ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート75 世界のビーナス像と女神像 

 「縄文ノート32(Ⅲ-2) 縄文の『女神信仰』考」(201224)では、長野県茅野市の2つの遺跡の「縄文のビーナス」と「仮面の女神」などから、そのデザインが単なる描写ではなく、大きくお尻を誇張したシンボリックな表現をとった明確な造形意思があり、縄文人が信仰対象とした女神像であるとしました。

 

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 そして「女神信仰」は霊(ひ)を産む女性を神とする「霊(ひ)継ぎ信仰」を示し、大地から春になると再び植物が芽生え、海から魚が湧き、森から生物が生まれるように、死者が大地に帰り、黄泉帰ることを願う「地神(地母神)信仰」であったことを明らかにしました。

 親から子、孫がよく似ていたり、死者の記憶がいつまでも残ることから、死者の霊(ひ=魂)は死体から離れていつまでも残り、次世代に受け継がれると古代人は考えたのです。

 さらに、漁家では妻が家計を任されていたことを見ても、男が危険な海にでる海人(あま)族は母系制社会であり、「女神信仰」から邪馬壹国など多くの「女王国」が生まれたのです。「姓」字が「女+生」であるように古代中国もまた母系制社会であり、「姫氏」の周王朝の諸侯であった「魏」(禾+女+鬼)は「禾(稲)を女が鬼(祖先霊)に捧げる」国であり、周王朝を理想とした曹操卑弥呼の「鬼道」(孔子は「道」の国とみていた)の国を特に厚遇したのです。

 世界遺産登録を視野に入れながら、これまで「霊(ひ)信仰」「神山天神信仰(神名火山信仰)」「神使崇拝」「龍神信仰」「『主語-目的語-動詞』言語の分布」「イネ科穀物のルーツ」「黒曜石利用」「竹筏のルーツ」「丸型平面住居」「日本列島人のルーツ」などについて世界の文化・文明との比較検討を行ってきましたが、ここでは「女神信仰」について世界的な視野で検討したいと思います。

 縄文女性像は「ヴィーナス像」なのか「女神像」なのか、女性像はアフリカからの「伝播説」が成立するのか、それとも「多地域発展説」なのか、確かめたいと思います。

 

1 経過 

 これまで、私は縄文論をスサノオ大国主建国論からの縦軸と、世界の家族・氏族・部族・民族の共同体文明の横軸と、2つの軸を意識しながら分析してきました。

 後者については次表のように、最初は主に中国文明、続いてインド古文明のドラヴィダ文明や東南アジア高地文化、さらにはアフリカ文明や南北アメリカ文明との繋がりを検討し、最後にヨーロッパ文明、特に重商・資本主義の帝国主義文明との関係を分析してきました。

 世界の母系性社会の「女神信仰」についての考察はまだ抜け落ちており、さらに世界の女神信仰との関係を見ておきたいと考えます。

 

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2 世界の主な女性像

 ウィキペディアなどを中心に、世界の主な女神像をピックアップすると、次のとおりです。

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 なお、春成秀爾氏の「旧石器時代の女性像と線刻棒」は、図1の分布図を掲載し、ヨーロッパの女性像を5段階に分け、象徴的な表現から写実性を増していき、「28000 年前頃に女性像の歴史は閉じている」とし、ロシア平原では形式的表現から写実的になり、さらに全体が扁平化し、最後は身体の厚みは戻るが乳房の表現を省略し、23000年前頃に終焉しているとしています。

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3 日本の主な女性像

 日本の主な女性像は、旧石器時代のものは発見されておらず、縄文時代草創期の13000年前ころの粥見井尻遺跡と相谷熊原遺跡の土偶がもっとも古く、縄文中期・後期の5500~3500年前頃に中部高原で、晩期の3200~2400年前頃には東北地方で遮光器土偶が盛行しています。

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4 世界の女性像の考察

 以上、主な石器・土器時代の女性像からの仮説的な考察を行っておきたいと考えます。

⑴ 女性像はアフリカ起源ではないかも

   スサノオ大国主建国は「霊(ひ:祖先霊)」が「神名火山(神那霊山)」から天に昇る天神信仰であったと考えた私は、エジプトのピラミッドもまた神名火山(神那霊山)信仰を示しているのではないか、との仮説を考えていましたが、「日立 世界不思議発見」(ミステリーハンター竹内海南江)を見て、私のこの仮説が正しかったことを確認できました。

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 河江肖剰氏の解説ではギザのピラミッドの上が白、下が赤のツートンカラー様式は、上エジプト・白と下エジプト・赤を統一した王朝の色という説ですが、私は四角錘の形状で上が白、下が赤の雪山をモデルにしたものと考え、母なるナイル川源流を捜し、木村愛二氏のホームページから万年雪をいだくルウェンゾリ山にたどり着きました。―「縄文ノート56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」参照

 女性像についても、同じような可能性を考えたのですが、石器時代の女性像をアフリカで発見することはできませんでした。現在の考古学では「女性像アフリカ起源説」は成立せず、ヨーロッパや日本でそれぞれ独自の女性像文化を作った可能性が高いと考えます。

  

⑵ 女性像(ヴィーナス像)か女神像か?

 縄文文明や世界四大文明をさておき、「ギリシア・ローマ文明」から文明史をスタートさせたい「ヨーロッパ中心史観」は、旧石器時代からの女性像に「ヴィーナス」(ウィキペディアウェヌスは、ローマ神話の愛と美の女神。日本語では英語読み「ヴィーナス」と呼ばれることが多い)の名前を付け、「ギリシア・ローマ文明」の起源がドイツ・フランスあたりにあるかのように演出していますが、日本でもその策略にまんまと乗っかり、茅野市の棚畑土偶(写真1)に「縄文のヴィーナス」などと名付けていますが、明治以来の「拝外史観」「洋才史観」の歴史家たちの恥知らずと言う以外にありません。

 一方、同じ茅野市中ツ原遺跡の土偶(写真2)には「仮面の女神」というまともな名前をつけていると私は考えますが、みなさんはどちらを支持されるでしょうか?

 男性好みの豊満な美女イメージの「ヴィーナス」なのか、それとも氏族・部族共同体の「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)」信仰の「女神」なのかでは、縄文時代の見方はおよそ異なってきます。

 写真1~7と図1をもとに、そのデザインを整理すると表4のようになります。 

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 そのデザインの特徴をみると、次のようになります。

① 4~2.2万年前頃の旧石器時代のヨーロッパ・ロシアの女性像は、大きな乳房とお腹、尻、性器を強調しており、妊婦あるいは中年女性像を示しています。

② その後、5400~4300年頃のエーゲ海のキクラデス文明になると、女性像は長身(首長・足長)・細身の性的特徴を抑えたデザインになり、2100年前頃のキクラデス諸島ミロス島の「ミロのヴィーナス」となると写実的な若い女性像となります。

③ 5000~4500年前頃のインダス文明では、乳房が大きな写実的なテラコッタが見られますが、メソポタミア文明には衣服を着た正装の女性像しか見られません。

④ 日本では縄文草創期の13000年前頃の三重県の粥見井尻土偶滋賀県の相谷熊原土偶は豊かな乳房の女性像ですが、5000~2400年前頃の縄文中期・後期になると、正中線がありお腹や尻が大きい妊婦像と乳房が小さいかあるいは無い性的特徴を抑えた女性像の2種類になります。また、刺青あるいはボディペインティングが見られるとともに、仮面の女性像も特徴的です。

⑤ 以上のように、女性像は全人類に広く見られるのではなく、ヨーロッパ・ロシアとインダス、日本に偏っており、さらに地域や時代によって変化を見せています。すべてを「ヴィーナス」あるいは「女神像」と呼ぶことができるのか、それとも地域・時代によって異なるのか、作者の創作意図や氏族・部族社会の中での役割を考察したいと思います。

 

⑶ 女性像の作者は女性か、男性か?

 縄文土器の作者については、男性説・女性説があり、さらに私は土器づくり職人・芸術家がおり、分業体制が確立していた、と考えています。

 女性像の製作についても、視覚から性的興奮を覚える男性が作った可能性があるとしても、レベルの高いものは造形家がいた可能性が高く、特に、絵文字の可能性のある文様を刺青あるいはボディペインティングしたものは、土器づくり職人・芸術家が製作した可能性が高いと考えます。

 

 ⑷ 女性像はなぜリアルでないのか?

 ヨーロッパの洞窟壁画は64000年前頃からスペインやフランスの洞窟に見られ、20000年前頃の後期旧石器時代アルタミラ洞窟壁画(スペイン北部)やラスコー洞窟壁画(フランス西南部)に描かれた馬や牛などの描写力からみて、同じネアンデルタール人あるいはクロマニョン人が女性像を作ったなら、同程度の素晴らしいリアルな女性像を造った可能性が高いと考えられます。

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 一方、これらの洞窟壁画には同程度の描写力で人物が描かれていないことからみて、旧石器人は人物像を描くことを忌避した可能性が高いと考えられます。

 可能性としては、狩りを行う動物を描くことはそれらの動物を殺すことを願う行為になるため、人を描くことは人を殺すことに繋がるので、人物を描かなかったという理由です。描くことは、霊(ひ:魂)を奪うことになる、と考えたのです。

 そのような宗教心があったため、男性像を造ることはなく、女性像を造っているのはなぜでしょうか?

 私はそこには、霊(ひ)を産み、霊継(ひつぎ)を行う女神信仰があったと考えます。乳房や腹・お尻・性器を強調しながら、あえて顔を造っていないのは、リアルな人物像とすることを避け、妊婦を殺してしまうことを防いだと考えます。 

 私はヨーロッパ・ロシアのアンデルタール人あるいはクロマニョン人による女性像は、女性奴隷を獲得してイメージした男性社会のギリシア・ローマ文明の性的興奮を催す造形としてのリアルな「ヴィーナス」の名前を付けるべきではなく、「女神像」と名前を変えるべきと主張します。

 日本の縄文土偶も同じであり、リアルな人物像にすることを避け、「女神」とするために、仮面あるいは遮光眼鏡を付け、皮膚には模様(絵文字)を描き、具体的な女性像とは離れたデフォルメした造形とし、利用後は壊して土に帰したのです。

 製作者は、後の仏師と同じように、宗教的な行為として女神像を造ったのです。

 

⑸ 女性像は母系制社会を示す

 ギリシア・ローマ文明の「ヴィーナス像」が征服戦争による女性奴隷化により男性優位の父系制社会を示すのに対し、安産・多産を願う「女神像」は母系制社会の宗教を示しています。

 「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」「縄文ノート32 縄文の『女神信仰』考」で示したように、今も残る群馬県片品村の金精信仰は、女神が住む山に男性が「金精(男根)」を捧げる女人禁制の祭りであることからみても、縄文時代の石棒(男根)は円形石組や環状列石で示す地母神の性器に捧げる祭りが行われていた可能性が高いことを示しています。

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 「縄文ノート35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」で私は次のように書きましたが、ヨーロッパ・ロシアの「女神信仰」は縄文の「女神像」から証明できると考えます。

 

 蓼科山縄文人が信仰する円錐形の美しいコニーデ式火山の神名火山(神那霊山)であり、諏訪富士と呼ばれています。吉田金彦元大阪外大教授の「信濃=ひな野説」によれば、「たてしな=たてひな」であり、「霊那(ひな)=霊の国)」のシンボルとなる山になります。沖縄の南西諸島では女性器を「ひー」、天草地方では「ひな」といい、倭名類聚抄ではクリトリスのことを「ひなさき(雛尖)」としていることからみて、「たてひな山」は地母神の女性器信仰を示している可能性があります。

 ウィキペディアによれば「神代の頃、諏訪に建御名方神が入ってくると、武居夷(たけいひな)神は建御名方神に諏訪の国を譲り、自らは蓼科山の上に登ったという」とされ、「蓼科山にはビジンサマという名のものが住んでいるという伝承がある。姿は球状で、黒い雲に包まれ、下には赤や青の紙細工のようなびらびらしたものが下がっており、空中を飛ぶ」という伝承もあることからみて、この地はもともと「居夷神(いひな神=委の日名王)」の支配地であり、「夷(ひな)=ひ=び」の神「ビジン=霊神」という山神の山、頂上部が丸い黒い溶岩の山として信仰されていたことを示しています。

 

5 まとめ

 西欧中心主義のマルクス主義を含む歴史学の輸入・翻訳学者によって、日本の縄文時代は「野蛮・未開文明」に押し込まれ、軍国・侵略主義のユダヤキリスト教ギリシア・ローマ文明を世界標準とする歴史観を世界に押し付けてきました。

 その結果、家族・氏族・部族共同体の母系制社会段階は、歴史から葬り去られ、マルクス・エンゲルスによって「共同体社会」は「奴隷制社会」の前の「未開社会」とされ、歴史を貫く「家族・氏族・部族・市民共同体」の主体的な共同体社会像の探求は葬りさられてしまい、理想社会は「原始共同体社会」への回帰とされてしまいました。

 この誤った西欧中心主義の歴史観による「ヴィーナス女性観」ではなく、「縄文女神像」からの世界史への問題提起が求められます。

 若い世代の皆さんが縄文を引っ提げ、アフリカ・アジア・南北アメリカ中心の世界史研究に出かけていくことを期待したいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

補足(縄文ノート74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰)

 今朝の日経新聞は2面で大きく「拙速な融和演出、危機を招く イスラエルパレスチナが報復合戦」とトランプ政権の政策を批判した記事を載せ、11面では「聖地での衝突発端に」と解説するとともに、「欧州、パレスチナ支持デモ 独仏など反ユダヤ主義拡大も」と懸念の声を伝えています。

 そこで、昨日の「縄文ノート74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」の一部を、歴史の原点に遡り、解決を模索する必要があると考え、次のように書き替えました。

  

 中学生の頃、映画『エクソダス 栄光への脱出』を見て感動し、「This land is mine God gave this land to-me(神がこの土地をくれた)」から始まる大ヒットした主題歌に何の疑問も持ちませんでした。当時は、ドイツナチスの大虐殺などのユダヤ人迫害に対し、これを逃れたユダヤ人の解放の正義の戦いと思っていたのです。

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 ところが歴史を学ぶようになり、今はこの映画はユダヤ人のパレスチナ侵略賛美の巧妙な戦争宣伝映画と考えるようになりました。

 アララト山周辺の牧畜民のユダヤ人はカナン(今のパレスチナ)を「神がくれた土地」として略奪し、バビロン・エジプトに追われて捕囚・奴隷にされた後も再占領し、4度目のパレスチナ征服戦争を「神がくれた土地」として正当化したのです。

 残念なことに、旧約聖書を信じるアメリカ人キリスト教徒たちの多くもこの映画・主題歌に影響されてこの侵略・略奪を支持し、今にいたっているのです。アメリカ原住民の土地を奪い殺戮し、黒人を奴隷化し、ドイツ・日本に対して都市無差別爆撃・原爆投下などの異教徒殺戮を行ったアメリカ人たちもまたこの同じ選民思想軍国主義の「神」の宗教と私は考えます。

 1960・70年代、共同体にあこがれた若者の中にはイスラエルの「キブツ」にあこがれた人たちがいましたが、その実態はアラブ侵略者の占領地での「軍事キャンプ共同体」だったのです。

 今も続くこのような「神」の名による強盗・奴隷化・殺人を終わらせるには、盗みや殺人を禁じていた共同体社会の根本宗教・土台宗教に立ち返るべきと考えます。

縄文ノート74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰

 縄文文化・文明に関心を持つ方は、近代・現代文明に行き詰まりを感じ、縄文人の自然と調和した「持続可能な」「持続的発展可能な」生き方や社会のあり方、階級・男女・老若の格差がなく互いに助け合う共同体社会、個性的で豊かな力強い芸術、自然・生命を大事にする思想・宗教などにあこがれ、これからの社会モデルとして考える人が多いのではないでしょうか?

