ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート36(Ⅲ-6) 火焔型土器から「龍紋土器」へ

 霊(ひ)信仰からスサノオ大国主建国論を書き、邪馬台国論へと進めた私は、霊(ひ)信仰から縄文研究に入り、母系制社会の地神(地母神)信仰と天神信仰・山神信仰(神那霊山信仰)・神籬(霊洩木)神木信仰・性器信仰、龍宮神話の龍神信仰と海蛇信仰、蛇や鳥・猿・鹿・オオカミ等の神使信仰などが縄文時代に遡るかどうか、ずっと考え続けてきました。

 本稿は龍神信仰が縄文時代に遡るということを明らかにするとともに、そのルーツが東南アジアにあり、ドラヴィダ海人・山人族により日本列島に伝えられたことを火焔型土器の把手飾りやスサノオ大国主一族の諏訪の神長官守矢家の「みしゃくじ信仰」などから解明したものです。

 夏の縄文社会研究会(東京)の八ヶ岳合宿に関連して作成したレジュメ32のうち、12月からこのブログ「ヒナフキンの縄文ノート」に掲載を開始して17しかアップできませんでしたが、御愛読ありがとうございました。

 1月中には掲載を終え、日本列島人・倭語起源論や宗教論などから、今度はスサノオ大国主建国論、古事記論、邪馬台国論へと波及させていきたいと思います。

                                                                                                  201231 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

        Ⅲ-6 火焔型土器から「龍紋土器」へ

                    200903→09→1016→1231 雛元昌弘

1.火炎型土器・龍神信仰についてのこれまでの考察(再掲)

⑴ 縄文ノート32 縄文の「女神信仰」考 200730→0825 

 古事記はこの国の始祖神を、出雲大社正面に祀られた天之御中主(あめのみなかぬし)・高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かみむすひ)ら5神とし、日本書紀は高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)と表記していることからみて、この霊を産む「二霊」=夫婦神を霊人(ひと)・霊子(ひこ)・霊女(ひめ)らの実際の始祖神としていることが明らかです。古事記序文では「二霊群品の祖となりき」とはっきりと宣言しているのです。

 天皇家皇位継承の「日嗣」は本来は「霊継」であり、柩・棺は「霊(ひ)の容器」であることを示しており、甕棺や柩、墓室内が朱で満たされているのは、血で満たされた子宮に模して再生を期待していたことを示しています。

 大きな宗教的・文化的な断絶がなかったとすると、縄文人もまた「(ひ)・霊(ひ)継信仰」であり、霊(ひ)を産む女性を大事にし、無事な安全と子だくさんを祈って女神像を造るとともに、地母神の霊(ひ)が宿る妊娠土偶を安産のお守りとして造り、子どもが無事に生まれるとその土偶を壊して大地に帰したと考えられます。・・・

 「縄文のビーナス」「仮面の女神」「始祖女神像」「縄文の女神」や、多くの妊娠土偶からみて、この女神像や妊娠土偶が「死者の霊(ひ)が大地に帰り、再び黄泉帰る」という「地神(地母神)信仰」「霊(ひ)信仰)」「霊(ひ)継信仰」に由来していることについては、納得されると思います。

 同時に、「霊(ひ)が大地に帰り、再び黄泉帰る」という再生信仰、黄泉帰り信仰は、植物が冬に枯れ、地下茎や地面に落ちた種子から植物が春に再生する現象や、山火事で焼けた土地から植物を生えてくるのを見た古代人は植物の「霊(ひ)」が受け継がれたと考え、大地を霊(ひ)を産む母として考えた可能性があります。・・・

① ストーンサークルは「地神の女性器」、円形石組と石棒は「地神の女性器に立てた男根」・・・

② 出産文土器(北斗市の津金御所前遺跡)は女性をシンボル化・・・

③ 埋甕(うめがめ:塩尻市の平出遺跡)は霊(ひ)の再生を願う・・・

 

⑵ 縄文ノート33 「大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文201004→200726→0802

 「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」と主張し、「火炎型縄文土器」を深海のシンボルとしてみていた岡本太郎さんは、この地下に置かれていた顔は大地ではなく、生命の源である「海の顔」としてデザインしたと私は考えます。

