ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート78 「大黒柱」は「大国柱」の「神籬(霊洩木)」であった

 「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル))において、私は縄文時代の竪穴式住居は四角の柱組からすれば四角の平面形にするのが自然であるにも関わらず、円形平面にするのは不自然であり、そのルーツがアフリカの円形平面住宅にあり、Y染色体Dグループの縄文人の移動とともに日本列島に伝わった可能性が高いことを明らかにしました。

 では、大黒柱を中心にした「田の字型」の農家・民家住宅のルーツはどこにあるのでしょうか? アフリカルーツの円形平面の竪穴式住居ではなく、なぜ「田の字型」の農家・民家が標準プランとして登場したのでしょうか?

 結論からいうと、死霊・祖先霊を神籬(霊洩木)から天に送り、迎える「心御柱(しんのみはしら)」の周りに部屋を配置した大国主の「田の字型」の出雲大社の建築プランを受け継ぎ、「心御柱=大国柱(おおくにはしら)」を「田の字型」の中心に置いた高床式の農家・民家住宅となり、紀元4~8世紀の天皇家の権力奪取により倭音倭語の「大国(おおくに)」が呉音漢語で「ダイコク」と読まれ、「大黒柱」と漢字表記されるようになった、と私は考えています。

 縄文時代からの神籬(霊洩木)信仰を受け継いだ、大国主の八百万神信仰の心御柱を中心とした「田の字型」神殿から、死ねば誰もが神となる八百万神信仰により「田の字型」農家・民家が全国に普及し、竪穴式住居に置き換わったと考えます。

 「縄文文明の世界遺産登録」を目指すならば、「縄文時代」=未開社会、「弥生時代」=文明社会としてきた「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服説」の空想を乗り越え、縄文社会から連続したスサノオ大国主一族の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰に基づく建国とそれを受け継いだ日本の文化・文明の姿を「全世界の文明」の中に位置付ける必要があると考えています。

 これまで述べてきたことと重複しますが、以下、お付き合いいただければ幸いです。 

 

1、『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』での位置づけ

 私は『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(2009年)において、出雲大社本殿と「田の字型住宅」の関係について次のように書きました。

 

 この出雲大社の神殿の特徴は、二つある。一つは、極端な高床式の建物であるということであり、もう一つは、部屋の中央に心柱を置き、田の字型に七本の柱を配置し、切妻型の屋根をもった様式である。

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 高いことはより天に近づくことであり、霊を信仰する宗教的な権威をより高めることが目的であったと考えられる。また、対馬・筑紫、越方面から、年に一度、八百八十の神々が航海してきた時の目印とするためであったとも考えられる。海から見ると陸地は平板に見え、上陸地点を見逃す心配があるが、そびえ立つ出雲大社灯台に匹敵する目印となったと考えられる。

 もう一つは、大国主神の住まいとしての形式である。わが国の田の字型の伝統的な建物では、土間から見ると、左手奥が床の間や仏壇のある上座(床の間)で、右手奥は、建物の主の寝室(納戸)になる。出雲大社は、床の間の位置に「別天津神五柱」を祀り、納戸の位置に大国主神を祀っている。記紀が描くとおりに大国主神の「住所」「天の御舎」(宮殿)であったことが明らかである。また、部屋中央の心柱は、祖先霊が降り立つ「御柱」の可能性が高く、もともとは、心柱のまわりに部屋を付けた建物であったと考えられる。

 

 ここでは「心御柱」を、記紀でイヤナギ・イヤナミが「天御柱」を回って結婚を祖先霊に誓い、セックスしたということに重点を置いて書いていますが、「大黒柱」の名称で今も伝わっていることについても書くべきでした。

 

