ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート93 「かたつむり名」琉球起源説からの母系制論」琉球起源説からの母系制論―柳田國男の「方言周圏論」批判

 「母系社会からの人類進化」のまとめに入りましたが、私のスサノオ大国主建国からスタートした縄文人論・日本列島人起源論・人類起源論は「海人族」「魚介食族」というところが原点であり「『カタツムリ名』沖縄起源説―柳田國男の『方言周圏論』批判」(180816・21)を加筆して紹介しておきたいと考えます。

 この海人族論については、左右の論客が登場した『季刊 日本主義』(終刊)の「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(40号:2017冬)、「言語構造から見た日本民族の起源」(42号:2018夏)、「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ:2018秋」(43号)「海洋交易の民として東アジアに向き合う」、(44号:2018冬)、「『漂流日本』から『汎日本主義』」へ(45号:2019春)などで主張してきましたが、関連する小論を紹介します。

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 西欧中心史観の肉食史観、狩猟・戦争文明史観、男性中心史観の影響を受け、「肉が好き、魚は嫌い」「海が怖い・嫌い」「戦争大好き」なわが国の翻訳学者たちは、「縄文人=石鏃・石槍の狩猟民イメージ」をまき散らし、「採集・漁撈・交易民」「芋豆穀実・魚介食の海人(あま)族」「妻問夫招婚による平和なスサノオ大国主一族の建国」の歴史を忘れてしまっていますが、ここでは言語から海人族の日本列島人の起源について補足しておきたいと考えます。

 なお、重複が多くて恐縮ですが、「海洋交易の民として東アジアに向き合う (『季刊日本主義』44号:原題「未来を照らす海人(あま)族の「海洋交易民文明」―「農耕民史観」「遊牧民史観」から、「海洋交易民史観」へ)などから一部、引用して加筆しました。

 さらに、続いて「松本修著『全国マン・チン分布考』の方言周圏論批判」「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」についても紹介しておきたいと思います。

 

1  柳田國男の『蝸牛考』

 民俗学者柳田國男の出身地が私の2つめの故郷の播磨ということや、彼の「常民」の生活文化史を足で歩いて確かめるという方法は、全国の市町村計画に携わる中で古代史や石器・土器時代に関心を持った私にはぴったりでした。 

 また、祖母や義理の叔父が瀬戸内海を船で往来していたことを聞いて育ち、カヌーや小型ヨットに親しんでいたことから、江上波夫騎馬民族征服説には疑問を持っており、彼と対抗した柳田の「海上の道」の南方起源説には強い共感を覚えていました。

 と言っても、分野が異なることもあり、彼の本を勉強したわけではありませんでしたが、日本語の起源に関する本に目を通すうちに、柳田の『蝸牛考』の「カタツムリ異称分布図」をさらに詳しくしたカタツムリの方言分布図(『日本の方言地図』記載の『日本言語地図』の図を簡略化したもの。斎藤純男『言語学入門』より)と、「カタツムリの呼称の伝播」図を見つけ、柳田の「方言周圏論」に疑問を覚え、以下の分析を行いました。

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 書いた時代が異なるとはいえ、京都を中心として、各時代の「カタツムリ名」が地方へ広がっていったという柳田の『蝸牛考』は、戦後に書いた『海上の道』の日本民族南方起源説とは明らかに矛盾しています。

 『季刊 日本主義』の「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(40号)、「言語構造から見た日本民族の起源」(42号)、「『龍宮』神話が示す天皇家のルーツ」(43号)の続編として読んでいただければ幸いです。

 

2 柳田國男の「方言周圏論

 柳田國男は、『蝸牛考』(1930年)で、カタツムリを古い順に「ナメクジ(東北地方北部・九州西部)→ツブリ(東北地方・九州)→カタツムリ(関東・四国)→マイマイ(中部・中国地方)→デデムシ(近畿地方)」とし、古いほど京都から遠く、同心円状に分布しているという「方言周圏論」を主張しています。

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 この仮説は、縄文世界に朝鮮半島から弥生人が大挙して押しかけ、縄文人を北と南に追いやり、アイヌと沖縄人になった、という説とも重なります。

 しかしながら、柳田の主張には、石器時代からどの時代にも京都を中心に全国一様に同じカタツムリ名称が使われていて、それが京都で名称が変わるとともに周辺に一様に分布した、という証明がありません。

 図2を見ていただければ明らかなように、カタツムリの方言分布は各地に飛び飛びに分布しており、様々な部族が各地に転々と移住・定住し、あるいは交流・交易して分布した可能性が高いと私は考えます。

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 さらに、柳田は古い順に「ナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デデムシ」の名前が広まったとしていますが、言語的な変遷の証明がありません。例えば、「ナメクジ」と言っていたのに、ある時期から「ツブリ」に変わったという音韻的・意味的な説明が全くありません。海外から次々と異なるカタツムリ単語を携えた言語集団が京都・大和に移住してきてそこから天皇家の全国支配に伴って名前が拡散したというような可能性は低いと言わざるをえません。例えば朝鮮語ではカタツムリは「ペンイ、トゥグボッレ」、中国語では「wōniú」です。

 文化(生活様式や生産様式、技術、社会慣習、宗教、支配体制など)が先進地から周辺に拡散し、周辺部に残ることは多くの例があり、私も鉄道や主街道から外れたために、古い町並みが残っている例や、古い宗教・習俗が山奥などに残っている例を全国で体験しています。しかし、それは生活・産業・社会・宗教・政治体制などの変革に伴うものであり、変わらない自然を表す単語にそのままあてはまるものではないと考えます。単語の場合は、人々の移動や文化交流・交易が大きな影響を与えることは、和語に漢語やオランダ語、英語が混じっている歴史を見ても明らかです。

 柳田の「方言周圏論」は、天皇を中心とした全国支配体制が古くからあったという「皇国史観」の影響を受けているのではないでしょうか?

 

3 音韻・意味論からみた「カタツムリ名」の変遷

 言語変遷(音韻・意味変遷)からは、沖縄弁の「ツンナメ」=「ツン+ナメ」が、その形の特徴をとらえて、南九州で「ツン」は「ツブ」「ツノ」に、「ナメ」は「ナメクジ」に変化し、さらに北九州に移り「ツブ」は「ツムリ」「カタツムリ」になり、さらに、「ツン=「ツノ」から「ツノダセ」の「ダセ」(出せ)が「デン」(出ん)に変わって「デンデンムシ」になり、さらに「デーロ」(出ろ)になったという音韻・意味変遷が考えられます。

 「マイマイ」だけは福岡から西中国地方、静岡、千葉・茨城へと飛び地していますが、これは、カタツムリの殻がぐるぐると巻いていることから、「マイツムリ」「マイカタツムリ」のような名前があり、そこから幼児語として「マイマイ」のような名前ができたのではないでしょうか? 福岡から島根・鳥取・広島・岡山というと、「銅剣分布(筆者は銅槍説)」と重なることからみて、柳田説のようにその起源は新しくなく、大国主王朝・大和朝廷以前のスサノオ時代頃の可能性が高いと私は考えています。

 このように「カタツムリ名」の音韻・意味変遷は、沖縄から南九州→北九州から、さらに中国・近畿・東海北陸・関東・東北へと東に飛び飛びに人々の移動とともに広がったことを示しており、京都を中心に近畿地方から周辺に広がったという語源を示すものはありません。

 「カタツムリ名」変遷からは「方言周圏論」は否定され、沖縄を起点とした「南方起源東方遷移説」が成立しますが、もっと多くの単語について成立するのかどうか、今後の研究課題です。 

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 4 1700年前頃の東京方言と首里方言の分岐

 近所のカフェギャラリー南風で「FNSドキュメンタリー大賞」の『生まり島ぬ言葉忘ね国忘ゆん』(2017.12.14沖縄テレビ)を見る会がありましたが、字幕がないと「沖縄弁(島ぬ言葉:琉球弁)」はほとんど理解できませんでしたが、字幕を見るとおおよそは理解できました。現役時代、東北や鹿児島の仕事先でも住民同士の方言での会話となるとほとんど聞き取れませんでしたが、沖縄弁はそれよりも難しいという印象でした。しかし、朝鮮語や中国語が全く理解できないのとは異なります。

 言語学者の説明を待つまでもなく、このような体験からみても「沖縄弁」は共通の縄文語からある時期に分岐して「沖縄方言」となったことは確実であり、丸ノミ型石器圏や曽畑式土器圏、「あま(天、甘、海士、海部)地名」圏が沖縄から黒潮対馬暖流に乗って分布しているのと重なります。では、その分岐した時期はいつ頃なのでしょうか?

 「『龍宮』神話が示す大和朝廷のルーツ~記紀の記述から『龍宮』=『琉球』説を掘り下げる」(『季刊 日本主義』43号)において、私は「統計学安本美典産業能率大学教授は、計量言語学の手法によって東京方言と首里方言は1700年前頃に分かれたと分析し、そこから『邪馬台国勢力が琉球に倭語を広めた』と、琉球弁のルーツが邪馬台国の倭語であるかのような逆立ちした奇妙な考察を行っています」と書きましたが、この安本氏の推計はいいとしても、琉球語への「邪馬台国勢力倭語伝播」説は認められません。

 1700年前頃の紀元3世紀頃に、琉球弁と倭語が分かれたというなら分かりますが、その頃に邪馬台国が倭語を琉球に伝えたというのは合理的な説明がありません。その頃に倭語が沖縄に普及すると同時に断絶したなどありえません。

 そもそも、安本説は邪馬台国筑後川を遡った福岡県の甘木市朝倉町(現:朝倉市)にあったという説ですが(氏の平地部の馬田説に対し、私は旧甘木市高台説)、魏書東夷伝倭人条によれば当時の邪馬台国は南の狗奴国の卑弥弓呼(ひみここ)王と抗争して苦戦し、魏から軍事顧問を派遣されていた状態ですから、狗奴国を飛び越え南九州から琉球に多くの人々を派遣する余裕など考えられません。なお、狗奴国の官名の狗古智卑狗は球磨国の菊池彦であると考えられており、朝倉市の南に位置しています。

 それよりなにより、新石器・縄文時代から琉球奄美から九州さらに北海道まで「貝の道」「ヒスイの道」の双方向の交流があったのであり、共通の言語圏が成立していたとみるべきなのです。

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 この琉球と本土との活発な交流が途絶えた時代は、古事記記載の薩摩半島南端の笠沙天皇家2代目の猟師の山幸彦(ヤマト:山人)が兄の漁師の海幸彦(ハヤト:隼人)と争って支配下に置いた時代と私は考えています。―「縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」参照

 安本氏の30~40代天皇の即位年の最小二乗法による直線回帰計算(私は邪馬台国甘木朝倉説とともに安本氏の大きな功績と考えます)だと、卑弥呼=アマテラス時代より3代後の山幸彦(ホホデミ)の即位年は紀元256年頃(私の追試計算)となり、計量言語学による東京方言と首里方言の分離が1700年前頃に起こったという推計と符合します。

 「ハヤト(隼人)」は「ハイト」とも呼ばれ、「ハイ=ハエ=南風」の追い風を利用して琉球(龍宮)からやってきた海人族で、「ハイ」に「隼(隹+十)」字という、「隹(鳥)」と「十(針の原字)」を合わせた宛字を使用したのは、十字に組んだマスト(帆柱)とブーム(帆桁)に鳥の羽のような帆をかけた鳥船(帆舟)に乗ってやってきた海人族と考えられます。「隼」の漢字から「ハヤブサのように眼光鋭く素速く行動するハヤト」と解釈する俗説が見られますが、「隼(隹+十)」字で形象した「象形文字」である漢字本来の成立原則から判断すべきです。

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 この山幸彦ホオリ(山人:ヤマト)と海幸彦ホホデミ(隼人:ハヤト=はゑと=ハイト)の対立は、後の大和政権への「隼人の反乱と弾圧」(720年)に引き継がれ、沖縄では「ヤマトンチュウ(山人衆)」対「ウチナンチュウ(内那衆)」の対抗意識として今に続いていると考えます。

 なお、記紀によれば、天皇家のルーツは薩摩半島南端の笠沙(かささ)・阿多(あた)の猟師・漁師の縄文人であり、稲作民ではありません。「天皇家=稲作民(弥生人)=中国・朝鮮人」説は何の根拠もない空想です。

 古事記は、大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、美和(三輪)の大物主(スサノオの御子の大年一族:代々襲名)と「共に相作り成」したと書き、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」とし、日本書紀大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営し、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」「百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝え、出雲国風土記大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」としているように、大国主一族こそが鉄先の「鉏(鋤、鍬)」を配って水田稲作を100余国に普及させ、「天下造所」したことが明らかです。「木鋤(こすき)」から「鉄先鋤」への農耕用具革命を行い、水田稲作農業革命という「水穂国づくり」を行ったのです。

 「カタツムリ名」が琉球語の「ツンナメ」から九州南部で「ツブラメ」「ツノダセ」「ナメクジ」名に変遷し、さらに北九州から東に名前を変えて伝搬したことは、以上のような記紀に書かれた歴史と符合します。そして、邪馬壹国の「相攻伐」後の紀元3世紀頃に琉球と本土が切り離され、「ツンナメ」方言が琉球に残ったのです。

 

5 「古日本語」は北方系か南方系か?

