縄文ノート8 「石器―土器―鉄器」時代区分を世界へ
本論は2015年7月23日に書き、関係者に送ったレジュメ「『石器―土器―金属器』の時代区分を世界へ―『セッキン史観』『ドキドキバカ史観』からの脱却へ」を、その後のスサノオ・大国主建国論、縄文社会の研究、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の執筆などを踏まえ、小手直ししたものです。
主な変更点は「金属器時代→鉄器時代」「種実・穀食→種実魚介食」「狩猟→狩猟漁撈採取」「群馬・長野―新潟縄文文化遺跡群→日本中央土器時代遺跡群(富山・新潟・長野・山梨・群馬)」で、追加点としては「シナプスの活動・発達を支えた糖質とオメガ3」「イモ食と豆食、魚介食」などです。
1.「肉食史観」対「種実魚介食史観」
果物や木の実、昆虫などを食べていた猿が小動物の肉を食べ、人が大型動物を狩るようになり、頭脳が巨大化して知能が発達した、という「肉食史観」が見られるが、そうなら、肉食恐竜や肉食動物の脳が体に比例して大きいはずであるが、そのような証拠はない。どうやら、穀物栽培による4大文明から遠く離れたヨーロッパの人たちの我田引水の主張のように思える。
私は猿から人になったのは、脳を使う機会と時間が増えたことにより、脳のシナプスが発達し、より大きな脳を持った猿が生き残り、長い時間をかけて人になった、と私は考えている。考える機会と時間が増え、情報と文化を伝える機会が増えたことが人を生み出した。それは道具の作成と集団活動による言葉の使用であった。そして、シナプスの活動を支えたイモや穀類・果物などの糖質食、シナプスの発達を促した豆食・魚介食のオメガ3(以上、NHKスペシャル「食の起源」第1集ごはん、第3集脂)、脳を構成したタンパク食(肉食・魚介食・豆食)というバランス食こそが脳の活発な活動と巨大化を促したのである。
では、人間の「思考機会・時間」「情報・文化伝達機会・時間」の拡大は、何によってもたらされたのであろうか? その大きな契機は、木器や石器を使い、直立歩行で狩猟漁撈採取などの集団活動を行うことによって、実現できたという従来の説が妥当である。木器・石器製作や狩猟漁撈採取には頭を使い、集団行動と教育には情報・文化の伝達機会も増える。
しかしながら、狩猟漁撈採取は食糧確保としては不安定であり、「思考時間」「情報・文化伝達時間」の確保はおぼつかない。また、肉食が長寿化による祖父母から孫への文化伝達に結びつかないことは、エジプトのミイラから現代人にまでみられる生活習慣病による短命化が示している。「思考、情報・文化伝達」の時間確保は、安定した通年の食料確保・保存と自由時間の確保に繋がった木の実や果物、豆、イモ、穀類の栽培農業と魚介・茸・肉類のバランスの取れた総合食によって実現されたのであり、土器鍋食はその1つの理想の形態であり、わが国では1万数千年前の土器時代(縄文時代)に始まっている。
石器によって実現できたのは、動物の狩りだけではない。斧で木や雑草を切って畑地を作り、寒さをしのぐ家を造り、石鍬で土を掘ることもできる。私は、栗やドングリ、豆、イモなどの種実類やイネ科やマメ科の穀類(米・麦・アワ・ヒエ・キビ・トウモロコシ・大豆・小豆)などの栽培こそが、頭を使い、年間を通した安定した食料の確保により「思考・情報・文化伝達時間」の増大と長寿化による「祖父母から孫への教育充実」をもたらし、人の頭脳の巨大化を実現したと考える。
「弱肉強食・適者生存」幻想の「肉食史観」から離れ、「種実魚食史観」で人類史を見ていく必要がある。
2.「人類アフリカ単一起源説」と「三大穀物単一起源説」
私は、2014年6月13日の原稿「『人類の旅』と『縄文稲作』と『三大穀物単一起源説』」において、鳥浜遺跡や三内丸山の縄文遺跡から発見されるヒョウタンの原産地が西アフリカのニジェール川流域であることと、「人類アフリカ単一起源説」、パンゲア大陸説から、米・小麦・トウモロコシの「三大穀物単一起源説」を提案した。
Y染色体亜型の分布(中田力『科学者が読み解く日本建国史』より)
―人類拡散図の熱帯・亜熱帯・温帯ルートは穀類拡散図でもある―
これまで、人類のアフリカからの拡散は、巨大哺乳動物を追った「マンモスハンター」によってなされてきたという「肉食史観」によって説明されてきたが、熱帯・温帯地方で栽培されるヒョウタンが、寒冷地のシベリアと氷結した日本海を経由して運ばれたとは考えにくい。
むしろ、食用と同時に、水を入れる容器にもなるヒョウタンは、暖かい海の道を通って拡散し、若狭湾の鳥浜遺跡から青森湾に面した三内丸山遺跡までたどり着いた可能性が高い。米もまた同じである。
パンゲア大陸の時代には、現在の南アメリカのニジェール川流域とブラジルは接しており、この地域がイネ科のマザーイネの発祥地だとすると、そこから大陸分離―移動とともに、トウモロコシとイネ・小麦は別々に各地に広まった可能性が高い。同じイネ科のサトウキビがアフリカ・アジア・アメリカの熱帯地方に分布する一方、トウモロコシがアメリカ大陸にしか見られないことは、パンゲア大陸の分離によってしか説明できない。
「マザーイネ」はパンゲア大陸の現アフリカ・アメリカ大陸の接点あたりか?
