縄文ノート19 太田・覚張氏らの縄文人「ルーツは南・ルートは北」説は成立するか?
本日、10月18日の『東京新聞』は「縄文人のルーツは『南』に」という太田博樹東大教授と覚張隆史金沢大助教らの説を掲載しています。 愛知県田原市の2500年前の伊川津貝塚から発見された女性のDNAがアイヌ民族のDNAに極めて近く、バイカル湖近くで見つかった24000年前の人骨の影響は見られず、ラオスで出土した8000年前の人骨に近いというのです。
『東京新聞』10月18日(日)朝刊
私は2014年に「『人類の旅』と『縄文稲作』と『三大穀物単一起源説』」を書いて以来、日本列島(ジャポネシア)人南方起源説を追い、2014年の「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(季刊日本主義26)ではアイヌと沖縄人が漁民であり、アイヌの「イタオマチプ」と沖縄の「サバニ」(奄美大島では板付け船)が丸木舟に舷側板を付けた同じ構造であることから、同じ海洋民の縄文人をルーツとしているとして検討を続けてきました。
先日の10月15日には、旧石器人・縄文人のルーツについて「ドラえもん(海人・山人ドラヴィダ族)宣言」をブログ・FBに書き、不当な批判を浴びた大野晋さんの「日本語タミル語起源説(タミル語はドラヴィダ語の一部)」の復権を果たしたいと考えていた私にとってはこの報道は大変うれしい説です。
しかしながら、DNA分析の結果自体は高く評価したいのですが、その考察部分には同意できないところが4点あります。
第1の問題点は、「ルーツは南でも、日本列島に渡ってくるときは、北海道を経由した可能性がある」としている点です。
太田・覚張両氏は海と舟、釣りが嫌いで苦手なのか、旧来ながらの「ウォークマン史観」の北方起源説に先祖帰りしているのです。
東京新聞の添付図(図1)が正しいなら、4万年前よりも遅く、3万年前以降にアンダマン諸島(ミャンマーの南)のオンゲ族と日本旧石器人は分かれて日本列島にたどり着き、ラオス古人はずっと遅れて山間部に入ったことになり、伊川津縄文人はその日本旧石器人の直接の子孫になるか、もっと遅くにスンダランドを離れて日本列島にやってきたことになります。
図2に示すように、Y染色体Ⅾ系人はこのアンダマン諸島とチベット周辺、日本、オホーツク海のシベリア沿岸、カムチャッカ半島、サハリン島、北海道に集中しており、私はこの図からY染色体Ⅾ系人は、海の道経由とシベリア経由の南と北の2方向から日本列島にやってきたという「南北合流説」を考えています。
縄文人が熱帯ジャポニカ(陸稲の赤米やもち米)・ヒョウタン・ウリ・エゴマなど南方系の穀類・野菜を栽培し、東南アジア諸国の単語を多く吸収していることからみて、ドラヴィダ海人族はアンダマン諸島から「海の道」を通って日本列島にやってきたことが明らかです。一方、同じY染色体Ⅾ系のドラヴィダ山人族はチベットから「マンモスの道」を通ってオホーツク海を目指したと考えます。
「主語-動詞-目的語」言語族である中国人の間を通り抜け、少数の「主語-目的語-動詞」言語族がその支配下に入ることも言語・文化の影響を受けることもなく、シベリヤ経由で北海道へ渡ったなどと考えるのは無理があります。
一方、「主語-動詞-目的語」言語族が住む東南アジア諸島の間を竹筏と丸木舟で抜けて日本列島にくることが可能であることは、フィリピンや台湾に多くの少数民族が共存していることからみても明らかです。争いが生じたなら、竹筏や丸木舟で一斉に別の島や入り江・半島などに移住すればいいのです。
近年の集中豪雨の原因として、インド洋の高水温による水蒸気と太平洋の北東風による水蒸気が中国・朝鮮半島・日本列島で重なったことが原因と指摘されていますが、図3のように、夏の南西風を利用すれば、「アフリカの角」のエチオピアあたりの「主語-目的語-動詞」言語族が海岸沿いにインドに移動することは容易であり、ドラヴィダ海人族がスリランカからミャンマー海岸部・アンダマン諸島に移動し、さらにマレーシア半島に沿って南下してスンダランドに移住し、スンダランドあたりから北東に進み、黒潮に乗って日本列島にやってくるのは海人族にとっては容易なのです。
第2の問題点は、24000年前のバイカル湖付近の人骨と、日本では縄文時代にあたる8000年前のラオスで出土した人骨、さらには2500年前の伊川津人のDNAと、時代が大きく異なる人骨のDNAを比較していることです。特に、多民族が混じっている可能性のあるバイカル湖付近、ラオスや、旧石器時代から何次かにわたっての移住がある日本の縄文人の人骨がサンプルとして有効かどうかです。
松本秀雄大阪医大名誉教授は、抗体を形成する免疫グロブリンを決定する遺伝子(Gm遺伝子)から「バイカル湖畔起源説」(ブリアート人説)を提案していますが、これはY染色体Ⅾ系統の分布とは矛盾しません。太田・覚張説もまた「偏ったサンプルリスク」を持っていることです。
第3の問題点は、「ルーツ・ルートは南」という南方起源説が南インド・スリランカ、パキスタン、アフガニスタン、ネパール、バングラデシュ、ブータンなどで話されているドラヴィダ語族(約2億人)のうちの辞書があるタミル語(約7000万人)を日本語の祖語とする大野晋氏の研究や、農学の雑穀・イモ・熱帯・温帯ジャポニカ起源説、民族学の照葉樹林文化(焼畑文化、茶やモチ・納豆などの食文化、歌垣・妻問婚の母系制・宗教行事・殯などの民俗)、考古学(丸ノミ石斧・土器)などの研究と矛盾しませんが、太田・覚張両氏の「ルーツは南、ルートは北」という北方経由説には細石刃の槍くらいしか裏付けがないことです。「ルーツ南・ルート北説」を主張するなら、合理的な理由・根拠が必要です。
第4の問題点は、「北海道から少なくとも中部地方まで(遺伝的には)アイヌ民族の先祖にあたる人たちが住んでいた」という主張ですが、神澤秀明国立科学博物館研究員の図4の核DNA解析の結果によれば、本土日本人は琉球人に近く、アイヌ人とは離れていることです。
以上を総合すると、太田・覚張両氏の「ルーツは南」は認めるとしても、「日本列島には北海道を経由した」という結論には同意できません。「ルーツ南方説」「ルート南方・北方合流説」で再検討いただきたいと思います。
「ドラえもん宣言(日本列島人は海人・山人ドラヴィダ族だ!)」は太田・覚張両氏によって補強されたと考えます。