ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論

 私の母方の故郷、たつの市揖保川町から御津町にかけての丘陵で、小学生高学年の頃、鳩やジュウシマツを飼っていた鳥好きの又従兄弟たちが鳥もちや霞網で野鳥を捕りに行くのに付いて行ったことがありました(当時、霞網は禁止されていましたが知り合いの大人から借りてきており、幸い、未熟で成功しませんでした)。

 その時、同学年の武君から「この山の上からは古代人の糞がいっぱいでてくる」と教えられ、私は「こんな山の上で古代人が糞をいっぱいするかなあ。ウンチは雨で溶けてしまって化石になるだろうか」と疑問に思ったものです。

 古代史をやるようになって、ようやく武君は金屎(鉄屎:かなくそ)を人間の糞と誤解していたことが判りましたが、岡山県赤磐市赤坂の石上布都魂神社でも近くの川から金屎がいくらでも出てくるということを聞き、金糞岳(滋賀県岐阜県境)、金草岳(元は金糞ヶ岳:福井県岐阜県境)、金屎(愛知県一宮市青森県八戸市)、金糞平(青森県三沢市)の山名・地名だけからみても、稲作と木の文化とともに製鉄の残りかすの金屎は全国いたるところにあった可能性が高いと考えます。縄文土器の穴のシリコン・レプリカから縄文農耕が証明され、柱穴から縄文建築が再現されているように、「残り物には福がある」で古代製鉄の起源に迫る鉄屎(かなくそ)研究者が出てきて欲しいものです。

 「石器―土器―鉄器」時代区分による日本文明研究として、「採集・漁撈・狩猟―焼畑農耕―水辺水田稲作―鉄器・水利水田稲作」時代区分、「集落古墳―山上古墳―切盛古墳」時代区分、「氏族社会―部族社会―古代国家(常備軍・行政組織・統一宗教)」時代区分の整理に向けて、今回、播磨を中心に分析しました。

 本来はブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」か「帆人の古代史メモ」に書くべきでしょうが、いずれ「製鉄論」「古墳論」として整理したいと思います。

 

1 播磨南部の3~4世紀の「山上古墳」時代

 播磨北部の千草鉄(宍粟鉄)の産地で有名な宍粟市千種町の「金屋子神」による吉備・伯耆・出雲へのたたら製鉄伝承については縄文ノート「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」「118 諏訪への鉄の道」などで書き、千種川下流の赤穂(赤生)の最大級の銅鐸鋳型や黒鉄山地名など製鉄の可能性にもふれましたが、その東の揖保川流域での製鉄と古墳については触れませんでしたので、吉備の製鉄、阿蘇ピンク石の石棺との関係について個人的な興味もありまとめておきたいと考えます。

 私が武君から金糞の話を聞いた尾根伝いには4世紀初頭前方後方墳の権現山51号墳があり、すぐ南の雛山の5世紀初頭朝臣1号墳には阿蘇ピンク石の石棺蓋があり、さらにその南の御津町岩見の3世紀中頃の綾部山39号墳は『日本最古級の古墳』とされる隅丸方墳(道路で破壊される前は前方後方墳の可能性)があります。

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 個人的な話で恐縮ですが、雛山の北麓のケアハウスに両親が1年程暮らしていたことがあり、「雛元」名字に縁があると岡山県井原市出身の父は喜んでいました。南麓の朝臣1号墳とさらに南の綾部山39号墳の間には「釜屋」というたたら製鉄由来の可能性がある集落があり、私の曾祖母の出身地でした。また祖母の住んでいた「浦部」集落は揖保川町史によれば「占部」の可能性が指摘されており、五十狭芹彦(大物主の妻で箸墓に葬られた百襲(ももそ)姫の弟。後の吉備津彦)に殺されたと伝わる吉備の「ウラ(温羅)王」も「占王」であり、対馬壱岐をルーツとした「占部氏」由来の地名・人名ではなかったかなどと考えていました。

 さらに北の養久山(古くは焼山)には方墳、円墳、前方後円墳など39基が点々とあり、3世紀後半の養久山(やくやま)1号墳は最古のばち型の前方後円墳で大和・纏向のホケノ山古墳・纏向石塚・矢塚古墳と同形です。

 

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 周辺には黍田(元々は吉備田であろう)や神戸、土師、梶ヶ谷(鍛冶ケ谷)などの地名があり、さらに北の龍野町日山には大国主の御子の天照国照彦火明を祀る粒坐天照神社があり、龍野は播磨国風土記に書かれた垂仁朝(筆者推定4世紀後半)の野見宿禰(出雲系の土師氏)が出雲に帰る途中で亡くなり墓が築かれたとされる地です。

 

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 揖保川下流沖積平野で鉄器水利水田農業が開始され、部族共同体から世襲の首長が誕生し、墓が山上に築かれるようになったと考えられますが、この地での製鉄開始は3世紀中頃の可能性が高く、従兄弟が言っていた権現山51号墳からの尾根続きの金糞から考えると遅くとも4世紀初頭にはこの地で製鉄が行われていたことは確実と考えます。

 

2 揖保川千種川上流での製鉄と稲作

 この揖保川下流域の沖積平野での水利水田稲作に先立ち、播磨国風土記によれば、上流の宍禾郡(しそうぐん:現宍粟市において大国主は安師比売に妻問いして断られ水路を変える嫌がらせをしたとしており、天水陸稲栽培・水辺水稲栽培から大国主の水路水田稲作への転換を受け入れた地域と拒否した地域があったことが伺われます。

 西隣の千種(ちぐさ)川上流の讃容郡(さようぐん:現佐用市)では妻の玉津日女が「生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた」ので大国主は「お前はなぜ五月の夜に植えたのか」と言って他の所に去ったとしており、玉津日女の地母神信仰の稲作方法と大国主の田植え時期を遅らせてウンカの害を防ぐとともに水田で水を温めて栽培する新しい稲作方法とが対立したことを示しています。

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 なお「宍禾」「宍粟」は「宍+禾(稲・粟)」「宍+粟」であり、猪が多い山間で獣害対策として猪を狩りながら稲や粟をつくっていた土地を示しています。また、「禾」は倭音「いね」・呉音「ワ」・漢音「カ(クワ)」であり、「委奴(禾+女+女+又=いな)国」「倭(人+禾+女)国」は、女が稲をつくり、人に捧げる国を示しています。

 このように、紀元2世紀の大国主の頃の稲作は揖保川千種川の上流域の鉄生産の盛んな山間の水辺水田稲作であり、3世紀になって下流沖積平野で大規模な水利水田稲作が始まるとともに、燃料の木・炭を確保できる風の強い海岸の山上で製鉄が行われ、世襲制となった部族長の墓が山上に造られるようになったと考えます。なお、播磨国風土記では、製鉄原料の赤目砂鉄や赤鉄鉱由来地名の赤穂郡(元は赤生郡)、明石郡(元は赤石郡)が欠落しており、もし天皇家や京都の公家家などで発見されるようなことがあれば、スサノオ大国主一族の製鉄が解明される可能性が高いと考えます。

 この揖保川下流域の沖積平野の揖保郡には大国主と少彦名が稲種を置いた「稲種山」や大国主が粒(いいぼ)を落とした粒丘(いいぼおか)など、大国主一族が水利水田稲作を広めた記述があり、播磨国風土記には次のように大国主一族の製鉄と稲作に関わる記述があります。

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 古事記大国主と少彦名が「国を作り堅め」、少彦名の死後には美和の大物主と「共に相作り」と書き、日本書紀大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」、「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」とし、出雲国風土記大国主を「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と書くなど、天皇家大国主を「建国王・天下経営王・農業技術王・百姓王・五百鋤王・天下造王」として公認していますが、播磨国風土記の水利水田稲作の記述はこれを裏付けており、それは、千種川上流の讃容郡(現佐用町)と揖保川上流の宍禾郡(現宍粟市)での製鉄による鉄先鋤による水路水田づくりによって可能となったことを示しています。

 

3 農耕と「集落古墳→山上古墳→切盛古墳」

 製鉄・稲作の開始は分業を進めて共同体リーダーの首長(女性)をいだく部族社会となり、さらに葦が生い茂る沖積平野での鉄器水利水田稲作の開始は、鉄先鋤による水路・水田開発の集団工事と栽培活動により生産量を飛躍させ、世襲王が支配する部族国を成立させ、さらに統一王を誕生させます。

 その結果、氏族社会の集落墓から、近くの小山の上に部族世襲王の神山天神信仰にもとづく王墓群が築かれ、さらに巨大な造山(作山)古墳の誕生へと続きます。

 

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 新皇国史観(大和中心史観・天皇家中心史観)の考古学では大きさ・高さを基準に「弥生式墳丘墓」と「古墳」を分けて両者を分離し、3世紀後半からを「古墳時代」として天皇家建国と結びつけようとしていますが、「石器-土器-鉄器」時代区分説の私は立地条件から「集落古墳→山上古墳→切盛古墳(造山・作山古墳)」の順で考えています。

 切盛(きりもり)古墳は、小山の裾を切って整形した切山古墳、尾根を切って整形した尾根切り古墳、周辺を掘って切り取った土を盛って整形した切土盛古墳などになります。

 私が考える「石器-土器-鉄器」時代区分説と「集落古墳→山上古墳→切盛古墳」時代の関係は次表の通りです。

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 揖保川海岸部・下流域のこの地には3世紀中頃から4世紀初頭の「山上古墳」が点々とあり、これらは通説では小山上の「弥生式墳丘墓」としていますが、私はスサノオ大国主一族の「山上古墳」とみており、4世紀後半から大和では大型の「切盛古墳時代」になると考えています。

 

4 「ばち型前方後円墳」などはスサノオ大国主一族の古墳様式

 ばち型前方後円墳3世紀初頭の纏向石塚古墳と3世紀中頃以前の纒向矢塚古墳と近年発掘された大型建物を結ぶ線が穴師山に向かい、3世紀後半の養久山1号墳や3世紀末の浦間茶臼山古墳岡山市)や椿井大塚山古墳木津川市)、3世紀の矢藤治(やとうじやま)山古墳(岡山市の吉備中山)、箸墓(元々は4世紀説)が同じばち型であることや、3世紀中頃のばち型の綾部山39号墳の埋葬部分の「石囲い・石榔・木棺」3重構造と、箸墓から穴師坐兵主神社、穴師山に向かう線上にある3世紀後半のホタテ貝型のホケノ山古墳の「石囲い・木榔・木棺」3重構造が類似していること、2世紀後半~3世紀前半の楯築古墳(倉敷市)と同じ双方中円墳が4世紀前半の鏡塚古墳(高松市)や4世紀後半の猫塚古墳(前同)や4世紀後半の櫛山古墳(天理市)などに見られることからみて、吉備・播磨・讃岐・大和・山城のこの時代の古墳は同じスサノオ大国主一族の墓制であることを示しています。

 

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 古事記によれば、少彦名が亡くなった後、大国主のもとに大物主が現れ、「吾をば倭の青垣の東の山(御諸山=美和山=三輪山)の上に拝し奉れ」と述べて「共與(とも)に(国を)相作り成さむ」と協力して国づくりを行ったとしており、大物主(スサノオの御子の大年一族で代々襲名)の拠点である三輪の北の纏向(間城向)に大国主(穴師坐兵主大神)が祭祀拠点(大型建物)を置き、大物主大神スサノオ)の祭祀を行ったことが、穴師山信仰(穴師坐兵主神社)とばち型前方後円墳、「石囲い・石槨木榔・木棺」3重構造の埋葬様式によって裏付けられます。

 

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 纏向の箸墓が穴師山(大国主を祀る穴師坐兵主神社の神山)を向いていること、民の半数以上が亡くなるという恐ろしい疫病を英雄・大物主が退散させたと日本書紀に書かれていること、「昼は人作り、夜は神作る」は昼は御間城入彦(後に崇神天皇と忌み名)の山人(やまと)族、夜はスサノオ大国主一族が作ったことを示しており、手逓伝(てごし:バケツリレー方式)で大坂山(注:奈良盆地入口の大阪山口神社は大山祇(スサノオの妻・神大市姫の父)、スサノオ神大市姫を祀る)の石を運んだとする築造方法は出雲族の龍野の野見宿禰墓と同じであることなどから、箸墓は「大物主オオタタネコ大田田根子スサノオの子の大年=大物主を襲名)とモモソ姫(倭迹迹日百襲姫:第7代孝霊天皇皇女)の夫婦墓」であると私は考えています。―「縄文ノート118 諏訪への鉄の道」の図4再掲。詳しくは、Seesaaブログ『ヒナフキン邪馬台国ノート』の「纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」(200128) https://yamataikokutanteidan.seesaa.net/article/473308058.html

 なお、箸墓については私が学生の頃は4世紀と習いましたが、「モモソ姫箸墓=卑弥呼墓=アマテル墓」空想説の邪馬台国畿内説論者たちは百襲(ももそ)姫や天照(あまてる)大御神、「筑紫日向橘小門阿波岐原」の高天原記紀記載などを全て無視し、邪馬壹国時代に遡らせて3世紀後半卑弥呼墓説を唱えています。しかしながら、C14年代測定法の補正無視や古い時代の木片資料の混入などが指摘がされており、安本美典氏の天皇の即位年推定(私も追試)からも箸墓の造営は4世紀後半と考えます。

 古墳(円墳・方墳・前方後円墳前方後方墳)を天皇家が定めた墓制などとする何ら根拠のない新皇国史観の空想から覚めるべき時です。

 「集落古墳→山上古墳→切盛古墳」区分に基づき、大国主の八百万神信仰の山上天神思想が始まった2世紀後半からの筑紫・出雲・吉備・播磨・讃岐・大和・山城などの「山上古墳」の全てについて分析・整理が必要と考えますが、今後の課題としたいと思います。

 

5 5~6世紀の「阿蘇ピンク石石棺」

 「縄文ノート120 吉備津神社諏訪大社本宮の『七十五神事』」において、岡山市5世紀前半の全国第4位の巨大前方後方墳の造山(つくりやま)古墳を取り上げましたが、その舟型石棺は灰色の阿蘇溶結凝灰岩であり、近くの阿曽地区の千引カナクロ谷製鉄遺跡は現時点で6世紀中頃の日本最古の製鉄遺跡とされ、吉備津彦に滅ぼされた温羅(うら)王の妻の阿曽媛の出身地です。

 また、赤磐市の南の瀬戸内市長船町西須恵の5世紀後半の築山(つきやま)古墳の家型石棺は熊本県宇土市の馬門石(赤石・阿蘇ピンク石:阿蘇溶結凝灰岩)であり、この同じ最高級ブランドの阿蘇ピンク石は播磨の朝臣1号墳の舟型石棺蓋、香川県観音寺市5世紀中頃~後半の丸山古墳の舟形石棺、5世紀中頃の帆立貝形の青塚古墳の舟形石棺、高槻市6世紀前半の今城塚(いましろづか)古墳(第26代継体天皇の陵墓説)など5~6世紀の大阪・奈良・滋賀の10の古墳に使われています。 

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 阿蘇ピンク石の「阿蘇~吉備~播磨~摂津・河内~大和~近江」繋がりが5~6世紀にできたことは明らかであり、大物主一族の美和(三輪)王朝を御間城入彦(12代崇神天皇)が入り婿として乗っ取り、12代景行天皇が播磨の印南(今の加古川市)で妻問いして生まれた小碓命熊襲建から倭建名をもらう)熊襲(くまそたけるを討ち、14代仲哀天皇熊襲と戦って敗れたものの妻・神功皇后が撃ったとする記紀の記載からすると、阿蘇ピンク石石棺は天皇家阿蘇支配を示しているように見えます。

 

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 しかしながら、大国主一族は出雲大社の神在祭で全国の王族の縁結びを行うとともに、美和(三輪・大神神社)・纏向(穴師)でのスサノオを祀る各国の王たちの集まりを紀元2世紀から続けており、吉備・播磨・讃岐などの阿蘇石の石棺はスサノオ大国主一族の妻問夫招婚により、宇土市から運ばれた可能性もあります。

 どちらでしょうか?

