ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート84 戦争文明か和平文明か

 サルからヒトへの進化や文明史の検討において、文明の定義には「侵略・戦争・殺害・奴隷化」を基準として追加する必要があると考えるようになりました。

 英ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)の研究チームは、5600万人南北アメリカの先住民が大量虐殺(疫病死などを含む)されたとしています。アメリ国務省は先住民を200万~1800万人と推定していますが、現在の先住民の人口が200万人ほどであることからみて1000万人を超える殺害が行われた可能性が高く、インカ帝国では1500万人が殺害されたとされています。そして、原住民は奴隷として鉱山やプランテーションで働かされて殺され、アフリカから1200万人(うち65万人がアメリカ合衆国)の黒人奴隷が連行されました。

 第一次世界大戦では約3700万人の死者(軍人は1600万人)、第二次世界大戦では6000〜8500万人の死者(軍人は2200~2500万人:うち米軍42万人)とされ、その中にはナチスによる580万人のユダヤ人虐殺、米軍による2発の原爆投下で21万人(1945年12月末)の殺戮があり、朝鮮戦争の死者462万人(軍人は79万人:うち米軍4万人)、ベトナム戦争の死者611万人(軍人は153万人:うち米軍6万人)、イラク戦争の死者50~60万人(米軍は4489人)など、近代文明は大多数の民間人を殺害した「侵略・戦争・殺戮・奴隷化文明」であり、そのすべてにアメリカ人は関わり、日本人も第二次世界大戦の死者には責任があります。これは「終末期文明」といえそうです。

 一方、マルクス主義原始共産制を目指したはずですが、ソ連では1924~1938年(36~38年がスターリンの大粛清)で約75万人が処刑されたと記録され、ゴルバチョフ政権はスターリン時代(1930~1953年)の処刑者を79万人としています。また処刑者を除く有罪者220万人のうちのかなりが過酷な囚人奴隷労働に従事させられたことは、日本兵捕虜もまたシベリアで体験しています。なお、死者の推計には2000万人説から6200万人説まで見られますが、戦前のソ連人口が17000万人とされていることから誇張があることを考慮する必要があります。中華人民共和国では、全体主義化(対地主・資本家・軍閥チベット民族など)、集団化(人民公社化などへの反対派)、飢餓(大躍進政策による農業生産力低下と飢餓輸出)、文革(対走資派)、天安門事件(対民主派)などでの推定死者数をハワイ大ラムル教授は7700万人ウィキペディア)としていますが、さらに総合的・多角的な研究が求められます。

 部族社会や封建時代の戦いや捕虜ではなく、資本主義社会は新たな「奴隷文明社会」であり、鉄砲・大砲・毒ガス・爆撃機・ミサイル・原爆・ロボットロボットなどの化学・機械を駆使した「戦争工業化文明」であり、共産主義国もまた同じ道を歩んできたのです。

 この破壊的・破滅的な文明と較べると、縄文1万数千年の「豊かで戦争のない社会」は「生命・生活・芸術」の面では最も進んだ文明社会だったといえます。狩猟採取民の労働時間は1日2~4時間とされ、1日8時間労働の現代社会とどちらが豊かで文化的といえるでしょうか? 

 日本の武家政権は元軍の侵攻を果敢に戦って防ぎましたが(貴族支配の天皇制では占領されていたでしょう)、豊臣政権は朝鮮国・民国侵略をめざして敗北し、徳川政権300年の平和な時代を経て、明治・大正・昭和天皇政府は「脱亜入欧」の帝国主義化を進め、台湾・朝鮮・満州支配から日中戦争に拡大し、ハワイ大のラムル教授は日本軍による中国民衆殺戮を395万人と推定しています。

 わが国もたどったこのような「侵略・戦争・殺戮・奴隷化文明」を超える次の文明を考えるなら、今こそ、岡本太郎氏のように「縄文に帰れ」と世界に向けて発信すべきではないでしょうか。

 「侵略・戦争・殺戮・奴隷化」を文明の重要な基準とし、「戦争文明か和平文明か」というテーマで検討してみたいと思います。なお「平和」ではなく「和平」としたのは、積極的な経済・政治・外交を行う行為としたからで、「和平=禾(稲)+口+平」は経済の不均等発展の解消に努めることを含んでいます。

 

1 「文明の衝突」とは

 1996年出版のサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』は、「今後、危険な衝突が起こるとすれば、それは西欧の傲慢さ、イスラムの不寛容、そして中華文明固有の独断などが相互に作用して起きるだろう」と分析し、その後のアメリカ政府の指針となっていますが、「文明の衝突の回避」については「文明にもとづいた国際秩序こそが世界戦争を防ぐもっとも確実な安全装置である」としてアメリカ主導の昔ながらの「西欧文明の国際秩序」(経済・政治・軍事体制)をあげただけで、「西欧文明を超える新しい国際秩序」への展望はなく、「文明の衝突」をもたらした不均等発展の格差解消という根本的課題については答えを出していません。

 その後20年を超えても「文明の衝突」は何も解決されないまま、世界単一市場化・情報化(グローバリゼーション)による格差拡大と情報共有による不満・怒りの広がりによる経済・階級階層・思想・宗教対立や、地球環境悪化に伴う生命環境や食料事情の悪化、新興感染症など「文明の危機」は深刻さを増しています。

 それを第1・第2次世界大戦から中東・朝鮮・ベトナム・イライラ・イラク・アフガン戦争などへと続く「戦争文明」の延長で乗り切るのか、それとも和平と内発的発展による豊かな汎地域主義(グローカライゼーション)の均等発展に向けた新たな「和平文明」への転換を図るのか、今、大きな岐路にあると考えます。

 その選択に向けて、私は人類の誕生からの「文明の誕生・成熟・滅亡の文明史」をたどってみる必要があると考えています。アフリカで誕生し、探究心と冒険心、共同心にあふれた先祖たちが日本列島にたどりつき、自然豊かな島国という侵略を受けにくい恵まれた環境を活かし、独自の内発的発展をとげた日本列島人の文明の解明は、新たな世界文明へのモデルになると考えるに至りました。「戦争文明」の西欧化へと誤ることがなければ、「大東亜共栄圏」などを夢見ることもなかったのです。

 もし、日本列島が朝鮮半島と陸続きであったら、絶えず侵略を受けてこのような自立的内発的発展はとげられなかった可能性が高いことを考えると、この貴重な体験は「戦争文明」に代わる「和平文明」の1つのモデルとして新たな世界文明への指針になると考えます。

 

2 「侵略文明」への回帰

 ここに8世紀頃の1つの世界地図を掲げますが、この地図から皆さんは何を感じられるでしょうか?

