ひ)が止まらしゃった」と言うことなどからみて、霊(ひ:祖先霊)が神山から天に昇る母系制社会の天神信仰を示していると考えます。

 また、琉球(龍宮)の宮古では女性器名を「ピー・ヒー」、天草では「ヒナ」、倭名類聚抄ではクリトリスを「ひなさき(雛尖)」といい、黒い「烏帽子(えぼし:カラス帽子)」の先に「雛尖」を付けることなどからみて、霊(ひ)が宿る女性器信仰であったと考えます。

④ 問題点

 ・発掘した北半分の遺跡の半分が中央自動車道の下に埋められている(遺跡破壊という世界遺産登録への致命的な欠点)。

 ・10~30万個とされる環状集石の採取地から、共同祭祀の氏族・部族の分布が明らかにされていない(写真でみると角の取れた川原石が一部に見られる)。

 ・阿久遺跡での縄文人の生活・葬祭文化全体を示す総合的な研究が見られない。

 ・遺跡が埋め戻され、展示施設が整備されていない。

<考察>

① 埋め戻された遺跡としてこれまで関心が薄かったのでしたが、現地に行って改めて縄文人の信仰対象になりうる蓼科山の存在感を実感しました。

 神名火山(神那霊山)信仰では、一番高く尖った赤岳や、前述の中世の八ヶ岳信仰の権現岳(山頂に檜峰神社=霊(ひ)峰神社)、コニーデ型(神名火山型)のきれいな編笠山がある中で、なぜ蓼科山かと思っていたのですが、「諏訪富士」と呼ばれた独峰の景観からだけでも蓼科山が信仰中心になることが実感できました。

 なお、世界の神山の条件としては大河の源流にあることが重要であり、「上川源流の蓼科山か、柳川源流の赤岳か」と2択で考えていたのですが、独峰の神名火山型と「イヒナ」「ヒジン」信仰、さらには近くの双子池の黒曜石からみて、蓼科山こそが縄文人の信仰中心であったと判断しました。―「縄文ノート35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「縄文ノート40 信州の神那霊山(神名火山)と霊(ひ)信仰」参照

② 「蓼科」の名称については、「品(しな、ひん)」「品野(しなの)」の地名や「ヒジン様」から「たてひな」の可能性があると考えていますが、後に「蓼」字を当てていることは、古くからのソバの産地であったことから「たて」に「蓼」字が当てられた可能性があります。

 「畑=火+田」の和製漢字からみても、「ソバ」の語源からみても、中国伝来ではなく、もっと古い縄文焼畑によるソバ栽培の可能性が高いと私は考えます。

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 なお、ソバの原産地をウィキペディアは「雲南省北部の三江併流地域」としていますが、日本人の41~47%(アイヌ88%)にみられるY染色体D型のドラヴィダ系山人族の居住地、東インドミャンマー高地(チベット人43~52%)と接しており、赤米や「ピー信仰」などとともに、ミャンマー沿岸やアンダマン諸島(73%)のドラヴィダ系海人族とともに日本列島にやってきたと考えています。―縄文ノート「28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」「43 DNA分析からの日本列島人起源論」参照

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 食料が豊富な沿岸部から川を遡り、塩のない山間部の信州・甲斐・上州などに縄文人がやってきたのは、ドラヴィダ系山人族の文化と考えます。

③ 日本中央縄文文明の世界遺産登録のためには、そのメイン遺跡として、遺跡破壊というハンディをカバーする「阿久遺跡総合調査・研究」と「国営公園化」が必要と考えており、その条件を調べたいと今回、見学しました。

④ 10~30万個とされる環状集石群の数と較べて住居・建物跡が少なく、母集落の可能性について、3つの仮説を立てて現地に向かいました。

 

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 現地の説明板によれば、7000年前頃の始祖集落から、6000年前頃には分散した氏族・部族の共同祭祀場に変わった可能性が高く、北の大早川と南の阿久川にはさまれた台地全体に遺跡が分布している可能性が高いと考えます。未発掘の環状集積群の南半分とともに、国史跡指定範囲よりさらに広く発掘調査が必要と考えます。

⑤ 世界遺産登録の長野県の中心となる遺跡としては、中ツ原遺跡かこの阿久遺跡と考えられますが、蓼科山信仰を明確に示す立柱・列石がある点からみて、この阿久遺跡をセンター施設とすべきと考えます。

 またすでに中ツ原遺跡周辺には住宅などが多く建ってきており、大規模遺跡公園とするならこの林野と畑の阿久遺跡が容易であり、釈迦堂遺跡のように「原PA」から徒歩(500m)で入館できる「ぷらっとパーク」化、ETC限定で車が出入りできる「スマートIC」にすれば自家用車や高速バスを利用して首都圏からのアプローチは容易である点も中ツ原遺跡より有利です。

⑥ 世界遺産登録を目指すなら、中央自動車道のトンネル化もしくは高架化、迂回コース化は不可欠であり、南半分の発掘調査で遺跡の世界的な価値を確定させ、国営公園化を追求すべきと考えます。

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 蓼科山信仰を示す立柱・列石の価値を考えると、トンネル化か迂回化が必要であり、地形・周辺土地利用などの条件についての調査が必要となります。

 ⑦ 中ツ原遺跡の蓼科山を望む8本巨木跡、三内丸山遺跡八甲田山を望む6本巨木跡からみて、この地にも同じ規模の巨木楼観拝殿と女神像があった可能性が高いと考えます。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「縄文50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

 環状集石群の東側の高地か北西の地点など可能性のある場所の発掘が求められます。

 

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート95 八ヶ岳周辺・安曇野・佐久の女神信仰調査

 9月10・11日、八ヶ岳周辺の金生きんせい遺跡、阿久(あきゅう)遺跡、諏訪湖周辺の北方御社宮司(みしゃぐじ)社、千鹿頭(ちかとう)神社、下浜御社宮司(みしゃぐじ)神社、諏訪大社下社秋宮、下諏訪町の石棒道祖神、杉の木神社(龍神の尾掛松)、安曇野穂高神社、佐久の北沢大石棒、大宮諏訪神社(大石棒)、原諏訪神社(石棒)をレンタカーでざっと見てきました。

 緊急事態宣言で博物館の見学や関係者のヒアリングなどはできないため、野外の遺跡・神社などの調査になりました。

 目的は、「日本中央縄文文明」の世界遺産登録には「⑥ 顕著な普遍的価値を有する行事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的・文学的作品」として、縄文時代の石棒・円形石組の地母神信仰や女神(山神)信仰が、スサノオ大国主一族の守矢氏・諏訪氏の神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)信仰・みしゃくじ信仰、さらに中世から現代に続くお山信仰(山神信仰)や金精(石棒道祖神)信仰を明らかにする必要があると考えたからです。

 なお、群馬県片品村の「金精信仰」は「山神(女性神)に金精を捧げる女神信仰」(女神が嫉妬するので女性は参加できない男の宗教行事)であり、山梨・長野でも同じような証明ができないかと考えています。

 その報告書づくりに時間をとられており、「母系制・父系制・母権制父権制」の整理はこの報告を紹介した後にしたいと思います。

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明

 「縄文ノート93 『カタツムリ名』琉球起源説からの母系制論」につづき、性器名称の方言分析から、倭語が琉球から北上して九州から全国に広がったことを明らかにしました。

 2018年12月に縄文社会研究会向けに「『全国マン・チン分布考』の方言周圏論批判」(2020年2月には「帆人の古代史メモ」の「琉球論5」で公開)をまとめましたが、さらに加筆して紹介したいと思います。

