ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート107 ドーパミンからの人類進化論―窮乏化進化か快適志向進化か

 ユダヤ教キリスト教イスラム教などの「終末論」や仏教の「末法論」、マルクス主義の「窮乏化革命論」などの影響かもしれませんが、サルは地球寒冷化による熱帯雨林の食料危機により、サバンナに出て二足歩行を始め、槍という石器道具を手に入れ、肉食によって脳を発達させて人間になった、という進化説が広く信じられています。

 このような「人類滅亡論」からの「危機回避進化史観」「肉食脳発達史観」「闘争・戦争進化史観」「オス主導進化説」の文明発達史観に対して、私は「熱帯雨林人類誕生説」「浸水漁撈二足歩行説」「糖質・魚介食脳発達説」「母子・メス言語コミュニケーション脳発達説」「子育て家族・氏族社会形成説」「共同・和平進化説」「快適環境移住説」「メス子主導進化説」などを提案してきました。

 「プッシュ要因説」(窮乏化進化説)に対し、私は肉体的には弱いが言語コミュニケーション能力が高く、好奇心・探求心と冒険心が旺盛で美食志向の革新的なメスサルと子ザルが熱帯雨林の地上や沼で糖質・DHA・タンパク質を食べて脳を発達させ、二足歩行と道具使用能力を獲得し、火山や落雷火災から火の使用を覚え、マラリアなどを避けて高地湖水地方からサバンナに移住して人類となった、という「プル要因説」(快楽志向進化説)を主張してきました。

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 このような私の主張について、ドーパミン研究から新たなヒントがありましたのでこに紹介しておきたいと思います。

 NHK再放送の司会:織田裕二井上あさひ、ゲスト:いとうせいこう、解説:坂上雅道玉川大学脳 科学研究所所長さんらの「ヒューマニエンス 40億年のたくらみ―“快楽” ドーパミンという天使と悪魔」の9月9日再放送の録画をやっと見ることができ、大いに刺激を受けました。

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2.トーパミン(幸せホルモン)がもたらしたグレートジャーニー

 ドーパミンについて、ウィキペディアは「中枢神経系に存在する神経伝達物質で、アドレナリン、ノルアドレナリンの前駆体でもある。運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などに関わる」「中脳皮質系ドーパミン神経は、とくに前頭葉に分布するものが報酬系などに関与し、意欲、動機、学習などに重要な役割を担っていると言われている。新しい知識が長期記憶として貯蔵される際、ドーパミンなどの脳内化学物質が必要になる」としています。

 このような一般的な知識とともに、「幸せホルモン」「報酬系」などという言葉を聞いたことのある人も多いと思います。

 私がこの「“快楽” ドーパミンという天使と悪魔」の番組で特に面白いと思ったのは、河田雅圭(まさかど)東北大教授によれば、アフリカを出た人類はドーパミンの放出量が多く不安を感じにくくなる136番目の遺伝子が「T→I変異」を起こしている、というのです。

 

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 ドーパミン放出量が多く不安傾向の少ないタイプはアフリカの人たちには1割以下に対し、アフリカ出て大移動(グレートジャーニー)を行ったアジアやヨーロッパの人たちは1/3ほどに増え、アメリカに渡った人たちには半数前後の人たちもいます。

 

 さらに、山田真希子量子科学技術研究開発機構脳機能イメージング研究部グループリーダーによれば、「自己評価の度合いが平均より高い人ほどドーパミンの放出量が多く、危険なことでも頑張ってやってみようという傾向が強く、知らない土地への冒険心を支えた」というのです。

 

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 私は「縄文ノート88 子ザルからのヒト進化説」において、子どもの頃に母から「おっちょこちょい」とさんざん怒られた恥ずかしい体験を告白してきましたが、クラスで1割ほどいた無鉄砲で新しい冒険をせずにはおれないアホなことをしてしまう馬鹿たちがアフリカを飛び出し、転々として日本列島にたどり着いたのではないかと考えてきたことが、どうやらドーパミン過剰のせいであったと裏付けられたように思います。

 思い出すと、皆が危険だからと制止してもきかず、蛇を見つけると捕まえて地面にたたきつけて殺してしまう同級生や、山で新しいものを見つけると必ず食べてみないと気がすまない同級生がいましたが、彼らみたいなタイプのサルが樹上の果物などには飽き足らず、地上に降りて蛇やトカゲ・カエル・ワニやイモ類などを食べ始めたのだと思います。

 
3.トーパミン(幸せホルモン)がもたらした共感性

 さらに理化学研究所中原裕之学習理論・社会脳研究チームリーダーは、fMIR(ファンクショナルMIR:磁気共鳴画像診断装置)により被験者が他人の気持ちを考えている時の脳の活動を観察し、「普遍的な人類愛とか社会的な他者への振る舞い、他人の心を読み取る能力の発達に(ドーパミンは)効いており、共感力をもたらし、ドーパミンが生む快楽が人々をつないでくれる」としています。

 

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 ドーパミンはサルの快楽・快適志向や探検・冒険意欲を高め人類の誕生と拡散に大きな役割を果たすとともに、人類の家族愛や氏族・部族の共同力を高め、農耕や都市づくりなど文明の誕生を促したのです。

 

4.「競争・戦争進歩史観」の見直しへ

 地球温暖化・気候変動、コロナウィルスなどの新興感染症、食料危機、格差拡大などに対し、終末思想の『新世紀エヴァンゲリオン』『進撃の巨人』『鬼滅の刃』などのアニメから「人新世」などの「新世紀もの」まで、「生き残りをかけた戦い」が煽られていますが、このような時代だからこそ神が作ったのではない、サルからの人類の誕生を見直してみるべきではないでしょうか?

 2015年9月18日のナショナルジオグラフィックのニュースの『ヒトはなぜ人間に進化した? 12の仮説とその変遷』は「1.道具を作る、2.殺し屋(常習的に殺りくをする攻撃性)、3.食料を分かち合う、4.裸で泳ぐ、5.物を投げる、6.狩る、7.食べ物とセックスを取引する、8.肉を(調理して)食べる、9.炭水化物を(調理して)食べる、10.二足歩行をする、11.適応する、12.団結し、征服する」をあげています。

 「2.殺し屋」「6.狩る」「8.肉を(調理して)食べる」「12.団結し、征服する」など、トルコ南東部(古代シリア北部)の遊牧民であったユダヤ人がカナン(現在のイスラエル)の住民を抹殺して建国した歴史を受け継いだユダヤキリスト教右派系の西欧中心主義の「闘争・狩猟・肉食・戦争征服史観」を全面的に見直す1つの分析としてNHKオンデマンドで「ヒューマニエンス 40億年のたくらみ―“快楽” ドーパミンという天使と悪魔」の「ドーパミン進化説」を見ていただければと思います。

 

<参考:これまでの「ヒナフキンの縄文ノート」の進化説>

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□参考資料□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ

 私は建築の実施設計はやっていませんが、その前段階の建築基本計画(ニーズ調査・建築基本理念・基本方針・施設構成・規模・施設配置・アプローチ・環境景観・イメージ図など)や地区・地域・再開発計画はかなりやっており、阿久尻遺跡の方形柱列巨木建築の復元には興味があります。

 中ツ原遺跡の8本柱や三内丸山遺跡の6本柱の建物の再現が中途半端に終わり、出雲大社の復元模型が誤っている点については、縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』」考」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」で指摘してきましたが、阿久尻遺跡方形柱列の建物の再現にあたって同じ間違いがないよう、これまで考えてきたことを整理しておきたいと思います。

 

1 「柱穴」からの木造文明論

 もし阿久尻遺跡の数本の方形柱列建物が復元されたとしたら、新石器時代(土器時代)の「木造文明」を世界に示すインパクトのある景観ができあがります。石造文明は形が残りますが木造文明は消えてしまいますから、復元作業を行わなければ「木造文明などなかった」ことにされてしまいます。そもそも「旧・新石器時代」という西欧歴史学の歴史区分を私はおかしいと考えており、日本列島の建築・土木・道具文明では「石土木竹時代・土器時代」というべきと考えています。

 「石文明」を重んじる日本の歴史・考古学者たちが「縄文文明」を認めようとしないのは、柱穴から「巨木建築」や人々の生活や信仰・文化をイメージできない創造力の貧困ではないでしょうか?

 形のある石器・土器の研究こそが「科学」であり、成果を出せると思っている人たちの一方で、岡本太郎氏は「縄文芸術」に注目して世界に広めたのです。

 木や竹の古い遺跡・遺物のほとんどは目に見えて残りませんが、古代人の生活文化・建築技術・宗教などは、諏訪の「御柱祭」や播磨の「三ツ山大祭・一つ山大祭」、伊勢神宮の「式年遷宮」などのように現代にまで継承されてきた可能性が高いのです。

 

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 幸い、諏訪地方にはおびただしい数の縄文遺跡から「柱穴」が見つかっています。土しか残っていない「柱穴」から縄文技術・文化・社会の研究を進める穴大好きの「柱穴研究者」が信州からでてきて欲しいものです。土器の穴から粘土やシリコン樹脂で豆やイネなどを検出する手法が確立されているのですから、掘削して埋め戻した柱穴痕ではなく、柱跡を直接検出する方法を確立すべきです。

 

2 阿久尻遺跡の方形柱列建物は同時に何棟あったか?

 阿久尻遺跡の20の方形柱列建物が同時に何棟か存在したとして再現するのか、それとも1つの時代には1本だけであったとして復元するのかは大問題です。

 ちなみに、出雲大社は1108年の地震か台風による倒壊を除くと、1061年、1108年、1109年、1141年、1172年、1235年の6回の建て替えの記録によれば、建て替え年数は平均で43年です。

 一方、縄文人の平均寿命が31歳(茅野市ホームページ参照)ですから、一生のうちに方形柱列建物の建設を一度は体験できるようにするためには、20年ほどで建て替えを行う必要があります。

 もし、7年おき(御柱祭)、20年おき(射楯兵主神社の三ツ山大祭、伊勢神宮式年遷宮)に建てられたすると、43年/7年=6回、43年/20年=2回となり、少なくとも6~7本から2~3本の方形の建物が同時に存在していた可能性が高く、復元されれば世界に類のない7000年近く前の壮大な宗教景観が出現します。

 

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3 「阿久尻→中ツ原・三内丸山」遺跡への「小から大」

 「ヤマト王権の成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している」(ウィキペディア)という記述にみられるように、「古墳=前方後円墳時代」とし、それ以前のものは「弥生墳丘墓」と分類するという奇妙奇天烈な歴史を私たちは習ってきました。

 天皇家により「前方後円墳前方後方墳・円墳・方墳」という身分秩序に合わせた新たな「墓制」が始まったという文献の裏付けのない空想説なども生まれ、それ以前のたつの市の養久山古墳群などの丘の上の「前方後円墳」は無視され、スサノオ大国主一族の建国史と宗教・墓制は「空白の4世紀」などとして記紀神話とともに抹殺されてきました。

 「前方後円墳」は天皇家の墓制とされてきましたが、もっとも古い前方後円墳があり、もっとも多くあるのは播磨であり、「播磨のスサノオ大国主一族の小さな前方後円墳から次第に大きな大和の箸墓古墳などが生まれた」と見るべきなのです。なお、箸墓古墳に埋葬されたモモソヒメは大物主(代々襲名:大物主大神の御子の大年の一族)の妻であり、民の半数以上が亡くなるという恐ろしい伝染病を大物主大神スサノオ)を祭って退散させたとされた大物主(大田田根子)こそ、「昼は人作り、夜は神作る」(日本書紀:昼は天皇家が作り、夜はスサノオ大国主一族が埋葬施設を作った)とされる箸墓古墳に妻とともに埋葬されたと私は考えています。―「縄文ノート74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」 「Seesaaブログ『ヒナフキン邪馬台国ノート』:纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」参照

 前置きが長くなりましたが、天竺様の東大寺南大門や大仏殿、世界最大の吊橋の明石海峡大橋などもいきなり巨大なものができたのではなく、前者は兵庫県小野市の浄土寺でテストしており、後者は若戸大橋関門橋などの経験をもとにしているのです。

 三内丸山遺跡(5900~4200年前頃)の6本柱巨木建築や中ツ原遺跡(5000~4000年前頃)の8本柱巨木建築においてもより小さな先行した巨木建物があったはずであり、私はそれこそが阿久尻遺跡(6700~6450年前頃)の20の方形柱列建築であると考えます。―縄文ノート「23 縄文社会研究会 八ヶ岳合宿報告」「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」等参照

 その意味でも、阿久尻遺跡の方形柱列建物の復元は欠かせないと考えます。

 

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 なお、その際には竪穴式住居が細い丸木を使った「円錐型垂木構造」から、規模拡大や積雪荷重に耐えられるように内部に太い丸太の方形柱と梁・桁を補強した「方形軸組垂木構造」へと変わったり、湿気や増水を避けるために高床に変わるような技術的転換も合わせて考えておく必要があります。

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4 蓼科山信仰の方形巨木柱列

 茅野市教育委員会の『阿久尻遺跡― 県営金沢工業団地建設に伴う造成工事に係る埋蔵文化財緊急発掘調査報告書1993』は、「各方形柱穴列からは柱穴以外の炉址や土器・石器などが検出できていないことから住居や祭祀建物ではなく、主に食料 を貯蔵する高床式の倉庫などの施設が考えられよう」としています。

 しかしながら、大事な食料保管の「倉庫」なら日常的に使い盗難を防ぐためにも集落の中心に建て、多数の巨木など使わない1層の高床式建物にすればよく、倉庫説は成立しません。

 1つを除く19の方形柱列建築が阿久遺跡の立石からの石列の向きと向じように蓼科山を向き、必要以上の多数の列柱を用いており、蓼科山が女神山(めのかみやま)として信仰されてきた歴史からみても、祭祀施設として見るべきと考えます。

 

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 阿久遺跡と阿久尻遺跡は一体的にその機能を考えるべきであり、日本の神名火山(神那霊山)信仰・お山信仰の伝統から判断すべきと考えます。なお、古事記で最初に登場するスサノオの「須賀の宮」、次いで登場する大国主出雲大社大物主大神スサノオ)を祀る美和(三輪)の大神(おおみわ)神社、建御名方を祀る諏訪大社など、それぞれ背後の神山(神名火山)を崇拝する神社信仰にもに引き継がれているのです。

 塩尻市の平出遺跡には神名火山型の大洞山の前に縄文集落があり、その竪穴式住居の中心の広場には立石が置かれています。阿久遺跡の環状列石と立石はこの立石広場の回りに配置された住宅の配置のパターンを模したものである可能性が高いと考えます。

 

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 なお、この平出遺跡の地には「大洞=大穴:大穴持=大国主」、「比叡の山:大年(大物主)の子の大山咋(おおやまくい)の日枝山」「宗賀(そうが)蘇我・曽我・素鵞」、「伊夜彦社;イヤナミ(伊邪那美)が葬られた揖屋)、「平出(ひらいで)=ひないで:日名鳥命」など、スサノオ大国主ゆかりの地名・氏名が集中しています。―「縄文ノート23 縄文社会研究会『2020八ヶ岳合宿』報告」参照

4 阿久遺跡(環状墓地)と阿久尻遺跡(祭祀施設)の関係

 「縄文ノート105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列」で私は阿久遺跡の環状列石は部族社会の「集団墓地」、阿久尻遺跡は「蓼科山信仰の共同祭祀場」であり、方形柱列建築は蓼科山(女神山)信仰の拝殿(神殿)とする説を提案しました。

 

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 古墳をみても、元々は埋葬と祭祀を同じ円墳や方墳の墳丘の上で行っていたものを、後には墓地の円墳や方墳の手前に扇形や長方形などの祭祀場所を設けるようになっており、縄文時代においても埋葬場所と祭祀場所を分離する「葬祭空間分離」が行われたと考えられます。

 記紀神話ではアマテル(本居宣長説はアマテラス)の墓の前で天宇受売(あめのうずめ)が「胸乳をかき出で、裳緒を陰(ほと)に押し垂らし」てアマテルの石棺の上蓋(石屋戸)の上に桶を置いてその上で足音を鳴り響かせて神がかりして踊り、「八百万神ともに笑う」とし、魏書東夷伝倭人条では「喪主は哭泣し、他人は就きて歌舞飲食す」と書かれ、沖縄や津軽では墓前で祖先霊ととともに食事をする伝統が残っているように、元々は「葬祭同空間」であったものが、「葬祭空間分離」に変わった可能性が高いと考えます。

 図7に見られるように、阿久遺跡と阿久尻遺跡の間には遺跡の「空白ゾーン」があるとされ、茅野市教育委員会の報告書では別々に考察していますが、500mの距離というと難なく歩ける「徒歩圏」として商業施設計画では重要な基本単位であり、阿久遺跡と阿久尻遺跡は別々に考えるのではなく統一的に分析すべきと考えます。

 

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 さらには大規模な環状共同埋葬遺跡と共同祭祀遺跡を作った周辺の集落との関係についても統一的にとらえ、防衛的な「都市」を形成しない「分散集落ネットワーク型」の分業・交易・共同祭祀の「部族文明社会」の解明を進めるべきと考えます。

 阿久遺跡と阿久尻遺跡については、単に忙しいから連携ができていないだけだと思いますから、原村と茅野市の関係者は協力して分析・展示・復元に取り組んでいただきたいものです。

 

5 阿久尻遺跡の方形柱列建物の建設段階

 阿久尻遺跡の20の方形柱列建物がどのような順番で建てられたかについでは、成長期の「小から大」とともに、衰退期の「大から小」へ流れもあった可能性があり、その配置とともに検討する必要があります。

 A区には12本柱のA1号方形列柱(唯一蓼科山を向いていない)が15棟の竪穴式住居の中心部にあり、B・C区は19の方形列柱に24の竪穴式住居があり、方形列柱の一番小さなものはC6号の8本柱で、最大のものはC9号で18本柱です。

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 私の仮説は、もともとA区に方形拝殿(神殿)を建てた始祖集落があり、墓地は一段高い阿久遺跡に設け、やがて次々とそこから分離して周辺に氏族単位の集落が点々とでき、共同環状墓地を阿久遺跡としてつくり、共同祭祀場としてB・C地区に巨木の方形拝殿(神殿)を最盛期では18の氏族がそれぞれ神木を持ち寄って造るようになった、というものです。