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 私はIS(イスラム国)と中国の習近平主席の「中華民族の偉大な復興」を思い浮かべます。

 図2はISが建国しようとした領土の範囲ですが、8世紀のイスラム王朝最大のウマイヤ朝の領土の図3に、17世紀の図4のオスマン帝国の東欧の領土を加え、さらに中央アフリカに領土の範囲を加えた宗教国家を作り上げる野望を持ち、多くの支持者をえたのです。

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 では習近平主席の「中華民族の偉大な復興」の範囲はどうでしょうか?

 図5は8世紀の唐の最盛期の国土ですが、漢民族がアラル湖までの東トルキスタン(一部は新疆ウイグル自治区に)・内モンゴルチベット南詔(なんしょう:チベットビルマ語族)・北ベトナム渤海(靺鞨族)・高句麗などの諸民族を征服(台湾は未征服)した一大帝国です。

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 図6の「一帯一路」構想の図と較べると習近平主席の「中華民族の偉大な復興」はこの唐帝国をさらに拡張した復興であることが明らかであり、ウィグル族の圧迫・弾圧や南シナ海の南沙・東沙諸島の軍事基地化、さらには台湾支配の主張、高句麗を中国の一部とする主張などは「中国人民と中華民族の最も偉大な夢」のようですが、「漢民族だけの最も偉大な夢」との反発もおきそうです。

 西欧・米日帝国主義国の支配に対するイスラムや中国の人たちの反発は当然としても、このようなIS(イスラム国)や習近平主席の「復古帝国主義」の文明観が世界中で通用するのでしょうか?

 日本にも「日本を、取り戻す」(戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す)という安倍晋三元首相らのキャッチコピーがありましたが、まさかアメリカと組んで「世界を照らすアマテラス」の「神の国」(森喜朗元首相)の「大東亜共栄圏」を夢想していなか心配です。

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 ISや習近平主席だけでなく、イギリスのEU分離派は「大英帝国」を、トルコのエルドアン大統領は「オスマン帝国」の復活を夢見るとともに、アメリカのトランプ前大統領は「アメリカ第1主義」、バイデン大統領は「戦後体制盟主」の国際協調路線をとるなど、今、かつての栄光の夢をあおり、人々の不満を外部に向けさせて煽り覇権を求める軍国主義帝国主義の時代に逆戻りしているのではないか、という危惧を感じます。

  文明論において欠かせないのは、8世紀のイスラム帝国唐帝国だけでなく、紀元前のエジプト・メソポタミアインダス文明やアレクサンダー帝国、さらには13・14世紀の東・中東アジアから東欧まで征服したモンゴル帝国が滅亡し、世界征服をめざしたナチスやイタリア・日本もまた敗戦したという「文明滅亡」の歴史についても教訓化しなければならないと思います。

 「戦争文明」か「和平文明」か、世界の文明史を振り返りたいと考えます。

 

3 「肉食文明」か「イモ糖質魚食文明」か

 私は歴史・考古学の門外漢であり、これまで『日経サイエンス』や『ナショナルジオグラフィック』にざっと目を通してきたレベルの知識しかありませんが、「肉食が人類を生んだ」「適者生存の競争の闘争と戦争が人類を発展させた」という肉食・競争・戦争進化派(タカ派)と、「糖質魚食が脳の発達をうながした」「共同と和平が人類を発展させた」という糖質魚食・共同・和平派(ハト派)の2つの古くて新しい論争が今も続いていることにびっくりします。

 日本の歴史でみても、水田稲作を携えてやってきた弥生人(中国人・朝鮮人)が縄文人を征服して日本文明が始まったという「弥生人による縄文人征服史観」は前者であり、戦争のない1万数千年の縄文人の歴史を受け継いだスサノオ大国主一族の新羅との米鉄交易と妻問夫招婚、八百万神信仰による「縄文人自立内発的発展史観」は後者になります。

 新羅侵攻を進めた神功皇后は前者、消極的で妻に殺された仲哀天皇ヤマトタケルの子)は後者、新羅・唐連合軍に対し百済救援の出兵を行なった中大兄皇子(後の天智天皇)は前者、その子の大友皇子を打倒した大海人皇子(後の天武天皇)は後者、明・朝鮮支配を企てた織田信長豊臣秀吉は前者、消極的で政権奪取後に「鎖国(管理貿易)」を行った徳川家康は後者、幕末の尊王攘夷派は前者、開国派は後者と、わが国でも2つの路線は歴史の重要局面で争っています。そして、中大兄皇子新羅・唐との白村江敗北の9年後、秀吉の朝鮮出兵11年後、満州事変14年後にいずれも軍国主義政権は滅亡しています。

 このような繰り返されてきた「戦争文明」対「和平文明」の2つの路線のスタートとして、私は2つの人類進化説、「肉食進化説」と「糖質魚食進化説」から検討する必要があると考えます。

 この論点については、すでにこれまで、私は次のような主張を行ってきました。

 

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 これまで、サルはオスが熱帯雨林からサバンナの草原に降りて草食動物などの死肉をあさり、さらに投げ槍による狩りを行うようになり進化が進んだという「肉食進化説」が主流でしたが、それはアフリカのチンパンジーボノボ・ゴリラや狩猟民の食生活と合致しないだけでなく、大脳生理学から、1日の総カロリーのおよそ20%を使う脳にとって糖質の摂取が欠かせないことが明らかとなり、地上のイモやマメ、穀類などの利用によりサルからヒトへの進化が進んだと考えます。

 そもそも、熱帯雨林の樹上で果物を中心に食べていた大型類人猿がそれに代わるだけの糖質を地上で確保するとしたら、イモ類を棒で掘って確保した可能性が高く、火事が起こった機会に匂いにつられて穀類を食べるようになったと考えられます。