「人類アフリカ単一起源説」が定説となっている現在、「三大穀物単一起源説」「イネ科穀類単一起源説」についても同様であることがDNA分析によってきちんと検証されるべきである。ヒョウタンやイネの日本への移動は、海の道を通った人類の拡散を示していると見るべきである。
考古学者・歴史学者たちは、石斧と石槍を持った「はじめ人間ギャートルズ」のアニメの影響から、卒業しなければならない。
またシナプスの発達を促した豆や魚介食、イモ食や種実(ナッツ)食の世界的な分布と歴史についても、いずれ研究したい。
3.「石器→金属器」発展史観から「石器→土器→鉄器」発展史観へ
「種実魚介食史観」に立つと、石器(旧石器)に次ぐ重要な道具の発明は、煮炊き用の土器鍋である。土器は、人の思考、特に、創造性と情報・文化の伝達、種実栽培による食革命にとって決定的に大きな役割を果たしており、「土器革命」と言ってよい。
「肉食史観」は、「狩猟→部族間戦争→古代国家成立」という歴史から、「金属器革命」に自然と行き着き、「石器―金属器発展史観」に陥るが、人類の発展、文明論にとってもっと重要なのは、木の実や果実、イモ・マメ、穀物の栽培革命であり、それをもたらしたのは木の実・イモ・マメ・穀物食を可能とした土器鍋であり、次に金属調理器具なのである。
弓矢と槍は、狩りや人を殺す武器であったが、種実栽培には鳥や獣による獣害を防ぐために欠かせない生産用具でもあった。狩りは食肉や毛皮の確保とともに、栽培農業にも欠かせないものであったのである。鉄器は狩猟・戦争の武器としてだけでなく、木々の伐採、整地、水利(農業土木)、農耕、鳥獣害防止により大きな役割を果たしたのである。
土器がもたらしたのは、木の実やイモ・マメ・穀物、魚介類、肉を煮て食べるという土器鍋食革命であり、これは衛生革命にもなり、長命化に貢献するとともに、土器製作は人の創造性と文化を育んだ。石器製造とは較べものにならない大きな革命である。
石器製作は石を砕いて形を整えるという引き算作業でしかないが、土器製作には、適した土を捜すことから始まり、適度の水分で粘土をこね、機能と表現意欲に合わせて造形し、最適の温度で焼く、という飛躍的に頭を使う作業である。そのためには技術情報の伝達が不可欠である。さらに、土器製作には技術の差が大きく、生産分業体制が生まれるとともに、交易も生まれたと考えられる。貝塚に見られる大量の貝は、貝を煮て干して保存食にするとともに、塩分を確保するためにも欠かせない交易品として流通させた。
「石器時代→鉄器時代」という発展史観は、この「土器革命」=「種実魚介肉の土器鍋食革命」を見逃しており、「石器時代→土器時代→金属器時代」という時代区分が使われなければならないと考える。
4.「イシドキドキバカ時代区分」から次へ
わが国では「石器時代→縄文式土器時代―弥生式土器時代→古墳時代」という独特の「石土文明史観」とでもいうべき時代区分が使われてきたが、弥生式土器と稲作開始が合わなくなり、「石器―縄文―弥生―古墳」時代という、「石器―土器―地名―古墳」というバラバラの基準の時代区分に言い換えてその破綻をごまかしてきたきた。まともな思考なら、せめて「石器―土器―稲作―古墳」にすべきであるが、それでもバラバラ史観である。
問題は稲作開始時期だけではない。「農耕がいつから始まったのか」「弥生式墳墓と古墳をどう区別するのか」という矛盾も生じてきている。縄文農耕の主張に対し、「弥生時代は農耕、縄文時代は栽培」という農耕と栽培を区別するという呪文の違いのような理屈や、「弥生式墳墓と古墳では大きさが違う」という量的変化を時代区分とするという奇妙な論理がまかり通っており、素人としてはとてもついてはいけない。エジプト文明やギリシア・ローマ文明では、墓や神殿、教会の大きさで時代区分を行っているのであろうか?
