縄文ノート33(Ⅲ-3) 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考
八ヶ岳合宿2020に向けた「縄文ノート32 縄文の『女神信仰』考」では母系制社会の霊(ひ)信仰について分析しましたが、この「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」では、縄文の霊(ひ)信仰が「神籬(霊洩木)=御柱=心柱」信仰や巨木の「神塔・楼観神殿」と繋がり、スサノオ・大国主7代の建国に引き継がれ、現代にまで続いていることを明らかにしました。
なお、後に明らかにしますが、霊(ひ)信仰や神那霊山信仰などは、「主語-目的語-動詞」言語族のドラヴィダ族や東インド・インドシナ半島高地人などの「ピー」信仰や山岳信仰にルーツを持っています。
このような生類の霊(ひ=DNA)のリレーを大事にする「霊(ひ)継信仰」の縄文人1万数千年の歴史の解明は、人類の母系性の「共同体文明」を明らかにし、西欧史観の「古代専制国家4大古代文明論」に対して新たな文明観を提起すべきと考えています。 201226 雛元昌弘
※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。
Ⅲ-3 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考
200731→0825→0903→1226 雛元昌弘
1.3タイプの「縄文列柱」
縄文人の生活・社会・宗教・文化・文明がどのようなものであったかを考える上で、手掛かりとなるのは石の環状列石や円形石組・立棒、黒曜石やヒスイ、土の縄文土器・土偶・耳飾りや墓、巨木の列柱・建物跡、植物の食物残渣(おこげや骨等)や龍紋・蛇紋デザインなどになります。
そのうちで、縄文人の共同体作業として見逃せないのが巨木の列柱であり、イギリスのストーンサークルやエジプトや古アンデスのピラミッドなどの巨石文化・文明とは異なる森林文化・文明として解明が求められます。
多くの縄文人の協力なしにはできない縄文巨木列柱としては、現在のところ次のような3タイプが見られます。
⑴ 直列型
秋田県鹿角市の大湯環状列石遺跡には、少し離れた南西の台地の端に3本直列×2組の、全体が一直線ではなくやや食い違いが見られる列柱があります。周囲の木々の樹高より高いとは言えない太さの木であり、何のために立てたのか、説明は見られませんでした。
⑵ 環状型
石川県金沢市のチカモリ遺跡、石川県能登町の真脇遺跡、富山県小矢部市の桜町遺跡には、巨木を半割にした円形の列柱跡があり、同一文化圏の同じ祭祀の円形列柱、あるいは円形建物であったと考えられます。
秋田県鹿角市の大湯環状列石遺跡にも円形列柱の中に5本柱の柱跡がありますが、柱が細いことからみて、5本柱建物の周りに円形の垣根を設けたものである可能性が高いと考えられます。
いずれにしても、環状列石とおなじく、円形に区切った空間、あるいは円形建物に縄文共同体社会が特別の価値を置いていたことが明らかです。
⑶ 方形型
長野県茅野市の中ツ原遺跡の8本柱跡(高い4本柱と低い4本柱で復元)と青森県青森市の三内丸山遺跡の6本柱跡(3段の見張り台で復元)は、その巨木の大きさからみてどちらも周囲の林の樹高より高い施設である可能性が高いと考えられます。
⑷ まとめ
① 海人族である縄文人の広域的な貝や黒曜石、ヒスイなどの交易・交流と妻問夫招婚から考えて、これらの3タイプの縄文列柱は同じ目的のために、同じ建築思想・用途で同じ時代(4000~5000年前)にで建てられた可能性が高いと考えます。
現代の御柱祭からみても、その建造には多大な共同作業を必要とし、それを実現するには部族共同体の祖先を同じくするという共通の宗教的エネルギーによる共同作業しか考えられません。
② 日本海沿岸の桜町遺跡・真脇遺跡・チカモリ遺跡の3つの環状木柱列と中ツ原遺跡(茅野市)と三内丸山遺跡(青森市)の8本柱・6本柱の方形建築物が、1尺(指を広げた長さ)の5倍の尋(ひろ:両手を広げた長さ)を単位とした「3尋、4尋、5尋」(4.5m、6.0m、7.5m)の同じ身体尺で造られていることからみて、共通の技術によって作られた可能性が高いと考えます。