 また『アフリカを歩く』(加納隆至・黒田末寿・橋本千絵編著)によれば、コンゴ(ザイール)の人たちはティラピアナマズ・ウナギ・ナイルパーチ・小魚・カニ・エビ・オタマジャクシ・カエル・ヘビ・ミズオオトカゲ・カメ・スッポン・ワニなどを食べており(安里龍氏によれば最も美味なのはミズオオトカゲ)、一般的な漁法は女性や子どもたちが日常的に行う「プハンセ(掻い出し漁:日本では田や池の水を抜く「かいぼり」)」(武田淳氏)で、他にも多種多様な漁法で魚をとっているというのです。

 私はサルが水を怖がることから、ヒトもワニや大蛇、カバなどを恐れて川に近づくことを怖がったのではないかと最初は思いましたが、ニジェールに海外協力隊員として赴任していた次女に聞くと肉は貴重なのでワニを見つけると捕まえて食べると言っており、武田氏によれば「ワニを見つけた女性は、いち早く山刀で頭部を叩くように切り付けて殺し、家に持ち替えって調理する」(前同)というのです。

 慣れない二足歩行で草原で草食動物を追わなくても、タンパク質や糖質DHA食は熱帯ジャングルの魚介ではるかに容易に確保できるのです。ライオンヒョウ・チーター・サイ・ゾウなどのいるサバンナよりはるかに安全であり、いざとなれば樹上に逃げられるのです。ナックルウォークの類人猿が二足歩行で手で道具を使うヒトになったのは、メスやオス、子どもがかなりの長期間、安全に地上生活をして進化をとげることができたからであり、その理由は樹上の果実食より地上の多様なイモや魚介・昆虫(ミミズやアリ、カブトムシ等の甲虫の幼虫など)・小動物を食べる方がよりグルメで効率がよかったからに違いありません。

 「池の水ぜんぶ抜く」というテレビ東京の番組がありますが、日本では田や池の水を抜く「かいぼり」でナマズやコイ・フナなどを普通に獲っていたのです。子どもの頃、母の田舎に行くと近くの揖保(いぼ)川を石でせき止めて魚を追い込んでよく遊びましたが、ナイジェリアのY染色体E型で縄文人のⅮ型に近いE型のコンゴイドの「イボ人」も同じようなことをしていたのかと思わずにはおれません。

      

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 大国主一族の拠点であった播磨の「揖保(いぼ)川」や大国主の建国伝説の伝わる「伊保」(伊保山には大国主・少彦名を祀る巨大な「石の宝殿」があります)地名と「イボ人」の音韻の一致は偶然かもわかりませんが気になります。

 「ギニアチンパンジーは水たまりの沢ガニを日常的に食べ、コンゴボノボは乾いた土地や沼を掘ってキノコや根粒菌などを食べ、ヤゴや川虫を食べる」(縄文ノート70)のですから、熱帯雨林でサルは地上に降りて「根粒菌・イモ掘り」「プハンセ(掻い出し漁)」などを行い、「糖質魚介食」により頭脳を発達させてヒトになった可能性が高いと考えます。「人類サバンナ起源説」の仮説から離れ、「人類熱帯雨林起源説」への転換を図るべきです。

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 『サルはなにを食べてヒトになったか』(山極寿一著)はカラハリ砂漠のサン人(ブッシュマン)が握り棒で根菜類を掘る写真を載せていますが、「チンパンジーが示す旺盛な肉食志向」などと肉食進化論を主軸とし、最後に「サピエンスたちは、陸上の動物だけでなく海の動物や貝類、鳥類といった動物資源を食物とすることを覚えた」と、「動物食→魚介穀類食」の2段階発展段階説をとっています。「イモ豆穀類魚介食→大型草食動物食」による人類進化という仮説についっては考えてもいないようです。

 ナイジェリア・ニジェール・マリ・ギニアを流れるニジェール川流域を原産地とするヒョウタンが若狭の鳥浜貝塚や青森の三内丸山遺跡で発見され、容器として使っていたことが明らかとなり、Y染色体Eグループのコンゴイドがニジェールのイボ人やコンゴなどに多いことや、チンパンジーボノボ・ゴリラの生息域と重なることなどを考えると、「サルはイモ豆穀魚介類を食べてヒトになった」と結論づけるべきです。―図9・10参照

 頭の中に筋肉が詰まって進歩したのではなく、糖質食とDHA食がヒトへの進化を助けたのです。人類は寒冷地で大型化し、熱帯地方では小型であることからみても、「筋肉マンの狩猟・肉食進化論」からはそろそろ卒業すべきです。

 

4 「オス主導進化論」か「メス主導進化論」か

 サルはオスが熱帯雨林からサバンナの草原に降りてナックルウォーク(前足を握って地面につける四足歩行)で動物の死肉をあさり、さらに投げ槍による大型草食動物の狩りのために二足歩行になり、獲物を手で運んでメス・家族に渡すために二足歩行がさらに進んだという「オス二足歩行進化説」「オス主導家族形成説」が見られますが、本当でしょうか? 「歴史学者、見てきたような嘘をいい」とよく言われますが、人類学者はどうなのでしょうか?

 重要なことは、「プハンセ(掻い出し漁)」や「握り棒によるイモ掘り」はコンゴイドの女や子どもが日常的に行っているのです。

 男が草食獣を狩り、女に贈ったことから家族ができたというより、「メスと子どもの日常的なイモ豆穀類魚介・昆虫・小型動物の採取」がボスオスの群れからのメスの自立を可能にし、そこにボスに群れを追われたオスが寄生して家族が生まれた、と私は考えます。「日常食はメスと子ども主体のイモ豆穀類魚介昆虫小動物食、ごちそうは男の大型動物(ワニを含む)の肉食」ではないでしょうか?