 放射性炭素年代測定などによって20の方形柱列のおおまかな建造時期が判るものなのかどうかは確かめていませんが、復元にあたってはA区とB・C区の前後関係だけでもはっきりさせたいものです。

 A区では竪穴式住居とA1号方形建物からなる集落の復元、B・C区は2~3本の方形建物といくつかの竪穴式住居の復元の検討が求められます。

 

6 復元建築の例

 柱穴・柱痕しか残されていない建物の復元では、わが国ではこれまで「出雲大社型・中ツ原遺跡型・三内丸山型・吉野ヶ里型」の4タイプの例が見られます。

 

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 一番基本的なのは出雲大社型で、地面に柱根の大きさ示す表示を行うとともに、その近くに3本柱を束ねた復元展示を行い、島根県立古代出雲歴史博物館に復元模型を展示しています。

 中ツ原遺跡は2種類の高さの柱を復元し、三内丸山遺跡は発掘した柱穴をドームで覆って見学できるようにするとともにその前に6本柱の屋根のない塔を復元し、吉野ヶ里遺跡原の辻遺跡は魏書東夷伝倭人条に書かれた「楼観」として復元しています。

 西洋・中国文明への劣等感の強い拝外主義の日本の考古学者・歴史学者たちは「縄文人=野蛮・未開人」「弥生人=中国・朝鮮系の文明人」という強い思い込みにとらわれ、吉野ヶ里遺跡6本柱建物や壱岐原の辻遺跡の9本柱建物には屋根を付けながら、縄文時代の中ツ原遺跡では柱だけ、三内丸山遺跡縄文人の巨木建築は屋根のない建物として区別して復元しています。

 三内丸山遺跡では、大型建物や竪穴式住居、高床式建物には屋根や壁を付けながら、大人数の人々の共同作業のもっとも重要な巨木建築に屋根を付けず、朽ちるに任せたと考えているようですが、私には到底理解・承服できません。

 

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 技術には「小から大」の法則があり、建物も小さなものから大きく、高くしたと考えられ、縄文人の建築技術者も当然ながらそうしたに違いなく、竪穴式住居から高床式建物、さらには6本巨木柱建築へと技術を発展させたのは確実で、少なくとも屋根をつけた建物にすべきでした。屋根(や壁)を付けないよほどの合理的理由がないかぎり、屋根(と壁)を付けるべきなのです。

 世界遺産登録によって「縄文人野蛮・未開人説」を世界に広めた最悪の見本が三内丸山遺跡の「屋根(壁)なしタワー」です。岡本太郎氏は縄文芸術家を見出して世界にアピールしましたが、三内丸山遺跡では縄文建築家や縄文とび職人はいなかったことにされてしまいました。

 あのような素晴らしい縄文土器を造ることなど到底できない私は縄文芸術家たちを尊敬していますが、同じように巨木建築家やとび職人たちがいた可能性が高いと考えます。建築経験のない考古学者たちはそもそも「屋根なし壁なし建築」などという空想的な創作など行うべきではなかったのです。

 

7 復元建築の縄文・弥生断絶史観の誤り

 日本の考古学者・歴史学者のもう1つの大きな問題点は、「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」であり、「縄文人=原住民=土人」=「野蛮・未開人」=「竪穴式住居民」「弥生人=征服民族」=「文明人」=「高床式住居民」とする戦争侵略史観・断絶史観・外発的発展史観に陥っていたことです。

 中国文明を取り入れながらも、「主語-目的語-動詞」言語構造を崩すことなく、倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造とした縄文人の主体的・独創的な内発的発展など、自分の頭で考えることもない情報輸入学者たちには想像もできないようです。

 縄文遺跡から竪穴式住居と高床式住居が同時に出てくるとともにDNA分析や言語分析が進み、さすがにこのような時代錯誤の軍国主義的な征服史観は少数派になりつつありますが、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録において「屋根も壁もない縄文建築」の誤ったイメージを世界に広めた責任は重大です。―「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

 三内丸山遺跡の6本柱建築復元の誤りを認めて正さないというなら、「高床式住居から6本柱巨木建築への移行は技術的・文化的にありえない」「縄文人は屋根や壁を作ることができなかった」などの証明を今からでも行うべきです。

 それが証明できないのなら、せめてあの縄文文明を否定した恥知らずの「見張り台」に今からでも屋根を付けるべきです。

 古代には48mあったという杵築大社(出雲大社)、インドネシアパプア州コロワイ族の地上30mの樹上住宅(NHK地球イチバン「コロワイ族・樹上の家」図書博文著)、12~17mの諏訪大社御柱などは、サルのDNAを受け継いだ人類には高所作業が得意な立派なとび職人がいたことを示しているのです。

 世界最長の明石海峡大橋を建設した技術者・とび職人のように、技術は継承され、発展するものなのです。

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5 記紀神話の無視した復元建築

 「世界を照らすアマテラス絶対神」の子孫の現人神(あらひとがみ)の天皇を国民に信仰させ、侵略戦争を思想的に推進した「皇国史観」(天皇中心の神国史観)への批判・反省から、戦後の日本の考古学者・歴史学者の多くは古事記日本書紀記紀と略記。最古の歴史書古事記を主に引用)のスサノオ大国主一族の建国史を8世紀の創作神話として捨ててしまったのですが、この戦後の偏狭した「反皇国史観=反記紀神話史観」もまた、スサノオ大国主国史から縄文研究へと進む手掛かりをはく奪してきました。

 記紀で、最初に現れる祭祀施設は出雲の揖屋にあった「天之御柱」で、その周りをイヤナミ・イヤナギ(伊邪那美伊邪那岐:私説は邪馬台国の「邪=や」と同じ読み。通説はイヤナギ:イヤナギ読み)は左右に分かれて「廻り逢い」、イヤナミが先に「あなにやし、えをとこ」(あら、いい男ね)と言って「美斗(みと=美しい容器=美門=ホト)のまぐわひ」を行ったとしています。

 この記述を何の先入観もなく読めば、吉野ヶ里遺跡佐賀県)や平原遺跡(福岡県前原史)の墓の前の「立柱」や広峯神社姫路市)や諏訪大社などの「御柱祭」のルーツはイヤナミ・イヤナギ以前からあった縄文人の「御柱」にあり、しかも、女が男を選んで結婚する母系制社会であったことが明らかです。―縄文ノート「13 妻問夫招婚の母系制社会1万年」「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」参照

 

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  また、壱岐対馬を拠点とする「海人(あま)族」のナギが揖屋にやってきたとき(揖屋のナミはナギと一緒にやってきたのではなく、この地の王女であったと考えれられます)、そこには「天之御柱」と「八尋(やひろ)殿」(両手を伸ばした幅160㎝×8=13mほど)があったというのですから、出雲大社本殿の13mとほぼ同じ大きさの巨大な建物があったことになります。―「『季刊山陰』38号「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」参照

 

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 この「八尋(やひろ)殿」神話は出雲大社を参考にして「八尋」の大きさにした可能性もありますが、揖屋縄文人が前から「八尋殿」を立てており、大国主はそれを高くした可能性も大きいと考えます。

 なお、6000~5500年前頃の中ツ原遺跡の8本柱の長軸方向が6尋以上あり、5900-4200年前頃の三内丸山遺跡の6本柱間が8.4m(5尋ほど)であることからみても、紀元1世紀の揖屋の「八尋殿」の大きさは誇張ではなないと考えます。

 さらに古事記スサノオの「須賀の宮」と「稲田の宮」(八重垣の宮)を載せ、大国主を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」の王とし、大国主の「住所(すみか)」「天の御舎(みあらか)」「天の御巣(みす)」「天の新巣(にいす)」の建築の様子を具体的に述べています。―「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

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 この古事記の記載によれば、「水穂(みずほ=水稲)」の栽培開始は、大国主より500~1000年前になります。大国主の即位年を31~50代天皇の即位年の最小二乗法による計算で「紀元122年頃」と私は推定していますが、そこから「千秋長五百秋」となると紀元前900~400年前頃となり、佐賀県唐津市の菜畑遺跡から始まり各地に広まった水田遺跡の年代と符合します。―「縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者(『季刊山陰』38号)」参照

 この紀元2世紀の大国主の「住所(すみか)」である杵築大社(きずきのおおやしろ)出雲大社本殿は屋根と壁がある魏書東夷伝倭人条に書かれた「楼観」(観望用の楼(高い建物))であることが明らかであり、3世紀頃の吉野ヶ里遺跡原の辻遺跡の「屋根あり壁なし楼観」=見張り台としての復元もまた誤っていると私は考えます。

 古事記によれば2900年前頃からの「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」の後継王が大国主であると認識されていたことが明らかであり、縄文農耕の内発的発展としてスサノオ大国主一族の百余国の建国が行なわれたのであり、当然ながら建築技術もまた「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の木造国」として縄文時代から継承されていた可能性が高いのです。

 記紀神話の無視ではなく、記紀・魏書東夷伝倭人条などの文献をもとに、縄文時代からスサノオ大国主建国への「建築思想・技術の継承性」を踏まえて吉野ヶ里遺跡原の辻遺跡の巨木建物は復元される必要があると考えます。

 

6 宗教と文献を無視した出雲大社再現模型

 部族社会において多くの氏族が集まり長期間かけての共同作業となると、共同祭祀の宗教施設か集会施設、防衛・防災・備蓄のための建物とみて間違いありません。

 その中で、高さを求めた大型の建物となると、天神信仰の宗教建築物に絞られますが、この「楼観」は死者の霊が天に昇る神木(神籬(霊洩木)=御柱)を「心御柱」として立てた建物であると同時に、神山(神名火山(神那霊山)を遠望する拝殿であったと考えます。

 

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 「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考において私は次のように書きましたが、構造的にも弱く耐久性のない直階段としたのは「引橋長一町」の資料を木デッキ(桟橋)ではなく、階段と誤って解釈したためです。

 

 48mの中古の出雲大社は外直階段ではなく、神籬である「心御柱」を中心にした廻り階段であり、後の仏塔の「心柱」に受け継がれたと考えます。外階段は横風を受けて構造的に弱く、廻り階段の内階段だと建築用の足場を外側に組む必要がなく合理的です。

 考古学者や建築家たちが長い外階段と錯覚したのは、金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」と書かれた長方形の図を直階段と勘違いしたもので、階段なら「きざはし(階)」と書いたはずですし、「登る橋」なら階段になりますが「引く橋」では階段になりません。「引橋長一町」は100m長の海岸から本殿へ続く木デッキであり、全国各地からの神々の舟を引いて係留し、本殿に人々を導いたのです。-「縄文ノート50 『縄文6本・8本巨木柱建築』から『上古出雲大社』へ」参照

 

 日本書紀の巻第二の一書第二には「汝(注:大国主)が住むべき天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう。又天安河には、打橋を造ろう」と書かれており、天日隅宮(天霊住宮=出雲大社本殿)の前には海に出て鳥船(帆船)で遊ぶための高橋(木デッキ)と浮橋(浮き桟橋)があり、天日隅宮の傍の天安河(素鵞川か吉野川の旧名の可能性)の打橋(木か板を架け渡しただけの取りはずしの自由な橋)があったのです。

 前者の「高橋+浮橋」が「金輪造営図」に書かれた「引橋長一町」であり、条里制の「一町」=109mで計算すると、拝殿前の銅の鳥居(四の鳥居)のあたりが水辺であったと考えられます。

 

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 「引橋長一町」を直階段とした福山敏男元京大教授(私は日本建築史を教わりましたが学究肌の真摯で厳格な先生でした)のこの誤りを直すと、出雲大社は直階段のない「心御柱」を巻いた廻り階段の高層拝殿(神殿)となり、魏書東夷伝倭人条に書かれた3世紀の「楼観」と同じになり、縄文建築の拝殿(神殿)の伝統を受け継いだ可能性は高いと考えます。

 では大国主はこの神殿(楼=古代中国では2階以上の建物)に住み、何を「観」ていたのでしょうか。直接には背後の八雲山と思われますが、仏教山・琴引山・三瓶山・大黒山などの神山(神名火山=神那霊山)、さらには海人(あま:天)族の故地である対馬などを崇拝するととともに、出雲平野全体を「国見」し、神在月(各地は神無月)に全国から神々が集まる稲佐の浜などを観望したと考えます。同時に、出雲の人々や全国各地から「神在月(神無月)」に集まる大国主の180人の御子やその一族などにとっては、目印(ランドマーク)であり崇拝の対象であり、夜には灯台の役割も果たした可能性もあります。

 

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 さらに日本書紀によれば、スサノオは御子のイタケル(五十猛)とともに新羅に渡り、出雲に帰ってきていることからみて、出雲と新羅には「宗像~沖ノ島~津島~新羅」ルートとは別に、「出雲~新羅」の直行の「米鉄交易ルート」があった可能性も高く、その目印として重要な役割を果たした可能性もあります。

 

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 縄文時代の阿久尻遺跡の列柱建築の復元にあたっては、文献上明らかであり、その後も再建が繰り返されてきて具体的に建設の様子が書かれた紀元2世紀の大国主の世界最高の48mの出雲大社を参考にすべきであり、単なる空想で計画すべきではありません。

 石造文明の巨大宗教建造物のように廃墟として残るのではなく、木造文明は「建て替えられてきた歴史的遺跡」「祭りとして伝えられてきた文化」として見るべきであり、現存する出雲大社御柱祭をもとに阿久尻遺跡の列柱拝殿(神殿)の復元が図られるべきです。

 石造文明の固定概念にとらわれた西欧中心史観の文明観が重きをなしている可能性の世界遺産登録の規定に対しては、「木造文明」の歴史的価値の回復について強力に主張する必要があると考えます。

 

10 「屋根壁一体型建物」か、「屋根壁分離型建物」か?

 「縄文遺跡から屋根や壁、床などの痕跡が見つかっていない以上、科学的には柱しか再現できない」という意見もありそうです。

 戦後の反皇国史観には「考古学こそが科学であり、考古学から歴史を書き換えよう」という極端な「唯物(ただもの)科学主義」の主張も見られましたが、今や民族学文化人類学民俗学や宗教学、神話学などを「非科学」と否定する人など少数と考えます。

 阿久尻遺跡の列柱拝殿(神殿)の復元にあたっては、いろんな考えうる限りの仮説案を出し、もっとも矛盾の少ない仮説案を採用する「最少矛盾仮説法」によるべきと考えます。

 そこで前からずっと私が頭を悩ましてきたのは、「屋根壁一体型の竪穴式住居型」とするか、「屋根壁分離型の高床式建物型」とするかでした。

 というのは、6世紀前半の今城塚古墳(第26代継体天皇陵)の家形埴輪などには寄棟型建築の屋根に斜めに大きな煙り出し屋根(仮に大破風屋根と名付けます)を乗せた2段屋根(おそらく2階建て)が見られるからです。「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3重構造の言語文化の例からみて、倭人の文化はスクラップ・アンド・ビルド型ではなく重層構造型であり、縄文の建築文化を引き継いで2種類の屋根構造の建物にした可能性が高いと考えます。

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 出雲大社など古い建物や漁家民家が妻入(短辺から入る)であることからみて、上の大破風の屋根型が古く、寄棟の仏閣などの平入の下の屋根型が新しいと考えれられます。

 そこである年代以上の方はすぐに鮮明に思い出されると思いますが、インドネシアの「トアルコトラジャ」珈琲が出てきた時、マークの逆台形の屋根の民家の写真が紹介されたときに、おそらく強いインパクトがあったはずです。私もどうしてこのような形になったのか不思議でしたが、古代史をやるようなって家形埴輪の上に乗った屋根の形とそっくりであることに気づき、家形埴輪の上の大破風屋根はもともとは南方系であった可能性が高いと考えるようになりました。

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 雨の多い赤道直下で鉄器による板材の製造などできなかった石器時代にトラジャ族(「高地の人々」の意味)が木や竹、ヤシの葉などで高床式の建物をつくるとなると、雨が降り込まないようにして開け閉めできる窓のある壁をつくることなど難しく、平側(長軸側)は屋根壁一体型とし、妻側を出入りと明り取り、煙り出しの開口部とし、屋根を前にせり出して雨の吹込みを防ぐ形にするのはきわめて合理的です。

 「つま(妻)、おっと(夫)」の呼び名は、客を迎える明るい入口の妻側にいる女性を「妻」とし、奥にいる男性を「奥人(おくと→おっと)」とした可能性があります。

 日本列島において、寒さをしのぐ窓のない暗い竪穴式住居から、湿気を避けた風通しのいい高床式建物への移行を図るとしたら、「屋根壁一体型」の大きな明り取りと煙り出しがある竪穴式住居をそのまま持ち上げ、雨を防ぎ明りを取り入れ、煙だしのために屋根先を前に突き出した屋根壁一体型構造とした可能性が高いと考えます。

 弥生時代中期後葉(紀元前1世紀頃)の鳥取県米子市の稲吉角田(いなよしすみた)遺跡の土器図のA図は屋根だけで、B図には大破風屋根の下に竹を編んだ網代壁のような居室を書いた図になっていますが、Aの「屋根壁一体型」が古く、Bの「屋根壁分離型」が新しいと考えます。―「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

 

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 弥生中期の堺市和泉市の池上・曽根遺跡の大型建物のような「屋根壁一体型」建物が本来の姿であり、世界遺産に登録された岐阜県富山県白川郷五箇山の合掌造りは一階部分を除くと上の階は妻側しか窓がない構造であり、縄文時代からの建築の伝統を受け継いでいると考えます。点線のような屋根とし、1階部分を柱だけとしたものが縄文時代の高床式住宅ではないでしょうか?