 安本氏は図5のように、おそらく「縄文人北方起源説」に基づき、朝鮮・東シベリア・日本海沿岸の「古極東アジア語」なる仮説を考え、その後に「照葉樹林帯稲作起源説」や「長江流域稲作起源説」の影響を受け、稲作とともに長江流域から「ベトナムビルマ系言語」などの諸言語が加わり「古日本語(倭人語)」が北九州・出雲で成立し、甘木・朝倉にあった卑弥呼(アマテラス)の邪馬台国が東遷して大和朝廷を立てたという「邪馬台国東遷説」を展開しています。

 しかしながら、そのような主張を行うなら、「古極東アジア語」なる共通語を抽出するとともに、日本語は「古日本語、古アイヌ語インドネシア系言語、ベトナムビルマ系言語」の4層構造からなることを古語や方言などから具体的に分類してみせるべきです。

 図7・表1のように、倭音倭語と呉音漢語・漢音漢語がきれいに3層構造をみせているように、他民族の支配を受けることのなかったわが国では、倭音倭語の上に借用語(今は英語)が重層的に折り重なており、分析できるはずでしょう。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源」「42 日本語起源論抜粋」等参照

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 さらに安本氏の分析の一番の問題点は、黒潮に乗って南方から移住し、黒潮対馬暖流、南風(ハエ)に乗って鳥船で交易・交流した海人族の琉球語(沖縄弁)の分析をおこなっていないことです。南方系のヒョウタンやウリ、エゴマやイモ・陸稲などが縄文時代に伝播しており、貝やヒスイの交易が行われていた以上、琉球から北海道まで対馬暖流を利用した交易・交流・移住・妻問夫招婚があったと見るべきです。安本氏の分析は日本人のルーツを朝鮮人にしたいという先入観に支配されているとしか考えれませんが、DNA分析からそれは否定されています。

 なお、安本氏は「基礎百語」「基礎二百語」を統計的に比較分析する手法から、日本語は朝鮮語と近いとして大野晋氏のタミル語(ドラヴィダ語)説を「妄想」として批判していますが、図6のように、タミル語や東南アジア語が黒潮対馬暖流を海人族によって日本列島と朝鮮半島に運ばれたことを示しているだけなのです。

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 この「基礎語分析法」は、各国の支配的言語が共通の民族起源である場合には成立しますが、他民族支配を受けた国・地域の元の被支配者の言語と比較する場合には、支配民族の影響を受けにくい原宗教語や農耕語などでの比較が必要であり、「数詞や身体語などの基礎語」の比較は科学的な方法とは言えません。統計的分析は「サンプルの誤り」があれば、致命的な誤りを犯すのであり、科学的とは言えないのです。

大野氏のように「かみ(神)」「ひ(霊)」「ほと」「はたけ(畑・畠)」などの比較が必要なのです。―縄文ノート「37 『神』についての考察」「38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」「41 日本語起源論と日本列島人起源」「28 ドラヴィダ系海人・人族による稲作起源論」「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」参照  

 表2・表3のように民俗分析などもふまえた、総合的な分析こそ、必要なのです。 

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  また、この安本氏の「古日本語説」は、琉球諸島以南のダイミョウイモの貝輪が北海道の有珠モシリ遺跡で発見され、新潟県糸魚川のヒスイが種子島で発見されていることや、南九州中心の曽畑式土器が沖縄や韓国で発見され、丸木舟製作に使う丸ノミ石斧の分布(小田静夫氏らの研究)からみて成立しません。「古日本語」圏は、琉球から南九州、日本海・太平洋沿岸へと広がっているのです。 

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 同時に、「天城」「奄美」「天草(天狗狭:狭投馬=薩摩と同様に狗奴国の狭い半島を指している)」「天ケ原」「甘木」「天ヶ瀬」「尼崎」などの地名は、「海人族」が琉球から北進・東進して各地に移住したことを示しています。

 

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 この海人族地名は、後に神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)を崇拝する天神信仰の影響を受け、記紀は「海人」から「天」への置き換えを行い、自らの出自が薩摩半島南西端の笠沙・阿多の縄文人・猟師(山人)であり、この国の本来の建国者が海人族のスサノオ大国主一族であることを隠したのです。ただ、史聖・太安万侶らは、神話形式の煙幕をはりながら、真実の歴史を巧妙に後世に残したのですが、津田左右吉氏らは「味噌もクソも一緒」にして、神話全体を後世の創作として葬り去ったのです。

記紀に書かれた「天津神(あまつかみ)」の歴史は天上の架空の物語ではなく、「海人津神」すなわち「海人(あま)の津(津島=対馬)」をルーツとした海人族の歴史なのです。

 なお、丸ノミ石斧や曽畑式土器などの発見された栫ノ原遺跡のある鹿児島県南さつま市加世田(旧加世田市)には南薩広域圏計画の仕事で1年間通いましたが、この栫ノ原遺跡の万之瀬川の対岸は「阿多」であり、私はこの地こそ笠沙天皇家3代の初代・ニニギが「阿多都比売」に妻問いした地であり、琉球トヨタマヒメ・タマヨリヒメ姉妹が2代目ホオリ・3代目ウガヤフキアエズの妻となった地であり、ワカミケヌ(大和初代天皇)が生まれた地と考えています。

 

6 「アマミキヨ」伝説と「アマテラス」伝説の先後

 琉球の始祖の「アマミキヨ」伝説と大和政権の始祖の「アマテル(本居宣長説:アマテラス)」伝説のどちらが先に生まれたのか、これまで歴史学者はこの重要なテーマについて判断を避けてきています。

安本美典氏は九州邪馬台国の女王卑弥呼=アマテラスが琉球を支配し、その影響で琉球に「アマミキヨ」伝説が生まれたという「アマミキヨ伝説アマテラス起源説」を提唱していますが、私は琉球からの海人族の東進に伴い、「海人」を「天」に置き換えてアマテル神話が成立した、という逆の「アマテル伝説アマミキヨ起源説」です。

 

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 そもそも、前述のように邪馬台国が敵対していた狗奴国を飛び越え、卑弥呼の死後に後継者争いで「相誅殺」していた内憂外患状態で琉球まで軍や使者を派遣する余裕があったでしょうか?

 さらに、記紀は「天照」と書いて「高天原」(筑紫日向橘小門阿波岐原)の神としているのに対し、「アマミキヨアマミヤ)」は海の彼方のニナイハラー(ニライカナイ)からやってきたという海人族の伝承です。アマミキヨが漂着した「五穀発祥の地」「神の島」と呼ばれる久高島の伝承では「アマミヤ(女神)とシラミキヨ(男神)が東方の海の彼方(ニナイハラー)からきて、アマミヤが棒を立てて神に頼み、天から土・石・草・木を下してもらって島を作った」(比嘉康雄『日本人の魂の原郷沖縄久高島』)というのであり、天からではなく「東方の海の彼方(ニナイハラー)」からきているのです。アマテラス信仰の皇国史観の影響を受け、アマミキヨが天から降臨したかのように書いているネット情報が沖縄でもあふれていますが、もともとの久高島の伝承こそ重視すべきです。

 そもそも「高天原」の所在地について、記紀は「筑紫日向橘小門阿波岐原」とはっきりと地名を具体的に書いており、スサノオがアマテラスのいる「天に参上するとき、山川ことごとに動き、国土皆震(ふる)えり」としており、スサノオの軍勢が足音を響かせながら佐田川のほとりを高天原(甘木=天城の高台)に駆け上った様子をリアルに表現しています。「高天原」は天上の神の国ではないのです。

 「筑紫日向橘小門阿波岐原」のアマテル神話から、海人族のアマミキヨ漂着伝承が生まれることなどあり得ません。

 「あま」をパソコン(ATOK)で漢字変換してみると、「海、海人、海士、海女、海部、雨、尼、甘、奄」「天」「安満、安間、安馬、阿真、阿万、阿萬、亜麻」などがでてきます。倭語の「あま」を漢字を借りて書くときには意味の合った漢字を選ぶに違いなく、「あま」の中で一番多い漢字が「海、海人、海部、海士、海女」など「海」に由来し、「天」字を使う表記が1字しかないことからみて、「あま」の本来の意味は「海」であり、後世の「天神信仰」に合わせて記紀では「天」字に置き換えたことが明らかです。「大海人皇子」が死後に「天武天皇」と忌み名を付けられたことからみても、「海人=天」であったのです。 

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7 海人族の女神祭祀

 「アマミヤ(女神)とシラミキヨ(男神)が東方の海の彼方(ニナイハラー)からきて、アマミヤが棒を立てて神に頼み、天から土・石・草・木を下してもらって島を作った」という男女漂着神話が、アマミキヨ女神信仰に変わったのはなぜでしょうか?

 久高島では、12年に1度、午年(うまどし)に行なわれる祭事・イザイホーがあり、島中央部のクボー(フボー)御嶽(うたき)は久高島で最も重要な男子禁制の聖域であり、女性が16歳から神女就任儀式(イザイホー)を経て神女となり、祖母霊が守護神として孫娘につくとされています。琉球王朝の神女組織「祝女ノロ)」制度のルーツと考えられます。―「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号:2017冬)参照

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 「アマミヤ(女神)とシラミキヨ(男神)」が合体されて「アマミキヨ(女神)」になり、祖母霊がついた神女が祭祀を行なっているということは、家=氏族の中心が女性であったという母系制社会を示しています。

 今でも漁村では、家計は女性が握っていて女性の地位が高く、漁民であった旧石器人・縄文人もまた女系制であった可能性が高いと言えます。漁や交易で海にでる男性はいつも死と隣り合わせであり、家の経済や子育ては女性に任せる、という海人族の伝統は旧石器・土器時代に遡るとみるべきと考えます。

 女たちが海にでて漁をする兄弟や夫たちの守護神とされたことや、「旅する間は皆の夫だけど、浜で釣りをするようになると私の夫だよ」という歌が島にあり、夫の旅妻の子どもをわが子同様に育てることが多かった、という文化は、移動性があり、海で死ぬことも多い海洋民族の妻問婚の名残を伝えています。古事記に「打ち廻る 島の崎崎 かき廻る 磯の崎落ちず(もれず) 若草の 妻持たしめ」と古事記に書かれ、180人の御子を全国各地にもうけた大国主の妻問婚の母系制社会の伝統は久高島には最近まで残っていたのでます。

 ここで私たちは記紀に書かれた皇国史観の重大な矛盾に気づかされます。

 記紀の始祖神は古事記に「二霊(ひ)群品の祖」と書かれた「神産日・高御産巣日(古事記)、神皇産霊・高皇産霊(日本書記)」の男女神ですが、天皇家は「アマテル(天照大御神)」を直接の始祖神としているのです。「アマミヤ(女神)・シラミキヨ(男神)」伝説が、「アマミキヨ(女神)」に置き換わったのと同じなのです。

 初代大和の天皇のワカミケヌ(若御毛沼:8世紀に付けられた名前は神武天皇)の祖母と母が龍宮(琉球)の姉妹と書かれていることからみて、天皇家の女神アマテル信仰は琉球アマミキヨ信仰を受け継いだものです。しかしながら、アマテルはイヤナミの左目を洗った時に生まれたとされ、出雲大社正面に祀られた始祖神の「ムスヒ(産霊)夫婦神」とは繋がっていない別系統の琉球由来の始祖神神話なのです。

 天皇家は母系制信仰のもとに、父権制の国づくりを行ったことを記録として記紀に残しているのであり、メソポタミアやエジプト、ギリシアの母系神話解明の手掛かりを与えるものです。ギリシア神話から記紀神話を解釈してみせた歴史家も見られますが、西欧文明信仰の逆立ちもいいところです。

 

8 「流下文明史観」「同心円的文明波及史観」から「交流交易文明史観」「双方向的文明史観」へ

 漢字や銅鏡、仏教、古代国家制度、儒教朱子学など中国文明の影響を強く受けてきたわが国では、「文明・文化は高いところから低いところに伝わる」「中央から同心円的に広がる」という中国・大和中心史観の強い思い込みが歴史学者や国民を支配しています。明治維新後は西洋文明中心に考え、大日本帝国敗戦後はアメリカ中心世界体制の下で経済大国を目指してきましたが、このような拝外主義の「文明流下説・同心円的波及説」は文明全体を正しくとらえているでしょうか?

