ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

「琉球論3 『龍宮』への『无間勝間の小舟』」「琉球論4 『カタツムリ名』琉球起源説」の紹介

 昨日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「琉球論3 『龍宮』への『无間勝間の小舟』」をアップしました。記紀神話に登場する「龍宮」への舟と航海はどのようなものだったのかを荒尾南遺跡の帆舟土器線画やアイヌのイタオマチプ(板綴り舟)から考察し、龍宮神話が架空の創作ではなく、真実の伝承であることを明らかにしています。http://blog.livedoor.jp/hohito/

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 本日は「琉球論4 『カタツムリ名』琉球起源説」をアップし、柳田圀男の『蝸牛孝』から、カタツムリ方言の起源が琉球であることを考察しています。

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 縄文論との関係でいえば、縄文人が帆かけ舟で琉球から薩摩半島、さらには東北・北海道へと対馬暖流の「貝の道」「ヒスイの道」を航海する海人族であり、彼らの活動ににより、多DNA・共通語・共通土器鍋文化の縄文社会が形成されたことを解明する一端となります。雛元昌弘

 

「琉球論2 『龍宮』は『琉球』だった」の紹介

 

 昨日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」において「琉球論2 『龍宮』は『琉球』だった」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 記紀神話に登場する「龍宮」は、海の底の架空の話とされてきましたが、龍宮=りゅうぐう=りゅうきゅう=琉球であると私は考えます。2018年5月に書き、『季刊日本主義』(43号2018秋)に掲載した原稿「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」をもとに加筆・修正したものを、2回にわけて紹介します。
 卑弥呼(襲名アマテル4)を筑紫大国主王朝11代目であり、卑弥呼の後継者争いで破れて薩摩半島生南端の笠沙に逃げ延びたニニギ(偽名の可能性がある)の子が山幸彦(山人:やまと)であるとする私の説については、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)を参照下さい。
 縄文論との関係でいえば、笠沙の地は琉球(龍宮)から黒潮に乗ってやってくると九州への入り口であり、丸木舟製作に使用する縄文時代の丸ノミ石器と曽畑式土器の分布が琉球(龍宮)と笠沙の関係を証明しており、縄文時代スサノオ大国主の委奴国・倭国・鄙国、邪馬壹国、美和国・大和朝廷の関係をつなぐ接点になるテーマです。 雛元昌弘

 

 

 

 

「琉球論1 『へのこ』考」のお知らせ

 「琉球=龍宮論」「琉球弁古日本語論」を中心に、古代の「琉球」と本土の関係について2017年より書いてきたものを、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」において、本日「琉球論1 『へのこ』考」をアップしました。性器名称は基本語・基礎語と言えますが、どのような意味で、どう伝わったのか、考察しています。
 縄文時代対馬暖流にそった「貝の道」「ヒスイの道」とも密接に関係していますので、紹介いたします。http://blog.livedoor.jp/hohito/

Gooブログ「倭語論7 『鬼』の国」の紹介

 昨日、Gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」(九:神話探偵団)で「倭語論7「鬼」の国」をアップしましたのでお知らせします。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 古代においては、「鬼」=「神、魂、霊(ひ)」であり、縄文時代(私説:土器鍋時代)から続く霊(ひ)信仰=祖先霊信仰であり、スサノオ大国主一族の「八百万神(やおよろずのかみ)」の祖先霊信仰、霊継(ひつぎ)宗教に引き継がれたという宗教論は私の古代史論のキーポイントになります。
 卑弥呼は筑紫大国王朝の11代目であり、その鬼道は「委奴国王=スサノオ」「倭国王大国主」らの鬼=霊(ひ)=祖先霊信仰であることは、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本第2版:筆者雛元)で明らかにしています。
 縄文論としてはまだ言語論の検討を行っていませんが、「多DNA・主語-目的語-動詞言語共同体」としての縄文論へ進めたいと考えています。雛元昌弘

5つのブログ紹介

 古代史のテーマ別に5つのブログを再開・開始しましたが、相互に少なからぬ関連があるので、昨年末から書いてきたブログ全体について紹介しておきます。今後は重複アップはやめ、それぞれのブログで他の新ブログをリンクします。 