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 日本人は南方系か北方系か、北方系縄文人弥生人(中国人・朝鮮人)が日本列島中央から沖縄と東北・北海道など周辺に追いやったという日本民族形成の「二重構造説」は成立するかどうかについては、DNA分析・方言分布・地名分布・文献(記紀風土記)分析を総合的に行う必要があります。

 奈良・京都から方言が全国に同心円的に広がったという柳田國男氏の「方言周圏論」にもとづき、女性・男性性器名の方言もまた京都を中心に地方に広がったとするのが松本修氏の『全国マン・チン分布考』ですが、氏の「女陰全国分布図」「男根全国分布図」の分析からは「方言周圏論」は成立せず、逆に琉球から九州を経て全国に広がったことを私は明らかにしています。

 私の「南方・北方両方向からのドラヴィダ系縄文人族移住説」「縄文人による縄文農耕と大国主の水穂国建国説」「妻問夫招婚の母系姓縄文社会説」という主張の一環として「マン・チン分布」を見ていただければと考えます。 

 

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はじめに

 『東京新聞』の2018年11月24日夕刊には松本修氏の『全国マン・チン分布考』が紹介されたのですぐに買って読みました。柳田國男氏の「カタツムリ方言周圏論」批判の続きとしてこの「マン・チン方言周圏論」についても批判したいと思います。

 女性の皆さんには「いやらしい」と嫌われるかもしれませんが、元朝日放送テレビのプロデューサーで大阪芸大教授の松本氏の「女陰全国分布図」「男根全国分布図」は緻密な調査にもとづく労作であり、タブー視されてきた性器名を研究し、公表されたことに対しては高く評価されるべきと思います。

 「オマンコ芸術家」と自称する「ろくでなし子」(五十嵐恵)さんの作品(立体作品と3Dデータ:前者無罪、後者有罪)がわいせつ物頒布等の罪に問われ、法廷で「オマンコ」発言をすると裁判官から何度も注意されたということを『週刊金曜日』で読みましたが、どうやら「オマンコ」は裁判官にとってはいやらしい「わいせつ物」のようです。

 ウィキペディアによると「テレビやラジオなどの放送メディアにおいては、いわゆる放送禁止用語の一種である」「松本明子がラジオの全国放送・・・で、『おまんこ』と発しテレビ局を出入り禁止になる事件もあった」とされ、その理由として「『おちんちん』や『ちんこ』は器官そのものを指す用語であるのに対し、『まんこ』は性行為を意味することもあるため、特に女性軽視の用語であるとして使用が強く制限されている」としています。

 漢語の「女陰」「男根」、英語の「ヴァギナ」「ペニス」、和語の「ちんこ」はわいせつではなくて、倭語(和語)の「オマンコ」がわいせつというのはそれこそが女性差別と私は思うのですが、どうでしょうか? 春画がアートとして大英博物館から世界各国で巡回され公認されてきた現代において、時代錯誤と言わざるを得ません。

 人類の種の継承にとって大事な性器・性行為名の探究を回避してきた言語学者たちと較べると、松本氏の功績は大きく、賞賛されるべきと考えます。オマンコ好きの混浴党の私としては、氏の功績を高く評価しつつも、「性器方言周圏論」については柳田國男氏の『蝸牛考』の亜流として批判しておきたいと考えます。なお、結論的に述べると、私は「性器方言琉球起源説」「性器方言北上・東進説」です。

 

1 松本氏が前提とした柳田國男の「方言周圏論」は成立しない

 この論考は「縄文ノート93 「カタツムリ名」琉球起源説からの母系制論―柳田國男の「方言周圏論」批判」の延長上であり、性器名方言の移動から、旧石器・縄文時代からの日本列島人の動きを推定するとともに、縄文社会のあり方,特に母系制について検討しようとするものです。

 松本氏は柳田國男氏の『蝸牛考』の方言周圏論(京都から地方へと同心円的に方言が広がっている)をもとに、それを性器方言に当てはめていますが、私が柳田氏の「カタツムリ方言周圏説」は成立しないと考えており、「カタツムリ方言北上・東進図」を下に示しておきたいと思います。―「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(季刊日本主義43号)参照 f:id:hinafkin:20210907193919j:plain

 柳田氏は1961年になって『海上の道』を書き、稲作南方起源説を主張していますから、稲作とともに人々は南から北、さらに東へと移動し、方言もまた移動したと考えて『蝸牛考』の「方言周圏説」を再検討すべきでしたが、柳田氏は学者として真実の探求において誠実とは言えないと思います。

 松本氏は『海上の道』を知らなかったのかもしれませんが、もし読んでいたのであれば、援用者として「方言周圏説」が正しいかどうか、そこから検証すべきだったと思います。

 それはさておき、性器名方言が京都から地方へ伝わったのか、琉球から北上・東進したのか、検討してみたいと考えます。

 なお、私はDNA分析などから日本人は「多DNA民族」であり、海人族である縄文人の全国的な交流・交易・婚姻(妻問夫招婚)からみて数詞や人体語・物体語などの交流・交易に必要な「基礎語」は共通化が進む一方、性器名や宗教語、祭りの囃しなど各氏族・部族の固有文化に関わる言葉や、「カタツムリ」名のような共通言語化の必要性が乏しい希少言語は多様性が残ったと考えています。―縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「37 『神』についての考察」「38 『霊(ひ)』とタミル語『pee(ぴー)』とタイ『ピー信仰』」参照

 

2 私の「オマンコ・オメコ」「ヒナ」体験

 私は小学校時代は岡山市(当時は郊外農村部)で育ちましたが、旧友たちは女性器名を「オマンコ」と言い、母の実家のたつの市にいくと従兄弟たちは「オメコ」、祖母は「オマン」「オソソ」と言っており、「なんじゃこりゃ」と思っていました。

 どうでもいいことに探究心をもやす癖がある変なところのある私としては、ずっと気になるテーマでした。目鼻口手足などの身体語が同じなのに、なぜ大切な女性器名が違うのかは大問題でした。京大に入ると、私の友人の山岳部員たちは新入生に出身地の女性器方言を言わせ、「ベッチョ」「ボボ」「メンチョ」などのあだ名で呼ぶという男社会の伝統があることを知り(女性差別として今は残っていないでしょうが)、ますます興味をかきたてられました。

 その後、さらに私にとっては大きな転換点がありました。岡山県北西部の30戸の小さな山村を先祖とする私の名字は「雛元」ですが、江戸時代中期からの墓は「日向(ひな)」、提灯は「日南(ひな)」と書き、会話では「ひなの家」と言っていましたが、明治になって本家であったため「日本(ひなもと)」の名字を届け出たところ、役場が勝手に「雛元」の漢字に変えたので一族は怒っていると父から聞いており「ひな」の解明はずっと気になっていたのですが、なんと仕事先の青森県東北町で平安時代の「日本中央」の石碑に出合い、その西に見える八甲田山に神名火山(神那霊山)型のきれいな雛岳があり、この地は「日本=雛=ひな」と呼ばれていた可能性があると考え、古代史の研究を始めたのです。

 さらにびっくりする大問題に出会ったのは、海人(あま)族のアマミキヨを始祖神とする琉球の先島地方や鹿島県の奄美地方では女性器を「ヒー、ピー」、熊本の天草では「ヒナ」と呼び、出雲では女性が妊娠すると「ヒが留まらしゃった」ということを出雲の同級生・馬庭稔君から聞いたのです。

