「スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する」の紹介
Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に「スサノオ・大国主ノート141 出雲大社の故地を推理する」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
私は2007年2月に出雲大社、2013年9月には島根県立古代出雲歴史博物館を見学して、次に記す2つの疑問を持っていました。建築史の授業にはほとんど出られなかった建築学生でしたが、仕事ではプランナーとして施設立地や都市計画に携わってきた経験からの疑問です。
<出雲大社建築計画の2つの疑問>
疑問1 出雲大社が神名火山(神那霊山)である八雲山を向いていない。
疑問2 長い直階段は横風に対して構造的に弱い。建築時に足場が不要となる内階段(廻り階段)の可能性が高いのでは。
この疑問1から、出雲大社は現在の位置ではなく、紀元2世紀から250m東南の位置に建てられており、1108年に倒壊した後に、西・北・東風の影響を受けにくい谷間に移された可能性が高いことを解明しました。
私は纏向遺跡の大型建物や箸墓・崇神天皇陵などの古墳が大国主一族の神名火山(神那霊山)である穴師山を向いていることから、大国主一族の施設立地には「神名火山(神那霊山)からの直線配置」「二等辺三角形配置」の法則があることを見つけていますが、その法則が出雲大社の立地にも当てはまることを解明しました。
これまで、全世界の氏族・部族社会(母族社会と言いかえたいと思います)段階には、地母神信仰とともに、死者の霊(ひ:祖先霊)が神名火山(神那霊山)から天に昇る神山天神信仰であったことを明らかにしてきましたが、わが国の縄文社会から妻問夫招婚によるスサノオ・大国主建国はもっともよくその歴史を示しており、世界遺産登録の価値があると考えており、48mの世界一の高さであった可能性の高い出雲大社神殿の復元を望んでおり、出雲大社の当初の立地場所の解明は不可欠と考えています。
出雲の皆さんに取り組んでいただきたいと考え、この一文をまとめました。
本ブログの「縄文論」としても、縄文巨木建築と大国主の出雲大社や邪馬壹国(やまのいのくに)時代の吉野ヶ里遺跡や原の辻遺跡の「楼観」との関係について解明をすすめる参考にしていだければと思います。 雛元昌弘
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)
2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/