2.日本大百科全書(ニッポニカ)の「大黒柱」の説明

 日本大百科全書(ニッポニカ)は大黒柱について、「大極柱とも書く。構造上もっとも重要な柱で、他の柱に比しとくに太い材料を用いる。その点では、神社建築の「真の御柱(みはしら)」にも匹敵する。通常は土間と床上部分との境の中央の柱をいうが、田の字型間取りの場合、中央の交差点に建つ柱をいうこともある」としていますが、この記述は皇国史観に忖度(そんたく)した、スサノオ大国主一族の建国という真実の歴史から目を逸らせる記述と言わざるをえません。

 「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」で私は「心柱」について次のように書きました。

 

⑦ 6世紀頃からの日本の仏塔

 日本の仏塔は、中国の仏塔のような人々が昇ることのできる「高楼」ではなく、「心柱」を守る庇を何重にも付けたものであり、霊(ひ)が昇り降りてくる神籬=御柱信仰をもとにして、釈迦の仏舎利(遺骨や宝石)を崇拝対象とする「仏塔」とした独特の建築です。

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 天皇家が仏教を国教とした後にも、縄文時代から続く天神信仰の神籬=御柱信仰は形を変えて生き続けたのです。ちなみに、仏教では死者は極楽行か地獄行の一方通行であり、盆正月や祭事にこの世と行き来することはありません。

 

 出雲大社で「心御柱」とされ、仏塔の中心の「心柱」とされる柱を、「真の御柱(みはしら)」と書く日本大百科全書は、出雲大社から農家・民家建築、仏塔に続く建築様式の伝統を隠蔽しています。

 

3.「神籬」「天御柱」「天比登都柱」と「大柱・立柱」

 「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」では、神籬(ひもろぎ=霊洩木)やイヤナギ・イヤナミの「天御柱」や壱岐の「天比登都(ひとつ)柱」、平原遺跡の「大柱」、吉野ヶ里遺跡の「立柱」、広峯神社諏訪大社の「御柱祭」について、次のように書きました。

 

① 神籬(ひもろぎ=霊洩木)

 神籬(ひもろぎ=霊洩木)は祖先霊の依り代となる木であり、宗像大社の高宮祭場は神籬を四角の石の方壇で囲っており、地上の四方を支配する王の霊(ひ)が天から降りて留まり、また天に帰る祭祀の場です。

 

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 ② イヤナギ・イヤナミ神話の「天御柱

 古事記日本書紀などは、イヤナギ(伊邪那岐・伊耶那岐)・イヤナミ(伊邪那美・伊耶那美)は「天御柱(あめのみはしら)」と「八尋殿(やひろどの)」のある出雲の揖屋(いや)に降り立ち、「天御柱」を左右に分かれて廻り、始めてセックスして神々を産んだとしています。この神話は祖先霊の宿る神籬である「御柱」を廻って霊継(ひつぎ)を誓う宗教があったことを示しています。

 この記紀神話は、この「天御柱」が揖屋の「イヤナミ」の祖先霊の依り代、神籬(ひもろぎ=霊洩木)であることを伝えており、天(海人族が拠点とした玄界灘壱岐対馬の海域)から対馬暖流を下って揖屋にやってきたのはイヤナギ・イヤナミの夫婦神ではなく「ナギ」だけであり、この地の「イヤナミ」に妻問いして結ばれ、入り婿となって「イヤナギ」を名乗ったことを示しています。古代天皇31~50代の即位年からの最小二乗法による回帰計算では、紀元50年頃のことになります。

 

③ 壱岐の古名の「天比登都(ひとつ)柱」と魏書東夷伝倭人条の「一大国(いのおおくに)

 古事記壱岐の古い名前を「天比登都(ひとつ)柱」としており、これは魏書東夷伝倭人条が壱岐を「一大国(いのおおくに)」と記していることと符合します。壱岐は「壱城」であり、「天城(甘木)」「間城(真木・巻)」名や新羅(しんら)を「しらぎ」と呼んだように、城柵で囲まれた初期の「都市国家」を示していますが、元々は「壱=一=委」の国であり、そこでは御柱信仰が行われていたことを示しています。

 