1 Gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」(旧:神話探偵団)https://blog.goo.ne.jp/konanhina
① 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元版)のご案内 0110
② 神話探偵団128 「天王スサノオ」を目指した天主・織田信長を殺した明智光秀 0114
③ 神話探偵団129 麻生太郎氏の「126代の1つの王朝」は正しいか? 0115
⑤ 古代史ブログを再開します 0123
⑥ 倭語論1 平和について 0123
⑦ 倭語論2 倭流漢字用法の「倭音・呉音・漢音」について 0124
⑧ 倭語論3 「主語-目的語-動詞」言語族のルーツ 0125
⑨ 倭語論4 「倭人」の漢字使用 0126
⑩ 倭語論5 「和魂」について
⑪ 倭語論6 「神」について

2 Seesaaブログ「ヒナフキン邪馬台国ノート」 yamataikokutanteidan.seesaa.net/ 
① 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元版)のご案内 0110
② 古田説・安本説と私の邪馬台国論 0110
③ 古代史ブログを再開します 0123
④ 纏向の大型建物は「卑弥呼の宮殿」か「大国主一族の建物」か 0128

3 FC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論」

hinakoku.blog100.fc2.com


① 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元版)のご案内 0110
② 「天王スサノオ」を目指した天主・織田信長を殺した明智光秀 0114
③ 麻生太郎氏の「126代の1つの王朝」は正しいか? 0115

4 はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」

hinafkin.hatenablog.com


① 1 縄文との出会い 0106
② 2 私の日本民族起源論、縄文論 0107
③ 3 これからの「縄文社会研究」のテーマ(検討中) 0110
④ 4 「ワンチーム」の縄文時代麻生太郎氏の「126代の1つの王朝」批判 0115
⑤ 5 古代史ブログを再開します 0123
⑥ 6 「弥生時代」はなかった 0125

5 Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」 blog.livedoor.jp/hohito/ 

① 帆人106 古代史小論・レジュメ一覧 1221
② 帆人107 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版:雛元版)のご案内 0114
③ 帆人108 「天主・天王「」を目指した織田信長を殺した明智光秀 0114
④ 帆人109 麻生太郎氏の「126代の1つの王朝」は正しいか? 0115
⑤ 帆人110 古代史ブログ再開します 0123

縄文ノート4  「弥生時代」はなかった

 この小論は私が子どもの頃から「弥生式土器時代」に抱いていた疑問を老人になってからまとめたものです。奇をてらうものではなく、真面目に「縄文時代はなかった」という結論に達しました。

 ただ、まともな小中高生は混乱すると思いますので、読むことはお勧めしません。私のような「へそ曲がり」なら、読んでみて下さい。 

 

1.「弥生式土器時代」「弥生時代」はあったか?

 教師の言うことをそのまま信じず、何にでも「ほんとかいな」「なぜだろう」と疑問を持ってしまう「へそ曲がり」だった私は、登呂遺跡の写真の載っている教科書で「稲作が始まって、米を貯蔵するために弥生式土器が生まれた」と説明を受けて、納得できませんでした。父母の田舎では米は米俵に入れて乾燥した納屋に保存し、台所では木の米びつに入れていたからです。土器に入れる理由が考えられませんでした。
 次にいつ頃でしたか、重い縄文式土器から軽い弥生式土器に変わった、と説明を聞いたか本を読んだかした時には、すんなりと納得できました。この説だと、稲作開始と弥生式土器は無関係だ、ということになります。
 「狩猟漁撈・採取時代から稲作農耕時代へ」、「重い土器から軽い土器へ」という転換はそれぞれ認められますが、稲作が弥生式土器を生み出すことも、弥生式土器が稲作を生み出すことも考えられません。
 その後、岡山県の朝寝鼻貝塚からは約6000年前、南溝手遺跡や津島岡大遺跡の土器胎土内から約3500年前のプラント・オパールや籾痕のついた土器が見つかっており、稲作は縄文時代に遡ることが明らかとなり、佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは約2930年前の水田の跡が見つかっています。小学生の時の私の疑問が正しかったことが証明されました。紀元前4世紀ころからの「弥生式土器時代」という時代区分は誤りだったのです。
 ところが、それまでの誤りを訂正することもなく、いつの間にか考古学者・歴史学者たちは「縄文式土器時代」「弥生式土器時代」から「式土器」をとって、意味不明な「縄文時代」「弥生時代」と言い換え、稲作をその転換点とするように言い変えています。「縄文」という土器デザインと「弥生」という地名、このバラバラの名称を稲作前後の時代区分としたのです。この言いかえは「嘘の上塗り」の「恥の上塗り」という以外にありません。
 「狩猟漁撈・採取時代」を「縄文時代」、「稲作時代」を「弥生時代」と名付けるなど、考古学者・歴史学者の呪文という以外にありません。「採取時代」と「農耕時代」と区分するなら分かりますが。
 また、そもそも「縄文時代」とされる1万年の間の土器が、全て「縄文デザイン」であったわけではありません。あの有名な火焔型土器や土偶などに縄文が見られるか捜したことがありますが、どこを見ても縄目を押した「縄文」なんて見られません。デザインでいえば、無文土器、押型文土器、条痕文土器、圧痕文土器、刺突文土器、沈線文土器、隆線文土器などに分類されるというのですから、この時代を「縄文時代」というのもまた意味不明です。

