私の母方の故郷、たつの市揖保川町から御津町にかけての丘陵で、小学生高学年の頃、鳩やジュウシマツを飼っていた鳥好きの又従兄弟たちが鳥もちや霞網で野鳥を捕りに行くのに付いて行ったことがありました(当時、霞網は禁止されていましたが知り合いの大人から借りてきており、幸い、未熟で成功しませんでした)。
その時、同学年の武君から「この山の上からは古代人の糞がいっぱいでてくる」と教えられ、私は「こんな山の上で古代人が糞をいっぱいするかなあ。ウンチは雨で溶けてしまって化石になるだろうか」と疑問に思ったものです。
古代史をやるようになって、ようやく武君は金屎(鉄屎:かなくそ)を人間の糞と誤解していたことが判りましたが、岡山県赤磐市赤坂の石上布都魂神社でも近くの川から金屎がいくらでも出てくるということを聞き、金糞岳(滋賀県と岐阜県境)、金草岳(元は金糞ヶ岳:福井県と岐阜県境)、金屎(愛知県一宮市、青森県八戸市)、金糞平(青森県三沢市)の山名・地名だけからみても、稲作と木の文化とともに製鉄の残りかすの金屎は全国いたるところにあった可能性が高いと考えます。縄文土器の穴のシリコン・レプリカから縄文農耕が証明され、柱穴から縄文建築が再現されているように、「残り物には福がある」で古代製鉄の起源に迫る鉄屎(かなくそ)研究者が出てきて欲しいものです。
「石器―土器―鉄器」時代区分による日本文明研究として、「採集・漁撈・狩猟―焼畑農耕―水辺水田稲作―鉄器・水利水田稲作」時代区分、「集落古墳―山上古墳―切盛古墳」時代区分、「氏族社会―部族社会―古代国家(常備軍・行政組織・統一宗教)」時代区分の整理に向けて、今回、播磨を中心に分析しました。
本来はブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」か「帆人の古代史メモ」に書くべきでしょうが、いずれ「製鉄論」「古墳論」として整理したいと思います。
1 播磨南部の3~4世紀の「山上古墳」時代
播磨北部の千草鉄(宍粟鉄)の産地で有名な宍粟市千種町の「金屋子神」による吉備・伯耆・出雲へのたたら製鉄伝承については縄文ノート「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」「118 諏訪への鉄の道」などで書き、千種川下流の赤穂(赤生)の最大級の銅鐸鋳型や黒鉄山地名など製鉄の可能性にもふれましたが、その東の揖保川流域での製鉄と古墳については触れませんでしたので、吉備の製鉄、阿蘇ピンク石の石棺との関係について個人的な興味もありまとめておきたいと考えます。
私が武君から金糞の話を聞いた尾根伝いには4世紀初頭の前方後方墳の権現山51号墳があり、すぐ南の雛山の5世紀初頭の朝臣1号墳には阿蘇ピンク石の石棺蓋があり、さらにその南の御津町岩見の3世紀中頃の綾部山39号墳は『日本最古級の古墳』とされる隅丸方墳(道路で破壊される前は前方後方墳の可能性)があります。
個人的な話で恐縮ですが、雛山の北麓のケアハウスに両親が1年程暮らしていたことがあり、「雛元」名字に縁があると岡山県井原市出身の父は喜んでいました。南麓の朝臣1号墳とさらに南の綾部山39号墳の間には「釜屋」というたたら製鉄由来の可能性がある集落があり、私の曾祖母の出身地でした。また祖母の住んでいた「浦部」集落は揖保川町史によれば「占部」の可能性が指摘されており、五十狭芹彦(大物主の妻で箸墓に葬られた百襲(ももそ)姫の弟。後の吉備津彦)に殺されたと伝わる吉備の「ウラ(温羅)王」も「占王」であり、対馬・壱岐をルーツとした「占部氏」由来の地名・人名ではなかったかなどと考えていました。
さらに北の養久山(古くは焼山)には方墳、円墳、前方後円墳など39基が点々とあり、3世紀後半の養久山(やくやま)1号墳は最古のばち型の前方後円墳で大和・纏向のホケノ山古墳・纏向石塚・矢塚古墳と同形です。