 私の縄文研究は、スサノオ大国主建国論から入ったため、スサノオ大国主一族の氏族社会・部族社会の「霊(ひ:祖先霊)信仰」や「海人族の米鉄交易」「鉄先鋤による水利水田稲作」などから遡って縄文社会を分析し、縄文人の霊(ひ)信仰や海人族の海洋交易や母系制社会の妻問夫招婚、農耕起源などに重点をおいた分析となっています。

 「霊(ひ)信仰」から神山(神名火山(神那霊山))天神信仰・神木(神籬:ひもろぎ)信仰・性器信仰・神使信仰などを分析するとともに、「海人族」の倭音倭語からの縄文語ドラヴィダ語起源説とアフリカからの「海の道」竹筏民族移動説、「五百鋤々王」大国主の鉄先鋤による水利水田稲作革命からの石器農具・黒曜石鳥獣害対策イモ穀類農耕説などに進み、さらにDNA分析とスサノオ大国主一族と縄文人に共通する神名火山(神那霊山)信仰と海幸彦・山幸彦神話、ヒョウタンと雑穀の原産地から、縄文人の起源をドラヴィダ海人・山人族とし、さらにそのルーツがアフリカのニジェール川流域から高地湖水地方に移住したY染色体D型の部族であることを明らかにしてきました。

 このようにスサノオ大国主建国から縄文時代へと歴史を遡ったため、旧石器人から縄文人への自然との関りについての分析が不十分であり、整理しておきたいと考えます。

 「縄文ノート48 縄文からの『日本列島文明論』」では、縄文文化・文明を「森の文明」(梅原猛安田喜憲氏)や「湿潤地帯文明」(梅棹忠夫)、「稲作漁撈文明」「日本海文明」「生命文明」(安田喜憲氏)、「水と緑の文明」「海洋民文明」(川勝平太氏)などとした各氏の主張を紹介しましたが、世界の他の文明との比較を含めて、さらに検討を深めたいと考えます。

 「持続可能性」「持続的発展可能性」について議論され、世界的な格差拡大・対立や一神教ユダヤ・キリスト対イスラム教)同士の争い、新冷戦と言われる思想対立など「文明の衝突」が危惧されている現在、改めて「縄文文明」が持つ「自然と生命」の普遍的価値について考察したいと考えます。

 なお、「霊(ひ)、魂、霊魂、神、鬼」の用語については、「縄文ノート37 『神』についての考察」などで整理していますが、古事記序文で「二霊(ひ)群品の祖となりき」と書かれ、本文では「タカミムスヒとカミムスヒ(古事記:高御産巣日・神産巣日、日本書紀:高皇産霊・神皇産霊)」を始祖夫婦神としてあげていること、出雲では妊娠を「霊(ひ)が止まらしゃった」ということや「ひと=霊人=人」であり、「たましい=たましひ=玉し霊」であること、「八百万(やおよろず)神」として死者が神として祀られていること、魏書東夷伝倭人条で卑弥呼(霊御子)の宗教を「鬼道(鬼神信仰)」としていること、インドのドラヴィダ族や東南アジア山岳地域には「pee(ぴー)」信仰がみられ、琉球方言に残るように「ぱ行」が「は行」に変わったことなどから、「霊=魂=霊魂=神=鬼」であり、「霊(ひ)」信仰として書きます。―縄文ノート38 霊(ひ)タミル語pee、タイのピー信仰)参照

 縄文人はDNAの働きを「霊(ひ)が受け継がれる」と考え、霊継(ひつぎ)を何よりも大事と考えた「生命崇拝」の宗教であったのです。

 

1 縄文宗教論の経過

 これまで、私は次のような縄文人の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教について次のような分析を行ってきました。

 

Ⅲ 縄文宗教論

 Ⅲ-1(31) 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文 191004→201223

 Ⅲ-2(32) 縄文の「女神信仰」考 200730→1224

 Ⅲ-3(33) 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考 200801→1226

 Ⅲ-4(34) 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化) 150630→201227

 Ⅲ-5(35) 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰 200808→1228

 Ⅲ-6(36) 火焔型土器から「龍紋土器」 へ 200903→1231

 Ⅲ-7(37) 「神」についての考察 200913→210105

 Ⅲ-8(38) 「霊(ひ)」とタミル語peeとタイのピー信仰 201026→210108

 Ⅲ-9(39) 「トカゲ蛇神楽」が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体 201020→210109

 Ⅲ-10(40) 信州の神名火山(神那霊山))と「霊(ひ)」信仰 201029→210110

 Ⅲ-11(56) ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ 210213

 Ⅲ-12(61) 世界の神山信仰 210312

 Ⅲ-13(73) 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき) 210510

Ⅵ 日本列島人起源論

 Ⅵ-4(51) 縄文社会・文明論の経過と課題 200926→210204

 Ⅵ-7(57) 4大文明論と神山信仰 210219

 

 大和中心史観・天皇国史観・伊勢神道が「アマテル太陽神信仰説」であるのに対し、霊(ひ)を産むタカミムスヒ・カミムスヒの「産霊(むすひ)」夫婦を始祖神とするスサノオ大国主一族の建国は死ねば誰もが神となる「八百万神」の「霊(ひ)信仰」で百余国の部族国家を統一した平和的な建国であることを明らかにしました。―『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 この出雲神道は死者の霊(ひ)は死体から離れ、神名火山(神那霊山)の山上の磐座(いわくら)や神籬(ひもろぎ:霊洩ろ木)から天に昇り、降りてくるという山上天神信仰であり、霊継(ひつぎ:霊(ひ)=命のリレー)を最高価値とする家族・氏族・部族共同体の宗教であったのです。―「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」参照

 そして、縄文社会研究に入り、その起源が縄文時代蓼科山の神名火山(神那霊山)信仰や各地の環状列石・石棒円形石組・土偶、龍紋土器縁飾りなどに遡ることを解明しました。―「縄文ノート40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」参照

 さらに、この霊(ひ)信仰のルーツがインド・東南アジアのドラヴィダ海人・山人族の「ピー信仰」に遡り、さらにはアフリカ湖水地方から始まり、エジプト・メソポタミアインダス文明へと続く魂魄分離の天神の神山信仰に遡ることを明らかにしてきました。―「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」「縄文ノート56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「縄文ノート61 世界の神山信仰」参照

 未だに根強い本居宣長の「天照=アマテラス読み説」による「世界を照らすアマテラス太陽神一神教信仰」を流布する皇国史観天皇家国史観・大和中心史観に対し、天照をアマテル(海人照)と読み、アマミキヨを始祖神とする琉球から甘城・奄美・天草・天ケ原(あまがはら:壱岐)・甘木(現朝倉市:あまぎ=天城)・天下原(あまがはら:加古川市東神吉町)などへと拡散したドラヴィダ系海人・山人族の旧石器・縄文時代からスサノオ大国主建国こそ正史とすべきなのです。

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 なお、スサノオの子の大年(大物主)が拠点とした大和(大倭=おおわ)には、記紀に書かれたアマテルの誕生地・埋葬地の「筑紫日向橘小門阿波岐原」「天安河」「高天原天原の背後の高台)」などはどこにもなく、アマテル神話を「大和(おおわ)」に結びつけ、さらにはアマテルを卑弥呼とし、モモソヒメの墓とされてきた箸墓をアマテルや卑弥呼の墓とする説など成立する余地はありません。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 なお、私は箸墓はオオタタネコ大田田根子スサノオの子の大年、大物主を襲名)と妻のモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫:第7代孝霊天皇皇女)の墓であることを論証しており、Seesaaブログ『ヒナフキン邪馬台国ノート』の「纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」(200128)を参照下さい。https://yamataikokutanteidan.seesaa.net/article/473308058.html

 

2 縄文時代に「太陽信仰」はあったか?

 縄文時代の立棒・円形石組を日時計として太陽信仰のシンボルとし、鬼道の卑弥呼を「霊御子」ではなく「日巫女」として「アマテル(天照)」に結び付け、天皇制へと繋げようとする新皇国史観の縄文論についてはこれまで何度も批判してきましたが、縄文時代は「太陽信仰」ではなかったことについて、再度、整理しておきたいと考えます。

 1は、縄文土器土偶、さらには銅鐸や弥生式土器などに「太陽デザイン」が見られないことです。エジプトの太陽神アテンの一神崇拝やベトナム北部から東南アジア・中国ミャオ族などに広がった銅鼓文化(ドンソン文化)、アステカ・インカ文明などに見られるような、太陽から放射状に太陽光を描いたような太陽デザインが皆無であるという極めて単純明快な判断基準で判断すべきです。

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  岡本太郎氏の「太陽の塔(原題は「生命の樹」)を見ても、頭・腹・地下(海)の顔には太陽光のフレア(炎)はなく、背中の「黒い太陽」(原発を象徴)だけにフレアが描かれて「若い太陽」など他の彼の太陽のデザインと同じであり、「丸」だけでなく「フレア」こそ太陽デザインの特徴なのです。―「縄文ノート31 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」参照

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 第2に、大湯環状列石などの石棒・円形石組を「日時計」として夏至冬至などの方位を示すとし、夏至冬至に祭祀を行ったとして太陽信仰と結びつける説には根拠がないことです。

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 死者の葬儀の時に集まるのではなく、夏至冬至など祭祀日を決めて人々が先祖の地の墓地に集まって共同祭祀を行っていたのなら、それは氏族・部族共通の祖先霊信仰を示しているのであり、太陽信仰の証明にはなりません。母なる大地に死者は帰り、蘇る(黄泉帰る)という地神(地母神)信仰であり、円形石組は女性器、石棒は男性器を表していると見るべきでしょう。なお、大湯環状列石では石棒・円形石組のセットのほかに、石棒は内環・外輪に多く立てられており、男根を母なる大地に突き挿し、死者の再生を祈っているのです。

 第3は、アマテルが天岩屋戸に隠れる(死ぬ)と高天原葦原中国が暗くなり、出てくる(霊継を行った後継女王が現れる)と明るくなったという記紀神話をもとに、縄文時代にも太陽信仰があったとする説ですが、「比喩的表現」など知らない文学オンチ説という以外にありません。

 そのような新皇国史観歴史学者たちは、『オー・ソレ・ミオ』(私の太陽)を歌うイタリア人は太陽教、「暗い世」「暗黒時代」は「アマテルが隠れた時代」という珍説を世界に公表し、アマテル太陽神説を主張してみるべきでしょう。

 4に、歴史家やマスコミは卑弥呼=アマテルが鏡を頭上に掲げて太陽光を反射させる空想場面をよく登場させますが、エジプト神話の太陽神ラーのように頭上に太陽を置いたり、鏡を太陽と見立てるような記録は日本にはどこにもありません。

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 古事記によれば、アマテル(本居宣長説はアマテラス)が死んだとき、山から榊(神籬:霊漏ろ木)を取り、上枝に死者の「勾玉の首飾り」、中枝に「八尺(やた)鏡」、下枝に白と青の「和幣(にきて:布)」を付け、岩屋戸の前に飾ったとしており、鏡は太陽をシンボルとしたものではありません。―「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」参照

 ニニギの天下りにあたってアマテルが鏡を渡し「我が御魂として、我が前で拜(おがむ)むように、拜み奉れ」と古事記に書いているように、鏡は人の姿を映す道具で、中に魂(たましい=玉し霊)が宿ると考えられていたのです。

 後の群馬県大泉町古海出土の女子埴輪では、ネックレスを首に巻き、鏡(五鈴鏡)は腰に下げています。

 第5に、魏書東夷伝倭人条には卑弥呼の宗教は「鬼道」と書かれており、30国の王たち共通の鬼神(祖先霊:70~80年続いた委奴国王)を祀る宗教であり、「卑弥呼(霊御子)」は委奴(いな)国王の霊(ひ)を受け継ぐ王女なのです。卑弥呼を太陽信仰の「日巫女」とする根拠は「永遠の0」です。

 以上、繰り返しになりましたが、日本の神道の中心にアマテル太陽神信仰を置き、縄文時代の自然信仰の中心に太陽を置こうとする歴史学者・マスコミの主張にはなんら根拠がありません。

 

3 家族・氏族・部族・民族共同体の根本宗教は霊(ひ)信仰

 「縄文ノート15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」において、私は次のように書きました。

 