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 「生命の樹」のオブジェのスタートを原生類時代におき、三葉虫時代、魚類時代、両生類時代と海に生きた生物にこだわっていることからみても、この顔は「地中生物」の顔ではなく「海の顔」であり、波うつ海の中の生物の誕生を象徴しているように見えます。

 死後の世界を古事記は「黄泉国」としていますが、倭語の「よみ」は「夜海」(暗い海の底)ではないか、と私は考えています。海人族は「魚や人は海から生まれ、海に帰る」という海神信仰、縄文農耕民は「生物は大地から生まれ、大地に帰る」という地神信仰(地母神信仰)と考えてきましたが、漢語の「黄泉」を当てていることをみると、「黄色い羊水=泉」の中からから生まれる人は、母なる海、海に繋がる地底の泉に帰る、と信じられていたのではないでしょうか?

 「生命の樹」の4つの顔は、一番上は「鳥の顔」、正面は矛盾を抱えた「人の顔」、地下の顔は生命の源である「海の顔」、背中は「地上の太陽=原発」をシンボル化したものと考えます。

 「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」と主張し、「火炎型縄文土器」を深海のシンボルとしてみていた岡本太郎さんは、海人(あま)族の「龍宮(りゅうぐう・りゅうきゅう)」が「琉球(沖縄)」であり、縄文人のルーツが龍宮であり、海人族の始祖が琉球の始祖のアマミキヨであることを見抜いていたのではないでしょうか?

 

⑶ 縄文ノート33 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考 200731→0825

 諏訪大社の元々の祭主である神長官守矢邸の屋敷神の「神長官邸みさく神境内社叢」では、神木・かじのきを「みさく神」(御左口神、御頭みさく神)として祀っており、霊(ひ=魂=祖先霊)が神木に憑りつくという、地母神信仰の「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」信仰を示しています。さらにその背後には三角形の「神名火山(神那霊山)」があり、「神籬」信仰と「神那霊山」信仰が繋がることを示しています。

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 洩矢氏(守矢氏の古名)の祀る諏訪大社上社前宮の本殿背後の巨木(樹種不明)と四周角の御柱もまた神籬信仰を示しており、背後の山の源流を「水眼(すいが)」として信仰した水神信仰も見られます。

 水蒸気が天に昇り、雨(あめ=あま)となって山に降り、源流となって川から海に注ぎ、大地にしみ込んだ水は「黄泉=夜海」となり海と繋がるという水の循環に人(ひと=霊止)の死と再生を重ね、「天神-山神-木神―地(地母)神-水神-海神」を統一した信仰が生まれたと考えられます。

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 この水の循環から、天から山、巨木に降りてくる雷神信仰が生まれ、地下と川、海を行き来する海蛇・蛇を神使とする蛇神(龍神)信仰が生まれたと考えられます。

 土偶や土器の蛇文様や出雲大社の神使が海蛇であり、大神神社(大美和神社)の神使が蛇であることから見ても、天神信仰縄文時代前期の6000~5000年前頃に遡り、1~2世紀のスサノオ大国主7代の建国と繋がっています。

 

⑷ 縄文ノート35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰 200807→16→25

 この比婆山は河口の出雲大社のある斐伊川の源流域になりますが、現在の広島県側にあり、南に流れて三次から西北に流れを変えて日本海にそそぐ江の川の源流となっています。またこの山域から鳥取県を西に流れて日本海にそそぐ日野川があり、広島県から岡山県に向かって瀬戸内海にそそぐ成羽川高梁川の源流域でもあります。

 海岸から内陸部に進出した海人族にとって、天から降ってくる雨を集め、海にそそぐ川の源流の山岳地域は天と海を繋ぐ接点として、海人族の魂が天に昇る場所として考えていた可能性があります。

 出雲大社は神使の海蛇を「龍神様」として祭り、神紋の六角紋は通説では亀甲紋とされていますが、正式には海蛇神・龍神信仰の龍鱗紋(りゅうりんもん)であることからみて、海人族の天神信仰は雨をもたらす「龍神信仰」であったとみられます。

