ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート35(Ⅲ-5) 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰

 2020年8月の縄文社会研究会・東京の八ヶ岳合宿で、私は茅野市の中ツ原遺跡と原村の阿久遺跡から蓼科山信仰を確認でき、諏訪大社の神長官守矢邸のみさく神(ミシャクジ神)社叢と合わせて縄文時代天神信仰(神那霊山=神名火山信仰)があったことを確信し、この「蓼科山を神那霊山(神奈火山)とする天神信仰」にまとめました。

 私は西欧基準の「4大古代文明説」や、日本列島文明が黄河長江文明の支流であるという日本文明2次文明説」や「縄文未開時代説」「弥生人朝鮮人・中国人)による縄文人征服説・水田稲作開始説」「弥生人天皇家による建国説」などの「西欧文明史観」「外発的発展史観」「武力征服史観」を批判してきました。そして、海人・山人族の縄文時代からの産業・生活・社会・文化の発展として1・2世紀にスサノオ大国主7代の鉄器水利水田稲作による百余国の建国が行われたという「内発的・自律的発展史観」を提起するとともに、世界史において「共同体文明」という時代区分が必要であると主張してきました。

 具体的には「日本中央縄文文明の世界遺産登録」運動を通して世界に縄文文明をアピールする必要があると考えていますが、その鍵となるのが蓼科山の神名火山(神那霊山)信仰・霊神(ひじん=びじん)信仰であり、それを証明する2つの遺跡の再発掘・再整備が必要と考えています。中ツ原遺跡と阿久遺跡は日本列島人のルーツから縄文史、日本古代史、共同体時代世界史の解明に繋がる重要な役割を果たすと確信しています。

                             201029 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

  

    Ⅲ-5 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰

                                                                                               200807→25→1229 雛元昌弘

 1.これまでの主張:スサノオ時代の地神・海神信仰から,大国主天神信仰

 記紀神話のイヤナギ(伊邪那岐:通説はイザナギ)が殺したカグツチの血・死体からの神々の誕生神話、イヤナギのイヤナミ(伊邪那美揖屋の王女か。通説はイザナミ)の黄泉国訪問の神話とスサノオが殺したオオゲツヒメ(大宜都比売)からの五穀誕生神話、出雲大社の神使の海蛇(龍神様)、大物主大神スサノオ)を祀る美和(三輪)の大神(おおみわ)神社の神使・蛇などから、私は紀元1世紀のイヤナミ・スサノオ時代は地神・海神信仰と考えてきました。

 さらに、スサノオ10代目の大国主と大物主が協力して国づくりを行う条件として大国主は大物主(スサノオの子の大年から代々襲名)を美和山(三輪山)に祀るという記述、出雲大社の「心御柱」を中心にした「天御巣」「天御舎」の名称から、2世紀の大国主時代に入り、八百万(やおよろず)神の「死ねば誰もが神になる」という天神信仰に代わった、と考えてきました。 

      f:id:hinafkin:20201226113205j:plain

 しかしながら、記紀分析からのこの判断は間違っており、天神信仰縄文時代に遡ることが中ツ原遺跡と阿久遺跡から明らかとなりました。

 

2.地神・海神・天神信仰縄文時代に遡る可能性

 2019年10月末にあるOB会のついでに長野県茅野市の中ツ原遺跡を見学し、地神(地母神)信仰の「仮面の女神像」の埋没地のすぐそばに魏書東夷伝倭人条に書かれた「楼観」を想起させる太い「8本柱穴」が発見されていることから、魂魄(こんぱく)分離(死体からの魂の遊離)の天神信仰縄文時代に遡るという仮説を考えるにいたりました。

f:id:hinafkin:20201228121924j:plain

  その可能性を確かめるのが、私にとっては今回の見学調査の大きな目的でしたが、「地神・海神信仰と同時に天神信仰もまた縄文時代に遡り、スサノオ大国主一族に受け継がれた」という仮説を確認することができたと考えます。