 平安時代の辞書・和名類聚抄では「さね(実、核)」(クリトリス)のことを「比奈佐岐(ひなさき)」と書き、その後「雛尖、雛先、雛頭」の漢字をあて、栃木では方言として使っていたと老哲学者の館野受男さんから教わり、調べてみると栃木だけでなく茨城の方言にも「ヒナサキ」があり、「ヒ、ヒナ」は子宮・女性器をさしその尖端を「ヒナサキ」と呼んだのです。

 さらに平安時代からの男子の正装の際の立烏帽子(たてえぼし)の先に「ヒナサキ(雛尖、吉舌)」や「ヒナガシラ(雛頭)」を付けていたのです。鳥(カラス)信仰とともに女性器信仰が古くからあったのです。―「縄文ノート73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」参照 

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 私は「ヒナちゃん」「ヒナもっちゃん」などと呼ばれていましたが、「オマンコちゃん」「オメコちゃん」と呼ばれていたのと同じことになるのであり、「ヒ、ヒナ」とはなんぞや、研究せずにはおれませんでした。

 古事記は始祖神の3番目の女神を「カミムスヒ(神産日)」とし、日本書紀は「神産霊」と表記して霊(ひ)を産む「産霊(むすひ=むすび)神」としています。

 新井白石は「人」を「霊人(ひと)」と解釈し、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』の中で「彦」「姫」「聖」「卑弥呼」を「霊子」「霊女」「霊知」「霊巫女」と解釈しています。

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 DNAなど知らない古代人は、子が親や祖父母に似ていることを、「霊(ひ)」が受け継がれると考え、女性器・子宮を霊(ひ)が留まる場所(な:那、奈)、「ひな」と考えていたのです。「霊(ひ)」信仰から女性器「ヒ」「ヒナ」名が生まれたのです。

 大国主を国譲りさせた「ホヒ(穂日)」「ヒナトリ(日名鳥、日照、比良鳥:日名=日=比良)」親子は「穂霊又は火霊」「霊那鳥」であり、大国主が筑紫日向(ひな)の鳥耳(とりみみ)に妻問いしてもうけた鳥鳴海(とりなるみ)の妻の名前が「日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてるぬかだびちをいこちに)」であることなどから、私は「ホヒ・ヒナトリ」親子もまた大国主と鳥耳との子・孫であると考えています。

 なお記紀に書かれた高天原の住所は「筑紫日向(ちくしのひな)」であり、旧甘木市(現朝倉市)の蜷城(ひなしろ)の地で、後の卑弥呼(霊巫女=霊御子)の邪馬台国はこの甘木(天城)の高台にあったと私はみています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 というのは、10代崇神天皇は宮中に大物主(スサノオの御子の大年:代々大物主を襲名)から奪ったアマテラスとスサノオの神霊を宮中に祀ったところ民の半数が亡くなるという恐ろしい祟りをうけ、アマテラスとスサノオの霊(ひ)が宿る鏡と玉、剣を宮中から出し、その子孫を捜して各地を転々として皇女を派遣して祀らせ、明治まで天皇伊勢神宮に参拝することがなく、宮中で祀っていないかったことを見ても明らかなように、祖先霊は血の繋がった子孫に祀られないと祟ると考えられていたのです。―『スサノオ大国主の日国―霊の国の古代史―』参照

 これを私は「霊(ひ)の法則」と名付けていますが、そのような時代に、ホヒ・ヒナトリ親子が大国主を国譲り(退位)させ、出雲大社で代々、祖先霊を祀ってきていることは、ホヒ・ヒナトリ親子が大国主の血を受け継いだ筑紫の子と孫であったことを示しています。記紀神話においては、この鳥耳はスサノオの姉(実際は筑紫生まれのスサノオの異母妹)のアマテルと合体させられますが、スサノオ7代目の大国主の「国譲り」は大国主が各地で妻問いしてもうけた180の御子たちの後継者争いであったのです。

 縄文時代のひょうたんや亜熱帯産の貝の琉球奄美から東北・北海道までの分布や人々の移動・交流、妻問夫招婚にともなって、「ヒ、ヒナ」女性器名もまた対馬暖流(琉球暖流)に沿って、琉球(龍宮)から奄美(海海=天海)、天草・甘木、大和、下野・常陸などに伝わった、と考えるのが自然です。

 松本氏の『全国マン・チン分布考』掲載の力作「女陰全国分布図」では、「ピィ・ヒー」(注:琉球弁では古くは「は」行は「パ」行)女性器名は琉球の八重島群島と奄美にしか見られず、天草の「ヒナ」や平安京の和名類聚抄や栃木・茨城の「ヒナサキ」は分析から省いています。

 

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 松本氏は柳田國男の「方言周圏論」を援用し、京都を中心に女性器名が全国に同心円的に広がったとしていますが、氏の「ヒ・ヒナ」女性器名称の分布図はそれを否定しています。

 氏がもっとも遠くの古い時代の女性器名とする「ピィ・ヒー」が琉球奄美にだけみられるのではなく、「ヒナ、ヒナさき」が天草・甘木(筑紫日向)・平安京・栃木・茨城に見られることは、「ピィ・ヒー・ヒナ」女性器名が琉球から北へ、さらに東へと広がった可能性があります。

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3 「龍宮(りゅうきゅう)」出身の母・祖母から神武天皇が受け継いだ「ヒナ」名称

 記紀によればニニギから始まる薩摩半島西南端の笠沙(かささ)天皇家3代のうちの2代目の山幸彦(猟師=山人(やまと))の妻のトヨタマヒメ(豊玉毘売)、3代目のウガヤフキアエズの妻のタマヨリヒメ(玉依毘売)は龍宮からきた姉妹であり、4代目のワカミケヌ(若御毛沼)が大和天皇家の初代天皇になったとしています。この龍宮は海の底の宮殿なのか、実在の宮殿なのか、それとも全く架空の空想なのでしょうか?

 高天原の住所の「筑紫日向(ひな)橘小門阿波岐原」や神武天皇が実在の人物と考える私は、龍宮もまた実在すると考え、「龍宮」は「りゅうきゅう」とも読めることから、龍宮=琉球と考えます。龍宮が中国の冊封体制に入って朝貢交易を行うようになった時、龍宮王は中国皇帝を示す「龍」字を使うことをはばかり、「龍宮」字を「琉球」字に置き換えたと考えます。

 大和天皇家の初代(後に神武天皇命名)の母と祖母が琉球の出身であることからみて、女性器の「ヒ」名は琉球から奄美を経て薩摩半島の笠沙天皇家に移り、さらに大和に移ったと考えます。

 平安時代クリトリスのことを「ヒナサキ」と呼んでいたのは、女性器(子宮)を「ヒナ」とみなしていたからであり、それは、琉球から伝わった「ヒ」性器名が九州の天草・甘木などで「ヒナ」になり、傭兵隊のワカミケヌ(後の神武天皇)が瀬戸内海を船で東進して奈良盆地に持ち込んで「ヒナ」から「ヒナサキ」名が派生し、さらに関東に進出した一族が栃木・茨城に「ヒナサキ」名を伝えたことを示しています。琉球の洗骨(改葬)の風習が天皇家の「殯(もがり)」に受け継がれていることからみても、「ヒナ」名も龍宮の海神の娘の姉妹からその子孫へと受け継がれたのです。

 松本氏は沖縄の「ヒ、ピ」女性器名の語源について「わかりません」と述べていますが、天草の「ヒナ」方言、平安時代の「ヒナサキ」名、栃木・茨城の「ヒナサキ」方言を収集しなかったのか、それとも「方言周圏論」の自説に合わないことから隠したのでしょうか?

