ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート154 縄文建築から出雲大社へ:玉井哲雄著『日本建築の歴史』批判

 私がいつも利用しているさいたま市中央区の与野図書館では、毎月、テーマを決めて本を集めたコーナーがあり、帰りにたまたま目についた2冊、玉井哲雄千葉大名誉教授(東大卒)の『日本建築の歴史』(河出書房新社;ふくろうの本)とイギリス・ハル大学客員教授ローランド・エノス著の『「木」から辿る人類史』(NHK出版)を借りてきました。

 今、スサノオ大国主建国論のまとめに集中しなければならないですが、返却期限がきているのでざっと目を通しましたが、「アッと驚く為五郎」(古ッ!!!)でした。

 

             

 縄文・古代史や宗教論・文明論にも関わりますので、玉井氏建築説の批判をメモしておきたいと考えます。

 

1.建築=宗教建築起源説

 最初のイナバウアー(びっくり仰天の大のけぞり)1は、「雨風をしのぐための住宅いうよりは、人間として生きていくためのよりどころとなるような精神的な施設を最初の建築として考えた方がいいかもしれない」という玉井哲雄氏の奇妙な「建築=精神的施設=宗教建築」説です。

 なんと、建築を「寺院>神社>住宅」に3分類し、「建築=精神的な施設=宗教施設」として特別な位置に置き、書院造や茶室、城郭、土蔵などは住宅に分類していたのです。

 

 書院や茶室は「精神的な施設」には入らず、領主支配のシンボルとなる「城郭」や穀類などの貴重品を保存する「土蔵」などの建物を「住宅」に入れてしまうのですから、大多数の建築家は怒るのではないでしょうか。

 玉井氏によると「建築家が設計するのは建築であって、建物ではない」となり、寺院・神社の設計者だけが「建築家」で、他の住宅などの建物の設計者は「建物屋・住宅屋」にしてしまうのでしょうか、日本の大多数の建築家はこんな説を認めないでしょう。

 

2.寺院建築起源説

 イナバウアー2は、「日本列島でオリジナルな形で建築が成立したとは想定しにくい。・・・日本建築も大きく見れば中国大陸から、そして場合によったら朝鮮半島から入ってきたと考えるのがよいであろう」という日本建築中国・朝鮮起源説です。

 天皇家が仏教を採用する前に倭国にあった神社建築は「オリジナルな形の建築」として成立していなかったというのです。

 日本語が「主語-目的語-動詞」言語で中国語の「主語―動詞-目的語」言語とは異なり、「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であることからみても明らかなように、倭人は中国文化をうまくを取り入れながらも縄文時代からの倭音倭語を現在まで維持し続けているのです。

 

      

 同じように、寺院建築様式を中国・朝鮮から取り入れたとしても、それは既存の倭建築様式の上に新たな様式を付け加えたに過ぎないはずです。

 玉井氏は「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説」に立っているのでしょうか、旧石器人・縄文人から独自に内発的発展を遂げた倭人の歴史など眼中にはないようです。

 

3.寺院建築天武・持統朝確立説

 イナバウアー3は、「天武・持統朝に中国から律令など本格的な制度がもたらされ、・・・都城が建設され寺院も建てられていったのである。この時期の都城、寺院の華やかな建設を横目にみながら、簡素な神社建築の形式が整備されていった」というに至っては、冗談でしょうという以外にありません。

 そもそも、藤原宮・平城京平安京に城壁などはなく、中国を真似した「都城」ではありません。城壁で宮殿や街を防御する必要などない、インダス文明型の独自の「都」だったのです。環濠と城柵を設けた邪馬壹国の延長ではないのです。

 さらに、寺院建築について述べるなら、6世紀末に蘇我馬子が建てた法興寺飛鳥寺元興寺)や聖徳太子が建てた四天王寺や7世紀初頭の法隆寺から始めるべきでしょう。

      

 「寺院建築を真似て、神社建築が建てられた」に至っては、記紀に書かれた大国主出雲大社(天御巣・天御舎・天日隅宮・杵築宮)を始めとする神社建築の歴史・伝承を完全に無視しています。

 玉井氏は釈迦の骨を収めたとされる「仏塔」には興味がないようですが、中国の仏塔が「高楼(楼観)型」の塔であるのに対し、日本の仏塔が「心柱(神柱)」を中心にした構造であることなど、玉井氏は「違いがわからない男」のようです。

 玉井氏は「仏教中心史観」(それも仏塔を無視したエセ仏教中心史観)を建築分野から打ち立てたいのでしょうか?

 

4.高床式建物神社建築起源説

 イナバウアー4は、玉井氏が「高床建物が神の象徴性を誇示する必要のある神社建築の原型と考えていいのではないだろうか?」という正当な考えを述べて、自らの混乱を示していることです。

 「高床建物→神社建築」を認めるならば、高床建物は縄文時代からありますから、日本建築史は「中国・朝鮮の寺院建築」からではなく、「日本建築の原型は縄文時代の高床建物」とすべきでしょう。

 学生時代に友人たちとよく寺院巡りを行った時のぼんやりとした記憶ですが、法隆寺興福寺唐招提寺東大寺大仏殿など奈良の寺院は全て土間で竪穴住居系であり、京都の高床式の寺院とは異なっていたように思います。寺院が高床型になるのは神社建築の影響を受けていることが明らかです。わが国の寺院・神社建築の基本的な様式は、「寺院→神社」ではなく「神社→寺院」であることを示しています。

 玉井氏は青森の三内丸山遺跡や諏訪の中ツ原遺跡、阿久尻遺跡などの巨木建築や、三内丸山遺跡大湯環状列石など縄文遺跡に普通に見られる高床建物の用途をどうとらえているのでしょうか? これらを宗教施設ではなく、住宅だというのでは論理矛盾もいいところです。

 

 

 なお、玉井氏とは関係ありませんが、中ツ原遺跡の長短の巨木再現、三内丸山遺跡の見張り台再現ですが、「建物も屋根を知らない縄文人バカ説」を世界に公表した恥さらしであり、こんな非科学的なものは撤去すべきです。柱穴が見つかっただけで屋根材・床材が発見されていないのだから柱しか建てられないというのであれば、他の全ての復元高床建物なども作るべきではないのです。

 私は後の土器・銅鐸の建物図をもとに、柱の太さにふさわしい高層楼観として復元するか、あるいは何種類かの小さな建物模型を展示するか、どちらかにすべきと考えます。

 

5.奇妙な伊勢神宮

 イナバウアー5は、神社建築を伊勢神宮から始め、「伊勢神宮社殿の配置形式が整然としており、建築としての細部が洗練されていることは、本来伝統的な高床建築になかったものを仏教建築から学ぶことによってつくりあげたと考えられないか?」としながら、肝心のその証拠を何1つ示していないことです。

 玉井氏は「建築=中国・朝鮮伝来の仏教施設」を神社や住宅などの「建物」とは格別扱いし、伊勢神宮の配置が洗練されているのは仏教建築の影響ではないかというのですが、寺院配置の影響が伊勢神宮の配置のどこに見られるというのでしょうか?

 さらには伊勢神宮が「建築としての細部が洗練されている」というのはいったい伊勢神宮社殿のどの部分なのでしょうか?

 仏塔についていえば、「心柱」を中心にした構造は、出雲大社の形式を仏塔が取り入れているのであり、真逆なのです。仏教では死後に極楽か地獄に行ったきりであるのに対し、盆正月やお彼岸に祖先霊が帰ってくるなどもまた神道を仏教が取り入れているのです。

 伝統的な神社建築は祖先霊が昇天・降地する神名火山(神那霊山)を遥拝する神殿(拝殿)であり、祖先霊が昇天・降地する神籬(霊洩木)=心柱(神柱:大黒柱=大国柱)を神殿の中心に置いた建築様式が出雲大社から続いているのです。仏塔と仏像を祀る金堂を中心に回廊で囲む寺院建築の影響など神社のどこにもありません。

 

 玉井説は、縄文時代からスサノオ大国主建国、さらには現代へと続く日本文化・神道を低く見る、中国文化崇拝=仏教崇拝の劣等民族史観のトンデモ説という以外にありません。なお、玉井氏は仏教を精神史の中心に置くというなら、インド建築から論を立てるべきでしょう。

 

6.遊び・交流・芸術軽視史観

 すでに建築の分類でも触れましたが、イナバウアー6は、書院造や茶室、城郭、土蔵などを住宅に分類し「精神的施設=宗教建築」より低く見る奇妙な建築思想です。

 第1に、宗教に関わらない実用的な建物には精神的な働きは見られないと玉井氏は言いたいようですが、住宅の中でも家族が団らんし、会話(おしゃべり)し、学び、歌い遊び、客をもてなす活動などは、立派な精神的活動です。また、華麗な城郭や立派な土蔵は権力や富の象徴とする精神的なシンボル機能を持っているでしょう。

 第2に、日本ではもともと祖先霊を祀る神棚を住宅内にもうけ、それは仏教導入後の仏壇に受け継がれており、私の祖父母の家では神棚と仏壇の両方がありましたが、神棚を大黒柱(大国柱)のすぐそばの鴨居上に置いており、神棚こそ家の中心に置かれており元々の中心宗教が神道であったことを示しています。子どもの私には両方とも祖先を祀ってあるといわれ、田舎に行くと朝にご飯を神棚と仏壇の両方に供える役割でしたが、いったいご先祖はどちらにいるのか混乱していました。

        

 竪穴住居の中に石棒などを置いた縄文時代からの住宅内で祖先霊を祀る宗教文化は田舎では現代に連続しているのです。中国・朝鮮輸入の寺院だけを宗教施設として特別に扱うことなど倭人にはありえません。

 玉井説は、自分の専門分野の仏教建築を中心に置いて建築論を組み立てるという我田引水のトンデモ説というほかありません。

 

7.縄文起源高床建物無視史観

 イナバウアー7は、玉井氏の本で寺院・神社建築のあとにわずか7頁(127頁中)で「竪穴住居と高床住宅」を述べ、縄文時代からの竪穴住居や高床建築を日本建築の原型としていないことです。自分の専門分野ではないからといって軽く紹介して済まされる問題ではありません。

 どうやら縄文時代=原始・未開時代として低く見て、天皇家が7・8世紀に仏教建築を受け入れてからを建築史としたいようです。

 私が小学生の時は、竪穴式住宅=縄文時代、高床式建物=弥生時代の米倉として習ってきましたが、高床建物は縄文時代からあり、さらに巨木高層建築があったことが今や解明されてきているのです。これらの復元高床建築のある大湯環状列石三内丸山遺跡世界遺産に登録されているのですから、高床建築が縄文時代にあったことは広く公認されているのです。

 

 玉井氏は寺院建築の「法隆寺地域の仏教建造物」「古都奈良の文化財」「古都京都の文化財京都市宇治市大津市)」「紀伊山地の霊場と参詣道」「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」だけでなく、縄文建築を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」や、神社建築を含む「厳島神社」「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」「山・鉾・屋台行事」が世界遺産登録されていることを無視しています。

 玉井氏は最後に「発掘遺構の検討では、高床建物は弥生はもちろんのこと、縄文時代にもすでにあったという見解がかなり力を持ちつつある。もちろん発掘部材などの根拠が示されているのではあるが、研究者の間でも認めない人もおり、見解は分かれている」と付け足して言い訳していますが、そのような知識があるなら世界遺産登録遺跡の復元模型で採用されている多数派説をまず紹介してから、「研究者の間でも認めない人」として少数派の自説を具体的に説明すべきでしょう。

 

8.出雲大社無視史観

イナバウアー8は、あたかも伊勢神宮から神社建築が始まったかのように伊勢神宮を最初に取り上げ、出雲大社を無視していることです。

 記紀によれば出雲大社(私説は紀元2世紀)が最初の神社であるのに対し、伊勢神宮は10代崇神天皇の頃(私説は紀元4世紀後半)の創建であり、神社建築をとりあげるなら出雲大社から始めるべきです。

 記紀出雲大社大国主の「住所(すみか)、天御巣・天御舎・天日隅宮・杵築宮」としてその建築の様子を具体的に述べており、中古(平安時代)には16丈 (48m) 、上古(神代後)には32丈(およそ96m)であったという伝承がありますが、「中古→上古2倍」伝承が「上古→神代2倍」伝承にも適用された伝承ミスが起こっており、実際には神代32丈 (48m)で世界一の巨大建築であった可能性が高いと考えています。―「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

 

        

 平安時代、10世紀末の『口遊』(源為憲)は、「雲太、和二、京三」と記し、聖武天皇が建立した15丈(45メートル)の東大寺大仏殿、京都御所大極殿をしのいで、出雲神社が日本で最高の高さであったことを伝えています。出雲神社は、10世紀においてもなお国教である仏教や朝廷の正殿(中央に皇位継承儀式に使われる高御座(たかみくら)が置かれた)よりも高い権 威を持っていることを、当時の人々は広 く認めていたのです。―以上『スサノオ・大国 主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』より

 

     

 玉井氏は天皇中心史観の信者であるからでしょうか、伊勢神宮から神社建築を書き始めていますが、正史「日本書紀」を無視していることと、どう折り合いをつけるのでしょうか?