周辺には黍田(元々は吉備田であろう)や神戸、土師、梶ヶ谷(鍛冶ケ谷)などの地名があり、さらに北の龍野町日山には大国主の御子の天照国照彦火明を祀る粒坐天照神社があり、龍野は播磨国風土記に書かれた垂仁朝(筆者推定4世紀後半)の野見宿禰(出雲系の土師氏)が出雲に帰る途中で亡くなり墓が築かれたとされる地です。
揖保川下流の沖積平野で鉄器水利水田農業が開始され、部族共同体から世襲の首長が誕生し、墓が山上に築かれるようになったと考えられますが、この地での製鉄開始は3世紀中頃の可能性が高く、従兄弟が言っていた権現山51号墳からの尾根続きの金糞から考えると遅くとも4世紀初頭にはこの地で製鉄が行われていたことは確実と考えます。
2 揖保川・千種川上流での製鉄と稲作
この揖保川下流域の沖積平野での水利水田稲作に先立ち、播磨国風土記によれば、上流の宍禾郡(しそうぐん:現宍粟市)において大国主は安師比売に妻問いして断られ水路を変える嫌がらせをしたとしており、天水陸稲栽培・水辺水稲栽培から大国主の水路水田稲作への転換を受け入れた地域と拒否した地域があったことが伺われます。
西隣の千種(ちぐさ)川上流の讃容郡(さようぐん:現佐用市)では妻の玉津日女が「生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた」ので大国主は「お前はなぜ五月の夜に植えたのか」と言って他の所に去ったとしており、玉津日女の地母神信仰の稲作方法と大国主の田植え時期を遅らせてウンカの害を防ぐとともに水田で水を温めて栽培する新しい稲作方法とが対立したことを示しています。
なお「宍禾」「宍粟」は「宍+禾(稲・粟)」「宍+粟」であり、猪が多い山間で獣害対策として猪を狩りながら稲や粟をつくっていた土地を示しています。また、「禾」は倭音「いね」・呉音「ワ」・漢音「カ(クワ)」であり、「委奴(禾+女+女+又=いな)国」「倭(人+禾+女)国」は、女が稲をつくり、人に捧げる国を示しています。
このように、紀元2世紀の大国主の頃の稲作は揖保川や千種川の上流域の鉄生産の盛んな山間の水辺水田稲作であり、3世紀になって下流の沖積平野で大規模な水利水田稲作が始まるとともに、燃料の木・炭を確保できる風の強い海岸の山上で製鉄が行われ、世襲制となった部族長の墓が山上に造られるようになったと考えます。なお、播磨国風土記では、製鉄原料の赤目砂鉄や赤鉄鉱由来地名の赤穂郡(元は赤生郡)、明石郡(元は赤石郡)が欠落しており、もし天皇家や京都の公家家などで発見されるようなことがあれば、スサノオ・大国主一族の製鉄が解明される可能性が高いと考えます。
この揖保川下流域の沖積平野の揖保郡には大国主と少彦名が稲種を置いた「稲種山」や大国主が粒(いいぼ)を落とした粒丘(いいぼおか)など、大国主一族が水利水田稲作を広めた記述があり、播磨国風土記には次のように大国主一族の製鉄と稲作に関わる記述があります。
古事記は大国主と少彦名が「国を作り堅め」、少彦名の死後には美和の大物主と「共に相作り」と書き、日本書紀は大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」、「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」とし、出雲国風土記は大国主を「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と書くなど、天皇家は大国主を「建国王・天下経営王・農業技術王・百姓王・五百鋤王・天下造王」として公認していますが、播磨国風土記の水利水田稲作の記述はこれを裏付けており、それは、千種川上流の讃容郡(現佐用町)と揖保川上流の宍禾郡(現宍粟市)での製鉄による鉄先鋤による水路水田づくりによって可能となったことを示しています。