 多部族・多民族社会から、部族・民族を統一した古代国家が生まれると、エジプトの太陽信仰や、ユダヤ人やアラブ人などの部族統一を進め、他民族を殺戮して国を奪うことを神の命令として正当化する優生思想の「唯一絶対神」信仰が生まれました。

 これに対して、世界中に元からある多神教には次のようなものが見られます。 

① 自然信仰:太陽、山、海、雷などの自然そのものを崇拝する。

② アニミズム(精霊信仰):自然や動物などに宿る精霊を信仰する。

 マナイズム(聖力信仰):自然や人にとりつくマナ(精なる力)を信仰する。

④ 霊(ひ)信仰:祖先霊(霊(ひ)=魂=鬼)を信仰する。

自然信仰は自然の恵みに感謝し、日照りや災害など自然の脅威を恐れて祈る宗教であり、アニミズムやマナイムズは自然そのものではなく、自然に宿る精霊や聖力を信仰し、霊(ひ)信仰は人間に受け継がれる霊(ひ:祖先霊)を信仰するもので、子孫に祀られない霊は「怨霊」となり迫害者に祟るという宗教です。

 

 なお、補足すると、ウィキペディアは「アニミズム(英語: animism)とは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』(1871年)の中で使用し定着させた。日本語では『汎霊説』、『精霊信仰』『地霊信仰』などと訳されている。この語はラテン語のアニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味である」「タイラーはアニミズムを『霊的存在への信仰』とし、宗教的なるものの最小限の定義とした。彼によれば諸民族の神観念は人格を投影したものという(擬人化、擬人観、エウヘメリズム)」としています。

 ここで、縄文宗教について、日本の神道アニミズム、仏教、ユダヤ・キリスト・イスラム教と比較するために整理すると、おおよそ次のようになります。

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 この整理から、次のような点が浮かび上がります。

 第1に、日本の旧石器人・縄文人の宗教はアニミズムともいえますが、その根本は家族・氏族・部族共同体社会の「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰」を中心とした宗教であり、それは日本仏教にも影響を与え、現在に続いていることです。日本古来の宗教を「アニミズム」と横文字で一般化すべきではありません。例えば、「柿」は「フルーツ」といえますが、具体的に「柿」というべきなのです。

 第2に、これまで日本の旧石器・縄文時代の宗教を「自然宗教」としてきた説の誤りです。人の霊(ひ)の依り代である山や巨石・巨木信仰などを「自然信仰」に含めてしまうべきではないのです。

 「仏(仏像)つくって魂入れず」ではありませんが、タダモノの「木像」とみるか「魂=霊(ひ)」が入った「仏(ほとけ)」と見るかの違いと同じです。

 第3に、これまで西欧中心史観・キリスト教中心史観は、自然宗教アニミズムなどを原始・未開の宗教とし、創唱宗教であるユダヤ・キリスト・イスラム教を文明の中心に置いてきましたが、ユダヤ・キリスト・イスラム教もまた人の霊魂の存在を認めているのであり、霊(ひ)信仰は人類共通の宗教の土台であり、根本宗教なのです。

 ユダヤ・キリスト・イスラム教などの選民思想に基づく絶対的一神教は、日本の「伊勢神道」系の皇国史観の「アマテル太陽神一神教」と同じく、古代ローマ帝国重商主義国家・帝国主義国家の他民族征服・殺戮・支配を神の名において正当化する特殊・例外的な軍国主義帝国主義宗教として生まれたのです。

 中学生の頃、映画『エクソダス 栄光への脱出』を見て感動し、「This land is mine God gave this land to-me(神がこの土地をくれた)」から始まる大ヒットした主題歌に何の疑問も持ちませんでした。当時は、ドイツナチスの大虐殺などのユダヤ人迫害に対し、これを逃れたユダヤ人の解放の正義の戦いと思っていたのです。

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 ところが歴史を学ぶようになり、今はこの映画はユダヤ人のパレスチナ侵略賛美の巧妙な戦争宣伝映画と考えるようになりました。

 アララト山周辺の牧畜民のユダヤ人はカナン(今のパレスチナ)を「神がくれた土地」として略奪し、バビロン・エジプトに追われて捕囚・奴隷にされた後も再占領し、4度目のパレスチナ征服戦争を「神がくれた土地」として正当化したのです。

 残念なことに、旧約聖書を信じるアメリカ人キリスト教徒たちの多くもこの映画・主題歌に影響されてこの侵略・略奪を支持し、今にいたっているのです。アメリカ原住民の土地を奪い殺戮し、黒人を奴隷化し、ドイツ・日本に対して都市無差別爆撃・原爆投下などの異教徒殺戮を行ったアメリカ人たちもまたこの同じ選民思想軍国主義の「神」の宗教と私は考えます。

 1960・70年代、共同体にあこがれた若者の中にはイスラエルの「キブツ」にあこがれた人たちがいましたが、その実態はアラブ侵略者の占領地での「軍事キャンプ共同体」だったのです。

 今も続くこのような「神」の名による強盗・奴隷化・殺人を終わらせるには、盗みや殺人を禁じていた共同体社会の根本宗教・土台宗教に立ち返るべきと考えます。

 第4に、この人類共通の家族・氏族・部族共同体の根本宗教・土台宗教である霊(ひ)信仰は、全ての生類の「霊継(ひつぎ)」=「命のリレー」=「DNAのバトンタッチ」に一番の価値を置く生命尊重の宗教であり、人だけでなく生類全ての生命を大事にする共通価値を全ての宗教が持っていることを示しています。

 この原点に帰れば、生類の種の絶滅は避けることができ、宗教戦争・思想戦争・民族戦争による殺戮を防ぐことが可能になります。各宗教組織・民族はアフリカからの全歴史をたどり、家族・氏族・部族・民族共同体の宗教の原点から「生類の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)」を全人類の共通価値として確認すべきと考えます。

 第4に、この人類共通の家族・氏族・部族共同体の根本宗教・土台宗教である霊(ひ)信仰は、全ての生類の「霊継(ひつぎ)」=「命のリレー」=「DNAのバトンタッチ」に一番の価値を置く生命尊重の宗教であり、人だけでなく生類全ての生命を大事にする共通価値を全ての宗教が持っていることを示しています。

 この原点に帰れば、生類の種の絶滅は避けることができ、宗教戦争・思想戦争・民族戦争による殺戮を防ぐことが可能になります。各宗教組織・民族はアフリカからの全歴史をたどり、家族・氏族・部族・民族共同体の宗教の原点から「生類の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)」を全人類の共通価値として確認すべきと考えます。

 第5に、イギリスのストーンサークル文明や南北アメリカ文明のように、世界に普遍的に存在した氏族・部族共同体社会の祖先霊信仰の宗教は他民族支配と改宗強制によって多くの痕跡を失ってしまっていますが、米軍占領まで他民族支配を受けなかった日本列島においては、多くの遺跡と記録、伝承、祀りなどが連続して残っており、人類の霊(ひ)信仰の共同体宗教を明らかにすることができることです。

 「日本中央縄文文明」や「出雲を中心とした霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰」の世界遺産登録を視野に入れた研究が求められます。

 

4 霊(ひ)信仰を世界にアピールへ

 「倭魂・倭才を忘れた漢才・洋才」派の左右の歴史学者たちは、記紀に書かれたスサノオ大国主一族の建国史を8世紀の創作として葬り去り、1万数千年の縄文人の宗教は太陽・自然・死霊・祖先霊信仰などの「アニミズム」と一般化しています。

 あるいは、ゾロアスター教キリスト教イスラム教・ジャイナ教・仏教・儒教などの「特別な一人(またはグループ)の創唱者によって提唱された創唱宗教」ではない、「民間の習俗的な意識から自然発生的に生まれてきた自然宗教」と規定し、日本の神道を原始人の習俗として低くみてきました。

 その結果、海外に出かける日本の若者は日本人の宗教を聞かれて「自然宗教」などと答える有様で(私の娘もそうでした)、原始人として軽蔑されてきたのです。

 このような西欧中心史観・キリスト教史観による宗教の規定・分類が、人類全体の歴史・宗教観をゆがめ、動物の絶滅や侵略戦争の殺戮や植民地支配、黒人奴隷制度を正当化し、ユダヤキリスト教イスラム教の戦争を今にいたるまで永続化させてきたのであり、今こそ全面的な見直しが必要と考えます。

 人類誕生から現在に至るまでの世界の圧倒的多数の「ヒト族」が信じてきた「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)」信仰こそ、私は根本的・普遍的な人類の宗教であり、共通価値・思想として認めるところから宗教戦争・紛争に終止符を打つべきと考えます。

 その手掛かりとなるのは、侵略・異民族支配を受けることなく、旧石器時代からの歴史を残し、伝えてきたわが国の歴史なのです。歴史学文化人類学・宗教学など、故郷アフリカからの総合的な研究に若い人たちが研究を深めることを期待したいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき) 

 「えぼし」というと、『もののけ姫』の製鉄のタタラ場を率いる「エボシ御前」をイメージする若い人も多いと思いますが、とんがった古代の烏帽子(えぼし=えぼうし)のことです。なぜ日本の貴族・高官が「カラス帽子」をかぶるようになったのか、さらに、その前面に「雛尖(ひなさき:クリトリス)」が付いているのか、気になりませんか?  

 冤罪裁判では「真実は細部に宿る」と言われてきましたが、今回は「烏帽子(えぼし)」と「雛尖(ひなさき)」から、縄文社会からのスサノオ大国主建国と、さらには日本列島人の起源について考えてみたいと思います。

 「縄文ノート71 古代奴隷制社会論」「縄文ノート72 共同体文明論」ではマルクス・エンゲルスの歴史区分批判という大テーマで疲れましたが、今回は小テーマで息抜きをしたいと思います。 

 

1 「太陽の塔」の黄金の顔は「太陽」か「鳥」か? 

 「縄文ノート31 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」において、私は岡本太郎氏の太陽の塔(原題:生命の樹)の顔はその形状や氏の他の太陽の彫刻や絵(背中の黒い太陽)のようなフレア(燃え上がる炎)がないことからみて、鳥の顔であり、塔の全体は両方に翼を広げた鳥である、と書きました。

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 「生命の樹」という原題を付け、地下には「海の顔」を置き、塔の内部には生命の進化を示すオブジェを配置した樹を立てていことからみて、岡本氏は生命全ての「霊(ひ)」を鳥が天に運ぶイメージを造形したと考えています。

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 縄文文化・芸術を世界に広め、「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」と唱えていた岡本太郎氏は、「鳥」こそが日本人さらには人類のシンボルであるとていたことが明らかです。

 本居宣長の「世界を照らすアマテラス太陽神一神教」を受け継いで東亜共栄圏を作り上げようとした「太陽教史観」に後戻りすべきではないと考えます。

 

2 烏帽子(えぼし)とは 

 烏帽子(えぼし)について、ウィキペディアは「平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子のこと」とし、日本大百科全書は「古代以来の男性の冠物(かぶりもの)の一種。字義は黒塗りの帽子ということ。天武(てんむ)天皇11年(682)に漆紗冠(しっしゃかん)、13年に圭冠(はしばこうぶり)の制定があり、前者が平安時代の冠(かんむり)となり、後者が烏帽子になったといわれている」としています。

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 ブリタニカ国際大百科事典は「烏色 (くろいろ) のかぶりものの意味で,中国唐代 (7世紀) の烏沙 (うしゃ) 帽に由来」とし、デジタル大辞泉は図1を載せ、「貴族は平常用として、庶民は晴れの場合に用いた。階級・年齢などの別によって形と塗りを異にする」としています。

 立烏帽子が最も格式が高く現在も神職などが着用し、折烏帽子(侍烏帽子)は武士や庶民が使用し、現代でも大相撲の行司が着用し、他に揉烏帽子・引立烏帽子・風折烏帽子などが見られます。

 第1の疑問は、天武天皇が13年(684)に定めた圭冠(はしばこうぶり)が烏帽子になった」というのですが、「圭」は呉音「ケ (クヱ)」、漢音「ケイ(クヱイ)」、倭音「きよ、たま、よし、かど、きよし」とされ、字源は「円錐形の盛土をつくり、神に領有を告げたことに由来」で「天子が諸侯を封じたことを証するのに与えた玉」(写真1)とされており、「圭冠」と「烏帽子」は意味も形も繋がらないことです。

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  第2の疑問は、中国唐代の「烏沙 (うしゃ) 帽」の真似をしたとしていますが、烏の黒色は同じであるものの、鳥が羽を広げた形の烏沙帽と烏帽子の形が異なっていることです。

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 第3の疑問は、「烏(からす)」は呉音「ウ」、漢音 「オ(ヲ)」で、「え」音とは異なることで「鳥(呉音・漢音:チョウ)」にも「え」音はありません。「烏(え)」の呼び名もまた日本オリジナルなのです。

 「烏帽子(えぼし)」は起源も形も呼び名も日本オリジナルなのです。

 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)などで書きましたが、私はスサノオ大国主一族が建国した「委奴国・倭国」は「いな国・い国」説であり、今も琉球に残る古倭語が「あいういう5母音」であることからみて、「烏帽子(えぼし)」は「委帽子・倭帽子(いぼし)」で、その起源はスサノオ大国主の「委奴国・倭国」に遡ると考えます。

 それが、琉球(りゅうきゅう=りゅうぐう)の姉妹を祖母・母とした天皇家の初代・ワカミケヌ(若御毛沼)の子孫であり、海人族(天族)の血も引く大海人皇子天武天皇)に受け継がれた可能性が高いと考えます。

  

3 雛尖(ひなさき)とは

 さらに私が興味を持ったのは、立烏帽子の正面をへこませ、雛尖(ひなさき)や雛頭(ひながしら)をもうけていることです。

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 以前、希望社会研究会で舘野受男(哲学者:敬愛大学元経済学部長)さんより「栃木では『ひなさき』はクリトリスのことだよ」と教えられ、ネットで調べてみると確かに栃木・茨城方言にあり、精選版日本国語大辞典では「① 女性外陰部の上方にある小突起。陰核。陰梃。〔十巻本和名抄(934頃)〕、② 近世の烏帽子(えぼし)の正面の部分の名。まねきの下のくぼみ中央の小さく突き出ている部分。〔箋注和名抄(1827)〕と解説されていました。