 とりわけ、魏書東夷伝倭人条や記紀などの漢字文献の分析を仕事としてきた歴史学者たちは中国文明・文化の影響に目が向き、その下で大和朝廷から全国各地に文明・文化が伝わったという「文明流下史観」「同心円的文明史観」になったのは必然であり、明治以降には西洋文明、戦後にはアメリカ文明の崇拝者となったのもまた当然のことと思われます。

 浮世絵や縄文土偶・土器を世界的にアピールしてきたのは芸術家であり、西洋芸術家や翻訳歴史学者たちにとっては遅れた文化として関心外でした。この根強い「拝外主義史観」は、「い・ふぃ(委)」を「わ(倭=矮)」と置き換えられてこれを受け入れ、茎(なかご)のない刃先だけの「銅槍」を中国起源の「銅剣」とみなし、「三角縁神獣鏡」を魏鏡とみるなど、「進んだ中国、遅れた日本」の劣等意識からしか歴史を見ることができず、それは「進んだ欧米、遅れた日本」感のまま今に続いています。

 さらに、この「拝外主義史観」は、そのまま国内史に持ち込まれ、「進んだ中央、遅れた地方」という大和中心史観に引き継がれています。

 この「文明流下史観」「文明同心円的発達史観」「外発的発展史観」の歴史観に対し、私は「交流交易史観」「双方向発展史観」「内発的発展史観」を対置して日本文明・文化を考えてきましたが、さらにその核心に考察を進めたいと考えます。

 もともと、大日本帝国憲法は第1章天皇の第1條において、「第日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とし、第2條「男孫継承」、第3條「神聖不可侵」と続いています。

 「男孫」とは高天原のアマテラスにより神権を授けられた孫のニニギを指し、その4代目の初代天皇とされるワカミケヌ(笠沙天皇家の4代目。祖母と母は龍宮出身。後に神武天皇命名)がその萬世一系の後継者としてこの国を支配する、というこの王政復古こそが明治維新の大きな負の側面に他なりません。封建的身分制度の否定を、古代身分制の復活による「王権神授説」として確立したのでした。

 このアナクロニズムの「神の国皇国史観は、戦後、裕仁天皇の「人間宣言」により否定されましたが、天皇の意に反して未だにアマテラス神話は伊勢系神道を中心に根強く残るとともに、大和中心史観の根強い思い込みにも引き継がれています。

 しかしながら、古事記日本書紀をそのまま読めば、この国の始祖女神は100%、カミムスヒ(神産霊:霊(ひ)を産む女神)であり、魏書東夷伝倭人条と『三国史記新羅本紀、出雲国風土記播磨国風土記をもとに総合的に文献分析を行えば、「百余国」の建国王はスサノオ大国主7代になり、「漢委奴国王」はスサノオにならざるをえません。―「『古事記』が指し示すスサノオ大国主建国王朝」(『日本主義』18号)、「古事記播磨国風土記が示す『弥生史観』の虚構」(同26号)参照

 「人=霊人(ひと)」「彦=霊子(ひこ)」「姫=霊女(ひめ)」「聖=霊知り(ひじり)」「息子=産す子(むすこ)」「娘=産す女(むすめ)」「卑弥呼=霊御子・霊巫女・霊皇女(ひみこ)」「蛭子=霊留子(ひるこ)」「大日留女=大霊留女(おおひるめ):アマテラスの別名)」などを産んだカミムスヒ(神産霊)こそ日本民族の始祖神として、出雲大社正面に古代から現在まで今も祀られてきており、日本文明を源流としての評価を行うべきと考えます。

 「大日留女(大霊留女)」が「アマテル」の別名で呼ばれたのは、彼女が「海人(あま)族」であったからに他なりません。

 なお、もともと「アマテル」と読まれていた天照大神を「アマテラス」と呼ばせ、全世界を照らす太陽神としたのは江戸時代の本居宣長国学者たちの陰謀ですが、大国主の子の天照国照彦(あまてるくにてるひこ)や下光(したてる)比売の名前、大国主の子の鳥鳴耳の妻の「日名照(ひなてる)額田毘道男伊許知邇」、アマテルの孫で大国主に国譲りさせた武日照(たけひなてる:武夷鳥・天夷鳥・天日名鳥・建比良鳥)、筑紫大国主王朝5代目の甕主日子の妻の「比那良志毘賣(ひならしひめ)」の名前からみても、「天照」は「アマテル」と読むべきと考えます。―詳しくは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 

9 『海上の道』に帰るべし

 柳田國男は後に『海上の道』(1961年)において、「稲は沖縄・奄美と南方の島伝いに来た」と主張しています。

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 象徴的なのは、柳田が伊良湖岬でヤシの実を拾い、それを島崎藤村に話したところ島崎が詩に書き、有名な「椰子の実」の歌となったというエピソードです。彼が足で歩いて海洋漂流物の椰子に目を付けたことがこの「海人(あま)族」の末裔である日本人の心に響く名曲を生んだのでした。

 柳田は「方言周圏論」を捨て、椰子の実に思いを馳せて「琉球弁起源説」を主張すべきでした。

  

椰子の実

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ

 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月

旧の木は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる

 我もまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂

 海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国(くに)に帰らん

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート92 祖母・母・姉妹の母系制

 『日経サイエンス』はいつも図書館で古いナンバーを借りてざっと見ているのですが、人類進化に祖父母が果たした役割について読んだことがあり、その記憶をたよりにして何度か原稿を書いたのですが、ネットで検索したところ2011年12月号のR. カスパーリ(セントラル・ミシガン大学)氏の「祖父母がもたらした社会の進化」であることがわかりました。

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 今回、再録された別冊日経サイエンス194『化石とゲノムで探る 人類の起源と拡散』を購入して読みました。

 その説明文は次のとおりですが、私のうろ覚えの記憶は間違いではありませんでした。

 ただ、私は祖父母より、祖母・姉妹・従姉妹が「共同体・家族形成」と「農耕開始」には重要な役割を果たしたと考えており、母系制社会論の一環としてまとめました。

 

<『日経サイエンス』2011年12月号の「祖父母がもたらした社会の進化」の紹介文>

 人類文明の進歩では火の利用や文字の発明,農耕の開始などが大きなエポックとなった。実はもう1つ,現在でもあまり知られていない大きなエポックがあった。祖父母の出現だ。普通の動物は次世代を生み育てれば親世代は死ぬ。かつての人類もそうだったが,進化につれて死亡率が低下,寿命が延び,人類社会の中で祖父母集団が存在感を持つようになった。祖父母は自身の子どもが多くの子をもうけられるようにするとともに,孫の生存率を高め,複雑な社会的つながりを強める。文化的知識の伝承の担い手にもなる。欧州では約3万年前,文化様式が劇的に変化し,高度な武器や芸術が登場するが,その背景には祖父母パワーがあったようだ。

 

1.これまでの経過

 『日経サイエンス』の記事をもとに、土器鍋食による長寿化が「祖父母から孫への教育充実」をもたらし、さらに女たちのおしゃべりが乳幼児の脳の発達を急速に促したことを明らかにするとともに、共同体・家族形成を女性が主導したと考えるようになりました。繰り返しが多くて恐縮ですが再掲します。

⑴ 縄文ノート8 『石器―土器―鉄器』時代区分を世界へ

 「私は、栗やドングリ、豆、イモなどの種実類やイネ科やマメ科の穀類(米・麦・アワ・ヒエ・キビ・トウモロコシ・大豆・小豆)などの栽培こそが、頭を使い、年間を通した安定した食料の確保により『思考・情報・文化伝達時間』の増大と長寿化による『祖父母から孫への教育充実』をもたらし、人の頭脳の巨大化を実現したと考える。」

⑵ 縄文ノート12 琉球から土器(縄文)時代を考える

 「芋・雑穀・野菜・魚介類・肉の『土器鍋煮炊き食文化』は、栄養豊富なバランス食であり、安定した通年の食料確保を可能とし、食中毒や生活習慣病のない健康な食生活が実現できました。その結果、長寿化によって祖父母から孫世代への教育・技術・文化・芸術の継承を可能にしました。

 この『祖父母→孫教育体制』は、忙しい「父母→子教育体制」よりも優位性があり、世界史でもまれな1万年の豊かで平和な『土器時代』が可能となったと考えます。あの火炎式などの芸術性の高い縄文土器は、この教育システムと豊かな生産力による分業体制がないと難しいのではないでしょうか?」

⑶ 縄文ノート13 妻問夫招婚の母系制社会1万年

 「土器鍋の発明により、早期に芋・豆・雑穀・堅果や野菜、茸、魚介や肉などの豊富で健康的な食生活を確保でき、活発な知的活動を促すとともに、多産による交流・交易・通婚圏の拡大、長寿化による祖父母から孫への教育の充実などが活発な文化交流、吸収・発展を実現し、共通の土器(縄文)社会を作ったと考えられます。」

⑷ 縄文ノート21 八ヶ岳縄文遺跡見学メモ191030・31

 「縄文人の産業・生活・文化(宗教)がどう現代とつながっているのか、という問題意識での展示が必要と感じます。例えば、『肉食が脳の巨大化をもたらした』『私有財産の集中による国家形成が文明を発展させた』『戦争が人類を発展させた』という文明観に対し、『糖質が脳の活動を促した』『文化の伝承が人類を発展させた』『長寿化による祖父母から孫への教育が人類を発展させた』『交易・交流と分業が文明を発展させた』という文明観との間で論争が行われていますが、その論争に問題提起するような役割が期待されます。」

⑸ 縄文ノート25 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」

 「肉食の弊害(アンモニア処理の肝臓・腎臓への負担、尿酸の蓄積、血液酸性化による骨からのカルシウム溶解、カルシウムのリンの置き換え、焼き焦げによるがんの発症)を考えると、魚食と穀物・豆・ナッツ・野菜を組み合わせたバランス食による健康長寿化により、祖父母から孫への教育・文化継承が可能となり、縄文土器のような高度な芸術・文化を生み出した可能性が高いと考えます。」

⑹ 縄文ノート88 子ザルからのヒト進化説

 「私の両祖父母の家、私の家、小学校時代をみても、家族同士・友達同士で話すことについては女性が中心であったとしか思い出せません。『おしゃべり男』と言えるような同級生・友人・知人は少数ですが、父から『口から先に生まれた』と言われ続けた叔母など、思い当たる女性はたくさんいます。

 男女の会話量と内容についての統計は見たことがありませんが、経験的にいえば『言語能力は女性と子どもが発達させた』という進化法則は間違いないように思います。」

 「レッドテイルモンキーとブルーモンキーの助けあいは後の人類の氏族・部族社会の共同体成立や、コロブスのメスザル同士の助け合いは人類の母系制社会の共同体成立の手掛かりになるものと考えます。なおコロブスのメスたちが血縁でないのか、それとも祖母や姉妹などの血縁関係があるのかどうかはわかりませんでした。」

⑺ 縄文ノート89 1段階進化説から3段階進化説へ

メス集団で子育てを支援することにより、多くの刺激を受けた乳幼児・子ザルは急速に知能を発展させた。」

 「このような環境のもとで、共同体・家族社会の成立はボノボのようにメスたちの子育ての助け合いと子ザルたちの遊びから生まれ、発情期だけでなくセックスをすることにより、メスザルはオスザルに子育て中の食料確保に協力させるとともに、用心棒としたと考えられます。」

 

2.私の経験から

 サル・類人猿と世界の採集・漁撈・狩猟民の生活から人類誕生の頃を推定する方法が一般的ですが、外敵の侵略を受けることのなかった島国のわが国では、世界でも珍しく古くからの言語・民俗・文化・宗教がそのまま残されるとともに、紀元8世紀の古事記日本書紀風土記万葉集などには紀元1世紀頃からの歴史が神話として伝承されています。

 「チンパンジーボノボ・ゴリラに学ぶ」というアプローチと同時に、日本に普通に残っている言語・民俗・文化・宗教からのアプローチを突き合わせて検討すべきなのです。

 例えば、現代でも出産時には里帰りしたり母親が応援にくることは多く、私の2人の娘や3人の孫娘は赤ちゃんをすぐに抱きたがります。幼い孫娘が赤ちゃんを抱き抱えるので、ヒヤヒヤしたことがよくありましたが、私や息子、孫息子は小さいときに赤ちゃんを積極的に抱いたことはないと思います。

 この例をみても、出産や子育てにおいて、祖母や姉妹、従姉妹が助け合い、さらに他の女性も助け合うということが、共同体や家族形成の原点であったのではないか、ということはサルやボノボから連続しているのです。