 『アフリカを歩く』(実に面白い素晴らしい本です)で古市剛史氏は「男の仕事は『本当の食べもの』を取ってくることだなんていって、ときどきは槍やら網やらをもって森に狩りにでかけていくけど、獲物をもって帰ってくることなどほとんどない。夫が最後に小さなダイカーをおおいばりでもって帰ってきたのは、もう二カ月も前のことだ」と紹介していますが、毎日の食料確保は女が担っていたことをよく伝えています。

 母系制社会が家族を作り、地母神信仰を生み出し、「死肉あさりと狩りと縄張り争い」が男の役割であったのです。いつまでも「狩猟・戦争文明」の男性優位の偏った西欧文明を投影してサルからヒトへの進化を見るべきではないと考えます。

 この母系制の家族・氏族社会で食料確保と育児・教育などの分担・共同や分業・協業の機会が生じると飛躍的にコミュニケーションが増え、言語能力が高まるとともに経験の継承が行われ、安定した食料による自由時間の増加や長寿化は文化を育み、集団の教育・学習力を高め、脳の肥大化を促したと考えられます。

 ヒトの脳の神経細胞は1000億個以上で成人でも乳児でも同じで、神経細胞を繋ぐシナプスの数は生後1~3年前後まで増加し不要なものは削除されて減少し、脳の重さは新生児の約400g、生後12か月で約800g、生後3年で約1000g、成人で1200~1500gとされています。―「脳科学メディアhttps://japan-brain-science.com/archives/1553」参照 

 妊娠中に母ザルが神経細胞シナプスをつくる糖質と魚介類をたっぷり食べ、1~3歳の乳幼児期に糖質とDHAたっぷりのおっぱいを飲み、安定した豊かな自由時間(狩猟採取民の労働時間は1日2~4時間:前掲の山極氏)の母親や子育てメスグループ、子どもとの会話により脳は1~3歳の乳幼児期に急速に発達したことが明らかであり、サルからヒトへの進化は、この乳幼児期の濃密なコミュニケーションにあったのです。

 「縄文ノート71 古代奴隷制社会論」において、私は「『攻撃的チンパンジー』と『平和的ボノボ』の2種類のDNAを現生人類(ホモ・サピエンス:賢い人間)は受け継いでおり、氏族・部族・民族・宗教集団・思想集団・国家などの如何に関わらず『軍事主義』と『平和主義』の2つの性質を本能的に受け継いでいると考えます」として「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」で掲載した表を再掲しましたが、さらに再再掲します。

 

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 私には工学部の「仮説検証型」の方法論が染みついており、まずネット検索レベルの情報で考えて上記のような仮説を作成し、それから関係する元資料(図書館で借りられる本レベル)を読み、間違っていれば修正、あるいは補足するという方法をとっていますが、今回、『人類の起源と進化』(黒田末寿・片山一道・市川光雄著)にチンパンジーとピグミーチンパンジーボノボ、現地名ではビーリャ)、ゴリラ、ヒトを対比した2つの表があったので参考のために添付しておきます。

 

         表3 アフリカの類人猿の社会特性

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    表4 アフリカの類人猿とヒトの性行動および繁殖能力

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 「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」「縄文ノート74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」「縄文ノート75 世界のビーナス像と女神像」などで明らかにしたように、縄文人の妊娠土偶仮面の女神像、石棒・円形石組・ストーンサークルなどは後の金精信仰が女神の神名火山(神那霊山)に捧げられていることをみても縄文社会が母系制社会であったことを示しており、世界各地の石器時代のビーナス像や中国人が大事にする「姓」字が「女+生」であることや孔子が理想とした周王朝が姫氏であることなどを見ても、「サルからヒトへの進化はメス主導の母系制社会であった」とすべきと考えます。

 

5 人類拡散は「肉食・ウォークマン拡散」か「イモ豆穀魚介食・竹筏拡散」か

 テレビアニメの『はじめ人間ギャートルズ』(園山俊二原作)を見て育った世代の研究者たちは輪切り肉をモリモリ食べるマンモスハンターのイメージが強いようで、欧米の「バイキング」の映画・テレビドラマ・アニメを見て育った世代の研究者たちもまた同じように「肉食史観」に陥っていると予想されますが、すでにみたように熱帯雨林では魚介や小動物などが毎日、短時間で簡単に獲れるのです。

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 そのような熱帯雨林を離れてなぜ人類は全世界に広がったのでしょうか。

 寒冷化・乾燥化による熱帯雨林の減少と果物などの不作、居住密度が高まることによる縄張り争いの激化、ツエツエバエによるアフリカ睡眠病など病虫害などのプッシュ要因と、より快適な居住環境を求めた移動や旺盛な好奇心・冒険心・独立心による移動などプル要因による移動が考えれられますが、ルーツが同じY染色体D型の縄文人が日本列島まで移動し、Y染色体E型のコンコイドが西・中央アフリカに残っていることをみると、プッシュ要因がより強い可能性があります。

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 いずれにしても、インド洋の海岸沿いに東に熱帯地域を移動すれば、安定した果物とイモ豆穀類魚介昆虫小動物を確保でき、糖質をとるようになるとカリウムとのバランスをとるために塩分の摂取が不可欠であり、人類の多くはサルと同じように海岸に沿って移動・拡散したと考えれられます。食料や塩分がなく、寒暖差の激しい砂漠や草原、山岳地帯をウマやラクダの家畜化や保存食料の穀類栽培が進むより前に全世界に「肉食人種」が拡散したとは考えられません。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」「26  縄文農耕についての補足」「27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」「64  人類拡散図の検討」など参照 

 赤道直下で高温多湿・酸性土質の西・中央アフリカにおいては、人骨やイネ科植物などの直接の痕跡は残りにくく、各国の考古学研究も遅れており、直接的な証明はまだできていませんが、この地域で生まれた人類は、魚介類がとれるアフリカ東部の湖水地方からはナイル川を北上したグループや大地溝帯に沿って今のエチオピアに進んだグループ、インド洋の沿岸を竹筏で東進したグループ、アフリカ西海岸に沿って北上・南下したグループなどがあったと考えれられます。

 移動によって新たな環境で刺激を受けるとともに、近親結婚を避けるために他の氏族・部族と積極的な妻問夫招婚の婚姻を進めたことは、言語コミュニケーション能力を高め、知能の発達を促したと考えられます。

 このような人類の拡散は、これまで地球寒冷化・乾燥化というプッシュ要因から大型動物を追っての拡散という「肉食・ウォークマン史観」で語られてきましたが、人類の起源から「イモ豆穀魚介食・竹筏拡散」を考えてみるべきです。

 

6 「肉食進化説」の延長の「闘争・戦争進化説」

 「肉食進化説」が孕む思想・宗教・文明の危機は、狩猟時代から牧畜・放牧時代に移行し、人間と動物を峻別し、DNAが連続的に進化した「生類」としてとらえるのではなく、ヒトの生命維持に他の動物の生命を奪うことに何の疑問も感じなくさせたことです。