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4 「ヒ→へ」系女性器名

 現日本語は「あいうえお」の5母音ですが、琉球方言は「あいういう」の3母音5音節であり、古日本語の5母音「あいういぇうぉ」から両者は1700年前頃に分離したと私は考えています。―「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」参照

 

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 母音の「いぇ」が「い、え」に、「うぉ」が「う、お」に音韻変化したのにあわせ、子音の「はひふひぇふぉ」は琉球では「はひふひふ」に、本土では「はひふへほ」に音韻変化し、琉球の女性器名の「ひー」は本土では「へー」に変わり、「へへ」「べべ」の女性器名として鹿児島・宮崎・山口・島根から中部・東北地方に伝わり、さらに「ベタ」「ベッチョ」など「へ」系の女性器名に多様化したと考えます。

 

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  今、「辺野古」では新基地建設を巡って国と県・県民が争っていますが、松本氏の図によれば、「ヘノコ」は男性器名として四国4県と広島・岡山県、新潟・群馬・埼玉・千葉県と東北4県などに広く伝わるとともに、女性器名として岩手県に残り、古くは陰核・睾丸名であったとされています。

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 私の子どもの頃には浴衣に「へのこ帯(兵児帯)」をしめていましたが、その名称は鹿児島県から来ており、元々は子どもの「ヘノコ」を締める柔らかいふんどしで、後に浴衣帯に転用されたのではないでしょうか。男性器「ヘノコ」名は琉球から鹿児島に伝わり、さらには中四国、関東・東北に伝わったと考えます。

 この「へのこ」の「へ」は古日本語の「ひぇ」が「ひ」と「へ」に分離したもので、「霊(ひ)の子」が「へのこ」となって女性器・男性器名として使った可能性があります。今でも男性器・女性器を「息子」「娘」と言うのと同じです。

 あるいは琉球では3母音時代(はひふひふ)には「ひぬく」であって、女性器「ヒー」をつらぬく男性器を「ひぬく」と呼び、5母音時代に「へのこ」に変わった可能性もあります。

 薩摩半島南西端の海幸彦(笠沙天皇家2代目)の「龍宮神話」は、アマミキヨを始祖とする琉球(龍宮)の海人(あま)族が対馬暖流(琉球暖流と呼ぶべきと考えます)と南風(はえ)に乗って、奄美薩摩半島、天草などを経て、玄界灘壱岐対馬を拠点とし、北海道まで貝とヒスイの交易を行い、1万年にわたる共通する文明を創ったことを示しています。

 出雲大社が神使(しんし)として海蛇(龍神、龍蛇)を祀っていることは、スサノオ大国主一族が龍宮をルーツとする海人(あま)族であり、新羅との米・鉄交易により鉄器稲作を普及し、百余国を建国したことを示しています。―詳しくは、『季刊山陰』(38号~「スサノオ大国主建国論」)、『季刊日本主義』(42号「言語構造から見た日本民族の起源」、43号「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」、44号「海洋交易の民として東アジアに向き合う」参照

 

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 縄文人が円形の石組みの中心に石棒を立てているのは、インドのリンガ・ヨーニ信仰と同じように、死者の霊(ひ)が大地に帰り、黄泉帰るという地神(地母神信仰)を示しており、母なる大地のオマンコ(円形石組み)にチンポを立てたものであると私は考えています。明治政府によって一掃されるまで、各地で「チンポ」は金精様として祀られており、石棒祀りは縄文時代から続いていたのです。―縄文ノート「10 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)」参照

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 沖縄の「辺野古」地名は、この地が縄文時代の丸い石組みの中央に石棒を立てた縄文遺跡のような、女性・男性器「へのこ」を祀る聖地であった可能性があり、その地を米軍が占領を続けているなど許されないことです。もしも本土に「辺野古=金精」があったとしたら、国民はそのような聖地を米軍に提供したりするでしょうか? 縄文時代琉球奄美(海人海=天海)の貝が東北・北海道にまで伝わっていることからみて、辺野古にも東北・北海道などの石棒遺跡の原型があった可能性があります。

 群馬県片品村では、女性器の形に見えるエロチックな活火山の女体山(日光白根山)の山の神に男性が金精様を運んで捧げる信仰が行われ、その北には金精山と金精峠があります。 

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 私が仕事をした各地にも金精信仰は残っており、愛知県小牧市田縣神社の豊年祭では金精様を御輿として担ぐとともに、女性達が持って奉納し、安産多産・子孫繁栄を祈っています。

 この男性が金精様を捧げる山の神は女性神であり、中世以降、妻のことを「山の神」というのは母系制社会の名残を伝えています。なお、山の神は自分より醜いものがあれば喜ぶとして、オコゼを山の神に供える習慣があることは、この山神信仰が海人族のものであったことを示しています。

  

5 「ヒ→ホ→ホト」系女性器名

 琉球の本島には「ホー、ポー、ホーミ」の女性器名が見られ、さらに「ボボ」名は九州・中四国・近畿・中部・関東・福島など広く分布しています。

 「ホト」女性器名は鹿児島・鳥取・岡山にみられ、「ホト」地名と神社名は秩父の「宝登山(ほとさん)」に残り、古事記は女性器を「ホト(蕃登、番登、陰)」と書き、ワカミケヌ(初代神武天皇)の大和の妻の名前は「ホトタタライススキ(豊登多多良伊須須岐)」姫でした。

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 なお、記紀ではイヤナミが火の神を産んだので「美蕃登(みほと)」が焼かれて亡くなったとし、アマテラスの玉から生まれたオシホミミ(忍穂耳)の子(播磨国風土記では大国主の子とされる)の天照国照彦天火明(あめのほあかり)の名前や、「ホト=火所、火門、火陰」と書かれていることや、神名火山(神那霊山)の名称などからみても、「ホ=火」として女性器を信仰していた可能性が高いと考えます。

 

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 松本氏は大和の「ホト」が沖縄に伝わって「ホー」になったとしていますが、意味的・音韻的な説明も、伝搬の歴史的な説明もなく、大和中心主義の皇国史観的な逆立ちした思い込みというほかありません。

 「霊(ひ)の留まる所」が「ヒト=人」となった例からみて、「火(ほ)の所」を「ホト」と呼ぶようになったと意味的には考えられます。身体名は「耳、鼻、腹、足」などはもともとは「ミ、ハ、ラ、シ」も1音であったのが「ミミ、ハナ、ハラ、アシ」になった可能性があるように、「ホト」は「ホ」が2音化したと考えられます

 大和天皇家の初代ワカミケヌ(後の神武天皇)の妻の名の「ホトタタラ」が「火(ほ)の所」を「タタラ(製鉄の炉)」として見ていることからみて、「ホト」は「火のように熱いヒ(女性器)」を示していることが明らかです。「ホ」系の女性器名は、琉球をから山幸彦の妻と妹(3代目の妻)によって薩摩半島に伝わり、ワカミケヌたちによって、大和に伝わったとみられます。

 「ホヒ・ヒナトリ」親子の子孫であり、古くは出雲国造で、現在も出雲大社神主である千家家は、「火=霊=日」としていることからみても、「ホト」は「霊(ひ)所」でもあり、「霊(ひ)那」と同じ意味と考えられます。

 私が子どもの頃には、祖父母の家に行くと、お盆・正月には墓参りに行き、祖先霊を提灯の火に移して持ち帰り、仏壇と神棚のお灯明に移していましたが、京都の人たちは大晦日スサノオを祀る京都・八坂神社に「おけら詣り」に行き、火を家に持ち帰って新年の雑煮を食べていることからみても、霊(ひ)は火に宿ると仏教伝来より前から進行されていたことが明らかです。幽霊が火の玉となって現れると信じられていたことからみても、火=霊(ひ:鬼火)と考えられていたことを示しています。「ホー」「ボボ」「ホト」などの女性器名の「ほ」は「霊(ひ)」がやどる「火(ほ)」であったのです。