 さらに、私の生き方で言えば、「殺生するな」「世のため人のため」など一番大きな影響を与えたのは母方の祖母(祖父は早世)でした。小学生になる前から、一人で岡山市(JR吉備線大安寺駅)からたつの市(JR竜野駅)まで祖母の家によく遊びに行っていましたから(運賃は無料で、小学生になって残念と思っていました)、忙しい父母よりもいろんな話をよく聞いていたように思います。

 熱心な浄土真宗の信者であり、お盆に墓参りに連れて行かれ、帰りに村の加茂神社に詣り、さらに山道を歩いて祖母の先祖が立てた別の集落の賀茂神社に連れて行かれ、疲れて手を引かれた帰り道に「いったいご先祖はどこにいるんや」と怒って聞いて祖母がうろたえたことや、生類の生まれ変わり(悪いことをしたら虫に生まれ変わるなど)、極楽や地獄などの話や明治の鉄道開通の話など記憶に残っており、とくに古代からの日本人の宗教について関心があるのは祖母の影響です。

 父方でも祖父は無口で威厳を保っていて苦手で、祖母が話し相手でしたが、特に頭脳が急速に発達する1~3歳には相手をしてくれる母親や祖母、叔母の影響は大きいと考えます。

 私は今さら大家族制がいいとか3世代同居がいいなどとは考えませんが、「三つ子の魂」の形成期には多くの人たちとの豊かな会話と体験が必要であり、それこそが人類誕生の大きな要因であったと考えています。

 

3.「祖父母がもたらした社会の進化」(日経サイエンス2011年12月号)

 セントラル・ミシガン大学の人類学者レイチェル・カスパーリさんの「祖父母がもたらした社会の進化」でも、彼女は6歳の時に母方の祖母と祖父母から先祖の体験を聞いた話から始め、「世界中、どこでも、年配者は人間社会において重要な役目を果たしている。彼らは自身の子どもの家族や親類に知恵を伝え、社会的・経済的に支える」として、それが人類の誕生の時期と一致するとしています。

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 ネアンデルタール人などは15歳ころに成人となり、祖父母となる年齢の30歳より前にほとんどが死んでいるのに対し、後期旧石器時代の3~2万年前頃にヨーロッパにいた現生人類は若年成人10人に対し、20人の祖父母層がいたのです。

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 そして、温暖な西アジアネアンデルタール人の寿命は寒冷なヨーロッパのネアンデルタール人と現生人類の中間に位置するとしています。温暖で食料が豊富な地域の方が長生きだったのは当然といえます。

 「シンボル使用爆発的増加や道具製作での珍しい材料の利用など、後期旧石器時代の顕著な特徴は、集団の人口が膨れ上がった結果のように思える。人口増はこのほか、進化を加速させるという別の側面からも私たちの祖先に影響を与えただろう」というように、教育的・文化的な影響とともに人口増が遺伝子変異を増やし、有用な変異を残したのです。

 大学生時代から、物知りの年長の同級生や仲間に対して「長老」と呼んでいましたが、文字情報やデジタル情報の乏しい時代には、年長者の知識が貴重だったのあり、それは人類誕生の頃にはさらに大きかったことは間違いありません。叔父・叔母たちは祖父・祖母の知識を頼りにしていました。

 なお、レイチェル・カスパーリ氏は「祖父母」とひとくくりにしていますが、彼女自身が「祖母・曾祖母」から話を聞いたように、私は人類誕生の知能の発達や共同体・家族形成には祖母や姉妹・従姉妹の役割が大きかったと考えています。

 狩猟や漁撈・航海、戦いで死んだり傷ついたりするリスクのある男性と較べて、安全で安定した芋豆栗穀類や貝・カニ,爬虫類・昆虫などの採集生活の女性の方が長寿であった可能性が高く、図の若年層と祖父母層の比率については、男女別の分析が必要と考えます。

 そして日本の場合、青森県の大平山元I遺跡から出土した煮炊き痕のある16,500年前の土器からみて、長寿化には健康で豊かな土器鍋食文化の誕生が大きな役割を果たしたと考えられ、ヨーロッパ中心史観の見直しが必要と考えます。

 

4.男は家を出て一人前になった

 記紀によれば、海人族のイヤナギ(伊邪那岐・伊耶那岐:通説はイザナギ)やスサノオ大国主が各地で夜這い=妻問してもうけた御子たちは母方で育てられ、成人すると父のもとで交易に従事したとされ、そのような妻問婚の形態は天皇家にも引き継がれています。

 「縄文ノート91 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の『縄文1万年』」では卑南族は「祖霊部屋(巫師部屋)、少年会所、青年(男子)会所」がもうけられ「頭目制度と男子会所による年齢階級組織が混在した母系社会」とされていますが、わが国も明治までは集落で「青年宿、若衆宿、若者宿など」が設けられ、年長者がリーダーとなり、後輩たちに指導を行い、村内の警備や作業、祭礼を担い、飲酒・喫煙や恋愛、結婚などの生活指導を行い、リーダーが夜這い指示することもあったとされています(以上:ウィキペディア)。

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 このような風習は、女が家を出るという家族形態の前に、男が家を出るという家族形態があり、それが残っているとしか思えません。

 私の子どもの頃でも岡山市の外れの農村地域や母の実家でも「青年団」組織がまだ活発に活動しており、母方の叔父が相方の肩に乗って立ち上がり獅子舞を踊るのをかっこいいと見ていたことを思い出します。

 稲作開始により農業が男中心となり、農地継承と年貢確保から男系社会に移行する一方で、「男は漁や交易、女は家を守る」という海人族の母系制の伝統もまた根強く残ったと私は考えています。婚礼などでの多くの客の御膳料理を作る時、一族や近所の女性たち十数人にテキパキと指示し、全ての料理の味見を頼まれていた祖母の頼もしい姿は母系制社会を彷彿とさせます。

 

5.採集・漁撈の女性・子どもによる共同体・家族形成と農耕開始

 「縄文ノート84 戦争文明か和平文明か」において、『アフリカを歩く』(実に面白い素晴らしい本です)で古市剛史氏が「男の仕事は『本当の食べもの』を取ってくることだなんていって、ときどきは槍やら網やらをもって森に狩りにでかけていくけど、獲物をもって帰ってくることなどほとんどない。夫が最後に小さなダイカーをおおいばりでもって帰ってきたのは、もう二カ月も前のことだ」という元気な女性の話を紹介しましたが、毎日の食料確保は女性が担っていたのです。

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 後輩に薦められた長谷川真理子氏(執筆時:専修大助教授)の『オスとメス=性の不思議』では、「狩猟という仕事はきわめて予測性が低いので、男性が食物を持って帰ってくるかどうかは、あてになりません。ティウィの人々の生活は、基本的に、女性たちが毎日確実に集めてくる植物食でまかなわれます。そんな生活ですから、当然、母親を中心とする家の女性ネットワーク、かなり重要な存在となります。・・・女性にとって一番重要なのは夫の助力ではなくて、自分の出自の家族の女性たちの助力になります」と採集社会における女性の共同性を強調していますが、危険な海に出る海人族や戦を仕事とする武士もまた同じような伝統を受け継いできたと考えます。

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 なお、長谷川真理子氏の論で欠けているのは、「漁撈」と「爬虫類・昆虫食」、「子どもの役割」がないことです。

 『アフリカを歩く』の中で武田淳氏(執筆時:佐賀大教授)は「森の生活をもっとも安定させてきたのは、コンゴ盆地のなかを毛細血管状に発達した大小の河川で捕れる魚類なのである。とくに女性と子どもたちが日常的に従事するプハンセ(注:搔い出し漁)を通して供給される動物性たんぱく源の安定した補給が大きく寄与している言える。もっともシンプルであるが、捕獲がゼロということはありえない、もっとも確実な漁法であるからである。・・・(3~4月)種類数も29種ともっとも多くなる。水生のヘビ類やワニの捕獲がこの時期に多いのも、その活動が活発になることを裏付けるものである。一方、女性や子どもたちが食用幼虫類の採集に集中する8~9月は、魚の摂取頻度が12種ともっとも少なく、3~4月の半分以下になる」と紹介していますが、女性たちは子どもとともに、植物食だけでなく、魚介類・爬虫類・昆虫を安定的に実現していたのです。

 「縄文88 子ザルからのヒト進化」で書きましたが、子どもたちが魚とりや貝掘り、昆虫採集が大好きなのは、類人猿の頃からの本能といえます。また「瀬戸内海のいろんな島でも仕事をしましたが、夕方には主婦や子どもがバケツと釣り棹を持って堤防に行き、夜のおかずを釣っていたのを見ることができました」などと紹介しましたが、プロの知恵が必要な狩猟や船を使っての漁と較べると、海岸での漁撈は安全で、安定した食料確保ができるのです。

 さらに、田舎では生ごみを捨てたところにカボチャやウリ、スイカなどが生えるのをよく見かけましたが、私のマンションでも次男がプランターに植えたブドウが育ち、戸建てに転居してからは1・2階のパーゴラはブドウ棚のグリーンカーテンになり、多くの収穫もありますが、このような例をみても、女性・子どもの採集活動が農耕に繋がったことは確実と考えます。「縄文ノート90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制」でみたように、女性が「地母神」「大地神」「豊穣神」「穀物神」とされているのは、農耕開始が女性であったことを示しています。

 畜産・放牧・軍事民族の西欧中心史観の翻訳・輸入業者ではない、日本・アフリカ・アジアの歴史・民俗・文化・宗教からの人類誕生史の解明が求められます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

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  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート91 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の「縄文1万年」

 人類の誕生から始まる「母系社会からの人類進化」のまとめに入りましたが、欠かせない未検討の小テーマがいくつかあり、妻問夫招婚や祖先霊祭祀、壻屋制と母系制・父系制との関係について2018年に書いた、「妻問夫招・夜這いの『縄文1万年』」(181201・30→190308、縄文ノート13)を一部加筆して再掲したいと思います。

 「多DNA民族でありながら、多部族社会とならずになぜ縄文社会は均一なのか?」「台湾の卑南(ひな)族と縄文の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰や東南アジアのピー信仰、日本の女性器ピー・ヒナ信仰の関係は?」「卑南族の婿屋制度と日本の夜這い・妻問夫招婚の関係は?」など、縄文社会の解明にヒントを与えてくれます。

 卑南族に興味を持ったのは、私の苗字が「雛元」で、江戸時代中期からの墓は「日向」、提灯には「日南」と書き、「ひな」と称しており、明治になって本家であったため「日本(ひなもと)」と届けたところ勝手に「雛元」に変えられたということがあり、仕事先の青森県東北町で「日本中央」の石碑に出合い、西にそびえる八甲田山に「雛岳」があったことから「ひな=日=日向」の研究に入ったという経過があったからです。

 そこから、大国主を国譲りさせた高天原の「建比良鳥(たけひらとり)」が日本書紀では「武日照(たけひなてる)武夷鳥命天夷鳥命」と表記されていることから「日向=日=夷=比良」であり、イヤナミが葬られた場所の「黄泉比良坂」は「黄泉日向坂」で、武日照が住んでいた高天原は地名「筑紫日向(ひな)」から「旧甘木市蜷城(ひなしろ)の高台説」にたどり着きました。さらに記紀に書かれた始祖神の「むすひ=産霊=産日」の夫婦神、沖縄・天草で女性器を「ピー・ヒー」「ヒナ」と呼び、出雲で女性が妊娠すると「ひがとどまらしゃった」(出雲の級友・真庭氏からの教示)ということ、スサノオ・アマテルの「うけひ=受気比=受け霊」、神名火山(かんなびやま=神那霊山)、神籬(ひもろぎ=霊洩木)などから、「日=霊(ひ)」であり、「ひと・ひこ・ひめ・ひみこ」は「霊人・霊子・霊女・霊巫女(霊御子)」、皇位継承の「日継」や「棺・柩」は「霊継」であり、この国は霊(ひ:祖先霊)信仰であった、との結論に達したのです。

 以上のような経過があったことから、台湾の卑南(ひな)族に関心を持ったのですが、卑南族には卑弥呼(霊巫女)と同じような巫女制度があり、さらにスサノオ大国主一族の「夜這い」の「妻問夫招婚」を想定させる「婿屋制度」があり、祭祀=女性、政治=男性の役割分担があったのです。

 「母系・父系制」「母権・父権制」検討の参考になると思いますのでここに紹介します。

 