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 海底を泳ぐ海蛇を神使とする海神信仰、地にもぐり巣を作る蛇を神使とする地神信仰に加えて、天から雨をもたらす龍を神使とする天神信仰として繋がっており、河川の源流域は死者の霊(ひ)が天に登り、降りて来る霊場(ひば=霊那)として信仰対象となっていたと考えられます。このイヤナギ・イヤナミ神話は紀元1世紀のことですが、その起源はさらに古い可能性があります。

 井戸尻考古館では、藤内遺跡出土の「巳を戴く神子」の頭の髪を束ねた形を蛇とみていますが、縄文時代に蛇信仰があったとすると、川の源流域の神那霊山信仰は縄文に遡る可能性がでてきました。

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 ⑸ 縄文ノート23 八ヶ岳合宿報告 200808→14→22→31→0903

 日本発の文化として「Emoji(絵文字)」は今や世界標準となっており、線画による浮世絵・劇画・アニメも日本文化として世界に認められています。

 縄文土器の多様な模様はまだ解明されていませんが、サイン・シンボルとして象形文字の前段階の絵文字の可能性があり、今後、さらに検討を進めていくことになりました。縄文絵文字文化があったことにより、象形文字である漢字のスムーズな受け入れと、表音文字と組み合わせた独自の発展に繋がった可能性があります。

 「縄文絵文字説」の方法としては、私たちは「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説」をとりませんから、中国の模様にルーツを求めたり、世界各国の古代模様からヒントをえるのではなく、紀元1~4世紀のスサノオ大国主王朝やその後の歴史的な文様の中から遡って絵文字の意味を解明したいと考えます。

 

⑹ まとめ

① 縄文人は「霊(ひ)・霊(ひ)継」信仰であり、縄文人はDNAの働きを「霊(ひ)」とみていたと考えられます。「ひもろぎ=霊洩木」の当て字に「神籬」=「神+竹+離」としているところを見ると、霊(ひ)=神として、竹垣で囲って崇拝したと考えられます。

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② 海人族である縄文人は「魚や人は海から生まれ、海に帰る」という海神信仰を持ち、海からの生物進化を考えていた可能性があります。

③ 雨が天から山に降り、川から大地を潤し、海に注ぎ、水蒸気や湯気となって天に昇るという水の循環を古代人は理解し、天と川・大地・海を繋ぐ神使として「海蛇神・蛇神信仰」行うようになったと考えられます。

 わが家の子どもたちは『しずくのぼうけん』という絵本が大好きでしたが、子どもたちと同じように縄文人もまた降る雨と立ち上る水蒸気・湯気の関係に興味と持ったに違いない、と私は類推しています。

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④ 天と地・海を繋ぐ「龍神信仰」は、この「海蛇神・蛇神信仰」から生まれ、縄文時代に遡る可能性があります。

⑤ この「龍神」信仰は「蛇神・天神」信仰の縄文人オリジナルというより、日本列島にたどり着いた人々がヒョウタンやイネなどとともに伝えた可能性があると考えます。

 

2.夏王朝龍神信仰

① 2020年8月27日にNHK・BSの「古代中国 よみがえる英雄伝説 『伝説の王・禹~最古の王朝の謎~』」(2013年2月7日の再放送)などによれば、中国最古の夏王朝(4080~3610年前頃)の王都が黄河中流二里頭遺跡で確認され、粟・黍・小麦・大豆・水稲の五穀を栽培し、人口2万人以上を擁し、トルコ石の龍の杖と青銅の鈴、銅爵(どうしゃく:酒器)、宮殿区、龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう:刀型の儀礼用玉器)が発掘されたとしています。

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 ② 玉璋は中国各地やベトナムで発掘され、番組では夏の龍信仰が各地に広まったかのように述べていましたが、ベトナム四川省の龍の形がリアルであるのに対し、二里頭のものはより抽象化されてシンプルになっており、「考古学のデータ限界の法則」は免れませんが、むしろ南方系の起源であり、長江流域を経て、黄河流域に広まった可能性があります。    f:id:hinafkin:20201231152743j:plain

 ③ ウィキペディアは「竜の起源は中国」としていますが、「インドの蛇神であり水神でもあるナーガの類も、仏典が中国に伝わった際、『竜』や『竜王』などと訳された」としており、中国起源説とともに、インド起源説、東南アジア起源説を検討する必要があります。