 後述する安田徳太郎氏の『人間の歴史』によれば「奈良朝ごろでも、まだ噴火口のあなの方は、やはりホトと呼んでいたらしく、こんにちでも三宅島では、火口のことを、トクニホドと呼んでいる」「カジ職人は金属をとかす炉のことをホトと呼んでいたらしく、鋳物師はこんにちでも炉のことをホドと呼んでいる」「東北や新潟の方言では、炉やいろりのことをホドと言っている」というのであり、ホトは「火所」として使用されていたことが明らかです。

 大国主命一族の「ホヒ」名「アメノホアカリ(天火明)」名や、初代大和天皇の妻の「ホトタタラ」名は、古代には女性器信仰があり、女性器名を王名や王女名の名前に付ける習わしがあったことを示しています。女性器名をどう呼ぶにせよ、ワイセツと見なすなどとんでもない反歴史主義・反天皇思想と言わなければなりません。

 なお、仏教では悟りを開いた人「仏=人+ム(座って座禅を組んだ人)」を呉音では「フツ」、漢音では「ブツ」(ブッダの訳)と言いますが、なぜか倭音倭語では「ほとけ」といいます。語源由来辞典では「浮屠(ふと)」に「け(家・気)」がついた、「解脱(げだつ)」の「解(と)け」に「ほ」を付けたと説明していますが語呂合わせにもなっておらず、「私は「ほとけ=ホト化」であり、もともと日本にあった女性器名「ほと」からきていると考えますが、どちらがのこじつけでしょうか?

 なお、「宝登山(ほとさん)」だけでなく、約100mの3基の前方後円墳の保渡田古墳群のある群馬県高崎市保渡田町や横浜市保土ヶ谷など各地に「ホト・ホド」地名があり、谷のある地形からかあるいは縄文時代の円形石組など地母神信仰の地であった可能性がありますがチェックできていません。

 

6 「ヒ→へ→メ」系女性器名

 「メメ」は熊本を中心に九州北部に分布し、「メンチョ」は島根に多く、福岡・大分・山口・広島・鳥取・愛媛に見られます。「オメコ」は九州北部から中四国・近畿に広く分布し、長野・神奈川を東限としています。

 「オメコ」は「オデコ」「オナゴ」「オシッコ」などと同じで、「メ」に「オ」と「コ」を付けたものであり、松本説のように「女(メ)」から「メメ」、さらに「オメコ」「メンチョ」に多様化したと考えられます。

 日本書紀は、神々を産んだ出雲の揖屋のイヤナミ(通説:イザナミ)を陰神(めかみ)、イヤナギ(通説:イザナギ)を陽神(をかみ)と書いており、女(メ)を女性器の「陰(メ)」として見ていることは明らかです。

 写真は雲仙の木花開耶姫(このはなさくやひめ)神社に祀られている「女ノ神」ですが、「女(メ)」を「オメコ」とみる歴史を今に伝えています。なお、コノハナサクヤヒメは瀬戸内海の大三島に祀られている大山津見(スサノオの妻の兄弟:代々襲名)の娘で、播磨国風土記では大国主の妻とされていますが、古事記では薩摩半島南西端の笠沙天皇家初代のニニギ命の妻・阿多都毘売(アタツヒメ)の別名としています。地理的にみて瀬戸内海・大三島コノハナサクヤヒメが笠沙にいるわけはありませんから、この古事記の記載はアタツヒメをスサノオ大国主一族と結び付けるための後世の創作です。

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 「むすめ(産す女)」の「女(メ)の子」に「オ」をつけて「オメコ」になった可能性が高いのですが、他の可能性もあります。

 子どもの頃、「周りに毛が生えていて、中が濡れているものはなあに?」というトンチ問答が流行っていましたが、女性器を「目」と同じような「割れ目」の「メ」とみた可能性もあります。また、割れ目からでた「ヒナサキ」(陰核、クリトリス)を「芽」と表現した可能性もあります。

 また、「さしい」と「さしい」、「さい」と「さい」、青森の「ねた」と「ねた」、寅さんで有名な「柴又(しまた)」と平安時代の「嶋俣(しまた)」、旧甘木市の蜷城(ひしろ)の美奈宜(みぎ)神社、大国主出雲大社の「御巣(す)」と「日栖 (すみ)」に見られるように、「は行とま行」の音韻転換がおこることからみて、「へへ」が「メメ」に音韻転換した可能性もあります。

 前述の図4のように、琉球方言が「あいういう」の3母音5音節で「い行=え行」であることからみて、琉球奄美の女性器名「ひー」は鹿児島で「へー」「へへ」に変わっていますから、それが熊本で「メメ」に変わった可能性は高いと考えます。

 「お女子(めこ)説」にも可能性がありますが、九州に「べべ・メメ・メンチョ・オメコ」があることからみて、「オメコ→メメ→メンチョ」よりも、「べべ→メメ→メンチョ→オメコ」の変遷の可能性が高いと考えます。そして「べべ・へへ」は「山口・岩見→和歌山→中部地方」へ、「メメ・メコ」は「高知・徳島→岐阜」へ、「メンチョ」は「広島・島根・岡山→関西」へ、「オメコ」は「中四国→関西」へと広がったと考えれらます。

 「オメコ・メメ・メコ・メンチョ」が東日本へ広がっていないことを見ると、京都からの同心円的拡散は考えれられず、方言東進説が成立します。

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7 「マンコ・マンジュー系」「チャンベ・チャコ系」女性器名

 松本氏によれば女性器名の「マンジュー(マンチョ)」は沖縄の宮古島と愛媛・千葉にポツンとあるほか、新潟・福島・山形・秋田・岩手・青森に多く分布し、「マンコ(マンマン・マンチョ)」は四国・千葉など多いほか各地にあり、「オマンコ(オマンチョ)」は九州に少しあるほか、中四国と関東に多いほか各地に分布しています。「オマン」は愛媛にしか見られませんが、前述のように兵庫県たつの市の祖母も「おまん」と言っていました。さらにネットで検索してみると、枕崎地方に「マンズ」、福岡県都市圏や青森県に「まんじゅ」がありました。

 共通するのは「マン」であり、松本氏は同心円の一番外側に「マンジュー」を起き、京を中心に広がったもっとも古い女性器名としています。文献的には最古の「ホト」をさておいて、鎌倉時代の文献に登場する「マンジュー」を最古とするなど、そもそもおよそ合理的な思考とは言えません。

 

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 松本氏は「マン系」女性器名は「マンジュー」が起源とし、女の子の性器が白くてふっくらとした形が「マンジュー」に似ているということを根拠にしているのですが、私が幼児の頃、又従兄弟のお姉さんに風呂に入れられて正面から目の前に見た時(初めて勃起しました)や、子どもの時に見た女の子の性器を「まんじゅう」と思ったことは一度もありませんでした。「のっぺりしていて母親とは違うなあ」という感じでした。自分の娘、孫娘と風呂に入っても「桃尻娘」とは思っても、性器を「まんじゅう」などと連想したことなどありませんでした。松本氏は「マンジュー食べたい」などと思った体験がいつ頃、どのようにあったのか、それは男一般に当てはまるのか、説明すべきです。