1.「縄文社会」の均一性

 土器文化(縄文様式など)と煮炊き食、竪穴式住居、言語、宗教(土偶・石棒・ストーンサークル)などからみて、縄文社会はかなり均質であったと考えられます。

 私は2000年に「ひな」の研究を始めた時から、台湾の卑南族(現地ではピュマ、漢語読みではヒナ・ピナ)族に関心を持ってきましたが、台湾の山岳部や東部に住む原住民は12以上の「族群」に分かれ、文化・言語を別にし、勇敢で戦闘的であり、それぞれ独立性を保っていたのに対し、わが国の縄文社会は均一性という点で大きな違いがあることをどう理解すればいいか考えてきました。

 縄文社会は多様なDNAの部族から構成されながらも、活発に交流(妻問・夫招婚を含む)・交易・外交(言向和平)する社会であったことが、均一社会を生み出したと考えています。

 

2.卑南族の文化

 最近ではネットで卑南族について判るようになってきましたので、横道に逸れますが、卑南族についてメモしておきます。

 卑南族の言語は「主語―動詞―目的語」構造でわが国とは異なりますが、「原住民の祭礼・祭祀に欠かせない祖霊部屋は巫女信仰のアニミズム」「豊年祭 - 粟の収穫を祈願する祭祀; 収穫祭 - 粟の収穫を感謝する祭祀; 大狩猟祭」「祖霊部屋(巫師部屋)、少年会所、青年(男子)会所」「頭目制度と男子会所による年齢階級組織が混在した母系社会」などは、縄文社会分析のヒントになると考えます。ーhttp://okinawa.ave2.jp/okinawa/masat/1211Taiwan/007Chihpen/007Chihpen.html、沖縄写真通信)参照

 いずれ、関係者にヒアリングしてみたいと考えています。

 

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3.「縄文人」の定住性と移動性

 全国各地の市町村総合計画(5年の基本計画、10年の基本構想)に携わってきましたが、その時、まちづくり・村おこしの地域資源として歴史文化の調査は欠かせませんでした。そこで疑問に思ったのは黒曜石などの鏃が畑からいたるところで数多く出てくることと、居住跡が実に多いことでどれだけの戸数・人口であったのか、驚かされることです。

 単に野原や山で猪や鹿を追ったのなら、鏃分布はもっと拡散して目立たないはずです。今の畑から数多く発見されるということは、当時すでに何らかの栽培が行われており、猪や鹿、鳥などの獣害・鳥害を防ぐために、その近辺で集中的に矢を射たからではないか、と考えます。

 そのことに気付いたきっかけは、対馬や父の故郷の岡山県井原市で鳥害を避けるために畑を金網で全面的に四角く覆っているのを見たことによります。

 

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 思い出されるのは、今から70年近く前、山村の父の実家で囲炉裏を囲んで獣害が話題となった時、祖父が「そろそろ猟師に使いを出せや」と叔父に害獣駆逐を指示していたことです。猟師(山人;やまと)がいないと栽培農業は成立しなかったのです。

 また信州の八ヶ岳黒姫山山麓や上州の榛名・赤城山麓や片品川山間部、岩手県の沿岸部、中国・四国地方などで見た居住跡の多さは、「妻問・夫招婚社会」では男子は家を出、家を継承する長女以外の女子もまた家を出て男を迎えるため、住居跡が増えた可能性を示しています。

 狩りの危険が少なく、豊かな安定した煮炊き食により長寿化が進み、自由時間が増えると多産となり、家を出る男子数は増え、同時に、長女以外の女子は家を建ててもらい、男を迎える社会となり、住居址が分散して数多く増えた可能性です。

 片倉佳史著の『観光コースではない台湾』では、台湾には成人になると女子は家を建ててもらい、男を迎えるという「族群」があると書かれています。また、魏書東夷伝高句麗条でも「その風俗では、婚姻する時、話が決まると、女の家では母屋の後ろに小屋を作る。これを壻屋と言っている。婿は日が暮れると娘の家へ行き、戸外で名を名乗り、跪いて拝み、娘と一緒に泊まらせてくれるように頼む。これを再三くりかえす。娘の父母はこれを聞き入れて、小屋の中に泊まらせる。かたわらに銭と布地を積む。生まれた子が成長してから、妻を連れて家に帰る。」と書かれているのも「妻問・夫招婚」と考えられます。

 同様の習慣から「妻問・夫招婚」の縄文社会が婿屋を含む多数の分散型居住となった可能性が考えられます。

 

 「『ケタガラン』とは、かつて台北盆地に住んでいた人々のことで、平埔(へいほ)族の1部族である。」「彼らはマレー・ポリネシア系の南方アジア人種で、血統的には他の先住民族と同系であった」

「ケタガラン族が母系制社会だったことである。特に結婚の風習が独特だった。彼らは娘が年頃を迎えると小屋を与える習慣があったという。そして、祭事の時など、女は気に入った相手にめぐり逢うと、男の手を引いて自分の小屋へ迎え入れたのだという。これが求婚となる。」(片倉佳史著『観光コースではない台湾』)

 

4.1960年代にも残っていた「夜這い」習慣と「婿屋制度」

 1963年におきた狭山事件でびっくりしたのは、首都圏近郊の埼玉県狭山市で夜這い習慣が残っていたことが中学校教師の話として週刊誌に書かれ、証言にも見られたことです。また、1961年の大量殺人事件「名張毒ぶどう酒事件」においても事件のあった地区では当時「夜這い」の風習があり、25戸の農家のうち7組までが何らかの三角関係にあり、犯人とされ無罪を訴えている奥西勝さんには夜這いをする愛人が複数人おり、死亡した妻や愛人にも夜這いをしてくる別の男性がいたとの報道もありました。私の父の実家でも毎夜、夜這いをしていた男性が殺されたという話を聞いています。

 古事記には大国主が沼川比売(ぬなかわひめ)に妻問いした時の歌が書かれていますが、大国主が「用婆比(よばい)」に来たと2度も歌われており、大国主の頃から、妻問い=夜這いの習慣が高度成長期まで続いていたことが明らかです。

 大国主が夜這いした時、沼川比売は実家で両親と暮らしていたのではなく、台湾の原住民の「婿屋制度」のように、夫を迎える小屋があった可能性もあります。縄文の竪穴式住居跡の数が多いという点について、「住み替えをよく行った」「死者がでるとその家は潰した」などが考えられますが、「婿屋制度」の可能性がないか、と考えます。

 

5.「妻問・夫招婚」が縄文均一社会を生み出した

 台湾に福建省南部から台湾海峡を流れる黒潮を越えてやってきた人々の多くは男性単身で、西部・北部の平野部の「平埔(へいほ)族」と混血し、文化的に融合して「ホーロー人」と呼ばれ、「ホーロー語」が台湾では多数派を占めているとされています。「ホーロー」は「河洛」と書かれていますが、「放浪」ではないかと思います。

 家族・部族単位の移住ではなく、男子がグループで少しずつ日本列島に移住し、妻問・夫招婚を繰り返すと、「ホーロー人」と同じように言語・文化を共通にするようになり、さらに活発に交流・交易を重ねると、「縄文人」という言語・文化を同じくする社会が成立した可能性は高いと考えられます。

 カヌーやヨットでの日本一周の航海記を読むと、琉球から日本海にかけては北上する対馬暖流(琉球暖流と呼ぶべきと考えます)があり、夏には風がなくてカヌーは快適で沿岸部の西流する反流を利用でき、ヨットは機走を余儀なくされています。夏の日本海は風もなく実に穏やかで、私がかつて仕事をしたことのある山口県長門市の仙崎、福井の三国湊など、、北海道・大坂を往来した北前船は風待ちを余儀なくされています。

 さらに、春から夏にかけては「南風(しろばえ)」が吹いて琉球から九州への渡海を容易にし、秋から冬の大陸からの北西風は九州から琉球朝鮮半島から日本列島への渡海を容易にします。

 この恵まれた海流・気象条件のもとで、交流(移住・婚姻を含む)・交易の活発な「多DNA・文化共同体」の1万年の縄文社会、土鍋食文化の文明社会が成立したと考えます。

 

6.「生活手段母系、生産手段父系」説などの検証

 『季刊日本主義』44号の「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(原題「未来を照らす海人(あま)族の『海洋交易民文明』―『農耕民史観』『遊牧民史観』から、『海洋交易民史観』へ」)において、私は「生活手段母系、生産手段父系」の母父系社会説を提案しましたが、台湾の「族群」には母系制と父系性がそれぞれ残っているというので、両者の歴史の違いを調べるとその違いの経済的・社会的・歴史的背景が解明できると考えます。

 「母系制・父系制か母権制父権制か」「母系制か父系制か」「母権制父権制か」という二者択一の議論を農耕畜産民・遊牧民の視点からだけ見るの西欧中心史観ではなく、採集漁撈狩猟民や海洋交易民の社会的分業に基づく分析や多様な生産・生活関係の歴史的変遷にもとづく分析が必要と考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制

 「縄文ノート86 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰」を書いた時、ギリシア文明に先立つエジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制についてもメモを作成していたのですが、「縄文ノート90 母系(母権)制社会からの人類進化」を書き始めて、先にまとめて書いておく必要がでてきました。

 なお、これまで私は共同体・家族形成の主導や、氏族・部族社会での妻問夫招婚や祖先霊信仰、氏族・部族・民族国家形成などについて、「母系制社会」に「母権制社会」を含めて書いて来ましたが、両者をきちんと整理する必要を感じています。現時点では未検討のまま「母系制社会」と書き、次回に時間をかけて検討したいと考えます。

 

1 母系制社会についての検討方法

 古代文明が母系制か父系制かについての検討は、次のような4つの方法が考えられます。なお、日本神話や縄文社会の分析を除き、世界各国の神話などの分析はウィキペディアなどの2次資料をもとにしたものです。

⑴ サル・類人猿の共同体・家族形成からの推定方法

 人類誕生時の社会をサル・類人猿の共同体・家族形成の主導権から推定する方法で、縄文ノートの「81 おっぱいからの森林農耕論」「84 戦争文明か和平文明か」「85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか」「87 人類進化図の5つの間違い」「89 1段階進化説から3段階進化説へ」などで考察しています。

 

⑵ 遺跡・遺物からの推定方法

 男女の埋葬方法、環状列石、石棒・円形石組、女性像(石像・土偶)・女神像、アクセサリーの埋葬品などから推定する方法で、縄文ノートの「21 八ヶ岳縄文遺跡見学メモ」「23 2020八ヶ岳合宿報告」「32 縄文の『女神信仰』考」「75 世界のビーナス像と女神像」などで考察しています。

 

⑶ 古代神話など文献からの推定方法

 創世神話や始祖神神話から推定する方法で、縄文ノートの「71 古代奴隷制社会論」「72 共同体文明論」「86 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰」などで考察しています。

 わが国の場合、世界史の中でも特異な例として、3世紀に卑弥呼(霊巫女)を女王とする邪馬壹国があったことが魏書東夷伝倭人条に記され、さらに記紀には九州や紀伊など各地に女王国があり天皇家によって滅ぼされたとされており、女系(女権)制が最後まで続いた国であり、女系神話と男系神話が入り混じった日本神話の分析は世界の神話解釈の手掛かりを与えます。

 なお、日本神話ではスサノオ大国主建国を表面から隠した天皇家の記録から真実の歴史を解明する作業は大変ですが、当時の人々の宗教・社会思想を読み解くことは比較的容易です。75年前まで他民族の支配を受けなかった島国の日本神話とは異なり、交易・交流・征服などにより複雑に各氏族・部族・民族の神話が習合した4大文明の神話から、当時の人々の宗教・社会思想を読み解く作業は大変ですが、日本神話から類推することができます。

 また、古事記スサノオとアマテルの「宇気比(筆者:受け霊)」を「誓い」とするなど、訳本や解説本などには歪曲や錯誤があり、本来は原本にあたる必要があるのですが、ここでの分析は3次資料以下のものであり、本格的には言語研究者の分析に期待したいと思います。

 

⑷ 現代の民俗・文化からの推定方法

 日本各地の祖先霊が宿る神山(神名火山:神那霊山)信仰や、山の神(女神)に男が男根型の木棒・食べものを捧げる金精信仰、平安時代からの男の礼装の烏帽子(えぼし)の先に雛尖(ひなさき:陰核=クリトリス)を付けていること、夫が危険な漁や航海に出る漁民の家では妻が家を任されているなど、現代の民俗・文化から古代に遡って推定する方法で、縄文ノートの「34 霊(ひ)継ぎ信仰(金精・山神・地母神・神使文化)について」「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「縄文40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」「73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」「80 『ワッショイ』と山車と女神信仰と『雨・雨乞いの神』」などで考察しています。

 

2 メソポタミア文明の母系制

 古代メソポタミア社会の解明には、5000年頃には成立していた世界最古の神話の” 楔形文字”によるメソポタミア神話(シュメール神話・アッカド神話・バビロニア神話)が重要な手掛かりとなります。