④ 王墓の前の大柱(平原遺跡)と立柱(吉野ヶ里遺跡

 魏書東夷伝倭人条で伊都国とされる福岡県糸島市1800年前頃(筆者説では筑紫大国主王朝の14・15代目頃)の平原遺跡1号墓の前には直径70㎝の大柱が立てられ、吉野ヶ里遺跡の紀元前1世紀頃の北墳丘墓前にも立柱が立てられており、死者の霊がこの御柱から天に登り、祭事には降りてくるという宗教であったことを示しています。

 

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⑧ 現代に続く諏訪大社御柱祭広峯神社御柱焚き上げ神事など

 スサノオと御子のイタケル(五十猛:一=壱=委のタケル)を祀る「牛頭天王総本宮」の広峯神社(京都で疫病が流行った時に八坂神社へ神霊を移す)や、スサノオの子の物部氏の洩矢氏と大国主の子の建御名方を祀る諏訪大社の起源は紀元1~2世紀に遡ります。この両社などの御柱は神籬(ひもろぎ)であり、広峯神社御柱焚き上げ神事や諏訪大社御柱祭の起源はスサノオの建国時代にさかのぼり、さらにそのルーツは縄文時代からの神籬(霊洩木)信仰や神名火山(神那霊山)信仰の天神信仰と考えられます。

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 考古学者・歴史学者は.遺跡から発掘された柱跡から「見張り台」や「大柱・立柱」を再現してみせていますが、記紀に書かれた「神籬」「天御柱」「天比登都柱」や播磨・諏訪に伝わる「御柱祭」との関係を無視し、神木(神籬:霊洩木)や神名火山(神那霊山)から死霊・祖先霊が昇天・降地するという縄文時代からスサノオ大国主建国に続く八百万神の天神信仰を隠蔽しています。

 単なる「物(ぶつ)の分類を科学と考えるタダモノ主義」「閉じ籠りのセクト主義」ならいいのですが、「世界を照らすアマテル太陽神信仰」に忖度し、「スサノオ大国主建国」の正史を隠蔽しようとしているなら歴史をイデオロギーで改ざんする悪質な行為です。

 桓武天皇の第2皇子の52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っており、スサノオこそが「皇国の本主」の「天王(てんのう)」と認めているのです。ほとんどの考古学者・歴史学者古事記日本書紀の神話を無視し、歴代天皇のうちの第1級の文人である嵯峨天皇のこの判断を無視しているのですが、みなさんはどちらを信用されるでしょうか?

 縄文時代=未開社会、弥生時代=農耕開始=文明社会というフィクション(虚構)から目を覚ますべきでしょう。

 

4.出雲の「大黒山」は「大国山」

 縄文論からは横道に逸れますが、「大黒」=「大国」であることを示す例が、出雲にもあります。

 2020年1月28日のブログ『ヒナフキン邪馬台国ノート』の「纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」から、関係部分を添付します。

https://blog.seesaa.jp/cms/article/edit/input?id=473308058

 

4.出雲の神庭・神原に見られる「直線配置」と「二等辺三角形配置」

 この纏向の「直線配置」と「二等辺三角形配置(神那霊山形配置)」が単なる偶然ではないことは、出雲の神庭・神原にも2つの「直線配置」と2つの「二等辺三角形配置」が見られることから証明されます。

図2のように、出雲には大黒山と権現山を起点にして、次のような遺跡配置が見られます。

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① 大黒山と権現山・加茂岩倉遺跡・神原神社遺跡が直線配置

図2 大黒山と荒神谷・加茂岩倉・神原神社、権現山、神代(かむしろ)神社の位置関係

② 権現山と神代(かむしろ)神社、荒神谷遺跡、出雲郡家(役所)、西谷墳墓群が直線配置

③ 大黒山を頂点に荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡が二等辺三角形配置

④ 権現山を頂点に荒神谷遺跡、大黒山が二等辺三角形配置

 