 

9.竪穴住居土屋根説

 イナバウアー9は、玉井氏の「東アジアの北の地域で今でも建てられ、季節的な建物として用いられている竪穴住居」を例とした「このような形(注:土饅頭型)のほうが、防寒だけでなく、外敵に備えた構えとしても有利なのではないかと想像できる」という竪穴住居土屋根説です。

 どうやら縄文人北方起源説をもとに判断した説と思われますが、暖かな鹿児島県霧島市の上野原遺跡からは9500年前頃の細い部材を使った円形平面住居(注:床を掘り下げていない平地住宅)が見つかっており、積雪のある北に進むにつれて、床を掘り下げ、内部に構造材を入れて補強したと可能性が高いと考えます。

 

         


 防寒・防御のための土饅頭型竪穴住居説は縄文人北方起源説に基づく単なる「想像」にすぎません。―「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」参照

 なお、私は円形平面住宅のデザインを重視しており、そのルーツはアフリカにあり、東南アジアをへて南方から伝わった可能性が高いと考えています。

 

   

 なお、石川県金沢市のチカモリ遺跡、石川県能登町真脇遺跡富山県小矢部市の桜町遺跡の巨木を半割にした円形の列柱跡は、円形竪穴住居から円形高床建築への移行を示しており、私はこれらは神の住処となる神殿と考えています。

 

 

10.巨木建物物見櫓説

 イナバウアー10は、「弥生遺跡」(私は「弥生時代はなかった」説)の高床建物を「コメなどを収納するクラ」とし、吉野ヶ里の「物見櫓、主祭殿、住宅」も「高床建物」にして「高床建築」としていないことです。「寺院からが建築」「寺院建築の影響を受けた神社は建築」という氏の珍説はここでも首尾一貫しています。

 

  

 復元された「主祭殿」を宗教施設と認めないということは、同時代の魏書東夷伝倭人条に書かれた卑弥呼の「鬼道」(祖先霊信仰)を宗教とは認めないということであり、吉野ヶ里遺跡原の辻遺跡などの巨木建築は「高床建物」に分類しています。

 なお、玉井氏は魏書東夷伝倭人条に書かれている「楼観」を物見櫓としていますが、私はこれらは大国主の八百万神信仰・神名火山(神那霊山)信仰の宗教施設である出雲大社本殿の形式を受け継いだ「神殿」と考えています。

 縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」で書きましたが、紀元3世紀の魏書東夷伝倭人条に「楼観」と書かれている大型建築は、その大きさや位置(吉野ヶ里遺跡では木柵の内側の濠のさらに内側に立地、原の辻遺跡では高台に立地)などからみて軍事施設の見張り台や櫓(矢倉)ではなく、多くの人々が昇って神名火山(神那霊山)崇拝を行う国見の展望機能を持った神殿、ランドマークタワーであり、縄文の巨木建築の建築思想・技術を継承していると考えます。

 

11.出雲大社縄文巨木建築起源説

 最期に、私のこれまでの主張、出雲大社縄文巨木建築起源説の紹介をしておきたいと考えます。

① 死者の霊(ひ:魂)が神山から天に昇るという神山天神信仰のルーツはアフリカにあり、南・東南アジアをへて日本列島に伝わった。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57 4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」参照

 

    

 

    

 ② 前掲9のとおり、円形住宅もまたアフリカルーツの可能性が高く、南・東南アジアをへて日本列島に伝わった。―「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」参照

③ 信濃には縄文時代から神名火山(神那霊山)信仰があった。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と霊(ひ)信仰」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

 

④ 諏訪の「ヒジン様(霊神様)=女神」の住むと伝わる蓼科山を向いた阿久尻遺跡の巨木建築は世界最古級の神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)の神塔神殿である。―縄文ノート「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」参照

 

   

   

⑤ 死者が全て神となり神名火山(神那霊山)から天に昇り、山上の磐座(いわくら)や神籬(ひもろぎ)(霊洩木)に降りてくるという霊(ひ)信仰=八百万神信仰の出雲大社は縄文巨木神殿の伝統を受け継いでおり、諏訪大社御柱祭や姫路の広峯神社牛頭天王総本宮)の御柱祭などは、神籬(霊洩木)信仰を現代に伝えている。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」「118 『白山・白神・天白・おしら様』信仰考」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」参照

 

 

⑥ 神社建築の「高床」「千木(ちぎ)」「棟持柱(むなもちばしら)」の様式は、東南アジアの住宅建築をルーツとしており、ピー(霊)信仰やトカゲ龍・龍神信仰、イモ食・もち食文化、ソバや温帯ジャポニカ、とともにわが国に伝わった。―縄文ノート「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」等参照

 

⑦ 縄文巨木建築や出雲大社は、氏族社会・部族社会(母族社会)の霊(ひ=祖先霊)信仰の共同作業を示す歴史遺産であり、イギリス・アイルランドストーンサークルなど全世界共通の氏族・部族段階の宗教を示す歴史遺産であり、また、石器文明にはない木器・木造文明などを示す顕著な歴史文化遺産として世界遺産登録を進めることが求められる。―縄文ノート「11 『日本中央部土器文化』の世界遺産登録をめざして」「59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり」「77 『北海道・北東北の縄文遺跡群』世界文化遺産登録の次へ」「82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ」「113 道具からの縄文文化・文明論」参照

 

12.玉井建築論を支えた世界・日本の歴史学・宗教学などの誤り

 日本建築のルーツを中国・朝鮮からの寺院建築とする玉井説の誤りは、そもそもは宗教中心史観、西洋中心史観、西欧流文明史観、天皇中心史観、中国崇拝史観などの誤りからきていると考えます。

 第1は、世界に普遍的に存在した霊(ひ:pee、祖先霊)信仰、死者の霊(ひ)が神山から天に登ると考えた神山天神信仰、死者の霊(ひ)が大地や海から蘇ると考えた地母神信仰や海神・龍宮・黄泉信仰、死者の霊(ひ)を天に運ぶ神使(風神・雷神、蛇神、トカゲ龍、龍神、鳥、猿など)信仰、人々に恩恵や災害をもたらす太陽や大地・海・森などの自然信仰などを原始信仰とし、ローマ帝国の国教となった絶対神信仰のキリスト教からを宗教とみる神学の影響です。仏教は絶対神信仰ではありませんが、世界宗教として玉井氏は特別の価値を置いたようです。

 第2は、人間の精神的活動の中心をキリスト教におく西洋中心史観の影響であり、玉井氏はキリスト教が支配した中世暗黒時代を変え、科学・文化・芸術などの復活を図ろうとしたルネサンスなどは眼中にないようです。玉井氏の建築論は西洋中世の宗教中心社会を建築に当てはめたようです。

 第3は、人類史を野蛮・未開・原始時代と文明時代に分ける西洋中心史観の影響で、玉井氏は縄文文明・文化を認めたくないのであり、縄文建築などないことしたいのです。

 第4は、記紀に書かれたスサノオ大国主建国伝承を8世紀に創作された「神話」としてきた皇国史観津田左右吉氏流の反皇国史観の影響です。玉井氏はを天皇制確立を建築史から支えるために寺院建築中心の日本建築史を確立したいようです。

 第5は、暗記・模倣好きの日本人に根強い「和魂」抜きの「和魂漢才」「和魂洋才」秀才に見られる中国・西欧崇拝の拝外主義であり、全編儒教朱子学)思想の教育勅語好きにも見られるように、玉井氏は縄文時代からスサノオ大国主建国に連続している倭人の建築文化・伝統など無視し、中国・朝鮮から導入した寺院建築から日本建築史を組み立てたのです。

 このような縄文人倭人を貶め、卑下する玉井コンプレックス建築史観に対し、必要なことは縄文建築から出雲大社など八百万神神道の神社建築に続く建築文化の伝統を評価し、世界に情報発信することです。

 そのためには、阿久・阿久尻・中ツ原遺跡やチカモリ・真脇・桜町遺跡の円形巨木建築と出雲大社を始めとした八百万神神道の神社の世界遺産登録が求められます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

「スサノオ・大国主建国論3 記紀伝承・神話の真偽判断の方法」の紹介

 gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」に「スサノオ大国主建国論3 記紀伝承・神話の真偽判断の方法」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 7月5日に「神話探偵団135 記紀神話の9つの真偽判断基準」としてアップしたものを、「スサノオ大国主建国論」に組み込むために、加筆・スリム化修正しました。

 刑事裁判での自白の真偽判断の基準は、「客観的証拠との整合性」「経験則からみた合理性」「不自然な変遷のない首尾一貫性」などですが、記紀伝承・神話の真偽判断についても、判定基準から検討する必要があると考えます。

 前著の『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』では、古事記日本書紀スサノオ大国主建国伝承・神話を中心において分析しておらず、今回、記紀を中心にスサノオ大国主建国の歴史を明らかにするにあたり、次の14の「記紀伝承・神話の真偽判断の方法」をまとめました。

 

小見出し

 ① 「伝承・表裏表現・神話」の3分解分析

 ② 倭音倭語・「主語-目的語-動詞」言語のルーツからの分析

 ③ 5母音転換・子音転換に注意した分析 

 ④ 漢字は全て倭音倭語への当て字

 ⑤ 客観的物証との整合性

 ⑥ 内外文献の整合性

 ⑦ 後世史実との整合性

 ⑧ 地名・人名との対応

 ⑨ 統計的検証との整合性

 ⑩ 「現代人的不合理解釈」から「古代人的合理的解釈」へ

 ⑪ 「古代人の宗教思想」からの推理

 ⑫ 天皇家不名誉記述からの真実

 ⑬ スサノオ大国主一族有利記述からの真実

 ⑭ 最少矛盾仮説の採用

 

 本ブログのテーマの「縄文社会論」としても、「ポスト縄文社会論」としてスサノオ大国主建国の分析を行うにあたり、記紀伝承・神話や魏書東夷伝倭人条など中朝文献の真偽判断の方法論の整理・検討は不可欠であり、参考にしていただければ幸いです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

 

スサノオ・大国主建国論2 私の古代史遍歴

 gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」に「スサノオ大国主建国論2 私の古代史遍歴」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 「スサノオ大国主建国論」をまとめるにあたり、全体を俯瞰するために、私がこれまでいろんな人や本との出会いで考えてきたスサノオ大国主建国論の経過をざっと紹介しました。

縄文社会からスサノオ大国主建国は連続した内発的発展であると私は考えており、縄文社会論とも密接に関係しますので、ここでも紹介しておきたいと思います。

 

スサノオ大国主建国論2 私の古代史遍歴

 「スサノオ大国主建国論」の全体を俯瞰するために、私がこれまでいろんな人や本との出会いで考えてきた縄文社会から続くスサノオ大国主建国論の全体像を紹介しておきたい。詳しくは、以後の本論で述べたい。

① 「日本中央」からの開始

 門外漢の私が古代史に取り組むようになったきっかけは、きわめて特異な偶然と必然からである。たまたま仕事先の青森県東北町で2002年に「日本中央」と彫られた石碑に出会い、大きな衝撃を受けたからである。

         

 この石碑は「石文集落」近くで見つかり、坂上田村麻呂が矢の矢尻で文字を書いたとされる「つぼのいしぶみ」の可能性が高いことは、津軽十三湊を拠点とした安藤水軍の安藤氏が「日之本将軍」と称していたこととも符合する。

 この石碑にショックを受けたのは、私の父方の先祖は岡山県井原市の30戸の山村で、もともと全戸が「ひな」を名乗っており、江戸中期からの墓には「日向(ひな)」、提灯には「日南(ひな)」と書き、明治になって本家であったことから「日本(ひなもと)」(日向本(ひなもと)を縮めたのであろう)を名字として届け出たところ、役所が「雛元」漢字に勝手に変え、一族は憤慨していると父から聞いていたからである。他には、日向・雛川・高雛の名字もあったという。

 青森県小川原湖のほとりの東北町に「日本」があり、岡山県井原市芳井町の山村に戦国時代から「ひな」を名乗り、明治になって「日本(ひなもと)」を名字にしようとした変な一族がいたのである。

 ミステリー大好きの私としては、この「日本」が「ひのもと」ではなく「ひなもと」の可能性もあると考え、日本国名の謎を解かないわけにはいかなかった。

 なお、「赤」を「あか」「あこ(赤穂(あこう)、赤馬(あこうま)、赤海(あこうみ)、赤尾(あこう)、赤水(あこず)、赤田(あこだ)、赤生田(あこうだ)など)」読みがあり、戦国時代の石工・石垣職人の「穴太衆(あのうしゅう)」の「穴=あな=あの」からみても、「ao(あお)」母音からの「あ=お」母音併用があり、「日本=ひなもと=ひのもと」「奴国=なのくに=ののくに」であり、後者の王城の地は福岡市早良区櫛田神社のある「野芥=のけ=のき=ぬき=奴城」(あいういう5母音では「け=き」)であると私は現在は考えている。