 その先に生まれたのは、ヒトを「唯一絶対神への信仰心を持ったもの」と「唯一絶対神への信仰心を持たないもの」に峻別する宗教思想であり、後者を前文明の未開人とし、動物の位置に落とし込めて狩猟(殺戮)し、家畜化して奴隷化した文明です。

 それを可能にしたのは、カナンの人々を殺し、その土地を奪うことを「神の命令」として正当化した砂漠の遊牧民ユダヤ人の「一神教」の発明です。―縄文ノート74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」参照

 現在に続くユダヤ・キリスト・イスラム一神教であり、「汝の敵を愛せよ」としたキリストはそのようなユダヤ教に反対でしたが処刑され、その弟子たちはローマ帝国に迫害された後にその侵略に協力するようになり、さらにはスペイン・イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなどの重商主義国・帝国主義国のアフリカ・アジア・アメリカの植民地化と大量虐殺、奴隷化の思想的な先兵となったのです。イスラム帝国が成立したのも、ユダヤ教由来のイスラム教によってでした。

 このキリスト教の影響を受けた「肉食進化説」は「生存競争の戦争進化説」「闘争・戦争進化説」に発展し、科学のよそおいをまとった西欧中心主義の「侵略・戦争・殺戮・奴隷化文明観」を作り上げたのです。

 このようなユダヤキリスト教の破滅的なエセ科学の「戦争進歩史観」の文明観をアフリカ・アジア・オセアニアアメリカ原住民は受け継ぐ必要はありません。

 

7 「終末宗教」と「霊(ひ)継ぎ宗教」

 サミュエル・ハンチントンは、「今後、危険な衝突が起こるとすれば、それは西欧の傲慢さ、イスラムの不寛容、そして中華文明固有の独断」という3つの世界の衝突としましたが、その巧妙な誤魔化しに乗るべきではありません。「傲慢なキリスト教、不寛容なイスラム教、独断的な中華一党独裁思想の衝突」と端的に取らえるべきです。 

 そうすれば、それ以外の日本などの人々の目指すべき思想は明確となります。「侵略・殺戮・奴隷化」を神の命令として実行するユダヤ人、ユダヤキリスト教徒、ユダヤイスラム教徒の対極にある宗教は、縄文人から続き、全ての生類に霊(ひ=DNAの働き)を認め、霊継(ひつぎ:命のリレー)を大事にし、全ての死者の霊(ひ)を神として祀る「八百万神」の日本の原神道本居宣長解釈のアマテラス太陽神神道を除く)=出雲神道こそ、私たちは未来への指針とすべきと考えます。

 魏書東夷伝高句麗や濊(朝鮮半島東北地域)に死刑を認めていますが、馬韓や弁辰、倭人には書いていません。

 

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 さらに平安時代の52代嵯峨天皇は818年から1156年までの347年間、死刑を廃止し、文治政治を推進した第5代征夷大将軍徳川綱吉の「生類憐みの令」があったことを、私たちは日本文明として高く評価すべきと考えます。

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 その生命尊重の思想について、仏教の「五戒」(不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不飲酒戒)の最初にあげられた「不殺生戒 (ふせつしようかい)」や儒教の「仁義礼智信」の「仁」に求めて説明する説が流布していますが、私は縄文時代から続く霊(ひ)信仰の八百万神宗教こそその土台として認めるべきと考えます。霊(ひ)を断たれ、子孫に祀られない死者の霊(ひ)は「怨霊」となって迫害者に祟るとされたのです。

 磯城の大物主(スサノオの御子の大年の別名で代々襲名)の権力を奪ったミマキイリヒコ(御間城入彦)が民の半数以上が亡くなるという恐ろしい祟りを受け、大物主の子孫を河内から探し出して大物主を襲名させて祖先を祀らせ、「崇神天皇」と8世紀になって諡号(死号)を与えれらたように、怨霊を人々は恐れたのです。

 嵯峨天皇も叔父の早良親王(さわらしんのう:桓武天皇同母弟)が長岡京建設を進めた藤原種継の暗殺に関与したとされ抗議のために絶食して死に、怨霊となって後に「崇道天皇(すどうてんのう)」と追諡されたことや、実兄の平城天皇上皇となった後に平城京への遷都を企て(薬子の変)などがあり、怨霊を恐れて死刑制度を廃止したと考えられます。嵯峨天皇が「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張津島神社に贈ったこともまた、スサノオ大国主一族の怨霊を恐れてのことと考えます。

 日本の西欧文明や中国文明の拝外主義の「翻訳輸入学者」たちは、古神道が八百万神信仰であることを隠して野蛮人・未開人の「アニミズム・マナイムズ」で説明したり、嵯峨天皇徳川綱吉将軍の行為を仏教や儒教に結び付けて知ったかぶりの得意になっていますが、縄文人からスサノオ大国主建国に続く日本の宗教からまず考えてみるべきです。

 「霊」を倭音倭語で「ひ」と読むことなく、呉音漢語で「リョウ」、漢音漢語で「レイ」などと読むことからは卒業すべきであり、いつまで「漢才」を続けるのでしょうか?

 ハリウッド映画に宇宙人・エイリアン襲撃やバイオハザード、地球氷河化・巨大津波、原爆テロ、ホラーなどのパニック・恐怖映画が実に多いのは、彼らが「文明の滅亡」におびえ、敵との戦いを鼓舞することしか解決策を持っていないことを示しています。そのルーツは「世界は終末期を迎え、絶対神最後の審判で信仰心のあるもにだけが救済されて天国に行ける」というユダヤ教ユダヤ教化したキリスト教イスラム教の終末宗教と無関係ではないと思います。

 一方、日本には自然との共存と和平を求め、あらゆる生類に障壁を設けない『風の谷のナウシカ』などがありましたが、今や『進撃の巨人』『鬼滅の刃』など「敵と戦って生き延びる」という危険なアメリカ型文明に染まってきている印象を受けます。