 そして「中ツ原遺跡の8本柱と三内丸山遺跡の6本柱」は同じ天神信仰に基づく神名火山(神那霊山)を遥拝する「楼観神殿=神塔」である、と考えるに至りました。

-「縄文ノート33 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考(Ⅲ縄文宗教論-8)」参照

 この仮面の女神像は単なる土偶(私説:地母神の霊(ひ)が宿る妊婦の安産祈願のお守り)とは異なり、神那霊山・蓼科山の女神(山神=地母神)祭祀を行った巫女(御子)像と考えています。

 

3.神名火山(神那霊山)の方向

 7月31日作成のレジュメ「『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔』考」で検討しましたが、諏訪大社などに見られる神域を区切る御柱(神籬(霊洩木)なら4本でよく、高床式倉庫なら直径1mもあるような太い材は必要ありません。

        f:id:hinafkin:20201228122044j:plain

 私が小学生時代を過ごした岡山市大野の魚見山の中腹下段の家の横には貝塚があり、さらに少し高くなったところでは遊んでいて須恵器を掘り出したことがあり、山頂には巨石があって登ると岡山平野が一望できましたが、古くは海で農業用の舟のための水路が整備され、友人の家の舟でどこまでも行くことができました。もしもこの巨石のような魚見のための見張り台なら「火の見櫓」のように1本、あるいは2本、3本の櫓でよく、1~2人が昇って見張ることができれば十分です。映画『もののけ姫』の見張り台は3本柱でした。また、太い柱を使う必要はありません。

      f:id:hinafkin:20201228122103j:plain

 巨木の8本柱となると、石斧による伐採・枝打ち・皮むき・運搬・建立には多くの人々による共同作業が必要になります。それは、御柱祭の共同祭祀として現代に伝わっています。イギリスのストーンサークルや古マヤ遺跡の土壇(祭祀場)、古アンデス文明の石のピラミッドと同じく、「共同体社会文明」の宗教施設とみて間違いありません。なお、現在ではエジプトのピラミッドも奴隷労働によって造られたものではないことが明らかになってきています。

 しかも、現代にまでその建造の共同作業の様子を伝えるような御柱祭が続いている文明となると、世界で唯一の遺跡になります。

      f:id:hinafkin:20201228151749j:plain

 古代専制国家の王のための巨大シンボル施設とは異なり、共同体成員にとって共同体意識を養い、伝えるための宗教施設として、共同で作業が行われたのです。視界に入る塔としてのランドマーク機能も考えると、巨木を使い、周辺の森の樹高より高くする必要があったのです。

 三内丸山遺跡では共同集会所・作業所と考えられる平屋の大型建物(ロングハウス)とセットになっており、6本柱の巨大なランドマークとなる高層建物は、何十人もが同時に昇ることができる共同体祭祀施設とみて間違いありません。

      f:id:hinafkin:20201228122116j:plain

 三内丸山の復元施設では屋根がもうけられていませんが、天や雪、建築技術の伝承性などから考えると、壱岐原の辻遺跡吉野ヶ里遺跡の「楼観」の復元施設のように屋根があった可能性が高いと考えます。

 魏書東夷伝倭人条は邪馬壹国の巨木建築を「楼観」としており、「楼」=「2階建て以上の建物」、「観」=「見晴し、ものみ」の意味から考えて、単なる物見や軍事用の「見張り台」「櫓=矢倉」ではなく、数十人が昇り、宗教行事や国見行事を行うシンボル施設であった可能性が高く、縄文時代三内丸山遺跡・中ツ原遺跡の6本柱・8本柱の建物の伝統を引き継いでいる可能性があります。

      f:id:hinafkin:20201228122134j:plain

 なお、吉野ヶ里遺跡では堀が柵の内側にもうけられていることからみて、外敵に備えたというより内部からの逃亡を防止していた可能性が高く、「見張り台」説や戦闘用の「櫓=矢倉」説は成立しません。

 