 

2.竪穴式建物と高床式建物

 登呂遺跡の写真で、縄文時代は「竪穴式建物」、弥生時代になって米を保管するために「高床式建物」が生まれた、という教師の説明は納得していました。
 しかしながら、「縄文時代」の三内丸山遺跡で巨木の6本柱の再現施設を見たときには、強い違和感を覚えました。屋根や囲いがない見張り台のような理解不能な施設が再現されていたのです。雨が多いわが国において、雨や風を防ぐ屋根や囲いのない見張り台など考えられません。遺跡内には多くの小さな高床式建物がありますから、彼らには高床式建物を建てる技術はあったのです。巨木を使っていることからみて、他の食物保存用の高床倉庫などとは別の用途の高い巨大な建物であったのです。
 昔、各集落ごとにあった火の見櫓をみても、1~2人が昇る見張り台なら2本柱か3本柱、4本柱で十分であり、巨木を使った6本柱の見張り台などありえません。
 「竪穴式建物は縄文時代、高床式建物は弥生時代」というドグマに支配され、縄文時代三内丸山遺跡には6本柱の「高床式建物」などありえないという思い込みから、屋根も囲いもない見張り台にしてしまったのです。これは、とうてい納得などできませんでした。
 その後、吉野ヶ里遺跡に竪穴式住居がいくつもあり、大湯環状列石遺跡で多くの高床式建物があるのを見たり、文献で各地の縄文遺跡で高床式建物が見つかっているのを知り、「縄文時代は竪穴式建物、弥生時代に高床式建物」という通説は誤りであることを確信しました。
 三内丸山遺跡の「屋根のない見張り台」復元施設は、「縄文時代=竪穴式建物、弥生時代=高床式建物」という非科学的な誤った古い縄文観を記念した再現施設であると説明板で解説すべきです。それが嫌なら、撤去するか、屋根付きの高床建物に建て替えるべきです。世界遺産登録など、恥ずかしいと言わなければなりません。
 なお、長野県茅野市の「仮面の女神」が出土した中ツ原(なかっぱら)遺跡の8本立柱などについても、「立柱」として再現しているのには同じ問題を感じます。
 見張り台なら6本柱や8本柱にする必要がなく、高床倉庫ならこんなに太い柱は必要ありません。三内丸山遺跡には掘建て式の大きな集会用あるいは作業用の建物がすぐ前にありますから、別の用途と考えられます。
 柱の太さから見て、高さのある建物であり、死者の葬祭を行う宗教施設、あるいは宗教施設を兼ねた部族長・長老たちの政治施設の可能性が高いと考えます。
 いずれにしても、「竪穴式建物」「高床式建物」のどちらもが縄文時代から続いており、「弥生時代」や「稲作時代」への転換の示すとは考えられません。 

