ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート167 「三隅・三角・夷隅・大隅・大住」「球磨・隈本・熊本・久万」考

1 「三隅・三角・夷隅・大隅・大住」考

 昔、山口県三隅町(現長門市)の総合計画などの仕事をしたことがありますが、長門市萩市に挟まれた日本海に面したこの町は「三角」や「隅」というような地形ではありませんでした。シベリアシリーズやブリキ人形などで有名な香月泰男画伯の美術館がある町ですが、「隅」地名がそぐわないのは気になっていました。

 その他、「三角町」は大矢野町(現上天草市)に仕事で熊本空港から通った時にその手前にあった町(現宇城市)であり、「みすみちょう」は他に「大阪府大東市三住町」「神奈川県茅ヶ崎市美住町」「東京都東村山市美住町」などがあり、「すみ」には「隅、角、住」の漢字が当てられています。

 「夷隅町」は千葉県の岬町の仕事をした時の隣町であり、ウィキペディアによると、夷隅郡古事記は「伊自牟」(いじむ)、日本書紀は「伊甚」(いじみ)とし、「夷灊」など様々な当て字が用いられ、江戸時代初期に「夷隅」の字が当てられて定着したとされています。現在、夷隅郡大多喜町御宿町だけになり、夷隅郡夷隅町・大原町・岬町は合併していすみ市となっています。

 

 「大隅」は行ったことがなくて「大隅半島」名でしか知りませんでしたが、ウィキペディアによると713年の大隅国設置時の郡域は菱田川・肝属川下流域から鹿児島湾にかけての大隅半島中央部に及んでいたとされ、和名類聚抄(930年代)の郡名としては現在の志布志市・大崎町東部・曽於市大隅町月野が想定(角川日本地名大辞典)されています。

 日比谷梁山泊という会で出会い、出雲や大湯環状列石三内丸山遺跡に一緒に旅したことのある地名研究家の楠原佑介氏は地形由来地名説で地形か土砂災害や水害などを予測・予防すべきとの著書『この地名が危ない 大地震・大津波あなたの町を襲う』『地名でわかる水害大国日本』や邪馬台国肥前国山田郷説(私は筑紫国甘木高台説ですが)の『「地名学」が解いた邪馬台国』などがありますが、氏の編著の『古代地名語源辞典』は「おほすみ」として、「大隅郡」の他に、「相模国の郡名(現在の神奈川県伊勢原市平塚市秦野市など)」「山城郡綴喜郡の郷名(京都京田辺市大住)」をあげており、いずれも「すみ」を「端の地」「谷の奥」と解釈し、「『住』で、『集落』の意もあったか」としています。

     

 しかしながら、私は京田辺市は京都から奈良へと電車・バイクでよく通った時に見ており、秦野市では計画づくりの仕事をしましたが、いずれも「端の地」「谷の奥」ではなく「集落」を指しているとしか考えられません。

 以上のように、「すみ」には古くから「隅、角、住」字が当てられていますが、どの地も「隅、角」というような地勢(位置)・地形ではなく、「伊自牟(いじむ)・伊甚(いじみ)」→「夷灊(いすみ)」→「夷隅(いすみ)」の変遷をみても、「隅、角」は後世の当て字であり、その漢字「隅、角」の意味からの地名由来説は根拠がありません。元々、スサノオ大国主一族の建国時代までは「すみ=住」であったのが、大和朝廷の成立とともに、差別的に「隅、角」字を当てられたと考えます。

 

  

2 「球磨・隈本・熊本・久万」考

 私は熊本県球磨郡球磨川沿いの坂本村(現八代市、河口部)・水上村球磨川源流域)・五木村(支流の川辺川沿い)に仕事で通い、愛媛県久万町(くまちょう:現久万高原町)はプレゼンに行ったことがあります。

 その後、邪馬台国論争に取り組み、卑弥呼の王都を旧甘木市(現朝倉市。元は天城と考える)の高台(高天原)と分析し、この地で神功皇后に討たれた羽白熊鷲王(羽白=羽城=はき=杷木)との「球磨」の関係が気になっていました。

 古代では「どこどこの誰々」と名乗ることが多いことから、妻問夫招婚の母系制社会では、この地の女王に球磨の鷲が妻問いしたのであり、そのルーツは球磨郡と考えたのです。

         

 熊本という地名は、古くは隈本と書いたということは知っていましたが、この「くま(球磨、隈、熊、久万)」の語源はどこからきているのでしょうか?

 前述のように楠原氏の『古代地名語辞典』では「すみ=端の地、谷の奥」としていますが、球磨郡・熊本・久万町はそのような地形ではなく、地形由来地名説は成立しません。

 図1・表2のように、琉球の「あいういう」5母音では「く=こ」であり、「あ=え」母音例(「あま=あめ」「かざ=かぜ」など)があることからみて「ま=め」であり、合わせると「くま=こめ」の可能性があります。はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート97 3母音か5母音か?―縄文語考」参照

 

 国語学者大野晋氏は『日本語とタミル語』において、「くま」=「神に捧げる神米(くま)」とし、「米(こめ=くめ)」は南インドタミル語インダス文明由来のドラヴィダ語の南部語)の「kum-ai(こ=く)(ai≒え)」に由来し、「木場(こば:焼畑)」はタミル語の「kum-ari(u≒うぉ、m=b)」由来するとしています。

 私は表3・表4のように農耕語と宗教語の類似性からみて、「こめ=くめ=くま=kum-ai」は「焼畑=「kum-ari(u≒うぉ、m=b)」とともに、西インド・東南アジア高地(照葉樹林帯)を経て日本列島に焼畑陸稲(赤米など)として持ち込まれ、それはソバなどと合わせて南九州で栽培が始まった可能性を考えています。―ヒナフキンの縄文ノート「28 ドラヴィダ海人・山人族による日本列島稲作起源論」「41 日本語起源論と日本列島人起源」「42 日本語起源論抜粋」「109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」参照

 

 熊本(隈本)の球磨地方は「こめ=くめ=くま」の伝播したもっとも古い栽培地である可能性があり、鹿児島県の大隈郡は「大住郡」であったと思いますが、ことによると「おおすみ=おおくま=おおこめ」の可能性がないかなどと夢想しています。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

  ヒナフキン邪馬台国ノート      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/