 

6 謡曲高砂」の肥後の国阿蘇の神主・友成

 ここからはいささか脱線しますので、正統派歴史学の方はパスして下さい。『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』からの引用です。

 「高砂やこの浦船に帆をあげて この浦船に帆を揚げて 月諸共に出で汐の 波の淡路の島陰や 遠く鳴尾の沖すぎて 早や住の江に着きにけり 早や住の江に着きにけり」と唄われる謡曲高砂」は、かつては結婚の祝の席で必ず謡われたわが国の「ハッピーウエディング」ソングで、私たちの時にも叔父が朗々と唄ってくれました。

 「肥後の国阿蘇の神主、友成が都への旅にでる途中、有名な高砂の相生の松を見たいと思い、高砂の浦に立ち寄った。相生の松を探していると、老翁と老婆がやってきて、松の下を掃き清めた。友成が、高砂と住江(大阪市)の松は離れているのに、なぜ相生の松というのか、と尋ねると、老翁は高砂、老婆は住江の住人(どちらも松の精)で、遠く離れて住んでいても夫婦の心は通い合うもの、と教えた。友成が住江に行くと、住吉明神が現れ、神舞を舞って、御世万歳、国土安穏を祝った」という不思議な物語です。

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 兵庫県高砂市高砂神社(祭神:大国主スサノオ奇稲田姫)には創建時から根元が一つで幹が左右に分かれた相生の松があり、尉(じょう=おきな)と媼(うば=おみな)の二神が現れ、「神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん」と告げたことから、霊松として人々の信仰を集めるようになったという伝説があり、「高砂」は播磨国の歌枕として詠まれていますからこの「尉と媼」伝説の起源は奈良時代よりも古いことは確実です。

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 この高砂神社は大国主・少彦名建国伝承のある高御位山(天皇家皇位継承は同じ名称の高御座(たかみくら)で行われる)の麓にある「石の宝殿」やヤマトタケル生誕伝承の日岡神社(加古川市)に近く、神功皇后が「熊曾・三韓征西」(記紀)の際に大国主神の神助を得て勝利し、帰路に創建したとされています。

 この謡曲高砂」には阿蘇の神主、大国主神を祀る高砂神社、住吉大神(筒男3兄弟:スサノオの異母弟)を祀る住吉大社が登場し、高砂と住吉の夫婦の物語としている点に注目すべきです。皇国史観はこの夫婦をイヤナギ・イヤナミとこじつけていますが、大国主住吉大神の王女に妻問いした歴史を示しています。

 古代からの家系を伝えている出雲大社出雲国造(千家・北島)家、阿蘇神主の阿蘇家、住吉大社の津守家、籠神社 (このじんじゃ)の海部氏、諏訪神社の諏訪家、天皇家の6家のうちの、阿蘇・出雲・住吉の三家が関わる物語であり、謡曲高砂」はこの三家がスサノオ大国主一族であることを秘かに伝えていると私は考えます。

 私事で恐縮ですが、前掲図3の阿蘇ピンク石の石棺蓋が発見された雛山の西にある岩見港より私の祖母は迎えに来た御座船に乗って住吉大社に仕えており、それはいつの頃からか祖母の代までずっと代々続いていたと聞いていますから、播磨と住吉、阿蘇の海人族の関係の深さを実感ています。

  

7 温羅王・阿曽姫一族の製鉄法

 桃とマスカットの産地であり、桃太郎伝説のある岡山で小学生時代を過ごした私としては、箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫(ヤマトのトトヒのモモソヒメ)の名前は「桃襲姫」ではないかと考え、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)では次のように書きました。長くなりますが、引用します。

 

マル 21:09

 纏向から大量の桃の種が見つかっているんだから、モモソヒメの「百(もも)」は「桃」、「百襲(ももそ)姫」は「桃蘇姫」で、イヤナギの桃による黄泉軍の撃退伝説にちなんだスサノオ大国主系の皇女だと思うよ。

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長老 21:11

 桃は縄文時代前期には日本に伝わり、中国から倭国桃源郷と見られていたんだ。イヤナギが黄泉の国から黄泉比良坂(よもつひらさか)まで逃げてきた時、桃の実を投げつけて黄泉軍を追い払ったという神話からみて、桃は死を払う霊力を持っていると信じられていたんだ。「蘇(よみがえる)」字を使った「桃蘇姫」説はありうるなあ。

マル 21:14

 思いっきり脱線するけど、昔、岡山市の仕事した時、「桃から生まれた桃太郎」のおとぎ話は「桃を食べて若返ったお婆さんの桃尻から生まれた桃太郎」という回春話しの新説を飲み会で提案して盛り上がったことがあったよ。百襲姫(ももそひめ)の弟の吉備津彦(きびつびこ)が岡山市吉備津神社に祀られているから、彼から贈られた桃を食べて高齢出産した桃蘇姫の話が吉備に伝わり、桃太郎伝説が生まれたのかもしれないね。

 

 吉備の温羅王を殺した五十狭芹彦(後の吉備津彦)の姉がモモソ姫であることからみて、吉備から桃好きの姉に桃が贈られ、「桃襲姫」の名前になった可能性はあると考えます。

 さらに注目したいのは、温羅王の妻が備中の製鉄拠点である血吸川の阿曽地区の「阿曽媛」であり、「百襲姫」「阿曽媛」の「襲」「曽」が阿蘇を拠点とした「熊襲」の「襲」と重なり、近くの5世紀前半の全国第4位の巨大前方後方墳の造山(つくりやま)古墳の石棺が阿蘇凝灰岩であるという「曽=襲=蘇」繋がりです。―「縄文ノート120 吉備津神社諏訪大社本宮の『七十五神事』」の図4参照

 「あすか=飛鳥=明日香=あ須賀」「かすが=春日=か須賀」などの接頭詞の「あ」「か」の用法からみて、「阿蘇」は「あ蘇=襲=曽」であり、元々は「曽」(後の曽於:鹿児島県大隅国の郡)から遠く離れた地を指し、「大隅国」は「隅=すみ=くま」国が大きくなった名前ですから、「隅=すみ=くま=球磨=熊」であり、「曽」はその一地域の可能性があります。

 単なる「語呂合わせ」の解釈と思われるでしょうが、現在の「熊本」「阿蘇」は「熊襲」からきた名前の可能性が高く、鹿児島県の東部から移ってきた隈(熊)族と曽(蘇・襲)族とが作り上げた国と考えられます。

 従って、曽(蘇・襲)族が吉備に移住し、その「阿曽媛」が温羅王の妻となり、温羅が大和天皇家7代目の孝霊天皇の御子の五十狭芹彦(後の吉備津彦)に滅ぼされたことからみて、阿曽(阿蘇)と吉備・播磨・大和などの繋がりは、山人(やまと)天皇家が大和(おおわ)の大物主の権力を奪う前から繋がりがあったことが明らかです。

 そうすると、百済・筑紫ルート、新羅・出雲ルートとは別に、阿蘇・吉備ルートの製鉄技術伝播ルートがあった可能性があります。

 図8のように弥生時代の鉄鏃の出土数が福岡県の次に熊本県が多いのは、九州北部の邪馬壹国とその南の狗奴国の戦争を示すとともに、狗奴国において鉄生産が行われていた可能性が高いことを示しています。

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 なお、この図8は近年の島根・鳥取などでの大量の鉄器の発掘結果を反映しておらず、図9のように紀元前後から出雲・伯耆からは大量の鉄が発見されています。―「縄文ノート83 縄文研究の7つの壁-内発的発展か外発的発展か」参照

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 阿蘇谷はベンガラの原料となる「阿蘇黄土」(リモナイト:褐鉄鋼)の産地であり、「縄文ノート121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」では、愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター・同付属高校のリモナイト(褐鉄鉱、ベンガラの素材となる)の粉末を用いた製鉄実験を紹介しましたが、筒型炉による製鉄材料として阿蘇黄土は優れているのです。

 HP「和鉄の道―11.  私の阿蘇谷『阿蘇黄土』を訪ねる」は次のように紹介しています。https://infokkkna.com/ironroad/2012htm/iron8/1212asodani00.htm

 

 「熊本県教育委員会宮崎敬士氏から阿蘇谷、下扇原遺跡&小野原A遺跡の発掘調査の話を聞きました。弥生時代後期卑弥呼の時代の前夜、先進材料であった鉄器を大量に集積した集落が山深い阿蘇谷に出現し、古墳時代が始まると忽然と消えていった。鍛冶工房を含む数多くの住居・鉄器・鉄滓が出土し、住居の床敷きやあちこちに大量にベンガラがあったと。

 愛媛大村上恭通教授からは『1000℃を越える高温で焼かれたと考えられる謎の鉄滓も出土しているが、でも 炉跡からは粒状の鉄など製鉄が行われたという証拠は何一つ見つかっていない』とお聞きした。

 ・・・

 ベンガラについては岡山県吹屋に行ったことがありましたが、大量の阿蘇黄土(渇鉄鉱)が今も露天掘りされている。びっくりでした。」

 

 熊本県教育委員会宮崎敬士氏によれば、鉄滓が見つかっていることからみて、阿蘇谷では「弥生時代後期卑弥呼の時代の前夜」、すなわち紀元2~3世紀に鉄器製造を行っていた可能性が高いことになりますが、愛媛大村上恭通教授は「炉跡からは粒状の鉄など製鉄が行われたという証拠は何一つ見つかっていない」というのです。さらに探究していただきたいものです。

 重要な点はそれらの鉄関係集落が「古墳時代が始まると忽然と消えていった」というのであり、スサノオ大国主による百余国の委奴国から筑紫・投馬30国の邪馬壹国が分離独立(倭国大乱)し、筑紫29国と投馬国(さ投馬=薩摩+日向国妻(都萬))に挟み撃ちされた狗奴国(菊池・阿蘇等)は、吉備や播磨・讃岐、摂津などの大国主スサノオ大国主系の70国との連携を深め、リモナイト(褐鉄鉱)製鉄法を伝えた可能性が高いと考えます。

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 中国・新羅系とこの阿蘇系の製鉄法は同じなのか、それともリモナイト・赤目砂鉄・高師小僧(葦鉄)・黒目砂鉄・鉄鉱石など原料に違いがあるのか、円筒炉と箱型炉など炉形に違いがあるのか、木材・炭など燃料に違いがあるのかなどは不明ですが、オロチ王(備前赤坂)、スサノオ大国主(播磨・出雲)、温羅王(備中阿曽)などの製鉄法の違いについては今後の研究課題です。

 

8 アフリカ・インド製鉄ルートの阿蘇リモナイト製鉄

 少し横道に逸れますが、吹屋ふるさと村・ベンガラ館のある岡山県高梁市成羽町は父の故郷の東隣町で義叔母の出身地であり、ベンガラ(Fe2O3)と銅の生産地として有名ですが、他にも映画『八つ墓村』のロケに使われた広兼邸や金精神社があり、備中神楽発祥の地で(元は猿田彦の舞・剣舞を中心とした荒神神楽の神事。知らない親戚ですがネットで見ると雛元太夫が演じていました)、東に山を越した新見市には縄文野焼き作家として有名な猪風来美術館があります。―縄文ノート「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」「34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」「41 日本語起源論と日本列島人起源」「52 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について」参照

 父の実家すぐそばにも戦争中に銅の試掘をした坑道があり、兵庫県の生野銅山が有名であることなどからみても、中国山地で銅鉱は珍しくなく、698年に因幡国から朝廷に献上されたという記録よりはるかに古く、古代製鉄と同じ頃に銅の採掘・精製が行われ、スサノオ大国主一族により大量の銅器が製造されていた可能性が高いと私は推測しています。

 「ベンガラ(弁柄)」名のルーツが、江戸時代にインドのベンガル地方からの輸入品に由来するという偶然が気になっていたのですが、「縄文ノート42 日本語起源論抜粋」でまとめたように、私は日本語の「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造の基底にある倭音倭語は南インドのドラヴィダ語に日本列島への移動途中に東南アジア諸民族の言語が混じったものであると考えており、金属関係の言語については「縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」から表を再掲します。

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 製鉄については、①中国北部から朝鮮半島辰韓新羅)経由で伝わった、②中国南部から稲作とともに沖縄経由で伝わった、③インドから台湾・沖縄経由で伝わった、という3つの説がありますが、もしも①②なら金属関係の全てに倭音倭語があることの説明がつきません。

 「縄文ノート122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」で書いたように、私は4000~3000年前のアフリカをルーツとする製鉄がインドに伝わり、さらに日本列島に「鉄の海の道」から阿蘇リモナイト製鉄が始まり、吉備・播磨などに伝わった可能性が高いと考えています。

 

9 金糞調査・分析と再現実験からの倭鉄解明へ

 王墓や居住地の発掘からの鉄器・製鉄研究は考古学の専門分野になりますが、地表で発見できる金糞や製鉄原料の調査・分析や製鉄再現実験となると、工学系メンバーを含む市民研究グループの活躍が期待されます。

 DNA・言語・宗教・芋豆穀類食・製鉄など、アフリカからの日本人・日本文明起源論として総合的な検討が求められます。

  

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート124 「ヒナフキンの縄文ノート」一覧

 縄文論・日本列島人起源論・古代史論など日本文明論の取り組みの全体構成図とともに、「ヒナフキンの縄文ノート」の拙論一覧(掲載順とテーマ別)を掲載しました。なお、新説に合わせて旧説の修正はできていませんので、食い違いがある場合には新しい方が現在の私の到達点です。

 アフリカでサルからヒトになり、日本列島にやってきて建国にいたるまでの日本文明の全体史として、Y染色体DNAや農産物の起源と拡散、宗教や農耕などの倭音倭語の起源、木器・石器・土器・鉄器技術の継承・創造、焼畑農耕・水辺稲作・水利水田稲作文化、霊(ひ)信仰と地神・海神・水神・山神・天神信仰、家族・氏族・部族社会と国家(常備軍+行政組織)形成の総合的・全体的な把握に向けた「最少矛盾仮説」を考える参考にしていただければと考えます。

 なお、これからこの号を目次として更新していきます。

 

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はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」一覧(掲載順)

1 縄文との出会い 200105

2 私の日本民族起源論・文明論、縄文論、言語論、宗教論 200106

3 これからの「縄文社会研究」のテーマ 200110

4 弥生時代はなかった 200124

5(→25) 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」200209

6 古代国家形成からみた縄文時代―船・武器・稲作・宗教論 200215

7 動物変身・擬人化と神使、肉食と狩猟   200216

8 「石器―土器―鉄器」時代区分を世界へ 200223

9 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産に   200302

10 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰 200307

11 「日本中央部土器(縄文)文化」の世界遺産登録をめざして 200307

12 琉球から土器(縄文)時代を考える 200314

13(→91) 妻問夫招婚の母系制社会1万年 200401

14(→14) 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文   200404

15 「自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」 190129・0307→200411

17(→23) 八ヶ岳合宿の報告 200802

18(→45) ドラえもん宣言(海人・山人ドラヴィダ族宣言) 201015

19(→46) 太田・覚張氏らの縄文人「ルーツは南・ルートは北」説は成立するか? 201018

20 2020八ヶ岳合宿関係資料リスト 201203→210213

21 八ヶ岳縄文遺跡見学メモ191030・31 191103→201207

22 縄文社会研究会 八ヶ岳合宿見学資料 200802→1208

23(←17) 縄文社会研究会 八ヶ岳合宿報告 200808→1210

24 スサノオ大国主建国からの縄文研究 200911→1212

25(←5) 「人類の旅」と「縄文農耕」と「3大穀物単一起源説」 140613→201213 

26 縄文農耕についての補足 200725→1215 

27 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考 200729→1216 

28 ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源説 201119→1217

29 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論  201123→1218

30 「ポンガ」からの「縄文土器縁飾り」再考 201220→1221

31(←14) 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文 191004→201223

32 縄文の「女神信仰」考 200730→1224

33 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考 200801→1226

34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化) 150630→201227

35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰 200808→1228

36 火焔型土器から「龍紋土器」 へ 200903→1231

37 「神」についての考察 200913→210105

38 「霊(ひ)」とタミル語peeとタイのピー信仰 201026→210108

39 「トカゲ蛇神楽」が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体 201020→210109

40 信州の神名火山(神那霊山))と「霊(ひ)」信仰 201029→210110

41 日本語起源論と日本列島人起源説  200918→210112

42 日本語起源論抜粋 210113

43 DNA分析からの日本列島人起源論  201002→210115

44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石 201014→210120

45(←18) 縄文人ドラえもん宣言(ドラヴィダ系海人・山人族宣言) 201015→210123

46(←19) 太田・覚張氏らの縄文人「ルーツは南・ルートは北」説は!? 201018→210124

47 「日本列島人はどこからきたのかプロジェクト」へ  201202→210125

48 縄文からの「日本列島文明論」 200729→210228

49 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録をめざして150923→210230 

50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ 200207→210203

51 縄文社会・文明論の経過と課題 200926→210204

52 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について 201104→210205

53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ(富士見町歴史民俗資料館より) 201106→210208