 日本では寒冷化が進み、天皇・貴族政権から武家政権に移行する戦乱期に、大乗仏教の「すべての衆生は成仏できる」という中国の天台宗から派生し、極楽浄土をめざして阿弥陀念仏を唱える浄土教浄土真宗や、南無妙法蓮華経を唱える日蓮宗などの終末思想の一神教的な仏教が生まれたとされていますが、私は縄文から続く、死者の霊(ひ)は天に昇って天神となり、降りてきて子孫に霊継(ひつぎ)される霊(ひ)信仰を受け継いだ大国主の「八百万神(やおよろずのかみ)信仰」ベースがあったからこそこれらの宗派が生まれたのです。

 ただ、ユダヤ・キリスト・イスラム教や浄土教浄土真宗日蓮宗などが信仰心の厚い死者の霊(ひ)だけが死後に天国・極楽に行けるとする終末宗教であるのに対し、「八百万神(やおよろずのかみ)信仰」は全ての死者の霊(ひ)が子孫に受け継がれるという黄泉帰りの「霊(ひ=命)を継ぐ宗教」、生命を讃える宗教であるという大きな違いを認めるべきです。

 天皇家が仏教を国教とし、江戸幕府が縁結び・安産・生誕・七五三などは神道、葬式は仏教と役割分担(収入源)を決めたことを見ても、神道は命の宗教、仏教は死の宗教なのです。

 西欧やその植民地国では、一神教こそが文明とされ、それ以前にあった自然宗教や霊(祖先霊)宗教は野蛮・未開のアニミズム・マナイムズとされましたが、一神教の「侵略・戦争・殺戮・奴隷化」の死の宗教こそ終末を迎えているのではないでしょうか。

 「縄文に帰れ」から「自立・和平・命・共生文明」への転換を図るべきと考えます。

 

8 「気候変動枠組条約」「生物多様性条約」と「SDGs(持続可能な開発目標」「核兵器禁止条約」

 1992年のブラジルサミット(環境と開発に関する国際連合会議)で「気候変動に関する国際連合枠組条約」と「生物多様性条約」、1997年の京都議定書採択(COP3)(2005年発効)、2015年の国連サミットの「SDGsエス・ディー・ジーズ:Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標17)」、さらに2017年の国連総会の「核兵器禁止条約」(2021年発効)など、ようやく共生・共同・和平文明の時代への道筋は示されてきました。

 私は「SDGs(Sustainable Development Goals)」は日本語としては「持続可能な開発目標」ではなく「持続可能な発展目標」とするか、あるいはSSGs(エスエスジーズ:Sustainable Social Goals:持続可能な社会目標)とすべきと思いますが、「格差・戦争文明時代」から新たな「格差是正・和平文明」を目指す世界的な動きが始まったと考えます。

 歴史学・考古学で文明を研究する場合にも、文明の興亡と滅亡の歴史から「SDGs(持続可能な発展目標)」の達成に向けた文明論を探るべきと考えます。そのためには、ユダヤキリスト教の西欧中心主義の「文明」の規定を変えるところから出発する必要があると考えます。

 今、世界的・一国的な格差が拡大し、軍国主義国では「軍事経済を維持し、内部矛盾を外部矛盾に転嫁する」経済・政治・軍事勢力が大きな影響を持ち、情報化によって格差社会を誰もが認識して不満が拡大・爆発する可能性があり、第1次世界大戦のようにちょっとしたきっかけやイラク戦争のように核・化学兵器の嘘(フェイク)からアメリカ・イギリスがフセイン打倒の攻撃を行うような戦争のリスクは高まりつつあると考えます。

 人口・食料・環境やコロナのような新興感染症の危機以前に、若者を中心に世界の人々が知恵を出し合えるかどうか、と考えます。

 

9 「霊(ひ=DNA=命)の文明」へ

 八百万神の霊(ひ)信仰をベースにしながら、中国から最澄が「すべての衆生は成仏できる」とする天台宗を取り入れ、儒教の「仁義礼智信」、道教の「道」を取り入れるなど、各宗教・思想の共通価値として「霊継(ひつぎ:DNA=命のリレー)」の宗教思想を定着させていった歴史に注目すべきです。

 このような宗教戦争を回避した経験に照らし、神道の「八百万神の霊・霊継」、仏教の五戒の「不殺生戒」、モーゼの十誡の「5 殺してはならない」、キリストの「汝の敵を愛せよ」、儒教の「仁」、道教の「一に殺さず、まさに衆生を念ずべし」などの現世的な共通価値を認め合うことから「文明の衝突」を回避すべきと考えます。

 国対国、民族対民族、宗教対宗教、思想対思想の対立を殺戮・戦争に持ち込むのではなく、「殺人文明」「戦争文明」と「命の文明」「和平の文明」の対立としてとらへ、後者の共通価値を確認するところから新たな「文明社会」へと踏み出すべきと考えます。

 春秋時代の乱れた世を嘆いた孔子は「道が行なわれなければ、筏に乗って海に浮かぼう」と述べ、これを受けた儒家陳寿(ちんじゅ)三国志魏書東夷伝の序に「夷狄(いてき)の邦(くに)といえども、俎豆(そとう)の象(しょう)存り。中國礼を失し、これを四夷(しい)に求む、猶(な)を信あり」と書きましたが、「俎(ソ)(まないた)は祭の生贄(いけにえ)を乗せる台で「豆(トウ)」は食物を乗せる高坏、「象(ショウ)」は道理を指しますから、「俎豆(そとう)の象(しょう)存り」は「祖先霊を祀る祭祀が行われている」という意味になります。

 朝鮮半島の鬼神信仰に対し、卑弥呼の宗教を「鬼道」という尊称にしたのは、作者の陳寿孔子の教えを忠実に受け継ぎ、「道の国」として邪馬壹国を見ていたことを示しています。

 孔子陳寿が「道・礼・信」の国とみていた縄文時代からの歴史を受け継ぎ、「文明の衝突」の回避に向け、新たな「命の文明」「和平の文明」へと進むべきではないでしょうか。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート83 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展か

 私は建築学科出身で、建築計画や地域計画、都市計画、まちづくりなどの仕事をしてきた歴史・考古学の門外漢ですが、全国各地の仕事先でスサノオ大国主伝承に出合い、霊(ひ)信仰からスサノオ大国主建国論をまとめ、さらに縄文社会研究に進みましたが、私には縄文研究には立ちふさがる大きな壁があることを感じてきました。

 これまで、個別に論じてきたことのまとめになりますが、縄文研究を阻む7つの壁として、ここに整理しておきたいと考えます。重複が多くて恐縮ですが、お付き合いください。

 私が学んだ建築というのは、デザイン・構造・設備・造園・環境・街なみ景観・住まい方・地域計画・都市計画・住民運動など、利用者(施主や住民)や利害関係者、行政、事業者など様々な分野の意見を聞き、協力がないと成立しません。考古学や歴史学も同じではないでしょうか?