もし、「石器―土器―地名―古墳」時代区分説を使うというなら、日本の考古学者・歴史学者は世界の「石器→金属器」時代区分に対して、「石器→土器史観」から真っ向勝負の論争を挑むべきであろう。そうしていないことをみると、日本のガラパゴス考古学者・歴史学者達はよほど自信がないか、別の強い思惑があるのであろう。私は、両者相まっている、と考えている。
まず、彼らは「石器→金属器」史観はどうしても認めることができないのである。もしこの歴史区分を用いると、日本の金属器時代は九州・出雲が中心であり、大和はそのころはまだ石器時代であり、皇国史観=大和中心史観が成り立たないからである。「石器→金属器」の時代区分を用いると、邪馬台国畿内説など吹っ飛んでしまう。
さらに、誰が金属器稲作時代を切り開いたかとなると、魏書東夷伝倭人条・古事記・日本書紀・播磨国風土記などの記述によればスサノオ・大国主一族以外にはありえない。「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」の建国者はスサノオ・大国主一族であるとはっきりと書いている。
水田稲作の開始については議論が分かれているが、岡山県総社市の南溝手遺跡の約3500年前の土器の籾痕、佐賀県唐津市の菜畑遺跡の約2600年前の水田跡を採用すると、紀元1世紀のスサノオ時代を基準とすると、「千秋長」が紀元前1500年頃の熱帯ジャポニカ栽培、「五百秋」が600年前頃の温帯ジャポニカ栽培と符合している。
『日本主義 №26』(2014夏)の「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」などに詳しく書いたが、海洋交易民族史観にたってこれらの歴史書を見れば、「鉄器稲作革命」を主導したのは対馬・壱岐の海人族をルーツとするスサノオ・大国主一族であることが明白である。天皇家建国説・大和中心史観の考古学者・歴史学者達にとって、「金属器時代」「イモやマメ、アワ・キビ・ヒエなどの縄文農耕」「縄文稲作」について語ることはタブーなのである。
「土器時代」を世界に積極的に主張しない一方で、奇妙なことに、彼らは「石器―縄文―弥生―古墳時代」というガラパゴス時代区分をいまだにコソコソと用いている。
ここには、高天原(神の国)のアマテラスが縄文人「国津神」の大国主から国譲りさせ、さらにその孫の「天孫族」が日向に降臨し、大和を征服して建国したという2段階建国説の「皇国史観」と、「遅れた縄文人」を「進んだ弥生人」(長江流域からの中国人と半島からの朝鮮人)が征服して建国したという「弥生人征服史観」という、2つの征服王朝史観のご都合主義が見られる。両史観ともに「縄文時代、弥生時代、古墳時代」という時代区分が必要なのである。
「いろんな人たちが集まって縄文人になり、稲作を開始した」という自立発展史観、内発的発展史観など思いもつかないから、「弥生式土器に縄文土偶のデザインが残っていた」などと大騒ぎになるのである。「文化は外からやってくる」という拝外史観から抜けだせないのである。
日本の「皇国史観」「大和中心史観」「弥生人征服史観」の歴史学者たちは、もし自信があるなら、この「ドキドキバカ時代区分」が世界に通用するかどうか、論戦を挑むべきであろう。そして、縄文式土器時代・弥生式土器時代・古墳時代を世界史に位置づけるために努力をすべきである。それができないのなら、「土器抜きの縄文時代・弥生時代」など学問用語としては使うべきではない。私のような多くの素人が邪馬台国論争に乗り出している事態や、いまだに邪馬台国論争に決着がついていない事態を、専門家として恥じるべきであろう。
なお、私は小学校で米を蓄えるために弥生式土器ができた、弥生式土器は稲作開始を示している、と教えられ、どうしても納得できなかった。土器に米を入れて保存したのなど見たこともなかったからである(カビだらけになろう)。そもそも「弥生式土器時代」など、先生の教えに素直ではない私のような小学生をだますこともできなかったのである。
5.「石器―土器」の歴史区分を世界へ
日本の最古の土器は青森県の陸奥半島の陸奥湾に面した外ヶ浜町の大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡から発見された、1万6500年前のものとされているが、これは後期旧石器時代にあたる。中国湖南省で約1万8000年前の土器が発掘されているが、世界でもっとも古い時期の土器の1つであり、世界最古の煮炊き痕のある土器である。
大平山元Ⅰ遺跡の煮炊き痕のある1万6500年前の土器片(ウィキペディアより)
前述のように、私は「種実・穀食」食料生産体制こそが「土器時代」を生み出し、その剰余時間こそが新石器を生み出したと考えており、石器時代(旧石器時代)→土器時代の時代区分こそが重要であり、その次の時代は、鉄先鋤による栽培農業の「鉄器時代」と考えている。
「石器―土器―鉄器」時代区分へ
この「石器→土器→鉄器」の日本型の時代区分を提案できるのは、世界の中で縄文研究の進んだ日本からしかありえない。
そして、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録は、「土器時代」の歴史区分を世界に提案するものでなければならないと考える。「日本中央土器文化遺跡群(富山・新潟・長野・山梨・群馬)」の世界文化遺産登録運動を提案したい。和食のルーツは土器鍋食にある。