④ 足があり、頭や背中に突起のあるデザインは蛇からとは考えれられず、トゲ状のウロコで覆われているインドネシアパプアニューギニアのアカメカブトトカゲやニューギニアカブトトカゲ、スリランカアンダマン諸島ミャンマー・マレーシア・インドネシアベトナム・中国南部等の最長250㎝にもなり水によく入り泳ぎや潜水も上手いミズオオトカゲの姿が蛇神信仰と結びついて「龍」となった可能性が高いと考えます。

        

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⑤ ベトナムの玉璋には牙があるように見えるのに中国のものにはないこと、龍に「人食い伝承」がなく雨を呼ぶ神、神使として信仰されていること、胴体が長く細い「蛇」と合体した姿としていることからみて、カブトトカゲとヘビを合体させ、水神であり天神でもある「龍」が創作されたと考えられます。

 カブトトカゲ、ミズオオトカゲの生息地から見て、「龍伝説」は東南アジアで生まれ、長江流域から黄河流域へと広がった可能性が大きいと考えられます。

⑥ 日本とチベットアンダマン諸島ミャンマーの南のインド領)に見られるY染色体Ⅾ系統や日本語タミル語起源説(ドラヴィダ語系)からみて、日本列島人はドラヴィダ系海人・山人族がルーツと考えます。

―縄文ノート25 「人類の旅」と「縄文農耕」と「三大穀物単一起源説」(140613→190131→200730)参照

 

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 エジプト・メソポタミアと活発に交易していたインダス文明の担い手であったドラヴィダ系海人族はスリランカミャンマーアンダマン諸島へと広がり、後にドラヴィダ系山人族とともにミズオオトカゲの生息地のスダンランドへ移住し、この地域の蛇信仰とミズオオトカゲが結び付いて「龍」信仰となり、竹筏と丸木舟により日本列島に縄文時代に持ってきた可能性が高いと考えます。

 

3.日本の龍神信仰:ミシャクジ神と龍宮(琉球)と鮫(和邇

① ウィキペディアは「龍」について「様々な文化とともに中国から伝来し、元々日本にあった蛇神信仰と融合した」としていますが、海の道を通り、ヒョウタンやウリ、米などとともに、「主語-目的語-動詞」言語のドラヴィダ族が北東アフリカ(アフリカの角と言われるエチオピアあたり)からインドに渡り、さらに西へミャンマーアンダマン諸島を経て、スンダランドへ渡ったドラヴィダ系海人・山人族が1万数千年前頃から何次かに分かれて日本列島へと移動し、龍神信仰を伝えた可能性が高いと考えます。

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② 「蛇」と「龍」は、米などの「5穀名」や「神」などの名詞と同じく、和音・呉音・漢音の3重構造になっており、中国から呉音・漢音が伝わる以前に蛇(へび、み)、龍(たつ)の倭音・倭語があり、続いて紀元前3世紀頃に呉音「ジャ、タ」「リュウ」、さらに委奴国王(筆者説はスサノオ)が後漢卑弥呼(同・大国主筑紫王朝11代目)が魏へ使者を送るようになった紀元1~3世紀頃に漢音「シャ、タ」「リョウ」が伝わった可能性が高いと考えます。

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③ ちなみに、鰐(わに)、鮫(さめ)、蜴(とかげ:蜥蜴)には和音の呼び名しか通用しておらず、中国語との交流が始まる以前から、日本列島に南方から持ち込まれた呼び名の可能性が高いと考えます。

④ 諏訪大社の神長官守矢家の奥の『みさく神境内社叢』の「みさく神=ミシャクジ神(御左口神)」は、漢音だと「シャ=蛇」であり「御蛇口神」の可能性があり、信仰の対象であった神籬(ひもろぎ:霊洩木)の下に蛇の巣があり、霊(ひ)を運ぶ神使として蛇が信仰されていた可能性があります。