 

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 大湯環状列石では寄棟屋根だけの建物を復元し、三内丸山遺跡では寄棟屋根と切妻屋根の屋根壁分離型の板壁建物を復元し、出雲大社の復元模型は切妻型のの屋根壁分離型の建物としていますが、私は池上・曽根遺跡の「屋根壁一体型建物」の復元こそが正解と考えます。

 

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11 棟持柱と氷木(千木)のルーツ

 「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」ではチカモリ遺跡(金沢市)・真脇遺跡能登町)・桜町遺跡(小矢部市)の環状木柱列を取り上げましたが、それらは単なる列柱ではなく、「円形平面竪穴式住居」から「方形平面高床式建物」への移行期の中間の「円形平面高床式建物」であると私は考えます。―「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」参照

 出雲大社心御柱(しんのみはしら)の周りに6本の側柱(がわばしら)をもうけ、その外側にせり出した棟木(むなぎ)を支える棟持柱(むなもちばしら)を設けているのとトラジャの大破風(はふ)の棟木を棟持柱で支えている構造は同じであり、両者の屋根は建築技術的にも類似性があります。

 

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 6世紀前半の今城塚古墳(第26代継体天皇陵)でも大破風の棟が前にせり出した屋根がシンボリックに使われていることや出雲大社の棟持柱からみて、縄文時代の円形竪穴式住居の大きな明り取りと煙り出しの屋根構造が、方形の高床式に変わったときにも継承されて妻入屋根の屋根壁一体構造になった可能性と、東南アジアから直接に伝わった可能性の両方があると考えます。

 

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 2019年10月に大学のOB会で茅野市の与助尾根遺跡の竪穴式住居を見学した時、煙り出しと明り取りの開口部の大きさにびっくりするともに、神社建築の千木(ちぎ:古事記では「氷木=ひぎ:筆者説は霊木」)のルーツは縄文時代の竪穴式住居の屋根の垂木を伸ばして棟木を支えたものと考えました。

 

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 現場には伝統文化とモダニズムの融合を図ろうとした著名な建築家である堀口捨己氏設計の復元住宅とその骨組みも再現されていましたが、残念なことに垂木(屋根を面的に構成する材)を伸ばした千木(氷木)を設けていなかったものの、神社建築の千木(氷木)のルーツが竪穴式住居にあることを構造的に確認することができました。

 ただ堀口氏の復元住宅では斜めの垂木を支える妻側の梁(はり)しか設けておらず、平側の垂木を支える桁(けた)は設けていない点は不完全と考えます。前掲の図3の狭山市博物館の円錐型垂木構造の中に方形軸組を設けた構造とすべきではなかったかと考えます。

 また、前掲図3の今岡克也氏の図や堺市教育委員会の下田遺跡の説明図では方形柱・梁・桁軸組構造としていますが、垂木は棟木から地面まで連続しておらず、「垂木2段屋根構造」になっています。

 

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  円形平面の竪穴式住居から方形平面の切妻型高床住宅への転換期においては、複数のタイプの住宅があったと考えられます。

 竪穴式住居に「方形柱・梁・桁構造」の取り入れた転換期の構造の解明には、全ての柱穴の大きさと傾きの正確な調査が必要であり、さらに精密な発掘が求められます。

 なお、東南アジア山岳地帯には千木(氷木)のある建物は多く、日本の神社建築の千木(氷木)のルーツもまた、竪穴式住居からの「内発的発展」である可能性とともに、東南アジアから大破風や棟持柱とともに伝わった可能性も高いと考えます。

 「ピー信仰」が「霊(ひ)信仰」として伝わっていることやイモ食・もち食文化、ソバや温帯ジャポニカのルーツなどからみて、建築・住まい関係の言語の調査が求められます。

 

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12 方形列柱建築復元の残された検討課題

 以上の検討により、さらに未解明の点がでてきており、列挙して各方面からの調査・研究を期待したいと思います。

① 高さをどう想定するか?(巨木柱長とするか、周辺の樹高を超えるとするか、など)

② 屋根材は何か?(茅・ワラ・檜皮・竹など)

③ 床材は何か?(丸太・板・竹)

④ 梯子・階段はどのように設けたか?

⑤ 阿久尻遺跡の正方形列柱建物から、中ツ原遺跡や三内丸山遺跡の長軸が蓼科山八甲田山を向いた長方形列柱建物では神山を崇拝するための窓がある構造ではなかったか?

⑥ 方形列柱建築の共同作業に関わった縄文集落の範囲は?(石や土器の分析など)

⑦ 建築に要した期間と必要な食料備蓄は?(縄文農耕の証明)

 

13 縄文文明を世界文明解明の基準に

 「縄文ノート48 縄文からの『日本列島文明論』」において、私は次のような表で「縄文文明」の規定を提案しましたが、赤字を部分を追加したいと思います。

 「世界四大文明」からの文明規定ではなく、アフリカ・アジア・アメリカの消え去った森林・木造・焼畑農耕文明や海人族文明などの全体的な解明に向け、世界でもっとも発掘調査が進み、侵略がなくて古い文明がそのまま現代にまで継承されてきた縄文文明の提案が求められます。

 そのためには、森林・木造文化を示すシンボルとして「縄文巨木建築の再現」とともに「日本中央縄文文明」の世界遺産登録運動が必要と考えます。

 

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<参考「ヒナフキンの縄文ノート>

48 縄文からの「日本列島文明論」 

49 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録をめざして

51 縄文社会・文明論の経過と課題

57  4大文明と神山信仰

58 多重構造の日本文化・文明

59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり

72 共同体文明論

77 北海道・北東北の縄文世界遺産登録の次へ

82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ

84 戦争文明か和平文明か

90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制

 

□参考資料□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群

 阿久遺跡は6000~5500年前頃の世界最古の巨大な集合墓地の「環状列石」と神山天神信仰の「立石(金精)から蓼科山へ向かう石列」の祭祀遺跡であり、中ツ原遺跡の「蓼科山信仰の楼観拝殿と仮面の女神像(国宝)」と合わせて縄文ノート104で明らかにしました。

 

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 蓼科山(女神山)信仰の「立石石列・楼観拝殿・女神像」の3点セットが同じ遺跡からは見つかっていませんが、HP(ホームページ)で検索していると阿久遺跡のすぐそばに阿久尻遺跡があり、なんと「20の大小の方形柱穴」があることが茅野市ホームページに掲載されていたのです。

 縄文人蓼科山信仰は阿久尻遺跡の「楼観拝殿」により補強され、棚畑遺跡の「縄文のビーナス(国宝)」を加えると5点セットになり、世界最古の神山天神信仰の宗教遺跡であることが明確となりました。「日本中央縄文文明」の世界遺産登録運動のシンボル施設として国営歴史公園への可能性が大きく開けてきました。

 

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1.20の方形柱穴列のある阿久尻遺跡

 「縄文ノート96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」において、私は「現地の説明板によれば、7000年前頃の始祖集落から、6000年前頃には分散した氏族・部族の共同祭祀場に変わった可能性が高く、北の大早川と南の阿久川にはさまれた台地全体に遺跡が分布している可能性が高いと考えます。未発掘の環状集積群の南半分とともに、国史跡指定範囲よりさらに広く発掘調査が必要と考えます」「中ツ原遺跡の蓼科山を望む8本巨木跡、三内丸山遺跡八甲田山を望む6本巨木跡からみて、この地にも同じ規模の巨木楼観拝殿と女神像があった可能性が高いと考えます」と書きましたが、なんと、方形柱穴の阿久尻遺跡の写真が茅野市のホームページにあったのです。

 その写真(右)には穴の中に人が立っており、その大きさと深さが判ります。

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 その場所をHPの写真と国土地理院地図で調べてみると、大早川と阿久川にはさまれた台地の阿久遺跡の下流の台地でした。

 

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2.施設配置

 20の方形木柱列の配置は図5の通りです。図4のA区に15軒、B・C区に24軒 の住居跡と20の方形柱穴が検出されています。

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 古墳など見ても明らかなように、建築物や建造物は、一般的に「小から大、大から小」へと技術的・社会的に拡大期から衰退期への変化しますから、環状墓地に近いA区・B区の小さな方形柱穴が古く、C区の大きなものが最盛期で、その周辺の小さなものが衰退期であった可能性が考えられます。

 両側を川に挟まれた台地の一番高い東の阿久遺跡に環状列石(墓地)と立石・石列の墓地を置き、窪地を隔てた西の丘に順に西に向けて方形木柱列を建てていったと考えれられます。「前に祭祀施設・後ろに墓地」の前方後方墳前方後円墳の原型のような配置と考えます。

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  地盤高と大きなC9(図7)、C7,C5、C11、C10、C14の配置からは、「縄文お祭り広場」を中心とした円形の配置が浮かびあがります。その中央に立石などの祭祀遺構はなかったのでしょうか?

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 阿久尻遺跡・三内丸山遺跡・中ツ原遺跡の方形・矩形柱列の規模・時期は表1のとおりですが、建築時期からみて、四周を多くの柱で囲った「阿久尻型建物」を基本として、巨木化とともに柱を間引いた「三内丸山型6本柱建物」「中ツ原型8本柱建物」が派生したと考えられます。

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 人口が増え、各地に分住するようになった氏族が、各集落から氏族の霊(ひ)信仰の神木を持ち寄り、始祖の地で霊(ひ)信仰の共同祭祀を行った可能性が高く、それが8~18本の柱を方形に立てた神殿になったと考えれらます。

 今も各集落から山車・神輿・屋台などに各家の祠から神霊を移し、集落者、村社や郷社に運び、御旅所に運んで天に送り、再び迎えてまた各家に帰す行事が想定されます。

  なお、図8のように霧ケ峰・蓼科山八ヶ岳山麓(霧蓼八高原と仮名)には多くの旧石器・縄文遺跡があり、阿久尻遺跡と中ツ原遺跡の約1000年の間の縄文前期後半(6000~5000年前頃)の方形列穴遺跡が環状列石とワンセットで他にもある可能性が高く、「霧蓼八縄文巨木建築文明」という視点から他すべての縄文遺跡の「巨木柱痕」の再分析が求められます。

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3.阿久尻遺跡の方形木柱列は女神山・蓼科山信仰の楼観拝殿

 縄文ノート「23 2020八ヶ岳合宿報告縄文」「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「35  蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と霊(ひ)信仰」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立棒・石列と中ツ原楼観拝殿」などにおいて、私はスサノオ大国主一族の神名火山(神那霊山)信仰のルーツとして、中ツ原遺跡の8本柱の巨木建築は蓼科山を女神山として信仰する高楼神殿(拝殿)であると主張してきました。

 そして、他にも同様の蓼科山信仰の拝殿があるはずであると予想しましたが、なんと隣接する阿久尻遺跡に20もの方形柱穴があり、図9のように、それらは1例除き、全て蓼科山を向いているのです。

 

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 これらの木柱列の建物は死者の霊(ひ)が神山・蓼科山から天に昇り、降りてくるという神山天神宗教の拝殿であり、生産力の向上と氏族・部族人口の増大により巨大化し、天に近づけるよう2000年近くかけて阿久尻遺跡から中ツ原遺跡の8本柱巨木楼観拝殿へとより高く、巨木柱になったと考えられます。

 阿久尻遺跡の方形木柱列内には生活痕がなく、かなり広い範囲から大勢の氏族・部族のメンバーが集まって方形木柱列周辺の竪穴式住居に一時的に住み、御柱祭のようにかなりの時間を掛けた共同作業が行われたと考えられ、阿久遺跡の環状列石の集団墓地の中心広場に置かれた立石(金精=女神の神代・依り代)と2列の石列(女神の霊(ひ)を運ぶ神使の通路)と同じく蓼科山を向いているのです。

 重要な点は、現代まで蓼科山が女神山(めのかみやま)として信仰され、蓼科神社の信仰が続き、御柱祭が続いていることで、世界遺産登録の決め手となります。

 

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 さらに興味深いのは阿久遺跡と蓼科山を結ぶ線状の途中に尖石(とがりいし)があり、古代から信仰されてきた痕跡があります。

 平津豊氏のHPによれば三角錐の石の頂点からの斜辺が蓼科山を向いているのです。

 また私は現地では確かめていませんが、平津豊氏の図が正確で見通しがいいなら、もう1つの斜辺は糸魚川断層帯にそって富士山に向かい、残る斜辺は西を向いているはずです。

 阿久遺跡から蓼科山を目指して歩いた縄文人はこの尖石を見つけ、その向きから神聖な石と考え、その傍に集落を築き、信仰していたのに違いありません。

  

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4 阿久遺跡・阿久尻遺跡を国営歴史公園に!

 関係者のご努力で県営金沢工業団地の建設にあたって阿久尻遺跡は工場の敷地から外されて緑地化されており、ここに10数棟の巨木楼観拝殿や竪穴式住居からなる史跡公園を建設することは可能です。

 

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 史跡保存と工業開発の併存を図ったケースとして、世界遺産登録の条件をクリアすると考えます。その景観を想像してみて下さい。

 一方、阿久遺跡は残念ながら中央自動車道が遺跡を分断していますが、高速道路の地下トンネル化ができれば、世界遺産登録の条件を満たすと考えます。立石と石列から蓼科山へ向かう眺望が確保されないと世界最古の神山天神信仰世界遺産としての価値はないと考えますが、そのような遺跡を分断した国の責任は重大です。

 

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 世界でもっとも古い新石器時代(土器時代:通称は縄文時代)の神山天神信仰の施設であり、巨木楼観拝殿を作り上げることが可能な焼畑農耕の部族社会の成立を示す遺跡として、全世界からの見学客を受け入れるためには、アプローチ整備が不可欠であり、原PAの「スマートIC」化と両遺跡の「ぷらっとパーク」化、さらには「原PAの下りパーキングエリア整備」が必要と考えます。

 

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 「日本中央縄文文明世界遺産」の登録運動のセンター施設として、その整備にあたっては、国営歴史公園としての取り組みを求める必要があると考えます。

 

5 世界最古の「神山天神信仰の巨木楼観拝殿」「焼畑農耕文明」の再確認へ

 前回の「縄文ノート104 日本最古の祭祀施設」の再掲になりますが、12000~8000年前の「人類最古の神殿・トルコのギョベクリ・テペ」は遺跡・遺物しか残っておらず、その宗教もこの遺跡を作った文明の姿も明らかになりませんが、阿久・阿久尻遺跡は「女神・神山信仰の天神信仰」を明確に示す世界最古の文明遺跡であり、さらに世界最古の焼畑農耕を示す遺跡として現代のお山信仰・神籬(霊洩木)信仰・金精信仰や御柱祭焼畑農業の伝統やソバの食文化などに続いています。

 今後、必要なことは「よそ者、若者、ばか者」による世界遺産登録運動であり、「縄文研究4巨人(藤森栄一・宮坂英弌・児玉司農武・今井野菊)」の伝統を持つ信州の市民歴史研究の底力の発揮と「日本ロマンチック街道」の長野・群馬・栃木の連携、さらに「千曲川信濃川文化」連携、「八ヶ岳山麓の「日本遺産」連携、「黒曜石・ヒスイ・塩の道」連携などの広がりが求められます。

    f:id:hinafkin:20211030123813j:plain

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート104 日本最古の祭祀施設―阿久立棒・石列と中ツ原楼観拝殿

 私が阿久(あきゅう)遺跡について最初に知ったのは昨年の2020年8月3~5日の縄文社会研究会の八ヶ岳合宿の参加者向けに見学資料を作成した時ですから、縄文研究については駆け出しの素人もいいところです。―「縄文ノート「22 縄文社会研究会八ヶ岳合宿 見学資料」「23 縄文社会研究会 八ヶ岳合宿報告」参照 

 私は2000年頃から取り組んできた「スサノオ大国主建国論」の延長で、2012年から京大工学部建築学科の大先輩(当時は助教授)の上田篤さんの主宰する縄文社会研究会に参加し、「古代国家形成からみた縄文社会―船・武器・稲作・宗教論」について講演し、霊(ひ)信仰史観と海洋交易民族史観からの分析をブログなどに書いていました。

 やっと2019年(同窓会)と2020年(縄文社会研究会合宿)に八ヶ岳山麓の縄文遺跡を訪ねる機会があり、環状列石の中心に置かれた立棒(金精)から石列が向かう先の蓼科山が典型的な「神名火山(神那霊山)」であることを確認でき、その夜の会議では「国宝級の縄文遺跡が中央自動車道により破壊されている」ことを世界遺産登録の障害になるなどと問題にしました。―「縄文ノート23 縄文社会研究会『2020八ヶ岳合宿』報告」参照 

 阿久遺跡の立棒・石列が現在の段階では「日本最古の祭祀施設」「世界最古級の神山天神信仰の宗教施設」であることを、「日本最古の中ツ原遺跡の楼観拝殿」とともに改めて整理・紹介したいと思います。

 

1.日本最古、世界で3番目に古い祭祀遺跡―阿久遺跡の立棒・石列

 日本と世界の祭祀遺跡について、これまで書いてきたもの年代順にまとめると、図1のようになります。

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 6000~5500年前頃の阿久遺跡の環状列石の中央の蓼科山に向かう立棒・石列は、現在のところ日本最古の縄文時代の祭祀遺跡であり、世界的にみても3番目に古い祭祀施設です。

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 なお「姓=女+生」や「鬼=甶(頭蓋骨)+人+ム(牛の鳴き声の擬声語)」「魏=禾+女+鬼(祖先霊に女が稲を捧げる)」などの漢字の成り立ちからみて、中国の黄河長江文明に祖先霊信仰があったことは確実ですがネットでは祭祀施設が確認できず、今後の研究・公表を待ちたいと思います。

 阿久遺跡の重要な特徴は、死者の肉体も霊(ひ=魂=玉し霊=死霊・祖先霊)も母なる大地に帰るという地母神信仰の埋葬施設である環状列石と、肉体は大地に、霊(ひ)は神山から天に昇るという魂魄(こんぱく)分離の宗教思想を明確に示す世界で始めての祭祀施設であることです。

 縄文人のみならず世界の新石器人(日本では縄文人=土器鍋人)の地母神信仰と氏族・部族社会の霊(ひ=祖先霊)信仰の神山崇拝の解明に向け、決定的に重要な役割を果たす宗教施設であり、5000~4000年前頃の中ツ原遺跡の楼観拝殿・女神像や各地の神山信仰と合わせて世界遺産登録を目指すべきと考えます。

 