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 特に、女神イシュタル信仰は表1に示すように、中東から地中海の諸国の女神信仰へと広がり、「イシュタル信仰は後代まで続き、ギリシアアフロディーテ、ローマのウェヌスに姿を変えて崇拝され続けたが、そのあまりに強大な信仰は一神教ユダヤ教キリスト教から敵視され、果てには『バビロンの大淫婦』と罵られることとなった」と女性蔑視の蔑称の烙印が押されていますが、それだけにかえって根強い女神信仰があったことを示しています。

 メソポタミア神話の最古のシュメール神話は、「海の女神」ナンム(Nammu)が天地を生み、全ての神々を生んだ母なる祖先と称され、蛇の頭を持つ蛇女神として表現され、天と地が結合している「天地の山」アン(アヌ)と「大地・死後の世界を司る女神」を生んだとされます。アヌもしくは月神シンと「ヨシの女神」ニンガルの娘のイシュタルは「金星・愛欲・戦争」の女神で、キシュ、アッカド、バビロン、ニネヴェ、アルベラなど多くの崇拝地を持ち、双子の兄に「太陽神」ウトゥ(シャマシュ、姉に冥界を支配する「死の女神」エレシュキガルがいます。

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 「シュメール人は世界を閉じたドーム状で、その外には原初の海が広がっていると考えていた。ドームの基礎をなす地表の下には地下世界とアプスーと呼ばれる淡水の海が広がっていると考えていた。ドーム状の空を司る神はアン、地上の神はと呼ばれた。原初の海はナンムと呼ばれた」とされ、このナンム信仰は数千年に渡って続けられ、ハンムラビ法典より古い世界最古の法典ウル・ナンム法典を定めた4100年前頃のウル第3王朝の初代王ウル・ナンムは彼女から名前を取って、自らを「女神ナンムの召使」と称したとされます。

 重要な点は、始祖神ナンムが「海の女神」で「蛇女神」という点であり、狩猟民や農耕民の神ではなく、海から産まれ海に帰る海人族の神話であるという点です。この神話はシュメール人が「原初の海」インド洋からアラビア海ペルシャ湾、チグリスユーフラテス川へと遡ってやってきたことを示しており、ナンムの孫娘のイナンナ(イシュタル)が背中に翼の生えた天の女主で龍のように速く飛び、南風に乗りアプスー(地底の淡水の海)から聖なる力をえた」というのは、夏のモンスーンの南風に乗ってアフリカから翼のような帆の竹筏でやってきた歴史を伝えていると考えます。

 アンとキが兄妹神でありながら夫婦になる兄妹婚神話はギリシア神話のゼウスとヘーラーの兄妹婚にも見られ、私は母系神に妻問夫招婚した男神を血族として書き換えたことによるものと考えています。―「縄文ノート86 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰」参照

 また「大地の女神」キシャル、「大地の女神」、エンリルの妻の「穀物神」ニンリル・アシュナン、「豊穣神」ニントゥなどの「地母神穀物神・豊穣神神話」は、農耕の開始が穀類を採集していた女性によって開始された可能性が高いことを示しています。―縄文ノート「81 おっぱいからの森林農耕論」「85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか」「89 1段階進化説から3段階進化説へ」参照

 日本神話ではイヤナミ(伊邪那美、伊耶那美)は死後に「黄泉国(よみのくに:筆者説は夜海国。子宮の羊水から黄色い泉の漢字が当てられた)」に行ったとされていますが、メソポタミア神話の「海の女神」ナンムの海人族神話と符合します。―「縄文ノート31 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」参照  

 信州の縄文時代の「巳を載く神子」「蛇体把手土器」や新潟の火焔型土器(筆者説は龍蛇土器)、出雲大社神使の海蛇、大神神社神使の蛇、イヤナミの子のスサノオ大物主大神)やその子の大物主(大年から代々襲名)は夜這いして鍵穴から三諸山(三輪山)に帰った蛇とする神話など、「蛇神」信仰という点においてもメソポタミア神話と符合しています。―縄文ノート「23 2020八ヶ岳合宿報告」「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照

 さらに天地と全ての神々を生んだ母なるナンムの子のアン(アヌ)が天と地が結合している「天地の山」とされていることは、「クル(山)信仰」が起源の神が訪れる人工の山「ジグラット」はアン(アヌ)を形にしたものと考えられます。アン(アヌ)の子のシン(ナンナ・ナンナル)が「月神、大地・大気神、暦神」として、ジグラットの上の神殿に祀られていることをみても、「ジグラット=アン(アヌ)説」を裏付けます。

―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57 4大文明論と神山信仰」「61 世界の神山信仰」参照

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 4万年前頃にアフリカのY染色体E型のコンゴロイドと分岐したY染色体E型の縄文人は、インド洋沿岸を東進したことが確実であり、メソポタミア神話と日本神話がそれぞれ別に派生したのか、それとも共通のルーツを持つのか、神山信仰や黒曜石文化などと合わせてさらに検討が求められます。―縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「縄文44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

 

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 この豊かなメソポタミア文明の地・イラクは、イスラム帝国アレクサンドロス大王ギリシアモンゴル帝国オスマン帝国、イギリス帝国などに次々と支配され、イラク戦争ではアメリカの空爆にさらされ、イスラム原理主義者のイスラム国(IS)による大規模な遺跡・遺物破壊が行われるなど、神話時代の民俗・文化、とりわけイスラム教により女神信仰は失われ、痕跡を残していないと思われます。一方、アジア東端の島国の日本列島では現代に入ってアメリカの占領・支配を受けるまでは他民族の支配を受けることがなく、神話時代の民俗・文化を色濃く現代に残していますから、日本神話・民俗・文化を手掛かりにすればメソポタミア神話の解明が可能となると考えます。若い人たちが取り組んで欲しいものです。

 

2 エジプト文明の母系制

 私が最初にエジプトに関心を持ったのは、京都で大学に入った1964年の「ミロのヴィーナス展」に続き、翌1965年に100万人を超える入場者があったツタンカーメン展を見た時です。多くの方も、日本人にとって重要なメソポタミア神話より、エジプト神話やギリシア神話の方が馴染みが深いのではないでしょうか。

 エジプト神話は「水の神」ヌンの誕生から始まり、「ヘリオポリス九柱神」の創造神アトゥム、大気の神シュウ、湿気の女神テフヌト、大地の神ゲブ、天空の女神ヌト、植物の神(冥界の神)オシリス豊穣の女神イシス、戦争の神セト、葬祭の女神ネフティスがあり、太陽神ラー、天空の神ホルス、知恵の神トトらが入れ替わる伝承もあるとされますが、私が知っていたのはラーだけでしたから、その知識は限られています。

 創世神ヌン(Nun)は「原初の水」と呼ばれてあらゆる存在の起源とされ、その子の創造神アトゥム(Atum)の立つ大地「原初の丘」も指すとされています。アトゥムは原初の水「ヌン」より「蛇」の姿をして誕生し、独力で大気の神シューや湿気の女神テフヌトなどの神々を生み出した両性具有の神とされています。

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 発音から見て前述のシュメール神話の天地を生み、全ての神々を生んだ母なる祖先で、蛇の頭を持つ「原初の海の女神」ナンムと同一神のように思えますが、ナンムが「原初の海」に対しヌンは「原初の水」、ナンムが女神であるのにヌンは男神、ナンムが蛇神であるのに対してヌンの子のアトゥムが蛇神という違いがあります。

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 なお、日本神話では「荒唐無稽な神話部分は真実を巧妙に後世に伝える暗号」であることからみて、「ヌンは子のアトゥムの立つ大地・原初の丘」「アトゥムはマスタベーションで大気の神シューや湿気の女神テフヌトなどの神々を生み出した」という部分は、ヌンが地母神であり、創造神アトゥムもまたシュメール神話の「大地の女神」キに相当する地母神で、後世に男神に置き換えられた可能性が高いと考えます。

 

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 エジプト神話の女神としては、湿気の女神テフヌト、身体で天を覆う天の女神ヌト、その子の豊穣の女神イシスと葬祭の女神ネフティス、太陽神ラーの娘の愛と美の女神ハトホルなどがありますが、イシスが兄のオシリスと結婚して天空の神ホルスを産み、息子ホルスを夫としたという神話や、ハトホルが父のラーを夫とし、大地の神ゲプが妹の天の女神ヌトを妻としたという神話は、ギリシア神話の兄妹婚・親子婚神話と同様に、母系制神話の神々に父系制神話の神々が血族として習合されたことを示しています。

 古代エジプトの王・ファラオは全て「生きるホルス」と考えられており、その母の豊穣の女神イシスは王座の形をした頭飾りや日輪と雌牛の角を頭に乗せた姿であり、ナイル上流ヌビアのアスワンのフィラエ島にイシス神殿(世界遺産ヌビア遺跡群)が造られるなど、古代エジプトで最も崇拝された女神とされています。

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 アフリカ高地湖水地方では女性がイモや穀類を採集し、男性は漁撈・狩猟に従事し、ナイル川を下った上流のアスワンの地で女性が中心となってイモや穀類の農耕を開始し、豊穣の女神イシスを祀ったと考えられ、さらにナイル川下流では舟に乗った男神が交易や戦争によって富を蓄え、祭祀・軍事・行政支配権を握るようになると男神信仰、さらに後世には太陽神信仰に変わったと考えられます。

 

4 インダス文明の母系制

 ナショナルジオグラフィック・ニュース2013.04.30は「インダス文明で新発見、女性優位と暴力」という興味深い記事を紹介しています。

 「アメリカ、ウィスコンシン大学マディソン校のマーク・ケノイヤー(Mark Kenoyer)氏を中心とする研究グループは、インダス文明の中心都市の1つ、ハラッパーを調査対象に定めた。当時、約8万人の人口を抱えるインダス文明最大かつ最強の都市で、紀元前2550年から2030年頃の墓地遺跡から人骨を発掘、歯の化学組成を分析した。埋葬者の多くが他の土地で育った人々で、各地から来た複数の民族が混在する都市の様子が明らかになった」「インダス地方は広範囲におよび、各地から商売などを目的に多数の人々が訪れた可能性は高い。外来者の多くは男性で、中には伴侶を求める人もいたらしく、ハラッパーの先住民女性の隣に埋葬されている例も多いという。調査は予備段階にすぎないが、妻の家への婿入りを示唆するには十分な結果である。南アジアでは古来から妻が夫の家に嫁ぐ風習が一般的だが、女系優位の社会制度が存在した可能性があるとケノイヤー氏は話す」というのです。

 

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 さらに『世界の歴史1』(教養文庫821:社会思想社)では、「女は腰巻ようのものを身につけ、上に帯をし、頭には扇形の布製の飾りをつけていた。彼女たちはなかなかおしゃれで、いろいろな化粧をしていた。炭酸鉛のおしろい、墨、青銅製の柄つき鏡、象牙製の櫛(くし)、ピンなどが出土しているので明らかである。水晶、めのう、トルコ石、アマゾン石などの宝石や、金、銀、銅、青銅、ガラスなどを使って、首飾り、胸飾り、腕輪、足輪、耳飾り、鼻環(はなわ)などのアクセサリー類をたくさんつくって使用していたことは、出土品から知られる。それらの宝石類はたいせつにされ、金属製の宝石箱にいれ、床の敷き煉瓦の下などにかくしてあったものが、発見されている」と紹介されており、魏皇帝が女王・卑弥呼に贈った鏡や絹織物や化粧用の朱丹などと照らし合わせてみても、これらの遺物は女権国家であったことを示しています。 インダス文明を担ったドラヴィダ族は、メソポタミアペルシア湾地域と活発に交易を行っていた海人族であり、航海で命をおとす可能性のあった男たちは、日本の海人族(漁師や交易民)や中世・近世の武士たちのように妻に家を任せていた可能性が高く、それは専業主婦に家計や子どもの教育などを任せてきたサラリーマン文化に引き継がれています。

 

5 中国文明の母系制

 中国神話では、人類創成の神は伏羲(ふぎ)と女媧(じょか)の兄妹とされ、姓は「風」で蛇身人首の姿で描かれることがあり、大洪水が起きたときに二人だけが生き延びて夫婦となり、それが人類の始祖となったとして中国大陸に広く残されているとされています。

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 この伏羲・女媧神話は中国少数民族のミャオ(苗)族が信奉した神と推測されており、雷公が洪水を起こした時、兄妹は雷公を助けた時にもらった種を植え、そこから生えた巨大なヒョウタンの中に避難して助かり、結婚して人類を伝えたとされています。西アフリカのニジェール川原産のヒョウタンが登場し、メソポタミアの洪水伝説や蛇神神話、兄妹婚と同じであることが注目されます。