 さらに調べると、海人(あま)族のアマミキヨを始祖神とする琉球の先島地方や鹿児島県の奄美地方では女性器を「ヒー(古くはピー)」と言い、熊本県の天草地方では「ヒナ」と呼び、出雲では女性が妊娠すると「ヒ(霊)が留まらしゃった」と言うと出雲出身の大学の同級生・馬庭稔君から聞きました。―livedoorブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」の「琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言北進・東進論」http://blog.livedoor.jp/hohito/archives/1992199.html参照

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 なお、琉球の「あいういう=あいうえお5母音」では「ひ=へ」であり、「ヒー→へへ・べべ→ベッチョ」系の女性器名が生まれ、「さびしい→さみしい」、「島又=柴又(しままた→しばまた)」のように、は行とま行が置き換わることから「ヒ=ミ」であり、「あいういう5母音」から「み=め」で「ヒ=ミ=メ」になり、「メメ→メンチョ→オメコ」系の女性器名が生まれたと考えます。

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 横道に逸れましたが、「あいうう・あいうお5母音」から「いぼし(委帽子・倭帽子)」が「えぼし(烏帽子)」に変わった可能性が高いことは、性器名の変遷からも裏付けられ、呉音漢語・漢音漢語ではない倭音倭語の南方起源説を裏付けているのです。

 そして、烏(鳥)を模した「烏帽子」の前に「雛尖(ひなさき=陰核)」を設けているということは、「烏=鳥」信仰に加えて「女性器信仰」があったことを示しています。

 「縄文ノート32 縄文の『女神信仰』考」でみたように、女性器信仰の伝統は、縄文時代の「環状列石」や「石棒を立てた円形石組」、「妊娠土偶」や「女神像」に遡ります。

 さらに、スサノオ大国主の八百万神の「霊信仰」においても、天上の霊(ひ:祖先霊・死霊)を運ぶ神使として、次のような鳥が主要な各神社で祀られており、中でも「烏」は住吉大社熊野大社(本宮・速玉・那智)、厳島神社安芸国一宮)などスサノオ一族の神使です。 

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 なお、大国主が筑紫で鳥耳との間にもうけた鳥鳴海の妻は日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてりぬかたびちをいこちに)であり、さらにこの筑紫大国主王朝の5代目の妻は比那良志毘売(ひならしひめ)であることは、「日名・比那」名は筑紫の「鳥」を神使とする一族で使われた名前と見られます。

 記紀によれば大国主スサノオ7代目であり、スサノオは出雲でイヤナミ(伊邪那美=伊耶那美=揖屋のナミ)から産まれた長兄で、アマテル(天照)は「筑紫日向(ひな)橘小門阿波岐原」で生まれたスサノオの異母妹であり、天穂日(あまのほひ)・天日照(あまのひなてる)親子はアマテルの子・孫ではなく、大国主の筑紫妻・鳥耳の子であり、大国主の国譲りはコトシロヌシ(出雲の事代主)、タケミナカタ(諏訪の建御名方)、アメノワカヒコ(津島の天若日子)、ホヒ(筑紫日向(ひな)の穂日)の後継者争いであったと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 天皇家においても16代仁徳天皇の名は古事記では「大雀(おほさざき)命」、25代武烈天皇は「小長谷若雀(おはつせわかさざき)命」と鳥名が付けられ、12代景行天皇の御子のヤマトタケル(倭建)は死後に「白智鳥(しろちどり)」になって能煩野(のぼの:三重県鈴鹿郡)から河内国志畿(しき)に飛んだとされて白鳥御陵が作られており、神使である「鳥」が死者の霊(ひ)を運ぶ、という信仰はスサノオ大国主王朝から天皇家に引き継がれています。

 天武天皇が貴族・上級官人の「平常用」として、立烏帽子の制度を定めたのは、出雲系豪族の支持によって壬申の乱に勝利した大海人皇子が、スサノオの後継王として神使の「烏」をシンボル化した形の帽子とし、性器信仰のシンボルとして「雛尖(ひなさき)」や「雛頭(ひなかしら:大陰唇であろう)」を前に付けて「烏帽子」としたのであり、壬申の乱に功績のあったスサノオ大国主系豪族・官人を顕彰した装束と考えられます。

 

3 烏(カラス)信仰について

 烏信仰について、「中国神話では三足烏は太陽に棲むといわれる。陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、朝日、昼の光、夕日を表す足であるともいわれる。 中国では前漢時代(紀元前3世紀)から三足烏が書物に登場し、王の墓からの出土品にも描かれている」(ウィキペディア)とされています。

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 厳島神社安芸国一宮)、住吉大社熊野大社(本宮・速玉・那智)などスサノオ系の神使の「三足烏(さんそくう)の烏」はこの中国文化の影響を受けた可能性があります。一方、後にワカミケヌ(若御毛沼:諡号神武天皇)の「東征」(私は傭兵部隊の移動と考えます)で熊野から大和(おおわ)国へ道案内をしたとされる八咫烏(やたがらす)は3本足とは書いてなく、8咫=8尺(1尺=約18㎝)は約144㎝ですから、小柄で色黒く、カラスとあだ名された男であったと書いているのです。黒い法衣の裁判官を「カラス」と言ったからといって、まさか裁判官を空飛ぶトリとする人などいないのと同じです。

 「三足烏」はJFA(日本サッカー協会)のシンボルマークにされていますが、「三足烏」はスサノオの神使であり、サッカーファンは記紀などを読んで「スサノオ大国主建国派」に変わるべきではないでしょうか? 「三足烏」は天皇家を支えるシンボルではありません。

 またまた横道に逸れてしまいました。

 三足烏のルーツが中国である可能性は高いと考えますが、カラス信仰は、すでに「縄文ノート29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」「縄文ノート30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」で書いたように、私の着地点は「カラス信仰は縄文時代に遡る」というところにあります。

 「縄文ノート29」から引用すると、次のとおりです。

 

 「大野晋氏は『日本語とタミル語』の冒頭で南インドに始めて調査に出かけた時の1月15日の「ポンガル」の祭りを体験した時の劇的な出会いを紹介しています。2つの土鍋に牛乳を入れ泡が土鍋からあふれ出ると村人たちが一斉に「ポンガロー、ポンガロー」と叫び、一方の土鍋には粟と米(昔は赤米)と砂糖とナッツ、もう一方の土鍋には米と塩を入れて炊き、カラスを呼んで与えるというのです。日本でも青森・秋田・茨城・新潟・長野に小正月(1月15日)にカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事が残り、「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」と唱えながら撒くというのです。「ホ」は古くは「ポ」と発音されることは、沖縄の「は行」が「ぱ行」となる方言に残っていますから「ポンガ=ホンガ」であり、なんと、インド原住民のドラヴィダ族の小正月の「ポンガ」の祭りが日本にまで伝わっているのです。縄文土器の縁飾りはこの「泡立ち=ポンガル」を表現しているのではないかと考えますが、別の機会に詳述したいと考えます。」

 

 私は仕事先の尾瀬のある群馬県片品村で赤飯を地面に撒く「猿追い・赤飯投げ祭り」と地面にこぼす「にぎりっくら」の祭りを知りましたが、これも青森・秋田・茨城・新潟・長野のカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事と同じく、ドラヴィダ族からだったのです。―「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ信仰(金精・山神・地母神・神使文化)について」参照 

 さらにカラス神話はインダス文明にもあります。「ノアの方舟」神話では、洪水がおさまりかけたときノアはワタリガラスを偵察に放つのですが、自由な気質のワタリガラスはかえってこず、次にハトを放つとオリーブの小枝を加えてきたというのです。ギリシア神話ではカラスは太陽神アポロン使徒で純白の羽毛をもっていたのが、真実を告げて黒い鳥に変えられたというのです。

 このように人間の身近なところにいて人間の言葉を模倣することもある頭のいいカラスは、黒い色から暗黒の死の世界のイメージももたれ、死者の霊(ひ)を運ぶ鳥として世界で神使とされた可能性が高いと考えます。

 

4 重層構造の「烏帽子」文化

 カラス信仰は縄文時代にドラヴィダ海人・山人族によって「ポンガ(ホンガ)」のカラス信仰の祭りとして日本列島への移住とともにもたらされ、その後、中国から黒色の「烏沙 (うしゃ) 帽」が伝わり、縄文からの性器信仰がプラスされ、「雛尖のついて烏帽子」となったと考えられます。

 日本語が「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であるように、カラス信仰もまたドラヴィダ海人・山人族の「ホンガのカラス行事」に中国の「三足烏」信仰が加わってスサノオ一族の「三足烏」神使崇拝になり、さらに中国の「烏沙 (うしゃ) 帽」が伝わり、母系制社会の「女性器信仰」が加わり、朝廷での身分を示す「立烏帽子」となり、さらに階層・階級の多様化とともに様々なタイプの「烏帽子(えぼし)」が生まれたと考えられます。そして1970年の大阪万博岡本太郎氏の「鳥頭の塔」や日本サッカー協会の「八咫烏マーク」へと繋がっています。

 「烏帽子(えぼし)」や「雛尖(ひなさき)」は小さなテーマですが、注目されない分、かえって縄文からの日本文化・信仰を伝えています。

 「真実は細部に宿る」という観点で、世界史的な視野のもとにさらに研究が続くことを期待したいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート72 共同体文明論

 私は岡山県吉備郡社町(両親が岡山市空襲で焼けだされて移住)→岡山市(小学生)→姫路市(中学生・高校生)と移住したため地域コミュニティ(地域共同体)とは縁のない異邦人で、夏休みなどに母親の田舎で過ごした時だけ従兄弟たちとの血縁コミュニティの居心地のよさを感じていました。

 小学校に入学すると同級生たちのほとんどは同じ幼稚園からきていて仲が良く、私だけがまだ文字を知らず、中学校では当てられるたびに「岡山弁(おきゃ~まべん)」を笑われて疎外感を持ち、読書・映画・軍事おたくになり、もっぱら「外れ者」仲間たちと遊んでいました。

 高校ではクラブ活動(ブラスバンド)と山登りでやっと仲間ができ、目的を同じくする「機能集団」こそが重要と考え、大学ではクラス討論やクラブ活動、研究会活動(住宅問題、都市問題、公害)、日本建築学生会議の活動に精を出しました。

 このように私の世代はまだ血縁・クラス共同体・遊び仲間に幸まれていた時代ですが、今や都市化・少子化と職業・雇用の多様化・不安定化が進み「競争社会」「格差社会」「不正規雇用社会」「家庭崩壊社会」などにより、多くの子ども・若者は家族縁・血縁・地縁・クラス縁・遊縁・クラブ縁・職場縁などの薄い、「人と人の関係が砂のような大衆社会」「無縁社会」の共同体(コミュニティ)喪失者となってきています。孤立・孤独化が進む一方でネットの仮想コミュニティ、排外・差別主義団体や新興宗教団体・テロ組織、国家・民族などに帰属感を求めるような事態にもなっています。

 共に支えあう安心・安定感や個々人の役割感・存在感、互いの信頼感や尊敬、支配からの自立・自己実現などが可能な新たな共生共同体をいかに創り出せるか、人類誕生からの歴史に遡り、「共同体(コミュニティ)」の未来を考えてみたいと思います。

 

1 共同体への関心

 1960年代の住民運動市民運動などの中からは、1970年代に入り、地域保育所づくりや生協・産直などの地域コミュニティの取り組みが生まれ、地方圏では過疎化に対し、1980・90年代には一村一品運動有機農業・産直・農産物直売所・道の駅・地産地消・都市農村交流(山村留学・農業体験)・交流イベント・多地域居住などのまちおこし・むらづくりの地域再生の運動が全国各地で取り組まれました。2000年代に入ると田舎暮らし志向のIJUターンの若者などの活躍も見られ、2010年頃からの「地域おこし協力隊」の国の支援にも繋がっています。

 また、1990年頃にはいくつかの情報化計画に関わり、「情報化は人と人のコミュニケーションを増やすか減らすか」について議論しましたが答えはでませんでした。当時は中央集中処理コンピュータによる一方向の情報化であり否定的な意見も多かったのですが、その後、双方向型のインターネット化により少し安心しましたが、今やAIを駆使した国家・情報産業によりあらゆる個人情報管理が可能となり、監視カメラ・GPSによる監視社会化と合わせて「デジタルファッシズム(情報監視社会化)」が心配されるようになりました。

 1990年代の末ごろの大阪市の「コミュニティ推進計画」の調査・計画づくりでは、戦後派世代の町内会・自治会の「地域コミュニティ」、団塊世代の公民館などを中心とした「テーマコミュニティ」(文化・スポーツ・社会活動)、子育て世代の祭りなどに参加するだけの「イベントコミュニティ」、さらに若い世代の「ネットワークコミュニティ」という整理を行い、その分断状況を克服するために4つのコミュニティの交流・乗り入れが必要というような提案を行いました。趣味や防災などのクラブ・グループ活動で町内会・自治会活動が活発になっている例が見られたからです。

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 また青森県三沢市の総合計画では、米軍基地の影響で「バーベキュー文化」が根付いており、熊本県大矢野町(現上天草市)では「農家の後継者がみな結婚している」という4Hクラブの青年たちの活動を知り、「パーティ文化」こそが晩婚・非婚化時代には必要と考えるようになりました。

 都市計画では、伝統的な入会権・入浜権の考えの拡張や清掃・景観形成などの地域維持活動、1960年代からの空き地利用の「ちびっこ広場」、イギリスなどの「プライベートガーデン(私園)」「コモンガーデン(共園:オープンガーデン)」「パブリックガーデン(公園)」からの「所有と利用の分離」による豊かな「共用空間(コモンスペース)」づくりは重要なテーマでした。「公共私」の取り組みです。

 さらに1990年代からの高齢者計画や児童育成・次世代育成計画、1995年の阪神・淡路大震災を受けた防災計画では、共に支えあう「地域福祉」と「地域防災」が大きなテーマとなり、特に阪神・淡路では「ボランティア元年」と言われたように、若者の新たな活動が生まれました。

 教育分野では、社会教育や1990年ころからの生涯学習、2000年からの児童・生徒の「総合的学習」などに対し、地域産業や地域文化を見直す学習・教育のボランティア活動が生まれました。

 しかしながら、以上のような取組にも関わらず、1990年代のバブル経済崩壊とIT産業革命失敗による1990年代後半からの若者の4割が非正規雇用という格差社会化に対し、国も市民社会も有効に対応できていないのが現状ではないでしょうか。

 このような60年間の取り組みと限界の中で、どのようにして豊かな「コミュニティ(共同体)」を創り出すことができるのか、サルの群れから離れた「ヒトの共同体」の歴史から考えていきたいと思います。

 

2 マルクスの「一足飛びの先祖帰り」の理想社会説

 「縄文ノート71 古代奴隷制社会論」でも少し書きましたが、「古代―中世―近代」、「古代―中世―近世(織豊徳)―近代―現代」、「旧石器―縄文―弥生―古墳―飛鳥―奈良―平安―鎌倉―室町―安土桃山―江戸―明治―大正―昭和―平成」(土器→墓→都(天皇)→将軍の居住地・城(武家)→天皇年号)という3つの時代区分で歴史を習いましたが、単なる歴史的出来事の「何年に何がおきたか」という「暗記」に何の価値があるのか、「先祖は偉かった」という家系自慢や「昔はよかった」という懐古趣味に何の価値があるのか、と疑問に思っていました。歴史は面白いけど単なる過去の暗記学問で知的興味はわかず、古くさい過去の出来事が現在や未来に役に立つとは思ってもいませんでした。

 ところが大学に入り、所有・階級関係から歴史の発展法則を解明したというマルク・エンゲルスの「原始共産制奴隷制封建制―資本主義―共産主義」(3制度―2主義)という発展段階説に出会い、やっと歴史分析に科学を感じるようになりましたが、「縄文ノート71 古代奴隷制社会論」で書いたように、縄文社会論から人類起源論の分析に進むうちに、マルクス・エンゲルスの「古代奴隷制」説は成立しないと考えるようになりました。

 さらにマルクスが理想とした「原始共産制」説は成立するのでしょうか?