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2.日本最古の祭祀施設の世界的な価値

 世界遺産に登録された円形の人類最古の12000~8000年前頃の神殿・トルコの「ギョベクリ・テペ」遺跡や7000~5000年前頃メソポタミアの「クル(山)信仰」が起源の「高い所」を意味する聖塔「ジッグラト」に対し、6000~5500年前頃の阿久遺跡の環状列石と立棒・石列はやや時代が遅れるものの、エジプト王のピラミッド、インダス文明の沐浴施設、イギリス・アイルランドストーンサークルストーンヘンジよりは先行しています。

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 しかも、この神山=神名火山(神那霊山)=お山=女神信仰を継続し、現在も各地の神社信仰では神名火山(神那霊山)を御神体とし、女神の神代(依り代)となる神籬(霊洩木)信仰や御柱祭・金精祭り、神使の水神・龍神信仰、カラス祭りや猿追い祭りなどの神事や民俗を維持しているのです。

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 そして、世界最古の神殿であるギョベクリ・テぺ遺跡がインダス文明の母なる川ユーフラテス川の源流のコニーデ式火山のアララト山に近い場所にあり、その北にはネアンデルタール人の時代から2000年前頃まで黒曜石の採掘・製造が行われ「石器時代の大規模な武器工場」といわれたアルテニ山(2046m)があり、その交易範囲はメソポタミアから地中海沿岸に及んでいたのですが、それはわが国の神名火山(神那霊山)信仰の蓼科山と黒曜石採掘の二子山・双子池の関係と似ています。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57 4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」参照

 

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 メソポタミアの宗教についてはバビロニア神話の手掛かりがあるものの、イギリス・アイルランドストーンサークルストーンヘンジでどのような祭祀が行われていたのかは他民族の相次ぐ流入・支配とキリスト教によりその痕跡は消されてしまっています。しかしながら、阿久遺跡の環状列石墓地の地母神信仰と蓼科山の神山天神信仰(ピー信仰)は記紀スサノオ大国主建国神話と現代日本の神社信仰や祭り、民俗行事に継承され、世界の石器時代(日本の新石時代は土器鍋時代=縄文時代)の解明に手掛かりを与えており、世界の石器時代の宗教の解明に手掛かりを与える重要な鍵となるものです。

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 その具体的な内容については次の「縄文ノート」をご参照ください。

 なお、この2年間で多くの新しい気づきがあり、古いものは地母神信仰から天神信仰への転換を当初はスサノオ大国主建国に置くなどの誤りが多々あると思いますが、試行錯誤の痕跡を残して修正しないままになっていますので、ご注意・ご容赦いただきたいと思います。

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3.世界遺産登録へ向けた整理

 阿久遺跡の世界的な文化・文明の価値についてまとめると、次のようになります。

 第1は、阿久遺跡は「地母神信仰」と魂魄(こんぱく)分離の「神山天神信仰」の両方を明確に示す世界初の宗教施設であり、世界の宗教史解明に手掛かりを与える宗教施設であることです。

 植物が冬には枯れて大地に帰り、春には再び芽吹いてくるように、死者の肉体も霊(ひ=魂=玉し霊=死霊・祖先霊)も母なる大地に帰って黄泉帰るという地母神信仰の埋葬・祭祀施設の環状列石と、死者の霊(ひ)は肉体を離れて神山から天に昇り、降りてきて子へと受け継がれという霊(ひ)信仰=神山天神信仰の宗教思想を明確に示す世界で最古級の唯一の祭祀施設なのです。

 

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 古代人は死者のことが語り継がれ、人々の記憶に残っていることから、死者の霊(ひ)が神となって永遠に生き続け、親と子が似るというDNAの働きを死者の霊(ひ)が受け継がれると考えたのです。

 第2は、この霊(ひ)信仰が「ひと(霊人)」「ひこ(霊子=彦)」「ひめ(霊女=姫)」「ひじり(霊知り=聖)「ひみこ(卑弥呼=霊巫女=霊御子)」の基本語となり、妊娠すると「霊(ひ)が止まらしゃった」(出雲弁)と言い、死ぬと「ひつぎ(霊継ぎ=棺・柩)」に入れて葬り、出雲大社では新年に「ひつぎ=火継=霊継ぎ」の神事を行い、天皇家皇位継承の「ひつぎ=日継=霊継ぎ」の儀式を行い、霊(ひ:祖先霊)継ぎ=DNA継承を何よりも大事にする信仰を現代に伝えているのです。

 「神」は人々の死者の記憶の象徴であり、「神=死者の霊(ひ)」は子孫に受け継がれ、守護神として働くと考えたのであり、それは後に大国主が集大成した「八百万神」信仰や天と地を繋ぐ「神名火山(神那霊山)信仰・磐座(いわくら)・神籬(ひもろぎ=霊洩ろ木)崇拝」「神使崇拝(鳥や犬、龍神など)」へと受け継がれ、現代に残っているのです。

 世界史的にみて重要な点は、この地母神信仰と霊(ひ)信仰の神山天神信仰古事記日本書紀にイヤナミ・スサノオ大国主一族の神話として記され、甕棺や柩などの内部は母なる大地の子宮に模して赤く染めて埋められ、世襲王の時代になると山上の古墳や墳丘墓に葬られ、死者の霊(ひ)が天に昇り降りて来る神籬(霊洩木)信仰、神名火山(神那霊山)を神体とする神社信仰、天と神山と地を繋ぐ水神や雷神、山上の磐座(いわくら)、神使の鳥神や犬神、龍蛇神信仰などは現代の神社信仰や祭り・民俗に続いているのです。

 他民族殺戮・支配と母系制から父系制への転換を正当化するために考え出された唯一絶対神一神教であるユダヤ・キリスト・イスラム教の支配が及ばなかったために、他の神々は抹殺され、女神たちは魔女として火あぶりにされることもなく、全ての死者・生類は神として祀られてきたのであり、世界の一神教支配前の古代信仰を明らかにする手がかりを与えることができるのです。

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 第3は、これまで地母神信仰は大河下流の肥沃な沖積平野での農耕により始まったとされてきましたが、阿久遺跡は山岳地域の信州・諏訪の丘の上にあり、「火+田」=「畑」の倭製漢字に示されるように信州では焼畑農耕が行われ、土器鍋による穀類食が見られることです。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」「26 縄文農耕についての補足」「27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」参照

 12000~8000年前頃のギョベクリ・テペ遺跡もまた、ユーフラテス川源流域に近いところにあり、居住地から遠く離れた場所に祭祀施設があり、このような祭祀施設の建設には部族社会の成立と農耕による豊富な食料確保が不可欠であり、ギョベクリ・テペ遺跡は丘陵地農耕を背景にして成立したことを示しており、阿久遺跡もまた丘陵地農耕開始を明確に裏付ける重要な宗教施設です。大河の灌漑農耕からの文明起源説については見直す必要があると考えます。

 なお、私は氏族社会から部族社会への転換を、分業・交易の成立による異なる氏族の集住段階(大規模集落・都市)として考えており、交易によって余剰生産物の農耕が生まれたと考えています。阿久遺跡など諏訪の縄文社会は、黒曜石採掘・加工と広域交易、土器・祭器・宝飾品製造、焼畑農耕、鳥獣害駆除などの分業が行われた部族社会段階と考えます。

 第4は、神名火山(神那霊山)の蓼科山の別名が「女神山(めのかみやま)」であることに見られるように、母系制社会の「母なる大地」を信仰する地母神信仰が、神山天神信仰の女神信仰に変わったことを阿久遺跡は示しており、妻問夫招婚の母系制社会の痕跡としてスサノオ大国主時代からの神社信仰や民俗にそのまま続いていることです。

 メソポタミアのシュメール神話で「海の女神:蛇女神」ナンム(Nammu)が天地と全ての神々を生んだ母なる始祖神で、天と地が結合している「天地の山」アン(アヌ)と「大地・死後の世界を司る女神」キを生んだとし、クル(山)信仰のジッグラトの上に「月神ナンナル(シン)」の神殿を置いていることと合わせて、阿久遺跡は古代文明が母系制社会から始まったことを示しているのです。「男性文明史観」の見直しが求めれられます。

 第5は、西欧中心の「肉食・闘争・戦争文明発達史観」「大規模灌漑農耕史観」「絶対神信仰者のみの救済を信じ他の宗教を野蛮・未開とする一神教史観」「男性中心史観」に対し、アフリカを起源としたアジア中心の「糖質DHA食・共同・和平文明史観」「焼畑農耕史観」「すべての生類の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰史観」「母系制社会史観」の復権を図るきっかけを与えることです。

 今、格差社会化・闘争戦争社会化・環境限界・一神教の宗教対立など文明の転換点を迎えているのに対し、1万数千年の縄文社会からの人類史の見直しが求められます。

 

4.阿久遺跡を国立歴史公園に!

 これまで、私はこのブログで、「日本中央縄文文明」の世界遺産登録運動について、次のような提案を行ってきました。

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 再度まとめておくと、「日本中央縄文文明」の世界遺産登録運動には、次のような課題があります。

(1) 「縄文文明」の世界への提案

 西欧中心の「肉食・闘争・戦争文明発達史観」「大規模灌漑農耕史観」「絶対神信仰者のみの救済を信じる一神教史観」「男性中心史観」の文明史観に見直しを迫る「縄文文明論」の提案です。

 そのためには、石器・土器・土偶論など、遺跡・遺物中心の縄文論から、縄文産業・社会・宗教・文化・文明論としての総合的な整理と提案が必要です。

 

(2) 人類大移動の歴史の解明と提案

 アフリカを出て日本列島にやってきた旧石器人・縄文人として、アフリカ・アジアの人々のDNA・言語・産業・社会・宗教・建築技術・文化・文明との関係を明確にし、人類大移動の文化・文明の伝播を示すことです。

 西欧中心の文明論の輸入・焼き直しにあけくれた拝外主義・劣等民族史観の歴史・民族・宗教論を全面的に見直し、アフリカ・アジア中心の文明史観を提案することが必要と考えます。なお、そのためには西洋語・呉音漢語・漢音漢語からの歴史解釈ではなく、倭音倭語からの分析が求められます。

 

(3)すべての生類の「霊継ぎ(ひつぎ)」を大事にする持続的発展が可能な文明の提案

 海と山・森と水の恵みを活かした循環型の焼畑(畑=火+田)農業、森からの栄養分豊かな水に育まれた水田・畠作農業(水田は乾季には「畠(白+田)」になる)、火山と森林の栄養分豊かな川・海の水産業、すべての生類の「霊継ぎ(ひつぎ)」を大事にする畜産は、「持続可能な循環型食料生産」であり、縄文文明は「霊(ひ)信仰の循環型食料生産」として「命(DNA)の持続可能な社会」の見本となる文化・文明として登録を果たすべきと考えます。

 

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(4) 世界最古級の神山天神信仰の祭祀施設のアピール

 阿久遺跡が世界最古級の神山(神名火山=神那霊山)天神信仰の宗教施設であることを世界にアピールし、世界の神山天神宗教の世界遺産登録を促進すべきと考えます。

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 世界遺産登録の申請にあたっては、世界遺産の神山信仰の「紀伊山地の霊場と参詣道」「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」や世界最古の木造建築の仏塔のある「法隆寺地域の仏教建造物」の原点が縄文時代の阿久遺跡や中ツ原遺跡にあることを強調すべきです。

 なお、奈良時代法隆寺五重塔を国宝としながら、日本最古の祭祀施設である阿久遺跡の立棒(金精)・石列を国宝としていないことは、歴史学・考古学の手抜かりという以外にありません。

 また申請にあたっては、1970年大阪万博岡本太郎氏の「生命の樹(公称:太陽の塔)」が縄文文明の芸術的・歴史的・文化的伝統に沿ったものであることを強調すべきと考えます。

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(5) 無形文化遺産としての「御柱祭」「鳥追い・猿追い祭り」のアピール

 ユネスコ無形文化遺産として登録された「山・鉾・屋台行事」はスサノオ大国主一族の神山天神信仰の祭りであり、その原点ともいえる諏訪大社の「御柱祭」や神使の「鳥追い・猿追い祭り」を合わせて世界遺産登録の申請を行い、一神教文化・文明以前の全世界の豊かな宗教・祭りの典型としてアピールすべきと考えます。 

 

(6) 母系制社会を示す「女神」「石棒円形石組」「石棒(金精)」信仰のアピール

 縄文社会の解明において、一番重要なテーマは、人類の誕生から家族・氏族社会の形成、さらには侵略的でない部族社会の形成において、母系制社会であったという点だと私は考えています。

 日本中央縄文文明の世界的な価値として、この地域に地母神信仰から神山天神信仰へと連続する母系制社会を示す遺跡・遺物・伝統文化があります。

 

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(7) 縄文文化・文明の世界遺産登録の役割分担

 「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、「北東アジアにおいて1万年以上の長期間にわたり継続した採集・漁労・狩猟による定住の開始、発展、成熟の過程及び精神文化の発達をよく表しており、農耕以前における人類の生活の在り方を顕著に示している」として世界遺産に登録されました。西欧中心史観からみて、文明以前の未開社会の文化としての登録です。

 これに対し、「日本中央縄文文明」は、焼畑農耕開始による部族社会段階の宗教・芸術文明を示す遺跡としてその世界的な価値をアピールすべきと考えます。

 なお、日本最古の人骨が発見された沖縄の白保竿根田原洞穴遺跡(27000年前頃)や36000年前頃の隠岐産の黒曜石が発見された京丹後の上野遺跡などの旧石器遺跡群、鹿児島の丸木舟を作る世界最古の丸ノミ石斧が発見された栫ノ原遺跡(12000年前頃)や国内最古の集落跡で9500年前の土壌からイヌビエのプラント・オパールを検出された上野原遺跡(9500~2500年前頃)、13000年前頃の層から稲のプラントオパールが見つかった島根の板屋Ⅲ遺跡(10000年前頃)、ニジェール川流域原産のヒョウタンの若狭の鳥浜貝塚遺跡(12000〜5000年前頃)、岡山のイネのプラント・オパールが見つかった朝寝鼻貝塚(6000年前頃)・姫笹原遺跡(5000年前頃)、土器内からイネのプラント・オパール出た岡山の朝寝鼻貝塚・南溝手遺跡(4000年前頃)などについては、別途、旧石器・縄文の海人族文明として世界遺産登録が必要と考えます。

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(7) 遺跡破壊の修復作業の見本となる世界遺産

 今回、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産への登録勧告において、諮問機関のイコモス(国際記念物遺跡会議)が「不適切な構造物」(大湯環状列石を横断する道路など)の撤去や民間所有の土地の公有地化を求めたことや、危機遺産リストに記載されていたイギリスの文化遺産リヴァプール−海商都市」は、近年の開発による影響が改善されず顕著な普遍的価値が失われたとして、世界遺産一覧表から抹消されたことに注意する必要があります。

 「日本中央縄文文明」においては、その最重要な阿久遺跡が当時の開発優先思想と考古学・歴史学の水準により中央自動車道の建設によって分断されており、世界遺産登録にあたってはその修復作業が不可欠と考えます。

 日本最古の宗教施設であり、地母神信仰から神山天神宗教への転換を示す世界で唯一の史跡として、国営吉野ヶ里歴史公園のような国の特別史跡の国営歴史公園の整備を求め、高速道の地下化あるいは迂回化を求めるべきと考えます。

 

<追記>

 作業中に阿久遺跡に関連して重要な発見がありましたが、ここには含めず、次回にまとめて報告したいと思います。また、図の作成がいくつか残っており、追って修正します。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート93 母系制社会からの人類進化と未来

 人類の誕生から始まる「母系制社会からの人類進化と未来」のまとめに入りましたが、9月10・11日に諏訪・安曇野・佐久で「女神」をテーマに調査を行い、その報告に1カ月もかかってしまいました。

 私はこれまで「夜這い・妻問婚の母系制・母父系制社会」「母系制の土着性と父系制の交流性」「家など生活手段母系、船・漁具など生産手段父系」「母子サルの熱帯雨林の沼地での採集・漁撈による糖質・DHA食と二足歩行・ヤス使用による人類誕生」「祖母・姉妹の子育て支援からの母系制」「女性による霊(ひ:祖先霊)祭祀」「女神(山の神)にささげる男根石棒」「父系制後の夜這い・若衆宿など母系制の残存」などを検討してきましたが、ここで母系制社会論をまとめておきたいと思います。

 2025年には大阪で再び万博が開かれますが、前回の1970年の大阪万博において、「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」「自分の中に毒を持て」と述べていた岡本太郎氏は、「生命の樹」(太陽の塔に名称変更)の背中には「黒い太陽(原発)」、頭には「鳥の顔」、腹には「歪んだ(怒った)人の顔」、地底には「海の顔」(黄泉の顔)を置き、塔の内部には海から産まれた無数の生命進化を示すオブジェを生命の樹に配置し、天に飛び立つ両翼を持った塔は「お祭り広場」の中心に置かれましたが、福島第1原発事故を体験した55年後の私たちは彼の主張に応えているでしょうか?