 Y染色体D型は日本人41~47%(アイヌ88%)で、チベット人43~52%、アンダマン諸島人73%などに近いことからみて、アフリカのニジェール川コンゴ川流域に住むY染色体E型のコンコイド(ナイジェリア・コンゴなど)と分かれたD型の縄文人メソポタミア・エジプトの蛇神伝説や兄妹婚やメソポタミアの洪水伝説をその移動ルートに隣接して住むミャオ(苗)族に伝え、中国の始祖伝説となった可能性が高いと考えます。

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 ちなみに、Y染色体D型はミャオ(苗)族3.6%、タイ人・ベトナム人2.9%、スマトラ1.8%、台湾原住民・フィリピン人0%、華南人2.1%、蒙古人1.5%、朝鮮民族2.3%などであり、「海の道」ルートと「マンモスルート」を通って日本列島にやってきたと考えられます。―縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」参照

 鬼神(祖先霊)信仰の中国人が大事にする「姓」は「女+生」であり、周王朝が姫氏であり、周の諸侯であった「魏」は「禾(稲)+女+鬼」で鬼(祖先霊)に女が禾(稲)を捧げる国であり、女王・卑弥呼(霊巫女)に金印を与えて厚遇したことをみても、もともとの中国は母系制社会であったと考えられます。―縄文ノート「31 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」「32 縄文の『女神信仰』考」参照

 孔子の「男尊女卑」も、「尊=酋(酒樽)+寸(手)」、「卑=甶(頭蓋骨・仮面)+寸(手)」で、女は祖先霊が宿る頭蓋骨を手で支え、男はそれに酒を捧げるという役割分担を姫氏の周時代の母系制社会を理想として孔子は述べたのであり、「男は尊い、女は卑しい」というのは後世の儒家の歪曲です。

 

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 「鬼」(祖先霊)は「甶(頭蓋骨又は仮面)+人+ム(座った私)」であり、「祖先の頭蓋骨を捧げた人」「仮面をかぶった人」を私が拝むという鬼神信仰、卑巫女(霊巫女)の役割を示しており、「魂」字は「雲+鬼」で「天上の鬼(祖先霊)」であり、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸(手)」で祖先霊を掲げて祀る女性の巫女(みこ=御子)を表しており、いずれも祖先霊信仰を示しています。

 「卑」を卑しいという意味に変えたのは、春秋・戦国時代に戦勝国が女性を性奴隷にするようになり、男性優位社会となったのに儒家が合わせたことによるものです。

 

6 まとめ

 以上の分析結果をまとめると表3のようになります。

 アフリカ高地湖水地方からのナイル川・地中海とインド洋・太平洋への人類の拡散を考えると、同時に社会・民俗・文化についても同じルートで拡散したと考えます。

 

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 私は人類拡散にともない、「主語-目的語-動詞」言語、ヒョウタンやイネ科穀類、神山天神信仰(神名火山信仰)、女神信仰、蛇神・龍神信仰、黒曜石利用、円形住宅・墓地、筏が伝播したことを明らかにしてきましたが、母系制社会とそれに伴う神話もまたアフリカでの人類誕生を起源として世界に広まったのです。これまでの主な小論は次の表4のとおりです。

 

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

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「縄文ノート88 子ザルからのヒト進化説」の補足修正3 

 次男一家の保育所でコロナ感染者がでて、2週間休園(批判が多かったとみえて1週間に変更)になり、PCR検査で陰性後にリモートワークのある親たちの一家5人がやってきて手をとられ、しばらくまとまった原稿は書けませんでした。

 「縄文ノート90 母系(母権)制社会からの人類進化」は途中で中断していますが、気になった2点、サルたちの子育て協力と、エジプト・メソポタミアの母系(母権)制について、先に縄文ノート88と86を補足修正しておきたいと考えます。

 ここでは「縄文ノート88 子ザルからのヒト進化説」について、次のような補足修正を行いました。ゴリラ・チンパンジーボノボだけでなく、サルから類人猿、ヒトへの進化の全体像を把握する必要があると考えます。

 補足修正は次のとおりで、続く見出しを「 家族は母と子ザルが生み出した」「10 まとめに」に修正しました。

 

8 子育てを助け合うサルたち:NHK「ワイルドライフ」より

8-1 メス同士で子育てを助け合うケニアのアビシニアコロブス

 5月31日のNHKワイルドライフの「野生の王国アフリカ『熱帯の森をサルが生き抜く!』」ではアフリカ高地湖水地方ウガンダのサルたちが高い密度で暮らす「サルの宝庫」と呼ばれるカリンズ森林保護区では体長40㎝ほどのレッドテイルモンキーと体長50㎝ほどのブルーモンキーが天敵・カンムリクマタカの襲撃を避け警戒の声を利用しあい、違う群れとの縄張り争いで勝つためにをるために協力しあい、行動を共にしていることや、ウガンダの西のケニア山の麓の熱帯雨林ではメス同士が子育てを助け合うアビシニアコロブスが紹介されていました。

 

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  体長60㎝ほどのアビシニアコロブスは1匹のオスと複数のメスからなる10匹ほどの単位で、メスザルが出産を手助けするとともに、出産後は母ザルが食事に時間をとって母乳がたくさんでるように周りのメスが赤ちゃんを抱いて手助けしたり、母親を亡くした子ザルが雨でぬれていると群れのメスが気付いて温めて守るなど、子育てを群れのメスが助け合っているのです。

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 レッドテイルモンキーとブルーモンキーの助けあいは後の人類の氏族・部族社会の共同体成立や、コロブスのメスザル同士の助け合いは人類の母系制社会の共同体成立の手掛かりになるものと考えます。なおコロブスのメスたちが血縁でないのか、それとも祖母や姉妹などの血縁関係があるのかどうかはわかりませんでした。

 

8-2 「ブラジル大西洋岸の森 小さなサル 家族の絆で生き残れ!」

 8月9日のNHKワイルドライフの「ブラジル大西洋岸の森 小さなサル 家族の絆で生き残れ!」では、ブラジル東海岸の町イリェウスの「マタ アトランイティカ(大西洋の森)」のキムネオマキザルは石を使ってやしの実を割り「南米のチンパンジー」という異名を持ち、中南米最大のキタムリキは群れの中には順位がなく平等で、別の群れとも決して争わず「世界一平和なサル」と言われています。

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 ライオンタマリンは赤ちゃんが生まれるとオスは赤ちゃんを抱きたくてしかたないようですが母親は拒絶しますが、3mもの大蛇が現れ子ザルが落ち母親が助けに降りると、家族はヘビの注意をそらそうと必死で鳴き、別のサルが安全な方へと母親を誘導し、家族全員で命を懸けて守るなど、家族で子育てします。

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 ウィキペディアによれば、体長25-31㎝で1頭のメスと主に2~3頭のオスが含まれる2~11頭の群れを形成し、1回に2頭の幼獣を年に2回に分けて産み、寿命は15年以上とされています。

 

8-3 アビシニアコロブス・ライオンタマリンとボノボから推定される人類誕生

 メスの子育てを他のメスが助けるケニアのアビシニアコロブスと、オスが助けるブラジルのライオンタマリンは前者はオス主導、後者はメス主導の群れですが、いずれも子育てと群れの天敵からの防衛を通した共同体と家族形成の同時進行の萌芽が見られ、コンゴボノボからヒトへの進化の道筋を示しているように思います。いずれも熱帯雨林に住みながら、アビシニアコロブス・ライオンタマリンとボノボの大きな違いは、後者が地上・樹上生活をしている点にあり、ここに人類誕生の鍵があるように思います。

 草原での狩猟と肉食によって共同体と家族が生まれた、というフィクションは棄却され、共同体・家族形成と言語コミュニケーションによる頭脳発達が先行し、その後に小川・沼での二足歩行と手機能発達が進み、糖質・DHA食によりさらに脳機能の向上があり、最後に草原に進出して体毛の消失になった、と考えられます。

 ゴリラ・チンパンジーボノボだけでなく、サルから類人猿の進化の全体像を把握する必要があると考えます。

縄文ノート89 1段階進化説から3段階進化説へ

 人類の進化については、これまで寒冷化により熱帯雨林が減少して果物が乏しくなり、サバンナに降りて肉食(死肉あさりから狩猟へ)に代わり、脳機能が向上するとともに二足歩行と棍棒・槍の使用により手機能が向上し、獲物をメスに運ぶことによりさらに二足歩行と手機能向上が促進され、家族が形成されるとともに、狩りを通してオスの共同性と採集のメスとの分業ができてコミュニケーション・言語能力が高まった、というような「オス主導」の「1段階進化説」「直線進化説」でした。

 これに対して、私は妻問夫招婚の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰のスサノオ大国主建国から遡り、旧石器・縄文時代地母神信仰論、日本列島人起源論や農耕起源論、さらには人類進化論へと進んで検討してきた結果、人類の進化は熱帯雨林でメスと子ザルが主導し、乳幼児期、子ども期、成人期の3段階で進んだと考えるに至っています。

 ここで統一的に整理しておきたいと思います。

 

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1 進化論の経過

 これまで各テーマで、進化について書いてきた主なものをまとめると次のとおりです。 f:id:hinafkin:20210807181358j:plain

 

 

2 進化要因についての筆者説

 これまで人類の進化について専門外の気楽さから、「熱帯雨林進化説」「糖質・DHA食進化説」「水中二足歩行説」「掘り・叩き棒手機能向上説」「メス・子ザル主導共同体説」「子ザル冒険・遊び進化説」「母系制家族形成説」など、従来の「サバンナ進化説」「肉食進化説」「追跡猟二足歩行説」「棍棒・投槍手機能向上説」「成人オス主導共同化説」「父系制家族形成説」とは異なる主張をしてきました。

 

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3 3段階進化説へ

 以上の分析から、「成人オスザル主導」のサバンナ移住を契機とした「1段階進化説」にたいし、私は「乳幼児期」「子ども期」「成人期(娘・母・オス)」の「3段階進化説」を考えるにいたりました。

⑴ 乳幼児期進化:言語能力の獲得

 これまで、サルからヒトへの進化は、二足歩行を中心に考えられてきましたが、イヌやチンパンジーやヒトの脳力が3~4歳ころまでに急速に高まることから考え、まず言語・コミュニケーション能力が先行して発達したと考えます。

 「二足歩行によって頭脳が大きくなった、喉の構造が変化して多様な発声ができて会話ができるようになった」とこれまで説明されてきましたが、サルやゴリラ・チンパンジーはすでに垂直に座りあるいは歩行しており、子ザルも垂直に親ザルにしがみついていることからみて、二足歩行により頭脳が大きくなり喉の構造が変わって言語能力が獲得されたという説には根拠がありません。

 なお、熱帯雨林では骨は溶けてしまうために残ることがないため、この時期の考古学的な直接証明はありませんが、熱帯雨林にゴリラ・チンパンジーボノボが棲んでいることと、原住民のコンゴイド(コンゴカメルーン・ナイジェリアなど)のDNAなどから推測する以外にありません。

 

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 縄文人に多いY染色体D型は、この地のE型のコンゴイドと早期に分岐していることや、ナイジェリアを流れるニジェール川流域原産のヒョウタンが若狭・鳥浜貝塚や青森・三内丸山遺跡から見つかり、この地がイネ科穀類の原産地である可能性が高いことなどは、この熱帯雨林が人類誕生の地であることを裏付けています。

 

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⑵ 子ども期進化:採集能力と共同性の獲得

 これまで、寒冷化により果物が減り、サルの一部がサバンナに押し出されて死肉をあさり、草食動物の追跡猟を行うようになり、ヒトは二足歩行を行うようになったと説明されてきました。意欲的な番組のNHKスペシャルの『人類誕生』においても、残念ながら西欧中心文明史観の「狩猟民族進化史観」「キン肉マン進化史観」「肉体先行・頭脳後行進歩史観」から一歩も抜け出せず、縄文人が採集漁撈民族であり、魚介芋穀類豆栗食であったことなどすっかり忘れています。

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 しかしながら、大型肉食動物の多いサバンナで、小柄で歩くスピードも遅い初期人類が棒を持っただけで生存競争に勝てたとはとても考えられません。実際、370万年前頃から東アフリカや南アフリカで発見されている二足歩行の化石類人猿がことごとく絶滅していることが「二足歩行先行説」の誤りを証明しています。「頭脳先行進化」の現人類だけが生き延びることができたのです。

 熱帯雨林の樹上の果物が減ったなら、まずは安全な熱帯雨林で地上採集活動に移行したと考えるのが自然です。肉食ではなく、低湿地・沼地・小川での採集漁撈による糖質・DHA食こそが脳の発達を支えたのです。