4.神奈火山(神那霊山)信仰と龍神

 私はこれまで地域計画(まちづくり)のプランナー(計画家)として、いくつもの施設基本計画を作成してきましたが、施設立地選定と計画にあたっては自然条件やアプローチ条件をベースにしながら、地域のシンボル、ランドマークになる立地場所を選定するとともに、建物からの眺望を考えて建物の配置、方向性を考えてきました。

 宗教施設の場合、その方向は信仰対象を示すとみて間違いありません。天神信仰出雲大社は八雲山、大神神社は美和山(三輪山)を祖先霊が天に昇り、降りて来る神名火山(神那霊山)として配置しており、富士山型の二等辺三角形の山が立地場所として選ばれます。

        f:id:hinafkin:20201228122152j:plain 

    f:id:hinafkin:20201228122204j:plain

 一方、海神信仰の宗像大社辺津宮の場合、海上中津宮(大島)、沖津宮沖ノ島)の方を向いており、対馬から先祖がたどり着いた方向を向いています。

 このような1~2世紀のスサノオ大国主時代の祭祀施設からみて、縄文人の祭祀施設の配置もまた、信仰対象の神那霊山を向い遥拝のための立地とし、配置とした可能性が高いと考えます。

 古事記ではイヤナミ(揖屋神社に祀られた伊邪那美:通説はイザナミ)は出雲と伯耆の国境の比婆山(筆者説は霊場山)に葬られたと書かれていますが、実際にはイヤナギがイヤナミを黄泉国に訪ねた出入口の「黄泉比良坂」はその別名を「伊賦夜坂」としていることからみて、イヤナミが祀られている出雲の中海に注ぐ意宇(おう)川の河口の揖屋神社の裏山あたりが「揖屋坂=伊賦夜坂=黄泉比良坂」とみて間違いないと思います。なお、大国主を国譲りさせた穂日の子の「建比良鳥」(古事記)は日本書紀では「武日照(たけひなてる)・武夷鳥(たけひなとり)・天夷鳥(あめのひなとり)」、神社名では「天日名鳥」と表記されていることからみて、「比良坂=日坂=日名坂」は「霊那坂」で「霊(ひ)の国への坂」を表していると私は考えています。

 この揖屋の地から約40㎞も離れた中国山地比婆山に死体を運ぶことはありえませんから、この神話は魂魄分離の宗教思想に基づき、イヤナミの死体は揖屋に葬られ、その霊(ひ)=魂=神は死体から離れて比婆山から天に昇ったとしているのです。

 この比婆山は河口の出雲大社のある斐伊川の源流域になりますが、現在の広島県側にあり、南に流れて三次から西北に流れを変えて日本海にそそぐ江(ごう)の川の源流となっています。またこの山域から鳥取県を西に流れて日本海にそそぐ日野川があり、広島県から岡山県に向かって瀬戸内海にそそぐ成羽川高梁川の源流域でもあります。 

 海岸から内陸部に進出したドラヴィダ系海人・山人族にとって、天から降ってくる雨を集め、海にそそぐ川の源流の山岳地域は天と海を繋ぐ接点として、死者の魂が天に昇る場所として信仰されていたと考えます。

 出雲大社は神使の海蛇を「龍神様」として祭り、神紋の六角紋は通説では亀甲紋とされていますが、正式には海蛇神・龍神信仰の龍鱗紋(りゅうりんもん)であることからみて、海人族の天神信仰は雨をもたらす「龍神信仰」であったとみられます。

       f:id:hinafkin:20201226113217j:plain

 海底を泳ぐ海蛇を神使とする海神信仰、地にもぐり巣を作る蛇を神使とする地神信仰に加えて、天から雨をもたらす龍を神使とする天神信仰として繋がっており、河川の源流域は死者の霊(ひ)が天に登り、降りて来る霊場(ひば=霊那)として信仰対象となっていたと考えられます。このイヤナギ・イヤナミ神話は紀元1世紀のことですが、その起源はさらに古いと考えられます。