3 農耕と「集落古墳→山上古墳→切盛古墳」
製鉄・稲作の開始は分業を進めて共同体リーダーの首長(女性)をいだく部族社会となり、さらに葦が生い茂る沖積平野での鉄器水利水田稲作の開始は、鉄先鋤による水路・水田開発の集団工事と栽培活動により生産量を飛躍させ、世襲王が支配する部族国を成立させ、さらに統一王を誕生させます。
その結果、氏族社会の集落墓から、近くの小山の上に部族世襲王の神山天神信仰にもとづく王墓群が築かれ、さらに巨大な造山(作山)古墳の誕生へと続きます。
新皇国史観(大和中心史観・天皇家中心史観)の考古学では大きさ・高さを基準に「弥生式墳丘墓」と「古墳」を分けて両者を分離し、3世紀後半からを「古墳時代」として天皇家建国と結びつけようとしていますが、「石器-土器-鉄器」時代区分説の私は立地条件から「集落古墳→山上古墳→切盛古墳(造山・作山古墳)」の順で考えています。
切盛(きりもり)古墳は、小山の裾を切って整形した切山古墳、尾根を切って整形した尾根切り古墳、周辺を掘って切り取った土を盛って整形した切土盛古墳などになります。
私が考える「石器-土器-鉄器」時代区分説と「集落古墳→山上古墳→切盛古墳」時代の関係は次表の通りです。
揖保川海岸部・下流域のこの地には3世紀中頃から4世紀初頭の「山上古墳」が点々とあり、これらは通説では小山上の「弥生式墳丘墓」としていますが、私はスサノオ・大国主一族の「山上古墳」とみており、4世紀後半から大和では大型の「切盛古墳時代」になると考えています。
4 「ばち型前方後円墳」などはスサノオ・大国主一族の古墳様式
ばち型前方後円墳の3世紀初頭の纏向石塚古墳と3世紀中頃以前の纒向矢塚古墳と近年発掘された大型建物を結ぶ線が穴師山に向かい、3世紀後半の養久山1号墳や3世紀末の浦間茶臼山古墳(岡山市)や椿井大塚山古墳(木津川市)、3世紀の矢藤治(やとうじやま)山古墳(岡山市の吉備中山)、箸墓(元々は4世紀説)が同じばち型であることや、3世紀中頃のばち型の綾部山39号墳の埋葬部分の「石囲い・石榔・木棺」3重構造と、箸墓から穴師坐兵主神社、穴師山に向かう線上にある3世紀後半のホタテ貝型のホケノ山古墳の「石囲い・木榔・木棺」3重構造が類似していること、2世紀後半~3世紀前半の楯築古墳(倉敷市)と同じ双方中円墳が4世紀前半の鏡塚古墳(高松市)や4世紀後半の猫塚古墳(前同)や4世紀後半の櫛山古墳(天理市)などに見られることからみて、吉備・播磨・讃岐・大和・山城のこの時代の古墳は同じスサノオ・大国主一族の墓制であることを示しています。
古事記によれば、少彦名が亡くなった後、大国主のもとに大物主が現れ、「吾をば倭の青垣の東の山(御諸山=美和山=三輪山)の上に拝し奉れ」と述べて「共與(とも)に(国を)相作り成さむ」と協力して国づくりを行ったとしており、大物主(スサノオの御子の大年一族で代々襲名)の拠点である三輪の北の纏向(間城向)に大国主(穴師坐兵主大神)が祭祀拠点(大型建物)を置き、大物主大神(スサノオ)の祭祀を行ったことが、穴師山信仰(穴師坐兵主神社)とばち型前方後円墳、「石囲い・石槨木榔・木棺」3重構造の埋葬様式によって裏付けられます。