③ 約4000年前の縄文中期、石器によってほぞ穴や貫穴、渡り顎などの組み木技術が確立していることが富山県小矢部市の桜町遺跡で明らかとなっており、高層の楼観神殿の建造を可能にする高度な木工技術は確立していたと考えます。
④ 岡山の山村の私の祖父の江戸時代の家は全部が栗材でしたがそれは栗林があったからと考えられ、縄文人もまた栗栽培により容易に入手でき、強度があり水湿に強く耐久性に優れた建材として栗材を使用したと考えられます。
⑤ 「楼観神殿」は周辺の林の樹高より高い位置から神那霊山(神名火山)を遥拝できなければならず、また、共同体成員の崇拝の対象としてランドマーク機能が求められ、樹高を超えた高さが必要であったと考えます。栗材確保から割り出した高さ14.7mの三内丸山遺跡の6本柱の復元は妥当と考えますが、多雨で雪の降る青森での祭祀施設として屋根を付けない建物などありえず、縄文人を馬鹿にした中途半端な復元と考えます。
2.縄文列柱の考えられる用途(仮説)
これらの巨木の列柱については、「見張り台説」「櫓説」「祭殿説」「神籬(ひもろぎ)説」「喪屋説」などがこれまで考えられてきましたが、私は魏書東夷伝倭人条に書かれた「楼観説」(物見を行う高殿)、後の仏塔に匹敵する「神塔説」を加えて、比較検討してみました。
私の評価としては次表のとおりですが、さらに具体的に考察したいと考えます。
3.「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」からの縄文巨木列柱の解明
日本の環状列石やイギリスのストーンサークル、ストーンヘンジと同じく、縄文列柱は部族共同体の共同作業によって作られたものであり、古代専制国家の王のための宗教モニュメントとは異なります。共同体メンバーを駆り立てる共通の強い宗教思想なしに建設は不可能です。
その宗教思想は、縄文時代からスサノオ・大国主建国に継承された可能性が高く、さらに後世に続く信仰が解明の手掛かりとなります。
① 神籬(ひもろぎ=霊洩木)
神籬(ひもろぎ=霊洩木)は祖先霊の依り代となる木であり、宗像大社の高宮祭場は神籬を四角の石の方壇で囲っており、地上の四方を支配する王の霊(ひ)が天から降りて留まり、また天に帰る祭祀の場です。
② イヤナギ・イヤナミ神話の「天御柱」
古事記・日本書紀などは、イヤナギ(伊邪那岐・伊耶那岐)・イヤナミ(伊邪那美・伊耶那美)は「天御柱(あめのみはしら)」と「八尋殿(やひろどの)」のある出雲の揖屋(いや)に降り立ち、「天御柱」を左右に分かれて廻り、始めてセックスして神々を産んだとしています。この神話は祖先霊の宿る神籬である「御柱」を廻って霊継(ひつぎ)を誓う宗教があったことを示しています。
この記紀神話は、この「天御柱」が揖屋の「イヤナミ」の祖先霊の依り代、神籬(ひもろぎ=霊洩木)であることを伝えており、天(海人族が拠点とした玄界灘の壱岐・対馬の海域)から対馬暖流を下って揖屋にやってきたのはイヤナギ・イヤナミの夫婦神ではなく「ナギ」だけであり、この地の「イヤナミ」に妻問いして結ばれ、入り婿となって「イヤナギ」を名乗ったことを示しています。古代天皇31~50代の即位年からの最小二乗法による回帰計算では、紀元50年頃のことになります。
③ 壱岐の古名の「天比登都(ひとつ)柱」と魏書東夷伝倭人条の「一大国(いのおおくに)」
古事記は壱岐の古い名前を「天比登都(ひとつ)柱」としており、これは魏書東夷伝倭人条が壱岐を「一大国(いのおおくに)」と記していることと符合します。壱岐は「壱城」であり、「天城」「間城(真木・巻)」名や新羅(しんら)を「しらぎ」と呼んだように、城柵で囲まれた初期の「都市国家」を示していますが、元々は「壱=一=委」の国であり、そこでは御柱信仰が行われていたことを示しています。
④ 王墓の前の大柱(平原遺跡)と立柱(吉野ヶ里遺跡)