 縄文土器土偶の「蛇紋様」にみられる蛇信仰が出雲大社の海蛇・龍蛇信仰、大神大社の蛇信仰とともにスサノオ一族の物部の守矢氏へ続いたと考えられます。

⑤ また諏訪大社前宮では背後の山の「水眼(すいが)」(倭音だとみずのめ:め=芽)と呼ばれる源流を信仰の対象としており、海人族にとっては海にそそぐ川の源流が天と繋がる聖地として考えていたことを示しており、天神信仰からきた神那霊山信仰(山神信仰)と源流信仰(川神信仰)、神那霊山から移した神木信仰(神籬信仰)と、海神信仰・蛇神信仰の統一が見られます。

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⑥ 記紀によれば、薩摩半島西南端の笠沙(かささ)天皇家3代(ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズ)の2代目ホオリ(山幸彦)は兄のホデリ(海幸彦)から借りた釣り針を失くし、小舟に乗って綿津見(ワタツミ)神=海神の「如魚鱗所造之宮室(魚鱗のように造った宮室:瓦葺きを指すと思われる)」の「綿津見神之宮」に行き、娘のトヨタマヒメ(豊玉毘売)と結ばれて3年を過ごします。ワタツミは魚たちを集めて釣り針を捜しだし、ホオリはトヨタマヒメと鮫に乗って国に帰り、兄に釣り針を返したとしています。

 トヨタマヒメは鵜の羽で産屋を作る間もなく3代目ウガヤフキアエズ(鵜葺草葺不合)を産みますが、ホオリが約束を破って産屋を覗いたので、トヨタマヒメ(豊玉毘売)は古事記では「和邇:わに」、日本書紀では「鰐」「龍」であるところを見られて恥じて海神の国に帰り(亡くなり)、妹のタマヨリヒメ(玉依毘売)がウガヤフキアエズを養育し、成人したウガヤフキアエズはこのタマヨリヒメと結ばれたとしています。

 そして、その子のワカミケヌ(若御毛沼命)ら4兄弟は日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備を8年間転々とし、浪速から大和に入ろうとしてトミヒコに敗れ、生き残ったワカミケヌが熊野へ迂回し、険しい山道を通って大和に入って建国し、初代神武天皇(8世紀に命名)となったとされています。

⑦ 古事記ではトヨタマヒメは「和邇(わに)」、日本書紀では「鰐」「龍」と書かれて、大和の初代神武天皇(ワカミケヌ:若御毛沼)の祖母と母は「龍」とされ、龍宮神話として広く知られていることは重要です。記紀は海神(綿津見神)の国を龍宮=琉球としているのです。

 ライブドアブログ「帆人の古代史メモ」の「琉球論2 『龍宮』は『琉球』だった 200201」参照

 これは琉球奄美大島風葬と洗骨が行われてきた風習が、天皇家の「殯(もがり)」として続けられたことや、女性器名の「ひー(ぴー)」「ひな」を伝えていることと符合します。

 ライブドアブログ「帆人の古代史メモ」の「琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言北進・東進論 200204」参照

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 ⑧ 古事記に書かれた大国主の紀元2世紀頃の「稲羽の白兎」伝説は、白兎が隠岐島(天之忍許呂別。海部郡(あまのこおり)が置かれた)から「和邇(鮫)」をだまして背中に乗って稲羽に来て毛皮をはがされていたのを大国主が助けたとされていますが、倭国にはいない「ワニ」名が登場することに注目したいと思います。

 ウィキペディアによれば、豪族・和珥(和邇)氏(春日氏はその一族:小野氏、柿本氏、粟田氏、大宅氏などはその支族)は龍蛇、鰐信仰を持つ海人族の安曇氏(志賀島を拠点とした綿津見3兄弟はスサノオの異母弟)と同族とされており、龍神信仰は海人族によって東南アジアから伝わった可能性を示しています。

 なお、私が中高時代を過ごした姫路市には「白国(しらくに)」地名があり、初期の都市国家には「城・木(き)」名が付けれられていることからみて「白国(しらくに)」は「白城(しらき)」であり、朝鮮名の「新羅(しんら)」を倭人は「しらぎ」と呼んでいることなどから、「稲羽の白兎」は「新羅(しんら=しらぎ)」系の女性ではないかと考えます。