55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸 210211

56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ 210213

57 4大文明論と神山信仰 210219

58 多重構造の日本文化・文明 210222

59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり 210226

61 世界の神山信仰 210312

62 日本人のルーツは「アフリカ高地湖水地方」 210316

63 3万年前の航海実験からグレートジャーニーへ 210323

64 人類拡散図の検討 210330

65 旧石器人のルーツ 210403

66 竹筏と「ノアの方舟」210405・6 

67 海人(あま)か山人(やまと)か? 210409

68 旧石器人・中石器人は黒人 210410

69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)210415

70 縄文人のアフリカの2つのふるさと 2104220422 

71 古代奴隷制社会論 210426

72 共同体文明論

73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)  210507

74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰 210517

75 世界のビーナス像と女神像  210524

76 オリンピックより「命(DNA)の祭典」をアフリカで! 210527

77 北海道・北東北の縄文世界遺産登録の次へ 210603

77 北海道・北東北の縄文世界遺産登録の次へ 修正1 210604

77 北海道・北東北の縄文世界遺産登録の次へ 修正2 210605

78 「大黒柱」は「大国柱」の「神籬(霊洩木)」であった 210611

80 「ワッショイ」と山車と女神信仰と「雨・雨乞いの神」 210619

81 おっぱいからの森林農耕論 210624

82  縄文文明論の整理から世界遺産登録へ210627

83 縄文研究の7つの壁ー内発的発展か外発的発展か

84 戦争文明か和平文明か

85 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか 210713

86 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰 210718

87 人類進化図の5つの間違い 210724

88 子ザルからのヒト進化 210728

89 1段階進化説から2段階進化説へ 210730

90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制  210822

91(←13) 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の「縄文1万年」  210824

92 祖母・母・姉妹の母系制 210826

93 「カタツムリ名」琉球起源説からの母系制論―柳田國男の「方言周圏論」批判180816・21→210830

94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論181204→200204→210907

95 八ヶ岳周辺・安曇野・佐久の女神信仰調査 210915

96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡

97 「3母音」か「5母音」か?―古日本語考 181210→190110→210922

98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社 210924

99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡 210930

100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松 211003

101 女神調査報告5 穂高神社の神山信仰と神使 211008

102 女神調査報告6 石棒・男根道祖神 211013

103 母系制社会からの人類進化と未来 211017

104 日本最古の祭祀施設―阿久立棒・石列と中ツ原楼観拝殿 211025

105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群 211030

106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ 211107

107 ドーパミンからの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か 211109

108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説 211116

109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑 211121

110 縄文社会研究会・東京の第2回例会 211122

111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論  211128

112 「縄文2021―東京に生きた縄文人―」から 211204

113 道具からの縄文文化・文明論  211208

114 縄文アーチストと「障害者アート」 211210

115 鳥語からの倭語論 211213

116 独仏語女性語からの母系制社会説 211216

117 縄文社会論の通説対筆者説 220107

118 「白山・白神・天白・おしら様」信仰考 220111

119  諏訪への鉄の道 220122

120 吉備津神社諏訪大社本宮の「七十五神事」220129

121 古代製鉄から「水利水田稲作」の解明へ 220204

122 「製鉄アフリカ起源説」と「海の鉄の道」 220210

123 亀甲紋・龍鱗紋・トカゲ鱗紋とヤマタノオロチ王 210214

125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論 220226

126 「レディ・サピエンス」と「女・子ども進化論」220307

127 蛇行剣と阿曽地名からの鉄の伝播ルート考 220318

128 チベットの「ピャー」信仰 220323

129 「スサノオ大国主建国論」目次案 220328

130 『サピエンス全史』批判その1 220331

131 「仮説ハンター」からの考古学・歴史学 220401

132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰 220404

133 『サピエンス全史』批判2 狩猟・遊牧民族史観 220411

134 『サピエンス全史』批判3 世界征服史観 220414

135 則天武后周王朝にみる母系制 220420

136 「銕(てつ)」字からみた「夷=倭」の製鉄起源 220427

137 『サピエンス全史』批判4 嘘話(フェイク)進化説

138 縄文人の霊(ひ)宗教と『旧約聖書』 220513

139 『サピエンス全史』批判5 狩猟採集民の「平和と戦争」220524

140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生 220603

141 魚介食進化説:イモ・魚介、ときどき肉食 220611

142 もち食のルーツは西アフリカ 220619

はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」テーマ別一覧

<()内番号はブログ「ヒナフキンの縄文ノート」掲載番号>

Ⅰ スサノオ大国主建国論からの縄文研究

 Ⅰ-1(1) 縄文との出会い 200106

 Ⅰ-2(2) 私の日本民族起源論、縄文論、言語論、宗教論 200107 

 Ⅰ-3(3) これからの「縄文社会研究」のテーマ(検討中) 200110

 Ⅰ-4(4) 「弥生時代」はなかった 200125

 Ⅰ-5(6) 古代国家形成からみた縄文時代―船・武器・稲作・宗教論 200215

 Ⅰ-6(21) 八ヶ岳縄文遺跡見学メモ191030・31 191103→201207

 Ⅰ-7(22) 縄文社会研究会 八ヶ岳合宿見学資料 200802→1208

 Ⅰ-8(23) 2020八ヶ岳合宿報告

 Ⅰ-9(24) スサノオ大国主建国からの縄文研究 200911→1212

 Ⅰ-10(53) 赤目砂鉄と高師小僧とスサ(富士見町歴史民俗資料館より) 201106→210208

 Ⅰ-11(67) 海人(あま)か山人(やまと)か? 210409

 Ⅰ-12(83) 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展か 210705

 Ⅰ-13(117) 縄文社会論の通説対筆者説 

 Ⅰ-14(123) 亀甲紋・龍鱗紋・トカゲ鱗紋とヤマタノオロチ王 220214

 Ⅰ-15(129) 「スサノオ大国主建国論」目次案 220328

 Ⅰ-16(131) 「仮説ハンター」からの考古学・歴史学 220401

Ⅱ 縄文生活・社会論

 Ⅱ-1(5、25) 「人類の旅」と「縄文農耕」と「3大穀物単一起源説」 140613→201213 

 Ⅱ-2(26) 縄文農耕についての補足 200725→1215 

 Ⅱ-3(27) 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考 200729→1216 

 Ⅱ-4(28) ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源説 201119→1217

 Ⅱ-5(55) マザーイネのルーツはパンゲア大陸 210211

 Ⅱ-6(29) 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論  201123→1218

 Ⅱ-7(69) 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)210415

 Ⅱ-8(78) 「大黒柱」は「大国柱」の「神籬(霊洩木)」であった 210611 

 Ⅱ-9(13,91) 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の「縄文1万年」181201→190308→210824

 Ⅱ-10(103) 母系制社会からの人類進化と未来 211017

 Ⅱ-11(108) 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説 211116

 Ⅱ-12(109) 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑 211121

 Ⅱ-13(112) 「縄文2021―東京に生きた縄文人―」から 211204

 Ⅱ-14(114) 縄文アーチストと「障害者アート」 211204

 Ⅱ-15(119) 諏訪への鉄の道 220122

 Ⅱ-16(121) 古代製鉄から「水利水田稲作」の解明へ 220205

 Ⅱ-17(125) 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論 220226

 Ⅱ-18(127) 蛇行剣と阿曽地名からの鉄の伝播ルート考 220318

Ⅲ 縄文宗教論

 1 霊(ひ)信仰

  Ⅲ1-1(7) 動物変身・擬人化と神使、肉食と狩猟 140827→0816→200216

  Ⅲ1-2(10) 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰 200307

  Ⅲ1-3(34) 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化) 150630→201227

  Ⅲ1-4(15) 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰 190129・0307→200411

  Ⅲ1-5(30) 「ポンガ」からの「縄文土器縁飾り」再考 201220→1221

  Ⅲ1-6(31) 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文 191004→201223

  Ⅲ1-7(37) 「神」についての考察 200913→210105

  Ⅲ1-8(38) 「霊(ひ)」とタミル語peeとタイのピー信仰 201026→210108

  Ⅲ1-9(74) 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰  210518

  Ⅲ1-10(120) 吉備津神社諏訪大社本宮の「七十五神事」220129

  Ⅲ1-11(128) チベットの「ピャー」信仰 220323

  Ⅲ1-12(132) ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰 220404

  Ⅲ1-13(138) 縄文人の霊(ひ)宗教と『旧約聖書』 220513

 2 女神・地母神信仰

  Ⅲ2-1(32) 縄文の「女神信仰」考 200730→1224

  Ⅲ2-2(73) 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき) 210510

  Ⅲ2-3(95) 八ヶ岳周辺・安曇野・佐久の女神信仰調査 210915

  Ⅲ2-4(96) 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡

  Ⅲ2-5(98) 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社 210924

  Ⅲ2-6(99) 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡 210930

  Ⅲ2-7(100) 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松 211003

  Ⅲ2-8(101) 女神調査報告5 穂高神社の神山信仰と神使 211008

  Ⅲ2-9(102) 女神調査報告6 石棒・男根道祖神 211213

 3 天神信仰

  Ⅲ3-1(33) 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考 200801→1226

  Ⅲ3-2(35) 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰 200808→1228

  Ⅲ3-3(36) 火焔型土器から「龍紋土器」 へ 200903→1231

  Ⅲ3-4(39) 「トカゲ蛇神楽」が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体 201020→210109

  Ⅲ3-5(40) 信州の神名火山(神那霊山)と「霊(ひ)」信仰 201029→210110

  Ⅲ3-6(44) 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石 201014→210120

  Ⅲ3-7(104) 日本最古の祭祀施設―阿久立棒・石列と中ツ原楼観拝殿 211025

  Ⅲ3-8(105) 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群 211030

  Ⅲ3-9(118) 「白山・白神・天白・おしら様」信仰考 220111

Ⅳ 日本語起源論

 Ⅳ-1(93) 「かたつむり名」琉球起源説―柳田國男の「方言周圏論」批判 180816→0821

 Ⅳ-2(94) 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論181204→200204→210907

 Ⅳ-3(97) 「3母音」か「5母音」か?―縄文語考 181210→190110→210922

 Ⅳ-4(41) 日本語起源論と日本列島人起源説  200918→210112

 Ⅳ-5(42) 日本語起源論抜粋 210113

 Ⅳ-6(52) 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について 201104→210205

 Ⅳ-7(80) 「ワッショイ」と山車と女神信仰と「雨・雨乞いの神」 210619

 Ⅳ-8(115) 鳥語からの倭語論 211213

Ⅴ 日本列島人起源論

Ⅴ-1(43) DNA分析からの日本列島人起源論  201002→210115

Ⅴ-2(45) 縄文人ドラえもん宣言(ドラヴィダ系海人・山人族宣言) 201015→210123

Ⅴ-3(46) 太田・覚張氏らの縄文人「ルーツは南・ルートは北」説は!? 201018→210124

Ⅴ-4(47) 「日本列島人はどこからきたのかプロジェクト」へ  201202→210125

Ⅴ-5(62) 日本人のルーツは「アフリカ高地湖水地方」 210316

Ⅴ-6(63) 3万年前の航海実験からグレートジャーニーへ 210323

Ⅴ-7(70) 縄文人のアフリカの2つのふるさと 210422

Ⅵ 縄文文明論

 Ⅵ-1(8) 「石器―土器―金属器」の時代区分を世界へ 150723→0816

 Ⅵ-2(9) 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産

 Ⅵ-3(48) 縄文からの「日本列島文明論」 200729→210228

 Ⅵ-4(50) 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ 200207→210203

 Ⅵ-5(51) 縄文社会・文明論の経過と課題 200926→210204

 Ⅵ-6(58) 多重構造の日本文化・文明 210222

 Ⅵ-7(11) 「日本中央部土器文化」の世界遺産登録をめざして 150923→200308

 Ⅵ-8(49) 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録をめざして150923→210230 

 Ⅵ-9(59) 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり 210226

 Ⅵ-10(77) 「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産登録の次へ 210603・04・08

 Ⅵ-11(82) 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ 210626

 Ⅵ-12(106) 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ 211107

 Ⅵ-13(110) 縄文社会研究会・東京の第2回例会 211124

 Ⅵ-14(113) 道具からの縄文文化・文明論  211208

Ⅶ 人類起源・拡散論 

 Ⅶ-1(81) おっぱいからの森林農耕論 210622

 Ⅶ-2(85) 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか 210713

 Ⅶ-3(87) 人類進化図の5つの間違い 210724

 Ⅶ-4(88) 子ザルからのヒト進化説 210728

 Ⅶ-5(89) 1段階進化論から3段階進化論へ 210808

 Ⅶ-6(64) 人類拡散図の検討 210330

 Ⅶ-7(65) 旧石器人のルーツ 210403

 Ⅶ-8(107) ドーパミンからの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か 211110

 Ⅶ-9(111) 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論  211128 

 Ⅶ-10(126) 「レディ・サピエンス」と「女・子ども進化論」 220307

 Ⅶ-11(140) イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生 220603

 Ⅶ-12(141) 魚介食進化説:イモ・魚介、ときどき肉食 220611

 Ⅶ-13(142) もち食のルーツは西アフリカ 220619 

Ⅷ 世界文明論 

 Ⅷ-1(66) 竹筏と「ノアの方舟」210405・6 

 Ⅷ-2(68) 旧石器人・中石器人は黒人 210410

 Ⅷ-3(84) 戦争文明か和平文明か 210716

 Ⅷ-4(71) 古代奴隷制社会論 210426

 Ⅷ-5(72) 共同体文明論 210506

 Ⅷ-6(56) ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ 210213

 Ⅷ-7(57) 4大文明論と神山信仰 210219

 Ⅷ-8(61) 世界の神山信仰 210312

 Ⅷ-9(75) 世界のビーナス像と女神像  210524 

 Ⅷ-10(86) 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰 210718

 Ⅷ-11(90) エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制

 Ⅷ-12(76) オリンピックより「命(DNA)の祭典」をアフリカで! 210527

 Ⅷ-13(92) 祖母・母・姉妹の母系制 210826

 Ⅷ-14(116) 独仏語女性語からの母系制社会説 211216

 Ⅷ-15(122) 「製鉄アフリカ起源説」と「海の鉄の道」 220210

 Ⅷ-16(130) 『サピエンス全史』批判1 220331

 Ⅷ-17(133) 『サピエンス全史』批判2 狩猟・遊牧民族史観 220410

 Ⅷ-18(134) 『サピエンス全史』批判3 世界征服史観 220414

 Ⅷ-19(135) 則天武后周王朝にみる母系制 220420

 Ⅷ-20(136) 「銕(てつ)」字からみた「夷=倭」の製鉄起源 220427

 Ⅷ-21(137) 『サピエンス全史』批判4 嘘話(フェイク)進化説 220506 

 Ⅷ-22(139) 『サピエンス全史』批判5 狩猟採集民の「平和と戦争」

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

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<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート123 亀甲紋・龍鱗紋・トカゲ鱗紋とヤマタノオロチ王

 スサノオ大国主建国論から縄文社会研究に入った私は、出雲大社で神使の海蛇を「龍神様」として祭り、神紋の六角紋(通説では亀甲紋)が海蛇神・龍神信仰の龍鱗紋(りゅうりんもん)であり、その起源が縄文時代に遡るとし、井戸尻考古館の「巳を戴く神子」をその根拠とするとともに、トカゲがジャンプするときに尻尾を上げる形状から縄文土器の縁飾りの「鶏頭」とされてきた突起や諏訪大社の「薙鎌(なぎかま)」はトカゲ龍であるとしました。

 そして、八俣遠呂智ヤマタノオロチ古事記)を日本書紀が「八岐大蛇」と書き換え、出雲神楽でヤマタノオロチ王を「トカゲ蛇」としていることから、ヤマタノオロチ王もまた東南アジアルーツの「トカゲ龍」を龍神として信仰する海人族系縄文人であると考えました。

 その時に指摘しなかったのですが、出雲大社の「亀甲紋」「龍鱗紋(りゅうりんもん)」は「トカゲ鱗紋」であることをここで補足説明し、製鉄とともに「トカゲ龍」信仰がヤマタノオロチ王からスサノオ大国主一族に伝わった可能性を検討し、縄文社会の内発的自立的発展の延長上にヤマタノオロチ王をへてスサノオ大国主建国が成立したことを明らかにしたいと思います。

 

1 これまでの「龍蛇」「トカゲ龍」「龍神」信仰の検討経過

 重複で恐縮ですが、これまで「龍蛇」「トカゲ龍」「龍神」信仰について書いてきたことをまとめておきます。

 

資料1 縄文ノート31) 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文 201004→200726→0802

 「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」と主張し、「火炎型縄文土器」を深海のシンボルとしてみていた岡本太郎さんは、海人(あま)族の「龍宮」が「琉球(沖縄)」であり、縄文人のルーツが龍宮であり、海人族の始祖が琉球の始祖のアマミキヨであることを見抜いていたのではないでしょうか?

 

資料2 縄文ノート33 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考 200731→0825

 水蒸気が天に昇り、山に雨(あめ=あま)となり山に降り、源流となって川から海に注ぎ、大地にしみ込んだ水は「黄泉=夜海」となり海と繋がるという水の循環に人(霊止)の死と再生を重ね、「天神-山神-木神―地(地母)神-水神-海神」信仰が生まれたと考えられます。

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 合わせて、天と地、巨木を繋ぐ雷から雷神信仰が生まれ、地下と川、海を行き来する海蛇・蛇を神使とする蛇(龍蛇)神信仰が生まれたと考えられます。土偶や土器の蛇文様や出雲大社の神使が海蛇であり、大神神社(大美和神社)の神使が蛇であることから見ても、海人族の縄文人スサノオ大国主の建国は繋がっています。

 

資料3 縄文ノート35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰  200808→1228

 出雲大社は神使の海蛇を「龍神様」として祭り、神紋の六角紋は通説では亀甲紋とされていますが、正式には海蛇神・龍神信仰の龍鱗紋(りゅうりんもん)であることからみて、海人族の天神信仰は雨をもたらす「龍神信仰」であったとみられます。

 海底を泳ぐ海蛇を神使とする海神信仰、地にもぐり巣を作る蛇を神使とする地神信仰に加えて、天から雨をもたらす龍を神使とする天神信仰として繋がっており、河川の源流域は死者の霊(ひ)が天に登り、降りて来る霊場(ひば=霊那)として信仰対象となっていたと考えられます。このイヤナギ・イヤナミ神話は紀元1世紀のことですが、その起源はさらに古い可能性があります。

 井戸尻考古館では、藤内遺跡出土の「巳を戴く神子」の頭の髪を束ねた形を蛇とみていますが、縄文時代に蛇信仰があったとすると、川の源流域の神那霊山信仰は縄文に遡る可能性がでてきました。

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資料4 縄文ノート36 火焔型土器から「龍紋土器」へ 200903→1231

2.夏王朝龍神信仰

③ 茅野市の「蛇体把手土器」や新潟・長野・福島等の「火焔型土器」の縁飾りからみて、海と大地、天を繋ぐ水神の「龍神信仰」は縄文時代に遡る可能性が高い。

 火焔型土器の4つの把手は、「足があり尻尾を上げてジャンプするトカゲと蛇」を組み合わせて龍とし、波の上を歩くデザインとした「龍紋土器」とみられる。

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④ 黄河流域の夏王朝龍神信仰は、龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう:刀型の儀礼用玉器)のデザインがベトナム→四川→二里頭(黄河流域)とシンプル化していることからみて東南アジア起源で、龍神は背中に突起があるトカゲをモデルにしたものである可能性が高い。

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3.日本の龍神信仰:ミシャクジ神と龍宮(琉球)と鮫(和邇

① ウィキペディアは「龍」について「様々な文化とともに中国から伝来し、元々日本にあった蛇神信仰と融合した」としていますが、海の道を通り、ヒョウタンやウリ、米などとともに、「主語-目的語-動詞」言語のドラヴィダ族が北東アフリカ(アフリカの角と言われるエチオピアあたり)からインドに渡り、さらに西へミャンマーアンダマン諸島を経て、スンダランドへ渡ったドラヴィダ系海人・山人族が1万数千年前頃から何次かに分かれて日本列島へと移動し、龍神信仰を伝えた可能性が高いと考えます。

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② 「蛇」と「龍」は、米などの「5穀名」や「神」などの名詞と同じく、和音・呉音・漢音の3重構造になっており、中国から呉音・漢音が伝わる以前に蛇(へび、み)、龍(たつ)の倭音・倭語があり、続いて紀元前3世紀頃に呉音「ジャ、タ」「リュウ」、さらに委奴国王(筆者説はスサノオ)が後漢卑弥呼(同・大国主筑紫王朝11代目)が魏へ使者を送るようになった紀元1~3世紀頃に漢音「シャ、タ」「リョウ」が伝わった可能性が高いと考えます。