 チンパンジーが3歳で食の自立を果たせることからみて、この時期に水を怖がらないボノボの母親と子ザルは首まで水に浸かり足を伸ばして水中の川底や沼底のミミズや根粒菌などの採集活動を毎日、数時間、浮力の助けを借りながら二足歩行して行ってきたサルの生存率は高く、人類の先祖となったと考えられます。

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 手の器用さの獲得や道具の使用もまた、足の速い大型草食動物のサバンナでの追跡猟ではなく、熱帯雨林の土を手や棒で掘ってのイモ類や昆虫の採集、棒で魚やカエル、子ワニなどを叩いて獲るプハンセ(かいぼり:掻い掘り)漁などにより、獲得されたと考えられます。

 また好奇心旺盛で怖さを知らない子ザルたちは遊びながら新たな食料を見つけ、魚や小動物の狩りの方法を工夫し、行動範囲を広げ、仲間同士のコミュニケーション・会話能力を高めたと考えれられます。

 手慣れた方法で果物や葉・樹皮などを食べ続けたサルは樹上に残り、ゴリラ・チンパンジーボノボ・ヒトは地上採集も行うようになり、その中の好奇心・冒険心・工夫心・探検心・遊び心に富んだ子どもたちが現世人類への進化の原動力となったと考えられます。

 この進化は、サバンナではなく熱帯雨林で獲得されたのです。

 

⑶ 成人期進化(娘・母子・オス)

 それぞれのサルが食べ物を探して食べ、ボスザルにメスザルが統率された群れになり、個別に子育てをするサルの群れの段階からの大きな進化は、共同で食べ物を獲り、分配・交換を行い、その中で家族単位で子育てをおこなう社会の成立段階と考えます。

 これまで、その段階は熱帯雨林からサルが出て、サバンナで大型草食動物の死肉あさりや狩りを成人オスが共同で行い、獲物を群れに運んでメスに贈ってセックスし、子育てを行うようになった狩猟共同社会・家族として考えられてきました。

 しかしながら、肉食動物に襲われる危険が迫れば樹上に逃げることができる熱帯雨林で地上に降り、湿地や小川・沼で採集活動を行うようになった進化を考えると、その担い手は成人オスだけでなく、成人メスや子どもも同等の役割を果たしたと考えられます。また熱帯雨林が海岸に接したところでは、貝やカニなどが豊富に獲れ、塩分の確保はイモ・穀類食を可能とします。

 火の使用開始は落雷と火山が契機と考えられますが、図2・3のようにナイジェリアとコンゴの間のカメルーンにはアフリカ大陸で最も大きい火山の1つで「偉大な山」と言われるカメルーン山4095mが熱帯雨林の中にそびえています。

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 また、コンゴの東、熱帯雨林とサバンナの境に位置するナイル源流の高地湖水地方には「月の山」と呼ばれた万年雪の活火山・ルウェンゾリ山5109mがあり、赤道にそってケニヤ山・キリマンジャロと活火山が並び、噴火が火使用の契機となった可能性があります。なお、私はエジプトの上が白、下が赤の2色ピラミッドはこの神山を模したものと考えています。―「縄文ノート56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「縄文ノート57 4大文明と神山信仰」参照

 このような環境のもとで、共同体・家族社会の成立はボノボのようにメスたちの子育ての助け合いと子ザルたちの遊びから生まれ、発情期だけでなくセックスをすることにより、メスザルはオスザルに子育て中の食料確保に協力させるとともに、用心棒としたと考えられます。オスザルはメスの関心を引くために美味しい大型ナマズやワニの捕獲に乗り出し、二足歩行能力が高まり、石器を付けた先の重い投槍で正確に獲物を倒すことができるようになった段階で、ステップの草食動物の狩りにでかけるようになったと考えれられます。

 この熱帯雨林における共同体と家族形成もまた、メスと子ザルが主導したのであり、それはヨーロッパの旧石器時代の女性像やギリシア神話、日本列島の縄文時代の母系制社会を引き継いだ各地の女王国などから明らかです。―「縄文ノート32 縄文の『女神信仰』考」「縄文ノート86 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰」参照

 

3 6~700万年かけた人類の3段階進化

 ではこの3段階の進化はいつ頃に起きたかですが、アフリカにおける類人猿や人類化石の発掘が東アフリカと南アフリカに偏っており、「サンプルの罠」に陥った化石学者の「サバンナ人類起源説」に対し、現在のところ熱帯雨林起源説には化石という確かな証拠はありません。

 エチオピア南アメリカで発掘された類人猿化石は、死地がそこであることは示せても、その地にいたサルから類人猿への進化が起きたのか、それとも熱帯雨林から移住してきてこの地で死んだのかについては証明できていません。

 NHKスペシャル『人類誕生』では「370万年前の人類(注:アウストラロピテクス・アファレンシス)は虫を食べていた!」「240万年前の人類(注:ホモ・ハビリス)のライバルはハイエナ!? 」「180万年前の人類(注:ホモ・エレクトス)はマラソンランナーだった!?」などとリアルなCGが放映していますが、図6のような一昔前の古くさい西欧中心文明崇拝の「キン肉マン史観」「肉食進化史観」の「直線的進化説」の空想レベルにとどまっています。

 

 

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 ゴリラやチンパンジーが現世人類とは別の道を歩んだように、アウストラロピテクス・アファレンシスやホモ・ハビリスホモ・エレクトスは、サルから進化して熱帯雨林を早期に出て絶滅した種族であり、ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)やホモ・サピエンスは別系統のニュータイプなのです。―「縄文ノート64 人類拡散図の検討」参照

 最後まで熱帯雨林を離れることがなかったサルから、地上・水中の糖質・DHA食により知能・二足歩行・器用な手を獲得し、共同体と家族を形成したスマート(クレバー)なホモ・サピエンス(賢い人間)こそが、現生人類の直接の先祖なのです。その最も近い性質を伝えているのは水が大好きなボノボ(ピグミーチンパンジー)です。

 このアフリカ熱帯地域で誕生した現生人類の直接の祖先を突き止めるのは、DNAの変異の分析によりアフリカの熱帯雨林に住むゴリラ、チンパンジーボノボを含む)との分岐年代、ホモ・サピエンスの化石と石器の年代、Y染色体D型の縄文人とE型のコンゴイド(ニジェールカメルーンコンゴなどに居住)との分岐年代により推定することができます。

 

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 ウィキペディアは約1000万年前にヒト亜科からゴリラ族とヒト族が分岐し、約700万年前にヒト亜族とチンパンジー亜族が分岐したとし、国立科学博物館の図7ではそれぞれおおよそ800万年前頃、600万年前頃としています。

 

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 ホモ・サピエンス旧人類のネアンデルタール人は80年前頃、デニソワ人は60万年前とされ、現生人類の化石はエチオピアのオモ遺跡から発見された20万年前頃のものが最も古いとされてきましたが、2004年にモロッコで発見された化石と石器から30万年前頃が最も古いとされています。

 一方、Y染色体D型の縄文人がE型のコンゴイドと分かれたのは、崎谷満氏の図8によれば38300年前頃です。

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 このように700~600万年前頃から80万年前頃までの長い期間に人類はサルから3段階の進化を遂げ、80~60万年前ころに2つに分かれ、第1のグループは病虫害を避けて熱帯雨林から高地湖水地方、さらにはサバンナ、ナイル川下流から地中海東岸沿いに拡散し、第2のグループはアフリカの大西洋海岸沿いを地中海へと移動したのです。―「縄文ノート62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」

 縄文人は4万年前頃に高地湖水地方コンゴイドと分かれ、ケニア海岸かアフリカの角(今のエチオピア)あたりから竹筏でインド洋を海岸沿いに東進し、インド南部からインド東部・ミャンマー高地をへて、日本列島へ黒潮にのってやってきたと考えます。―「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論」「縄文ノート64 人類拡散図の検討」参照

 

4 縄文人からの人類起源論への提案

 私は門外漢であるため、図8のDNA分析結果が正しいのかどうかの判断はできませんから、この図をもとにした判断に過ぎませんが、Y染色体D型の縄文人はアフリカのニジェールカメルーンコンゴなどに住むE型のコンゴイドと38300年前に分かれ、日本列島にやってきたことが明らかです。

 この縄文人は、大陸から離れた日本列島で、異民族の侵略・支配を受けることなく平和な1万数千年を過ごし、活発に交流・交易を行い、海人族のスサノオ大国主一族は中国文明にならって独自に米鉄交易と妻問夫招婚による「委奴国→委国→倭国」の建国を行い、霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教や神名火山(神那霊山)信仰、女王国など氏族・部族社会の縄文文明・文化を現代に伝えています。

 この縄文文明・文化は世界の母系制社会の地母神信仰などを示す「世界標準文明」の1つといってよく、世界各地の母系制社会段階の解明に大きな手掛かりを与えるものです。

 さらに「狩猟・牧畜・農耕」「略奪・戦争」「父系制」「絶対神一神教教」の「肉乳麦食文明」「森林破壊・石造文明」に対し、「採集漁撈→農耕漁撈」「交易和平」「母系制」「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教」の「芋穀豆栗魚介食文明」「森林・木造文明」という独自の発展をとげ、3・4世紀には各地に女王国があったわが国は、環境・食料・格差拡大・紛争戦争の危機に対し、西欧中心文明の見直しに向けたヒントを提案できると考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

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「縄文ノート88 子ザルからのヒト進化説」の補足修正2

 今、「縄文ノート89 1段階進化説か3階進化説か」として、乳幼児段階、子ども段階、大人段階のそれぞれの進化について、メスと子ども、オスの役割を考察していますが、「言語能力」の進化についてメスと子ザルの役割について書いていなかったことに気づきました。

 「縄文ノート88 子ザルからのヒト進化説」に以下のような補足を行いました。

 

4 メスと子ザルが発達させた言語能力

 「縄文ノート85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか」において、私は「ボノボに見られるようなメス同士と子の群れでの採集活動や食物分配、子ども同士遊びなどはコミュニケーションと言語能力を高め、糖質とDHA摂取により急速に頭脳の発達を促したと考えられます」と書きましたが、サルからヒトへの言語能力の発達には、採集・分配・子育て・生活の共同・分担を通した「メス同士のコミュニケーションとおしゃべり遊び」と「メスと子ザルのコミュニケーションとおしゃべり」「子ザル同士のコミュニケーションとおしゃべり」の3つが重要な役割を果たしたと考えます。

 ヒトが話せるようになったのは、単に「コミュニケーションの必要性」だけでなく、「おしゃべりや歌」の遊びがあったと考えます。子どもの道具遊びや追いかけっこなどとともに、「遊び」は人類進化に大きな役割を果たしたのではないでしょうか。

 私の両祖父母の家、私の家、小学校時代をみても、家族同士・友達同士で話すことについては女性が中心であったとしか思い出せません。「おしゃべり男」と言えるような同級生・友人・知人は少数ですが、父から「口から先に生まれた」と言われ続けた叔母など、思い当たる女性はたくさんいます。

 男女の会話量と内容についての統計は見たことがありませんが、経験的にいえば「言語能力は女性と子どもが発達させた」という進化法則は間違いないように思います。

 祖父や大叔父、父、叔父、私は食事や食後の団らんの時もだいたい寡黙であり、会話はもっぱら祖母や大叔母、叔母、妻、娘が中心でした。小学生の時に男子と女子たちで言い合いになると、だいたい男子が言い負けていましたから(男子が悪いことが多かったので当然といえばそうですが)、男子たちはそのような事態になることを避けていました。

 「口がとんがっている」「言いたそうな口をしている」などといいますが、そんな小学校同級生の「山〇△子」さんとはよく言い合いになりましたが、「〇〇が△△だから、□□も◇◇よ」という類推ランダム攻撃の能力は抜群で、「よくそんな理屈を思いつくなあ」といつも反論ができずタジタジでした。私の長女と長男の言い合いを聞いていても全く同じで、長男が「何でも持ち出してくる」とよく怒っていました。

 女性が社交的・友好的なのは、「鶏が先か卵が先か」という問題がありますが、この「おしゃべり遊び能力」にたけている、ということと無関係ではないように思います。それは女性同士の助け合いと乳幼児期の濃密な親子のコミュニケーションとおしゃべりで養われてきたとしか考えられません。

 昔、「男は黙って〇〇ビール」というコマーシャルや、「女は無口なひとがいい」という舟唄のフレーズがありましたが、そんな光景が思い浮かぶのは私だけでしょうか?

 以上は全くの個人的な体験をもとにした考察ですが、チンパンジーボノボ、ゴリラの生態を分析する際には、人間の女性・子どもの生態と対照して考察すべきでしょう。オス型社会のチンパンジーやゴリラは人間にはなれない進化をたどったのです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

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