 井戸尻考古館では、藤内遺跡出土の「巳を戴く神子」の頭の髪を束ねた形を蛇とみていますが、縄文時代に蛇信仰があったとすると、川の源流域の神那霊山信仰は縄文に遡る可能性がでてきました。

           f:id:hinafkin:20201228122219j:plain

4.阿久遺跡の石列は蓼科山を向いている

 今回、原村歴史民俗資料館でみた阿久遺跡の石列の方向が蓼科山を指しているという事実は、縄文人の信仰を明らかにするうえで、決定的な証拠と考えます。

       f:id:hinafkin:20201228152438j:plain

     f:id:hinafkin:20201228152555j:plain

 縄文人の宗教を解明するための鍵となる特別史跡となるべき遺跡が残念なことに中央自動車道の工事で分断され埋め戻されてしまったのです。

  蓼科山縄文人が信仰する円錐形の美しいコニーデ式火山の神名火山(神那霊山)であり、諏訪富士と呼ばれています。吉田金彦元大阪外大教授の「信濃=ひな野説」によれば、「たてしな=たてひな」であり、「霊那(ひな)=霊の国)」のシンボルとなる山になります。沖縄の南西諸島では女性器を「ひー」、天草地方では「ひな」といい、倭名類聚抄ではクリトリスのことを「ひなさき(雛尖)」としていることからみて、「たてひな山」は地母神の女性器信仰を示している可能性があります。

 

    f:id:hinafkin:20201228152656j:plain

 ウィキペディアによれば「神代の頃、諏訪に建御名方神が入ってくると、武居夷(たけいひな)神は建御名方神に諏訪の国を譲り、自らは蓼科山の上に登ったという」とされ、「蓼科山にはビジンサマという名のものが住んでいるという伝承がある。姿は球状で、黒い雲に包まれ、下には赤や青の紙細工のようなびらびらしたものが下がっており、空中を飛ぶ」という伝承もあることからみて、この地はもともと「居夷神(いひな神=委の日名王)」の支配地であり、「夷(ひな)=ひ=び」の神「ビジン=霊神」という山神の山、頂上部が丸い黒い溶岩の山として信仰されていたことを示しています。「ビジン=美人」説は漢音漢語が使われるようになってからの俗説であり、呉音漢語の「ミニン」より前の倭音倭語の時代からの名称と考えられます。

          f:id:hinafkin:20201228152713j:plain

 この武居夷神伝説はスサノオ大国主一族の「葦原中国」建国の紀元1~2世紀頃のことと考えられますが、その地名はさらに古く、縄文時代から蓼科山が神名火山(神那霊山)として信仰されていたと考えられます。

 阿久遺跡の石列が蓼科山を向いているのは、死者の霊が石棒から蓼科山を経て天に昇り、また降りてきて石列を通り、立棒から周辺の環状墓石群に帰ると考えられていたことを示しています。

 縄文人の宗教、ひいては世界の共同体文明の宗教・文化を・社会を解明するうえでかけがえのない、大湯環状列石以上に重要な価値のあるこの阿久遺跡が高速道路建設によって分断されたことは、世界遺産登録にあたってのブレーキとなることが心配されます。そのまま埋め戻されていると言いますから、もし世界遺産登録を願うなら再発掘し、国営吉野ヶ里歴史公園のような国の特別史跡の国営歴史公園の整備を求めるべきでしょう。

 

5.中ツ原遺跡の「8本柱楼観神殿説」

 中ツ原遺跡8本柱は、神名火山(神那霊山)型の蓼科山方向を向き、近くの上川の源流域であり、後世の伝承からみてこの地の人々は死者の霊が天に昇る神那霊山として信仰していたみて間違いないと考えます。

      f:id:hinafkin:20201228154743j:plain

 柱の太さは出雲大社本殿(48m)の3本組9本の柱、三内丸山の6本柱より細いものの、周辺の林の樹高よりは高く、蓼科山を正面にして祖先霊崇拝の宗教儀式を行う「楼観神殿」であったと考えます。 ―「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考(Ⅲ縄文宗教論-8)」参照