 縄文芸術の価値を世界に初めてアピールし、「縄文に帰れ」と主張した岡本太郎氏の問いかけを今こそ日本中央縄文文明の世界遺産登録運動として再発信すべきと考えます。―「縄文ノート14 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」参照

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1.「母系制・父系制」と「母権制父権制」の定義

 ウィキペディア母系制について、「母方の血筋によって家族や血縁集団を組織する社会制度である」とし、「母方の血筋をたどる(母系出自)」「母方の財産を相続する(母系相続)」「結婚後も夫婦は別居、もしくは妻方(母方)の共同体に居住する(母方居住制)」と具体的に述べ、「母系制により姓が変わることがあり得ることで、そのような場合に氏族名は母系を名乗るが、出自には父系も含めることができる」ことを「重要なこと」として特筆しています。

 

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 また母権制については、「母系制を尊重し、妻方を主体とする共同体内で婚姻生活を営み(妻方居住婚)、さらには一族の家長(家母長制)、首長的地位を女性が優先して有する社会制度を指す」としていますが、「これを原始共産制とよび、この説はエンゲルスにも支持されマルクス主義の教義にもなったが、20世紀に入ると説中の例示に脆弱さがあったこと、科学的立場からの反論、母系制との混同と誤謬を徹底的に指摘され、人類発展史の一段階としての母権制を想定する説は否定され、現在の文化人類学者で支持する者はほとんどいない」としています。

 一方、父系制については、「父方の血筋による血縁集団を基礎とする社会形態や制度」とし、「父方の姓を受け継ぐ(父系出自)」「父方の地位を受け継ぐ(父系継承)」「父方の財産を相続する(父系相続)」とし、父権制(家父長制)は「家長権(家族と家族員に対する統率権)が男性たる家父長に集中している家族の形態」としています。

 ただし、日本では「明治民法でも家長権は戸主権として法的に保証されていたが、古代ローマと異なり、女性も例外的に家長たりえる(女戸主)、家長権の絶対性・包括性は無く、個々の権利義務の集まりでしかないなどの違いがあった。1947年の家制度廃止により消滅」とされています。

 私の母方の祖母は夫が若くして亡くなり、祖母の両親が娘を助け、叔父が母親を支えて祖母は家父長として威厳を保ってふるまっていましたし、父方の叔母は子どものない他家に財産権を譲るという条件で養子に入り婿をとっていましたから、庶民の家では父権制は絶対的なものではなかったのではというのが私の体験的感覚です。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』では、幕末から明治にかけての外国人の「庶民の女たちの地位は支配者の妻たちの地位よりはるかに高い」という認識を紹介していますが、これは魏書東夷伝倭人条に書かれた3世紀の女王国・邪馬壹国の「会同に坐起するに父子・男女別なし」という老若男女の伝統を示しています。

 表1に示した定義からみて、「母権制父権制」は「母系制・父系制」の特殊派生型とみてよく、以下、「母系制・父系制」について論じたいと思います。なお、マルクス・エンゲルスは「原始共同制」を理想として描きましたが、母系制の家族形成・氏族社会形成の歴史を無視した空想と言わざるをえません。戦争・略奪こそが父権制への移行と富の集中を進めたのです。

 

2.母系制・父系制のこれまでの検討

 これまで、この「母系制・父系制」については様々な角度から考えてきました。長い引用で重複もあって恐縮ですが、末尾に「資料:母系制・父系制の検討」として要点のみ引用します。

 これまで、ブログを読んでいただいた方は、スルーしていただければと思いますが、そうでない方は走読みしていただければと考えます。

 

3.縄文時代は母系制社会であった

 ウィキペディアでは母系制について、「出自・姓・財産・居住・家長権」の5つの指標から、「母方血筋・母系姓・母系相続・夫婦別居又は母方居住制・母系家長継承」の社会としていますが、私は人類の起源から「進化・求婚・家族形成・セックス・食料確保・定住・交換・霊(ひ)信仰」の8つの指標をプラスし、人類誕生から農耕・都市形成に至るまで母系制社会であり、その文化・宗教は日本では1万数千年の縄文社会から底流として現代に続いており、「西欧中心・男中心の戦争・奴隷文明」の見直しに向けて、「霊(ひ)継ぎ=DNAの継承=命」を中心においた未来社会への転換を図るべき時と考えています。

 

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 この文明観の転換において、八百万神の霊(ひ=DNA=命)信仰のわが国の縄文1万数千年から続く歴史は西欧中心・男中心・戦争進歩史観の文明観を変える重要な役割を果たすことができ、日本の中央部に残された縄文文明の世界遺産登録を通して全世界にアピールすべきと考えます。

 なお、日本中央の「山人(やまと)縄文文明」の世界遺産登録に続いて、私は琉球から南九州、瀬戸内、出雲、若狭、能登にかけての「海人(あまと=あま)縄文文明」についても別途、世界遺産登録を進めるべきと考えています。

 

<資料:母系制・父系制の検討>

① 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本:140811→191217)

  • ひな 21:33

 古事記風土記の人名でもう1つ注意しなければならないのは、妻方に合わせた名前を夫がつける「妻問夫招婚名」があることです。大国主に別名が多いのは、彼が各地で妻問いを行い、180人の御子をもうけ、その先々で「○○の夫」という名前で呼ばれていたからと思います。

 例えば、丹波出雲大神宮には、大国主は「三穂津彦大神・三穂津姫」の夫婦名で祀られており、妻の「三穂津姫」の名前に合わせて「三穂津彦」と名乗っていたと思います。・・・

  • ひな 21:39

 大国主が高志国の沼河比売を婚(よば)う時、2人が交わした長い歌が古事記に載っています。実際には後世に作られた歌かも知れませんが、歌垣の伝統が長く続いていたことを示しています。

 これを見ると、略奪婚というより母系制社会の妻問い婚だったと思います。 ・・・

  • カントク

 今も漁師町では家計は妻が握っているんだ。危険な漁や交易に従事する男は妻に家を任せる以外にないし、魚を売るのは女の役割なんだ。一方、船は夫の物だし、交易で遠くに出かけるとそこで入り婿になることも多いから、父母両系制だったと思うよ。

 

⑵  『季刊日本主義』44号「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(原題「未来を照らす海人(あま)族の『海洋交易民文明』―『農耕民史観』『遊牧民史観』から、『海洋交易民史観』へ」)  180816→1127→190219

 「遊牧民文明の一神教ユダヤ・キリスト・イスラム教)の優生思想・選民思想のもとでの『自然支配思想(農耕・牧畜・養殖・エネルギー・都市化を含む)』『武力征服思想』『世界経済支配思想』の行き詰まりに対し、海洋交易民の死者は海と大地に帰り、蘇り(黄泉帰り)再生する」という母なる自然崇拝、死者の霊(ひ)を祀り受け継いでいく祖先霊信仰、死者の霊(ひ)を神として祀る八百万神信仰、信仰心を持たない動物も神となり神使となるという類愛思想、妻問婚の母系制・母父系制社会、『妻問婚と言向和平』による交流・交易・外交による平和な国づくりなど、世界に向けて新たな文明観を提案すべきと考えます」

 「アフリカ北西部を源流とする『主語―目的語―動詞』構造の日本語が、どのように日本列島で広まったのかについてさらに検討を行うことにより、母系制の土着性と父系制の交流性を合わせもった縄文経済・社会・文化を明らかにするとともに、始祖が遠い海の彼方からやってきたという琉球海人族の『アマミキヨ』始祖伝説と、記紀の『アマテラス』始祖伝説(筆者説:アマテル)のどちらが先であったかの検討をさらに進め、アマテラスが派遣した天孫ワカミケヌからの万世一系の男王支配の皇国史観の歴史改ざんの誤りを明らかにしたいと考えます。」

 

縄文ノート10 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰 200307

 三内丸山遺跡からは、北海道・長野県霧ヶ峰の黒曜石や、新潟県糸魚川翡翠岩手県三陸琥珀秋田県アスファルトなど、各地からの産物が発見されています。

 一般的な考えは、漁民であった縄文人が丸木舟に乗って広く交易を行っていたという仮説ですが、縄文人母系制社会であると考えると、これらの貴重品は単なる交易によるものではなく、男は貴重な黒曜石のナイフや槍の穂先、鏃、装飾品の翡翠琥珀などの贈り物を持って、各地から妻問いにこの地を訪れた可能性が高くなります(上田篤著『縄文人に学ぶ』新潮新書)・・・

 女性を形取った土偶は、女性を神とあがめる母系制社会の信仰を示しており、女性が死んだ後、その霊(ひ)が宿る土偶を壊し、母なる大地に帰すという地母神信仰を示しています。もし、男系社会であれば土偶は男ばかりでしょう。・・・

古事記には、大国主の妻が「打ち廻る 島の崎崎 かき廻る 磯の崎落ちず(もれず) 若草の 妻持たしめ」と嫉妬して詠んだとされる歌が載せられていますが、彼は糸魚川から筑紫まで船で行き来し、各地の「島の崎崎」「磯の崎」で妻問いし、180人の御子を設けたのです。大国主の時代もこの国の海人族が母系制社会であったことを示しています。

 

縄文ノート11 「日本中央部土器(縄文)文化」の世界遺産登録をめざして 200307

 母系制社会を示す地母神信仰の遺跡・遺物と宗教行事が残っている(性器信仰、片品村の赤飯祭り、女体山・男体山・金精山信仰、神使の猿追い祭り、女性土偶、黒曜石・ヒスイ妻問交易圏など)。

 

縄文ノート12 琉球から土器(縄文)時代を考える 200314

 今でも漁村では、家計は女性が握っていて女性の地位が高く、漁民社会であった縄文人もまた母系制であった可能性が高いと言えます。海にでる男性はいつも死と隣り合わせであり、魚との物々交換・売買など家の経済や子育ては女性に任せる、という漁民・海洋交易民の伝統は石器・土器時代に遡るとみるべきと考えます。一方、海の上は男性社会であり、舟の継承などは男系であったと考えられます。

 

縄文ノート13 「妻問夫招・夜這いの『縄文1万年』」  181201→190308→200401

 日本民族」はDNAからみれば、3~4万年に渡って絶えずアジア各地から多様なDNAを受け入れ融合してきていますが、「日本文明」という視点からみれば、沖縄から北海道まで活発に交流・交易し、1万年にわたる豊かで平和な時代を築き、土器文明、自然と調和した健康で安定した煮炊き食文明、始祖神を女性とし霊(ひ)継ぎを行う母系制社会会同・座起に「父子・男女無別」の平等な母父系制社会、芸術的な土偶・土器文化、死者の霊(ひ)は海と大地に帰り、黄泉帰って霊(ひ)人・霊(ひ)子・霊(ひ)女・霊(ひ)御子・霊(ひ)留子・霊(ひ)留女などになるという海神信仰・地神(地母神)信仰など、独自の文明を形成してきました。私は地中海文明とともに、多島海日本列島の海洋交易民の「日本文明」こそ、豊かで交流・交易・外交による平和な世界の構築へ向けたモデルとなると考えます。

 

縄文ノート14・31 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文 191004→200726→210404

「魂」字は「雲+鬼」で「天上の鬼=祖先霊」なり、「魏」字は「委(禾+女)+鬼」で「鬼(祖先霊)に女が稲を捧げる」という字になります。「姓名」の「姓」は「女+生」(女が生まれ、生きる)ですから、もともと中国の姫氏の周時代は母系性社会であった可能性が高く、魏はその諸侯でした。孔子の「男尊女卑」も「尊(酋(酒樽)+寸)」「卑(甶(頭蓋骨)+寸)」からみて、「女は頭蓋骨を掲げ、それに男は酒を捧げる」という宗教上の女性上位の役割分担を表しており、孔子は周時代の母系制社会を理想としていたことを示しています。

卑弥呼の「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」からなり、「祖先霊を手で支える」という意味であり、八百万神信仰の倭語では「霊(ひ)巫女」になります。「巫女」は「御子」であり、死者の霊(ひ)を祀る子孫の女性を表します。

 

縄文ノート15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰 190129・0307→200411

3.霊(ひ)信仰の現代的意義

 今後、「『日本中央部土器(縄文)文化』の世界遺産登録」、「出雲大社を中心とする『八百万神信仰』の世界遺産登録」などを展開するにあたっては、重要なテーマと考えます。

① 霊(ひ)=DNAの継承を重視する生命尊重の「命のリレー」「霊継」の宗教であり、現代科学と合致し、あらゆる宗教の共通価値を示している。

② 「死ねば誰もが神となる」という「八百万神」の多神教は、選民思想・優生思想とは無縁であり、人命尊重・非戦・被差別の宗教である。

③ (ひ)を産む神として女性を崇拝する宗教である。性交を「受け霊(ひ)」という女性側の発想である。

④ 禁欲を求めるユダヤ教キリスト教とは異なり、性器を信仰し、「産霊(むすひ=むすび)」を神聖なものとみなし謳歌する宗教である。

⑤ 霊(ひ)を運ぶ動物たちを神使とする生類愛の宗教である。

 

縄文ノート23 縄文社会研究会 八ヶ岳合宿報告  200808→0903

② 立石から石列の道を蓼科山に向けた阿久(あきゅう)遺跡(縄文前期)、環状に配置した集落の中心に立石を置いた平出遺跡(縄文中期)、立石の回りに円形石組や環状列石を置いた大湯環状列石(縄文後期)など、いずれも大地を母とし、その円形性器に石棒を立てた祭祀施設であり、縄文時代母系制社会であったことを示しています。

③ 妊娠姿の女神像もまた、縄文時代母系制社会を示しています。壊された妊娠土偶とは異なり、これらは地母神を「女神像」として表現したか、あるいは神那霊山(かんなびやま)信仰・神籬(ひもろぎ)信仰の儀式を行う巫女(司祭者)像を表し、信仰対象としていた可能性が高いと考えます。

 特に、「巳を載く神子」と「仮面の女神」は、女性が仮面をかぶったように見え、巫女像の可能性が高いと考えます。

④ 一方、壊されて破棄された多くの人物土偶(ほとんどは妊娠女性)については、「世界的には、こうした土製品は、新石器時代の農耕社会において、乳房や臀部を誇張した女性像が多いことから、通常は農作物の豊饒を祈る地母神崇拝のための人形」(ウィキペディア)という地母神のほか、安産・多産のお守り、病気やけがなどの身代り人形、子供の玩具・お守り説などが見られます。

  私は縄文人の宗教は死者の霊(ひ)・魂(たましい=玉し霊)信仰と考えており、死者の霊(ひ)は大地に還り、再び「蘇る(黄泉帰る)」と考え、大地に帰った死者の霊(ひ)を形作った依り代として土偶を造り、霊(ひ)が胎内に取り込まれて無事に安産した時には抜け殻となった土偶は壊され、大地に還されたと考えています。安産を願う依り代の「霊人形(ひとがた)説」です。

⑤ この「霊(ひ)信仰」は、乳幼児の死体を子宮を模した壺に入れ、さかさまにして住居の入口に埋め、その上を母親がまたいで通ることにより、再び霊(ひ)が胎内に帰ってくることを期待した「埋甕(うめがめ)」からも裏付けられます。

  後に水利稲作時代に入ると吉野ヶ里遺跡などの大型の「甕棺」に引き継がれ、内部が朱で満たされた大地の子宮に模した柩(ひつぎ=霊(ひ)継ぎ)に死者を葬り、霊(ひ)の再生を期待しています。

  縄文時代の宗教はそのまま紀元前後からの鉄器稲作時代に引き継がれ、さらに「ひつぎ(柩・棺)」名として現代に続いているのです。

⑥ 女性顔面付土器や赤子が女性器から顔をのぞかせた出産紋土器は、地神(地母神)信仰のもとで、土から作った女性型の聖なる容器で料理して食事をするという「地神との共食」文化を示しています

 

縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究 201212

 「縄文人弥生人の二重構造」説が見られますが、日本がベトナムインドネシア・フィリピン・台湾のような多言語多文化の多民族国にならなかったことからみて、部族単位の何次にもわたる移住はなく、母系制縄文社会へ少数男性や小規模家族の継続的な漂着と亡命により、共通言語・文化社会となったことが明らかです。縄文1万年に毎年10人の漂着者・移住者があれば10万人の人数になります。

 

縄文ノート32 縄文の「女神信仰」考 200730→1224

 「縄文のビーナス」「仮面の女神」「始祖女神像」「縄文の女神」や、多くの妊娠土偶からみて、この女神像や妊娠土偶が「死者の霊(ひ)が大地に帰り、再び黄泉帰る」という「地神(地母神)信仰」「霊(ひ)信仰」「霊(ひ)継ぎ信仰」に由来していることについては、納得されると思います。

 群馬県片品村では、女体山白根山)に男性が男根を捧げる祭りや性器型のぜんざいを山に捧げる祭り、大地に赤飯を撒く祭りが残っており、山=女神であり、女神が嫉妬するので女人禁制の祭りとなったと考えられます。石棒(金精様)は母系制社会のシンボルと考えられます。

 周王朝姫氏の諸侯であった「魏」(禾(稲)+女+鬼)は「鬼(祖先霊)に女性が禾(稲)を捧げる国」であり、魏の曹操は「われは文王、姫昌(きしょう)たらん」と述べ、孔子が理想とした周王朝を再建したいという「志」を持っていました。

 魏国が鬼道の女王・卑弥呼(霊御子)に対して格段の「王侯」に匹敵する金印紫綬を与えたのは、姫氏を想起させる母系制社会であったからと考えます。

 

縄文ノート34 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産に 150630→200826

 明治維新までに日本いたるところで行われていた性器信仰は、土器(縄文)時代の石棒と円形石組みによる地母神信仰(地神信仰)を引き継いだものであり、母系制の海人族の祖先霊信仰の伝統文化として未来に残すべきと考えます。

 

縄文ノート38  霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰 201026

 私は父方の先祖の墓に刻まれた「日向(ひな)」名から古代史研究に入り、「日」が太陽ではなく「霊(ひ)」を表しているという結論に達し、大国主を国譲りさせた「武日照(たけひなてる:武夷鳥)」からスサノオ大国主建国説にたどりつき、さらに高天原の所在地である「筑紫日向橘小門阿波岐原」の「日向(ひな)」から、邪馬壹国の位置が旧甘木市の「蜷城(ひなしろ)」であることを突き止めました。

 また、栃木方言では「ひな」がクリトリス(陰核)を指しているという指摘を受け、「ひな」が母系制社会の女性器信仰を示し、そのルーツが琉球にあることを突き止めました。

 

縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源  200918→1023

 (注:インドのドラヴィダ族の)ポンガルは「沸き立ち、泡立つお粥」の意味で、結婚している女性の祭りとされていますので、母系制社会の祭りと思われます。

 縄文の石棒とインドのリンガ(男性器)・ヨニ(女性器)信仰の類似性については「資料9 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)について」で書きましたが、片品村金精(男根)を女体山日光白根山)などに男性が奉げるのは山の神を女性と考えているからであり、母系制社会の祭りであることが明らかです。・・・

 チベットの南のブータンにも日本と同じような性器信仰や夜這い・母系制文化が残っているとされていますが、縄文時代には石棒=男根信仰があり、古事記には大国主沼河比売(奴奈川姫)の家に「用婆比」に来たという歌があり妻問夫招婚であったことを伝えています。さらに金精信仰は明治政府が禁止するまで各地に色濃く残っており、今もその名残が各地に見られます。

 

縄文ノート48 縄文からの「日本列島文明論」200729→0826→0909→1112

 この「部族共同体文明」はマルクスの家族単位の「原始共産社会」やエンゲルスの氏族単位の「氏族社会」とは異なり、母系制の妻問夫招婚と共通の祖先霊祭祀、活発な交易により、海人族系と山人族系からなる部族など、「氏族」単位を越えて大きくなった社会を想定しています。