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③ ちなみに、鰐(わに)、鮫(さめ)、蜴(とかげ:蜥蜴)には和音の呼び名しか通用しておらず、中国語との交流が始まる以前から、日本列島に南方から持ち込まれた呼び名の可能性が高いと考えます。

④ 諏訪大社の神長官守矢家の奥の『みさく神境内内社叢』の「みさく神=ミシャクジ神(御左口神)」は、漢音だと「シャ=蛇」であり「御蛇口神」の可能性があり、信仰の対象であった神籬(ひもろぎ:霊洩木)の下に蛇の巣があり、霊(ひ)を運ぶ神使として蛇が信仰されていた可能性があります。縄文土器土偶の「蛇紋様」にみられる蛇信仰が出雲大社の海蛇・龍蛇信仰、大神大社の蛇信仰へ続いているのと同じです。

⑤ また諏訪大社前宮では背後の山の「水眼(すいが)(倭音だとみずのめ:め=芽)と呼ばれる源流を信仰の対象としており、海人族にとっては海にそそぐ川の源流が天と繋がる聖地として考えていたことを示しており、神那霊山信仰と源流信仰(川神信仰)の天神宗教と、海神信仰と天神信仰(水源信仰)、蛇神信仰の統一です。

 

資料5 縄文ノート39 「トカゲ蛇神楽」が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体  201020→210109

3.「トカゲ蛇」神楽が伝える「龍神」信仰

④ 須我神社例大祭の動画から『トカゲ蛇』の姿を見ると、角を4本生やし、牙がなく、手足があり、胴体の長い形になっており、出雲大社の神使の「海蛇」が「龍神」信仰に変わるとともに、「龍」を「トカゲ」と考えた出雲の人たちは、ヤマタノオロチを「大蛇」とし、さらに「トカゲ蛇」=「龍神」として神楽にした可能性が考えられます。

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6.諏訪大社の「ミシャグチ」信仰と薙鎌(なぎかま)

 中世まで行われた諏訪上社の冬祭りでは、御室(みむろ)の中に藁、茅、またはハンノキの枝で作られた数体の蛇形、「そそう(祖宗)神」が安置され、翌春まで大祝がそこに参籠し、神長官とともに祭事を行い、諏訪神社の神体は蛇で、神使も同じく蛇であるとされています。

 ここで思い出されるのは、古事記スサノオ6代目(代々襲名)のもとに大国主が訪ね、スセリヒメ(須勢理毘売)に妻問した時、スサノオ大国主を「蛇の室」に寝かせたという神話です。これまで、試練を与えて大国主を試したと解釈されてきましたが、大国主に蛇神の祖先霊信仰を継承させるスサノオ7代目を襲名させる儀式であったことが、諏訪上社の御室の中に蛇形を置いて大祝(おおはふり)が参籠する儀式から裏付けられます。

 なお、オロチの国の支配と石上布都魂神社の祭祀を物部一族に任せたことからみて、物部氏スサノオ一族であり、諏訪上社の大祝の守屋氏(物部氏)もまたスサノオ一族として、蛇を神体として祀ったと考えられます。

 水の神・風の神とされる諏訪明神は巨大な蛇・龍として長野県や群馬県に伝わり、「神無月に神々が出雲に集ったとき、諏訪明神が龍(蛇)の姿で現れたが、体があまりにも大きすぎて集いの邪魔になったので明神は出雲に行かなくなった」「出雲には龍神の頭だけが現れ、体はいくつもの国にまたがり、尾は諏訪湖の高木(尾掛松)に掛かっていたといい、そこから大和(おわ、諏訪市)と高木(下諏訪町)の地名が生まれた」という伝承なども伝わっています。

 また、『日本書紀』の持統天皇記には「使者を遣わして、龍田風神、信濃須波水内(みのち)等の神を祭らしむ」とあり、諏訪と水内郡(長野県北部)の神は朝廷に風の神・水の神として崇敬されていました。諏訪地方には古くから、暴風を鎮めるために諏訪明神御神体・御神幣とされる薙鎌(なぎかま)を竿の先に結びつけて風の方向に立て、あるいは神木、神輿、建物に打ち付ける習慣があるとされています。その形は「蛇(龍)または鳥にも見える」とウィキペディアは解説していますが、尻尾が上がり、背中にギザギザがある形は蛇ではなく、すでにみたように「トカゲ蛇」型の龍神であり、火焔型縄文土器の把手の形に起源がある可能性があります。

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資料6 縄文ノート98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社 210924

① これまでの「ミシャグジ」説は次のとおりであり、私は縄文時代からの地母神・性器信仰と天神信仰(神名火山(神那霊山・神籬(霊洩木)・水神・龍蛇神信仰)・農業神信仰が習合されたと考えています。

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2 出雲大社などの「亀甲紋」は「トカゲ龍紋」

 亀甲紋は熊野大社出雲大社などの神紋とされています。主な神社は次表のとおりです。

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 亀甲紋のいわれとしては、海神信仰の海亀に結び付ける説や中国起源の亀卜(きぼく)に結び付ける説がみられますが、ウミガメやニホンイシガメの楕円形の甲羅の形や甲羅の模様からみてみても成立しません。特に、後者は古くは対馬国壱岐国伊豆国の卜部(うらべ)氏が行ったニホンジカの肩甲骨を使った太占(ふとまに)であったことが魏書東夷伝倭人条の「骨を灼きて卜し」からみて明らかであり、成立しません。

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 前者の海亀に結び付ける説は「龍宮」伝説から成立しそうですが、出雲大社がセグロウミヘビを神使の「龍蛇神」としていることや「龍鱗紋」説とは合いません。また、写真のような猛毒を持つセグロウミヘビの四角に近い鱗模様とも異なります。

 出雲神楽で「トカゲ龍」とされていることからみると、亀甲紋の形は次の写真に明らかなように「ニホントカゲ」の鱗の形と考えます。

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3 ヤマタノオロチはなぜ「八岐大蛇」なのか?

 八俣遠呂智ヤマタノオロチ古事記)を日本書紀が「八岐大蛇」と書き換え、出雲神楽でヤマタノオロチ王を「トカゲ蛇」としていることから、ヤマタノオロチ王もまた東南アジアルーツの「トカゲ龍」を龍神として信仰する一族であると私は考えました。

 「ヤマタノオロチ」名については「地名+名前」(どこどこの誰々)あるいは「属性+名前」(〇〇族の誰々)(〇〇屋の誰々)の命名が多いことからみて、「ヤマタ」地名由来か、「ヤマタ」族由来の名前の可能性が高いと考えます。

 それらの説は次のようになります。

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 「オロチ」名については、「縄文ノート39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」で書いたように、「オロチに『遠呂智』と『遠い国の呂(呂尚:周の建国を支えた軍師で後の斉国王。太公望として有名)のような智者』をイメージさせる漢字を当てていることです。よく使われている万葉仮名なら「意路知」、オロチの尾からでた大刀のイメージなら「尾漏血」などになるでしょう」と書いたように、敬意のこもった漢字を充てており、オロチが王者であることを秘かに伝えていると考えます。

 「オロチ」の意味は「あいういう」5母音から「おろち=おるて=伏して手を深くまげて祖先霊を拝む」王名なども考えられます。吉備に龍神・龍蛇神・トカゲ龍神信仰や「ヤマタ」「オロチ王」の伝承のカケラがどこかに残っていないでしょうか。

 

4 古事記からの「ヤマタノオロチ」分析へ

 津田左右吉氏の記紀神話否定の影響から、日本の歴史学・考古学には記紀神話を無視する「戦後70年の停滞」を未だに続けています。

 それは、右派・左派・近代合理主義・進歩主義の誰にとっても記紀神話は都合が悪いからです。

 「大和中心主義」「天孫降臨信仰」の右派にとっては、天皇家の先祖が「薩摩半島南西端の笠沙・阿多の猟師(山幸彦=山人(やまと))」「高天原から九州山地を逃走した地名の繋がり」や、ワカミケヌ(若御毛沼=初代神武天皇)の祖母と母が龍宮(琉球)の出身であるという記紀記述や、高天原が「筑紫日向橘小門阿波岐原」という、現代風に言えば「県・市・町・地区・集落名」まで具体的に書かれているのは実に都合が悪いのです。そこで神話全体は虚偽とし、アマテル始祖神・ニニギ降臨・神武東征神話だけをピックアップする作戦としたのです。

 「天皇制否定」の左派からすれば、「世界を照らすアマテラス神話」は帝国主義侵略戦争の精神的支柱であり、そのようなものは認められないと考え、記紀神話と9代までの天皇の存在を否定するために、スサノオ大国主建国神話なども合わせて「十把一絡げ」「味噌クソ一緒」の神話全面否定になります。

 「物証=考古学だけが信用できる。書証や伝承など後世の創作であり信用できない」と考える「たたもの(唯物)史観の近代合理主義者は、そもそも文学的表現や神話的表現、宗教、人間心理などには何の興味も理解もありませんから、「天上の高天原」や「カグツチの血からの神々の誕生」「死体からの五穀誕生」「百歳を越える天皇年齢」「死んだ大国主やアマテルの復活」など、到底、信じられないというすごく単純・明快な記紀神話全面否定になります。

 「古代人はバカ。だんだんと脳が発達し、情報量が増えた現代人(とりわけ自分)が一番賢い」「暗黒時代から人類は発展してきた」と考え、自然人類学・文化人類学縄文人のデザイン力など認めない「発達史観」の進歩主義者は、ニニギ(笠沙天皇家1代目)への大山津見神の呪いで「今に至るまで、天皇命らの命は長くない」と書きながら、そのすぐ後でホホデミ(同2代目)を「五百八十歳」としている太安万侶などはバカにしか見えないのであり、その古事記など信用できないとします。

 そして、「みんなで渡れば怖くない」と記紀を全面否定しながら、中には「箸墓はアマテラス=卑弥呼の墓」などと記紀神話をほんの一部だけを「つまみ食い」して恥じないのです。このような「戦後70年間停滞した歴史学」を科学として私は認めるわけにはいきません。

 「大和(おおわ)」を「やまと」と読むと習って納得できず、「石器―青銅器―鉄器」時代区分と「旧石器―縄文―弥生―古墳」時代区分の関係を説明しない教師に「日本には鉄器時代はないんかい」と疑問に思った小学生(妻に聞いてみると、同じ疑問を持ったと言います)の時から、歴史学は怪しいと考えてきましたが、刑事事件の「自白調書分析」の真偽判断のように「古事記日本書紀」の記述の1つ1つの真偽を分析することは可能と考え、記紀神話などから真実の歴史の復元に取り組んできました。

 そして、太安万侶天武天皇の忠実な部下でありながら「真実の歴史を神話的表現で巧妙にアレンジして後世に残す」という困難な作業をこなした誠実で優秀な歴史家であり、私は「史聖」「日本の司馬遷」として尊敬し、彼の残した古事記から古代史を復元したいと考えています。

 「ヤマタノオロチ」は「大蛇」とされ、出雲に来て娘を次々と食う凶暴な悪役でスサノオに殺されたとされていますが、その「都牟刈(つむがり)乃大刀」は「三種の神器」の1つとして、美和(三輪)の大物主一族から天皇家に受け継がれ(「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)」へと大刀から剣へと変更)、皇位継承の武力の象徴とされてきたのです。

 そして「トカゲ龍」としてオロチ王が出雲神楽で演じられている以上、オロチ王の神紋は「トカゲ龍鱗紋」であり、「都牟刈(つむがり)乃大刀」とともにスサノオ一族に引き継がれ、出雲族の神紋とされてきたことが明らかです。

 スサノオ大国主一族に先立って出雲を支配した「ヤマタノオロチ王」は吉備の製鉄王であったと私は考えていますが、いったい何者なのか、その謎に迫ってみませんか?

 

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

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縄文ノート122 「製鉄アフリカ起源説」と「海の鉄の道」

 記紀神話などは8世紀の創作、魏書東夷伝倭人条は信用できない、金印は偽造であるなどと考えておられる方は「トンデモ説」と思われるでしょうが、私の「縄文人はドラヴィダ系海人(あま)・山人(やまと)族」「委奴国王はスサノオ大物主大神」「大国主・大物主連合による百余国の建国」「スサノオ大国主王朝による鉄器水利水田稲作の豊葦原の水穂国づくり」「大国主の国譲り=筑紫・出雲・越の御子の後継者争い」「倭国大乱は葦原中国からの筑紫大国主家30国の分離・独立」「邪馬壹国(やまのいのくに)は筑紫日向(ちくしのひな:蜷城(ひなしろ))の甘木高台(高天原)」「天皇家のルーツは薩摩半島西南端の笠沙・阿多の山人(やまと=山幸彦)一族」「大物主の美倭(みわ)国・大倭(おおわ)国を乗っ取った天皇家の大和(やまと)国」「箸墓は大物主・モモソヒメ夫婦の墓」説などについては証明できたという自信があります。ただ「スサノオ=朱砂王説」「オロチ吉備王説」「スサノオ物部氏吉備国後継説」「八坂・守矢氏=物部氏説」については、さらに検証が必要と考えています。

 これから述べる「製鉄アフリカ起源」「海の鉄の道」説については、日本文明・文化を全て「アフリカ→中央アジア→中国→朝鮮」ルートと固く信じている人たちからは、とんでもない空想と批判されそうです。

 しかしながら、人類の誕生がアフリカであり、「海の道人類拡散説」の私としては、時代が異なるとはいえ、アフリカからの鉄伝来もまた「海の道」の可能性が高いと考えています。西欧中心史観の「石器―青銅器―鉄器」歴史区分を鵜呑みにし、銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏡研究に没頭して鉄器分析をおろそかにしてきた「大和中心史観」への批判として、「石器―土器―鉄器」文明史観の一環として、鉄のアフリカ起源説を取り上げておきたいと考えます。

 縄文論とは無関係と思われるでしょうが、「ウォークマン史観」や「騎馬民族史観」の思い込みから離れ、アフリカから言語・ヒョウタン(水や種子)・黒曜石・文化・宗教などを持って人類は竹筏で「海の道」を全世界に拡散したという私の「ラフトピープル史観(筏民史観)」からすると、時代は異なりますが「鉄の海の道」を考えないわけにはいきません。

 前回、「縄文ノート120」でも少しふれましたが、縄文時代の鳥浜遺跡や三内丸山遺跡から西アフリカのニジェール川流域原産のヒョウタンと種が見つかっていることから、私は蓼科山など縄文時代から続く神名火山(神那霊山)信仰のルーツもまたアフリカと考えて調べ始め、アフリカ高地湖水地方の万年雪を抱くキリマンジェロやケニア山信仰がルーツと最初は考えました。

 ところがテレビ番組でギザのメンカウラーのピラミッドが上が白・下が赤のツートンカラーであることを知って衝撃を受け、「母なるナイル」の源流に万年雪を抱き下が赤土の山がないかネットを検索したところ、木村愛二氏のホームページにたどり着きました。ナイル源流の赤道直下に万年雪のルウェンゾリ山があり、その麓には8000年前頃とされるイシャンゴ文明(最近になって9万年前の骨製の銛の発見)があったのです。―縄文ノート「62 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」参照 

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 ウィキペディアによれば、木村愛二氏は防衛大学を中退して東大に入学し、安保を闘い、日本テレビでの労働争議でフリーのジャーナリストになり、ホロコースト見直し論で批判を受けたという異色の人物です。ホロコースト否定論には同調できませんが、氏の「製鉄アフリカ起源説」は先駆的な労作であり、氏の『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』ホームページを紹介しながら、製鉄起源の真実に迫りたいと考えます。

 

1 「古代製鉄アフリカ起源説」への経過

 諏訪の蓼科山の神名火山(神那霊山)信仰のルーツを追究していた私は、これまで、次のように書いてきました(緑字は引用文、黒字はコメント)。

 

⑴ 縄文ノート57 4大文明と神山信仰 210219

 ・「もともとエジプトとヌビアは同一の祖先から別れた国であった」(注:ヌビアはエジプト南部からスーダンにかけて古代の国)

 ・「ヌビアは古代から金や鉄、銅などの鉱物資源に恵まれた」「ヌビア文明は、世界で最も古い文明のひとつである」

⑵ 縄文ノート90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制 210822

・「古代エジプトの王・ファラオは全て『生きるホルス』と考えられており、その母の豊穣の女神イシスは王座の形をした頭飾りや日輪と雌牛の角を頭に乗せた姿であり、ナイル上流ヌビアのアスワンのフィラエ島にイシス神殿(世界遺産ヌビア遺跡群)が造られるなど、古代エジプトで最も崇拝された女神とされています」

 

 この時は縄文社会の神名火山(神那霊山)信仰や女神信仰、縄文焼畑農耕などのルーツをテーマとしていたので、木村愛二氏の「アフリカ製鉄起源説」については触れませんでした。しかしながら、青銅器のノミで石材を切り出してピラミッドをつくったと教師から教わって信じることができなかったへそ曲がりな私は、木村氏の説にはただちに賛同しました。青銅は貴重品であり、青銅の硬度(HV)50~100に対し、鋳鉄は160~180とはるかに硬いのです。

 4600年前頃からのピラミッドや神殿、スフインクス、都市建設の膨大な石を採掘し、加工した道具が柔らく希少な青銅器であったという証明はそもそもされていません。また、ヒッタイト製鉄起源説が通説ですが、アナトリア半島(今のトルコ)の敵対国であった3600~3200年前頃のヒッタイト王国からエジプトが膨大な鉄器を入手できたとはとても考えられません。エジプト人の故地であり「母なる豊穣の女神イシス」信仰の中心地のヌビアこそが鉄生産の拠点であり、ヒッタイトにはアフリカ西海岸から製鉄技術が伝わった可能性があります。