 人が両手を広げた柱間隔を基本とした8本の配置は、数十名の男女が昇り、蓼科山を崇拝し、神との共食の宗教儀式を行ったのではないでしょうか。

 

      f:id:hinafkin:20210228162543j:plain    

 写真の両手を広げた「尋」(1.8m)スケールを見ていただきたいのですが、イヤナギ・イヤナミ神話の「八尋(やひろ)殿」のスケールは縄文から続いているのです。

 細長いテーブを置いた現在の宴会場の広さとほぼ同じであり、蓼科山を遥拝し、巫女を中心に魏書東夷伝倭人条に書かれた「会同坐起、父子男女無別」の宗教儀式が行われた様子がイメージできます。8本柱なのは8つの集落がそれぞれ柱を切り出して運んで建設し、この「楼観神殿」の上で各集落のリーダーたちが儀式を行った可能性が考えられます。

 現在、長い柱4本と短い柱4本を立てて再現していますが、このような太い材を使って低層の建物を建てることは考えにくく、同一高さの周辺の木々の樹高を越える高さの建物を考えるべきでしょう。床があるのに屋根がない三内丸山遺跡の6本柱建物と合わせて、神殿や楼観、ランドマーク機能を持った建物など、再検討の上での復元が求められます。

 

6.「見張り台」か「神塔・神殿」か「楼観」「櫓」か

 これまで三内丸山遺跡の「6本柱建物」では「神殿説」が梅原猛梅棹忠夫・宮本長二郎・小山修三氏らによって唱えられてきましたが、三内丸山遺跡の復元では見張り台説との折衷案(屋根なし施設)となっています。さらに、中ツ原遺跡の「8本柱建物」では長短の柱だけを立てるという折衷案(立柱か建物か、高層か低層か)になっています。

 私は縄文時代(土器時代)とスサノオ大国主時代は宗教思想においても、建築思想・建築技術においても連続していると考えており、三内丸山6本柱建物と、中ツ原8本柱建物は同じ建築思想・技術によって同じ時代に建てられた可能性が高く、「見張り台説」「神塔説」「神殿説」「楼観説」櫓(矢倉)説」について、整理してみました。

 

f:id:hinafkin:20210228163408j:plain

 この整理表から、宗教的機能としては「神殿説」、その宗教が神那霊山(神名火山)崇拝であることから「楼観説」、さらに多大な労力を必要とする共同体作業であることから「神塔説」「神殿説」を考え、統一した名称としては「楼観神殿説」を提案したいと思います。

 

7.尖石が蓼科山を向いている可能性

 見学では見落としましたが、尖石遺跡の蓼科山信仰を示している可能性を指摘するブログがありました。:「尖石と縄文遺跡」2018.9.2 イワクラハンター平津豊、ホームページ「ミステリースポット」 http://mysteryspot.org/report/suwa3/suwa3.htm

 

  f:id:hinafkin:20201228152813j:plainf:id:hinafkin:20201228152824j:plain

 平津豊氏は「現在は、注連縄がかけられ、四方に御柱を立てて祀られている。側に置いてある小さな祠は、昭和初期の写真にも写っているので、尖石遺跡において、本格的な発掘が始まる前から祀られていたと考えられる。岩質は安山岩で頂上部東面の窪みは人工的に削ったものなので縄文時代磨製石器の砥石として用いられたのではないかと考えられている。南面の凹凸も、縄文時代よりももっと古い時代に削った跡が風化したものの可能性がある」「各面と稜線の方位を測定してみると、東面はぴったりと東に向いていて、西の稜線もほぼ、真西(275度)を向いている。また、北東の稜線は聖なる山である蓼科山を向いているのである」「このように尖石から意味のある方位が見つかることから、この尖石は自然の岩石を祀ったものではなく、私は、三角錐に整形した岩石を方位を意識して、ここに置いたのではないかと考える」としています。