 

縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社 210202

 出雲の揖屋のイヤナギ・イヤナミ(伊耶那岐・伊邪那美)神話によれば、オノゴロ島(筆者説:自ずと凝った意宇川の沖積平野)に天下った時(筆者説:対馬暖流を海下った時)、そこには「天御柱」と「八尋(やひろ)殿」があり、その「天御柱」を二人は左右から廻り、セックスして国々や神々を生んだとされています。記紀では夫婦神が天下ったとしていますが、母系制社会の海人族の妻問夫招婚揖屋神社の祭神がイヤナミ(伊邪那美:通説はイザナギ)であること、イヤナミが先に「あなにやし、えをとこ(あれまあ、いい男ね)」と声をかけたとしていること、出雲大社の始祖5神を「別天神(ことあまつかみ)」としていることからみて、壱岐対馬の海人族の「ナギ」が揖屋を訪れ、王女・イヤナミと結ばれ、入り婿名で「イヤナギ」と呼ばれたのではないかと私は考えています。

 

縄文ノート52 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について

 私は母系制社会地母神信仰から、環状列石や石棒を立てた円形石組縄文人は女性器と考え、朱で満たした甕棺や棺・柩(霊継)を子宮としてみており、土偶は霊(ひ)が宿るお守りで無事に出産して霊(ひ)が子どもに移った後には破壊して大地に帰したと考え、さらに海と川、大地と山、天を結び付ける龍・龍蛇神信仰(トカゲ蛇信仰)や、大物主大神蛇として夜這いする神話から男性器の亀頭を蛇頭に見立てる信仰についても主張してきましたので、大島氏の環状列石女性器説や蛇信仰説は支持します。・・・

 赤子が土器の腹の部分から顔をのぞかせた出産文土器北斗市津金御所前遺跡)や埋甕(うめがめ:塩尻市平出遺跡)、顔面土器(富士見町井戸尻考古館等)と合わせてみると、これらは母系制社会の「霊(ひ)継」「霊(祖先霊)=神との共食」、「霊(ひ)の再生」を願うデザインとみるべきと私は考えています。

 

縄文72 共同体文明論 210507

 縄文社会研究からみても、縄文中期・後期には狩猟・漁撈・採取だけでなく干物・塩生産、栗栽培や焼畑農耕、黒曜石採掘・加工、土器・装飾品(耳飾り・貝輪・ヒスイ・コハク等)生産、交易などの地域的・広域的分業が行われている母系制の氏族・部族社会であり、祖先霊信仰の共同体祭祀を行う階層社会であり、共同体的生産の農耕社会化とスサノオ大国主建国へと連続していたことが明らかです。

 マルクス・エンゲルスが描いた「原始共産制説」や「奴隷制社会説」は19世紀の西欧の歴史学・考古学・人類学などのレベルの空想に過ぎず、西欧の好戦的軍事氏族による侵略・略奪・生産手段独占・宗教支配が階級社会を生み出したという「軍事進歩史観」であり、氏族・部族共同体社会の分業化が進み、交易・技術・公共事業・共通祭祀を主導した氏族・部族による建国の歴史を無視した偏った歴史観と言わざるをえません。

 

縄文75 世界のビーナス像と女神像  210524

 ギリシア・ローマ文明の「ヴィーナス像」が征服戦争による女性奴隷化により男性優位の父系制社会を示すのに対し、安産・多産を願う「女神像」は母系制社会の宗教を示しています。・・・

 西欧中心主義のマルクス主義を含む歴史学の輸入・翻訳学者によって、日本の縄文時代は「野蛮・未開文明」に押し込まれ、軍国・侵略主義のユダヤキリスト教ギリシア・ローマ文明を世界標準とする歴史観を世界に押し付けてきました。

 その結果、家族・氏族・部族共同体の母系制社会段階は、歴史から葬り去られ、マルクス・エンゲルスによって「共同体社会」は「奴隷制社会」の前の「未開社会」とされ、歴史を貫く「家族・氏族・部族・市民共同体」の主体的な共同体社会像の探求は葬りさられてしまい、理想社会は「原始共同体社会」への回帰とされてしまいました。

 

縄文ノート84 戦争文明か和平文明か

 母系制社会が家族を作り、地母神信仰を生み出し、「死肉あさりと狩りと縄張り争い」が男の役割であったのです。いつまでも「狩猟・戦争文明」の男性優位の偏った西欧文明を投影してサルからヒトへの進化を見るべきではないと考えます。

 この母系制の家族・氏族社会で食料確保と育児・教育などの分担・共同や分業・協業の機会が生じると飛躍的にコミュニケーションが増え、言語能力が高まるとともに経験の継承が行われ、安定した食料による自由時間の増加や長寿化は文化を育み、集団の教育・学習力を高め、脳の肥大化を促したと考えられます。

 

縄文85 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか 210713

 3歳までに頭脳は発達しますから、このような毎日の直立歩行により、メスと子サルの熱帯雨林での川や沼での食物採取活動こそが二足歩行を定着させ、そこに群れからボスに追われたオスが加わり、安定した家族が形成された可能性が高いと考えます。このような熱帯雨林での「芋穀魚介食」こそメスを中心とした家族の自立を促し、妻問夫招婚の母系制社会の人類の誕生を生み出したのです。

 

縄文88 子ザルからのヒト進化説 210804・16

 コロブスのメスザル同士の助け合いは人類の母系制社会の共同体成立の手掛かりになるものと考えます。なおコロブスのメスたちが血縁でないのか、それとも祖母や姉妹などの血縁関係があるのかどうかはわかりませんでした。

 

縄文89 1段階進化論から3段階進化論へ 210808

 この縄文文明・文化は世界の母系制社会の地母神信仰などを示す「世界標準文明」の1つといってよく、世界各地の母系制社会段階の解明に大きな手掛かりを与えるものです。

 さらに「狩猟・牧畜・農耕」「略奪・戦争」「父系制」「絶対神一神教教」の「肉乳麦食文明」「森林破壊・石造文明」に対し、「採集漁撈→農耕漁撈」「交易和平」「母系制」「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教」の「芋穀豆栗魚介食文明」「森林・木造文明」という独自の発展をとげ、3・4世紀には各地に女王国があったわが国は、環境・食料・格差拡大・紛争戦争の危機に対し、西欧中心文明の見直しに向けたヒントを提案できると考えます。

 

縄文90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制  210822

1 母系制社会についての検討方法

 古代文明母系制か父系制かについての検討は、次のような4つの方法が考えられます。・・・

⑴ サル・類人猿の共同体・家族形成からの推定方法・・・

⑵ 遺跡・遺物からの推定方法・・・

⑶ 古代神話など文献からの推定方法・・・

⑷ 現代の民俗・文化からの推定方法・・・

 私は人類拡散にともない、「主語-目的語-動詞」言語、ヒョウタンやイネ科穀類、神山天神信仰(神名火山信仰)、女神信仰、蛇神・龍神信仰、黒曜石利用、円形住宅・墓地、筏が伝播したことを明らかにしてきましたが、母系制社会とそれに伴う神話もまたアフリカでの人類誕生を起源として世界に広まったのです。

2 メソポタミア文明の母系制

 女神イシュタル信仰は中東から地中海の諸国の女神信仰へと広がり、「イシュタル信仰は後代まで続き、ギリシアアフロディーテ、ローマのウェヌスに姿を変えて崇拝され続けたが、そのあまりに強大な信仰は一神教ユダヤ教キリスト教から敵視され、果てには『バビロンの大淫婦』と罵られることとなった」と女性蔑視の蔑称の烙印が押されていますが、それだけにかえって根強い女神信仰があったことを示しています。

 メソポタミア神話の最古のシュメール神話は、「海の女神」ナンム(Nammu)が天地を生み、全ての神々を生んだ母なる祖先と称され、蛇の頭を持つ蛇女神として表現され、天と地が結合している「天地の山」アン(アヌ)と「大地・死後の世界を司る女神」キを生んだとされます。アヌもしくは月神シンと「ヨシの女神」ニンガルの娘のイシュタルは「金星・愛欲・戦争」の女神で、キシュ、アッカド、バビロン、ニネヴェ、アルベラなど多くの崇拝地を持ち、双子の兄に「太陽神」ウトゥ(シャマシュ)、姉に冥界を支配する「死の女神」エレシュキガルがいます。

 

縄文ノート91 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の「縄文1万年」 181201→190308→210823

 ケタガラン族が母系制社会だったことである。特に結婚の風習が独特だった。彼らは娘が年頃を迎えると小屋を与える習慣があったという。そして、祭事の時など、女は気に入った相手にめぐり逢うと、男の手を引いて自分の小屋へ迎え入れたのだという。これが求婚となる。

 

縄文ノート92 祖母・母・姉妹の母系制 210826

 私は祖父母より、祖母・姉妹・従姉妹が「共同体・家族形成」と「農耕開始」には重要な役割を果たしたと考えており、母系制社会の一環としてまとめました。・・・

 「縄文ノート90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明母系制」でみたように、女性が「地母神」「大地神」「豊穣神」「穀物神」とされているのは、農耕開始が女性であったことを示しています。

 

縄文ノート93 「かたつむり名」琉球起源説からの母系制論柳田國男の「方言周圏論」批判180816・21→210830

アマミヤ(女神)とシラミキヨ(男神)が東方の海の彼方(ニナイハラー)からきて、アマミヤが棒を立てて神に頼み、天から土・石・草・木を下してもらって島を作った」という男女漂着神話が、アマミキヨ女神信仰に変わったのはなぜでしょうか?

 久高島では、12年に1度、午年(うまどし)に行なわれる祭事・イザイホーがあり、島中央部のクボー(フボー)御嶽(うたき)は久高島で最も重要な男子禁制の聖域であり、女性が16歳から神女就任儀式(イザイホー)を経て神女となり、祖母霊が守護神として孫娘につくとされています。琉球王朝の神女組織「祝女ノロ)」制度のルーツと考えられます。―「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号:2017冬)参照

アマミヤ(女神)とシラミキヨ(男神)」が合体されて「アマミキヨ(女神)」になり、祖母霊がついた神女が祭祀を行なっているということは、家=氏族の中心が女性であったという母系制社会を示しています。

 

縄文ノート94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論 181204→190116→200204→210902

 安田徳太郎氏の『人間の歴史』には松本氏が取り上げていない女性器名「ノノ」が欠落しています。

 京都市生まれの安田氏は「母親から空にかがやいている月にむかって、『ノノさん、あん、あん』とおがむように教えられた」「インドネシア語でノノというのは、女の性器のことである」「岡山地方では、女の子の性器をノノさんといって、男の子は遊び仲間の女の子の性器が見えると、みんな両手を合わせて、ノノさんといって、おがむそうである」「わたしたちは、子供時代には神さまのことをノンノさんと呼んでいた」としています。

 私が小学校時代を過ごした岡山市では級友達が女の子の性器を「ノノさん」と確かに言っていましたし、兵庫県たつの市出身の母からは「ノンノンさん、あん!」と言って神棚を拝むことを教えられました。・・・

一方、兵庫県高砂市生まれの妻は「まんまんちゃん あん!」と言って母方の実家の仏壇か神棚を拝んだことがあるといいます。

ネットで調べてみると、松山や宇和島岐阜県などでも「ののちゃん、あーん」「のんのんさん、あ~ん!」、九州で「のんのんさぁー」、関西で「まんまんちゃんあん」などがでてきます。・・・

一方、「マンマン」は縄文時代から続く女性器・マンコ信仰から神を拝む幼児語として使われ、仏教伝来後に仏(ほとけ)のお祈りに転用されたと考えます。・・・

松本氏の『全国マン・チン分布考』は言語論のうちの方言論の範疇にとどまりますが、私はその作業は「日本語起源論」「縄文人起源論」「霊(ひ)信仰論・地母神信仰論」「女性器信仰論」「母系制社会論」「スサノオ大国主建国論」など、日本文明・文化の解明に繋がる重要なテーマと考えます。

 「女陰全国分布図」「男根全国分布図」作成という松本氏の成果を生かし、女性器名称の歴史的分析と地理的分布の要因、音韻的変遷について再検討するとともに、日本文化の根底にある母系・父系制社会の性器信仰、女性器尊敬、性の開放性(歌垣、混浴・浮世絵など)の伝統を再評価し、明治政府から続く「俗語禁止」「言語統制」「民俗弾圧」「民間宗教否定」「禁欲強制」の悪弊を正すきっかけとする必要があります。

 

縄文ノート96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡  210918

2 金生(きんせい)遺跡

 古い写真と図面で確認すると、写真の復元住居の入口は神名火山(神那霊山)型の編笠山を向いているように見え、中世の八ヶ岳信仰の権現岳の山頂の檜峰神社が「霊(ひ)の峰」として縄文から続く祖先霊信仰の神山であった可能性があります。

 「女ノ神山」の別称を持つ蓼科山が「居夷神(いひな神=委霊那神)」「びじん=霊神」を祀っていることと符合します。神山天神信仰、石棒(地母神信仰の金精信仰)、女性土偶(中空土偶がワンセットあることからみて、この地の縄文人地母神信仰・神山天神信仰があった可能性は高いと考えます。

3 阿久(あきゅう)遺跡

 蓼科山の「ビジン様」は神名火山(神那霊山)の「霊神(ひのかみ→ひじん)」であり、古事記に書かれている「始祖二霊」の「産霊(むすひ:霊を産む夫婦神)」やスサノオ・アマテラスの「ウケヒ(受け霊)」、出雲で妊娠すると「霊(ひ)が止まらしゃった」と言うことなどからみて、霊(ひ:祖先霊)が神山から天に昇る母系制社会の天神信仰を示していると考えます。

 また、琉球(龍宮)の宮古では女性器名を「ピー・ヒー」、天草では「ヒナ」、倭名類聚抄ではクリトリスを「ひなさき(雛尖)」といい、黒い「烏帽子(えぼし:カラス帽子)」の先に「雛尖」を付けることなどからみて、(ひ)が宿る女性器信仰であったと考えます。

 

縄文ノート98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社 210924

5 下浜御社宮司(みしゃぐじ)神社 

① 「ミシャグジ社」のうち、この神社に着目したのは、「専女(たうめ→とうめ)=老女」神(雛元解釈:田産女神)、さらには「三狐神(みけつかみ)保食神うけもちのかみ:日本書紀)=大気都比売(おおげつひめ:古事記:イヤナギ・イヤナミの子)=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ=稲荷神:スサノオの子)」と習合され、女神の食物神とされていたからです。

③ ・・・日本各地の田植え神事・祭りを女性が行っているのは、この農作物栽培の起源からの地母神信仰・穀霊信仰に基づいているのではないか、と私は考えています。

 魏書東夷伝倭人条で卑弥呼が「婢千人自ら侍らせ」と書き、古事記スサノオがアマテルの「営田の畔」や「服屋」を壊す乱暴を働いたという記述は、卑弥呼(霊巫女)=オオヒルメ(大霊留女)=アマテルが大勢の女性を集めて稲作と絹織物生産を行っていたことを示していると考えます。

 

縄文ノート99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡  210930

2.蓼科山信仰と蓼科神社

 奥宮の祭神は、高皇産霊と倉稲魂(女神)、木花佐久夜毘売(女神)は共通していますが、里宮には大己貴(おおなむち)命(大国主)、奥宮には「水分(みくまり=みくばり)神」「保食(うけもち)神(女神)」「稚産霊(わくむすひ)神(女神)」が祀られており、後世に様々な神が習合されています。・・・

① 蓼科山縄文時代から現代に続く女神信仰の神山であったことが明らかです。男神の高皇産霊(たかみむすひ)と大国主は後世の男系社会を反映した合祀と考えられます。

 さらに重要な点は、この女神信仰・地母神信仰が人類の誕生、家族・氏族誕生に遡り、世界の文明に共通しており、戦争・侵略の男性中心社会になりながらもその宗教・民俗を日本文明は明確に残していることです。日本中央縄文世界遺産登録の大きな価値はこの点にあります。

③ ・・・蓼科神社高井明神(高い井の神)と呼ばれていることや水分(みくまり=みくばり)神の習合、諏訪大社上社前宮の「水眼(すいが)」信仰や、湧水地の「ミジャグジ(御蛇口)」信仰、縄文土偶・土器の龍蛇デザインなどを見ても、蓼科山水神=龍蛇神信仰の対象でもあったと考えます。

 それはルウェンゾリ山・アララト山カイラス山などの神山源流からのナイル川・チグリスユーフラテス川・インダス川流域などの「母なる河」「水神信仰」「龍神信仰」と共通する農耕文明を示しています。

3.池之平御座岩遺跡

① 池之平御座岩遺跡は表5のように「峠神信仰遺跡」「交流拠点遺跡」「岩陰祭祀遺跡」の3説がみられますが、私は「蓼科山・池之平湿原の山神・水神(女神(めのかみ))祭祀遺跡」と考えます。

③ ・・・この黒曜石はたまたま猟などで見つけたのではなく、旧石器人・縄文人には神山信仰があり、さらに火山に黒曜石があって利用価値が高いことを知っており、高原山登る機会に黒曜石を見つけたとしか考えられないのです。

 ここから出てくる結論は、神山信仰も黒曜石利用も日本の旧石器人・縄文人が独自に獲得した文化・文明ではなく、アフリカか途中のアジアを移動する時に獲得した可能性が高く、神山信仰はアフリカと南・東南アジア山岳地域で、黒曜石利用はエチオピアかチグリスユーフラテス源流域のアララト山地域で獲得した可能性が高いのです。

 

縄文ノート100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松 211003

1 諏訪大社下社秋宮

 第1点は、上社前宮と下社春宮・下社秋宮の主祭神が建御名方(たけみなかた)の妻の八坂刀売(やさかとめ)であり、女神信仰であることです。

2 性器型道祖神津島神社・真清神社・高尾穂見之宮) 

① 津島神社の男根道祖神については、縄文時代の石棒に後世に「道祖神」と彫ったのか、それとも、最初から道祖神として作成したのかはっきりしませんが、いずれにしても、「女神に捧げる男根」あるいは「女神の神代(かみしろ:依り代)」であることは確実です。