② 「ひな」地名からの調査

 当時、私は折り畳み式のキャットボート(1枚帆の小型ヨット)を開発して全ての湖をセーリングしようと企てており、ホームページで三沢市の仕事でよく通った小川原湖の原稿を書いていて、近くの観光名所の八甲田山を紹介しようと地図をみると神名火山(神那霊山)型の「雛岳」があったのである。さらに範囲を広げて地図をにらむと、五所川原市には「雛田」地名があった。これらの地域は古くは「ひな」地名の可能性がでてきた。

 リタイア後に取り組むつもりであったが、忙しい仕事の合間に「ひな」地名の探求を開始した。

 日本地図のロードマップ2冊と国土地理院の検索データで「ひな」地名を調べると、「日南・日名・日向・日夏・日撫・日那・日奈・比奈・火那・陽・雛・夷・蜷」と書く「ひな」地名が吉備(岡山と広島東部)を中心に全国にあり、東日本に多い「ひなた=日向=ひな田」など「ひな」と「田、山、谷、原、川、沢、入、迫、窪、瀬、代、場、戸」などの地形や「畑、城(しろ)、守、倉」などと組み合わせた名称も各地に見られた。

 最初はこれらの地名は「ひな=日那=日のあたる場所」からきたと考えていたが、地図をみると日当たりのよくない場所にも「ひな」地名がある。『』イワクラ学会編・著)で「飯の山」について書いた岩田朱実さんとネットで知り合い、神奈備(かんなびやま)型(富士山型)の全国約三百の「飯盛山、日盛山」は「ヒナモリ山」で「ヒナ族」の拠点であり、「ひな」地名は日あたりのいい場所とは限らないと教えられた。

           

 「ひな」地名は太陽由来の名称ではなく、部族名の可能性がでてきた。

③ 古事記日本書紀の「ひ(霊)」「ひな(日、委、日名)」と委奴(いな・ひな)国王」 

 そこで初めて古事記日本書紀を読みはじめて「ひな」を探すと、なんと、出雲大社正面に祀られ、神々を産んだ始祖神を古事記は「高御産巣日(たかみむすひ)・神御産巣日(かみむすひ)」、日本書紀は「高皇産霊(たかみむすひ)神皇産霊尊」と書いており、「ひ=霊」の可能性がでてきた。

 古事記序文が「二霊群品(にひぐんぴん)の祖」と書いているように、この国の人々(群品)の始祖神は「産霊(むすひ)」夫婦であったのである。天皇家皇位継承儀式の「日継(ひつぎ)」は「太陽を継ぐ」のではなく、「霊(ひ)(祖先霊)を継ぐ」儀式であったのである。

 角林文雄氏の『アマテラスの原風景』は、「人・彦・姫・聖・卑弥呼」は「霊人(ひと)・霊子(ひこ)・霊女(ひめ)・霊知(ひじり)・霊御子(ひみこ)(霊巫女(ひみこ))」であると書いていたが、死者を葬る石棺などを「柩(ひつぎ)・棺(ひつぎ)」というのは、「霊継(ひつぎ)」からきていたのである。

 

          

 古代人は親から子へと引き継がれるDNAの働きを、死者の霊(魂:玉し霊)が受け継がれる「霊継(ひつぎ)」と理解していたのであった。この国は「太陽信仰」ではなく「霊(ひ:祖先霊)信仰」の国であり、記紀の全ての「日」は「霊(ひ)」として検討し直す必要がでてきた。

 次の大きな発見は、大国主を国譲りさせたアマテルの子の穂日(ほひ)の子に「武日照(たけひなてる)」(武夷鳥(たけひなとり)=天日名鳥(あまのひなとり))がおり、「日」一字を「ひな」と読ませた例を見つけたことである。「日本」を「ひなもと」と呼んでもいい例が日本書紀に書かれていたのである。そして、大国主と鳥耳(とりみみ)の子の鳥鳴海(とりなるみ)の妻が「日名照(ひなてる)額田毘道男伊許知邇(ぬかたびちおいこちに)」、5代目の甕主日(みかぬしひこ)の妻が「比那良志毘賣(ひならしひめ)」であるであることから、「ひな」名は大国主一族ゆかりの名称であり、「武日照(たけひなてる)」もまた大国主一族の名前の可能性がでてきた。

 さらにネットを検索すると、漢・光武帝が与えた金印「漢委奴国王」の国名を「委奴(ひな)国」と読むkittyという方の投稿が見つかった。委奴国王は「ふぃ(ひ、い)な国王」の可能性がでてきた。

 「新唐書」は天皇家について「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以「尊」爲號(ごう)、居筑紫城。 彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と遣唐使が伝えたと書いているが、古事記には天皇家の系譜として16代しか書かれていない。しかし、その「欠史16代」を補うかのようにスサノオ大国主一族の16代の王の系譜が載っているのである。

 そこで天皇家16代(実際の天皇家はニニギからの笠沙3代)とスサノオ大国主16代を連続した32代とし、安本美典産業能率大教授の古代王の即位年の推計方法を援用して回帰計算を行ったところ、スサノオの即位年は紀元60年と推定され、57年に後漢皇帝に使いを送った委奴国王と重なったのである。

 

 魏書東夷伝倭人条と後漢書に書かれた「旧百余国」「男子王」「住七八十年」の委奴国王がスサノオ大国主7代(古代王の1代は約10年)であるという結論は動かしがたい。

 さらに王勇教授(浙江大学日本文化研究所所長)の『中国史の中の日本像』を読むと、中国の周の時代に儒教を興した孔子(紀元前551~479年)は、乱れた国を嘆き、「道が行われなければ、筏に乗って海に浮かぼう」「九夷に住みたい」と願ったという。そして、中国の字書『爾雅(じが)』を注釈した李巡(漢霊帝のとき、中常侍となった人物)が『夷に九つの種がある。一に玄莵、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙。』と記していることを紹介していた。

           

 スサノオ大国主7代の「百余国」の「委奴国」が漢霊帝の頃の「倭国乱」により、「相攻伐」した後に邪馬台国卑弥呼を共立してまとまった「倭人」30国と、その先の「天鄙(てんひ)」70余国に分かれていた、というのである。「天鄙(てんひ)」は倭音倭語では「あまのひな」であり、スサノオ大国主の後継者の国は「ひな(霊)の国」であったことが明らかとなった。

      

 全国の市町村の計画づくりに携わっていた私は、各地でスサノオ大国主一族を祀る神社や祭り、伝承に出合うことが多く、スサノオ大国主一族による「百余国」の建国は納得でき、『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)にまとめた。

 その原稿を出雲神社の門前に住み京都に事務所を構え、神社建築が得意な建築学科同級生の馬庭稔君に見てもらったところ、出雲では女性が妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」と言うという重要な裏付けがえられた。そして原稿に誤りはないと後押しされて出版した。

          

④ 卑弥呼の王都と「筑紫日向(つくしのひな)」の高天原

 『邪馬台国はなかった』など多くの著書がある古田武彦氏が親鸞の筆跡研究を行っていたことを知り、狭山事件の筆跡鑑定について自宅を訪ねて相談したことがあり、その縁で播磨の「石の宝殿」を案内するなどして氏の古代史探究の緻密な文献調査を教えられたが、同じ九州説でありながら論敵であった安本美典氏の邪馬台国甘木朝倉説も理科系という親近感と地名分析から読んでおり、スサノオ大国主建国と邪馬壹国の関係の解明においては、両説の優れた点を活かしたいと私は考えた。

      

 魏書東夷伝倭人条は、対馬壱岐(一大国(いのおおくに))・奴国・不弥国には副官の「卑奴母離(ひなもり)」が置かれていたと書いており、通説は「鄙守=夷守」を「夷(田舎、辺境)を守る武官」としていたが、当時、これらの国々は中国に近い先進国であり、その王城を守る武将を自ら「夷守」など命名するわけはなく、大和中心史観の偏見であると考えた。古事記が九州の4つの国と吉備児島の別名を「日別」「日方別」としているのは「日=霊(ひ)」から別れた(独立した)国であることを表しており、元は「日(ひな)=霊那(ひな)」という統一国であったことを示している。

 さらに「日向=ひな」と読む私は、記紀に書かれた高天原の所在地「筑紫日向橘小門阿波岐原(ちくしのひなのたちばなのおどのあわきはら)」の「日向(ひな)」地名が魏書東夷伝倭人条に書かれた30国のどこかにあに違いないと探したところ、筑後川沿いの旧甘木(あまぎ)市(元は天城(あまぎ)であろう)に「蜷城(ひなしろ)」の地名を見つけ、その背後の高台(甘木=天城の高台)こそが高天原であり、卑弥呼の邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)の王城があったことを突き止め、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)にまとめた。

            

 この地は、安本美典氏の邪馬台国甘木朝倉説の地であり、神功皇后がこの高台で羽白熊鷲(はしろくまわし)(羽城=杷木=波岐)を討って新羅侵攻の兵を集め、斉明天皇中大兄皇子が橘の地に百済救援の朝倉橘広庭宮を置いたことからみて、1~7世紀にかけてはまぎれもなく九州の中心地であった。新唐書に「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以『尊』爲號(ごう)、居筑紫城」と書かれた「筑紫城」はこの地以外にはありえないのである。

 後漢の金印(志賀島)と魏の金銀朱龍紋鉄鏡(日田)を結ぶラインとガラス壁、環濠城の3つが重なる場所であり、「正使陸行・副使水行」の魏書東夷伝倭人条の行程が陸行・水行とも完全に合致する唯一の場所である。この地こそが邪馬壹国の王都であり、高天原であることが、皇帝ゆかりの金印・金銀朱龍紋鉄鏡・ガラス壁の3物証と日中文献から完全に裏付けられた。

    

 「委奴国=ふぃ(い・ひ)なのくに」の中に、海の「一大国=い(ひ)のおおくに」と「邪馬壹国=やまのい(ひ)のくに」があったのである。

 私は古田説の「邪馬壹国説」「九州王朝説」と、安本美典氏の「古代王の即位年推計」「邪馬台国甘木説」「邪馬台国王都=高天原説」を大筋において引き継いでいるが、古田氏の「行程説」「邪馬壹国福岡市説」「高天原沖ノ島説」、安本氏の「邪馬台国=やまだ国説」「卑弥呼王都=旧甘木市馬田説」「邪馬台国東遷説」は支持していない。

⑤ 「4人のアマテル」説と「国譲り=大国主御子の後継者争い」説

 古田氏は白村江の戦いの敗北まで邪馬壹国は倭国・九州王朝として存続したとし、安本美典氏は夜須郡まわりの地名と大和郷まわりの地名が一致していることから邪馬台国が東遷して大和朝廷となったとしている。しかしながら、いずれも記紀伝説の大部分を占めるスサノオ大国主一族との関係を整理して示していない。

 スサノオ大国主一族の「百余国」から分かれた30国の邪馬壹国は筑紫大国主王朝として存続し、スサノオの姉とされた筑紫日向生まれのアマテルは出雲で生まれたスサノオの義妹であり、スサノオ7代目の大国主を国譲りさせたとされるアマテルは、大国主の筑紫妻の鳥耳(アマテルを襲名)であり、国譲り神話は鳥耳の子・孫の穂日(ほひ)・日照(ひなてる)(夷鳥(ひなとり)=日名鳥)親子と出雲の事代主、越の建御名方との後継者争いと私は考える。

  

 古田・安本氏とも「アマテル一人説」であるが、私の祖母方の一族が代々襲名していたことからみても、記紀に時代を越えて登場する始祖神の神産霊(かみむすひ)スサノオ、大物主、建内宿禰(たけうちのすくね)蘇我氏などの始祖)と同じく、アマテルも襲名しているとみた。

 出雲で生まれたスサノオの筑紫日向(つくしのひな)の異母妹と、スサノオ7代目の筑紫妻の鳥耳、さらに30国の「相攻伐歴年」後に共立された卑弥呼(大霊留女(おおひるめ))、その後継者の壹与(ひとよ)は代々アマテルを襲名しており、記紀はこの4人のアマテルを合体してアマテル神話としたのである。

⑥ 母系制社会の「ひな(女性器)」信仰

 その後、栃木方言では「ひなさき」がクリトリス(陰核)のことであると「希望社会研究会」で出会った哲学者の故・舘野受男さんより教えられ、調べると平安時代中期の辞書・和妙類聚抄は「雛尖:ひなさき」を陰核としており、方言では栃木・茨城に「ひなさき」があり、琉球宮古地方では女性器を「ぴー、ひー」、熊本の天草では「ひな」と呼んでいた。

 前述のように、出雲で女性が妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」ということや、男子の正装である烏帽子(えぼし)(カラス帽子)の前に「雛尖(ひなさき)」を付けることからみても、古代から霊(ひ)を産む女性器信仰が続いたことが明らかである。

 建設省水産庁の漁村集落環境改善調査で全国各地の漁村集落を調査した時、危険な漁に出る漁民の家では家計は女性が握っていると教わり、大国主が「島の埼々、磯ごとの若草の妻」を持ち180人の御子をもうけたと古事記に書かれ、群馬県片品村の仕事では金精(男性器)を男たちが山の神(女神)に捧げる祭りを知り、さらに各地に明治政府が禁じた金精信仰や縄文の石棒が残っているのを見てきた私は、縄文時代から海人族は妻問夫招婚の母系制社会で女性器「ひな」信仰が行われていたと確信した。

 さらに狭山事件脅迫状筆記能力の鑑定を行った大野晋さんの『日本語とタミル語』から、この「霊(ひ)信仰」のルーツがインド原住民のドラヴィダ族からビルマミャンマー)、東南アジア・雲南高地にあるという思いがけない結論に達している。

           

 「ひなちゃん」と呼ばれたこともあった私は「×××ちゃん」と言われていたのであり、思いもかけないルーツ探究の結末であった。

⑦ スサノオ大国主一族は縄文人か、弥生人か?