 このヌビアでは4600~1700年前にかけてクシュ文明が栄え、エジプトを征服して第25王朝ファラオ(2800~2700年頃)として君臨した時期もありした。エジプトの約120基のピラミッドに対し220基ものピラミッドを建てており、エジプトをしのぐ鉄の武器とノミ・ハンマーの「鉄の王国」であったのです。

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 横道に逸れますが、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」に登場する強国トルメキアのクシャナ皇女の名前は「トルコ」と「クシュ王国」名からとったのではないか、などと夢想して楽しんでいます(宮崎監督には未確認です)。

 エジプトに鉄鉱石も製鉄遺跡もなく、ヒエログリフに製鉄の記録が残っていないことからみて、エジプトでは製鉄は行っておらず、鉄の入手はヌビアから行い、最高の機密としてその入手先を記録に残さなかったのです。

 「紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。スネフェル王紀元前2600年頃にヌビア、リビュア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず屈折ピラミッドを、さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した」(ウィキペディア)という歴史から見て、エジプトは鉄を直接求めてヌビアに侵攻し、大量の農具と鉱工具用の鉄を確保して「鉄器農耕のピラミッド文明」を築くことができたのです。

 原料調達が容易で、銅の1085℃よりも融点が400~800℃と低くて製造が簡単で、ナイル川を使って大量の重量物の運搬ができるヌビア(今のスーダン)の安価な鉄の利用こそエジプト文明を生んだのです。

 

⑶ 縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと 210422

ニジェール川の源流域であるギニア高地にはカニを食べるチンパンジーが生息しており、中流は砂漠・ステップ(サバンナ)地帯、下流には熱帯雨林があります。下流のナイジェリアの人口は約2億人でアフリカ最大、世界第7位で、石油を産しアフリカ最大の経済大国です。「母なる大河ニジェール川」と言えるように思います。

 この地に住むY染色体Eグループのコンゴイド人種(ニジェール・コンゴ語族やナイル・サハラ語族)から日本人に一番多いY染色体Dグループは分かれたのであり、ナイジェリアには残されたDグループのDNAを持つ人が3例見つかっています。

 私たち日本人の故郷がこのニジェール川流域であることは動かしがたいと考えます。」

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<若月利之島根大名誉教授からの返事>・・・

⑥ 西アフリカの湖水地方は、東アフリカの南北に延びる湖水地方ほど目立ちませんが、西のセネガル川―マリの内陸デルタ―ナイジェリア北方からチャド湖―南スーダンのスッド湿地―スーダンのハルツーム―そしてナイルデルタに繋がる、乾燥地帯(サヘル帯び)ですが、川水が流れ込み、広大な湿地帯を形成しています。私たちのアフリカ水田農法Sawah Technologyの、現時点での最大のターゲットはこの「湖水地帯」です。これは図を添付します。このサヘル帯に沿って分布する湿地帯(内陸デルタ)はエジプトのナイルデルタ10ケ分くらいの価値があると思います。」

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 私は「縄文ヒョウタンの原産地ニジェール川流域」から「全イネ科植物ニジェール川流域起源説」「チンパンジー生息熱帯雨林人類誕生説」「『主語-目的語-動詞』言語アフリカ西部起源説」「Y染色体D型のルーツ西アフリカ説」に進み、さらにスーダン(古くはヌビア)からギニアにかけての「アフリカ横断湿地帯」を若月氏から教えられ、調べていくとそこにはアフリカ横断東西交易路があり、ニジェール川支流のブルキナファソには4000~3000年前世界文化遺産の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」があることが判りました。

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 ヌビア(スーダン)からブルキナファソまで、4000年前頃から「アフリカ横断アイアンロード(鉄の道)」があったのです。そして、その製鉄炉は縦型の赤土を焼いて固めた簡便な炉でした。

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 当然ながら、この「アフリカ横断湿地帯」では鉄器を使った農耕がおこなわれるとともに、エジプトと「麦鉄交易」が行われていた可能性が高いと考えます。

 現在、ヌビア(スーダン)のクシュ王国の製鉄遺跡は発見されておらず、「製鉄ヌビア起源説」の直接的な証明はできていませんが、出雲の荒神谷青銅器遺跡と同じようにいずれ必ず発見されると私は考えています。

 

2 木村愛二氏の「製鉄アフリカ起源説」

 私が製鉄アフリカ起源説に出会った木村愛二氏の『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(第4章 鉄鍛冶師のカースト)から主なポイントを抜き出すと次のとおりです。茶色字が引用、黒字は私のコメントです。https://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-39.html

 

① アフリカ人は、鍛冶師をカーストの最上位に置いていた。彼らの神話はすべて、神から直接に金属を与えられたということを語っている。独自の技術に誇りをもってもいた〔次の写真は、この章の扉絵と同じで、アフリカの土製の高炉(『黒色人文化の先行性』より)〕 。

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→このアフリカ製鉄神話からみて、4000~3000年前の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」はアフリカ独自の製鉄起源を示しています。ヒッタイトからエジプトが製鉄技術をえて、この地に製鉄を広めたということは考えられません。

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② ザイール(コンゴ)盆地の広大な熱帯降雨林の中心部にいるバトワ民族(ピグミー)は、彼らの一族のなかに鉄鍛冶師がいたという伝説を語りつたえている。鍛冶師の氏族は、アコアとよばれていた。「彼らは、だれよりもさきに、鉄の矢と槍と斧と刀をつくった」

→彼らはY染色体E型のコンゴイドであり、D型のわれわれ日本人とは近い関係にあり、遺伝子調査を進めればD型の人たちもいる可能性があります。

 「赤目(あこめ)砂鉄」「赤穂(あこう)」と「赤」(倭音:あか、呉音:セキ、漢音:シャク)を「あこ」と読むことに疑問を持っていましたが、「アコア(鍛冶師)」との関係が気になります。

 農業・宗教関係の倭音倭語のルーツがドラヴィダ語であるように、製鉄関係の呉音漢語・漢音漢語ではない倭音倭語のルーツが南インドやアフリカ(コンゴイド人種)にある可能性を調べる必要があります。―「縄文ノート42 日本語起源論抜粋」参照

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③ 古典時代のギリシャ人は、やはり、鉄を物々交換で手にいれていた。鉄は、彼らにとって、どこからともなく運ばれてくる金属であった。彼らは、鉄鉱石の存在すら知らなかったのである。また、アッシリア人は、やはり鉄鉱石のない平野部にいたから、物々交換で鉄を手にいれていた。・・・アフリカの狩猟民族を、石器時代に区分するのは、大変なまちがいである。彼らは、ヨーロッパ人がアフリカにやってくるよりずっと前から、鉄器を使っていた。実際、アフリカ人で鉄器を使用しない民族は、どこにもいなかった。

→「ブルキナファソの古代製鉄遺跡群」からみて、遅くとも4000年前頃にはアフリカは鉄器時代に入っており、ギリシア青銅器時代に先行していました。

 「石器―青銅器―鉄器」時代区分は特殊ギリシア・ローマ文明であり、世界共通の文明時代区分ではないのです。マルクスの特殊ギリシア・ローマの「原始共同体―奴隷制社会―封建社会」時代区分を世界標準とし、四大文明などの「アジア的生産様式」を特殊化する西欧中心史観=白人中心史観と同じです。

 「石器―土器―鉄器」文明区分と「氏族社会―部族社会―封建時代」社会区分を世界標準とするアフリカ・アジア中心史観に変えるべき時です。日本の西欧崇拝・拝外主義の「輸入翻訳学」の歴史・考古学からの転換を目指す若い人たちは、人類学者とともにアフリカ・中東・インドに出かけるべきです。

 

④ 現在のスーダンには、メロエという古都があったのだが、そこには、約10メートルもの高さの2つのボタ山があった。調べてみると、これは鉄をとりだしたあとの鉱石のカス(鉱滓、カナクソ)であった。しかも、どうおそく見積っても、このメロエの製鉄業は、紀元前6世紀ごろにははじめられていた。

→ヌビア(現在のスーダン)の5100年前頃からのクシュ文明(ケルマ王国→ケルマ王家→ナパタ王家→メロエ王家)の製鉄起源は西アフリカの4000~3000年前の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」よりさらに古い可能性が高いと考えます。

 

⑤ 鉄の技術史を研究した市川弘勝は、鉄は意外に早くから知られていたと主張しており、つぎのように書いている。「紀元前約3000年ごろにつくられたといわれるケオプスのピラミッドの石材のつぎ目から鉄製のナイフが発見され、カルノック・スフィンクスの一つの足もとからは鉄製の鎌が発掘されているので、鉄は相当早くから人類に知られていたものと思われる。」(『鉄鋼』、p2)

→最盛期のエジプト第4王朝のスネフェル王4600年前頃にヌビア、リビュア、シナイに遠征隊を派遣したのは、ヌビア・リビュア南部の鉄、シナイの青銅を略奪するためであった可能性が高く、ナイル川中流の古代首都テーベ(ルクソール)のカルナック(カルノック)神殿などは4000年前頃から建設されており、発見された鎌は南のヌビア製とみて間違いないと考えます。

 

⑥ バルカン半島の山岳地帯は、古代からの製鉄業の中心地であった。ところが、バルカン半島の周辺には、謎めいた歴史がある。

 まず、面白いことに、このあたりの製鉄地帯の地名と、旧約聖書にでてくる伝説的な鍛冶師の名前とか、古代エジプト語の金属や鉄のよび名とかが、結びつくのである。

→農業・宗教語から日本語の起源をドラヴィダ語とし、地名と地名由来の人名からスサノオ大国主国史や邪馬壹国を解明してきた私には木村氏の言語分析は賛同できる方法論です。長くなるの具体的な引用は割愛しますが、興味のある方はぜひ氏のホームページをみて頂きたいと思います。https://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-36.html

 

⑦ フォーブスは、古代エジプトで、ベンガラ(酸化第二鉄の赤い顔料)が使用されていたことを認めているが、これを、鉄鉱石の熱処理による製品だと考えていない。これも大変に矛盾した考え方である。現在では、硫化鉄鉱の熱処理によって、ベンガラがえられることがわかっている。また、ベンガラは自然にころがっているものではない。ベンガラを最初につくりだした民族は、鉄鉱石の熱処理を知っていたにきまっている。https://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-37.html

世界遺産登録された11000~7000年前頃リビアの「タドラルト・アカクスの岩絵遺跡群」やリビアスーダンの国境近いエジプトの「ギルフ・ケビール遺跡」の10000~5000年前頃の岩絵、ニジェールに近いリビア南東部の「タッシリ・ナジェール遺跡」の新石器時代に遡る岩絵など赤絵具は古くから「アフリカ横断湿地帯」で愛用されており、赤土を加熱してベンガラにする技術が製鉄とともに行われていた可能性が高い考えます。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」参照

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⑧ ラテライトは、熱帯地方特有の分解土壌のことであるが、シュレ=カナールによると、最近では、「古鉄土」という総称がつかわれている。この中には、酸化鉄分の含有量が非常に高いものが多く、砂状、礫状、粘土状、岩盤状などの形をとっている。砂の状態のものは、砂鉄として採集されるし、礫、岩盤状のものは、鉱石として採掘される。https://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-38.html

→この指摘はとりわけ重要です。「石器→青銅器→鉄器」時代ではなく、アフリカでは豊富な鉄原料から「石器→鉄器」時代へと世界に先駆けて金属器時代に移行したのです。

 

⑨ ラテライト性の鉄鉱石は、それゆえ、アフリカ大陸の平野部にいくらでもある。山岳地帯に採鉱師がいく必要はなかった。こんな有利な条件がアフリカ大陸にはあった。しかも、自然に起きた金属の沈澱物の中には、マンガン、ニッケル、コバルトなどの重金属が含まれていたので、最初から特殊合金鋼ができた。

→シリアのダマスカスで作られていた鋭利な刃物で有名なダマスカス鋼は、古代南インドで紀元前6世紀に開発されたるつぼ鋼のウーツ鋼の別称とされ、その木目状の模様は鋼材に不純物として特にバナジウムが必要であったとされています。そしてウーツ鋼とダマスカス刀剣の生産が近代まで持続しなかった原因をインドでバナジウムを含む鉄鉱石が枯渇したことによると推測しています。

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 しかしながら、バナジウム産地が南アフリカにあることからみて、バナジウムが混じったラテライトを使った「南アフリカ鉄」がシリアやイラン、インドに輸出され、イギリスの植民地化により南アフリカの製鉄業が潰滅したことによりダマスカス鋼が消滅したと見るべきでしょう。

スサノオが酒を飲ませて暗殺したオロチ王の「都牟刈大刀(つむがりのおおたち)」は別名を「蛇の麁正(おろちのあらまさ)」と書かれ、天皇家では「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)」として皇位継承の「三種の神器」の1つとしていますが、私は赤目砂鉄の荒真砂(あらまさ)を製鉄して鍛えた硬い鉄刀で、「天叢雲剣」の名前は日本刀の乱れた「刀紋」か、地肌が「八雲肌」のような大刀であったと考えてきました。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

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 それは鍛造によってできる模様と書きましたが、バナジウムを含む砂(愛媛県大洲市の神南山神南石など)が紛れ込んだのか、あるいは鉄の融点を下げるために投入したカルシウム材の貝殻にバナジウムが含まれていてできたのか、ことによると南インドのウーツ鋼を使った大刀であった可能性も考えられます。いずれにしても、オロチ王→スサノオ天皇家ヤマトタケル(播磨の印南の大国主系の王女)と伝わり、王権の武力の象徴とされたことを見るとたいへん珍しい、よく切れる美しい大刀であった大刀であったことは確実です。

 

⑩ アフリカの農耕民の社会では、技術者の最上位のカーストは、鉄鍛冶師とされている。ところが、シュレ=カナールの研究によると、ほとんどどこでも、このカーストの女性は陶工、または土器製作者である。・・・

 ところで、明らかに鉄器よりも、土器の方が先に発明されている。ということは、土器をつくっていた女たちが、鉄の製法を発見し、男たちに力仕事、つまり加工作業を手伝わせたとも考えられる。その鍵になるものは、ラテライト、または「古鉄土」のもうひとつの特殊性である。つまり、「古鉄土」は粘土状でも存在する。そして、土器の原料と同じ形で、地表にあった。この条件が決定的なものではなかろうか。・・・

 そして、もちろん、アフリカ人は早くから土器をつくっていた。紀元前6000年ケニア高原の遺跡について、コルヌヴァンは、「とりわけ豊富な土器」という表現さえ使っている。

 では、どういうことをしているうちに、鉄の製法が発見されただろうか。偶然だろうか。わたしは、これも必然的な結果として考えている。・・・

 古鉄土性の粘土が多い地方では、土器製作過程で海綿鉄の塊まりが得られるという可能性は、充分に考えられる。・・・

 長い間、土器をつくっていた女たちは、その上に、実験的訓練を経ていたし、出来上りのよさ、色彩を競いあったにちがいない。女たちの研究心は旺盛であった。奇妙な黒い鉄の塊まりの利用方法に気づくのも、人一倍早かったにちがいない。

 さらに、発見された最初の鉄塊で、何がつくられたか、ということも考えなくてはならない。歴史学者は、刀剣類に重点を置く傾向がある。しかし、石器と同様に、金属器も最初は生産用用具、とくに農耕用具として開発されたと考えるのが、本筋であろう。

→この指摘はさらに重要です。私は木村氏のホームページでルウェンゾリ山を見つけて神山信仰のルーツと考えて有頂天になり、製鉄についてのこのような指摘を読んでいませんでした。

 女性が古鉄土性(ラテライト)で土器を造り、その時に500~700度C以上の高温で鉄塊ができることに気付き、女性が中心であった農耕具として利用した可能性を木村氏が指摘したのは画期的な着想です。土器製造と鉄器製造をセットでとらえており、私の縄文農耕・縄文食論からの「石器―土器―鉄器」時代区分と同じとなり、この時代区分をアフリカ・アジアの世界標準としてよいことになります。―縄文ノート「8 『石器―土器―鉄器』時代区分を世界へ」「58 多重構造の日本文化・文明論」「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」等参照

 また、私の女性主導の進化論・教育文化論・農耕論・道具論・共同体論・宗教論についても、氏はすでに土器・鉄器論から指摘されており、その先進性にはびっくりです。―縄文ノート「13 妻問夫招婚の母系制社会1万年」「32 縄文の「女神信仰」考」「72 共同体文明論」「81 おっぱいからの森林農耕論」「88 子ザルからのヒト進化説」「92 祖母・母・姉妹の母系制」等参照

 なお私は「縄文ノート89 1段階進化説から3段階進化説へ」において、ナイジェリアとコンゴの間のカメルーンにある「偉大な山」と呼ばれるカメルーン山の噴火が人類の火の使用の始まりとなったのではないかと書きましたが、土器や鉄器づくりもまた、火山噴火に伴う溶岩流による古鉄土性の粘土の加熱を観察したことから始まった可能性もあると考えます。

 

⑪ (注:ナイジェリア中央部に)ノクという地名の錫鉱山があった。そして、この鉱山の採掘現場から、大量のテラコッタ(焼き粘土の意)、つまり土製の人物像(日本のハニワに似ている)が出土した。これはノクの小像文化ともよばれているが、このテラコッタには、鉄の鉱滓(カナクソ)がこびりついていた。しかも、コルヌヴァンはこう書いている。「いくつかの発掘地点では、通風管の破片、鉄の鉱滓、溶鉱炉の痕跡が、実際に発見された」(『アフリカの歴史』、p.158)・・・

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 ノクの一地点で4つの炭化した木片が採集された。そして、カーボンテストの結果、紀元前約3500年、2000年、900年、紀元後200年という年代を示した。ところが、最初の2つの数字は除外されて、あとの数字の中間が採用されている。