 さらに、中国語の「マントウ」(白い肉まん)から「マンジュー」名に変わった音韻変化の根拠、さらには「マンジュー」が「マンコ」「オマンコ」「オマン」などに変わった音韻変化も説明していません。私は「松本マンジュー饅頭起源説」はそもそも成立しないと考えます。

 松本説の「マンジュー女性器名最古説」の根拠は「マントウ」が伝わったのが鎌倉時代であるという文献からですが、縄文時代に女性器名がなかったなどありえません。私は縄文時代からあった「マン系女性器名」をいつの時代かにソフトな表現として「マンジュー」に置き換えて使うようになり、それが広まった可能性を考えます。

 ここで私は、小学生の時に父が隠していたのを引っ張り出して読んだ安田徳太郎氏の『人間の歴史』が気になってきました。ウィキペディアでみると、安田氏は京都市生まれ京大卒の医師・医学博士で、従兄の山本宣治(労農党国会議員で治安維持法改正に反対して右翼に暗殺される)の産児制限運動や無産運動に関わり、ソ連のスパイ事件のゾルゲ事件連座し逮捕、有罪判決を受けるとともに、フロイトの翻訳を行ったり、『人間の歴史』や『万葉集の謎』を書き、後の大野晋氏の「ドラヴィダ(タミル)語起源説」にも繋がる「日本語起源レプチャ語説」(チベットビルマ語派のチベットの一地方語)を唱えたというたいへん興味深い人物です。

 当時は性的な所だけを好奇心にかられて密かに読んだのでこの『人間の歴史』は怪しいスケベエ本と思い込んでいたのですが、今回、東南アジアでの「性器名」、特に「霊(ひ)」名について確かめるために改めて読んでみました。というのは、「オメコ」「チン」「マラ」などの語源がわからないことと、台湾の「卑南族(ピナ族)」がずっと気になっていたからです。

 ざっと『人間の歴史』に目を通してみると、生活語や稲作、鉄器、母系制社会のルーツなど、日本民族起源論において私が到達した結論とほぼ同じ部分が多く、ビックリしています。高群逸枝が「画期的意義を持つ」と評し、羽仁説子が「家庭の豊かな話題に」、服部之総が「日本人への問いと答え」、和歌森太郎が「世界的視野から日本人を」、清水幾太郎が「私は以前から、安田博士のファンである」などと扉カバーの裏に絶賛して書いていたことにやっと気づきました。

 

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 「マンコ」について見てみると「マレイ人やインドネシア人は小さい湯呑みやドンブリのことをマンコクと呼んでいる。セレベス島の土人は、語尾子音を落としてマンコという。この場合は湯呑みだけでなく、臼のことも指すそうである」「九州の五島列島でも、湯呑みやドンブリのことを、セレベス島の土人とおなじに、マンコといっている」「三重県万古焼という有名な陶器がある。こればバンコではなく、やはりマンコである。・・・インドシナの湯呑みをまねてはじめてつくった」「熊本地方では、マンコをなまってメンチと呼び、愛称にしてメンチョとよんでいる。福岡地方ではメンコといわずに、愛称にしてメメチョといっている」「民謡でも『娘18,落とせばわれる』とうたっているが、こういう思想は、別に日本だけの特産ではない、世界中どこを探してもおなじである」というのです。おちょこ・つんびー・あいべっかい(静岡県

 松本氏の「女陰全国分布図」をみると、「チャコ(オチャコ等)」「チョコ」が愛媛・徳島・三重(ネットでは静岡にも)に見られ、「チャンべ・チャンぺ」が佐賀・愛媛・福井・加賀・富山にあり、ネットでは「チョンチョン」が京都府北部や富山に見られますが、これらは酒器の「ちょこ(猪口)」からきており、湯呑みの「マンコ」を小水・性液の出る女性器名にあてるのと同じ発想といえます。

 私は酒器・湯呑の「マンコ」が女性器名となり、「オマンコ」「オマン」が派生するとともに、さらに鎌倉時代以降に「マンジュー」名も生まれたと考えます。

 なお、松本氏は「チャンベ、チャンペ、チャコ」は「お茶」からの転用語説ですが、私はその起源は「茶」の伝来よりは古く、「ちょこ(猪口)」からの類推語として女性器に使われたと考えます。

 この「マン系」女性器名は松本説のように京都を中心に同心円的に全国に広がったのでしょうか? 私はじっくりと松本氏の「女陰全国分布図」を見ましたが、「マンジュー」が都から周辺に広がったとは読み取れませんでした。

 そもそも、京都で新しいマンジュー性器名が生まれたとしても、それが関西・中国・中部地方で消えてしまった理由が説明つきません。むしろ、全国的に分布していた「マンコ」「オマンコ」から、宮古・九州・東北地方で上品に「マンジュー」名ができたのではないでしょうか?

 

8 「ノノんさん、あん!」「まんまんちゃん あん!」

 安田徳太郎氏の『人間の歴史』には松本氏が取り上げていない女性器名「ノノ」が欠落しています。

 京都市生まれの安田氏は「母親から空にかがやいている月にむかって、『ノノさん、あん、あん』とおがむように教えられた」「インドネシア語でノノというのは、女の性器のことである」「岡山地方では、女の子の性器をノノさんといって、男の子は遊び仲間の女の子の性器が見えると、みんな両手を合わせて、ノノさんといって、おがむそうである」「わたしたちは、子供時代には神さまのことをノンノさんと呼んでいた」としています。

 私が小学校時代を過ごした岡山市では級友達が女の子の性器を「ノノさん」と確かに言っていましたし、兵庫県たつの市出身の母からは「ノンノンさん、あん!」と言って神棚を拝むことを教えられました。播州地方でも広く言われていたのか、それとも母の祖母(私の曾祖母)が京都に行儀見習いに行っていましたから、京都から伝わったのかについては今となっては確かめられません。

一方、兵庫県高砂市生まれの妻は「まんまんちゃん あん!」と言って母方の実家の仏壇か神棚を拝んだことがあるといいます。

ネットで調べてみると、松山や宇和島岐阜県などでも「ののちゃん、あーん」「のんのんさん、あ~ん!」、九州で「のんのんさぁー」、関西で「まんまんちゃんあん」などがでてきます。

「ノノ、ノンノン」「マンマン」の語源としては、観音様の「のん」や浄土宗や浄土真宗の「南無阿弥陀仏様」からきている仏教用語という解釈が仏教系のネットに見られますが、仏教伝来からこのような呼称が生まれたとの証明もなく、民衆の「ノノ、ノンノン」「マンマン」信仰を仏教に取り込むための語呂合わせと思います。

インドネシア語でノノというのは、女の性器のことである」「岡山地方では、女の子の性器をノノさんという」ことからみて「ノノ」は女性器名であることが明らかです。一方、「マンマン」は縄文時代から続く女性器・マンコ信仰から神を拝む幼児語として使われ、仏教伝来後に仏(ほとけ)のお祈りに転用されたと考えます。

いずれにしても、「ノノんさん、あん!」「マンマンちゃん あん!」は女性器信仰を示していることが重要です。

 

9 女性器名の歴史

 松本氏の「女陰名周圏説」は、主な女性器名は京都から遠く離れた古い順に、「ピィ・ホー・ホト」→「マンジュー」→「へへ・べべ」→「ボボ」→「マンコ・オマンコ」→「チャンベ・チャンぺ」→「メメ・メンチョ」→「オメコ」→「オソソ」と京都を中心に周辺に広がったという地理的には「同心円的拡散説」、年代的には「直線的変遷説」です。