 2011年の福島第1原発事故を受け、私は『「原発国民投票』著者の今井一氏の講演を聞きたいとネットで探し、国際縄文学協会での講演会を見つけて参加したところ、なんと、建築学科先輩の助教授であった上田篤さんの講演「縄文の家と社会を考える」との幸運な出会いがあり、氏の縄文社会研究会に参加し、スサノオ大国主建国の前史として縄文社会との関係を追究することとなった。

 私の縄文への関心は、大阪万博の「太陽の塔」製作の岡本太郎氏が紹介した火焔型縄文土器に衝撃を受けたのが最初で、縄文野焼きの芸術家・猪風来さんと出会って縄文野焼きのイベントを沖縄の彫刻家・金城実さんを招いて行うなど、直感的に二人には縄文アートが受け継がれていると考えた。

  

 さらに全国各地の仕事では、北海道の森町や群馬県の旧赤城村(現渋川市)の環状列石(ストーンサークル)や各地の石棒、群馬県片品村の男性が金精を山の神(女神)に捧げる祭りなどから母系制社会の性器信仰を感じていた。

 私の主な関心は、スサノオ大国主の霊(ひ)信仰や海人族としての活発な交易・交流、母系制の妻問夫招婚などのルーツが縄文人から連続しているのではないかということにあったが、優れたプランナー(計画家)として多面的に活躍された上田さんは縄文社会の文化が現代に多く引き継がれており、これからのまちづくりに活かしていくという視点を縄文社会研究会で教わった。

⑧ スサノオ大国主一族は海人族か、山人族か、農耕民か、騎馬民族か?

 私は瀬戸内海に面した吉備・播磨で育ち、時に艪で漕ぐ伝馬船や田舟(肥桶(こえたご)舟)で遊び、海辺に行くといつも遠くに見える小豆島や四国に舟で渡りたいと考えていた。母方の祖母の代まで代々住吉大社から御座船で迎えに来て娘たちは住吉大社に仕えていたと聞き、父方の叔母が嫁いだ飛島の一杯船主の伯父の豪快な話を楽しみにしていた私は海人(あま)族系なのか、それとも岡山の山村出身の先祖からの山人(やまと)族系なのか、あるいは南北朝争乱で落城・帰農した母方の農耕民系なのか、井上靖の『敦煌』や『蒼き狼』で心ときめかした騎馬民族系なのか、などと夢想していた変な子供であった。

 日本建築学生会議で 講演を頼んだ先輩の片寄俊彦さん(ブワナ・トシ)からはアフリカの類人猿調査のことを、山岳部・ワンダーフォーゲル部のI君・H君たちからは日本人と容貌・生活・文化が似ているブータンのことを、青年海外協力隊員としてニジェールに派遣された次女からはニジェール川流域原産のヒョウタンやアフリカ米のことを、さらにナイジェリアで日本式稲作の普及の援助をしてきた若月利之さん(島根大学名誉教授)からはアフリカ稲のことを聞き、アフリカでの猿からの人類誕生と日本列島にどのようなルートでどのような作物・宗教・文化を持って縄文人がやってきたのか、日本列島人起源論は解明しないわけにはいかないテーマであった。

    

 また、スサノオ大国主研究から連絡した梅原猛さんの「森の文明」「縄文文明」論も気になっており、縄文社会を文明以前の「未開・野蛮社会」に押し込めるのではなく、1つの文明段階として位置づける必要を感じていた。

 出雲出身の石飛仁さんの縄文講演会では先輩の『現代の眼』元編集長で『季刊日本主義』の編集長の山岸修さんに出会い、同誌に書かせてもらうことになり、弾みがついた。さらに白陽社社長で島根日日新聞社の社主の菊池幸介さんが主催する毎月1回の「梁山泊」でも報告する機会をえて、『季刊 山陰』にも書かせていただき、ブログで書き散らかしてきたスサノオ大国主建国論や縄文論をまとめる機会をえた。

       

 思想信条・郷土愛・学閥などにとらわれず真実を追究したいと考えていた私にとって、この左右の論客が集まる「梁山泊」と『季刊日本主義』は実に有益な場であった。

また、梁山泊メンバーの出雲調査や大湯環状列石や三内丸山などの縄文遺跡調査を通して、縄文からスサノオ大国主建国が連続しているという確信を得た。これらの活動で一緒であった石飛仁さんは「スサノオ大国主は縄文最後の王」説であり、私は「スサノオ大国主一族は鉄器水利水田稲作の普及者」「縄文とスサノオ大国主建国は連続しており、弥生人征服はなかった」に力点を置くという違いはあったが、土台は共通の縄文認識であった。

 世界最高レベルの縄文(新石器時代、土器時代)研究は、残念ながら「弥生人征服説」と「天皇建国説」によって分断され、中国・西洋文化崇拝の排外主義の歴史学者たちにより縄文時代は「原始時代」「未開時代」に押し込まれ、その文化・文明が現代に引き継がれているという視点は忘れられてきたことに対し、「縄文社会研究会」は民族、歴史、生活・文化、宗教、言語、生類意識などの連続性について縄文社会から現代人への連続性について分析を深めた。

 縄文時代からスサノオ大国主建国、さらには日本人の現代生活まで連続した内発的発展とみると、人類史全体に大きなインパクトを与えることができる。日本の優れた縄文研究は世界人類史全体の解明に大きな役割を果すべきであり、世界史の中での「縄文文化論」「縄文社会論」「縄文文明論」の確立を図り、「霊継(ひつぎ)=命のリレー」を大事にする生類共生社会への展望を示すべきと考える。

  1.  ⑨ 琉球(龍宮(りゅうきゅう))からの海人(あま)族(天(あま)族)

 縄文時代から海人族は琉球から南九州、さらには青森・北海道まで、貝とヒスイ・黒曜石などの交易を活発に行っており、大国主が越の沼河比売を訪ねて婚(よば)いした時の歌が古事記に記載されていることからみても、対馬暖流交易・交流は縄文時代から大国主の時代まで連続していると見るべきであろう。

 壱岐の那賀(なか)を拠点とした天御中主(あめのみなかぬし)と産霊(むすひ)夫婦を始祖神とする壱岐対馬の海人(あま)族(天(あま)族)のルーツは「アマミキヨ」を始祖とする琉球であり、奄美大島→天草・甘木→天久保→天ケ原(壱岐)へと海人(あま)族の移動と活発な交流・交易があったことを示している。

 さらに、琉球弁が「あいういう」5母音であることを、地元のさいたま市中央区の沖縄出身の山田ちづ子さんの「カフェギャラリー南風」のイベントで出会った元高校国語教師の宮里政充さんに教わり、「あいういう」から「あいうえお」5母音への変遷を考慮に入れながら記紀・地名・方言分析を行う必要を感じた。

 そして、柳田國男氏の『蝸牛考』や松本修氏の『全国マン・チン分布考』の方言が大和・京都から地方へ広がったとする「方言集圏論」を批判し、カタツムリ・女性器方言の北進・東進論としてまとめた。

       

 この方言北進・東進論は、丸ノミ石斧・曽畑式土器の琉球から南・東九州への分布、薩摩半島阿多の笠沙天皇家2代目の山幸彦の龍宮(琉球)訪問と綿津見(わたつみ)神の娘の豊玉毘売(とよたまひめ)との婚姻と、その子の鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)(彦瀲(ひこなぎさ))と妹の玉依毘売(たまよりひめ)の婚姻とも符合し、縄文時代からスサノオ大国主建国、笠沙天皇家までの海人族の対馬暖流移動・交易を裏付けた。

 ⑩ 縄文巨木列柱から出雲大社への連続性

 「弥生人朝鮮人・中国人)征服史観」「天族天皇家弥生人朝鮮人・中国人)史観」の「縄文・弥生断絶史観」に立っているわが国の歴史家たちは、おそらく紀元2世紀当時は世界一の高さであった可能性の高い48mの出雲大社本殿について、何らの歴史的な位置づけもできていない。

 ところが、縄文社会の自立的・内発的発展としてのスサノオ大国主建国説に立つと、青森の三内丸山遺跡(5900~4200年前頃)の八甲田大岳とその手前の鉢森山の2つの二等辺三角形の神那霊山を向いた6本柱巨木建築や、諏訪の女神山である蓼科山を向いた阿久尻遺跡(6700~6450年前頃)の19の方形柱列建物と中ツ原遺跡(5000~4000年前頃)の8本柱巨木建築の技術・文化を引き継いだ高層楼観の宗教施設(神殿)として出雲大社は位置づけられるのである。

 なお、私が大学で学んだ福山敏男さんらによる出雲大社復元では、出雲大社に伝わる金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」を「きざはし(階)=階段」と誤って解釈したものであり、日本書紀に「汝(注:大国主)が住むべき天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう」と書かれているとおりに、本殿から海岸へ続く100m長の木デッキ(高橋)と浮桟橋(浮橋)とするべきであり、縄文巨木建築から後の壱岐原の辻遺跡吉野ヶ里遺跡、邪馬壹国の楼観にまで引き継がれる「巨木神殿文明」を示している。

 

⑪ 信州でみた縄文からのスサノオ大国主建国

 全国各地の仕事では市町村史を必ず見てきたが、不思議だったのはどこにでも必ずある縄文・弥生遺跡の次は朝廷支配が及んできた記述となり、各地にあるスサノオ大国主一族の神社が示す歴史についてほとんど触れていないことであった。祖先霊を祀る宗教施設であるスサノオ大国主系の神社があり、しかもスサノオ大国主に関わる伝説がある以上、スサノオ大国主王朝の影響が及んだに違いないのであるが、大和中心・天皇中心史観の郷土史家たちは無視しているのである。

 群馬県吉岡町には天皇家より古い八方墳(八角墳)があり、群馬・栃木には方墳が多く出雲の四隅突出型方墳の影響が伺われるが、地域の神社伝承や地名などとの関係は検討されていない。

 そのような中で、縄文遺跡が濃厚に残り縄文の地域研究が最も進み、記紀大国主の御子の建御名方が書かれ、建御名方を祀る諏訪大社諏訪神社が濃厚に分布する長野県で、地域社会研究会、農学部OB会、縄文社会研究会(顧問の尾島敏雄早大名誉教授の尾島山荘で実施)の3つの合宿の機会に調査することができ、女神信仰の母系制社会、神名火山(神那霊山)信仰、巨木神殿(拝殿)建築、縄文農耕、出雲地名など、縄文社会から連続したスサノオ大国主建国に多くの確証をえた。

       

 以上、『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)』の執筆から、その後の縄文社会研究を含めてスサノオ大国主建国論への私の取り組みの経過をざっとまとめた。

 いろんな人や本との幸運な偶然の出会いにより、スサノオ大国主建国を「建国前史」の日本列島人起源論、縄文宗教・文化・文明論や、更には「建国後史」の邪馬台国論、笠沙3代からの天皇家の歴史まで明らかにできた。

 縄文社会から連続した海人族のスサノオ大国主建国は、狩猟・遊牧民侵略戦争型建国とは異なる歴史を示しており、人類史全体の解明に貢献することができると考える。戦争=人(霊人(ひと))殺しのない、生類の命を大事にする母系制社会の1万年の歴史から、生類共生社会の実現に向けて提案するとともに、その拠点として出雲大社を始めとするスサノオ大国主一族の八百万神信仰の世界遺産登録を提案したいと考える。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

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「スサノオ・大国主建国論1 はじめに」の紹介

 gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」に「スサノオ大国主建国論1 はじめに」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院)を書いた時には、まだ記紀神話の全体的な分析はできておらず、その後に『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)や雑誌、4つのブログで書いてきた「スサノオ大国主建国論」関係の小論を年内目標にまとめるにあたり、下書きを連載していきたいと思います。

 前川喜平氏が10月2日の東京新聞の「本音のコラム」欄に書いていましたが、先日の安倍元首相の国葬において、自衛隊の音楽隊が黙祷の際に演奏した曲が戦前の軍歌『國の鎮め』で、天皇の使いの拝礼の際には『悠遠なる皇御国(すめらみくに)』であったと批判しています。

 前者は「國の鎮めの御社(みやしろ)と 斎(いつ)き祀(まつ)らふ神霊(かみみたま) 今日の祭りの賑ひを 天翔りても御覧(みそなわ)せ 治まる御世を護(まも)りませ」という歌詞で、どちらも天皇を神とした戦前の皇国史観がそのまま現代に引き継がれていることに戦慄を覚えます。