 私は「私有財産制」を無くすれば理想の社会が生まれるという「一足飛びの先祖帰り」などはありえず、近代市民社会の政治・経済・社会・文化・宗教・思想のさらなる全体的な発展形として未来社会があると考えており、「共同体社会」がどのような発展をとげてきたか、分析したいと思います。労働者階級が権力を握り、「私有財産制」がなくなれば、「原始共産制」のような理想社会が実現できるとするマルクス・エンゲルスの「権力奪取論」「経済決定論」は短絡的であり、人間の歴史総体に対する分析を欠いていると考えるからです。

 

3 「原始共産制」社会像と現実

 マルクス・エンゲルスの考えた「原始共産制」の社会は、①富に対する集合的な権利、②社会的関係における平等主義、③支配的階級の不在、という狩猟・漁撈・採取社会であり、牧畜と農業が生まれたことにより、生産手段である家畜・土地・農耕具・奴隷の所有により支配階級が生まれ、奴隷制社会に変わったというものです。しかしながら、すでにみたように奴隷労働は戦争により獲得された部分的・限定的なものであり、奴隷制が主要な生産様式の社会などどこにも見られません。

 確かに狩猟・漁撈・採取社会においては、とった物を全員が共有し、すぐに食べて消費するため蓄積する私有財産に差はなく、社会的平等が図られ、支配階級は生まれないのに対し、農耕社会になると穀物・家畜は保存できるため、略奪や徴税などによる集中がおこり、支配階級が生じた可能性があります。

 しかしながら、ゴリラやチンパンジーボノボなどの研究からみて、力の強いボスがメスを独占支配した男系の不平等社会が現世人類(ホモサピエンス)の氏族・部族社会に引き継がれた「攻撃的チンパンジー型」の氏族・部族がいた可能性がないとは言えません。実際、現代におけるアラブなどの男性支配や西欧など世界のドメスティックバイオレンス(配偶者の暴力支配)は、その名残を示しています。わが国のように古代に女王国が各地にあり、「その会同に坐起するに父子・男女別なし」(魏書東夷伝倭人条)というボノボ型の母系制社会だけではないのです。

 また、狩猟・漁撈・採取社会においても、狩猟・漁撈・採取と石器・土器・木器・衣類・装身具生産などの分業や交易・交換、信仰・祭り、防御、秩序維持などの役割により階層社会が形成された可能性が高く、その中から世襲制の支配階級が生まれた可能性があります。

 スサノオ大国主一族の建国をみると、他氏族・部族の支配・収奪により建国が行われたのではなく、新羅と米鉄交易を行い、鉄先鋤を各地に普及させ、治水・利水の共同体事業を主導して水田稲作を普及させ、母系制社会の妻問夫招婚と祖先霊信仰(八百万神信仰)により氏族・部族の統合を図り、百余国の豊葦原水穂国が誕生したのです。

 古事記スサノオが「海原を知らせ」と父から命じられた海人族であることを伝え、日本書紀大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」、「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」とし、出雲国風土記大国主を「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と書き、記紀大国主が各地で妻問を行い180人の御子をもうけたと伝えています。記紀風土記は、スサノオ大国主一族の交易・技術・交流・農耕技術指導・普及、水利事業主導、妻問夫招婚と祖先霊信仰による平和的な建国を伝えています。

 縄文社会研究からみても、縄文中期・後期には狩猟・漁撈・採取だけでなく干物・塩生産、栗栽培や焼畑農耕、黒曜石採掘・加工、土器・装飾品(耳飾り・貝輪・ヒスイ・コハク等)生産、交易などの地域的・広域的分業が行われている母系制の氏族・部族社会であり、祖先霊信仰の共同体祭祀を行う階層社会であり、共同体的生産の農耕社会化とスサノオ大国主建国へと連続していたことが明らかです。

 マルクス・エンゲルスが描いた「原始共産制説」や「奴隷制社会説」は19世紀の西欧の歴史学・考古学・人類学などのレベルの空想に過ぎず、西欧の好戦的軍事氏族による侵略・略奪・生産手段独占・宗教支配が階級社会を生み出したという「軍事進歩史観」であり、氏族・部族共同体社会の分業化が進み、交易・技術・公共事業・共通祭祀を主導した氏族・部族による建国の歴史を無視した偏った歴史観と言わざるをえません。

 「原始共産制奴隷制封建制」へと社会は発展したのではなく、「氏族・部族共同体社会」から、軍事部族が領地争奪戦を行う「封建制社会」が生まれ、さらにアフリカ・アジア・南北アメリカへの交易・侵略・略奪を行う重商主義の「絶対王政」(前期帝国主義)をへて、産業革命により金融・産業の「資本主義社会」(後期帝国主義)が生まれ、帝国主義戦争とアジア・アフリカ・アメリカ大陸の民族独立をへて現代の「グローバル資本支配」社会となったと私は考えます。

 4大古代文明ギリシアスサノオ大国主建国は、船団・隊商を擁した交易部隊(場合によっては略奪・侵略軍となる)が富を集積し、軍団・行政・祭祀組織を握って世襲王として氏族・部族共同体社会を支配したのであり、封建社会においてもその基本構造は変わらず、軍事氏族は各地域に分立して領地支配する分権的社会に変わったと考えます。

 「原始共産制(氏族・部族共同体社会)」が解体され、共同体の成員は支配者階級と奴隷階級に分解し「古代専制国家の奴隷制社会」が生まれ、さらにそれが解体され、領地争奪戦を繰りかえす「封建領主と農奴封建社会」に移行したというのマルクス・エンゲルス説は成立しません。

 古代から近代にいたるまで、下部構造としては「共同体社会・生産体制」が維持され、その上に上部構造として「軍事・交易・行政・祭祀を司る支配氏族・部族」が乗っかり、交代したのです。中国の例をみても、大多数の「共同体社会」の平民(農漁業・商工流通・傭兵民など)の反乱がきっかけとなって何度も王朝が倒されており、社会の基礎に「共同体社会」があったと見るべきです。

 まだ試論段階ですが、私は歴史時代区分は次のように、共同体社会(産業・労働・生活・文化)の上に軍事・政治支配体制が変化する2層3時代区分を考えています。

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 マルクス・エンゲルス説は自らの「ヨーロッパ型生産様式」モデルに合わない世界を「アジア的生産様式」として例外的なモデルとし、植民地からの収奪を資本主義の「本源的蓄積」段階としましたが、ヨーロッパ中心主義の文化文明観による世界支配思想であり、「アフリカ・アジア・南北アメリカ的生産様式」を標準とし、例外として「ヨーロッパ型生産様式」を別枠に位置付けるべきだったのです。

 

4 マルクス・エンゲルスの歴史区分から先へ

 ユダヤ人であったマルクス・エンゲルスが労働者の解放やユダヤ人への差別・迫害、女性差別の解消などを強く願ったことを私は疑いません。

 しかしながら、彼らは「遊牧民で土地や都市を持たないユダヤ人が神の命令でカナンの人々を殺戮して建国したという原罪を抱え、3度にわたって国を滅ぼされてカナンを追われた民族」の歴史の影響を強く受け、「ユダヤ人金融資本家が絶対王政や産業資本家を支えた」という負の歴史を正視しなかった、と私は考えます。

 彼らはユダヤ人同胞を擁護し、差別・迫害から守る必要があり、軍事氏族・部族であり侵略・殺戮者であったユダヤ人の歴史から人々の目を逸らし、バビロン・エジプトなどに捕囚・奴隷とされた被害者意識からの「奴隷制社会」像を作り上げるとともに、ユダヤ教を否定したキリストの教えを忘れた後継者たちが旧約聖書の選民・侵略・奴隷公認思想を受け継ぎ、ローマ帝国の侵略や西欧絶対王政・産業資本家のアフリカ・アジア・南北アメリカ侵略・植民地化・奴隷制度を助けたという暗黒史を隠した、と私は考えます。

 現在のイスラエルアメリカを見ても、ユダヤ教ユダヤ教化したキリスト教一神教の軍事民族・軍国主義国家による他民族支配・圧迫・大量殺戮は原爆投下と核武装に見られるように継続しています。なお、他人事ではなく、本居宣長の「世界を照らすアマテラス太陽神一神教」を受け継いだわが国の軍閥もまた、天皇を現人神として侵略戦争に乗り出すという負の過去を持っています。

 「軍事・略奪・侵略思想」はどの時代、どの国・民族、どの体制(資本主義・共産主義)にもあり、多数派であったアフリカ・アジア・南北アメリカの「平和・交易・共生主義」の歴史は抹殺されてしまったのです。

 「所有関係」による階級形成の前に、「分業」による階層社会化があり、その中から「軍事氏族・部族・国家・民族」が「富の集中・格差」と「支配・被支配」を生み出したと私は考えます。

 マルクス・エンゲルスの暴力革命論と他の社会主義者・民主主義者への激しい攻撃性は、ユダヤ民族の軍国主義と「唯一絶対神信仰」のユダヤ教を受け継いだものであり、彼らの共産主義は「主義=信仰」として、レーニン毛沢東などの暴力革命路線と一党独裁制度に継承されています。

 私たちが人類史から「共同体社会」を考えるなら、サルの「群れ」からヒトの「氏族―部族―封建―資本」社会の歴史的変遷の底流に一貫した平民の「共同体社会」が個人の自立・共同による「市民社会」となり、さらにその先に新たな「自由・平等・生類愛・共生」の世界的な共同体社会の構築を目指すべきと考えます。空想的な「原始共産制」への先祖帰りではなく、新たな「共同体社会」は創りあげる以外にないのです。

 

5 追記

 これまで書いてきました文明論については、見直しが必要となりました。

 「縄文社会論・文明論」「日本列島人起源論」についての大枠の検討作業は終わりましたので、今後は、いくつかの小さな論点(自然信仰と霊(ひ)信仰、雛尖(ひなさき)考、ヒマラヤ南部ルート説など)についての追加作業と文明論の修正を行いたいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

 

 

縄文ノート71 古代奴隷制社会論

 「日本文明論」に取り組んで感じるのは、マルクスを含めた白人至上主義・西洋中心主義の文明論が「ギリシア・ローマ文明→ヨーロッパ文明」の発展として世界史全体をゆがめ、大多数の「アフリカ・アジア・原アメリカ文明」を野蛮・未開とみなしてきた歪曲です。

 その一番のインチキは、「ノアの方舟」伝説をメソポタミア中心部に近いチグリス川中流のイランのニシル山から、羊飼いのユダヤ人の祖先の住んでいた辺境のチグリス川源流部のトルコ・アルメニア国境のアララト山に移して旧約聖書に記し、終末・選民思想ユダヤキリスト教聖典としたことを受け継いでいることです。―「縄文ノート66 竹筏舟と『ノアの方舟』」参照

 次にマルクス主義の時代区分は「原始共産制」「奴隷制」「封建制」「資本主義」「社会主義」という単線的・一元的発展段階論ですが、「奴隷制社会=古代専制国家」説が成立しないことは、今やエジプトのピラミッド建設が奴隷によるものではないことが建設従事者の住区の発掘やパピルス文書から明らかとされ、インダス文明もまた「戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない」ことが考古学者によって明らかにされているのです。春秋戦国時代以前の孔子が理想とした姫氏の周王朝も伝説や遺跡などから見ても同様であり、民衆反乱によって王朝が滅んできた中国史をみても主体性を持った農民社会であった可能性が高く、奴隷労働中心の専制国家の痕跡は伺われません。

 神山・天神信仰のピラミッドやメソポタミアのジッグラト(山信仰の聖塔)、灌漑・水害対策の大規模治水事業や都市防衛・防災の城壁、道路・運河整備などは奴隷労働ではなく、平民の共同労働によって造られたことが明らかです。―「縄文ノート56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「縄文ノート57   4大文明論と神山信仰」「縄文ノート61 世界の神山信仰」参照

 古代奴隷制度が「生産関係」において一定の役割を占めたのは、戦争による捕虜と奴隷狩りで奴隷を大規模に確保した軍国主義国のギリシア・ローマの植民地(属州)などの大規模農場(ラティフンディウム)の限定的生産体制であり、大規模な奴隷生産体制は16~19世紀にアメリカ大陸で成立した西欧諸国と南北アメリカ植民地の三角貿易による近代黒人奴隷制度です。