② ・・・「神体として石棒が納められているのが典型的なミシャグジのあり方であるという今井野菊の観察」(ウィキペディア:大和岩雄)や、「ミシャグジ(御蛇口)」という名称、縄文時代の集団墓地での石棒・円形石組、女神像や土器・土偶の蛇文様などによれば、縄文時代から続く女神信仰・神山信仰・水神信仰・龍蛇神などの信仰が現代まで途切れずに続いていることが明らかです。

③ また群馬県片品村の性器型などのツメッコを入れた汁粉を裏山の十二様(山の神:女神)に捧げる祭について、私は「元々は女神とされた山神に奉げるのですから、『金精形』だけであったのが、いつの頃か縁結び・夫婦和合・安産・子だくさん・子孫繁栄を願って『女性器形』が追加されたと考えられます。さらに、大地に糞尿を撒いて農作物を栽培したことから、豊作を願う『うんこ形』が追加されて地母神に供えられたのではないでしょうか」としましたが、金精・道祖神についても同じように『金精形(男根型)』から『男女性器型』、さらには『夫婦型』に変ったのではないか、と考えます。

 

縄文ノート101 女神調査報告5 穂高神社と神使 211008

 人のDNAとヒョウタン・芋・豆・雑穀・ソバ・ジャポニカ米のルーツ、「主語-目的語-動詞」言語構造、ピー(霊:ひ)信仰神山・神木信仰、黒曜石利用、性器信仰、ポンガのカラス・赤飯行事などを総合的に考えると、アフリカ西海岸からアフリカ高地湖水地方へ移住し、南インド、さらに東南アジア海岸部と山岳部を経て、海人(あまと→あま)族と山人(やまと)族が共同で竹筏に乗り日本列島にやってきたと考えると、河川源流の神山を目指してこの地に何次にもわたって人々が移住してきた理由ははっきりと浮かび上がります。

 

縄文ノート102 女神調査報告6 石棒・男根道祖神 211013

1 北沢川大石棒

⑧ 石棒といえば金生遺跡や大湯環状列石のような墓地の墓石、阿久遺跡のような環状列石の中心に置かれた神名火山信仰の共同祭祀の神代(かみしろ:依り代)、竪穴式住居の祭壇に置かれた家族用の神代がありますが、この北沢川大石棒はそれらとは異なり、山の神(女神・水神)の共同祭祀の神器と考えられ、焼畑農耕から水辺水田農耕への転換期に位置し、後世の「ミシャグチ(御蛇口)」に祀られた石棒と同じ宗教思想の神器ではないかと私は考えます。

⑪ 「地母神信仰」「天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)」「神山信仰」「女神(めのかみ)信仰」「龍神信仰」「水神信仰(ミシャグジ信仰)」と石棒(男根=金精)や神使のカラスや龍蛇、「ポンガ(ホンガ)」、高山の黒曜石採掘をどう整理すればいいのか、ずっと悩んできていましたが、死者の霊(ひ)が天に昇るという魂魄分離の思想が旧石器時代からあったと考えると、統一的な理解が可能となります。 

3 原諏訪神社の男根型道祖神

⑤ 諏訪・穂高・佐久と飛び飛びの宗教分析の統合になりますが、私は霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教のもとで、「縄文男根石棒(墓石型・共同祭祀型)→男根道祖神→男女性器道祖神→夫婦道祖神」へと推移したと考えます。

4 「縄文シビライゼーション街道」―穂高・黒曜石・女神山ルート

③ 文明(英語:civilization)は、ドイツ語Zivilisation・Kultu、チェコ語civilizace、ノルウェー語kulturen、ロシア語civilizácija・kul'túraは女性名詞であり、男性名詞はギリシア語だけであることを考えると、「縄文女神(めのかみ)山ルート」を「縄文シビライゼーション(文明)街道」と言い換えてもいいかと思います。

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート102 女神調査報告6 北沢川・月夜平大石棒と男根道祖神

 9月11日、安曇野穂高神社をあとにして、佐久の日本一大きい私の身長を超えた男根型の北沢川大石棒と月夜平大石棒(大宮諏訪神社)、原諏訪神社の男根道祖神を調べました。

 遺跡・神社と博物館などをざっとした見学だけでも諏訪で2泊3日、安曇野・佐久で1泊2日はかかり、これに新潟・群馬・山梨を加えた世界遺産登録運動に取り組むとなると、マニア向けの見学会としても5泊6日は必要になりそうかななどと考えながらレンタカーを走らせました。

 石棒(男根・金精)というと男社会の祭りとばかり私は思い込んでいましたが、尾瀬湿原のある群馬県片品村の仕事で、女体山(日光白根山)に男が金精を捧げ、山の神「十二様」(女神)に男が性器型などのツメッコ(すいとん)を入れた汁粉を供える祭りで、女性は女神が嫉妬するので参加できないことを知り、びっくりしました。女性差別ではなく、女神信仰の母系制社会の祭りが続いていたのです。

 さらに武尊山のほとりの武尊(ほたか)神社の猿追い祭りでは、2組に分かれて「エッチョー」「モッチョー」と言い合いながら赤飯を投げるのですが、男性たちは赤や紫などのスカーフで頬かむりをしており、元々は女性の祭りであった可能性があります。この信州の「穂高岳」と上州の「武尊山」(江戸時代に「武尊」字に変更)、安曇野の「鳥追い行事」と武尊神社の「猿追い祭りの赤飯投げ行事」の関係については最後の「縄文ロマンチック街道」で取り上げています。

 女神調査の締めくくりとして、この男根型大石棒の信仰が「縄文石棒(墓石型・共同祭祀型・神棚型)→男根型道祖神→男女性器道祖神→夫婦道祖神」として現代にまで残っていることを明らかにしたいと思います。

 

1 北沢川大石棒  14:40

 現役のころ、北陸新幹線佐久平駅でレンタカーを借りて南牧村北相木村に仕事で数年間通い、途中に北沢川大石棒や浅間縄文ミュージアムがあることは知っており、気になっていたのですが時間がなくて立ち寄る余裕はありませんでした。

 今回、コロナで浅間縄文ミュージアムはまたしても見ることができず、北沢川大石棒だけの見学になりました。

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<概要>

① 場所:長野県南佐久郡佐久穂町高野上北沢1433

② グーグルマップとMapFan、トヨタのカーナビの地図では、中部横断自動車道の佐久穂インターチェンジの北にある北沢川を少し下った右岸に表示されましたが、Yahoo地図や国土地理院地図では出てきませんでした。個人所有の田のためか道路際に案内表示もないので、スマホかカーナビで確認する必要があります。  

③ 驚かされるのはその大きさで、168㎝の私の背丈を越え、地面に埋まっている部分を加えると、全長は223㎝になります。

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④ 案内板によれば、4千数百年前(縄文中期)のもので、南の大地の集落(未発掘?)に住む縄文人が建立したとしています。

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⑤ 大正時代の北沢川改修工事により出土し、高見沢伊重氏が自分の田の畦に立てて保護したと伝えられ、北北東約10kmの佐久市志賀の佐久石(志賀溶結凝灰岩)で作られたものとされています。

 「志賀」地名は前回述べたように、現在は松本市の旧四賀(しが)村と同じく、志賀島(しかのしま)を本拠地とした安曇族と関係している可能性があります。

<考察>

① 土地利用計画や施設立地計画などの仕事もしてきた私にとってまず気になったのは、男根型の大石棒が立てられた場所の地形条件と、隣の三角柱石棒との関係です。

 町史など読めば明らかになるのでしょうが、もともとあった三角柱石棒の横に北沢川の発見地から男根型石棒を運んで立てたのか、それとも2本の石棒を見つけて北沢川から持ってきて一緒に立てたのでしょうか?

  いずれにしても、北沢川のほとりに元の立地点があった可能性が高いといえます。

 

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② 地形をみると北沢川から南は階段状に河岸段丘になっており、集団墓地をつくるなら高台を選び、氾濫の可能性のあるこのような低地を選ぶとは考えられず、川岸に立てたのは信仰のためと考えます。

③ 二等辺三角柱の石棒は南を向いていますが、茅野市の尖石遺跡の「尖石(とがりいし)」が蓼科山を向いているという平津豊氏の説のように、元は八ヶ岳連峰の神名火山(神那霊山)を向いていた可能性があります。―「縄文ノート35 蓼科山を神那霊山(神名火山)とする天神信仰について」参照

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 あるは、二等辺三角形の底辺は北沢川に沿っていたのかも分かりません。

 いずれにしても、この二等辺三角柱が元々この地にあったのか、それとも男根型石棒とともにこの地に運ばれて方位など考えずに建てられたのか、確かめる必要があります。

④ 図2のように石棒の下1/3ほどが茶色に変色しており、火の祭祀に使用されたという説がありますが、長い間、鉄分の多い土に接していた可能性が高いと考えます。佐久石(志賀溶結凝灰岩)を使って再現実験を行い、変色の原因を確かめるとともに、ハンドオーガー(手動土壌採取器)で採掘して赤色土壌の場所を突き止めていただきたいものです。

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⑤ 北沢川の源流の八ヶ岳連峰に神名火山(かんなびやま)型の神山があるかどうか確かめたかったのですが、遠くにかすんでいたのと逆光で見極めることはできませんでした。

 地図で見ると、「鍋槍山」という神名火山の「神鍋山」(かんなべやま:兵庫県豊岡市日高町)に似た名前があり、さらに西の双子山や横岳があり、さらにその先の蓼科山がコニーデ型の神名火山(神那霊山)として見えるかどうかは確認できませんでした。ただ、後に述べるように、月夜平大石棒(大宮諏訪神社)の地点からは蓼科山が見えるとしており、蓼科山を信仰していた可能性はあります。

⑥ 北沢川の1つ南の谷筋の麦草峠を下った水無川下流は大石川)の平坦地には池之平遺跡群があり、13000~11500年前頃の旧石器時代末期の黒曜石原産地と尖頭器製作場所があり、佐久地方の黒曜石製品の重要な生産拠点であったとみられます。この頃には、分業と広域交易体制ができていたのです。―図3・4参照

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⑦ 図5・6のように、北沢川上流の双子池周辺にも黒曜石があり、その近くでも同じような採掘遺跡があった可能性があり、下流扇状地に住んでいた縄文人にとって、神山から流れ出す北沢川は水をもたらす母なる川であるとともに、黒曜石採掘・加工の重要な聖地であったと考えられます。

 

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⑧ 石棒といえば金生遺跡や大湯環状列石のような墓地の墓石、阿久遺跡のような環状列石の中心に置かれた神名火山信仰の共同祭祀の神代(かみしろ:依り代)、竪穴式住居の祭壇に置かれた家族用の神代がありますが、この北沢川大石棒はそれらとは異なり、山の神(女神・水神)の共同祭祀の神器と考えられ、焼畑農耕から水辺水田農耕への転換期に位置し、後世の「ミシャグチ(御蛇口)」に祀られた石棒と同じ宗教思想の神器ではないかと私は考えます。

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⑨ 毎日新聞記事によると、2020年11月22日に行われた現地説明会では「動植物の豊穣(ほうじょう)と人間のよみがえりを願って、豊かに湧き上がる水辺の近くに建立したもの」と説明されていたようですが、私なりにさらに掘り下げてみたいと思います。

 この説明では、「動植物の豊穣(ほうじょう)」を縄文時代の採集・漁撈・狩猟生活と結びつけ、性交のシンボルとして男根型石棒を立てたと考え、「今も神社で祈願される縁結び・子宝・安産・子孫繁栄を象徴するものとして男根を崇拝した」などとソフトに説明されたのではないかと思います。

 私も大湯環状列石で円形石組に石棒を立てているのを見て、大地を万物の母とし円形石組を女性器として男性器を立てることにより、動植物が再生してくることを願ったものと考え、次の段階で大国主の八百万神信仰の死者の霊(ひ)が神名火山(神那霊山)から天に昇り、降りてくるという天神信仰に変わった、と考えていました。

 しかしながら、阿久遺跡の石棒から蓼科山に向かう石列や高原山の1440m地点での黒曜石採掘・加工遺跡を知り、神山天神信仰旧石器時代に遡り、アフリカ起源でインド・東南アジア山岳部に伝わり、ドラヴィダ海人・山人族によって日本列島に伝わったと考えるようになりました。―縄文ノート「10 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」「32 縄文の『女神信仰』考」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「61 世界の神山信仰」等参照

⑩ 「人間のよみがえりを願って」という説明についても、死者の霊(ひ)の大地からの再生を願って墓石としてたてられた金生遺跡や大湯環状列石の円形石組・立棒の地母神信仰の解釈に止まり、魂魄(こんぱく)分離の宗教思想に変わり、神山(女神山)から天に死者の霊(ひ)が昇り、降りて来るという宗教思想への転換が説明されていません。

 私はこれまで世界の大河源流の神山信仰の分析や、ミシャグジ(御蛇口あるいは巳狭口)信仰や蓼科山(女神山)信仰、龍神(トカゲ龍・龍蛇)信仰・ポンガ(沸騰を祝う囃子言葉)などの検討から、北沢川源流の神山(神名火山)信仰こそが重要と考えます。―縄文ノート「38 『霊(ひ)』とタミル語『pee(ぴー)』とタイ『ピー信仰』」「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」「縄文40 信州の神奈備山(神那霊山)と『霊(ひ)』信仰」「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」参照

 

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⑪ 「地母神信仰」「天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)」「神山信仰」「女神(めのかみ)信仰」「龍神信仰」「水神信仰(ミシャグジ信仰)」と石棒(男根=金精)や神使のカラスや龍蛇、「ポンガ(ホンガ)」、高山の黒曜石採掘をどう整理すればいいのか、ずっと悩んできていましたが、死者の霊(ひ)が天に昇るという魂魄分離の思想が旧石器時代からあったと考えると、統一的な理解が可能となります。  

 

2 月夜平大石棒(大宮諏訪神社大石棒)  15:10

<概要>

① 北沢川大石棒から北東2㎞ほどの谷川の南にある大宮諏訪神社佐久市入沢3015)に大石棒は安置されています。以下、発見地から月夜平大石棒と呼ぶことにします。

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② 大石棒は長さ152㎝、直径17㎝で、北沢川大石棒223㎝よりはやや短いものの、男根の形状が芸術的に形づくられ、きれいに研磨されており、「精緻な作りと形状の美しさにおいて日本一との評価も見られます。

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③ 溶結凝灰岩(佐久石)を素材にしていることと、昔、湖沼があったと伝えられ上磯部地籍の用水石垣の下から1934年に発掘され、「形状と研磨された作りから、入沢の石棒は縄文後期に位置づけられる」とされています。

④ 「この遺跡の集落のシンボルとして、南西に八ヶ岳、西に蓼科山を仰ぎ、北に浅間山、東に大久保山を望む台地に石棒を立てて、動植物の豊穣と集落の繁栄を祈って石棒信仰の祭祀まつりがとり行われた」とされています。

⑤ 大宮諏訪神社は巨樹が多く、谷川源流域の神名火山(神那霊山)を確認することはできませんでしたが、月夜平遺跡の報告書とあわせて次の機会としたいと考えます。

<考察>

① 重要な点は、この谷川左岸扇状地のほぼ中央には、縄文時代前期・中期・後期、弥生時代古墳時代、奈良・平安時代まで連続した月夜平遺跡北西端側に位置しており、北沢川大石棒と同じ宗教儀式に使われていた可能性が高いことです。この地の人々は縄文時代から住み続けており、いつの段階かに、大石棒信仰を止めてしまったということです。

② なぜこの月夜平大石棒と北沢川大石棒信仰が止められ、谷川・北沢川から発見されたのかですが、可能性としては次のような4つの仮説が考えられますが、私の検討結果は表2のとおりあり、「災害を契機とした祭祀転換」がおきたと考えます。

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③ 月夜平遺跡の内容はネットでは調べられませんでしたが、扇状地という立地条件からみて、私は「採集狩猟→芋豆5穀(特にソバ)焼畑農耕→水辺水田稲作→水利水田稲作」の農業段階のうち、縄文土器鍋料理(おこげ・吹きこぼれ痕と土器鍋縁の沸騰・龍紋デザイン)、黒曜石鏃による鳥獣害対策、水神信仰などから考えて、縄文時代に「芋豆5穀焼畑農耕と水辺水田稲作」があったと考えており、月夜平遺跡の遺物は調べてみたいものです。

 

3 原諏訪神社の男根型道祖神  15:40 

 佐久地方には諏訪神社が濃厚に分布し、しかも諏訪神社としか表示されておらず探すのに手間取りましたが、地区名から「原諏訪神社」と呼ぶことにしました。

<概要>

① 千曲川に沿って北に進み、しなの鉄道中込駅手前の野沢橋を渡った「長野県佐久市原20」にあり、巨樹の生える歴史を感じさせる神社です。

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② 縄文石棒を転用した可能性のある古そうな素朴な形の男根型道祖神をネットでしらべてこの原諏訪神社を見つけました。集落内に散在していたものを神社に集めた可能性があるからです。

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③ 道祖神について、ウィキペディアは「道祖神は、村境で悪霊や悪い病が村へ入るのを防ぎ、旅人の安全を守り、五穀豊穣、家内安全、子孫繁栄などの守り神で、江戸時代中期(1700年代)のものまで確認がされています」としていますが、なぜ道祖神が祀られるようになったのか、さらには縄文石棒との関係については解説していません。

<考察>

① 事前の調査不足で北沢川大石棒と月夜平大石棒が佐久石でできていることを知らず、原諏訪神社道祖神の石材を確かめることなく、形だけに注目していましたが、これから調査される方はルーペを持って確かめていただきたいと思います。

② 旧石器・土器時代の「黒曜石産業」「土器鍋産業」と言ってもいい広域分業・流通体制を考えると、各地でそれぞれ製作された素人細工の素朴な形のものとは別に、宗教祭具として製作地・製作集団が限られるものがある可能性も考えられます。

 