 その根拠は「図2 女陰全国分布図」ですが、この分布図をどこからみても私には同心円的な分布は読みとれません。

 しかも、旧石器時代からの3万年を超える歴史の中の、わずか1000年ほどの京都に天皇制の中央集権国家があった時に、これらの性器名称が京都を中心に順に全国に波及していったというのですから、私には理解不可能な空想という以外にありません。それ以前の3万年数千年の間には女性器名が無かったなどありえないからです。

 鎌倉時代に伝わったという「マンジュー(饅頭)」がもっとも古い性器名の起源などということはありえません。邪馬台国大和説と同様の、大和・京都中心主義の「新皇国史観」の「トンデモ説」と言わなければなりません。

 また、松本氏の饅頭からの形容語説(マンジュー、マンコ、オマンコ、マンチョ、オマン、マンマン)、女(メ)の転用語説(オメコ、メメ、メンチョ)、お茶からの転用語説(チャンベ、チャンペ、チャコ)などの起源説には一貫性がなく、「ヒー、ヒナ」「ホト」「ヘヘ」「ボボ」「ノノ、ノンノン」の説明はできていません。

 以上、私が検討してきた結果では、女性器名は人類にとってもっとも重要な生殖機能からの霊(ひ)信仰・性器信仰からきた「ヒ」系かもっとも古く、「ヒ」系から音韻的に「ヘ」系が分岐し、「火・穂」の意味から「ホ」系、「は行ま行音韻転換」から「メ」系が生まれたと考えます。これに対して、食器語からの「マン」「チャコ」系が加わったと考えます。

 そして、その多様化の変遷を見ると、琉球(龍宮)を起点として北上して南九州に広がり、さらに北進・東進したとみられます。九州には「ヒー・ヒナ」「べべ」「ボボ」「ホト」「マンコ・オマンコ・マンジュー」「メメ・メンチョ・オメコ」「チャンべ・チャンぺ」「オチンチン・オチョンチョン・オチンコ」「ツビ」「オソソ」などほとんどの女性器名が見られ、海人族のスサノオ大国主一族により、琉球の「ピー・ヒー」を起点として、他の南方系の女性器語を交えながら、九州から全国に広がり、続いて薩摩半島南西端の笠沙・阿多の猟師の山(やまと)人族の龍宮(琉球)の姉妹を祖母・母とするワカミケヌ(若御毛沼:8世紀の諱(忌み名)は神武天皇)一族により大和に伝えられたと考えます。

 なお、「オソソ」は接頭詞の「オ」を除くと、「メメ」が「メ」から派生したのと同じように、「ソ」が「ソソ」に変わったと考えられます。古日本語の「スォ」が3母音では「ス」(酢)で、5母音では「ソ」になったと考えられ、臭いから派生した名称の可能性があります。フェミニストでロマンチストの松本氏が女性器名を「楚々」として乙女に重ねて見るというのはいいのですが、身体語のリアリティとしではどうでしょうか?

 

10 「チンポ」「マラ」の方言周圏論

 「チンポ」「マラ」の語源についは昔から考え続けてきていますが、いまだに解明できていません。ただ、松本氏の「男性器方言周圏論」は女性器と同様に成立しないことを付記しておきたいと考えます。

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 松本氏は「男根全国分布図」から主な男根名が「ヘノコ」→「シジ」→「マラ」→「ダンベ」→「チンコ」→「チンボ-」→「チンポ」の順に京都から全国に拡散したとしていますが、同図をどう見ても私はそのような判断はできません。

 「チンポ」は日本の最西端の与那国島にあって北九州から中四国・関西と連続しており、その分布中心は京都にはなりません。

 「マラ」もまた西表島波照間島石垣島宮古島から奄美諸島をへて南九州に多くみられ、中四国から中部・関東・南東北に広く分布していますが北東北には少なく、松本氏の同心円説は成立しません。

 「ダンベ」は太平洋岸には見られず、西九州から福井・金沢、新潟・山形など、対馬暖流に沿って北上したと見るべきでしょう。

 「チン」系男根名の「チンコ」「チンボ-」「チンポ」は京から同心円的に分布しているというより、各地域で混在しています。沖縄本島奄美の女性器名の「ポー、ホー」が九州で「ボボ」に変わったように、与那国島の「チンポ」が北上して九州で「チンボ-」に変わり、さらに「オメコ」の対語として「チンコ」が生まれたと考えられます。

 松本氏の図から、「へのこ」と同じく、「マラ」と「チン」系男性器名も琉球から北進・西進したと私は読み取りましたが、みなさんがそれぞれ図を読み解いていただきたいと考えます。

 また、「マラ」と「チン」の語源についてはさらに探究が必要と考えます。「マラ」は同じ身体語の「ツラ」「ハラ」や「マナコ、マユ」に関係がありそうですし、「チンコ」「マンコ」「ウンコ」の類似性からみて、「チン」は「マン」「ウン」に関係しているように感じていますが、「マ」「ラ」「チ」「ウ」の語源は解明できていません。

 「マ」は和語だと「先、目、間」など、「チ」は「血、千、地、父」などの意味が考えられますが、「マ」「チ」と「ラ」「ン」を合わせて「マラ」「チン」になったということについて納得のいく解釈はまだできていません。

 なお、沖縄本島の「タニ」は、「あいういう」3母音5音節で考えると、古くは「タネ」であり、「種付け」の器官として合理的な名前といえます。

 安田徳太郎氏は『人間の歴史』において、「南方語で、もっとひろく男の性器の名をさがすと、フィジー語ではアチン、アル語ではグチンといっている。これに反して、カンボジア語では女の性器がアチンになっている」「こんにちのマレイ人も、男の性器をマラウと呼んでいる」「南方語のうち、いちばんたくさん古代語をふくんでいるサンタリ語のなかに、マランということばがある。これは大きいとか、かしらととかいう意味で、語尾子音を落とせばはっきり日本語のマラになってしまう」と述べており、さらなる語源の探求が求められます。

 

11 「方言周圏論」の見直しへ

 以上の私の検討結果をまとめると、「ヒー・ホー・べべ・メメ系女性器名」「チョコ・マンコ系女性器名」の伝播は図10・11のようになります。

 

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 松本氏のたいへんな労作「女陰男陰全国分布図」から、柳田・松本氏のような「方言周圏説(京都からの同心円的拡散説)」が導きだせるか、それとも私のような「琉球からの方言北進・東進説」になるか、みなさんもそれぞれマンチン方言分布図をじっくり検討してみて頂きたいと考えます。

 また、「ヒナ(女性器、子宮)」「ヒナサキ(陰核)」「ヘノコ(陰核)」「ノノ」のように、松本氏の図には未収録の方言や古語がある可能性があり、各地で調べていただきたいものです。

 その際には、各地域の女神や女性器崇拝を示す遺跡・遺物や伝承なども合わせて、検討していただきたいと考えます。縄文の石棒・円形石組をルーツとする全国の性器信仰については、世界遺産登録運動を進め、妻問夫招婚の母系社会のシンボルとしてアピールすべきと考えます。金精様(石棒:男根)は「女神に奉げる母系制社会の信仰である」という事実は、縄文人のみならず、人類誕生からの女性の役割を示す重要なシンボルと考えます。

 言葉はサルから人間になる知能の発達にとって決定的に重要な役割を果たし、それはメス同士・母子のおしゃべりが主導したと私は考えていますが、人類がアフリカを出た時にはすでに性器名があり、世界各地に伝わったと考えます。