 スペイン・イギリス・アメリカなどの絶対王政・資本主義国の植民地支配とプランテーション農業こそが黒人奴隷制度を確立させたのであり、マルクスはこの近代奴隷制度の犯罪的な役割から人々の目を逸らせ、「奴隷制」を「原始共産制」と「封建制」の間に挿入し、「古代専制国家」の産物としたのです。

 そして、アフリカ(エジプト等)・アジア(メソポタミア・インダス・中国・日本等)・原アメリカ(マヤ・インカ等)文明等を野蛮・未開社会に押し込め、近代重商・資本主義の植民地化による資源収奪とアフリカ黒人奴隷化の西欧諸国の犯罪性を見えなくしてしまったのです。

 このようなマルクスを含む白人至上主義の文明論に対し、アフリカ・アジア・原アメリカ中心の人類誕生と共同体文明を中心において世界文明史観の確立が、「拝金宗教・格差社会化・異常気象・新興感染症」などの転換期の今の時代にこそ求められます。

 その解明には、他民族の支配を受けることがなく、アフリカ・インド・中国文明などを吸収しながら独自の発展をとげた日本列島の縄文1万年とスサノオ大国主一族による建国史が大きな役割を果たすことができると考えています。

 

1 私の歴史分析の前提

 私はここで反ユダヤ主義ユダヤ人差別、反中・嫌中、反朝・嫌朝、反米・嫌米、反共などの気運を煽るつもりは毛頭なく、それらには反対の立場であり、そのような偏狭なイデオロギー民族意識の克服に向けて歴史を冷静に分析したいと考えています。

 どの宗教・思想・民族・国家にも「軍事・全体主義」と「平和・共生主義」があり、私は後者の視点からの歴史解明による未来への指針を考えています。経済・社会・文化・宗教・政治を動かす要因についてはマルクスの「生産関係(搾取)による階級対立」に一元化するのではなく、「金が金を生む資本集中・独占体制」「分業生産体制による国・地域間格差・収奪と対立」「環境破壊による外部コスト削減(収奪)」の全体でとらえ、その矛盾を解決する方法については経済・社会・文化・宗教・政治の総合的な取り組みが必要と考えています。

 階級・思想対立だけでなく世界・地域間の産業不均等発展による格差・対立・抗争・戦争や、一神教同士の宗教対立・戦争、環境や食料を巡る対立・抗争、情報支配体制により、自由や平等・人権、地域主権・民族自立などが複雑に絡まりあう時代を迎え、これまでの文明観を歴史を遡って見直したいと思います。

 

2 現生人類の軍事・全体主義と平和・共生主義

 サル目ヒト科の誕生から遡って考えてみると、ヒト族の「攻撃的チンパンジー」と「平和的ボノボ」に分岐する前の2種類のDNAを現生人類(ホモ・サピエンス:賢い人間)は持っており、氏族・部族・民族・宗教集団・思想集団・国家などの如何に関わらず「軍事主義」と「平和主義」の2つの性質を本能的に受け継いでいると考えます。「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」で掲載した表を再掲します。

 

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 子孫を残すためのメスを巡る争いや温暖化による人口増、寒冷化による食料危機などに対し、群れ・氏族・部族内の主導権争いや群れ・氏族・部族・民族・階級・国家間の対立が生じた時、「攻撃的チンパンジーホモサピエンス」は「戦争・支配」を選び、「平和的ボノボホモサピエンス」は「平和・共生」という異なる道を選び、現生人類の多数派は後者を選んで世界拡散を果たしたと私は考えます。

 好奇心・変革心・自立心・冒険心にあふれた縄文人Y染色体D型を持った先祖はアフリカのニジェール川流域でE型のイボ人などと分かれて高地湖水地方に移住し、さらにインド、アッサム・ミャンマー高地へと移住し、ドラヴィダ系海人・山人族は協力して「海の道」を進み、ドラヴィダ系山人族はシベリアの「マンモスの道」を通って日本列島に南と北から移住して出合ったと私は考えていますが、これは後者の「平和・分立」のボノボの道であったのです。

 縄文人と同じように、ヨーロッパ・アジア・オセアニア各地や南北アメリカ大陸に「平和的ホモサピエンス」は分住しますが、後に「攻撃的ホモサピエンス」に侵略・支配されてその文明の多くの痕跡は失われてしまいました。ところが奇跡的に東シナ海日本海を障壁とした日本列島文明はこの「平和的ホモサピエンス」文明の痕跡を今に残すとともに漢字文化の助けを借りて書き残しています。

 今や争いを避けて移住することのできる新天地は無くなり、世界の単一市場化が進み、新たな拝金信仰が生まれ、金権社会の軍国主義国が覇権を争う一方、農耕・工業化に続く情報産業革命や異常気象・新興感染症などにより不均等発展と支配・被支配の矛盾はさらに深刻化し、地域紛争とデジタル全体主義国化が進んできています。

 今こそ長い人類の共同体社会の歴史を振り返り、新たな共同体社会を展望する必要があると感じます。

 

3 日本に奴隷制度はあったか?

 「漢才」「洋才」の伝統を色濃く受け継ぐわが国の翻訳学者たちは、マルクスギリシア・ローマ型の「古代奴隷制」を日本に当てはめようとしましたが、その痕跡は魏書東夷伝倭人条の「生口10人+30人」などにしか見つけることができず、日本は「アジア的生産様式(共同体土地所有)」として古代奴隷制の変形としてきました。「足にあわせて靴を造るのではなく、靴に足を合わせる」やり方で、「ギリシア・ローマの古代奴隷制」を世界標準とした歴史観をわが国に当てはめ、「古代奴隷制の派生型」としたのです。

 しかしながら、このような小細工は成功していません。縄文時代の巨木建築が紀元1世紀の大国主の杵築大社(きつきのおおやしろ:出雲大社)に引き継がれ、さらに魏書東夷伝倭人条に書かれた3世紀の邪馬壹国(やまのい(ひ)のくに)の「楼観」(たかどの)に引き継がれており、現在の「御柱祭」にその片鱗を残しているように、霊(ひ:祖先霊)信仰の共同作業によって建造されているのです。―「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「縄文ノート35 蓼科山を神那霊山(神奈火山)とする天神信仰について」「縄文ノート50  『縄文6本・8本巨木柱建築』から『上古出雲大社』へ」参照

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  なお「楼」は「木+米+女」であり、「祖先霊が天に昇り、降りてくる高木に女が米を捧げる」という漢字であり、転じて「高殿で天神に女が米を捧げる」という意味になり、単なる高殿ではなく、高層神殿を指したと考えます。「観」の元字は「雚+見」=「サ+口口+隹(スイ:とり)+見」ですから、「鳥の巣のような高い建物の草屋根の下で人々が口々に祈り(話しあい)、あたりを見渡す」というような意味と考えられ、「楼観」は単なる「見張り台」や「櫓(矢倉)」ではなく、人々が登って天神を祀り、口々に祈る高層神殿と考えられます。大国主の「杵築大社」をそのまま言い換えた宗教施設なのです。

 ではこのスサノオ大国主一族の建国はどのようなものであったのでしょうか? 

 ①侵略・略奪による常備軍と徴税組織の確立、②沖積平野の灌漑・治水事業と鉄器農具による集約的大規模農耕の開始、③共同体祭祀の一元化、という古代専制君主が氏族共同体・部族共同体を束ねた軍国主義専制国家の建設とは、スサノオ大国主の建国は明らかに異なっています。

 スサノオ大国主一族の建国は武力統一ではなく、「縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」で紹介したように、①海人王スサノオ新羅との米鉄交易による鉄器稲作の普及、②赤目砂鉄(すさ:朱砂)によるスサノオの鉄器生産と大国主の鉄先鋤による沖積平野での水利水田稲作の普及、③母系制社会の妻問夫招婚と縁結びによる大国主の百余国の新たな氏族共同体づくり、④八百万神信仰の天神信仰による霊継(ひつぎ)宗教の統一、という平和・共生の建国です。

 この建国は他氏族・部族の武力支配による統一ではなく、争いがおきたとしても、それは大国主の国譲り後の百余国と各国の後継者争いにとどまり、氏族・部族全体を巻き込んだ殺戮や捕虜・捕囚の奴隷化にはつながっていません。それは後の武士の領国争いにおいても同じです。

 マルクスが規定した「奴隷制社会」は、もともと交易民族であり、エジプト王の屈強な傭兵部隊であったギリシア軍がエーゲ海の国々を侵略・支配し、ペルシアと覇権を争った軍国主義国家から生まれ、それを受け継いだローマ帝国ユダヤ教キリスト教の選民・一神教思想の助けをえて帝国支配を拡大し、皇帝・貴族による植民地(属州)での特殊な奴隷制大農場の生産様式として生まれた限定的な生産様式であり、ギリシア・ローマ本国の大部分は平民による農業・商工業国家であったと考えます。

 「奴隷制社会」は人類史の中で普遍的なものではなく、古代においては軍国主義帝国主義の皇帝・王・貴族の富の源泉であった特殊生産様式なのです。

 エジプト・メソポタミア・インダス・黄河長江文明においても、軍国主義専制君主による家内奴隷制が一部には見られたとしても、大多数の平民社会は氏族・部族共同体生産体制のままであり、各地域ごとの軍閥と平民への階級分化が進んだ封建社会へ移行したと考えます。

 

4 魏書東夷伝に「奴隷制」は見られるか?

 紀元1~3世紀の歴史を記した魏書東夷伝から、朝鮮半島の各国と倭国の人々の性質、刑罰、下戸・奴婢・生口の状況を整理すると次のとおりです。

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 朝鮮の各国は絶えず漢の侵略・支配にされされており、その戦闘についてはこの表には書いていませんが、「凶悪」「勇敢」の表現は主に漢への民族的抵抗・戦闘と考えられます。奴婢・生口はギリシア・ローマ型の戦争捕虜と奴隷狩りによる奴隷制度ではなく、死刑を免じた刑罰であり、その厚遇の対価として王や貴族などに個別に使われていたと見られます。

 「下戸」の表記がある以上、平民の大多数は中戸や上戸であり、倭国の「法を犯すに、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸、宗族を没す」という記述は、彼らが平民(下戸・中戸・上戸)から外され(没落させられ)、家族や本人、一族が「生口」とされたことを示しています。

 高句麗国の「罪があれば豪族たちが評議し、すぐさまこれを殺し」や濊国の「殺人者は死をもって償う」という表記が馬韓国や倭国には見られず、馬韓国においては「逃亡して祖塗(寺に似たところ)に至ったものはみなこれを引き渡さず」というアジール(聖域・避難所・無縁所)があったとされているのはわが国の中世の寺社と似通っており、高句麗国や濊国などとは異なる文化圏であったことが伺われます。

 平安時代桓武天皇第2皇子の52代天皇嵯峨天皇が、818年に中央政界における死刑制度を廃止(保元の乱まで平安時代の338年間継続)したのは、尾張津島神社に「素尊(素戔嗚命)は則ち(すなわち)皇国の本主なり」とし「日本総社」の称号を与えたことをみても、嵯峨天皇スサノオ大国主一族の平和的な建国を理想としていたことを示しています。

 また馬韓国と倭国において「長幼や男女の分け隔てはない」「会同、坐起に、父子、男女は別無し」と漢国には見られない社会であることを特記していることは、両国が母系制社会の伝統を継承していたことを示しています。

 このように魏書東夷伝のどこにも「主要な生産関係」と言えるような奴隷制度の痕跡は見られず、ウィキペディアなどにも見られるマルクス主義に影響された歴史区分には、西欧の白人とくにユダヤキリスト教選民思想に影響された「古代奴隷制」の歪曲があり、アフリカ・アジア・原アメリカの歴史・文化・宗教を本流とした歴史観・文明観の確立が求められます。

 奴隷制度はヨーロッパの軍国・帝国の重商・資本主義社会の産物であり、アメリカにおいては1960年代まで黒人の市民権は回復されず、今も進化論を否定するユダヤキリスト教右派の白人至上主義者による黒人・ヒスパニック・アジア人への差別・人権侵害が絶えないことに対し、アフリカ・アジア・原アメリカからの世界の歴史・文化・宗教・文明の解明と普及が必要と考えます。

 

5 重商主義・資本主義の近代奴隷制度の特徴

 近代奴隷制度は、スペイン・イギリス・フランスなど西欧各国の選民思想キリスト教徒によるアフリカ・南北アメリカの植民地支配が生み出したものであり、北アメリカだけでも数千万人とも1億人を超えるともいわれるアメリカ原住民の虐殺・強制移住・病原菌持ち込みがそもそもの基本原因なのです。

 この虐殺の結果、植民地では人口が減少し、プランテーション(単一作物の大規模農園制度)の労働力不足を招き、アフリカからの黒人奴隷貿易が開始されたのです。中南米においては、スペインがもっとひどい原住民殺戮を行いました。

 図のように近代奴隷制度は産業革命による「西欧―アフリカ―アメリカ」の三角貿易と「西欧―アジア」貿易が生み出したものであり、西欧の金融・産業資本家だけでなく、労働者たちもまたその上に職をえたのです。植民地化されたインドでは綿織物の職人は弾圧され、主要生産地では15万人いた町の住人が2万人まで激減したといわれ、インド総督は「木綿織布工たちの骨はインドの平原を白くしている」と述べ、代わりにイギリスの安い工業製綿製品が輸入され、インドは原料の綿花生産地に突き落とされたのです。

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 このように、資本主義社会はアジア・アフリカ・アメリカ侵略・植民地化の上に成立したのであり、奴隷労働は労働力商品化のもっとも悲惨な形態であるにも関わらず、同世代人であるマルクス(1818~ 1883年)は奴隷制度を階級成立後の古代専制国家からの伝統的な野蛮な制度としたのです。マルクスは工場労働者を資本主義打倒の革命の主要な担い手と考え、生産手段の所有関係から歴史を逆算してとらえ、人を商品化した「奴隷制」を古代におき、歴史の発展法則を「資本家と賃労働者」の矛盾に絞って単純化したと考えます。