 大黒山の頂上付近には兵主(ひょうず)神社が、権現山の麓には神代(かむしろ)神社があり、出雲国風土記大原郡神原郷には「所造天下大神之御財 積置給處也」と記載され、それを裏付けるように神原の加茂岩倉遺跡からは39個もの銅鐸が発見されています。

 なお、神庭(かんば)の神代(かむしろ)は「神城(かむしろ=かんき)」であり、三輪の「間城(まき:真木)」、「纏向(間城向)」地名とも符合します。 

 

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大黒山頂上付近の兵主(ひょうず)神社 紀元前2世紀頃には数学書『周髀算経(しゅうひさんけい)』ができており、それを入手していれば、三角形の相似から紀元1~4世紀頃に1000~2000mの距離を正確に測ることができたと考えられます。

 大和の纏向・三輪と出雲の神庭・神原において、それぞれ神那霊山を起点にして「直線配置」と「二等辺三角形配置(神那霊山形配置)」が見られることは、共通する王朝による神那霊山信仰と、王たちの山頂からの「国見」による施設配置計画、建造に携わる同じ技術者集団がいたことを示しています。

 

 ここでも大国主兵主神)を祀るもともとは「大国山(おおくにやま)」であったものが「大黒山(だいこくやま)」とされており、大黒柱と同じ言い換え・書き換えが行われています。大黒山と大国主の関係をブログ『真理探究と歴史探訪』掲載の写真から借用して添付します。

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 また、密教の伝来とともに大国主はインドの大黒天(ヒンドゥー教シヴァ神:もっとも重要な3神の1神。世界の創造、維持、再生を司る最高神)と習合され、「大黒さん・大黒様」の像・絵として親しまれていることはご存じと思います。

 

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 この「大国」隠しのように、記紀や神社伝承などの分析にあたっては、呉音漢語・漢音漢語による天皇家の歴史改ざんの下に巧妙に隠されている倭音倭語によるスサノオ大国主時代の歴史を探究する必要があります。

 「大和」を「やまとこく」ではなく「おおわのくに」と読み、「邪馬壹国」を「やまいちこく」と読むのではなく「やまのいのくに」と読むところから、分析を行うことが求められます。呉音漢語・漢音漢語を習いながら、倭音倭語を手放すことがなった倭人の主体的・内発的な言語・文化構造にたった分析が求められます。

 

4.「丸型平面」と「田の字型平面」住宅からの縄文からの重層的文明論

 「和魂漢才」「和魂洋才」の拝外主義の伝統では、縄文時代=野蛮・未開段階、「弥生人朝鮮人・中国人)による稲作開始と天皇家の建国」=文明段階という空想が定説とされ、日本は仏教国、儒教国として中国文明の一部とされていますが、「丸型平面」と「田の字型平面」の住宅文化からそのような説が成立するでしょううか?

 竪穴式円形住居も田の字型農家・民家も朝鮮・中国起源の住文化とは言えませんし、私の岡山県兵庫県の祖父母の家とも屋内には「神棚と仏壇」、敷地内には屋敷神の「祠」があり、朝鮮・中国起源とは思えません。

 円形住居はアフリカに広く見られ、大黒柱を中心に建てた田の字型農家・民家は大国主出雲大社を原型としていることが明らかです。

 鹿児島県南さつま市栫ノ原遺跡や霧島市の上野原遺跡などに見られるように、縄文時代から中世まで多くの集落遺跡が連続していることからみても、縄文1万数千年の歴史と部族社会段階のスサノオ大国主建国は連続しており、住文化や倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造と同じように内発的発展をとげているのです。

 「縄文文明論」においては、このような重層的に現代にまで続く連続性を重視した文明論とすべきであり、なによりもユネスコ無形文化遺産の「和食」とスサノオ大国主一族の「山・鉾・屋台行事」「4宗教世界遺産厳島神社熊野古道、富士山、宗像・沖ノ島)」と連続した位置づけが必要と考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/