纏向の箸墓が穴師山(大国主を祀る穴師坐兵主神社の神山)を向いていること、民の半数以上が亡くなるという恐ろしい疫病を英雄・大物主が退散させたと日本書紀に書かれていること、「昼は人作り、夜は神作る」は昼は御間城入彦(後に崇神天皇と忌み名)の山人(やまと)族、夜はスサノオ・大国主一族が作ったことを示しており、手逓伝(てごし:バケツリレー方式)で大坂山(注:奈良盆地入口の大阪山口神社は大山祇(スサノオの妻・神大市姫の父)、スサノオ、神大市姫を祀る)の石を運んだとする築造方法は出雲族の龍野の野見宿禰墓と同じであることなどから、箸墓は「大物主(オオタタネコ:大田田根子:スサノオの子の大年=大物主を襲名)とモモソ姫(倭迹迹日百襲姫:第7代孝霊天皇皇女)の夫婦墓」であると私は考えています。―「縄文ノート118 諏訪への鉄の道」の図4再掲。詳しくは、Seesaaブログ『ヒナフキンの邪馬台国ノート』の「纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」(200128) https://yamataikokutanteidan.seesaa.net/article/473308058.html
なお、箸墓については私が学生の頃は4世紀と習いましたが、「モモソ姫箸墓=卑弥呼墓=アマテル墓」空想説の邪馬台国畿内説論者たちは百襲(ももそ)姫や天照(あまてる)大御神、「筑紫日向橘小門阿波岐原」の高天原の記紀記載などを全て無視し、邪馬壹国時代に遡らせて3世紀後半の卑弥呼墓説を唱えています。しかしながら、C14年代測定法の補正無視や古い時代の木片資料の混入などが指摘がされており、安本美典氏の天皇の即位年推定(私も追試)からも箸墓の造営は4世紀後半と考えます。
古墳(円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳)を天皇家が定めた墓制などとする何ら根拠のない新皇国史観の空想から覚めるべき時です。
「集落古墳→山上古墳→切盛古墳」区分に基づき、大国主の八百万神信仰の山上天神思想が始まった2世紀後半からの筑紫・出雲・吉備・播磨・讃岐・大和・山城などの「山上古墳」の全てについて分析・整理が必要と考えますが、今後の課題としたいと思います。
5 5~6世紀の「阿蘇ピンク石石棺」
「縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』」において、岡山市の5世紀前半の全国第4位の巨大前方後方墳の造山(つくりやま)古墳を取り上げましたが、その舟型石棺は灰色の阿蘇溶結凝灰岩であり、近くの阿曽地区の千引カナクロ谷製鉄遺跡は現時点で6世紀中頃の日本最古の製鉄遺跡とされ、吉備津彦に滅ぼされた温羅(うら)王の妻の阿曽媛の出身地です。
また、赤磐市の南の瀬戸内市長船町西須恵の5世紀後半の築山(つきやま)古墳の家型石棺は熊本県宇土市の馬門石(赤石・阿蘇ピンク石:阿蘇溶結凝灰岩)であり、この同じ最高級ブランドの阿蘇ピンク石は播磨の朝臣1号墳の舟型石棺蓋、香川県観音寺市の5世紀中頃~後半の丸山古墳の舟形石棺、5世紀中頃の帆立貝形の青塚古墳の舟形石棺、高槻市の6世紀前半の今城塚(いましろづか)古墳(第26代継体天皇の陵墓説)など5~6世紀の大阪・奈良・滋賀の10の古墳に使われています。
阿蘇ピンク石の「阿蘇~吉備~播磨~摂津・河内~大和~近江」繋がりが5~6世紀にできたことは明らかであり、大物主一族の美和(三輪)王朝を御間城入彦(12代崇神天皇)が入り婿として乗っ取り、12代景行天皇が播磨の印南(今の加古川市)で妻問いして生まれた小碓命(熊襲建から倭建名をもらう)が熊襲建(くまそたける)を討ち、14代仲哀天皇が熊襲と戦って敗れたものの妻・神功皇后が撃ったとする記紀の記載からすると、阿蘇ピンク石石棺は天皇家の阿蘇支配を示しているように見えます。
しかしながら、大国主一族は出雲大社の神在祭で全国の王族の縁結びを行うとともに、美和(三輪・大神神社)・纏向(穴師)でのスサノオを祀る各国の王たちの集まりを紀元2世紀から続けており、吉備・播磨・讃岐などの阿蘇石の石棺はスサノオ・大国主一族の妻問夫招婚により、宇土市から運ばれた可能性もあります。
どちらでしょうか?