 若い歴史・考古学の関係者の皆さんはセクショナリズムに陥ることなく、どんどん他の芸術・国語学民俗学民族学・食物学・生物学・農学・遺伝子学などの分野と交流し、縄文研究を土器や遺物などの「モノ研究」に閉じ込めることなく、縄文文化・文明としてその全体の解明に乗り出し、世界に情報発信し、世界の旧石器・新石器時代の解明に貢献して欲しいと考えています。

 

第1の壁 弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観

 私は父が風呂で詩吟をうなっていた影響や、大学時代には日本の侵略戦争の実態を知り、金達寿さんの労作『日本の中の朝鮮文化』などを読み、この10年ほどは「漢和詩(漢字だけの和詩)」を年賀状に書くなど、中国・朝鮮文化に親しみを持つと戦争責任を感じており、「反中・反朝」「嫌中・嫌韓」派には組するつもりはありませんが、中国・朝鮮・アメリカなどの戦争・侵略の軍国主義派には反対し、共同・和平派と連帯したいと考えている、全ての民族の尊厳・自立・均等発展を願う汎地域主義(グローカライゼーション)です。

 その上で、日本の歴史においては、専制・戦争派と共同・和平派の2つの勢力が対立して歴史観を形成してきたとして分析する必要があると考えています。そして古代史では「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服史観」をまずは正す必要があると考えています。

 縄文時代弥生時代を断絶したものとして切り離す外発的発展史観の「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説」か、縄文時代からスサノオ大国主建国まで連続した内発的発展の「縄文人自立発展説」のどちらが正しいか、についてはこれまで折に触れて書いてきました。

 「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層言語構造や多層DNA構成(ミトコンドリアY染色体)に見られるように、日本人は縄文人をベースにしながら多様な人々が南・西・北からバラバラと日本列島にやってきた「DNA多様性民族」であり、中国語のような「主語―動詞-目的語」言語とならずに「主語-目的語-動詞」言語構造を維持しつづけていることをみても、「弥生人(中国人)征服説」は成立する余地などないのです。朝鮮語を含む4層構造言語となっていないことをみても、「弥生人朝鮮人)征服説」が成立する余地はなく、戦乱を逃れた移住者は多かったでしょうが言語には影響を与えていません。―「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源説」「42 日本語起源論抜粋」参照

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 仮に毎年10人、竹筏の漁師が中国南方から流れ着いたなら、1万年で10万人になるのであり、それらの人々は「妻問夫招婚」の縄文社会の中に溶け込み、フィリピンや台湾のような多民族国になることも、イギリスのように侵略者の言語・文化が支配的となることもなかったのです。

 私は縄文文明全体の世界遺産登録を願っていますが、ユネスコ無形文化遺産の「山・鉾・屋台行事」「和食」と世界遺産の「厳島神社熊野古道、富士山信仰、宗像・沖ノ島遺産群」と縄文文明を切り離し、縄文時代を「未開時代」として申請するか、それとも縄文時代スサノオ大国主の「葦原中国」時代の宗教行事や農耕・食文化、宗教遺産を連続したものとして申請するか、今こそ明確にする必要があると考えます。「外発的発展の断絶史観」から「内発的発展の連続史観」への転換です。―「縄文ノート24 スサノオ大国主建国論からの縄文研究」参照

 縄文論をまともな科学レベルにするためには、まず根強い「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」による「縄文-弥生断絶史観」の壁を突破する必要があります。 

 

第2の壁 石器-縄文-弥生-古墳時代区分

 教師の教えに素直ではなかったへそ曲がりな私は「石器-縄文-弥生-古墳」時代という「石器・土器・土器・古墳」の「石土素材」基準の時代区分には小学生の時から「なぜ金属器時代が日本にはないのか」と疑問を持ち続けてきました。

 「素材」を基準にした時代区分にするなら、世界標準の「石器-土器-鉄器」時代区分に変えるか、森の国・日本としては「石器・木器-土器-鉄器」時代区分にすべきであり、そうしないなら、「鉄器」を時代区分から外す理由をはっきりと世界に示すべきです。

 素材ではなく用途を基準に「石器-縄文-弥生-古墳」時代を考えてみても、「道具(農具・工具)・武器-器具-器具-墓」という分類になり、統一基準のないバラバラ事件になります。道具・武器を基準とするなら「木器-石器-鉄器」基準になり、食器など器具を基準とするなら「木器-土器-鉄器」になるでしょう。

 このようなガラパゴス的な「イシドキドキバカ」時代区分により、「石器・縄文式土器時代=野蛮・未開、弥生式土器時代=文明」という外発的発展史観の「縄文・弥生分断」が生まれ、「稲作とともに、米を保存するために軽くて硬い弥生式土器が生まれた」などという奇妙な説明を私は小学校で教わってきたのです。米の保存なら軽くて湿気を閉じ込めて腐らせることのない米俵(米+田+藁)か木箱を使うのではないか、という疑問です。

 ところが佐賀県唐津市の菜畑遺跡から紀元前930年前頃の水田遺跡が見つかり、水稲栽培が弥生式土器よりも5~600年ほど古いそれまでの縄文式土器時代に遡ることが明らかになると、歴史・考古学者たちは「弥生式土器時代」から「土器時代」を取って「弥生時代」という地名名称に置き換え、縄文式土器時代に弥生時代を遡らせるというインチキ手品を行ったのですから、彼らには分類学の基礎ができておらず、論理性・科学性のかけらもないと言わざるをえません。

 東京都文京区の「弥生貝塚」からの地名を水田稲作開始の「弥生時代」とするなど問題外であり、発見場所の地名を尊重する考古学者なら「菜畑時代」として「石器―縄文―菜畑―古墳」時代と言い換えるべきでしょう。