魏書東夷伝倭人条で伊都国とされる福岡県糸島市の約1800年前頃(筆者説では筑紫大国主王朝の14・15代目頃)の平原遺跡1号墓の前には直径70㎝の大柱が立てられ、吉野ヶ里遺跡の紀元前1世紀頃の北墳丘墓前にも立柱が立てられており、死者の霊がこの御柱から天に登り、祭事には降りてくるという宗教であったことを示しています。
⑤ 「心御柱」のある大国主の「天御巣」「天御舎」の出雲大社本殿
48mの中古の出雲大社は外直階段ではなく、神籬である「心御柱」を中心にした廻り階段であり、後の仏塔の「心柱」に受け継がれたと考えます。外階段は横風を受けて構造的に弱く、廻り階段の内階段だと建築用の足場を外側に組む必要がなく合理的です。
考古学者や建築家たちが長い外階段と錯覚したのは、金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」と書かれた長方形の図を直階段と勘違いしたもので、階段なら「きざはし(階)」と書いたはずですし、「登る橋」なら階段になりますが「引く橋」では階段になりません。「引橋長一町」は100m長の海岸から本殿へ続く木デッキであり、全国各地からの神々の舟を引いて係留し、本殿に人々を導いたのです。-「縄文ノート50 『縄文6本・8本巨木柱建築』から『上古出雲大社』へ」参照
出雲大社本殿を大国主の「天御舎」「天御巣」としていることからみて、この建物は大国主が始祖5柱らの霊(ひ)を祀る神殿であるとともに、天に昇った「八百万神」を祀る「天神信仰」の楼観神殿であることを示しています。
紀元3世紀の魏書東夷伝倭人条に「楼観」と書かれている大型建物は、その大きさや位置(柵の内側の濠のさらに内側)などからみて軍事施設の見張り台や櫓(矢倉)ではなく、多くの人々が昇って国見を行う展望機能を持った宗教施設、ランドマークタワーであり、縄文の大型建物の建築思想・技術を継承している可能性が高いと考えます。
⑦ 6世紀頃からの日本の仏塔
日本の仏塔は、中国の仏塔のような人々が昇ることのできる「高楼」ではなく、「心柱」を守る庇を何重にも付けたものであり、霊(ひ)が昇り降りてくる神籬=御柱信仰をもとにして、釈迦の仏舎利(遺骨や宝石)を崇拝対象とする「仏塔」とした独特の建築です。
天皇家が仏教を国教とした後にも、縄文時代から続く天神信仰の神籬=御柱信仰は形を変えて生き続けたのです。ちなみに、仏教では死者は極楽行か地獄行の一方通行であり、盆正月や祭事にこの世と行き来することはありません。
⑧ 現代に続く諏訪大社の御柱祭、広峯神社の御柱焚き上げ神事など
スサノオと御子のイタケル(五十猛:委のタケル)を祀る「牛頭天王総本宮」の広峯神社(京都で疫病が流行った時に八坂神社へ神霊を移す)や、スサノオの子の物部氏の洩矢氏と大国主の子の建御名方を祀る諏訪大社の起源は紀元1~2世紀に遡ります。この両社などの御柱は神籬(ひもろぎ)であり、広峯神社の御柱焚き上げ神事や諏訪大社の御柱祭の起源はスサノオの建国時代にさかのぼり、さらにそのルーツは縄文時代からの神籬(霊洩木)信仰や神名火山(神那霊山)信仰の天神信仰と考えられます。
⑨ まとめ
以上のように、紀元1世紀前後から現代まで、死者の霊(ひ)が天に昇り、降りて来るという天神信仰のもとで、神那霊山(神名火山)信仰や神籬(ひもろぎ)=御柱信仰は現代にまで続いており、仏教の仏塔への波及も見られます。
梅原猛・安田喜憲氏らの「縄文文明論」、梅棹忠夫・小山修三氏の「神殿都市説」は三内丸山遺跡の6本柱建築物を宗教施設とみる説であり、その点においては私も同じですが、環状列石や女神像・土偶、神那霊山崇拝などと合わせて縄文人の宗教についての総合的な解明になっていないようにおもいます。
縄文の「地神(地母神)信仰」の神殿なら高さは必要なく、高層の宗教施設と考ええるなら「天神信仰」の証明が必要となります。
いずれにしても、中ツ原遺跡(茅野市)と三内丸山遺跡(青森市)の8本柱・6本柱の方形建築物は、同じ宗教思想による同じデザインの建物として検討され、単なる柱列や屋根なし建物ではなく、同じ宗教思想の施設として再現される必要があると考えます。
4.縄文人に「天神宗教」(昇天降地思想)はあったか?