6 謡曲「高砂」の肥後の国阿蘇の神主・友成
ここからはいささか脱線しますので、正統派歴史学の方はパスして下さい。『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』からの引用です。
「高砂やこの浦船に帆をあげて この浦船に帆を揚げて 月諸共に出で汐の 波の淡路の島陰や 遠く鳴尾の沖すぎて 早や住の江に着きにけり 早や住の江に着きにけり」と唄われる謡曲「高砂」は、かつては結婚の祝の席で必ず謡われたわが国の「ハッピーウエディング」ソングで、私たちの時にも叔父が朗々と唄ってくれました。
「肥後の国阿蘇の神主、友成が都への旅にでる途中、有名な高砂の相生の松を見たいと思い、高砂の浦に立ち寄った。相生の松を探していると、老翁と老婆がやってきて、松の下を掃き清めた。友成が、高砂と住江(大阪市)の松は離れているのに、なぜ相生の松というのか、と尋ねると、老翁は高砂、老婆は住江の住人(どちらも松の精)で、遠く離れて住んでいても夫婦の心は通い合うもの、と教えた。友成が住江に行くと、住吉明神が現れ、神舞を舞って、御世万歳、国土安穏を祝った」という不思議な物語です。
兵庫県高砂市の高砂神社(祭神:大国主、スサノオ・奇稲田姫)には創建時から根元が一つで幹が左右に分かれた相生の松があり、尉(じょう=おきな)と媼(うば=おみな)の二神が現れ、「神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん」と告げたことから、霊松として人々の信仰を集めるようになったという伝説があり、「高砂」は播磨国の歌枕として詠まれていますからこの「尉と媼」伝説の起源は奈良時代よりも古いことは確実です。
この高砂神社は大国主・少彦名建国伝承のある高御位山(天皇家の皇位継承は同じ名称の高御座(たかみくら)で行われる)の麓にある「石の宝殿」やヤマトタケル生誕伝承の日岡神社(加古川市)に近く、神功皇后が「熊曾・三韓征西」(記紀)の際に大国主神の神助を得て勝利し、帰路に創建したとされています。
この謡曲「高砂」には阿蘇の神主、大国主神を祀る高砂神社、住吉大神(筒男3兄弟:スサノオの異母弟)を祀る住吉大社が登場し、高砂と住吉の夫婦の物語としている点に注目すべきです。皇国史観はこの夫婦をイヤナギ・イヤナミとこじつけていますが、大国主が住吉大神の王女に妻問いした歴史を示しています。
古代からの家系を伝えている出雲大社の出雲国造(千家・北島)家、阿蘇神主の阿蘇家、住吉大社の津守家、籠神社 (このじんじゃ)の海部氏、諏訪神社の諏訪家、天皇家の6家のうちの、阿蘇・出雲・住吉の三家が関わる物語であり、謡曲「高砂」はこの三家がスサノオ・大国主一族であることを秘かに伝えていると私は考えます。
私事で恐縮ですが、前掲図3の阿蘇ピンク石の石棺蓋が発見された雛山の西にある岩見港より私の祖母は迎えに来た御座船に乗って住吉大社に仕えており、それはいつの頃からか祖母の代までずっと代々続いていたと聞いていますから、播磨と住吉、阿蘇の海人族の関係の深さを実感ています。
7 温羅王・阿曽姫一族の製鉄法
桃とマスカットの産地であり、桃太郎伝説のある岡山で小学生時代を過ごした私としては、箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫(ヤマトのトトヒのモモソヒメ)の名前は「桃襲姫」ではないかと考え、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)では次のように書きました。長くなりますが、引用します。
マル 21:09
纏向から大量の桃の種が見つかっているんだから、モモソヒメの「百(もも)」は「桃」、「百襲(ももそ)姫」は「桃蘇姫」で、イヤナギの桃による黄泉軍の撃退伝説にちなんだスサノオ・大国主系の皇女だと思うよ。
長老 21:11
桃は縄文時代前期には日本に伝わり、中国から倭国は桃源郷と見られていたんだ。イヤナギが黄泉の国から黄泉比良坂(よもつひらさか)まで逃げてきた時、桃の実を投げつけて黄泉軍を追い払ったという神話からみて、桃は死を払う霊力を持っていると信じられていたんだ。「蘇(よみがえる)」字を使った「桃蘇姫」説はありうるなあ。
マル 21:14