 しかしながらアメリカ原住民やアフリカ黒人の奴隷が「主要な生産関係」を担っていたのは1619年から1862年までの日本のおおむね江戸時代の間ですが、黒人差別・迫害は1960年代の公民権運動まで300年も続き現在のトランプ元大統領を支持した4割のうちの白人至上主義者に引き継がれているのです。

 古代専制君主は戦争による略奪によって莫大な富を手に入れ、「常備軍」「交易船団」「徴税・行政組織」により氏族・部族社会を統合して支配を確立しますが、奴隷制度を主要な生産関係とはしておらず、重商主義・植民地支配の近代専制君主と市民革命後の国民国家による植民地支配の帝国主義国こそが奴隷制度の確立なのです。

 差別・迫害されたユダヤ人であったマルクス・エンゲルスがこの現実に対して強い怒りを持たなかったことはありえないと考えますが、「乳と蜜の流れる場所」と呼ばれた「カナンの地」を農耕民を殺戮し、簒奪して奪って建国した遊牧民ユダヤ人の原罪の歴史を背負い、アッシリアによって追放・幽閉され、続いてエジプトに征服されて奴隷となり、出エジプトを果たしてカナンの地に戻ったものの、最終的にはローマ帝国によって滅ぼされて国を追われ、各地に分散せざるをえず差別・迫害された民族史の擁護を考えないわけにはいかなかったと考えます。

 さらにユダヤ人金融家たちはヨーロッパ各地で専制君主帝国主義国のアフリカ・アジア各地の侵略・植民地支配に金融とユダヤ教由来のキリスト教の布教で協力しますが、そのようなユダヤ人の負の役割を隠蔽し、マルクスエンゲルスは主要矛盾を「製造業資本家と賃労働者」に単純化・一本化したと考えます。その結果、資本主義の成立に大きな役割を果たしたヨーロッパとアフリカ・アジア・原アメリカの収奪構造を無視し、現代にまで続く「不均等発展」の貧富格差を解消する歴史観にはなりえなかったと言わざるをえません。

 また、ユダヤキリスト教に習い、共産主義思想を一神教化して他の民主主義・社会主義思想を激しく批判・攻撃し、レーニン毛沢東一党独裁への道を開いた点においても、マルクス主義が人類の未来を切り開く思想に値すると言えるかどうか大いに疑問があります。

 

6 自由・平等・生類愛の共生社会へ

 かつてフランス大革命は「自由・平等・友愛」(ジャコバン憲法は「平等・自由・友愛」)を掲げましたが、今や世界は拝金思想の金権社会になり「友愛」などは忘れられ、「自由」は世界単一市場化による金融・産業資本の自由と支配に置き換えられ、中国・イスラエルなどの「デジタル全体主義」の情報操作・支配モデルは世界の独裁国家に広がり個人の「自由と人権」は狭められ、国際・国内の産業間・階級階層間の格差拡大は生命・健康と生活・文化の「不平等」を広げています。

 さらに新興感染症(新型コロナ)は全体主義と命の格差を広げ、地球温暖化による異常気象は食料危機による紛争・戦争を招くことが心配されます。

 このような危機に対応し、私たちは「攻撃的チンパンジー型」の本能に突き動かされて戦争と支配に進むのではなく、「平和的ボノボ型」の理性と共生心を受け継ぎ、「氏族・部族・地域・宗教・民族共同体」を超えた、すべての生類をふくむ「自由・平等・生類愛の共生社会」の非暴力による創出を目指すべきと考えます。

 縄文1万数千年の平和な歴史とスサノオ大国主の建国は、そのモデルになると考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと

 「縄文ノート62(Ⅴ-6) 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」では主に「母なる川・ナイル」源流域のルウェンゾリ山の麓の「アフリカ高地湖水地方」からの人類の拡散を述べましたが、その前のニジェール川流域でのY染色体Dグループの縄文人の誕生とコンゴ川を遡っての「アフリカ高地湖水地方」への移動について補足したいと考えます。

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 私は人類の起源がアフリカであることを知りながら、ヒョウタンの原産地が西アフリカのニジェール川流域であることを知るまでは、アフリカのどこで日本列島人の祖先が生まれ、どのような経路で日本列島へやって来たのかについては、つい最近まで考えてもいませんでした。アフリカに行ったこともなく、その地理・環境や歴史については無知ですが、アフリカで人間になったご先祖さまについてさらに検討したいと思います。

 ネットと本での上っ面の調査と仮説構築ですが、アフリカと縁の深い若い「イエローモンキー」の皆さんによる検証とルーツ探しに期待したいと思います。

 地球温暖化にもっとも影響を与えていない南半球のアフリカの人々が気候変動の影響をもっとも直接に受ける可能性が高い時代になっており、北半球の先進国の白人・黄色人は「ルック・アフリカ(アフリカに目を向けよ)」の責任があると考えます。

 

1 西欧中心史観の思い込み

 すでに何度か述べてきましたが、西欧中心史観によって人類史は大きく捻じ曲げられていると私は考えます。主な論点は次の8点です。 

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 これまで人類の進化について、寒冷化・乾燥化が進み、アフリカでサルが木からステップ(木のない平原)に降りて二足歩行し石器により草食動物を狩るようになり、草食動物を追って世界に人類が拡散したという一元的進化論で説明されてきたため、サルが草原地帯だけでなく海辺や川・湖の水辺にも降り、男性の狩猟(山人)・漁労(海人)と女性の採取(農人)の分担・共同・分業・協業によるコミュニケーション増大により進化したという多元的複合的進化論のイメージはありませんでしたが、魚介・肉・イモ・穀類食からの人類の誕生・進化と人類大移動について考えてみたいと思います。

 

2 グルメザル進化論:カニを食べるチンパンジーカニや貝を食べるニホンザル

 2019年5月30日のテレ朝ニュースによれば、西アフリカのギニアの野生のチンパンジーが水たまりの沢ガニを日常的に食べている映像を松沢哲郎京大教授らが公表し、「400万年以上前の森で暮らしていた初期の人類が、すでに水生動物を食料源として食べ始めていた可能性がある」としています。これはニホンザルが貝やカニを食べることを知っている日本人ならではの画期的な発見です。「腹ペコザル進化説」だけでなく、「グルメザル進化説」を考えてみる必要がありそうです。 

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 すでに下北半島青森県むつ市脇野沢のニホンザルが「岩に張り付いているヨメガカサ等のカサガイ類を剥がして食べるほか、ホンダワラやアマノリなど海藻類を食べる」(ウィキペディア)ことや、宮崎県幸島の「イモ洗い猿」、東南アジアのインドシナ半島南部、ボルネオ、フィリピンなどのカニクイザルが河川や海岸で泳ぎ、石でカニや貝の殻を割り、中身を取り出して食べることはよく知られていましたが、アフリカのニジェール川源流域のギニアでも確認されたのです。

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 サルが木から降りたのは、寒冷化による果物の減少や草食動物の腐肉あさり(スカベンジャー)だけではないことを確認し、「肉食進歩史観」を見直すべきです。好奇心旺盛で勇敢なサルが美味しいものを求め、ワニやカバの危険を避けて川辺や湖畔、海辺に降りたのです。

 

3 サルは泳ぎ、人も泳いだ

 「サルは泳げない。賢い人間は学習して泳ぎを覚えた」と教師から習ったのですが、その常識を疑うようになったのは、1~2歳の従兄弟を連れて小川に遊びに行った時、足を滑らせて落ちた幼児がなんと浮かんで犬かきで泳いだという「大ビックリ」があったからです。次は、長野県山ノ内町の地獄谷温泉の温泉に浸かって気持ちよさそうにしているニホンザルのコマーシャルでした。

 ネットで「サル・泳ぐ」などで検索してみると、上高地で2匹のサルが梓川に飛び込み、泳いで川を渡る動画がありました。(飛び込んで泳ぐサル 上高地 梓川 - Bing video

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 他にも兵庫県佐用町のモンキーパークなどのサルや、タイのバンコク近くのマングローブの森で遊覧船に乗り移ってバッグを奪いにくるサルや(https://serai.jp/tour/41420)、ボルネオの手に水かきのあるテングザル(https://ikimono-matome.com/long-nosed-monkey/)の写真などもでてきます。

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 「サルは泳げないが人間は泳げる。人間はサルより上等」などとは言えないことが明らかです。

 一方、サルや人間が川・湖、海を怖がるのは、ワニやカバ、大蛇、サメなどがいて、その恐怖の伝承が本能として残っているので「海・川・湖は怖い」になったのではないか、という可能性もあります。

 しかしながら、地上に降りてライオンやヒョウなどに襲われるリスクと較べて、川・湖・海のワニ・カバ・大蛇・サメがさらに恐ろしいなど考えられません。最大の強者は腹を空かせた猛獣を避ける知恵があり、武器を手にして集団で戦った人間集団だったことは歴史が証明しています。

 「チンパンジーがステップ(サバンナ)に降りて人間となった」という人類進化ステップ論だけでなく、「サルは水にジャンプした」という人類進化ジャンプ論を考えるべきです。

 海から生まれ、羊水につかって生まれ、塩を必要とする哺乳類は、本来、水が好きなのです。私も歩き始めたばかりの子どもや孫を水辺につれて行き、彼らが水の中に入ろうとするのでヒヤヒヤした経験が何度もあり、泥んこ遊びも大好きなのです。

 

4 縄文人アフリカ起源説の経過

 繰り返しになりますが、これまで書いてきた「縄文人アフリカ起源説」のあらましを整理しておきます。

 私は縄文人の起源を、①縄文遺跡から見つかるヒョウタンがニジェール川流域原産であることと、②パンゲア大陸のアフリカ西部と南アメリカ東部分裂する前のあたりが全イネ科植物のマザーイネ起源地と想定して「ニジェール川流域縄文人起源仮説」を立て、③「主語-目的語-動詞」言語族のルーツや④中尾佐助氏の「ニジェール川流域雑穀起源説」、⑤ギニア湾沿岸からコンゴにかけてのチンパンジーの分布などと合わせて、ニジェール川流域が人類誕生地ではないか、と考えていました。―「縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」「縄文ノート55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」参照

 次に、⑥上が白・下が赤で埋め墓と拝み墓を分離したエジプトのピラミッドが「母なる川・ナイル」の源流域の万年雪を抱くルウェンゾリ山信仰のシンボルであり縄文人の神名火山(神那霊山)信仰に引き継がれ、⑦ケニアエチオピアの黒曜石利用が縄文人に引き継がれた可能性などから、「高地湖水地方」が縄文人の故郷であると考えるに至りました。―「縄文ノート56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「縄文ノート57 4大文明論と神山信仰」「縄文ノート61 世界の神山信仰」「縄文ノート27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」「縄文ノート65 旧石器人のルーツ」参照 

 この仮説は、⑧猿人や初期のホモサピエンス(現生人類の新人)の化石がエチオピアケニアタンザニアから発見されていることや、⑨Y染色体(男性)やミトコンドリア(女性)のDNA分析によっても裏付けられます。―「縄文ノート64  人類拡散図の検討」参照

 さらに、日本・チベットアンダマン諸島に多いY染色体Dグループがアフリカ西部のEグループのコンゴイド人種(ニジェール・コンゴ語族バントゥー系民族、イボ人)やナイル・サハラ語族)と38300年前に分岐していることから、縄文人は西アフリカのニジェール川流域を起源とし、コンゴ川流域を経て「アフリカ高地湖水地方」で2万年ほどを過ごし、竹筏を利用してインドに移住し、さらにミャンマー東インドの海岸・島しょ部とアンダマン諸島、北部山岳地域に移住し、ドラヴィダ系海人と山人族(山人族には焼畑農業を行う農人(のうと)を含む)が協力して日本列島にやってきた、と考えるようになりました。―「縄文ノート62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」「縄文ノート66 竹筏舟と『ノアの方舟』」「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論」参照

 段階的に認識が深まってきたのですが、人類発生のアフリカについて、以下、さらに検討を深めたいと考えます。

 

4 「アフリカの母なる川」:ナイル川コンゴ川ニジェール川

 アフリカには世界最長のナイル川と8位のコンゴ川(流域面積は世界1位)、12位のニジェール川があります。「母なるナイル川」「母なる川ナイル」に育まれたエジプト文明とともに、ネットで検索するとコンゴ川には「アフリカの大動脈」「コンゴの背骨」の表現が、ニジェール川には「母なる大河・ニジェール川」の呼称も見られます。

 アフリカというと砂漠とステップ(サバンナ)と熱帯雨林のイメージが強いのですが、豊かな大河・湖水地域もあり、さらに高原(高地草原)や万年雪のキリマンジャロ山5895mやケニヤ山51990m、ルェンゾリ山5199mなどの火山もあるのです。

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 熱帯から寒帯までの森と海・湖・川、草原の多様な自然環境こそ、人類を生みだしたと私は考えます。

 人類は寒冷化の食糧危機から群れをなしてサルから人間に集団で変わったのではなく、ボスを中心とした群れを離れた数%の独立心と好奇心・冒険心にあふれた「変ザル」(変人のサル版)が色んな技術・知識を積み重ね、家族を持ち、交流し合流してニュータイプのサル=人に生まれ変わったと考えます。

 ボスのもとで群れをなし、考えることも工夫することもなく従来の生活を行っていたサルグループには進化がなく、群れから離れて自分で考え、食べ物を捜すようになったドロップアウト・スピンアウトした「変ザル」たちが集まり、「分担・共同・分業・協業・交換」により言語コミュニケーション能力を高め、安定した健康的な食生活により長寿になり、父母から子・孫世代への知識・技能・技術・文化の伝承を行い、知能の発達を促したと考えます。

 身近に多様な環境があり、群れを離れた変なサルたちがいたという条件こそが人類誕生の鍵であったと考えます。

 

5 日本人のふるさと・ニジェール川流域

 前述のように、ニジェール川の源流域であるギニア高地にはカニを食べるチンパンジーが生息しており、中流は砂漠・ステップ(サバンナ)地帯、下流には熱帯雨林があります。下流のナイジェリアの人口は約2億人でアフリカ最大、世界第7位で、石油を産しアフリカ最大の経済大国です。「母なる大河ニジェール川」と言えるように思います。