記紀神話ではイヤナミの死後、イヤナギは黄泉の国にイヤナギを訪ねて腐敗した死体を見て逃げ帰り、スサノオはオオゲツヒメを殺してその死体から5穀や蚕が生まれたという神話となっています。
ここから私は紀元1世紀のスサノオの時代は地神(地母神)信仰と考え、紀元2世紀のスサノオ7代目の大国主は出雲大社を「天御舎」「天御巣」として建てさせていることから、すべての死者を神として崇拝する「八百万神信仰」の天神信仰を始めたと考えていました。
なお、海神信仰については、出雲大社が海蛇を神使の「龍神様」として祀っていることや薩摩半島の西南端の笠沙(かささ)天皇家2代目の龍宮神話から、海で死ぬことが多い海人族は海に帰り、海から生まれてくる海神信仰であったと考えていました。
② 阿久遺跡の「蓼科山信仰」と中ツ原遺跡の「8本柱巨木建築」は天神信仰を示す
このように「天神信仰は大国主から」と考えていたのですが、長野県原村の阿久遺跡(縄文前期)の環状集積群の中心の石柱から列石が蓼科山を向いていることと、茅野市の中ツ原遺跡(中期~後期前半:約5,000~4,000年前)の8本柱の巨木神殿が蓼科山に向き、すぐそばに「仮面の女王」が埋められていたことから、再考の必要性がでてきました。
縄文時代に「地神信仰・海神信仰」とともに、神名火山(神那霊山)から死者の霊(ひ)は天に昇り、降りてくるという天神信仰があったとしか考えられないのです。
天神信仰は紀元2世紀の大国主建国からではなく、お山信仰(山神=女性神)=神名火山(神那霊山)信仰として縄文時代に遡る可能性が高いことが明らかとなりました。
③ 神長官守矢氏の「神木・みさく神・水眼(すいが)・神那霊山」信仰は天神信仰
諏訪大社の元々の祭主である 神長官守矢邸の屋敷神の「神長官邸みさく神境内社叢」では、神木・かじのきを「みさく神」(御左口神)として祀っており、霊(ひ=魂=祖先霊)が神木に憑りつくという地母神信仰の「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」信仰を示しています。さらにその背後には三角形の「神名火山(神那霊山)」があり、「神籬」信仰と「神那霊山」信仰が繋がることを示しています。
洩矢氏(守矢氏の古名)の祀る諏訪大社上社前宮の本殿背後の巨木(樹種不明)と四周角の御柱もまた神籬信仰を示しており、背後の山の源流を「水眼(すいが)」として信仰した水神信仰も見られます。
水蒸気が天に昇り、雨(あめ=あま)となって山に降り、源流となって川から海に注ぎ、大地にしみ込んだ水は「黄泉=夜海」となり海と繋がるという水の循環に人(ひと=霊止)の死と再生を重ね、「天神-山神-木神―地(地母)神-水神-海神」を統一した信仰が生まれたと考えられます。
この水の循環から、天から山、巨木に降りてくる雷神信仰が生まれ、地下と川、海を行き来する海蛇・蛇を神使とする蛇神(龍神)信仰が生まれたと考えられます。
土偶や土器の蛇文様や出雲大社の神使が海蛇であり、大神神社(大美和神社)の神使が蛇であることから見ても、天神信仰は縄文時代前期の6000~5000年前頃にに遡り、1~2世紀のスサノオ・大国主7代の建国と繋がっています。―詳しくは「縄文ノート23 2020八ヶ岳合宿報告」参照
④ 縄文からの御柱祭や神籬信仰は南方起源
青森市の「三内丸山遺跡」の6本列柱の巨大建築物を作った人々の宗教的エネルギーと現代を繋ぐものとして梅原猛氏は「ねぶた祭」をあげていますが、諏訪の「中ツ原遺跡」の8本列柱は現代の「御柱祭」や「御柱(天御柱・心御柱・心柱)信仰」「神籬」「ぬさ:御幣、アイヌのイナウ」などに広く受け継がれています。
梅原説は「この時代の日本は、中国文明の影響を強く受けている」「その基調には『木の文化』があった」「ねぶたに代表されるような縄文の精神」「日本文化で、柱といえば、天と地を結ぶもの」(『縄文文明の発見 驚異の三内丸山遺跡』梅原猛・安田喜憲共著)としていますが、この中ツ原8本巨木建築物を作り出した天神・神木信仰は、木々を伐採して田畑に変え、製鉄や瓦の製陶、製塩などの燃料として木材を利用し尽くした「中国文明」とは異質のものであり、南方の森林文化の影響を受けた可能性が高いと考えます。