思いっきり脱線するけど、昔、岡山市の仕事した時、「桃から生まれた桃太郎」のおとぎ話は「桃を食べて若返ったお婆さんの桃尻から生まれた桃太郎」という回春話しの新説を飲み会で提案して盛り上がったことがあったよ。百襲姫(ももそひめ)の弟の吉備津彦(きびつびこ)が岡山市の吉備津神社に祀られているから、彼から贈られた桃を食べて高齢出産した桃蘇姫の話が吉備に伝わり、桃太郎伝説が生まれたのかもしれないね。
吉備の温羅王を殺した五十狭芹彦(後の吉備津彦)の姉がモモソ姫であることからみて、吉備から桃好きの姉に桃が贈られ、「桃襲姫」の名前になった可能性はあると考えます。
さらに注目したいのは、温羅王の妻が備中の製鉄拠点である血吸川の阿曽地区の「阿曽媛」であり、「百襲姫」「阿曽媛」の「襲」「曽」が阿蘇を拠点とした「熊襲」の「襲」と重なり、近くの5世紀前半の全国第4位の巨大前方後方墳の造山(つくりやま)古墳の石棺が阿蘇凝灰岩であるという「曽=襲=蘇」繋がりです。―「縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』」の図4参照
「あすか=飛鳥=明日香=あ須賀」「かすが=春日=か須賀」などの接頭詞の「あ」「か」の用法からみて、「阿蘇」は「あ蘇=襲=曽」であり、元々は「曽」(後の曽於:鹿児島県大隅国の郡)から遠く離れた地を指し、「大隅国」は「隅=すみ=くま」国が大きくなった名前ですから、「隅=すみ=くま=球磨=熊」であり、「曽」はその一地域の可能性があります。
単なる「語呂合わせ」の解釈と思われるでしょうが、現在の「熊本」「阿蘇」は「熊襲」からきた名前の可能性が高く、鹿児島県の東部から移ってきた隈(熊)族と曽(蘇・襲)族とが作り上げた国と考えられます。
従って、曽(蘇・襲)族が吉備に移住し、その「阿曽媛」が温羅王の妻となり、温羅が大和天皇家7代目の孝霊天皇の御子の五十狭芹彦(後の吉備津彦)に滅ぼされたことからみて、阿曽(阿蘇)と吉備・播磨・大和などの繋がりは、山人(やまと)天皇家が大和(おおわ)の大物主の権力を奪う前から繋がりがあったことが明らかです。
そうすると、百済・筑紫ルート、新羅・出雲ルートとは別に、阿蘇・吉備ルートの製鉄技術伝播ルートがあった可能性があります。
図8のように弥生時代の鉄鏃の出土数が福岡県の次に熊本県が多いのは、九州北部の邪馬壹国とその南の狗奴国の戦争を示すとともに、狗奴国において鉄生産が行われていた可能性が高いことを示しています。
なお、この図8は近年の島根・鳥取などでの大量の鉄器の発掘結果を反映しておらず、図9のように紀元前後から出雲・伯耆からは大量の鉄が発見されています。―「縄文ノート83 縄文研究の7つの壁-内発的発展か外発的発展か」参照
阿蘇谷はベンガラの原料となる「阿蘇黄土」(リモナイト:褐鉄鋼)の産地であり、「縄文ノート121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」では、愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター・同付属高校のリモナイト(褐鉄鉱、ベンガラの素材となる)の粉末を用いた製鉄実験を紹介しましたが、筒型炉による製鉄材料として阿蘇黄土は優れているのです。
HP「和鉄の道―11. 私の阿蘇谷『阿蘇黄土』を訪ねる」は次のように紹介しています。https://infokkkna.com/ironroad/2012htm/iron8/1212asodani00.htm
「熊本県教育委員会宮崎敬士氏から阿蘇谷、下扇原遺跡&小野原A遺跡の発掘調査の話を聞きました。弥生時代後期卑弥呼の時代の前夜、先進材料であった鉄器を大量に集積した集落が山深い阿蘇谷に出現し、古墳時代が始まると忽然と消えていった。鍛冶工房を含む数多くの住居・鉄器・鉄滓が出土し、住居の床敷きやあちこちに大量にベンガラがあったと。
愛媛大村上恭通教授からは『1000℃を越える高温で焼かれたと考えられる謎の鉄滓も出土しているが、でも 炉跡からは粒状の鉄など製鉄が行われたという証拠は何一つ見つかっていない』とお聞きした。
・・・
ベンガラについては岡山県吹屋に行ったことがありましたが、大量の阿蘇黄土(渇鉄鉱)が今も露天掘りされている。びっくりでした。」
熊本県教育委員会宮崎敬士氏によれば、鉄滓が見つかっていることからみて、阿蘇谷では「弥生時代後期卑弥呼の時代の前夜」、すなわち紀元2~3世紀に鉄器製造を行っていた可能性が高いことになりますが、愛媛大村上恭通教授は「炉跡からは粒状の鉄など製鉄が行われたという証拠は何一つ見つかっていない」というのです。さらに探究していただきたいものです。