 私は古事記日本書紀を曲解したアマテルに始まる天皇国史観を批判し、記紀風土記・魏書東夷伝倭人条・三国史記新羅本記の分析を中心に、この国の始祖神は出雲大社本殿正面に祀られた「産霊(むすひ)」夫婦であり、紀元1~2世紀の「豊葦原の葦原中国(あしはらのなかつくに)」の建国者はスサノオ大国主一族であるとの建国論を書き続けてきていますが、このような「戦死者の葬送曲」が国にあふれることになる前に現代的な課題としてそのまとめを急ぎたいと思います。

 本ブログの「縄文論」としても、「ポスト縄文論」として、「縄文時代」からスサノオ大国主建国は内発的発展として連続しているのか、それともスサノオ大国主王朝や天皇家大和朝廷弥生人(中国人・朝鮮人)の征服王朝なのか、解明を進める作業の参考にしていただければと思います。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

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縄文ノート153 倭語(縄文語)論の整理と課題

 へそ曲がりの私は、小学校の時に「大和」を「やまと」と読むと習い、「嘘だろう」と信用しませんでした。私には「おおわ」としか読めないからです。「飛鳥(とぶとり)」を「あすか」、「春日(はるひ)」を「かすが」と読むというのもとうてい納得できませんでした。

 中学校に入って英語を習い、「the(ザ)」と「theater(シアター)」「then(ゼン)」「thank you(サンキュー)」「this(ジス)」などにローマ字のような音韻表記法則があるに違いないと考えに考えたのですがその法則を見つけることができず、「英語は難しい、わからん」と1学期は完全に落ちこぼれてしまいました。友達から「覚えりゃいいんだ」と言われてやっと丸暗記を覚え苦手意識はなくなりました。 

 そんな私は、セミリタイアして古代史をやるようになり、やっと「やまと=山人」「おおわ=大倭=大和」「あすか=あ須賀」「かすが=か須賀」であり、スサノオ大国主一族の「大倭国(おおわのくに)」「須賀(蘇我)」を隠すための表記換えが行われたということが理解でき、小学生の時の疑問が解けました。薩摩半島産西端の笠沙・阿多出身の山幸彦(猟師=山人=やまと)の子孫の天皇家が傭兵隊として奈良盆地に入り、大物主の大和国を10代かけて乗っ取り、「大和(おおわ)」を「やまと」と読ませ、「あ須賀」「か須賀」を「飛鳥」「春日」字表記に置き換えたことを理解し、納得できた次第です。

 また「アカヒ アカヒ アサヒガアカヒ」と書いて「あかい あかい あさひがあかい」と読むこともどうしても納得できず、父に質問しましたが「そういうもんだ」としか返事が帰ってこず「なんで」と疑問を抱えたままでした。それは「委奴国」「伊那」を「いなのくに」「いな」と読むか「ひなのくに」「ひな」と読むか、というテーマに引き続いています。

言語学については基礎的な勉強もしていない全くの素人なのですが、こんな「面倒くさい」こだわりの延長で取り組んできました。

なお、同音異義語の俳句やダジャレなどの掛詞(ダブルミーニング)は大好きであり、ペンネームの「日向勤(ひなつとむ)」はあだ名の「ヒナゴン」を置き換えるなどして遊んでいますが、島根日日新聞で連載させていただいた『奥の奥読み奥の細道』は芭蕉の「3重構造俳句(自然+歴史+個人の想い)」のトリプルミーニングを分析したものです。新年にアマゾンキンドル本として出す予定でしたが、1年遅れで公開したいと考えています。

 

1 倭語論(縄文語論)についてのこれまでの小論

 これまで、倭語論(縄文語論)については、糖質・DHA食と女・子どものおしゃべり人類進化論、母系語から父系語への転換論(良字悪字論)、「主語-目的語-動詞」言語伝播論、農耕・宗教語のドラヴィダ語起源論、性器語・宗教語の東南アジアルーツ論、倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語3層構造論、琉球弁の北進・東進論、母音・子音の音韻転換論、漢字分解解釈論、掛詞論(同音異義字使用論)など、次のような小論を書いてきました。

⑴ 糖質・DHA食と女・子どものおしゃべりからの人類進化論

 縄文ノート88 子ザルからのヒト進化説 210728

 縄文ノート89 1段階進化論から3段階進化論へ 210808

 縄文ノート107 ドーパミンからの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か 211110

 縄文ノート115 鳥語からの倭語論 211213

 縄文ノート126 「レディ・サピエンス」と「女・子ども進化論」 220307

⑵ 母系語から父系語への転換論(良字悪字論)

 スサノオ大国主ノート 倭語論7 「鬼」の国 200129

 スサノオ大国主ノート 倭語論9 「卑」字について 200131

 スサノオ大国主ノート 倭語論10 「男尊女卑」について 200203

 スサノオ大国主ノート 倭語論11 「委奴国」名は誰が書いたか? 200205

 縄文ノート32 縄文の「女神信仰」考 200730→1224

 縄文ノート148 「地・姓・委・奴・卑」字からの中国母系社会論 220827 

 縄文ノート149 「委奴国」をどう読むか? 220905

 縄文ノート151 「氏族社会」から「母族社会」へ 220915

⑶ 「主語-目的語-動詞」言語伝播論

 季刊日本主義42号 言語構造から見た日本民族の起源(2018夏)

 スサノオ大国主ノート 倭語論3 「主語-目的語-動詞」言語族のルーツ

 縄文ノート25 「人類の旅」と「縄文農耕」と「三大穀物単一起源説」

 縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源説  200918→210112

 縄文ノート97 「3母音」か「5母音」か?―縄文語考 181210→210922

 (再)縄文ノート115 鳥語からの倭語論 211213

⑷ 農耕・宗教語のドラヴィダ語起源論

 縄文ノート30  「ポンガ」からの「縄文土器縁飾り」再考

 縄文ノート42 日本語起源論抜粋 210113

 縄文ノート5、25 「人類の旅」と「縄文農耕」と「3大穀物単一起源説」 140613→201213 

 縄文ノート26 縄文農耕についての補足 200725→1215 

 縄文ノート37 「神」についての考察 200913→210105

⑸ 性器語・宗教語の東南アジアルーツ論

 縄文ノート38 「霊(ひ)」とタミル語peeとタイのピー信仰 201026→210108

 縄文ノート80 「ワッショイ」と山車と女神信仰と「雨・雨乞いの神」 210619

 縄文ノート94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論181204→200204→210907

 縄文ノート128 チベットの「ピャー」信仰 220323

 縄文ノート132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰 220404

⑹ 倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語3層構造論

 スサノオ大国主ノート 倭語論2 倭流漢字用法の「倭音・呉音・漢音」について 200124

 スサノオ大国主ノート 倭語論3 「主語-目的語-動詞」言語族のルーツ 200125

 スサノオ大国主ノート 倭語論5 「和魂」について 200127

 スサノオ大国主ノート 倭語論15 古日本語は「3母音」か「5母音」か? 181210→200216

 縄文ノート26 縄文農耕についての補足 200725→1215

 縄文ノート29 「吹きこぼれ」と「おこげ」からの縄文農耕論 201123→1218

 縄文ノート36 火焔型土器から「龍紋土器」へ 200903→1231

 縄文ノート37 「神」についての考察 200913→21010

 縄文ノート52 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について 201104→210205

 縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ(富士見町歴史民俗資料館より) 201106→210208

 (再)縄文ノート115 鳥語からの倭語論 211213

⑺ 琉球弁の北進・東進論

 帆人の古代史メモ 琉球論4 「かたつむり名」琉球起源説 180816→200203

 帆人の古代史メモ 琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言論 181204→200204

 縄文ノート93 「かたつむり名」琉球起源説―柳田國男の「方言周圏論」批判 210830

 縄文ノート94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論181204→210907

 縄文ノート147 『ちむどんどん』からの古日本語(縄文語)解明へ 220820

⑻ 母音・子音の音韻転換論

 帆人の古代史メモ 琉球論1 「へのこ」考 171129→200131

 帆人の古代史メモ 琉球論6 古日本語は「3母音」か「5母音」か? 181210→200218

 スサノオ大国主ノート 倭語論15  古日本語は「3母音」か「5母音」か? 200216

 スサノオ大国主ノート 倭語論17  「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」 「おあ」倭語母音論 200316

 (再)縄文ノート149 「委奴国」をどう読むか? 220905     

⑼ 漢字分解解釈論

 スサノオ大国主ノート 倭語論1 平和について 200123

 スサノオ大国主ノート 倭語論4 「倭人」の漢字使用 200126

 スサノオ大国主ノート 倭語論5 「和魂」について 200127

 スサノオ大国主ノート 倭語論6 「神」について 200128

 スサノオ大国主ノート 倭語論7 「鬼」の国 200129

 スサノオ大国主ノート 倭語論8 道と礼と信の国 200130

 スサノオ大国主ノート 倭語論14 「アマテラス」か「アマテル」か 200217

 スサノオ大国主ノート 倭語論16 「日本語」「倭語」「土器人(縄文人)語」 200224

 縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論 201119→1217

 縄文ノート31 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文 191004→201223

⑽ 掛詞論(同音異義字使用論)

 霊(ひ)の国の古事記論9 「天津」はどこか?(090626)

 霊(ひ)の国の古事記論35 「ヤマト」は「山人」(100505)

 季刊日本主義43号 『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ (2018秋)

 縄文ノート33  「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考

 帆人の古代史メモ 琉球論2 「龍宮」は「琉球」だった 180512→200201

 帆人の古代史メモ 琉球論3 「龍宮」への「无間勝間の小舟」 200202

 帆人の古代史メモ 琉球論7 「日(ひ:太陽)信仰」か「霊(ひ:祖先霊)信仰」か 170721→200220

 スサノオ大国主ノート 倭語論12 「大和」は「おおわ」「だいわ・たいわ」か「やまと」か? 200207

 

2 記紀分析等で求められる言語分析の5原則

 漢文が大好きて得意な歴史学者たちは「漢字好きの倭音倭語知らず」に、中国の歴史・文化が大好きな拝外主義の歴史学者たちは「漢才自慢の倭魂知らず」に、天皇中心史観(大和中心史観)の歴史学者たちは「和をもって貴しの倭知らず」となり、紀元前から倭人が漢字を使い、委奴国王や卑弥呼の使者が通訳を連れ、後漢や魏に国書を持参させて外交を行ったことなど想像もできないようです。

 「畑(火+田)」「畠(白+田)」など倭製漢字を作り、倭音倭語を漢字表記する独特の「倭流漢字用法」を確立していたことなど、想定もしていません。ましてや、祭りの「わっしょい」や烏行事の「ホンガ」などの解釈不能な倭語の探究や、アフリカからの言語の伝播ルートの解明などは専門外として放棄し、天皇家から漢字使用が始まったかのように歴史のねつ造を行っています。

 日本人に多いY染色体D型族は、アフリカ西海岸の熱帯雨林でE型族(ニジェールコンゴ族)と分かれ、ヒョウタンを持って病虫害の少ない東アフリカの高地湖水地方に移り、さらに食料の豊富な熱帯の「海岸の道」「海の道」を通ってインド南部に移住し、マラリアなどを避けて東インドビルマの山岳地域(照葉樹林帯)に移り、「海の道」と「草原の道」に分かれて東進し、前者は東南アジアのスンダランドが水没すると竹筏で黒潮にのって日本列島にやってきており、その言語は「主語-目的語-動詞」言語構造であり、途中のドラヴィダ語や東南アジア語の影響を強く受けていると考えます。

 

 記紀風土記の分析に欠かせない点として、言語論として次の5つの分析基準をこれまで書いてきましたが、ここにまとめておきたいと思います。Gooブログ・ヒナフキンスサノオ大国主ノート「倭語論1~17」(200123~0316)参照(注:「倭語論6 『神』について」は間違いがあり、いずれ修正します)

⑴ 倭音倭語分析

 第1は、呉音漢語・漢音漢語ではなく倭音倭語で分析するという原則です。

 

        

 大国主を「おおくにぬし」と読み、出雲国を「いずものくに」と読む以上、魏書東夷伝倭人条に書かれた一大国は「いのおおくに」、邪馬壹国は「やまのいのくに」、記紀の「大和」は「おおわ」と読むというような原則です。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源」「42 日本語起源論抜粋」参照

 後漢への「委奴国王(いなのくにのおう)」の使者が国書を持参しないことなどありえず、同行した通訳により外交交渉を行い、漢語を理解する文明国として認められたからこそ、銀印や銅印ではない玉印に次ぐ「漢委奴国王」の金印紫綬を後漢初代・光武帝から与えられたのです。

 「委奴国王」や「倭国」「邪馬壹国」「卑弥呼」などは倭人が国書に自ら記したものであり、当然ながら「委、倭」「奴」「邪」「卑」を母系制社会の倭人は良字として使用したのであり、これらを「悪字」としたのは漢代からの儒家たちであり、倭人は「甲骨文字」の時代からの本来の漢字用法を知ったうえでこれらの字を使用したと考えています。

 なお、古代史において「日本」は呉音・漢音読みで「ニチホン」「ニッポン」「ジツポン(→ジャパン)」と読むべきではなく、大国主を国譲りさせた武日照(たけひなてる)=武夷鳥(たけひなとり)=天日名鳥(あまひなとり)に見られる「日=ひな」からみて「ひなもと」あるいは「ひのもと」と読むべきと考えます。