ウィキペディアは「ノク文明」を「紀元前10世紀から紀元後6世紀頃に栄えた鉄器文化」とし図のような溶鉱炉を載せています。

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 4000~3000年前の「ブルキナファソの古代製鉄遺跡群」が世界遺産登録されている現在、「紀元前約3500年、2000年」の測定結果を再検証し、その起源を確定すべきでしょう。

 前述のように、ニジェール川河口部のナイジェリアでは日本人に多いY染色体D型の人が発見されており、この地域に多いY染色体E型のコンゴイド人種の居住地でもあり、ナイジェリアチンパンジーや西ゴリラの生息地で、この地域の熱帯雨林こそが人類の誕生地であると私は考えています。―縄文ノート「62 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」 「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」参照

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⑫ アフリカ人は、特殊鋼をやすやすとつくりだした。そして、東海岸まわりで、インドや地中海方面にも輸出していた。デヴィドソンも、「ソファラの鉄は、その豊富なこと、良質なことで、インドの鉄より有名」だったとしている。ソファラは、現在のモザンビーク海岸に古くから栄えた貿易港のことである。また、12世紀のアラブ人は、このソファラの鉄がインドで高く売れる、と書いていた。[下図参照]・・・

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 アフリカ東海岸を通して、アラブ、インド方面に、大量の鉄が輸出されていた。すくなくとも中世期のアフリカは、むしろ製鉄業の中心地であった。そして、わたしの考えでは、古代においても、たしかにそうだったにちがいない。

→私はY染色体D型の日本列島人がE型のコンゴイド族(ビアフラ内戦で虐殺されたイボ族など)からニジェール川流域で分かれ、ヒョウタンやイモ・イネ科穀類などを持って高地湖水地方に移住し、竹筏で「海の道」を通って南インドに移住し、さらに東進したとしてきましたが、同じように「鉄の海の道」があったことを木村愛二氏は「モンスーン航路」として明らかにしています。

→アフリカでバナジウムを含む古代・中世の特殊鋼はまだ発見されていませんが、伝承によれば「鉄の海の道」があったことは明らかです。なお、下図を見て頂ければあきらかなように、ローデシアから南インドまでの航海距離と南インドから日本列島までの距離はほぼ同じであり、水・食料の乏しい草原・砂漠地帯よりはるかに容易に人類はヒョウタンに水を確保して移動したと考えます。

⑬ アフロ・アメリカ人の歴史学者、ウッドソンは、1947年に出版された『われわれの歴史における黒色人』の中で、つぎのように主張している。 「大陸の中心部に近いアフリカ人は、この貴重な金属の効用を最初に知った人たちである」(『黒人の歴史』、p.6、再引用)

 「1902年にドイツの学者フェリクス・ルーシャン……(1854~1924)……が、鉄の溶解と熱処理の最初の発明者はネグロで、他の民族はこの技術を彼らから学んだのであり、したがって鉄の冶金術はアフリカから西ヨーロッパに伝ったのだと確信をもって述べた。……これにかんして注目される考古学の記念物は、北ローデシアのムンブア洞窟で、そこでは新石器時代の用具とともに鉄の溶炉趾と鉄鏃が発見された。この記念物は、きわめて疑問が多いが、紀元前2000年紀と年代づけられている」(『原始文化史概説』、p.198~199)

 ほかにも、やはりソ連のペシキンが『鉄の誕生』の中で、同じようなことを書いている。彼の表現は、より確定的であり、アフリカ大陸で、「何回も発掘が行われた結果、紀元前2000年にアフリカでは鉄の熱間加工がひろく普及していたことが確認ざれた」、となっている。

 また、すでにベックが、1880年代に、西アフリカの「古い土着の製鉄業」にも注意を向けていた。そして、現在のスーダン西部の民族が「大昔からの鉄鍛冶として有名」だったとしており、「非常に進んでいた」と評価している。

 だが、いずれ、決定的な調査結果もでるにちがいない。というのは、デヴィドソンによれば、ローデシア周辺だけでも、古い鉱山の遺跡は、「おそらく6万ないし7万に達する」。アフリカ大陸全体では、数十万ケ所といってよいだろう。

→アフリカ製鉄起源説について1880年頃からこのような研究があったことは知りませんでした。それらが無視され、未だに「アフリカ石器時代」イメージを流布している「帝国主義国」の西欧中心史観には怒りを覚えます。

 

3 日本列島への2つの「鉄の道」

 私は日本列島への製鉄の伝播には、記紀神話に見られるスサノオによる「新羅」からの伝播とともに、インドからの「海の道」ルートがあると考えてきました。一番大きな理由は、前掲のように製鉄関係用語が倭音倭語と呉音漢語・漢音漢語の3層構造になっており、南インドドラヴィダ族の宗教・稲作用語の伝播と同じであることですが、スサノオの「韓鋤剣(からすきのつるぎ)」がオロチ王の「蛇の麁正(おろちのあらまさ)天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」に当たって欠けたという神話もあります。

 長くなりますが、「縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ』を以下、再掲しておきます。

 

⑶ 製鉄伝播の経路

 では、このスサノオ新羅からの入手した製鉄技術より前の、吉備のオロチ王はどこから高度な製鉄技術を獲得したのでしょうか? 韓鋤剣(からすきのつるぎ)が銑鉄刀であったことからみて新羅経由ではなかった可能性が高いと思われます。

 「NHKスペシャル アイアンロード~知られざる古代文明の道」(2020年1月13日、10月13・20日)では、「ヒッタイト(紀元前1500~2000年頃)→スキタイ→中国→朝鮮→倭」への「絹の道」よりも古い「鉄の道」の存在を伝えています。

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 一方、日立金属HPの「たたらの由来」では、「たたら」の語源として「百済新羅との交渉の場のたたら場、たたら津」説とともに、窪田蔵郎氏の「ダッタン語のタタトル(猛火のこと)からの転化説」、安田徳太郎氏の「古代インド語のサンスクリット語でタータラは熱」説を紹介し、東インドからインドシナ半島ルート説と、雲南高地経由の中国南方ルート説を紹介しています。

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 後者の雲南経由は銅鐸のルーツが春秋戦国時代(紀元前770~221年)の「越」であるという説や長江流域稲作ルーツ説、照葉樹林文化説と矛盾のない説になります。

 しかしながら、日本列島人起源論(チベット等のY染色体Ⅾ系統)や日本語起源論(ドラヴィダ系)、ジャポニカ稲作・食文化起源論でみたように、私は「東インド・東南アジア高地→ミャンマー海岸部→スンダランド(水没)→琉球」のドラヴィダ系海人・山人族の日本列島への「海の道」を考えており、この「海の道」を通っての何次にもわたる移住によるインド鉄の伝来があったと考えます。―「Ⅴ-1(縄文ノート43) DNA分析からの日本列島人起源論」「Ⅳ-1(縄文ノート41) 日本語起源論と日本列島人起源説」「Ⅱ-4(縄文ノート28) ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源」参照

 

 アフリカ・インドの製鉄法、中国・新羅の製鉄法と日本の古代製鉄の比較検討はできていませんが、スサノオ大国主一族建国の紀元1~3世紀の製鉄遺跡の発見が待たれます。

 

4 「製鉄ヒッタイト起源説」の軍国主義歴史観

 これまで製鉄の起源については「紀元前1700年頃ヒッタイトではバッチ式の炉を用いた鉄鉱石の還元とその加熱鍛造という高度な製鉄技術により鉄器文化を築いたとされる。トロイ戦争でのヒッタイトの敗北により製鉄技術はヨーロッパ全土に広がった」(ウィキペディア)とされてきました。

 さらに2019年3月25日の朝日新聞デジタルなどは、トルコ・アナトリア地方のカマン・カレホユック遺跡で「中近東文化センターアナトリア考古学研究所」(大村幸弘所長)が、紀元前2250~同2500年の地層から最古級の分銅形の直径約3センチの鉄塊を発見したことを伝えています。

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 その説明ではその遺跡が「『鉄と軽戦車』を武器に古代オリエント世界で栄えたヒッタイト帝国(紀元前1200~同1400年)の中心部に位置する」としているのですが、ヒッタイト帝国と戦ったエジプト軍もまた鉄器で戦ったのであり、すでに詳しく明らかにしたように、その鉄の生産地はアフリカであったのです。

 エジプト軍は紀元前1457年のカナン軍とのメギドの戦いにおいて戦車1000両を用いており、紀元前1285年のカデシュの戦いでは戦車2000両を用い、3500両のヒッタイトとは苦戦しますが、両軍とも鉄の車輪と武器での戦いでした。鉄器のヒッタイト軍が有利に戦ったなどというのは後世の創作です。

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 考古学者やマスコミの悪い癖で、関係したフィールドの成果だけを「最古級」などと公表しますが、その時には、他の「最古級」の4000~3000年前の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」なども合わせて紹介し、今後、さらなる発掘によって製鉄起源地と起源年が動く可能性も示唆すべきでしょう。

 また、朝日新聞デジタルは特殊ギリシア・ローマ文明の「銅器・青銅器」時代区分図を載せ、おまけに『鉄と軽戦車』を基準とした古くさい「軍国主義歴史観」の解釈を載せていますが、エジプト文明など沖積平野での水利・農耕文明に鉄器が果たした役割こそ紹介すべきでしょう。

 ドイツの「鉄血宰相」ビスマルクの「現在の問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」という軍国主義歴史観に影響され、「人類史上『最大の発明』の一つとされる製鉄の歴史が変わるかもしれない」などと、ヒッタイトの鉄を武器としてしかみないような「鉄と血」「鉄は国家なり」の軍国主義的解釈をマスコミはすべきではないでしょう。その軍国主義の末路がドイツの第1次世界大戦とヒトラーの第2次世界大戦という暗黒時代であるということを考古学者やマスコミは自覚すべきです。

 

5 「石器―土器―鉄器」時代区分の日本史へ

 中国・西欧コンプレックスの塊の日本の考古学者や歴史家たちは、「石器―青銅器―鉄器」時代区分を頼りにし、「大和中心史観(天皇国史観)」の確立に向けて銅鏡の分析に力を入れてきました。「鉄は錆びて見つからない」というのがその表向きの理由としてあげられてきましたが、鉄滓(金糞)からの分析は可能なのです。柱穴から建築物を推定するとの同じ方法でいいのです。

 そして出雲にはめぼしい青銅器の遺跡・遺物がないとして、「大和中心史観(天皇国史観)」は記紀建国神話の中心であるスサノオ大国主国史を無視してきましたが、1983年に荒神谷遺跡から日本最大の青銅器の集積が見つかったことにより、青銅器時代スサノオ大国主建国を証明することになり、「大和中心史観(天皇国史観)」は大ピ0ンチに陥ることになりました。

 さらに、大和では鉄器出土数がもともと少なかったため「鉄器時代」を持ち出すことはタブーであり、「石器―縄文式土器弥生式土器―古墳」という青銅器も鉄器も抜きにしたガラパゴス時代区分を考えだしました。ところが、筑紫や出雲・伯耆などから大量の鉄器が発見されるに及び、もはや「大和中心史観(天皇国史観)」は完全崩壊です。そこで最後の悪あがきとして、記紀神話や魏書東夷伝倭人条を全面否定しながら卑弥呼とアマテルだけをつまみ食いし、大国主・大物主一族の箸墓や纏向遺跡卑弥呼やアマテルと結びつけるという禁じ手にかけていますが、掘れば掘るほどスサノオ大国主建国を証明することになってきており、私としては大歓迎です。

 先生の教えに素直ではなかった私は、「石器―青銅器―鉄器」時代区分と「石器―縄文式土器弥生式土器―古墳」時代区分の関係はいったいどうなるんや、と子どもながらに納得ができず、ずっとその疑問を抱えたままでしたが、60歳を越えてやっと自分で考えはじめ、現在は「石器―土器―鉄器」時代区分を世界に向けて提案すべきと考えるに至っています。

 一方、アフリカ・アジアの「四大古代文明」から遅れをとったギリシャローマ帝国、さらにその支配を受けて劣等感の塊となったゲルマン民族は、自らのアイデンティティを肌の色と言語に求めて、「コーカソイド説(白人コーカサス起源説:グルジアアルメニアアゼルバイジャン)」「アーリア人種説(ヨーロッパ、ペルシャ、インドの共通の祖先)」「インドヨーロッパ語族説(インド・ヨーロッパの諸語は共通する起源)」などを考案してナチスの世界支配のイデオロギー的根拠を与えました。

 また、鉄器文明でエジプトやスキタイ(トルコ)に後れをとったギリシア・ローマは「石器―青銅器―鉄器」時代区分を考えだし、ユダヤ人はメソポタミアから方舟に乗って大洪水から逃れたノアがコーカサスアルメニア)のアララト山にたどり着き、さらに南下してエジプトの支配下にあった「カナン」を唯一絶対神の命令として征服支配したとする歴史を創作します。メソポタミア・エジプトの農耕文明の周辺民族でありながら、「唯一絶対神」の選民宗教を作り出し、他民族殺戮・支配を正当化する宗教共同体を作り上げます。

 このように西欧人は黒色・褐色・黄色人の「四大古代文明コンプレックス」から、「コーカソイド説」「アーリア人種説」「インドヨーロッパ語族説」「唯一絶対神主教」を作り出し、その延長上でコーカサスに近いアナトリア半島(今のトルコ)の「製鉄ヒッタイト起源説」で補強しようとしていると私は考えます。

 彼らが「製鉄アフリカ起源」を示す遺跡や伝承をことごとく無視しているのは、この劣等感からくる西欧中心史観とともに、製鉄・綿織物を中心とした工業革命によって「鉄と血」「鉄は国家なり」の帝国主義思想によりアフリカ・アジア植民地支配を正当化するために、特にアフリカを「石器時代暗黒大陸」とみなして先進的であった「鉄器文明」を隠蔽したのです。

 従って、西欧人には「製鉄ヒッタイト起源説」を支持する非常に根強い動機があり、それを覆すのは容易ではありませんが、今こそ、日本の考古学・歴史学はアフリカからアジアの東端にやってきた民族として、アフリカ・アジア中心史観を打ち立てるべきと考えます。

 武器中心史観ではなく、農業・食生活中心史観として「石器-土器―鉄器」時代区分を考えてみようではありませんか。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート121 古代製鉄から「水利水田稲作」の解明へ

 沢口靖子さん主演のテレビ番組「科捜研の女」を昔からよく見ていますが、そこでは希少性のある微量証拠(繊維・植物・土・血痕・毛髪・指紋など)の定性・定量分析で犯行現場や犯人の移動場所、犯人(血液型・DNA・指紋・職業など)などを特定するとともに、打撲痕や刺し傷、絞・扼殺などの再現事件により凶器や犯人(利き手や力、体格など)・犯行の様子(順序・位置関係等)を予測する成傷器鑑定、頭蓋骨に粘土を肉付けして顔を復元する復顔法、写真や防犯映像などの画像や音声分析、死体の解剖などもあります。

 これらの手法は全て考古学の遺物や骨の分析とも重なりますが、工学部の私としては「再現実験」に特に関心があります。

 工学では仮説を立てて実験を行い、最適解を求めるという「仮説実験」「仮説検証」という手っ取り早い方法が一般的であり、仮説を立てるのはすでに解明されている科学法則から推定する方法と社会・生産現場の必要性から考える方法がありますが、後者が多いように思います。友人が学生時代にやっていた車の「エンジンのピストンとシリンダーの間隔とオイルの最適関係」では2つの条件を変えて組み合わせて多くの実験を行って最適解を求めていました。従って、工学では「仮説こそ発明の母」であり、「仮説命」というところがあります。

 私は「縄文焼畑農耕仮説」の証明をしたいと考え、農耕の倭音倭語を調べて大野晋氏の「ドラヴィダ(タミル)語起源説」にたどり着き、氏の著書から南インドのドラヴィダ族の小正月に赤米を炊いて沸騰を祝う「ポンガ」の祭りを教えられ、縄文土器の縁飾りは芋やソバ・米などを炊いた時の「泡と湯気と吹ききこぼれ説」「縄文土器の鶏冠説の突起はトカゲ龍デザイン説」に進み、「縄文土器のおこげは芋・ソバ・6穀仮説」を立ててその再現実験を提案しました。これは工学系人間の自然な発想、方法論と言えます。

 さらに記紀スサノオ大国主建国の分析から「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」ではなく「縄文農耕から鉄器・水利水田稲作への内発的発展」の仮説を考え、その証明のためには再現実験が必要と考えていたところに、すでに紹介した岡山市の古代史研究家の丸谷憲二さんからいくつかの吉備などでの製鉄実験の資料を送っていただきました。

 富士見町歴史民俗資料館に金屋製鉄遺跡の「赤目(あこめ)砂鉄」や「高師小僧(たかしこぞう)」が展示されていることは「縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」で紹介しましたが、製鉄部族の吉備スサノオ系の八坂氏・守矢氏・建御名方が1~3世紀頃に諏訪に来ている以上、金屋製鉄遺跡がスサノオ大国主建国時代に遡る可能性についてさらに検討が必要と考えます。

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1 諏訪の製鉄材料と富士見町での製鉄実験

 諏訪地方における石器と鉄器の農機具の連続性については「縄文ノート23 縄文社会研究会『2020八ヶ岳合宿』報告」で書き、富士見町歴史民俗資料館展示の金屋製鉄遺跡については「縄文ノート53」で紹介しましたが、この時は「金谷製鉄遺跡9号炉 平安時代?」の説明を疑うこともなく写真を撮って終わりました。

 今回、縄文ノート「118 『白山・白神・天白・おしらさま』信仰考」「119 諏訪への鉄の道」「120 吉備津神社諏訪大社本宮の『七十五神事』」において、製鉄部族の八坂氏や守矢氏が諏訪へ入った時期から製鉄・水利水田稲作開始がスサノオ大国主建国時代に遡ることを明らかにできましたので、撮影した写真を見直してみると、富士見町内の「赤目砂鉄」「高師小僧」「磁鉄鉱」「褐鉄鉱」とともに、茅野市金沢字金山の「カンラン岩の砂鉄」、茅野市北山渋川・米沢鋳物師屋の「褐鉄鉱」、茅野市宮川静香鉱山の「含ニッケル磁硫鉄鉱」、下諏訪東山田字佛供田の「餅鉄類似の鉄鉱石」などが展示されており、さらに1985年5月・6月の製鉄実験で造られた鉄塊や鉄刀が展示されていたのです。