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三内丸山遺跡青森市

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中ツ原(なかっぱら)遺跡(茅野市



3.「農耕」は「縄文時代」から

 稲作開始にこだわるなら、「弥生時代」という言い方は止めて「稲作時代」の名称に変え、約3500年前をその開始時期とし、「縄文時代後期・晩期」を繰り入れる必要があります。その場合には、高温で薄くて堅い「弥生式土器」という土器分類による時代区分は諦め、「弥生時代はなかった」としなければなりません。
 その場合に問題になるのは、「縄文時代は採取、弥生時代は稲作農耕」としてきた分類にそもそも意味があるのか、という新たな問題点です。
 最近は、若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前)や三内丸山遺跡などの研究から、縄文人が野菜や果物、栗の栽培を行っていたことが明らかとなっています。鳥浜貝塚では南方系のヤシの実やヒョウタン(西アフリカ原産)・リョクトウ(インド)・シソ(ヒマラヤ・ビルマ・中国)・エゴマ(東南アジア)・ウリ(西アジアから北アフリカ)が見つかっており、これらは「海の道」を通って種が持ち込まれ、栽培されていたことが明らかです。
 工学系の「仮説検証型」の研究・計画方法の私には、考古学者の研究方法は知らないのですが、アフリカや東南アジアの人々の主食であったタロイモサトイモ)やヤムイモ(ヤマイモ)、麦やソバ、粟・黍・稗、緑豆などもまた同時に「海の道」をきたとの仮説を立て、その痕跡(歯石など)を分析したり、遺伝子分析でルーツを探らないのは、理解不能です。
 「縄文時代」の磨り臼と磨り石、石鍬と石包丁、高床倉庫らしき建物や、委奴(イナ)・吉備(キビ)・阿波(アワ)・日枝・比叡(ヒエ)・牟岐(ムギ)などの古代の国名や地名、明治まで広く行われていた焼畑農業、今に伝わる「イモ雑煮」(それを模した丸餅雑煮)などから見て、私など素人は「縄文農耕があった」と考えます。
 「採取社会」から「農耕社会」への転換を言うなら、それは土器鍋を発明した「縄文社会」が転換期であったと私は考えます。日本列島最古の土器は青森県の大平山元I遺跡から出土した無文土器で16,500年前のものとされていますが、その用途について通説は魚・肉・ドングリを炊くためとしていましが、私は主食のイモや麦・ソバ、粟・黍・稗、豆(小豆や緑豆)などの栽培作物の煮炊きに使った、と考えます。
 栽培農業革命に合わせて土器鍋煮炊き料理革命が同時に起こったのであり、「縄文土器時代」ではなく、「土器鍋時代」「土器鍋文明」と呼ぶべき食料革命が遅くとも16,500年前頃には起こったのです。この土器鍋食は健康で安定した食生活を保証し、豊かな土器・土偶芸術を生み出し、「和食」「出汁」文化として、今、世界に広まっているのです。


4.「石器→縄文→弥生→古墳」時代区分から「石器―土器―鉄器」時代区分へ

 そもそも「石器時代縄文式土器時代→弥生式土器時代→古墳時代」という「石―土器―土器―墓」(イシドキドキバカ)の時代区分には、私は子どもの時から疑問を持っていました。わが国には「金属器時代青銅器時代鉄器時代)はなかった」「石と土の前文明社会であった」などというのはウソだろうと思ったのです。
 「石―土―土-土」なら素材基準として統一がとれていますが、「道具―道具―道具―信仰施設」、「道具―道具―水田稲作―信仰施設」という時代区分となるともはやバラバラ事件です。「掘った、出た、並べてみた」という、何の統一的な論理もない即自的な基準と言わざるをえません。
 なぜこのような時代区分になったかと考えると、天皇中心・大和中心の「皇国史観」で歴史を組み立てようとすると、「稲作を広めた弥生時代のチャンピオンの天皇家」という仮説が成立し、それに合わせて、大和中心の巨大古墳時代をまず立て、その前には水田稲作時代=弥生式土器時代を置き、その前の未開時代は土器分類からとりあえず「縄文土器時代」とし、その前は旧石器時代としておこう、ということになったのではないでしょうか。青銅器時代鉄器時代焼畑農業時代やいも食・雑穀・豆食時代など入る余地はでてきません。縄文時代は糖質として栗やどんぐりを食べていたことにしておこう、ということにしました。
 では、いも・雑穀・豆栽培の第1次農業革命と土器鍋食革命が同時に起こり、次に陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培から水稲栽培への第2次農業革命がおこり、そこから古代王権が誕生したとして、どのような時代区分が考えられるでしょうか?
 私は生産・生活用具を時代区分の基準として、「石器―土器(鍋)―鉄器」の時代区分にすべき、と考えています(『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本・第2版)参照)。
 「石器時代」は黒曜石の矢じりの弓や石穂先の槍で狩りや漁を行う「狩猟漁労・採取の時代」、「土器(鍋)時代」はイモや五穀(麦・ソバ・粟・黍・稗)・豆などを栽培し、キノコ、魚介類、肉などと合わせて土器鍋で食べる健康で安定した食生活と定住、交流・交易、土器・土偶・建築文化などをつくりあげた時代、「鉄器時代」は米鉄交易により、鉄先鋤により原野を開拓し、水路を整備し、水田稲作を全国に波及し、百余国の「委奴国」が誕生した時代、と考えています。
 古事記は、大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、美和(三輪)の大物主と「共に相作り成」したと書き、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」としています。日本書紀は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営し、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め、「百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えています。そして、出雲国風土記大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」としています。
 以上の記載からみて、大国主一族こそが鉄先の「鉏(鋤、鍬)」を配って水田稲作を100余国に普及させ、「天下造所」したことが明らかであり、「木鋤(こすき)」から「鉄先鋤」への農耕用具革命を行い、水田稲作農業革命という「水穂国づくり」を行ったのです。
 「弥生式土器」ではなく、鉄器時代の「鉄先鋤」こそが、水利水田稲作時代を全国に広め、妻問夫招婚により百余国からなる古代統一国家「委奴国」(いな国=稲国)をつくりあげたのです。
 以上、「石器―土器(鍋)―鉄器」という生産・生活用具から、「狩猟漁労・採取時代―イモ・五穀・豆栽培の土器鍋食時代―鉄器稲作時代」という、世界に類のない生産・生活様式の時代区分、文化・文明時代区分を考えてきました。
これまで「弱肉強食・戦争進歩史観」は武器を基準として「石器時代鉄器時代」の時代区分を世界標準としてきましたが、この日本列島においては、「生産・生活史観」により、「石器時代・土器(鍋)時代・鉄器時代」の時代区分が成立することを世界に提案したいと考えます。
 さらに産霊・霊継(ひ=祖先霊:DNA)を中心とした自然信仰、地神・海神信仰から天神信仰への移行、世界一の出雲大社の造営、多民族・共通言語文化社会形成、妻問夫招の母系制社会、五味(甘味・酸味・塩味・苦味・うま味)食文化など、海人族(海洋交易民)の新たな「文明」像の提起へ進みたいと考えます。