 

⑵ 母音の音韻転換分析

 第2は、倭音倭語は「あ、い、う、いえ、うお」5母音であり、琉球弁では「あいういう」5母音、本土弁では「あ、い、う、え、お」5母音として残り、どちらで読むかの検討が必要なことです。スサノオ大国主ノート「倭語論15 古日本語は『3母音』か『5母音』か?」「倭語論17 『いあ、いぇ、いぉ』『うあ、うぇ、うぉ』『おあ』倭語母音論」参照

 なお、雲南などに住む「イ(委・倭)族」もまた「a、 i、 u、 e、ie、 o、uo」母音です。―縄文ノート「152 朝鮮ルート、黒潮ルートか、シベリアルート、長江ルートか?」

 沖縄弁(琉球弁)では、雨(あみ)、酒(さき)、風(かじ)、心(くくる)、声(こい)、夜(ゆる)など、その名残を多く残しています。

 出雲国風土記の「神戸(かむべ)・神原(かむはら)」と「神魂神社(かもすじんじゃ)・神魂命(かもすのみこと)」の「かむ=かも」の例など本土弁にも琉球弁からの伝播は残っており、「賀茂・加茂・鴨」は古くは「神(かも)」であったとみるべきです。―縄文ノート「37 『神』についての考察」「97 『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 

 なお、表1・図4のように、母音併用はさらに広範に見られ、その体系的な分析は専門家に任せたいと思いますが、記紀等の用法と現代の地名との対照や語源分析にあたっては注意する必要があります。Gooブログ・ヒナフキンスサノオ大国主ノート「倭語論17 『いあ、いぇ、いぉ』『うあ、うぇ、うぉ』『おあ』倭語母音論」(200316)参照

 

⑶ 子音の音韻転換分析

 第3は、沖縄弁の「た行か行」の音韻転換のように、「は行ま行た行な行ら行」の音韻転換が見られることです。記紀等の古日本語(縄文語)由来の倭音倭語の分析では、表2のような音韻転換の可能性を考慮する必要があります。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 

 

 このような子音の音韻転換がいつ、なぜ、どのようにして起こったのか、言語学国語学については全くの素人の私には解明できず、系統的な分析は誰か専門分野の方に取り組んでいただきたいのですが、私は記紀風土記・魏書東夷伝倭人条などの具体例について引き続き追究していきたいと思います。

 

⑷ 山人(やまと)族天皇家の掛詞(ダブルミーニング)分析の原則

 第4は、山人(やまと)族の天皇家スサノオ大国主一族の国を乗っ取ったことにより、スサノオ大国主一族が伝えてきた「旧辞」の音訓表記を記紀が異なる漢字に置き換えた可能性を検討する必要性です。

 山人(やまと)天皇家が「大和(おおわ)」を「やまと」読みに置き換えた例はすでに述べましたが、スサノオ大国主建国を隠蔽したもっとも重要な置き換えは、「海人・海(あま)」を「天」字に置き換え、神々を産んだ始祖神の「産霊(むすひ)」夫婦神を「産日(むすひ)」に置き換え、天皇家皇位継承を「霊(ひ)継」から「日継」に置き換え、祖先霊信仰の八百万神信仰を天照(あまてる)太陽神信仰に置き換えた歴史のねつ造です。

 

 幸い、出雲系の太安万侶日本書紀編集者は、荒唐無稽な神話表現で真実を伝えるなど、秘かにスサノオ大国主建国の真実を伝える工夫を行っており、読み手の推理力と読解力が試されます。

 

⑸ 縄文語=倭語ルーツ分析の原則

 日本語が東南アジア・中国の「主語―動詞-目的語」(SVO)言語構造ではなく、インドなどの「主語-目的語-動詞」(SOV)言語構造であり、しかも「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であることは、「主語-目的語-動詞」(SOV)言語で倭音倭語(いおんいご)の社会が成立した後に、呉音漢語・漢音漢語が借用語として広まったことを示しています。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「41 日本語起源論と日本列島人起源説」「42 日本語起源論抜粋」参照

   

 この事実は、「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服説」を裏付ける支配的言語の変遷などなく、縄文語がそのまま倭語となったことを示しており、縄文語のルーツが「主語-目的語-動詞」言語のインド・チベットビルマミャンマー)、さらにはアフリカの「主語-目的語-動詞」言語に遡る可能性が高いことを示しており、大野晋氏のドラヴィダ(タミル)語起源説は見直されるべきと考えます。

 なお、インド・ビルマなど他民族の支配を受けた国では、支配的言語は侵略民族語に入れ替わっている可能性が高く基礎語の統計的解析など意味がなく、元の民族固有の宗教語や農耕語などの継承性・希少性の高い言葉の比較が求められます。―縄文ノート「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」「80 『ワッショイ』と山車と女神信仰と『雨・雨乞いの神』」「128 チベットの『ピャー』信仰」「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」等参照

 

3 倭語(縄文語)とY染色体D型からの日本列島人起源論・人類起源論へ

 世界のどの民族も同じですが、アフリカをでた時期や分岐、合流時期が異なるDNAが混じり合った「多DNA民族」です。

 しかしながら、わが国は島国で太平洋戦争で敗北しアメリカに支配されるより前に他民族の征服されたことがなく、Y染色体D型が多いという特徴があります。

 このY染色体D型族は、アフリカ西海岸熱帯地域に残ったY染色体E型(コンゴイド)と分岐しており、他にはチベットビルマ雲南の山岳地域やミャンマー沖のアンダマン諸島バイカル湖近くのブリヤート人樺太と対岸の沿海州にしかまとまって存在ことから、「主語-目的語-動詞」言語の分布と重ね合わせると、旧石器時代・土器時代(新石器時代縄文時代)の日本列島人の移動をたどることができます。

 

       

 アフリカの糖質・DHA食による人類誕生地や、アフリカの神山天神信仰や母系制社会の地母神信仰、海人族の母族社会文化、アフリカの黒曜石利用文化、山人族の焼畑農耕文化などの拡散ルートをたどることができ、人類史解明に大きな役割を果たせるという利点をもっています。

 縄文社会文化やスサノオ大国主建国の八百万神信仰などは、このような世界史解明の鍵となる文明として世界遺産登録の価値があります。

 若い世代の皆さんには、狭い専門分野と地域主義を越え、世界文明の解明に向けて研究を進めていただくとともに、世界遺産登録運動を進めていただくことを期待したい思います。

 

□参考□

 

 <本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論2「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

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縄文ノート152 朝鮮ルート、黒潮ルートか、シベリアルート、長江ルートか?

 3万数千年前頃からの旧石器人と1万数千年前からの縄文人(土器人:新石器人)はどこからきたのか、そもそも同じDNAグループなのか、それとも様々なDNAグループが何次にもわたってやってきたのか、まだ未解明の点が多く残されています。しかも、発掘されている旧石器人、縄文人のDNAはあまりにも少ないというデータ限界があります。

 日本列島へのルートとしては、陸続きであった頃にナウマンゾウなどの大型動物を追ってやってきた朝鮮半島ルート説やヤシの実の漂着からの黒潮ルート説を子どもの頃には習いましたが、Gm遺伝子や細石刃文化からのシベリアルート説や照葉樹林文化や稲作からの長江ルート説なども出てきており、複数ルート説なども出てきています。

 私は西アフリカ原産のヒョウタンが若狭の鳥浜遺跡や青森の三内丸山遺跡から発見されていることと日本人に多いY染色体D型のDNAからみて、縄文人はアフリカ西海岸の熱帯雨林で7万年前頃に誕生したC型人から4万年前頃にⅮ型人とE型人(西アフリカのコンゴイド)が別れ、Ⅾ型人はドラヴィダ族の住む南インドから東インドミャンマー高地に移動し、海の道と草原の道の2ルートに別れ、東南アジアを経由した黒潮ルートと中央アジアを経由のシベリアルートを通り日本列島で出会ったと考え、それより以前の石垣島沖縄本島で発見されたY染色体O型の旧石器人は東南アジアから黒潮ルートで日本列島にやってきたと書いてきました。―縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「46 太田・覚張氏らの縄文人『ルーツは南・ルートは北』説は!?」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」等参照

 

  

 

 しかしながら、縄文ノート「148 『地・姓・委・奴・卑』字からの中国母系社会論」「149 『委奴国』をどう読むか?」をまとめる中で、雲南などに住む「イ(委・倭)族」が、「ピー」信仰であり、「すべての音節の末尾が母音で終わる開音節言語」で、「a、 i、 u、 e、ie、 o、uo」母音であるということや、ブリヤート人の住むバイカル湖あたりをルーツとしていたモンゴル族匈奴を「ヒュン・ナ」と読み「委奴国:ふぃな(ひな、いな)の国」と読む私の説と符合することなどから、「長江ルート」「朝鮮ルート」「シベリアルート説」「黒潮・シベリアルート合流説」について再検討する必要がでてきており、DNAデータの見直しを含めて再検討したいと思います。

 なお、ここで掲載した図は高緯度地方の距離・面積が著しく拡大されるメルカトル図法によるものであり、実際には図2のようにシベリアルートは図の1/2ほどの距離であり、徒歩による草原の道の移動は困難ではなかったと考えます。

 

    

1 NHKの「マンモスハンター説」「黒潮民説」「長江稲作民説」

 20年以上前になりますが 2001年放映のNHKスペシャル「日本人 はるかな旅 第1集 マンモスハンター、シベリアからの旅立ち」では、松本秀雄大医科大学名誉教のGm遺伝子分析により、マンモスハンターのバイカル湖畔起源のブリヤート人が氷河期末期(1万年前頃)に陸続きのカラフト経由で北海道にやってきたとしていました。

 肉好きで「はじめ人間ギャートルズ」をよく見ていたからなのか、NHKスタッフたちは、マンモスハンター日本人説をトップに持ってきています。

      

 「第2集 巨大噴火に消えた 黒潮の民」では、氷河期にインドシナインドネシア・フィリピンの間にあったスンダランドから銛を持った魚食系の海人族が1万2千年前頃に黒潮に乗ってやって来て定住し、貝がら紋土器文化を育んでいたものの、6300年前の喜界カルデラ薩摩硫黄島)の大噴火で消滅したという説を紹介しています。槍を持ってマンモスなどを追いかける縄文人イメージとは大 きく異なります。

             

 「第3集 海が育てた森の王国」では、氷河期が去り、対馬暖流が日本海に流れ込んで日本列島は温暖で雨や雪の多い気候となり、栗やドングリの育つ豊かな森が生まれ、縄文文化が生まれたとしています。「クリグリ大好き縄文人説」です。

 「第4集 イネ 知られざる1万年の旅」では、6千年前頃から「熱帯ジャポニカ」が栽培されていたという説から、縄文稲作のルーツをラオスや長江流域などに求め、今も利用されている竹筏で黒潮を横切ってイネとともに日本列島にやってきたという説です。

             

 子どもの頃に習った陸続きの朝鮮半島からナウマンゾウなどを追ってやってきたという説については、旧石器人がやってきた4~3万年前頃には対馬海峡朝鮮海峡)は陸続きではなかったことなどからでしょうか、NHKは取り上げていません。

 これらは20年以上前にまとめられた番組で、時代的な限界もありますが、次のような問題点があると考えます。

 第1は、「日本人 はるかな旅」としていますが、4~3万年前からの全国に1万カ所以上ある旧石器遺跡についてふれていないことです。「縄文人 はるかな旅」とすべきでしょう。―「縄文ノート65 旧石器人のルーツ」参照

 第2は、東南アジアや中国・台湾のように多くの少数民族がそれぞれ部族社会を形成するのではなく、琉球から北海道まで対馬暖流にそって「貝の道」「黒曜石の道」「ヒスイの道」「土器の道」があり、海人族の縄文人は活発な交流・婚姻(妻問夫招婚)・交易を行い、共通する言語・宗教・縄文農耕・生活文化(縄文文明)を育んでいた可能性についてにふれていないことです。

 第3は、女性・子ども中心の採集・漁労や栽培など想像もせず、遊牧民ユダヤキリスト教の西欧中心史観の狩猟・肉食・男性主導進化説を引き継ぎ、魚介食民族であったことを忘れてしまっていることです。

 第4は、縄文時代の妊娠土偶や女神像、円形石組・石棒、環状列石などの宗教遺物を無視し、地母神信仰の母系制社会であった可能性を検討していないことです。なお、甲骨文字時代の「地」字は「土+女性器」の象形文字であり、「姓=女+生」字からみても中国も殷・周時代は母系制社会であり、春秋・戦国・秦・漢時代に父系制に変わった可能性が高いと考えます。

 第5は、イモや陸稲・粟・ソバなどの森林を切り開いた畑(火+田)の焼畑農業の縄文農耕の可能性を検討していないことです。

 

 NHKは「日本人 はるかな旅」をそのまま流通させるべきではなく、早急に修正・改定を行うべきです。

 

2 NHKクローズアップ現代の台湾-沖縄渡海実験の紹介

 2019年7月24日には、NHKクローズアップ現代は「独占密着!3万年前の大航海 日本人のルーツに迫る」として、照葉樹林帯文化論や長江流域稲作起源説などをふまえ、海部陽介東大教授の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の長江・台湾・沖縄ルート説を取り上げています。

 このプロジェクトはたまたま沖縄でポスターを見て知ったのですが、再現実験考古学の手法は高く評価しますが、仮説実験を行うなら草舟・竹舟・丸木舟だけでなく、竹筏についても移動実験を行うべきであり、仮説の絞り込みが間違っていると思いました。

             

 私はカヌーやヨットが好きで、倉嶋康毎日新聞記者が1977年に行った竹イカダでフィリピン・ルソン島から鹿児島まで34日間かけて航海した『竹筏ヤム号漂流記』(毎日新聞社)やハイエルダールの『コンチキ号漂流記』などを愛読していましたから、水や食料・種子などを積んだ多人数の部族が、積載量のない草舟や竹舟、丸木舟を人力で漕いで黒潮を横断したとする再現プロジェクトは「古代人を馬鹿にしたプロジェクト」と思わずにはいられませんでした。―「縄文ノート63 3万年前の航海実験からグレートジャーニー航海実験へ」参照

         

 そもそも、屈強な若者だけが日本列島に丸木舟を漕いで移住したのでしょうか? 女・子どもや年寄り、犬・ブタなどの動物は積んでいなかったのでしょうか?