 なんと、富士見町は「縄文農耕研究」だけでなく、1985年の「製鉄再現実験」でも最先端であったのです。うかつなことに2度も見学しながら、関心が縄文社会に集中していて見逃していました。

 これらの製鉄資料は井戸尻考古館の裏にある歴史民俗資料館に農機具などと展示されているために気付かなかった人が多いと思いますが、これから見学される方は、是非、両館を合わせてみていただきたいと思います。

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 製鉄部族の八坂氏や守矢氏、建御名方、伊勢津彦らが武器だけもって手ぶらでこの地に来たとは考えられず、金谷製鉄遺跡が「平安期?」なのかどうか、それともさらに古い製鉄遺跡がどこかにあるのか、当時の技術で製鉄が可能であったのかどうか、是非とも地元で確かめていただきたいものです。

 

2.丸谷憲二さんらの製鉄分析と実験

 岡山市の「黄蕨の会」代表の丸谷憲二さんは「吉備津神社 七十五膳据神事の七十五の起源についての考察」とともに、古代製鉄について次のようなレジュメを送っていただきました。

  1992(平成4)年1月21日 吉備津彦伝承と古代製鉄

  2021(令和3)年11月17日 赤土からの製鉄・鉄成分(鉄含有)率の向上策の検討

  2021(令和3)年11月22日 赤土からの製鉄 課題(生本和弘氏の提案)

  2021(令和3)年11月25日 弥生時代の古代製鉄―吉備高原の赤鉄鉱(赤土)使用

  2021(令和3)年12月21日 赤土のトーチバーナー使用による磁鉄鉱への変化確認試験

  2022(令和4)年1月23日 吉備国の古代製鉄と熊山遺跡出土の陶製筒型容器  

 関心がおありの方は、氏のホームページ「黄蕨(きび)国の物語」かフェイスブックでお問い合わせしてみてください。http://kiwarabi.html.xdomain.jp/

 

 丸谷氏の資料の全面的な要約にはなりませんが、私が今後、気にかけておきたい点を引用してメモしておきます。

① 「下流に『赤浜』地名があり、吉備津彦伝説は赤泥が古代製鉄原料であったことを記録に残すための伝説という発想です。」

 →2020年2月よりAmebaブログ「太安万侶のミステリー」を書き始めて中断していますが、その第1回で「『太安万侶天皇家のための歴史書を書きながら、密かに真実を後世に残した偉大な歴史家』と考えています。天皇家のための『表の歴史書』を書きながら、スサノオ大国主建国の『裏の歴史』『真実の歴史』を伝え残した歴史家、というのが私の評価です」と書きました。吉備津彦伝承(実際は温羅伝承)だけでなく、古事記ヤマタノオロチの大刀(後に天皇家三種の神器に)・スサノオの鉄剣(物部氏の神剣)物語、山幸彦の鉄の釣り針物語(龍宮=琉球からの鉄の確保)なども全て真実の歴史を伝えていると考えています。

② 「総社市の古代製鉄遺跡も『カナクロ谷』、広島県世羅郡世羅町黒渕もカナクロ谷製鉄遺跡です。「かなくろ谷」と言う地名の由来は何でしょうか。」

 →『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)において、「『赤穂(あこう)』は赤土の多い『赤生』からきているという説もあったよ。吉備に接しており、弥生時代中期(注:紀元前1~2世紀)からの有年牟礼(うねむれ)・井田遺跡では鍛冶炉跡が見つかり、近くには黒鉄山がある。千種川をさらに10kmほど下ったところからは弥生中期では全国最大の約80cmの銅鐸鋳型が発見され、高校生が復元していたよ」と書きましたが、カナクロ=黒鉄=鉄鉱石と考えます。軍国主義少年であったころの記憶で恐縮ですが「守るも攻めるも 黒鉄(くろがね)の 浮べる城ぞ 頼みなる・・・」(軍艦マーチ)です。

③ 「愛知県稲沢市祖父江町の「祖父(そぶ)」は赤茶色の水を差しこれが町名の由来です。」

→祖父江は車で通ったことがあり、同名字の知人もいますので気になりますが、山間ではなく木曽川下流の沖積地であり、実に意外です。

④ 「鉄成分率を高めるために白石齊先生(陶芸)は、「①先ず赤土を300〜400度で焼きます。②焼けた赤土をたっぷりの水で撹拌します。③撹拌しながら上水を捨てます。④3〜5回程度繰り返します。⑤底に残る物が砂鉄です。」と教示されます。これを「鉄成分率を高めるため弁柄づくりの方法」と説明してくれたのが生本和浩氏です。」

→前掲書で「『真金(まがね)吹く』」が吉備や丹生にかかる枕詞であることからみて、赤鉄鉱(Fe2O3)や赤目砂鉄を原料として鉄とともに鉄朱(ベンガラ)が作られていたことを示している。」と書きました。

⑤ 「加越たたら研究会では『世の東西を問わず古代から、身近な原料・赤泥を使って製鉄をしていたにちがいない。』と考えています。』と。赤泥は究極の比重選鉱・水簸です。名古屋の明治村の赤泥が知られています。赤泥を原料とする加越たたら研究会等の国内古代製鉄実験は、全てタタラ製鉄を応用しています。須恵器焼成温度 1100℃以上で実験し成功しています。私たちの実験計画は縄文時代弥生時代の野焼き温度での製鉄です。国内では初めての実験です。」

→縄文ノート53において「酸化鉄の還元は『400度から800度あれば進行でき、温度が低ければ固体のまま還元して酸素を失った孔だらけの海綿上の鉄になり、もっと温度が高ければ、粘いあめ状の塊になる。これを鍛錬して鉄でない部分を十分に除去すれば、立派な鉄となる』(中沢護人『鋼の時代』岩波新書)とされます」と紹介しましたが、丸谷氏の縄文野焼きによる製鉄実験を期待しています。

⑥ 「『古代製鉄物語 葦原中津国の謎』に浅井壮一郎氏(農学博士・長岡技術科学大学客員教授)は「製鉄温度を下げるには燐酸鉄を含む黒土を溶融助剤として黒土を 6%加えると 1130℃の磁鉄鉱の融点が 950℃まで下がる」と報告しています。燐酸カルシュームが低温製鉄に必要だとの説です。黒土にはリン酸を吸着する性質があります。」

→これは「黒不浄(死体)があると鉄がよく涌いた」と伝わっている出雲のタタラの伝承と符合します。

⑦ 「小松原道郎工学博士の教示:石灰粉など溶剤となるアルカリ系の物質と少量の炭を使って一緒に焼成して、還元しながら低温製鉄で鋼にまで純化していくことが必要でしょう。これだと 800~900℃くらいの低温で鉄を作れる可能性はあります。」

  →前同

⑧ 「井原市郷土史家より『赤土から鉄を取っていた』と聞いた。」「井原市美星町烏頭の赤砂・鍛冶屋、井原市大江町の赤土・鍛冶の字地名」

→「赤砂」地名は諏訪湖畔北岸にもあります。個人的興味では、仕事で行ったことのある美星町は父の実家(古くは全戸が日向(ひな)と称す)の隣町であり、美星町の「日名」地名との関係について書いていました。

⑨ 「福岡大学、七輪炉、 鉄原料:パイプ状ベンガラ(渇鉄鉱)、1200℃以下、 鉄滓18.1g・海綿鉄9.1g・炉底塊240g」

広島大学 七輪炉、阿蘇リモナイト(渇鉄鉱:黄色土)、1150℃・2時間、 含鉄物質 66.2g」

→丸谷氏が指摘するように「箱型炉」の吉備・出雲などのたたら製鉄より以前は、土製や土器製の「円筒炉(こしき炉:甑炉)」により小規模分散型の製鉄が各地で広く行われていた可能性が高いと考えます。備前赤坂(赤磐市)の物部氏の石上布都魂神社で聞いた話でも近くの川から金屎(かなくそ)がいくらでも出てくるということでしたので、金糞遺跡の木炭などからの年代測定が課題と思います。

⑩ 「3ヶ所(岡山市瀬戸町塩納、瀬戸内市虫明赤土山、赤磐市加山)の赤土を採取し製煉実験し、全てが海綿鉄に変化し赤鉄鉱からの製鉄実験成功です。」「穴窯で海綿鉄と、粘いあめ状の鉄塊ができました。登り窯を使用すれば赤鉄鉱からの製鉄が可能です。」(令和3年)

→陶芸炉ではない再現実験を期待しています。

⑪ 『旧約聖書ヨブ記 第 28 章に「鉄は土から取り出す」と記録されています。」

→下が赤く上が白いギザのメンカウラ―のピラミッドから、私はそのルーツがナイル川上流の万年雪で上が白く下が赤い神山信仰にあると調べて縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57 4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」などで「もともとエジプトとヌビアは同一の祖先から別れた国であった」「ヌビアは古代から金や鉄、銅などの鉱物資源に恵まれた」などと書きましたが、木村愛二氏の「アフリカ製鉄起源説」については触れませんでしたので、次回に紹介したいと思います。

 

3.各地の製鉄実験

 丸谷さんからの資料で各地で製鉄実験が行われていることを知りましたので、ネットでの検索を含めて紹介します。

⑴ 加越たたら研究会福井県あわら市:旧金津町) 1991年~

 http://www3.fctv.ne.jp/~takae-u/

 https://www.facebook.com/kaetsu.tatara

 写真は1996年のオイル缶を3つ積み重ねた炉での実験と2016年6月11日の細呂木小学校でのワークショップの模様で、砂鉄と貝殻、赤泥などを1500度まで熱してたたら製鉄

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 隣の三国町(現坂井市)には仕事で通い「あわら温泉」を見に行ったことがありますが、金津町という旧町名、金屋・赤尾などの地名など、古くから製鉄を行っていたことが伺われます。

 

⑵ 春日井たたら研究会(愛知県春日井市) 2004年頃~

 http://www.jpnet.link/tatara/  

 2004年、春日井市西山町の丘陵(近世には金屋浦と呼ばれる)で7世紀末~8世紀初頭の古代製鉄炉(西山製鉄遺跡)が発見されて会が発足し、砂鉄やソブ(赤茶色の鉄分)を使った製鉄実験のイベントなどを活発に行っています。

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⑶ 愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター・同付属高校 2011年7月

 ―高大連携プログラム『古代製鉄を学ぶ』 

 http://www.ccr.ehime-u.ac.jp/aic/katudou_43.html

 リモナイト(褐鉄鉱、ベンガラの素材となる)の粉末を用いた製鉄実験。大阪在住の山内裕子さん(『古代製鉄原料としての褐鉄鉱の可能性』2013年)、交野市教育委員会の真鍋成史先生のアドバイスを受けながら作業し、小規模炉による褐鉄鉱の製錬で鉄ができることを確認。

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⑷ 神奈川県立鎌倉高校科学研究会 2011~2016年度

 ―赤目砂鉄によるたたら製鉄

 https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-23979.html

 https://www.nakatani-foundation.jp/wp-content/uploads/c96fe663f86f5da250d8c4fd3c36ff60.pdf

 立命館大の山末英嗣准教授から協力を得て、滋賀県にある同大キャンパスで約300個のレンガを使って炉を組み立て、赤目砂鉄を炉に入れ木炭を加えて3~5時間、1300度以上に加熱し、底で溶けて固まった「ケラ」をつくり、後に刀工により刃渡り25.7センチ、重さ180グラムの短刀に。工程をまとめた論文は日本学生科学賞の一等に入選。

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⑸ 浜松市立篠原中学校 1年生 鈴木雅人 2012年度 野依科学奨励賞 受賞

 ―縄文時代における鉱物利用の研究PART4 高師小僧の焼成実験(ベンガラ製造)

  https://www.kahaku.go.jp/learning/schoolchild/tatsujin/pdf/H24/awards_suzuki.pdf

 高師小僧(褐鉄鉱)を還元炎で焼成するとわずか1分間で強い磁性が現れ、高師小僧の採れた黄褐色粘土を焚き火で3時間焼成したところ、90%が磁性を帯びたが、磁鉄鉱になってしまい、赤鉄鉱にはならず、ベンガラを作ることはできていません。

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⑹ 山内裕子 論文は2013年10月「古文化談叢・第70集」に収録

 ―古代製鉄原料としての褐鉄鉱の可能性~パイプ状ベンガラに関する一考察~

 http://ohmura-study.net/405.html

 大阪(河内)の多くの弥生時代古墳時代までの鍛冶遺跡・鍛冶関連遺物の鉄原料が朝鮮半島からの輸入ではなく、近隣で比較的容易に採取・入手できるベンガラ(パイプ状ベンガラ)との仮説のもとに

大阪府交野市近隣から採取したパイプ状ベンガラを七輪2個を重ねた炉を用いた還元装置で実験し、鉄をつくり、刀匠により鍛造して小刀を作ることができることを証明しています。

 

⑺ まとめ

 全部を網羅できているわけではありませんが、小学校・高校・大学や市民グループなど、各地で砂鉄・赤目砂鉄・ソブ・高師小僧・リモナイト(褐鉄鋼:阿蘇黄土など)・ベンガラを使った製鉄実験が行われています。

 これらの実験は、それぞれの地域の原料と遺跡の年代に対応した実験を行っていますが、中には「縄文製鉄」「スサノオ大国主建国時代製鉄」の証明に繋がるものも見られます。

 「鉄器時代」の解明に向けてさらなる総合的な取り組みが必要と考えます。

 

4.古代製鉄研究から「石器―土器―鉄器」文明史観へ

 佐久地方には赤目砂鉄・高師小僧・褐鉄鋼・磁鉄鉱の全てがあり、製鉄部族のスサノオ大国主一族の八坂氏・守矢氏の伝承や、銅鐸文化を受けついだ鉄鐸や鉄の薙鎌を祭器とする宗教が今も続いており、縄文時代にはすでに黒曜石の分業生産と広域交易を行い、巨木建築を建てる技術と組織力があったのですから、その延長上で古代鉄生産が行われれていた可能性は高いと考えます。

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 全国各地の製鉄実験と較べてみても、1985年の富士見町での赤目砂鉄製鉄実験は先進的であり、紀元1~2世紀のスサノオ大国主建国時代の製鉄遺跡の発見と製鉄再現実験の取り組みの継承・発展が期待されます。金屋製鉄遺跡をはじめ諏訪各地の製鉄遺跡の年代を割り出すととともに、製鉄再現実験を行って原料と製法を解明し、諏訪を古代製鉄研究と鉄器水利水田稲作研究の拠点にしていただきたいものです。

 これまでわが国の古代史は「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」の拝外主義の左右の思想的偏向(バイアス)により「縄文・弥生断絶史観」に陥るとともに、鉄器後進地域であった「大和中心史観(天皇中心史観)」から鉄器分析を避け、土器様式分析と青銅器分析の考古学に陥り、「旧石器―縄文―弥生-古墳」時代という世界には通用しない恥ずかしい「イシドキドキバカ」のガラパゴス史観に安住してきました。

 そして後発のギリシア・ローマ文明の「石器―青銅器―鉄器」という西欧中心主義の武器文明史観・帝国主義史観に追従し、農耕利用の鉄器利用先進地域であったアフリカ・アジア文明の農耕・粉食文明の時代区分の「石器―石窯ー鉄器」「石器―土器鍋―鉄器」の時代区分を考えることもなく、「鉄器農耕文明」「石窯・土器鍋食文明」などの解明を放棄してきました。

 そもそも、人類はアフリカで誕生し、「四大文明」は全てアフリカ・アジアの黒人・赤褐色・黄色人文明なのです。アフリカから武器の「石槍」だけを持って世界に散らばったのではなく、アフリカから言語や種子・農耕技術・生活文化・宗教を持って全世界に人類は拡散したのです。

 鉄器についてもアフリカ起源の可能性があることを、次回、検討したいと思います。

 ナチスの「アーリア民族説」や、「インド・ヨーロッパ語族説」「ヒッタイト鉄器起源説」など、ゲルマン民族の西欧中心史観を今だに定説としてあがめる「丸暗記お勉強」歴史・考古学から卒業すべきでしょう。

 荒神谷遺跡の大量の青銅器の発見により、銅鐸・銅鏡に依拠していた「青銅器大和中心史観」は崩壊しました。ギリシア・ローマ文明の「石器―青銅器―鉄器」史観から離れ、今こそ「石器―土器鍋―鉄器」史観の日本文明論の確立に向け、阿蘇・筑紫・出雲・伯耆・安芸・吉備・播磨・摂津・大和・美濃・尾張・諏訪など各地で紀元1世紀頃からの製鉄文明の仮説検証型の調査・再現実験を進めていただきたいものです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

「縄文ノート120」の追加修正

 昨日の「縄文ノート120 吉備津神社諏訪大社本宮の『七十五神事』」の最後の内容が尻切れトンボに終わっており、次のような追加修正と少しだけ部分修正を行いました。

 もとに戻って見直していただくか、以下、目を通していただければ幸いです。

 

5.「七十五神事」の起源について

 丸谷氏の「ユダヤ人起源説」には私は同意できませんが、「七十五神事」がアフリカあるいはメソポタミアで始まり、それがイスラエルと日本に別々に伝わり、吉備から諏訪に伝わった可能性はある、と私は考えます。

 私の縄文研究は次女がアフリカのニジェール青年海外協力隊員として行き、鳥浜遺跡や三内丸山遺跡の「ヒョウタンのルーツがニジェール川流域」であり、人類大移動の水筒として「海の道」を通って日本列島に伝わったのではないか、という南方起源説からでした。「人類手ぶら大移動」ではなく、人とともに、物や文化・宗教なども伝わったと考えたからです。