私は「主語―目的語―動詞」の言語構造が中国語の「主語―動詞―目的語」と異なること、倭語・倭音の「かみ、かん、かむ、こう」が、漢字「神」の呉音「ジン」、漢音「シン」と異なり、倭語・倭音の「たましい=玉し霊」が呉音「ゴン」、漢音「コン」と異なり、五穀についても倭語・倭音と呉音・漢音とがことなること(レジュメ「縄文農耕について」補足参照)、「Y染色体Ⅾ型」など遺伝子が中国人とは異なることから、死者の魂・霊が山から天に昇るという天神宗教、山岳信仰は倭音倭語と稲作・もち文化などとともに東インド・ミャンマー高地から伝わったと考えます。
⑤ 霊(ひ)信仰からの縄文社会の解明
人の死後、死体は大地に帰りますが、人々には死者の記憶がいつまでも残ることから、死者の霊(ひ)=魂(たまし霊)の存在を人々が信じるようになったと考えます。「人(霊止)、彦(霊子)、姫(霊女)、卑弥呼(霊御子・霊巫女)」などの基本語は、霊(ひ)信仰からこれらの基本語が誕生したことを示しています。
「縄文ノート32 縄文の『女神信仰』考」から再掲しますが、古事記序文は「二霊群品の祖となりき」と書き、本文ではこの国の始祖神を、出雲大社正面に祀られた天之御中主(あめのみなかぬし)・高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かみむすひ)ら5神とし、日本書紀は高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)と表記し、この霊(ひ)を産む「二霊」=夫婦神を「霊止(ひと)・霊子(ひこ)・霊女(ひめ)」らの始祖神としているのです。そしてこの「むすひ(産霊)」のことを「うけひ(受け霊)」(アマテル・スサノオ神話)としているのです。
天皇家の皇位継承の「日嗣」は「霊継」であり、柩・棺は「霊継(ひつぎ)の容器」であることを示しており、甕棺や柩、墓室内が朱で満たされているのは、血で満たされた子宮に模して再生を期待していたことを示しています。
女性の面を付けた顔面把手土器や、腹から乳児が顔をのぞかせる出産紋土器、「むすひ=結び」を示す縄文土器、妊娠土偶などは、全て霊(ひ)信仰を示しています。
5.今後の課題
① 世界文明史に寄与する縄文研究へ
「日本中央土器(縄文)文化」の世界遺産登録を目指すなら、「縄文土器鍋」「女神像」「黒曜石・ヒスイ産業」「縄文農耕具」などとともに、「御柱祭」とセットで中ツ原遺跡の8本柱の楼観神殿・神塔神殿をシンボル施設としてアピールしたいところです。
中ツ原遺跡の巨木8本柱建築については、三内丸山遺跡の巨木6本柱建築とともに、現在の中途半端な再現ではなく、隣接地などに「神那霊山信仰を示す楼観神殿」として再現が求められます。蓼科山の神那霊山信仰を示す阿久遺跡の立石と列石についても、世界遺産登録を目指すなら掘り起こして歴史公園化することが求められます。
② 「霊継(ひつぎ)」=「命のリレー」を基本とした共同体文明へ
生類全ての命のリレーを大事にする「霊継ぎ(ひつぎ)信仰」(DNA継承信仰)の、縄文人1万数千年の文明の解明は、近代文明への懐疑、ユダヤ・キリスト文明とイスラム文明・中華文明との対立という世界の現状に対し、古代専制国家や一神教以前の共同体文明について、重要な問題提起となると考えます。
③ 縄文絵文字の解明へ
縄文については、土偶や土器に見られる独特のシンボルマーク(象形文字の前段階の絵文字・シンボル図形と考えます)の解明が課題です。現代に続く「海神・地神・天神信仰」「山神を女性とするお山信仰」や「神が依り付く神籬・御幣・巨木信仰」「水神・雷神信仰」「蛇(龍蛇)神信仰」「性器信仰」などを手掛かりにしてさらに検討を深めたいと考えます。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/