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③ ウィキペディアでは「悪霊・疫病退散、旅行安全、五穀豊穣、家内安全、子孫繁栄」など、現在の神社の御利益の総花的な決まり文句を並べた説明していますが、現在の一般的な神社信仰から過去へ遡って推測する安易なやり方ではなく、スサノオ大国主一族の八百万神の霊(ひ)信仰と縄文時代の男根型石棒祭祀から検討すべきと考えます。特に、信州においては、阿久遺跡や中ツ原遺跡に見られる蓼科山信仰(ヒジンの女神信仰)や守矢・諏訪一族や穂高一族の神名火山(神那霊山)信仰、守矢一族の「ミシャグジ信仰」との関係の解明が重要です。

④ 道祖神が「江戸時代中期(1700年代)」からだとすると、仏教と徳川幕府朱子学の両方の禁欲主義や封建社会の男社会の影響を強く受けている可能性を考えるべきであり、さらに明治に入っての西欧崇拝・キリスト教禁欲主義の影響による男根崇拝排斥や混浴禁止により、縄文時代からの性器信仰は影を潜めてしまった可能性を考える必要があります。

 魏書東夷伝倭人条に書かれたように、死者が出ると「喪主は哭泣し、他人は就きて歌舞飲食す」る極楽往生を祝う習慣や、「会同に坐起するに父子・男女別なし。人性、酒を嗜む」と書かれた「気楽・快楽社会」の縄文社会からスサノオ大国主建国の伝統から分析を進めるべきと考えます。

⑤ 諏訪・穂高・佐久と飛び飛びの宗教分析の統合になりますが、私は霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教のもとで、「縄文男根石棒(墓石型・共同祭祀型)→男根道祖神→男女性器道祖神→夫婦道祖神」へと推移したと考えます。真面目な教育県の信州人としては、扱いにくいテーマと思いますが、1つの遺跡・集落でワンセットの痕跡を見つけていただきたいものです。

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4 「縄文文明街道」―穂高・黒曜石・女神山ルート

 現役時代、あるコンサルが「上司の〇〇さんは、何にでもロマンチックと付けるんですよ」とこぼしていたことがありましたが、私が仕事をしたことのある草津・東吾妻・高山・昭和・片品の各町村は上田~日光を結んだ「日本ロマンチック街道」に含まれており、「ドイツロマンチック街道」と姉妹街道の協定を結んでいました。草津から日光まで歩いた若山牧水にちなんだのなら「ロマンチック」より「ナチュラリズム」と言うべきであり、ドイツのロマンチック街道のローテンブルグの素晴らしい歴史的町並み保存のような取り組みがあるのか、と疑問に思ったものです。

 しかしながら、「日本中央縄文文明」の世界遺産登録を考えると、私は「縄文文明街道」と言い換えて新たなイメージづくりをしてもいいかな、などと夢想しています。―「縄文ノート59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり」参照

 穂高ルート・黒曜石ルート・女神山ルートの3つが「日本ロマンチック街道」に重なるのです。―縄文ノート「40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」参照

 

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 穂高ルート・黒曜石ルート・女神山ルートの共通文化は次のとおりです。

 

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③ 文明(英語:civilization)は、ドイツ語Zivilisation・Kultu、チェコ語civilizace、ノルウェー語kulturen、ロシア語civilizácija・kul'túraは女性名詞であり、男性名詞はギリシア語だけであることを考えると、「縄文女神(めのかみ)山ルート」を「縄文文明街道」と言い換えてもいいかと思います。

④ 「日本中央縄文文明」全体を考えると、「縄文アートルート」や「縄文女神像ルート」「縄文男根ルート」なども考えられ、発掘が進めば「縄文楼観拝殿ルート」なども可能性があると考えます。

 

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート101 女神調査報告5 穂高神社の神山信仰と神使

 9月11日、諏訪を後にして北上して安曇野穂高神社を見学し、佐久の北沢川大石棒と大宮諏訪神社の大石棒、原諏訪神社の男根道祖神を調査しました。縄文時代の男根信仰と安曇野に多い道祖神との関係などまとめて報告しょうと書いていましたが、穂高神社諏訪大社の比較などがあり、今回は穂高神社とその神使と鳥追い行事の関係だけを報告します。

 「漢夷奴国王」の金印が発見された博多湾入口の志賀島を本拠地とする海人(あま)族のスサノオの異母弟の綿津見3兄弟の安曇(あずみ)族(海人津見族)の穂高見氏がなぜ海を離れて内陸山岳地帯の信州に住み着き、奥穂高岳を神山としたのか、穂高神社の祭神はスサノオ初代系か大国主(出雲スサノオ7代目)系か、南インドのドラヴィダ族(タミル人)のカラスに赤飯を与える「ポンガ」の行事がなぜ安曇野に「ホンガラ」の鳥追い行事として伝わっているのか、安曇野縄文時代スサノオ大国主建国にはどのような連続性があるのか、縄文石棒と安曇野に約400体以上と日本で一番多い道祖神との関係など、現地で考えるのが今回の目的でした。

 コロナの緊急事態宣言で安曇野市豊科郷土博物館・穂高郷土資料館での縄文遺跡や鳥追い祭りのヒアリングなどができなかったので中途半端ですが、現地で感覚を研ぎ澄まして仮説的検討を行いました。

 安曇野には観光調査や家族で大王わさび農場横を通っての犀川カヌー、ソバ打ち・吹きガラス・とんぼ玉体験などで何回か訪れ、上高地には1回、西穂高岳には夏冬の2回登りましたが、当時は古代史には関心がなくて素通りしていました。

 

1 穂高神社 12:30

<概要>

① 信濃国一之宮の諏訪大社、二之宮の小野神社に続き、穂高神社は三之宮になります。

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② 鎮座地は次の3か所になります。

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③ 安曇氏は博多湾入口の「漢委奴国王」の金印が発見され、綿津見3神を祀る志賀海神社のある志賀島を本拠地としており、安曇郡や筑摩郡四賀(しが)村の地名、穂高神社の祭神や御船祭り・御船神事からみて、この地が安曇族の拠点であったことが明らかです。

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④ 穂高神社の祭神は次のとおりです。                 

 祭神については古事記日本書紀など食い違いがあるうえに通説でも諸説あり、私のスサノオ大国主建国説からの解釈を追加しますが、煩雑なので特にご興味のある方以外はスルーしていただき、考察に進んでいただければと思います。

 

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⑤ 境内には千国海道(塩の道)の道祖神が祀られており、近くを見て回って道祖神を探して写真を撮る手間が省けました。縄文石棒と道祖神の考察については、次回に行いたいと思います。

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⑥ 境内には泉小太郎(いずみこたろう)像があり、松本のあたりは湖で犀竜が住み、白竜王との間に生まれた小太郎は成人して母の犀竜と出会い、その背に乗って巨岩や岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作ったという伝説が見られます。

 このような龍神が登場する伝説は縄文時代からの龍神信仰に由来するのか、それとも海人族の安曇族に由来するのか、要検討課題です。

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⑥ 境内には鶏が放されており、物部氏の大和の石上神宮で見かけ鶏の光景と重なり、当社でも鶏を神使としていると思って調べましたが、穂高神社ではそのような位置づけはしておらず、その理由(わけ)が気になりました。

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<考察>

① 表1の祭神や神社の構成を見ると、守矢・建御名方系の神社の四隅に御柱を立てる配置や御柱祭りがないこと、御神木はあるもののミシャグジ信仰(御蛇口の水神信仰)を伺わせる痕跡がないことからみて、この地の安曇族は守矢系より後世の別の初代スサノオ系という印象を受けました。

② 境内図を見ると、拝殿の奥に本殿、さらにその奥に神木、さらにその先の北アルプスにはピラミッド型の常念岳がそびえており、そのさらに西奥の奥穂高岳穂高岳を神体としていることを見ると、神名火山(神那霊山)信仰と神籬(霊洩木)信仰は縄文時代からの宗教を受け継いでいる可能性は高いと考えます。

 

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  縄文人は目の前の常念岳(仏教伝来前の名前があったはず)を神名火山とし、後に入ってきた安曇氏はさらに奥に進んで高い奥穂高岳を神名火山として置き換えた可能性があります。

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         常念岳:HP「ビューポイントあづみの」さんより借用

③ 穂高の地は烏川の扇状地であり、穂高神社の西約4㎞上流には他谷遺跡があり、その一部の発掘地からは縄文中期・後期の竪穴住居址45軒が見つかり、女性土偶、石棒・丸石、土堀具303点、磨製石斧・削器927点、和田峠の黒曜石鏃、土器などが見つかっているとされています。離山遺跡、新林遺跡などの遺跡と合わせると、日本海と信州を結ぶ交通の要衝となる縄文人の交易拠点であったと考えられます。

 

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④ 霊(ひ:祖先霊)信仰の「神山・立棒・神木(神籬)祭祀」が「神庭型(阿久遺跡)→楼観拝殿型(中ツ原8本柱・三内丸山6本柱建物)→神籬(霊洩木)拝殿型→神殿拝殿型」祭祀と、縄文時代からスサノオ大国主建国へと連続した祭祀仮説を考え続けてきていますが、まだワンセットそろった場所を見つけることはできていません。「楼観拝殿巨木柱跡」がもう1か所、信州で見つかると、ゴールになるのですが。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」参照

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⑤ 安曇族がいつこの地にやってきたかですが、昔、「建御名方が諏訪から出られないようするために日本海への出口に安曇族を配置した」という説をみたことがありましたが、表1の祭神からみて安曇族がこの地に入ったのは建御名方一族よりは前で、物部一族の守矢氏よりは後はないか、と考えます。

 「建御名方の監視役の安曇族説」は、諏訪大社秋宮に武甕槌が祀られていることや、尾掛松伝承からみても成立しないと考えます。―「縄文ノート100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」参照 

 また、守矢氏伝承に穂高氏が登場しないことから見て、守矢氏が姫川を上って先に諏訪に入ったのではないか、と推測します。

⑥ 縄文人やその末裔の海人族の安曇一族が、交易に便利で、住みやすくて海や野山で食料や塩分を容易にえられる海岸部を離れて、この地になぜ進出したのか、ずっと疑問でした。海人族が山に奥深く入った理由は、日本列島の縄文人スサノオ大国主建国だけを見ていたのではどうしても解けませんでした。

 大きな転換点は、アフリカから日本列島への人類移動を考え始めてからでした。

 人のDNAとヒョウタン・芋・豆・雑穀・ソバ・ジャポニカ米のルーツ、「主語-目的語-動詞」言語構造、ピー(霊:ひ)信仰、神山・神木信仰、黒曜石利用、性器信仰、ポンガのカラス・赤飯行事などを総合的に考えると、アフリカ西海岸からアフリカ高地湖水地方へ移住し、南インド、さらに東南アジア海岸部と山岳部を経て、海人(あまと→あま)と山人(やまと)族が共同で竹筏で日本列島にやってきたと考えると、河川源流の神山を目指してこの地に何次にもわたって人々が移住してきた理由ははっきりと浮かび上がります。―「縄文ノート99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」参照

 旧石器人・縄文人に続いて安曇族が姫川を遡り、高瀬川を下って安曇野に入り、旧石器人・縄文人常念岳の神山信仰を受け継ぎ、烏川を遡って上高地に入り、北穂高を死者の霊(ひ)が天に昇る神山として信仰し、明神池のほとりの奥宮で御船神事を行い、奥穂高岳に嶺宮を もうけたのは、諏訪の上川源流の蓼科山信仰、さらにはナイル川源流のルウェンゾリ山信仰やチグリスユーフラテス川源流のアララト山信仰、インダス川ガンジス川源流のカイラス山(チベット仏教の須弥山)などの信仰を旧石器人・縄文人が携えて日本列島にやってきて、さらに安曇族が受け継いだ可能性が高いと考えます。

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⑦ 奥宮のある上高地明神池へのルートとしては梓川にそった現在の道路を考えると思いますが、私が1964年夏に上高地に入ったルートは堀辰雄だったかの小説を読んだルートで、島々から徳本峠(とくごうとうげ)を下りたところに明神池がありました。穂高神社からだと烏川を遡って蝶ケ岳あたりを越えて上高地に入るか、鍋冠山南の尾根を越えて徳本峠から入ったのではないでしょうか?

 ネットでは穂高神社の古い記録もそのような登山道も確認することはできませんでしたが、私は山神信仰・水神信仰から考えると、烏川ルートから奥宮、嶺宮へと登った可能性が高いと考えます。

⑧ 博多湾入口の志賀島志賀海神社を信仰のルーツとした安曇族の穂高氏なら龍神、物部一族の守矢氏なら石上神宮の鶏、大国主系の諏訪氏なら出雲大社の海蛇を神使(しんし)としそうなものですが、穂高神社では鶏(後述の鳥追い行事を参考)が境内に放たれ、黙認されています。

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 このような捻じれは、もともとのこの地の縄文人の信仰が影響するとともに、鶏を神使とした物部氏石上神宮天皇家伊勢神宮などへの配慮という可能性も考えられます。

⑨ 安曇族の本宮の博多の志賀海神社では神使を決めていませんが、「御神幸祭(ごしんこうさい):御旅所に神霊を運び天に送り、再び迎える行事」で「龍の舞」が奉納されることからみて、神使は龍であり、鶏ではないことが明らかであり、鶏を穂高神社に放つのは元々のこの地の縄文人が行っていた行事を住民が勝手に行なっている可能性があり、次に述べる「鳥追い行事」との繋がりが浮かび上がります。

 

2 鳥追い行事

① 国語学者大野晋氏は「日本語タミル語(ドラヴィダ語)起源説」にたち、南インドに調査で訪れ、1月15日に行われる赤米粥を炊いて「ポンガロー、ポンガロ!」と叫び、お粥を食べ、カラスにも与えるポンガロの祭りを実際に体験し、青森・岩手・秋田・新潟・茨城にも1月11日、あるいは小正月(1月15日)にカラスに米や餅を与え、小正月に小豆粥を食べる風習があり、秋田・青森では「ホンガホンガ」と唱えて「豆糟撒き」を行い、長野県南安曇郡では「ホンガラホーイ ホンガラホーイ」と囃しながら鳥追いを行うことを確かめています。―「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源説」参照

② 今回、長野県南安曇郡の「ホンガラ」の鳥追い行事についてヒアリングしたかったのですが、事前に安曇野市豊科郷土博物館に問い合わせたところ、学芸員の宮本さんから、『長野県史 民俗偏第3巻(2)中信地方 仕事とまつり』(1989 長野県)、『南安曇郡誌 第2巻下』(1968 南安曇郡誌改訂編纂会)、倉石忠彦著『道祖神と性器形態神』(2013 岩田書院)の紹介を受け、館のパンフ「ふるさと安曇野 きのうきょうあした 道祖神祭りに託された願い」の検索を教えていただきました。感謝!!!

                                   

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③ まだこれらの刊行物には目を通せていませんが、パンフ「ふるさと安曇野」によれば、カラスに赤飯などを与える行事ではなく、鳥追い行事に変わっています。

 それは群馬県片品村の花咲地区の武尊(ほたか)神社の「猿追い・赤飯投げ」行事と同じような経緯をたどったと考えられます。―「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」参照

 元々、カラスを神使として神山から天に昇り、降りてくる祖先霊を里から山の間は御幣に移してサルを神使として持たせて運ぶ祭りを行っていたものが、仏教伝来により死者の霊は極楽に行き神山への昇天降地というストーリーが立たなくなり、お山へサルを追い返すという行事だけが「鳥獣害対策」として残り、赤飯をカラスに与える意味もなくなり、大地に赤飯を撒く行事になってしまった、と私は考えています。

 

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 長野県では上長尾だけに残っている「ホンガラ」の行事も、元々は旧正月に神使のカラスに感謝する祭りであったものが、鳥追い行事に変わったと考えますが、それはこの地が烏川の扇状地であり、その水によって農業が成立し、水をもたらすお山信仰と水神信仰が死者の霊(ひ)を天に運ぶカラス信仰と重なった、と私は考えています。

④ 「鳥追い祭り」は元々は「カラス祭り」であり、南インドのドラヴィダ族に伝わる祭りで縄文時代にわが国に伝わり、この地に入った安曇族にも伝わったと考えますが、他のスサノオ大国主一族の神使の「烏」とかぶることを避けて「鶏」に変え、さらに大和朝廷支配下に入った段階で伊勢神宮の神使が鶏であることから、神使の位置づけを止めてしまったのではないか、と私は考えています。

 

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⑤ 縄文時代の鳥信仰を示す痕跡は能登半島真脇遺跡の縄文中期の「鳥さん土器」しか検索できませんでしたから、「ホンガラ」の祭りが縄文時代に遡る可能性を示す証拠はありませんが、龍神信仰では繋がる可能性があります。

⑥ ドラヴィダ族の「ポンガロー、ポンガロ!」の囃し言葉は赤飯を炊いた時の沸騰を喜びとしてあらわした言葉であり、吹きあがり吹きこぼれる泡は縄文土器の縁飾りにみられる円形模様として表現され、さらには湯気が天に昇ることから「トカゲ龍文様」が加わったと私は解釈しています。

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     空想が過ぎるとお考えでしょうが、縄文ノート「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「36 火焔型土器から『龍紋土器』へ」「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体」をご参照ください。

⑦ 「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服説」と記紀に書かれた「スサノオ大国主国史の無視」と「天皇家建国説」により、縄文時代スサノオ大国主一族の神社伝承を繋げて考えることはできなくなり、さらには民俗学の軽視により、「鳥追い祭り」と「烏川源流の北アルプス奥穂高岳・明神池の奥宮・嶺宮信仰」を繋げて考えてみょうなどという発想は生まれようもないと思います。

 さらには「ウォークマン史観」と「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」により、Y染色体D型の分布から必然的に導かれる竹筏によるドラヴィダ海人・山人族の日本列島への大移動など想定外でしょうから、霊(ひ=ピー)信仰の神山信仰やトカゲ龍信仰、カラス・赤飯神事など考えることもできないと思います。

 しかしながら、信濃には色濃く古くからの信仰と祭りが残っており、「縄文研究4巨人」(藤森栄一・宮坂英弌・児玉司農武・今井野菊)の伝統を受け継いだ市民研究がありますから、私は世界の新石器時代(土器時代)文明の解明に向けて総合的な提案ができる可能性は高く、世界遺産登録に繋げることができることを期待しています。

 

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/