 

 

 

 

古代史ブログを再開します

2008~10年から古代史について5つのテーマでブログを書き始めました。思想・権力・権威・学閥・郷土愛・通説などにとらわれない、仮説構築作業を優先し、それぞれ独立してテーマごとに開始しましたが、2011年の福島第1原発事故を受け、2012年春頃より長らく休止していました。
休止した時、訪問者はGoo「神話探偵団」6.5万人、Livedoor「帆人の古代史メモ」2.2万人、Yahoo「霊(ひ)の国:スサノオ大国主命の研究」1.2万人、Seesaa邪馬台国探偵団」1.0万人、FC2「霊(ひ)の国の古事記論」0.2万人でしたが、本日、Goo「神話探偵団」を見ると訪問者は17.4万人「帆人の古代史メモ」4.0万人、FC2「霊(ひ)の国の古事記論」0.5万人でした。7年間の休止にも関わらず、訪問してくださる方がいたことには驚きであり、感謝に堪えません。
その後は縁あって『季刊日本主義』『季刊山陰』に断続的に小論を書き、参加していました梁山泊、縄文社会研究会、希望社会研究会などで発表してきましたが、昨年から「新皇国史観」とでも言うべきマスコミの論調に危機感を覚え、古代史ブログを再開したいと思います。
これまで書いてきたブログについては、多くの訂正・修正がでてきていますが、仮説構築の錯誤の経験としてそのまま残しながら、書き溜めてきたものを順次、公開したいと思います。

1 Gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」:「神話探偵団~スサノオ大国主を捜そう!」については、2020年中にキンドル本としてまとめる予定なので、名称を「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」に変更して継続。
2 Seesaaブログ「ヒナフキン邪馬台国ノート」:『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』についてはアマゾンキンドル本(パソコン・タブレットスマホ対応)として2020年1月に第2版(著者:雛元版)を発行したため、名称を「ヒナフキン邪馬台国ノート」に変更して継続。
3 FC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論」:古事記論について継続。
4 はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」:日本民族起源論、縄文社会・文化論、縄文語論、縄文宗教論などを新たに開始。
5 Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」:古代史全般について継続。
6 YAHOOブログ「霊の国:スサノオ大国主命の研究」:ブログ廃止に伴い終了。『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院:2009年)として出版。

「いいとこどり」の「真実一路」の仮説検証の冒険、ご笑覧いただければと思います。 雛元昌弘