⑨ 記紀は笠沙(かささ)天皇家2代目ホオリ(山幸彦)が訪ねた海神の「海宮(綿津見宮、魚鱗如造宮)」を「龍宮(りゅうぐう=りゅうきゅう」を訪ねて妻をえますが、遣隋使・遣唐使船で留学して龍が中国皇帝のシンボルであることを知っていた8世紀の記紀作者たちは「龍」字使用を避けたと考えられます。中国の史書でも、656年の隋書に「琉求」という名前が登場し、その後も「流鬼・留球・留求・留仇」名としているのは、同様に「龍」字を避けたからと考えられます。

 「宮」は和音では「みや」、呉音では「ク」、漢音では「キュウ」であり、呉音の「龍宮(りゅうく)」から「りゅうぐう」読みになり、さらに漢音が入ってた段階で「りゅうきゅう」読みに変わったと考えられます。

 なお、この兄弟の鉄の釣り針を巡る争いの神話は、邪馬壹国の後継者争いにより、新羅からの鉄の入手を断たれたホオリ(山幸彦)たちは琉球経由で中国の鉄を求めた歴史を神話的に表現したものと考えています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

⑩ 以上、諏訪の「ミシャクジ神」伝承や記紀大国主神話・笠沙天皇家神話からみて、龍神信仰は南方系海人族により東南アジアから伝わった可能性が高く、呉音漢語の中国黄河流域の伝承を受け継いだものではないと考えます。

 

4.火焔型土器の4つの縁突起模様の解明

① 文献からは「龍神信仰」の開始時期を確定することはできませんが、私は縄文時代中期(5400~4400年前頃)に信濃川中流域を中心にした「火焔型土器」の縁の上の4つの紋様から、「龍神」信仰は東南アジアから伝来し、中国の夏王朝(紀元前4080~3610年前頃)に先立って存在した可能性が高いと考えます。

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② 火焔型土器の4つの突起については、「火焔」説、「鶏頭冠」説、「水面を跳ねる魚」説、「四本脚の動物」説が見られますが、私は「龍神」説を提案します。

③ まずこの「火焔型土器」のデザイン全体ですが、岡本太郎氏が喝破したように、本体はどうみても水流と渦の水紋であり、縁にそった三角形は波でしょう。めらめらと燃え上がる火焔なら炎の先は胴の部分から連続して上に尖りますから「火焔」説は成立しません。また、三角形の鋸歯紋様を「山波」とみる説がありますが、これも胴部分の模様と連続しません。

 縁の三角波からみて、4つの突起を「鶏頭冠」「四本脚の動物」と見る説は成立しません。

④ さらに4本足で縁に立っている姿からみて、「2本足の鶏」説、「水面を跳ねる魚」説は成立しません。

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⑤ 「4本足で水の上を歩く」「頭と背中にギザギザがある」「尻尾をあげている」というデザインからみて、縄文人はカブトトカゲと蛇から空想上の龍をデザインした可能性が高いと考えます。

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 ⑥ 前掲の夏王朝などの「龍」は開けた口と背中と頭の突起をシンボルとしてデザインしているのに対し、縄文土器の突起デザインは開けた口がない代わりに4本足があり、頭や背中に突起があり、ジャンプした時に尻尾をあげるトカゲをヒントにして造形したと考えられます。

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  地下と海・川を行き来し、天に登り、雨を降らせ、死者の霊(ひ)を天に運ぶ蛇神に重ねて「龍神」を考えた可能性が高いと考えます。

⑥ トカゲはヤモリ(家守)など、日本で害虫を食べる益獣とされていますが、東南アジアにおいてもインドネシアコモドオオトカゲを除き、オオトカゲは人間に害を及ぼすことはなく、ネズミなどを駆除する益獣とされ、西洋のドラゴンとは違い、天と地、川や海を行き来し、雨を降らせる神として崇拝されています。

⑦ 縄文時代中期(5400~4400年前頃)の「龍紋付土器」は、中国・夏王朝(4080~3610年前頃)の「龍紋付玉璋(ぎょくしょう)」より古く、倭音倭語の「たつ」や「わに」「ワニ(鰐)」と「サメ(鮫)」の漢字の混同からみても、インドネシアなどのカブトトカゲとワニの伝承から独自に「龍神」を考え、霊(ひ)を天に運ぶ天神の神使、雨を降らせる水神として信仰し、祖先霊と共食するお粥や煮炊き料理から湯気を天に昇らせる土器鍋のデザインとした可能性が高いと考えます。