 孔子が「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」と述べたように筏は戦乱の春秋時代には使われており、「日本人 はるかな旅 第4集 イネ 知られざる1万年の旅」でも紹介されたように浙江省の漁民は今も竹筏舟で漁を行っているのです。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源」「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「66 竹筏と『ノアの箱筏』」等参照

 そして「今でもたまに日本まで流される漁師がいるんです。台風とか海が荒れた時のことです。私が知っているだけでも7人の漁師が日本まで流されました」という話からみても、風が吹いただけで 船は流されるのであり、竹を編んで帆をつくる知恵は春秋時代より前からあった可能性は高いのです。

 実際、カヌーで遊んでいると誰もが体験していると思いますが、艇だけでなく、体が帆の役割を果たして追い風を受けて快適に進んだり、逆に向かい風では実に漕ぐのがしんどくなるのです。帆が欲しいと思い、カヌーにお取り付けられる簡単な帆を購入したこともありましたが、さらに「アクアミューズ」というカヌーヨットを手に入れ、ヨットの製作まで行ったことがありました。 

 わが国での帆の使用は紀元前2~1世紀頃の銅鐸(福井県坂井市春江町)しか証明するものはなく、古代エジプトの帆船も5000年前近くしか確認できていませんが、竹筏での帆の利用は「古代人的合理性」からみてさらに古い可能性は高いと考えています。

         

 梅原猛氏の『森の思想が人類を救う』や安田喜憲氏の『森を守る文明・支配する文明』『森の日本文明史』、NHKの「日本人 はるかな旅 第3集 海が育てた森の王国」なども縄文社会を「森の文明」「森の王国」として捉えていますが、小学校まで岡山、中高と姫路で過ごした私の感覚だと、東南アジアでは「竹の文明」にもっと注目すべきと考えます。

 私の子どもの頃、肥後守(ひごのかみ:折り畳みナイフ)を誰もがよくポケットに入れていましたが、木よりも竹で遊ぶことが多く、刀や弓矢、釣り竿にしたり、陣地(隠れ家)をつくって遊んだり、切って放置されていた竹を沼に浮かべて筏にして遊んだこともありました。東南アジアのような竹の家の文化はありませんでしたが、民家は編んだ竹に粘土を塗って土壁にしていたのは、竹の家の延長であった可能性があります。竹垣や竹簾はどこにでもあり、田舎では半割の竹を交互に重ねて屋根にした小屋や竹床のベランダを見たことがあります。また、竹は水筒や食器、ザルや籠として利用され、イネ科の筍は春には欠かせない食材でした。

 

 竹は虫に食われてボロボロになるため交換して使用され、構造材・道具・竹簡などとして残りにくく歴史家からは注目されていませんが、石器で伐採・加工できる身近で加工しやすい材料であり、「木の文化」以上に「竹の文化」を位置付けるべきであり、竹筏は丸木舟よりも古くからの移動手段であった可能性が高いと私は考えます。

 「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」は、経験則から導きだされる旧石器人・縄文人的合理性から考えて「竹筏移住説」仮説から出発すべきであったと考えます。

 

3 日本列島への4移住ルート説の論点整理

 民族学者・人類学者は人骨や遺伝子(Y染色体ミトコンドリア・gm遺伝子など)に、歴史学者・考古学者は石器・土器・骨角器・木器に、農学者は栗やイネ、粟、ヒョウタンなどに、言語学者は倭音倭語の起源に、文化人類学者や民俗学者はもち食文化や宗教・神話などにそれぞれ主な関心がありますが、私はそれらのどの専門家でもありませんので、各分野の成果を浅く広く総合的に検討するということになります。

 ただ、「スサノオ大国主建国論」については20年ほど研究を継続しており、その霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰や神山天神信仰・烏信仰、地母神信仰の黄泉帰り宗教、母系制社会、蛇・龍蛇・トカゲ龍・龍神信仰や、「主語-目的語-動詞」言語や倭音倭語、宗教語・性器語・農耕語の起源、農耕の起源などが縄文時代に遡るという仮説を系統的に分析し、さらにそれらの起源がアフリカ・アジアに遡る可能性について検討を進めてきており、それらを合わせて日本列島への移住について「最少矛盾仮説の総合的検討」を行いたいと考えます。

 この「朝鮮半島ルート説・黒潮ルート説・長江ルート説・シベリアルート説」の総合的な仮説検証作業の論点を整理すると次表1のとおりです。

 

 図4~7には、「縄文ノート64 人類拡散図の検討」で使用した各説の主なルート図を示しますが、本やネットで参考にした篠田謙一・中田力・海部陽介氏やウィキペディアの図がずっと今も同じ説なのか、それとも現在は異なる説なのかは確かめられていません。

 またY染色体D型の分布図(ウィキペディア)が、その調査サンプルの選定(地域別・部族別のサンプル数)が適切なのかどうかについても疑問があり(日本でも沖縄人・関西人・アイヌではDNA構成が異なります)、また旧石器人や縄文人のDNAデータがごくごく少ないという前提で見ていただきたいと考えます。

 これらの図4~7から明らかなことは、日本列島とチベットビルマ沖のアンダマン諸島バイカル湖畔(ブリヤート人)、アムール川下流樺太などに見られるY染色体D型を繋ぐ合理的な移動ルートとなっていないことです。 

 私は図5の中田力氏の「海の道」移動説図を基本に、チベットから北へ進みシベリアを横断する草原の道ルートを合体させた図8の2ルート合流説を考えました。

    

         

4  「海の道」「草原の道」ルート合流説(筆者)と疑問点

 「朝鮮半島ルート説・黒潮ルート説・長江ルート説・シベリアルート説」に対し、私はY染色体D型の分布、海人族である縄文人の貝・ヒスイ・黒曜石などの対馬暖流ルートでの交易、西アフリカ原産のヒョウタンの若狭・陸奥湾の移動、東インドミャンマー高地での熱帯ジャポニカからの温帯ジャポニカからの温帯ジャポニカの誕生、焼畑文化といも・赤米・麦・ソバ・もち・納豆食文化、「主語-目的語-動詞」言語族の分布、倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造言語、大野晋さんから直接教わった宗教・農耕語等ドラヴィダ語ルーツ説、ドラヴィダ族やミャンマー、東南アジア山岳地域・雲南の「ピー・ピャー・ヒ」(霊)、神山天神信仰や蛇神・龍蛇神信仰や火祭り、女神(地母神)信仰・性器信仰、縄文人の海人族(漁民)と山人(やまと)族(狩猟民)、焼畑農耕民の性格、南からきたというチベット族の伝承、などを総合的に検討し、前掲図1・図8の「黒潮ルート・シベリアルート移住合流説」を提案してきました。

 その概要は、次の表2のとおりです。

 

 この「黒潮ルート・シベリアルート移住合流説」に対し、縄文ノート「148 『地・姓・委・奴・卑』字からの中国母系社会論」「149 『委奴国』をどう読むか?」をまとめる中で、新たに次のような疑問点が浮かび、「長江ルート」「シベリアルート説」などについてさらに考える必要がでてきました。

① 「主語-目的語-動詞」言語構造であり、「すべての音節の末尾が母音で終わる開音節言語」であり、「a、 i、 u、 e、ie、 o、uo」母音であるという共通性を持つ「イ(委・倭)族」が「委奴(いな)・倭(い)」のルーツの可能性はないか?―縄文ノート「97 『3母音』か『5母音』か?―縄文語考」「147 『ちむどんどん』からの古日本語(縄文語)解明へ」参照

② 蛇神・龍蛇神・龍神信仰や「呉音漢語」は華南沿岸部一帯に住んでいた「イ(委・倭)族」の移住によってもたらされた可能性はないか?―縄文ノート「13 妻問夫招婚の母系制社会1万年」「36 火焔型土器から「龍紋土器」へ」「149 『委奴国』をどう読むか?」「149 『委奴国』をどう読むか?」「148 『地・姓・委・奴・卑』字からの中国母系社会論」参照

③ お尻の蒙古斑匈奴(ヒュン・ナ)と「委奴(ふぃな=ひな・いな)国」の類似性を持ち、Y染色体D型のブリヤート人が住むバイカル湖畔をルーツとする蒙古族系の匈奴(ヒュン・ナ)が縄文人のルーツの可能性はないか?

 

5 イ(委・倭)族ルーツ説―イ(委・倭)族と「委・倭(い)族」は同族か?

⑴ Y染色体D型のルーツの検討

 今回、イ(委・倭)族のY染色体の型を探していると、ウィキペディアに「Y染色体ハプログループの分布 (東アジア)」というデータが見つかりましたので、表3に主な部分を抜粋しました。―「Y染色体ハプログループの分布 (東アジア) - Wikipedia」参照

 

 結論から言えば、イ族(サンプル数D=125人)にはY染色体D型は0.8%しかみられず、漢族(D=166人)の0.8%と同じであり、台湾原住民(D=246人)が0.0%であることからみても、DNAからは日本人(Ⅾ=259人)の34.7%とは差が大きく、イ族から縄文人が分岐して台湾をへて日本列島にやってきた可能性はないように思われます。

 またイ族はK型が28.0%あり、ウイグル族(Ⅾ=70人)と近い可能性が高く、日本人が0.0%であるのとは違い、同じ照葉樹林帯地域に住んでいた別のDNA族であったとみられます。

 縄文人Y染色体D型のチベット人(Ⅾ=46人)41.3%、アンダマン人(Ⅾ=37人)73.0%と近い可能性が高く、東アジアの各国では1~3%しか見られないことから見て、他部族と交わることの少ない「海の道」を日本列島にやってきた可能性が高いと考えられます。

 日本人にはD型34.7%に次いでO1b型が31.7%で、韓国人(Ⅾ=506人)の32.4%、ベトナム人(Ⅾ=70人)の32.9%、マレーシア人(Ⅾ=50人)の32.0%と似ており、漢族は16.3%です。

 さらにO2型は日本人20.1%に対し、韓国人44.3%、漢族55.4%、ベトナム人40.0%、タイ人(Ⅾ=34人)35.3%、マレーシア人(Ⅾ=50人)30.0%、チベット人39.1%です。

 これらのY染色体O型族は東南アジアから黒潮に乗って北上して日本列島に直接やってくるとともに、華南沿岸部の海人族が日本列島に漂着を繰り返したり、中国・朝鮮から戦乱を逃れてやってきた人たちである可能性が高いと考えます。

 「イ(委・倭)族」と縄文人焼畑農耕・食文化、母音、宗教、部族名など多くの共通性が見られることは表2のとおりですが、Y染色体D型のDNAからみて「イ(委・倭)族」と縄文人は同じ地域で同じ文化を共有していた時期があった異なる部族であることを示しています。

 その場所は「イ(委・倭)族」の住む雲南よりチベット高原に近い東インドミャンマーの山岳地域と私は考えています。

 

⑵ Y染色体D型族の華南沿岸居住の可能性

 倭語は「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であり、表4~6のように農業食物語・宗教語などのルーツは南インドのドラヴィダ語(タミル語)であり、さらに表6のように性器語などに東南アジア語が混じるとともに、全ての言葉に呉音漢語と漢音漢語が加わる3層構造説になっていることからみて、委奴族・委族は日本列島に移住する途中、東南アジアのスンダランドや華南沿岸部に定住していた時期があった可能性はどうでしょうか?