  阿久遺跡の石列、中ツ原遺跡の8本柱建物、スサノオ大国主一族の神名火山(神那霊山)を合わせて考えると、この尖石もまた蓼科山信仰のを示している可能性があります。なお、この尖石一帯は「尖石石器時代遺跡」の名称で1942年に国の史跡に指定され、宮坂英弌(ふさかず)氏によって「縄文集落研究の原点」とされる重要な遺跡と位置づけられ、1952年には文化財保護法に基づき特別史跡に指定されています。

 

8.縄文時代スサノオ大国主建国の連続性

① これまで縄文社会研究会では、「大国主縄文時代最後の王」という石飛仁氏の説と、私の「縄文時代(土器時代)から続くスサノオ大国主一族の鉄器水利水田稲作時代」という説が出されてきました。いずれも、縄文社会からの内発的発展論で、「朝鮮あるいは揚子江流域からの弥生人による縄文人征服説」を批判する点は共通しています。

② 反皇国史観は、記紀神話は8世紀の創作とし、「たらい水(天皇建国説)とともに赤子(縄文時代から続くスサノオ大国主国史)を流す」ことをやってきましたが、きちんと読めば、「スサノオ大国主国史薩摩半島南西端の笠沙天皇家3代の歴史を接ぎ木したもの」であり、しかも太安万侶は真実の歴史を解明する手掛かりを巧妙にいくつも暗号として「荒唐無稽な神話」や「明らかに矛盾する神話」などの形で気づかれないように忍ばせているのです。

③ これまで「弥生人による縄文人征服説」=「弥生人天皇家建国説」を前提とした縄文研究は、「狩猟漁労採取の遅れた未開人の歴史」ということで、記紀風土記、神社などの民間伝承や建築技術などの連続性についての検討が弱く、いきなり中国や世界各地の民俗をヒントにして縄文社会・文化を想像するという解釈が続いています。

④ 今回、阿久遺跡、中ツ原遺跡、尖石から神那霊山信仰の蓼科山信仰が浮かび上がったことにより、スサノオ大国主時代の海神・地神・天神信仰や海蛇・蛇・龍蛇神信仰が縄文時代から連続している可能性がでてくるとともに、さらに現代の御柱祭や神社信仰などともつながっていることが明らかとなりました。

f:id:hinafkin:20201228152955j:plain

 ⑤ 各地での発掘と研究が進み、古代専制国家文明の前の「共同体社会文明」の1つとして、縄文時代文明(土器時代文明)があり、世界遺産登録の条件を満たすことができるようになったと感じています。そのためには、遺跡を調査し、文化的伝統守ってきた研究者・住民の取り組みが必要ですが、その条件を日本で一番満たしているのは信州の地と考えます。

 博物館等の展示・体験施設のレベル、御柱などの祭りや宗教行事、体験学習や観光への活用など、素晴らしいものです。ただ、一番重要な「立石・列石」がでた阿久遺跡や「縄文のヴィーナス」がでた棚畑遺跡が埋められてしまっており、世界遺産登録を進めるのであれば、前者については回復措置が求められます。

⑥ この長野の地には、宮坂英弌(ふさかず)氏や藤森栄一氏、児玉司農武氏など在野の研究者・住民たちの素晴らしい考古学研究の伝統があり、見学施設が整備されて子どもたちに体験学習などで受け継がれています。これは世界遺産登録において決定的に重要であり、他の地域にはない有利な点として評価されます。

⑦ 今回の合宿では、「日本中央縄文文明の世界遺産登録」を目指すか、さらに進んで「縄文文明全体の世界遺産登録(琉球から北海道までの日本列島文明の世界遺産登録)」を目指すか、の意見が出されました。今後の検討課題ですが、いずれにしてもこの地域が中心的役割を果たすことが求められます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論              http://hinakoku.blog100.fc2.com/