 日本列島には中国大陸・朝鮮半島の海人族が絶えず嵐によって漂着するともに、戦に追われた人々が逃げてきていた可能性が高く、毎年5人とすると縄文1万年の間には5万人になります。その案内で日本列島の海人族たちは中国・朝鮮沿岸と古くから交易していた可能性が高く、漢字など中国文明の影響を大きく受けていますが、より直接的には南インドミャンマーあたりの「主語-目的語-動詞」部族が龍神信仰を持って渡来し、土器鍋食をはじめとした縄文1万年の独自の文明・文化を育んだ可能性が高いことがこの「龍紋土器」からうかがわれます。

⑧ 現代考古学が明らかとした土器鍋と陸稲水稲栽培、鉄器稲作の開始時期からみて、バラバラの分類基準による「石器―縄文式土器弥生式土器―古墳」時代区分(イシ・ドキ・ドキ・バカ区分)やその焼き直しの「石器―縄文土器―稲作―前方後円墳」の時代区分、「弥生人による縄文人征服説」などが非科学的であることは明らかであり、「火焔型土器」についてもその名称を「龍紋土器」に変え、新たな食文化と信仰の誕生として縄文時代(土器時代)を考え、「石器―土器―鉄器」時代区分による内発的発展史観に転換を図るべきと考えます。

⑨ 縄文式土器は単なる水容器・貯蔵容器とみるべきではなく、米や粟などの穀物食への転換や料理方法を革命的に変え、霊(ひ)信仰を天神信仰と結びつけた大きな社会的・文化的・宗教的な転換を示しており、1つの文明の誕生と見るべきと考えます。

 その次の大きな転換はスサノオ大国主一族による鉄器を利用した沖積平野での水利水田稲作の開始による建国であり、弥生式土器は土器の単なる小改良にすぎません。イモや豆、雑穀栽培と平行して行われた天水による陸稲栽培(赤米など)や水辺水稲栽培の縄文農耕からの、鉄先鋤による沖積平野での大規模な水利水田稲作開始こそ百余国の統一を生み出した大きな時代転換と考えます。

⑩ 世界標準となった「Emoji(絵文字)」発祥の国として、「龍紋文様」の解明に続いて、象形文字の前段階の「縄文絵文字」全体の解明が求められます。

 「縄文絵文字文化・絵物語文化」があったからこそ、わが国では独自の漢字用法「倭語・倭文字」が発達し、「倭」を「人+禾(稲)+女」(女が稲を人に奉げる)、「委奴」を「禾(稲)+女+女+又」(女が稲を女性器(女の又)に奉げる)と解釈し、自ら「倭国」「委奴国」名を国書(上表文)に記したと私は考えており、このような倭流漢字用法による古代史の解明が求められます。

 7~9世紀の大和朝廷の遣隋使・遣唐使の漢音漢語の漢文崇拝の学者・官僚の伝統から離れ、孔子(紀元前5~5世紀)が「道が行なわれなければ、筏に乗って海に浮かぼう」と述べ、陳寿(ちんじゅ)が三国志魏書東夷伝の序で「夷狄(いてき)の邦(くに)といえども、俎豆(そとう)の象(しょう)(祖先霊を祀る祭祀)存り。中國礼を失し、これを四夷に求む、猶(な)を信あり」と書き、朝鮮半島の鬼神信仰に対し、卑弥呼にだけ「鬼道」という尊称にしたのは、彼らが倭国を「道・礼・信の国」とみていたことを示しています。

 「卑」字を漢字分解すると「甶(頭蓋骨)+寸」で、祖先霊が宿る頭蓋骨を手で支える字になり、「鬼」字は「甶(頭蓋骨)+人+ム(私)」で頭蓋骨を掲げる人を座った私が崇拝するという字になりますから、卑弥呼も鬼道もまさに「道」(天道・人道)の国を表しているのです。

 左右の拝外・被虐史観のイデオロギーから離れ、「縄文時代スサノオ大国主建国が連続している」というところから、新たな「日本列島文明論」と「縄文文明」の解明が求められます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論         http://hinakoku.blog100.fc2.com/