 

 倭音倭語には性器語などに東南アジア語が混じっているのに対し、農業・食物語や宗教語などでは倭音倭語に呉音漢語・漢音漢語がそれぞれ対応している3層構造からみて、Y染色体D型族は東南アジアのスンダランドあたりにはしばらく居住したものの、長江流域や華南沿岸部には居住することはなかったと考えます。

 「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」で、「呉音漢語は徐福一行などが紀元前3世紀に、漢音漢語は紀元1世紀の委奴国王・スサノオの遣漢使や7~9世紀の遣隋使・遣唐使がもたらしたと考えられ、倭音倭語の水田稲作起源がそれ以前に長江からではなく伝わった可能性が高いことを示しており、日本列島に定着したのは『海の道』をやってきた『主語-目的語-動詞』言語の倭音倭語族であることは明らかです」と書きましたが、Y染色体D型族は長江流域で稲作や呉音漢語を覚えたのではなく、インド南部で陸稲のインディカ米を栽培し、さらに東インドミャンマーの雨季・乾季地域で水稲の熱帯ジャポニカの栽培し、さらにマラリアなどの害を避けて冷涼な高地に移住して温帯ジャポニカを栽培して農耕・食べもの関係の倭音倭語を確立し、皮膚の色を赤褐色から黄色に変え、寒冷期にスンダランドをへて黒潮の道を直接、日本列島にやってきたと考えます。

 イネのDNAが日本はa・b・c型で、中国・朝鮮にみられるd・e・f・g型が見られないことからみても、海上移住に伴うボトルネック効果が働いていることが明らかであり、東インドミャンマー山岳部で生まれた寒さに強い温帯ジャポニカは、「海の道」を通って日本列島に伝えられたことが裏付けられます。―縄文ノート「26 縄文農耕についての補足」、「28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」参照

 また、農業・食物語はドラヴィダ語(タミル語)・呉音漢語・漢音漢語がきれいに分離しており、倭音倭語はドラヴィダ語系であり、山人(やまと)族・焼畑族のイモ食・もち食・赤飯・ソバ・焼畑文化とともに日本列島にやってきており、長江流域の農耕文化がルーツではありません。―縄文ノート「28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」、「109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」、「140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」、「145 『もちづき(望月)』考」参照

 

6 匈奴(ヒュン・ナ)ルーツ説―匈奴(ヒュン・ナ)と「委奴(ふぃな=ひな)族」は同族か?

 なんども書いたことの重複になりますので詳しい説明は省きますが、私は「委奴国」を「ふぃな(ひ:い)の国」(ひなの国、いなの国)と読んできました。―『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』「縄文ノート149 『委奴国』をどう読むか?」等参照

 不勉強な私は、今頃になってやっと紀元前4~紀元1世紀の匈奴が「ヒュン・ナ」の漢字表記であることを知り、匈奴「ピー」信仰の可能性が高いことを確認するととともに、匈奴(ヒュン・ナ)と紀元1世紀の「委奴(ふぃな=ひな)国」が同族の可能性がでてきてビックリしています。―「縄文ノート149 『委奴国』をどう読むか?」参照

 「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論」では、「『モンゴル秘史』はチンギスカンの始祖を『上天より命ありて生まれたる灰白色の狼(ボルテ・チノ)ありき。その妻なる青白き牝鹿(コアイ・マラル)ありき。大海を渡りて来ぬ』と書いており、バイカル湖の南で、黄色い肌のドラヴィダ系山人族の男と湖を渡って北からきた白人の女が出会ってブリヤート人となったことを伝えています」と書きましたが、Y染色体D型のブリヤート人モンゴル族のルーツの可能性があり、匈奴もまたその可能性があるのです。

 ウィキペディアの「Y染色体ハプログループ」より、中央・東・東南・北アジアにかけて多い、Ⅾ型、C型、O型、N型の分布図を示すと次のとおりです。―Y染色体ハプログループ - Wikipedia参照

 なお、Ⅾ型については、前にウィキペディアから引用していた図12も添付します。 

         

 

 これらの図と表3から明らかなことは、D型・O型は東南アジアルーツの南方系、C型・N型は中央・北アジアルーツの北方系であり、前者は「海の道」「川の道」を移住した海人族で、後者は「草原の道」を移住した狩猟・遊牧民であると考えられます。

 なお、黒曜石文化は火山の多いアフリカ高地湖水地方エチオピアをルーツとし、スマトラ半島から日本列島に神山天神信仰(ピー信仰)とともに伝わったものであり、「委=禾/女」の焼畑農耕文化、「夷=弓+矢」の弓矢の得意な部族などのルーツは、東インドミャンマーの山岳地域の山人(やまと)族であり、「海の道」の途中で黒曜石の鏃を手に入れ、ヒョウタンにコメやソバ、イモなどを入れて日本列島に移住したと考えられます。

 図10・11ではD型がチベットからバイカル湖あたりに移住したように見えますが、ウィキペディアの「ブリヤート人」をみると、ハプログループC2が63.9%、次いでハプログループNが20.2%としており、表3のモンゴル族の53.0%、10.6%と似ています。漢族とは異なるとされた匈奴もまたモンゴル系の可能性が高く、ブリヤート人に見られるⅮ型族の可能性は低くく、「匈奴(ヒュン・ナ)」と「委奴(ふぃな=ひな)」は単なる偶然の一致なのかもしれません。

 ただ、遊牧民の部族は多民族から形成されており、そもそもサンプル数が少ないこともあり、現代人のDNA構成から人類の起源・拡散に迫るには限界があり、アジアの旧石器人と縄文人の人骨からのDNAデータが増えることが望まれます。

 

7 まとめ

 縄文ノート「148 『地・姓・委・奴・卑』字からの中国母系社会論」「149 『委奴国』をどう読むか?」において、「イ(委・倭)族ルーツ説」(イ(委・倭)族と倭(い)族同族説)」「匈奴(ヒュン・ナ)ルーツ説(匈奴(ヒュン・ナ)と委奴(ふぃな=ひな)族同族説)を思いつき、悩んできましたが、以上のようにこの両説は成立せず、元の「海の道」「草原の道」ルート合流説が最少矛盾仮説として揺らぐことはありませんでした。

 最初に述べたように、私はどの分野の専門家でもなく、ネットと本(最新ではなく古いものが多くあります)の情報をもとにしたものであり、それらの誤りや古い情報による誤りを犯している危険性が大いにあります。各分野の専門家によるさらなる取り組みを期待しています。

 

□参考□ 

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

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縄文ノート151 「氏族社会」から「母族社会」へ

 「縄文ノート152 朝鮮半島ルートか黒潮ルート、オホーツクルート、長江ルートか?」についてDNAデータ見直しや図表作成などに時間を取られており、その前に、忘備メモとして「母族社会論」を先にアップします。

 1週間前、別々の友人と話す機会に、これまで書いてきた縄文ノートから、「食べ物からの人類史・日本史」と「女・子どもからの人類進化論」をリストアップしたのですが、これまで「氏族社会」と書いてきたものを「母族社会」に書き換えるべきと考えるようになりました。

 縄文ノート「148 『地・姓・委・奴・卑』字からの母系社会論」「149 『委奴国』をどう読むか?」などで、中国の甲骨文字時代の「地=土+女性器」であることに気付き、縄文文明・メソポタミア・エジプト・インダス・ギリシア文明だけでなく、地母神信仰の母系制社会が普遍的に世界に存在することが確認できたからです。

 そこで、これまで文明論を「氏族社会→部族社会→古代国家(部族連合国家と軍事専制国家)」と整理してきましたが、「氏族社会」を「母族社会」と言い換える必要がでてきました。

 前に書いてきたものを修正はしませんが、いずれ一段落しましたら、新たに書き直したいと考えます。

 分類項目が異なるだけで内容は重複していますが、「女・子どもからの人類進化論」と「食べ物からの人類史・日本史」のリストを次に添付しておきます。

 

女・子どもからの人類進化論     

                                                                                                                 220906 雛元

「Ⅶ-2」などは「ヒナフキンの縄文ノート」の分類番号、(85)などは掲載番号です。―はてなブログhttps://hinafkin.hatenablog.com/

 

1 女・子どもからの人類進化論

Ⅶ-2(85) 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか 210713

 Ⅶ-3(87) 人類進化図の5つの間違い 210724

 Ⅶ-4(88) 子ザルからのヒト進化説 210728

 Ⅶ-5(89) 1段階進化論から3段階進化論へ 210808

 Ⅶ-8(107) ドーパミンからの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か 211110

 Ⅶ-10(126) 「レディ・サピエンス」と「女・子ども進化論」 220307

2 女・子どもの採集・漁労による糖質・DHA食(イモ・魚介食)人類進化論 

 Ⅶ-1(81) おっぱいからの森林農耕論 210622

 Ⅶ-9(111) 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論  211128 

 Ⅶ-11(140) イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生 220603

 Ⅶ-12(141) 魚介食進化説:イモ・魚介、ときどき肉食 220611

 Ⅶ-13(142) もち食のルーツは西アフリカ 220619

 Ⅶ-14(145) 「もちづき(望月)」考 220710

3 女・子どもの農耕開始論

 Ⅱ-1(5、25) 「人類の旅」と「縄文農耕」と「3大穀物単一起源説」 140613→201213 

 Ⅱ-2(26) 縄文農耕についての補足 200725→1215 

 Ⅱ-4(28) ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源説 201119→1217

 Ⅱ-5(55) マザーイネのルーツはパンゲア大陸 210211

 Ⅱ-6(29) 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論  201123→1218

 Ⅱ-11(108) 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説 211116

 Ⅱ-12(109) 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑 211121

 Ⅱ-16(121) 古代製鉄から「水利水田稲作」の解明へ 220205

 Ⅱ-17(125) 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論 220226

4 女・子どもからの地母神信仰論

 Ⅷ-9(75) 世界のビーナス像と女神像  210524 

 Ⅷ-10(86) 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰 210718

 Ⅷ-11(90) エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制

 Ⅷ-13(92) 祖母・母・姉妹の母系制 210826

 Ⅲ2-10(148) 「地・姓・委・奴・卑」字からの母系社会論 220827

5 縄文女神信仰論

 Ⅲ2-1(32) 縄文の「女神信仰」考 200730→1224

 Ⅲ2-2(73) 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき) 210510

 Ⅲ2-3(95) 八ヶ岳周辺・安曇野・佐久の女神信仰調査 210915

 Ⅲ2-4(96) 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡

 Ⅲ2-5(98) 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社 210924

 Ⅲ2-6(99) 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡 210930

 Ⅲ2-7(100) 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松 211003

 Ⅲ2-8(101) 女神調査報告5 穂高神社の神山信仰と神使 211008

 Ⅲ2-9(102) 女神調査報告6 石棒・男根道祖神 211213

 Ⅲ2-10(148) 「地・姓・委・奴・卑」字からの母系社会論 220827

 

食べ物からの人類史・日本史

                                                                                                                    220905 雛元

1 糖質・DHA食(イモ・魚介食)からの人類起源論 

 Ⅶ-1(81) おっぱいからの森林農耕論 210622

 Ⅶ-2(85) 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか 210713

 Ⅶ-3(87) 人類進化図の5つの間違い 210724

 Ⅶ-4(88) 子ザルからのヒト進化説 210728

 Ⅶ-5(89) 1段階進化論から3段階進化論へ 210808

 Ⅶ-8(107) ドーパミンからの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か 211110

 Ⅶ-9(111) 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論  211128 

 Ⅶ-10(126) 「レディ・サピエンス」と「女・子ども進化論」 220307

 Ⅶ-11(140) イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生 220603

 Ⅶ-12(141) 魚介食進化説:イモ・魚介、ときどき肉食 220611

 Ⅶ-13(142) もち食のルーツは西アフリカ 220619

 Ⅶ-14(145) 「もちづき(望月)」考 220710

2 採集・栽培・漁撈の母系制社会論

 Ⅷ-9(75) 世界のビーナス像と女神像  210524 

 Ⅷ-10(86) 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰 210718

 Ⅷ-11(90) エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制

 Ⅷ-13(92) 祖母・母・姉妹の母系制 210826

 Ⅲ2-10(148) 「地・姓・委・奴・卑」字からの母系社会論 220827

3 縄文女神信仰論

 Ⅲ2-1(32) 縄文の「女神信仰」考 200730→1224

 Ⅲ2-2(73) 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき) 210510

 Ⅲ2-3(95) 八ヶ岳周辺・安曇野・佐久の女神信仰調査 210915

 Ⅲ2-4(96) 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡

 Ⅲ2-5(98) 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社 210924

 Ⅲ2-6(99) 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡 210930

 Ⅲ2-7(100) 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松 211003

 Ⅲ2-8(101) 女神調査報告5 穂高神社の神山信仰と神使 211008

 Ⅲ2-9(102) 女神調査報告6 石棒・男根道祖神 211213

 Ⅲ2-10(148) 「地・姓・委・奴・卑」字からの母系社会論 220827

3 日本列島農耕論

 Ⅱ-1(5、25) 「人類の旅」と「縄文農耕」と「3大穀物単一起源説」 140613→201213 

 Ⅱ-2(26) 縄文農耕についての補足 200725→1215 

 Ⅱ-3(27) 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考 200729→1216 

 Ⅱ-4(28) ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源説 201119→1217

 Ⅱ-5(55) マザーイネのルーツはパンゲア大陸 210211

 Ⅱ-6(29) 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論  201123→1218

 Ⅱ-11(108) 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説 211116

 Ⅱ-12(109) 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑 211121

 Ⅱ-16(121) 古代製鉄から「水利水田稲作」の解明へ 220205

 Ⅱ-17(125) 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論 220226

 

□参考□ 

 <本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/