 この地に住むY染色体Eグループコンゴイド人種(ニジェール・コンゴ語族やナイル・サハラ語族)から日本人に一番多いY染色体Dグループは分かれたのであり、ナイジェリアには残されたDグループのDNAを持つ人が3例見つかっています。 

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 私たち日本人の故郷がこのニジェール川流域であることは動かしがたいと考えます。ウィキペディアによれば、ニジェール・コンゴ語族バントゥー系民族(140~ 600以上の言語を話す400以上の民族)とイボ人からなり、イボ人は黒人系の単一民族としては最大規模のグループの1つで、大半はナイジェリア東南部に住みナイジェリアで約20%を占め、カメルーン赤道ギニアにも相当数が居住しているとされます。

 イボ人は「比較的教育レベルが高く、下級の官吏や軍人を多く輩出し、また商才もあり『黒いユダヤ人』と呼ばれることもあった」(ウィキペディア)とされ、1967~70年にかけてビアフラ共和国として分離・独立を宣言してビアフラ戦争になり150万人を超える人たちが死亡しています。ニジェール川を利用した水運・流通商業・金融を支配していたと考えられます。写真はイボ人が多いエヌグ州の州都・エヌグ(ビアフラの首都)の丘陵地の風景です。

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 なお、前述のカニを食べるニジェール川源流域のギニアのマスクチンパンジーに対し、河口にはナイジェリアチンパンジーが生息しており、Y染色体E・Ⅾグループはこの地域で誕生した可能性が高いと考えられます。 

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 ナイジェリアで水田稲作の指導を行っている若月利之島根大名誉教授に問い合わせたところ、次のような返事がありました。

 

<若月利之島根大名誉教授からの返事>

① ナイジェリアの3大部族は北のハウサ(イスラム、軍人向き?)、南西のヨルバ(キリスト教と祖霊信仰、文化人向き)、南東のイボ(キリスト教と祖霊信仰、科学者向き?)と言われています。

② イボにはJujuの森があり、日本のお地蔵さまと神社が合体した「聖なる」場所は各村にあります。③ イボの根作は多様性農業の極致です。

④ イボ(とヨルバ)の主食はヤムもち(日本の自然薯と同種)で、大鯰と一緒に食べるのが最高の御馳走。古ヤムのモチは日本のつき立てものモチよりさらにおいしい。貝は大きなタニシをエスカルゴ風に食べます。男性の精力増強に極めて有効。

⑤ 竹は1本の竹から数十本が集合して成長する種ですが、どこでもあります。ただ,筏は作らないと思います。見たことがない。地形は準平原であり、川は勾配が緩く、急流は、ほとんどない。

⑥ 西アフリカの湖水地方は、東アフリカの南北に延びる湖水地方ほど、目立ちませんが、西のセネガル川―マリの内陸デルターナイジェリア北方からチャド湖―南スーダンのスッド湿地―スーダンハルツームーそしてナイルデルタに繋がる、乾燥地帯(サヘル帯び)ですが、川水が流れ込み、広大な湿地帯を形成しています。私たちのアフリカ水田農法Sawah Technologyの、現時点での最大のターゲットはこの「湖水地帯」です。これは図を添付します。このサヘル帯に沿って分布する湿地帯(内陸デルタ)はエジプトのナイルデルタ10ケ分くらいの価値があると思います。 

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 この若月氏の返事からは、次のような重要なポイントが浮かび上がります。

⑴ 霊(ひ)信仰

 イボ人に祖霊信仰(霊(ひ)信仰)があり、日本のお地蔵さまと神社が合体した「聖なるJujuの森」があることは、インドのドラヴィダ族やタイ・雲南などの「ピー信仰」、日本の「鎮守の森」に繋がります。

⑵ もち食文化イボ人に「もち食文化」があることは、ヒマラヤから東南アジア高地・雲南・日本の照葉樹林文化に繋がります。

⑶ 根菜農業

 イボ人に「根菜農業」があることは、東南アジアや日本の山芋・里芋文化と繋がります。

 ただ中尾佐助氏は「根菜農耕文化」の起源を東南アジア、「サバンナ農耕文化(雑穀)」の起源を西アフリカとしていますが、イボ人の根菜農業が雑穀とともに西アフリカ起源なのか、それともバナナとともにアジアからもたらされたのか、調査が求められます。

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 ⑷ 魚介食文化

 イボ人にとって「ヤムもちを大鯰と一緒に食べるのが最高の御馳走」で「貝は大きなタニシをエスカルゴ風に食べる」ということは、ニジェール川源流域のギニアのマスクチンパンジーが沢ガニを常食していることと合わせて考えると、アジアの魚介食文化との繋がりを感じます。

⑸ アフリカ湿地帯(サヘル地域)

 サハラ砂漠は10000~5000年前頃は緑に覆われ、砂は水の浸食によってできたと考えられ、リビア西部のアルジェリア国境に近いタドラルト・アカクス遺跡には11000~7000年頃ほど前に描かれたキリンなどの岩絵があり、リビアスーダンの国境近いエジプトのギルフ・ケビール遺跡には10000~5000年前頃の動物や泳ぐ人の絵が残され、ニジェールに近いリビア南東部のタッシリ・ナジェール遺跡には新石器時代に遡るワニなどの野生動物、牛の群れ、狩猟や舞踏などの岩絵が残されています。いずれも世界遺産に登録されています。

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 若月氏指摘のアフリカ湿地帯(サヘル地域)はこのサハラ砂漠の南縁にそって東西に延びており、狩猟の痕跡だけでなく、漁撈・採取・農耕文化の痕跡が今後発見される可能性を示しています。

 

6 イボ人と高地湖水地方を繋ぐコンゴ川

 「アフリカの大動脈」と称されるコンゴ川が、ナイジェリア東南部からカメルーン赤道ギニアに住んでいたイボ人がヒョウタンなどを持って高地湖水地方へ移住するルートであった可能性は高いと考えます。図7のようにコンゴ川の支流はタンガニーカ湖やムウェル湖に達しており、川沿いに高地湖水地方に移動することは可能です。

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 なお、ナイジェリア東部とカメルーン西部の境にはカメルーン火山列(カメルーン高地)があり、カメルーン山4095mは「偉大な山」と呼ばれ、噴火を繰り返しており、頂上が吹き飛ばされる前はきれいな円錐形のさらに高い万年雪を抱く神名火山(神那霊山)型の火山であった可能性があります。

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 人類が図1のサバンナ地帯を東に進んで高地湖水地方に移動したのか、それともコンゴ川を遡ったのかの直接証拠はありませんが、間接的な証拠としてはコンゴ川に沿ったチンパンジーと「人間に一番近い類人猿」と言われるボノボの分布があります。彼らは熱帯雨林の果物など豊富な食べものを確保できる赤道にそって移動しているのです。

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 京大霊長類研究所の古市剛史教授の「ヒトが『ボノボ』から学ぶこと〜コンゴ川を渡った平和主義者たち〜」によれば、ヒトとチンパンジーが分かれたのは700万年ほど前、チンパンジーボノボの分化は100万年ほど前とされ、コンゴ川ボノボは渡り、北のチンパンジーと南のボノボは棲み分けており、「チンパンジーは浅い川でも水に浸かることを嫌がりますが、ボノボは水が大好きで、バチャバチャと川に入ってヤゴや川虫を食べたりします」とされます。

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 チンパンジーボノボには、次のような共通点と相違点があり、人類誕生についての手掛かりとなります。

 

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 2015年9月18日のナショナルジオグラフィックのニュースは『ヒトはなぜ人間に進化した? 12の仮説とその変遷』において、「1.道具を作る」「2.殺し屋(常習的に殺りくをする攻撃性)」「3.食料を分かち合う」「4.裸で泳ぐ」「5.物を投げる」「6.狩る」「7.食べ物とセックスを取引する」「8.肉を(調理して)食べる」「9.炭水化物を(調理して)食べる」「10.二足歩行をする」「11.適応する」「12.団結し、征服する」をあげていますが、1・2・5・6・12をチンパンジーから、3・4・7・8・9・10・11をボノボからイメージしていると考えられます。

 なお、「交尾の時期を除けば実は温和で繊細な性質」「胸をたたいて自己主張し、衝突することなく互いに距離を取る」「群れの間では多様な音声を用いたコミュニケーション」「ストレスに非常に弱い」「群れ同士は敵対的だが、縄張りを持たず、お互い避け合う」「交尾は一年を通じて行われる」などのゴリラの特徴はボノボに似通っており、ヒトにも通じます。その分布はナイジェリアからアンゴラにかけての海岸地域と、高地湖水地方のルウェンゾリ山のあるウガンダであり、チンパンジーボノボと同様に、赤道に近く果実が豊富な地域で人類が誕生した可能性が高いことを示しています。

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 人類誕生の手掛かりとしては、類人猿と人類(旧人と新人)の化石・石器とDAN分析、ヒトと分岐したチンパンジーボノボ・ゴリラの性質や生活、現アフリカ人のDNA・言語分析などから分析する以外にありませんが、サバンナ地域での「チンパンジー的人類」と熱帯雨林の「ボノボ的人類」がいた可能性が高く、後者はコンゴ川に沿って遡り、アフリカ高地湖水地方に移住した可能性が高いと私は考えます。

 

7 第2の故郷:アフリカ高地湖水地方

 ルウェンゾリ山地はアフリカで3番目に高いスタンリー山5119mから4~7位の山が連なり、「ルウェンゾリ山地国立公園」(ウガンダ)、「ヴィルンガ国立公園」(コンゴ民主共和国)として世界遺産に登録されています。1位のキリマンジャロ、2位のケニヤ山を知っている人は多いと思いますが、私も万年雪を抱くルウェンゾリ山がナイル源流にあり、エジプトの上が白く下が赤いピラミッド信仰の原点であると考えるまでは、全く知らない山でした。―「縄文ノート56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「縄文ノート57 4大文明論と神山信仰」「縄文ノート61 世界の神山信仰」参照

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 メソポタミアの「クル(山)信仰」のジッグラトや信濃縄文人の神名火山(神那霊山)の蓼科山信仰など、世界の神山信仰のルーツであり、ケニヤ山の黒曜石利用、魚介イモ雑穀食文化などと合わせて、私は「アフリカ高地湖水地方」こそが縄文人の第2の故郷であると考えるようになりました。サバンナで草食動物を狩るだけでなく、男女の役割分担としてイモ雑穀のデンプン採取・栽培と火を使い糖質を食べるようになったサルだけが脳の活動を活発にし、知能を発達させてヒトとなったのです。

 「縄文ノート62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』 」で書いたように、ルウェンゾリ山の麓の2万年頃から8000年前頃のイシャンゴ文明には石臼・粉砕用石器と多くの骨製の銛と魚骨を伴っており、穀類・魚介食文化を育み、東南アジア・東アジアや縄文文明、さらにはアンデス文明とも類似しているのです。

 「縄文ノート64 人類拡散図の検討」で述べたように、東アフリカ(エチオピアモザンビーク)を人類発祥の地とみなす説が多数派であり、400~290年前頃の猿人の化石がエチオピアケニアタンザニア南アフリカから発見され、240年前頃の原人・ホモハビリスの化石がタンザニアで、20(16±4)万年前頃からの現生人類の化石がエチオピアのオモ遺跡や南アフリカヨハネスブルグの「人類のゆりかご」として世界遺産登録された石灰岩の洞窟や陥落穴で発見されていることからみても、エチオピア南アフリカの中間の「アフリカ高地湖水地方」こそが現生人類・ホモサピエンスの誕生地の可能性が高いと考えます。

 この高地湖水地方は図1のようにサバンナから高地草原地帯へ移行し、さらに万年雪のルウェンゾリ山、さらには湖水と南北に流れるナイル川やインド洋に注ぐ河川など、多様な環境に恵まれています。赤道直下の灼熱を避けることのできる快適な地域です。

 1300m以上では    マラリア感染は少ないとされ、図12のように高地湖水地方マラリア感染のリスクは少ないと考えられます。また、ツェツェバエによるアフリカ睡眠病(アフリカ・トリパノソーマ症)についても、図13のようにコンゴで80%が占め、東の高地湖水地域は安全です。

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 若月氏によれば、「東部アフリカの湖水地方といえば、GenocideのRwandaを最近Google earthで覗いてみました。アフリカでは唯一大変美しい棚田ならぬ棚畑でした(Byumba, Rwanda: 1.584S 30.046E)。有名な雲南の棚田(Yunnan, China: 23.115N 102.75E)にも負けない、人力による景観形成と思いました」ということであり、グーグルアースに位置情報を入力して見て下さい。「縄文ノート64 人類拡散図の検討」で載せたタンザニアルワンダウガンダの高地地方の農村風景を再掲します。

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8 縄文研究を世界的な視野で

 戦後は政治の分野での「インターナショナル」が、1970年代から主に産業・経済の分野で「国際化」が、1990年代から「グローバリゼーション(グローバライゼーション、グローバル化)」や「ボーダレス化」が叫ばれる一方、1960・70年代から「宇宙船地球号」「ガイア」「成長の限界」「地球環境」「アースディ」「地球温暖化」「持続的発展可能性」「グローカリズム」などの言葉も生まれてきました。

 今、現代文明が大きな転換点を迎えつつある現在、人類のルーツに立ち返る必要があると探求を重ねてきましたが、縄文文明の「第1のふるさと・ニジェール川流域」、「第2のふるさと・アフリカ高地湖水地方」のおおまかな姿を明らかにすることができました。

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 これはあくまで机上のネット情報を利用した仮説構築作業であり、私が大事にしてきた地域に密着した産業・生活・文化の総合的な検討とは程遠いものです。アフリカにもインド、アジアの照葉樹林帯にも一度も行ったことのない私にはおこがましい作業でした。

 縄文文明やアフリカ・アジア文明に関心のあるすべての分野の若い世代に、ここから先はバトンタッチしたいと考えます。個別分野の「タコつぼ的」な作業ではなく、是非、世界にネットワークを広げて検討していただきたいと考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/