 日本は漢字や宗教・文化、行政・政治制度とともに多くの漢語(音読み:呉音と漢音)を受け入れていますが、「倭音倭語」の言葉はそのまま残しています。このような3重構造(倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語)にプラスして戦後のアメリカ支配による英単語の導入の歴史をみても、日本人は古い言語をそのまま残しているのです。基本的な言語の置き換えは起きていないのです。

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 奈良・京都の支配言語がそのまま順に地方に及ぶことも、また古い言語を次々と捨ててしまうなどもありえないのであり、この点で柳田國男氏の「カタツムリ方言周圏説(同心円的方言拡散説)」は根拠のない空想論に過ぎず、それを無批判に踏襲した松本修氏の「マンチン方言周圏説」もまた破たんしているのです。

 そもそも奈良盆地は紀元1世紀頃からスサノオの子の大年(大歳)の一族(代々大物主を襲名)の支配地であり、7代後の2世紀に大国主一族のアジスキタカヒコネ(迦毛大御神)の加茂=賀茂氏)などが進出し、美和山(三輪山)・巻向山(穴師山)祭祀には各地からスサノオ大国主一族が集まり、さらに琉球の姉妹を祖母・母に持つ薩摩半島南西端の笠沙・阿多の天皇家が3世紀に奈良盆地に入り、4世紀に10代崇神天皇磯城の大物主一族の権力を奪って権力を広げ、7・8世紀に中央集権国家を確立したのです。もう1つの大きな政治的・宗教的中心はスサノオ大国主の建国地である出雲であり、神在月(神無月)に全国の神々(スサノオ大国主の御子たちの子孫)が集まり、御子たちの縁結びを行っています。

 このような人の流れからみると、奈良盆地には元々の縄文人の言語に壱岐対馬・出雲・筑紫の海人族のスサノオ大国主一族の言語が加わり、さらに天皇一族の沖縄・南九州の言語が加わっているのです。

 京都の平安京時代、鎌倉・室町・江戸時代、明治時代についてみても、京都には遣唐使による漢音漢語や朝鮮語平氏や源氏の西国・東国や尾張の武士言葉が入るとともに、江戸時代には参勤交代と道路網と回船による全国的な流通網の整備により各地の言語が入り、明治に入ると標準語教育と出版文化の興隆により東京の標準語が大規模に入ってきたはずです。

 一方、奈良・京都から地方への言語・文化の流れでみると、国司の派遣や僧侶の移動、武士の出仕と帰郷、領地替えなど、微々たるものです。

 このような人の往来・移住からみると、権力の中枢であった奈良・京都・東京、宗教中心であった三輪・出雲には各地の方言が集まって多様な方言が残されていそうですが、カタツムリ名もマンチン名もそうなっていません。土着の言語は消えることも変わることもなく、各地の氏族・部族・地域共同体の間に根強く残っているのです。

 「方言周圏論」は天皇制中央集権国家像を理想とし、それを方言構造に当てはめただけの天皇イデオロギーの産物というほかありません。

 実際の方言の分布はカタツムリや性器語の分析でみたように、琉球から北方・東方への人の移動に伴うものであり、地上を人から人へと隣り伝いに徒歩で同心円的に広がるものではなく、1万年の縄文時代の「貝の道」「ヒスイの道」「黒曜石の道」などからみても、舟で黒潮対馬暖流(琉球暖流と呼ぶべき)に乗って飛び飛びに伝わり、さらに河川に沿って山間部へと伝わっているのです。人の移動・交流・交易・移住、妻問・夫招婚とともに言葉は伝わり、その伝搬は飛び飛びであったと考えます。

 このように方言の分析は歴史全体の人・物の動きや文化を合わせて分析する必要があり、京都を中心とした「性器方言周圏論」など成立する余地などどこにもないと言わなければなりません。

 松本氏は性器語について、まずは意味的・音韻的な分析を徹底的に行い、「マントウ」が「マンジュー」になり、性器名になったという証明から始めるべきでした。

 

12 「ピー・ヒー」女性器名と日本語・日本列島人の起源

 2018年12月に「松本修著『全国マン・チン分布孝』の方言周圏論批判」を日本語論として書いて以来、私は縄文社会研究から日本列島人・日本語起源論へと進みましたので、「ピー・ヒー」信仰について補足しておきたいと思います。―縄文ノート「37 『神』についての考察」「38 『霊(ひ)』とタミル語『pee(ぴー)』とタイ『ピー信仰』」「41 日本語起源論と日本列島人起源」参照

 まず、ドラヴィダ(タミル)語の宗教語に倭音倭語と多くの共通点があり、「pee(ぴー);自然力・活力・威力・神々しさ」が日本語の「霊(ひ:fi)」(筆者注:琉球では「ぴ」が「ひ(fi)」に変わる)に対応することです。

 

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 さらに、民族学者の佐々木高明氏(元奈良女教授、国立民族学博物館長)の『山の神と日本人―山の神信仰から探る日本の基層文化』の大林太良氏の『葬制の起源』によれば、「死者の霊魂が村を見下ろす山の上や霊山におもむく『山上霊地の思想』がわが国に広く分布する」「この種の山上他界観の文化系統を考える上で目を引くのは、中国西南部の山地焼畑農耕を営む少数民族の人たちである」とし、雲南省のロロ族の「ピー・モ」(巫師)を紹介しています。さらに、文化人類学者の岩田慶治氏はタイの農耕民社会に広く見られるピー(先祖、守護神)信仰について紹介し、「浮動するピー」「去来するピー」「常住するピー」の3段階があり、「常住するピー」は屋敷神として屋敷地の片隅に祀られるというのです。

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 私の岡山県の山村と兵庫県の平野部の祖父母の家にはどちらにも屋敷神の石祠があり、私の住む埼玉県さいたま市でも昔からの家の庭には小さな祠がよく祀られていますが、そのルーツは東南アジアの「ピー信仰」の屋敷神の可能性が高いと考えます。

 「産霊(むすひ)2神」を始祖神とする記紀の記述、神名火山(神那霊山)信仰や神籬(ひもろぎ:霊洩木)信仰、霊継(ひつぎ)皇位継承儀式や朱で満たした棺・柩(ひつぎ)などに見られる霊(ひ:祖先霊)信仰、「霊人(ひと:人)、霊子(ひこ:彦)、霊女(ひめ:姫)、霊知(ひじり:聖)、霊巫女(ひみこ:卑弥呼)」の名称などのルーツは東南アジア山岳部の「ピー信仰」やインダス文明を創ったとされるドラヴィダ(タミル)族の言語に残っていたのです。

 方言分析は日本国内の人の動きにとどまらず、DNA分析とともに、日本列島人のルーツ解明のためにも分析することは重要です。

 

13 「日本語起源」「縄文人起源」「霊(ひ)信仰」「性器信仰」「母系制」「建国論」の解明へ

 松本氏の『全国マン・チン分布考』は言語論のうちの方言論の範疇にとどまりますが、私はその作業は「日本語起源論」「縄文人起源論」「霊(ひ)信仰論・地母神信仰論」「女性器信仰論」「母系制社会論」「スサノオ大国主建国論」など、日本文明・文化の解明に繋がる重要なテーマと考えます。

 「女陰全国分布図」「男根全国分布図」作成という松本氏の成果を生かし、女性器名称の歴史的分析と地理的分布の要因、音韻的変遷について再検討するとともに、日本文化の根底にある母系・父系制社会の性器信仰、女性器尊敬、性の開放性(歌垣、混浴・浮世絵など)の伝統を再評価し、明治政府から続く「俗語禁止」「言語統制」「民俗弾圧」「民間宗教否定」「禁欲強制」の悪弊を正すきっかけとする必要があります。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/