重要な点はそれらの鉄関係集落が「古墳時代が始まると忽然と消えていった」というのであり、スサノオ・大国主による百余国の委奴国から筑紫・投馬30国の邪馬壹国が分離独立(倭国大乱)し、筑紫29国と投馬国(さ投馬=薩摩+日向国妻(都萬))に挟み撃ちされた狗奴国(菊池・阿蘇等)は、吉備や播磨・讃岐、摂津などの大国主スサノオ・大国主系の70国との連携を深め、リモナイト(褐鉄鉱)製鉄法を伝えた可能性が高いと考えます。
中国・新羅系とこの阿蘇系の製鉄法は同じなのか、それともリモナイト・赤目砂鉄・高師小僧(葦鉄)・黒目砂鉄・鉄鉱石など原料に違いがあるのか、円筒炉と箱型炉など炉形に違いがあるのか、木材・炭など燃料に違いがあるのかなどは不明ですが、オロチ王(備前赤坂)、スサノオ・大国主(播磨・出雲)、温羅王(備中阿曽)などの製鉄法の違いについては今後の研究課題です。
8 アフリカ・インド製鉄ルートの阿蘇リモナイト製鉄
少し横道に逸れますが、吹屋ふるさと村・ベンガラ館のある岡山県高梁市成羽町は父の故郷の東隣町で義叔母の出身地であり、ベンガラ(Fe2O3)と銅の生産地として有名ですが、他にも映画『八つ墓村』のロケに使われた広兼邸や金精神社があり、備中神楽発祥の地で(元は猿田彦の舞・剣舞を中心とした荒神神楽の神事。知らない親戚ですがネットで見ると雛元太夫が演じていました)、東に山を越した新見市には縄文野焼き作家として有名な猪風来美術館があります。―縄文ノート「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」「34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」「41 日本語起源論と日本列島人起源」「52 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について」参照
父の実家すぐそばにも戦争中に銅の試掘をした坑道があり、兵庫県の生野銅山が有名であることなどからみても、中国山地で銅鉱は珍しくなく、698年に因幡国から朝廷に献上されたという記録よりはるかに古く、古代製鉄と同じ頃に銅の採掘・精製が行われ、スサノオ・大国主一族により大量の銅器が製造されていた可能性が高いと私は推測しています。
「ベンガラ(弁柄)」名のルーツが、江戸時代にインドのベンガル地方からの輸入品に由来するという偶然が気になっていたのですが、「縄文ノート42 日本語起源論抜粋」でまとめたように、私は日本語の「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造の基底にある倭音倭語は南インドのドラヴィダ語に日本列島への移動途中に東南アジア諸民族の言語が混じったものであると考えており、金属関係の言語については「縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」から表を再掲します。
製鉄については、①中国北部から朝鮮半島の辰韓(新羅)経由で伝わった、②中国南部から稲作とともに沖縄経由で伝わった、③インドから台湾・沖縄経由で伝わった、という3つの説がありますが、もしも①②なら金属関係の全てに倭音倭語があることの説明がつきません。
「縄文ノート122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」で書いたように、私は4000~3000年前のアフリカをルーツとする製鉄がインドに伝わり、さらに日本列島に「鉄の海の道」から阿蘇リモナイト製鉄が始まり、吉備・播磨などに伝わった可能性が高いと考えています。
9 金糞調査・分析と再現実験からの倭鉄解明へ
王墓や居住地の発掘からの鉄器・製鉄研究は考古学の専門分野になりますが、地表で発見できる金糞や製鉄原料の調査・分析や製鉄再現実験となると、工学系メンバーを含む市民研究グループの活躍が期待されます。
DNA・言語・宗教・芋豆穀類食・製鉄など、アフリカからの日本人・日本文明起源論として総合的な検討が求められます。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/