 そして「Y染色体Ⅾ型」「主語-目的語-動詞(SOV)言語」「宗教語・農耕語」「イネ科植物」「粉食」「魚介食」「モチ食・そば食」「黒曜石」「おじぎ文化」「白山信仰(神山天神信仰)」「ヒ(ピー:霊)信仰」「社叢(鎮守の森)」「妊娠女性・女神信仰」「性器信仰」「小正月のホンガ(ポンガ)のカラス行事」「山車とワッショイの掛け声」「龍神(トカゲ龍・龍蛇)信仰」など、私は人類大移動とともにアフリカ・メソポタミア・インダス・インド東南アジア高地などからDNAや言語、農耕、文化、宗教が日本列島に伝わったことを明らかにし、「七十五神事」もまた同じようにそのルーツがアフリカ・アジアの移動ルート上のどこかにある可能性が高いと考えます。

 もちろん、技術・文化・宗教なども「多地域発展」の「偶然の一致」もあるとは思いますが、人類が石槍だけもって世界に拡散したとは考えられず、人類の発展史と同じように「アフリカ単一起源説」でまずは考え、そこから「多地域発展」の部分を引き算すべきと考えます。

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 丸谷氏発見の吉備津神社「七十五膳据神事」と守矢氏の「七十五鹿頭の御頭祭」「年内七十五度の神事法秘伝」の「七十五祭祀」の一致は重要な指摘であり、私が考えて来た諏訪の守矢氏のルーツが備前赤坂のスサノオ物部氏一族という説と符合しますが、さらにそのルーツは世界的な視野で研究する必要があると考えます。

 この「七十五神事」について、吉備と諏訪の地元のみなさんを始め、さらに探究が進むことを期待したいと思います。

 

縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の「七十五神事」

 私のフェイスブックを見て、岡山市の古代史研究家の丸谷憲二さんから連絡をいただき、吉備の物部氏と諏訪の守矢氏との宗教上の繋がりを示す資料や、備前赤坂(現赤磐市)の赤土などからの製鉄再現実験の資料を送っていただきました。

 今回は、氏のレジュメ「吉備津神社 七十五膳据神事の七十五の起源についての考察」をもとに、縄文ノート119・120で明らかにした、記紀、播磨・伊勢国風土記、神社・民間伝承のからの諏訪と伊勢・大和・播磨・備前スサノオ大国主一族の氏族・宗教・製鉄の繋がりについての分析を補強したいと考えます。

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 縄文論から外れるとのお考えもあるとは思いますが、「スサノオ大国主国史から遡って縄文社会・文化・宗教を解明する」=「縄文社会・文化・宗教の延長上にスサノオ大国主建国がある」という私の基本的な縄文解明の方法論の延長上にあります。

 なお、丸谷さんの「製鉄実験」などについては、次々回に紹介したいと考えます。

 

1.守矢氏は狩猟民系か農耕民系か?

  これまでの「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」の「石器→縄文土器弥生土器→古墳」時代区分に対し、私は「石器・土器(縄文)人の内発的・自立的史観」にたち、農耕具・調理具から「石器→土器鍋(縄文土器)→鉄器」時代区分を提案してきました。

 その延長で諏訪の「守矢氏=縄文系、諏訪氏=弥生系=大国主系」説に対し、私は信濃の石器・土器時代の人たちも守矢・八坂・伊勢・諏訪氏も同じ霊(ひ)信仰(魂魄分離の地母神信仰・神名火山(神那霊山)信仰)を受け継ぎ、信濃の地に鉄器水利水田稲作文化を持って吉備スサノオ系の守矢氏、吉備・伊勢スサノオ系の八坂氏、出雲大国主系の建御名方、播磨大国主系の伊勢津彦(大和政権以降)が順に信濃に入り、妻問夫招婚によりこの地に根付いたと考えました。

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 そして「縄文時代=採集漁撈狩猟時代」ではなく、「石器農耕具・黒曜石鏃・落とし穴・石皿(石臼・石すり皿)・縄文土器鍋」の5点セットから、縄文(土器鍋)時代には芋・豆・6穀(ソバ粟稗黍麦陸稲)の「焼畑農耕時代」に入り、鉄器時代になって「水利水田稲作時代」に入ったと考えました。

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2.守矢氏は諏訪土着民か備前赤坂ルーツの物部氏系か?

 守矢氏を諏訪土着の縄文人ではなく、備前赤坂のオロチ王系のスサノオ一族と考えたのは、次の7点からです。

① 古事記が伝える大国主が出雲スサノオ家6代目(代々襲名)の娘のスセリヒメ(須勢理毘売)に妻問いした時に蛇室に寝かせた王位継承の儀式が守矢氏の御室神事に継承されている。―「縄文ノート39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照

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② 守矢氏は祭祀に鉄鐸を使う鉄器部族であり、銅鐸祭祀圏(BC4~AD2世紀:大国主・大物主連合による八百万神信仰により消滅)をルーツとしており、日本最大級の銅鐸の鋳型が備前赤坂の隣の播磨の赤穂(赤生)で発見されている。―「縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」参照

③ スサノオヤマタノオロチ王を切った十拳剣(韓鋤剣)は備前赤坂の石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)物部氏により祀られており、この地は「真金吹く吉備」と歌われた古代赤目砂鉄製鉄の拠点であり、物部氏スサノオ系の製鉄部族であった。

④ 長野県佐久市の山田神社ではヤマタノオロチが白鳥となって飛んできてその魂が乗り移った白青石の蛇石(へびいし)を神体としており、「やまたのおろち」=「山田のおろち」説と「山田神社」名が符合する。―「縄文ノート39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照

⑤ 播磨・丹後・尾張などを拠点とした物部系の天照国照彦天火明の部下に八坂彦がおり、八坂彦(代々襲名の可能性)の娘の八坂刀売(やさかとめ)諏訪大社上社前宮と下社春宮・秋宮に主祭神として祀られており、守矢氏は前宮の祭祀を継承している。古事記がオロチ王について「八岐」(岐:山道で枝状にわかれたもの)の字を当て、「八頭八尾」があり「八谷峡八谷」にわたり、腹は「常に血爛れ」でいたというのは、8つの谷で赤目(あこめ)砂鉄を水に流して選別(鉄穴(かんな)流し)したことを神話的表現で伝えたものであり、「八坂」もこの「八岐」「八谷峡八谷」の製鉄地由来の名前の可能性が高い。

⑥ 大国主の後継者争いで筑紫大国主家のホヒ・ヒナトリ親子に敗れた建御名方は越の母・沼河比売、さらに諏訪スサノオ系の八坂氏一族を頼り、八坂刀売に妻問いしたと考えられる。

⑦ 守屋姓は岡山県に一番多く、蘇我氏に敗れた物部守屋備前をルーツにしていた可能性がある。

⑧ 信濃各地に物部守屋伝承があり、蘇我氏に敗れた物部守屋一族は諏訪物部系の八坂氏を頼って落ち延びた可能性が高い。

 

 なお、美和(三輪)のスサノオの御子の大年の一族が大物主を代々襲名し、スサノオ大物主大神を大神(おおみわ)神社に祀っていることからみて、「大物=大神」から「物=神」になります。物部氏スサノオ大物主大神)がオロチ王女に妻問いした一族と考えられ、大年(大物主)の部下として大和の現在の天理市に移った物部氏は後に大和朝廷の鉄器の生産・管理を行うとともに、備前赤坂の石上布都魂神社のスサノオの剣を天理市石上神宮に移し、スサノオ祭祀を行ったと考えます。

 

3.温羅は吉備のスサノオ物部氏の製鉄王

 備前赤坂(現赤磐市)の石上布都魂神社は備前国一宮でしたが、岡山市北区吉備津(古くは真金(まかね))の吉備中山の北東麓の吉備津彦神社に移されます。さらに美和・大物主の権力を奪った第10代崇神天皇(筆者推定:370年頃即位)の命により、第7代孝霊天皇の第三皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこ)が温羅を滅ぼした時、温羅から吉備冠者(実際は吉備王であろう)の名前を奪い、彦五十狭芹彦命吉備津彦と名乗り、中山北麓の備中国一宮の吉備津神社に鎮座します。吉備津彦神社と吉備津神社はどちらも現在は天皇一族の吉備津彦を祭神としていますが、私は元々はどちらも温羅一族の物部氏を祀る拠点であったと考えます。

 『古今和歌集』で「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の音のさやけさ」と歌われたように、この吉備中山は製鉄の拠点であり、金屋子神の「播磨国宍粟郡→吉備中山→伯耆→出雲」ルートの製鉄技術伝播の伝承や、スサノオヤマタノオロチ王を切った十拳剣(韓鋤剣)が備前赤坂の石上布都魂神社に置かれたことからみて、この吉備中山の地もまたスサノオ一族の物部氏の製鉄拠点であったと考えます。―縄文ノート「53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」「119 諏訪への鉄の道」参照

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 なお、吉備津神社から西に直線距離で2.4㎞のところには紀元2世紀後半の楯築(たてつき)墳丘墓があり、さらにその西には全国第4位の巨大前方後方墳の5世紀前半の造山(つくりやま)古墳や7位の5世紀中頃の作山(つくりやま)古墳、備中国分寺などがあり、この足守川(上流に血吸川)一帯が備中の中心地であったことが明らかです。

 楯築墳丘墓(私は古墳と言うべきと考えています)は上に5本の巨石を立てた双方中円墳であり、を整形したものであり、中央部の木槨の中の棺には30㎏以上の朱が敷かれており、鉄と朱生産を行う王墓であったと見られます。

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 そして、この地は吉備津彦に滅ぼされた温羅(吉備冠者)伝説が色濃く残り、その頭は吉備津神社御釜殿の下に埋められ、妻の阿曽媛に神饌を炊かせ、その鳴釜神事は現在に続いています。この温羅退治をもとに室町~江戸時代に「岡山桃太郎」のおとぎ話が作られています(他にも香川県や愛知県、さらには岩手県から沖縄県まで日本各地に桃太郎伝承があります)。

 温羅が捕まったとされる鯉喰神社は楯築墳丘墓から700mほどのところにあり、吉備中山からこのあたりにかけては温羅=吉備物部氏の拠点であり、温羅の血で染まったという血吸川・赤浜はこの地が赤土=赤目(あこめ)砂鉄製鉄の拠点であったことを示しています。温羅の妻の阿曽媛の出身地の血吸川上流の阿曽郷(九州の阿蘇がルーツであろう)からは古代製鉄跡が多数発掘されており、阿曽地 区から血吸川をさらに遡った鬼城山(鬼ノ城は温羅の本拠地)の麓の奥坂には千引カナクロ谷製鉄遺跡(千引=血引であろう)があります。

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 千引カナクロ谷製鉄遺跡は現在のところ6世紀中ごろの日本最古の製鉄遺跡とされています。今後、さらに古い時代の製鉄遺跡が備前赤坂やこの阿曽地区から発見される可能性が高いと私は考えています。

 

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4.吉備津神社「七十五膳据神事」と守矢氏の「七十五鹿頭の御頭祭」「年内七十五度の神事法秘伝」

  前置きが長くなりましたが、丸谷憲二さんからの吉備津神社の「七十五膳据神事」の紹介に入りたいと思います。

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 私事で恐縮ですが、私は小学生になるまで、両親が岡山空襲で焼け出されて疎開していた吉備津神社御釜殿の真裏の借家で育ち、吉備津神社の本殿から御釜殿などへの400m近い急な回廊(県指定文化財)をスケーター(鉄車輪でやかましい)で下っては遊んでいて、父は宮司さんから「すごいことをするなあ」と感心されたというので得意でした。今なら「危険」「文化財を壊す」と大目玉でしょうが、当時は子どもの遊びや冒険を大目にみるというのんびりした時代で、前の宇賀神社の島のある池に落ちたことなどもありました。

 しかしながら、父から聞いた御釜殿には吉備津彦が犬に食わせた温羅の頭蓋骨が埋めてあり、温羅の唸り声が止むことがなかったので鳴釜神事を今も行って祀っているという話は怖く、鳴釜神事の神主の祝詞御釜殿から聞こえて来た時には前から逃げ出していました。

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 この吉備津神社に「七十五膳据神事」があることを先日の丸谷さんのメールのレジュメで初めて知りましたが、「備中国内の諸郷から新穀をはじめとする産物を一宮である吉備津神社に献納し感謝するお祭りと説明されている。300メートルに及ぶ廻廊の端にある御供殿(ごくうでん)から、七十五膳や神饌、神宝類、奉供物を前日までに準備し、それぞれの膳には春は白米、秋は玄米を蒸して円筒形の型にはめて作った御盛相(おもっそう)を中心に鯛や時節の山海の珍味で四隅をはり柳の箸がそえてある」というのです。

 そして「七十五という数について、① 往古の最大吉数八十一の次の吉数である七十五説。② 神座数が七十五あり一膳ずつ献供説。③ 村落数が七十五あり各村々から一膳ずつ献供説 等がある。吉備津神社では、この神事は祭神の温羅を退治し凱旋した時の模様を加味しているとし、村落数説がもっとも有力な説としている」と紹介しています。

 さらに丸谷氏は「諏訪大社の御頭(おんとう)祭の神饌(しんせん)は「75 頭の鹿の頭」であった」「守矢神長家には、一子相伝として「年内神事七十五度の秘法」が伝授されていた」ことに気づきます。

 そして、御杖柱(みつえばしら) =御贄柱(おにえはしら)に御神(おこう)と呼ばれる子供を縛りつけたという神事を『旧約聖書』創世記のアブラハムがひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き神に捧げたを燔柴(はんさい)(火+番+柴で、火に柴を順番に燃やす)の儀式と類似しているとし、『新約聖書』の「ヨセフは使をやって、父ヤコブ七十五人にのぼる親族一同とを招いた」「75 頭の鹿の首の中に必ず一匹だけ耳裂け鹿がいるというのは、角をやぶに掛けている一頭の雄羊を捕え子のかわりに燔祭としてささげた」などの符合がみられることから、イスラエルの失われた十支族の一支族が信濃に渡来してイサク奉献伝承を忘れないために御頭祭を創作したと推測しています。

 しかしながら、羊飼いのユダヤ人がカナン(パレスチナ)を侵略・支配したのは紀元前1200年頃とされ、イスラエル王国が滅び「失われた十部族」が生まれたのは紀元前721年の頃であり、紀元前1万数千年頃からの縄文文化・宗教との共通性を見出すことはできません。

 御頭祭を狩猟民の祭祀とみる説が見られますが、霊(ひ)信仰のわが国においてはアイヌの熊送りの祭りに見られるように動物の魂を天に送り返す儀式はあっても、神に焼肉を捧げる儀式はありません。私は御頭祭は鳥獣害駆除の農耕祭と考えています。―縄文ノート「7 動物変身・擬人化と神使(みさき)、狩猟と肉食」「98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社」参照

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 また「モリヤ」と守屋山・守矢の符合についても、宗教用語すべての符合をドラヴィダ語のようにチェックすべきであり、単なる偶然の一致と考えます。―縄文ノート「37 『神』についての考察」

 イスラエル王国成立・滅亡時期と縄文時代の食い違い、ユダヤ教の唯一絶対神縄文人の霊(ひ)信仰の違い、「動詞―主語―目的語(VSO)型」又は「主語―動詞―目的語(SVO)型」のヘブライ語と「主語―目的語―動詞(SOV)型」の日本語との違いなどから、私は日ユ同祖説は成立しないと考えます。―縄文ノート「38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」「縄文74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」「97 3母音か5母音か?―縄文語考」等参照

 

5.「七十五神事」の起源について

 丸谷氏の「ユダヤ人起源説」には私は同意できませんが、「七十五神事」がアフリカあるいはメソポタミアで始まり、それがイスラエルと日本に別々に伝わり、吉備から諏訪に伝わった可能性はある、と私は考えます。

 私の縄文研究は次女がアフリカのニジェール青年海外協力隊員として行き、鳥浜遺跡や三内丸山遺跡の「ヒョウタンのルーツがニジェール川流域」であり、人類大移動の水筒として「海の道」を通って日本列島に伝わったのではないか、という南方起源説からでした。「人類手ぶら大移動」ではなく、人とともに、物や文化・宗教なども伝わったと考えたからです。

 そして「Y染色体Ⅾ型」「主語-目的語-動詞(SOV)言語」「宗教語・農耕語」「イネ科植物」「粉食」「魚介食」「モチ食・そば食」「黒曜石」「おじぎ文化」「白山信仰(神山天神信仰)」「ヒ(ピー:霊)信仰」「社叢(鎮守の森)」「妊娠女性・女神信仰」「性器信仰」「小正月のホンガ(ポンガ)のカラス行事」「山車とワッショイの掛け声」「龍神(トカゲ龍・龍蛇)信仰」など、私は人類大移動とともにアフリカ・メソポタミア・インダス・インド東南アジア高地などからDNAや言語、農耕、文化、宗教が日本列島に伝わったことを明らかにしており、「七十五神事」もまた同じようにそのルーツがアフリカ・アジアの移動ルート上のどこかにある可能性高いと考えます。

 もちろん、技術・文化・宗教なども「多地域発展」の「偶然の一致」もあるとは思いますが、人類が石槍だけもって世界に拡散したとは考えられず、人類の発展史と同じように「アフリカ単一起源説」でまずは考え、そこから「多地域発展」の部分を引き算すべきと考えます。

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 丸谷氏発見の吉備津神社「七十五膳据神事」と守矢氏の「七十五鹿頭の御頭祭」「年内七十五度の神事法秘伝」の「七十五祭祀」の一致は重要な指摘であり、私が考えて来た諏訪の守矢氏のルーツが備前赤坂のスサノオ物部氏一族という説と符合しますが、さらにそのルーツは世界的な視野で研究する必要があると考えます。

 この「七十五神事」について、吉備と諏訪の地元のみなさんを始め、さらに探究が進むことを期待したいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/