 水稲栽培を転換点としたいのなら「弥生時代」を「水稲時代」に言い換え、「石器-土器-水稲-古墳」時代という時代区分にすべきでしょう。しかし、それでも「材料・道具・武器-器具-農耕-墓」の分類学バラバラ事件は解決しませんが。

 鉄器類の発掘が進んだ今こそ、森林文化や土器鍋食という特徴のある日本列島においては「石器・木器-土器-鉄器」の時代区分に変え、縄文時代が「芋豆栗6穀」栽培による土器鍋食文化の時代であったことを検討すべきでしょう。

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第3の壁 大和中心史観

 私は「日本に鉄器時代がないのはおかしい」と考え続けていましたが、邪馬台国論争の安本美典氏の鉄器の分析や最近の出雲・伯耆での大量の鉄器発掘でようやくその理由が明らかになりました。

 北九州・出雲で発掘されるようになった大量の鉄器と比して、大和では鉄器の出土がごくごく少量なのです。私も昔、橿原考古学研究所附属博物館や唐古・鍵考古学ミュージアムを見学してびっくりしたのですが、卑弥呼の時代の大和の石剣など、まだ石器時代ではないかと感じました。

 大和中心史観にとって、大和には少ない「鉄器」を論じることはタブーであり、時代区分から「鉄器時代」を外さないと邪馬台国九州説に対抗できなかったのです。その代わりに土器や三角縁神獣鏡の様式分析に熱中するとともに、「大きいことはいいことだ」と前方後円墳の箸墓を「ヤマトトトヒモモソヒメ=卑弥呼=アマテル(本居宣長説はアマテラス)」の墓としてアピールしているのです。

 王墓の研究についても、全国の王墓全体の設置場所・形状・大きさの歴史的変遷を総合的に分析することもなく「弥生式墳丘墓」と「古墳」を断絶したものとしてまず区分し、播磨の養久山古墳のような山上の前方後円墳を起源とするのではなく、大和の巨大な箸墓から新たな「古墳時代」が始まったかのような空想の歴史を創作しているのです。

 「銅鏡」もまた同じです。紀元前から輸入されていた漢鏡や仿製鏡・国内鏡などの全国的な分布からではなく、三角縁神獣鏡のみをクローズアップし、それを卑弥呼が魏皇帝からもらった鏡とするとともに、出雲で集中して発見された銅槍(通説は銅剣)・銅矛・銅鐸の全国的な分布をもとにした「青銅器時代」の主張を行っていません。

 「土器」だけでなく、王墓や銅器についても大和中心史観による「断絶史観」がまかり通っているのです。

 出雲国風土記は「五百つ鉏々猶所取り取らして天の下所造らしし大穴持命」として、大国主が鉄先鉏(鉏=金+且(かさねる)、鋤=金+助)で「水穂」の国づくりを行った王であり、鉄器農具の普及による葦原(沖積平野)で水利水田稲作の普及を行った王であることをはっきりと記しています。また播磨国風土記大国主と御子たちの水利水田稲作の普及をリアルに伝えています。―「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(『季刊 日本主義』26号2014夏)参照

 魏書東夷伝倭人条は壱岐対馬の人々が「乗船南北市糴(してき)」(船に乗って南北に市糴(してき)する)と書かれており、「糴(てき)」は「入+米+翟」で、「翟(てき)=羽+隹(とり)」ですから、「糴(てき)」(入+米+羽+隹)は鳥が羽を広げたような帆船を自在に操って米を入れる」ということを示しており、魏志東夷伝辰韓条では「国、鉄を出す、韓・濊(わい)・倭皆従いてこれを取る」と書き、魏志東夷伝弁辰条では「諸市買皆用鐵」と書き分けていることを見ると、辰韓新羅)では倭国との「鉄取る」の米鉄管理交易(鉄鉱石の採掘・製鉄・輸入)、弁辰(辰韓の南)では市での米鉄交易が行われていたことを示しています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

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 さらに三国史記新羅本紀は紀元59年に4代新羅王の倭人の脱解(たれ)が倭国と国交を結んだと書いており、古事記はイヤナギがスサノオに「汝命(なんじみこと)は、海原を知らせ」と命じたとし、日本書紀一書にはスサノオが子のイタケル(五十猛=委武)を連れて新羅に渡ったという記載があり、後漢光武帝は紀元57年に「漢委奴国王」の金印を付与していますから、後漢新羅と外交・通商を行った「委奴国王」はスサノオしか考えられません。

 古代天皇の平均在位年数は約11年(安本美典氏)ですから、スサノオ大国主7代の在位77年となり、魏書東夷伝倭人条に書かれた「住(とど)まるところ七~八十年」の男王と符合します。

 この百余国の「委奴(いな=稲)国」から「大乱」によって北九州の「三十国」の邪馬壹国が分離独立して「相攻伐」の後に卑弥呼(霊御子)を共立し、残る70余国はスサノオ大国主一族が中四国から大和(大倭:おおわ)まで支配し、邪馬壹国は弁辰と「市糴(してき)」の米鉄交易、スサノオ大国主一族は辰韓と「鉄取」の米鉄国家交易を行っていたことが明らかです。

 大和中心史観は記紀風土記に書かれた鉄器農具普及と水利水田稲作の主体を隠し、製鉄の起源を遅らせてあたかも大和朝廷主導のようにしていますが、考古学と記紀・魏書東夷伝三国史記新羅本紀・出雲国風土記播磨国風土記の記載を無視したフィクションであり、「鉄器文明」の担い手は紀元1~4世紀のスサノオ大国主一族であったという定点から古代史を再構成すべきです。

 播磨国風土記に「(大神の)妹玉津日女(たまつひめ)命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」(讃容(さよう)郡)、「大水(おおみず)神・・・『吾は宍(しし)の血を以て佃(つくだ:開墾して作った田)を作る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子(注:大国主の御子)、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」(賀毛(かも)郡雲潤(うるみ)里)と書かれているように、鹿や猪の血を捧げて行う呪術的な農耕に対し、大国主親子が稲を植える時期を遅らせてウンカの害を防ぎ、水路を引いて行う水田耕作を指導していたにも関わらず従わなかった氏族があったことをリアルに伝えています。―「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構(『季刊 日本主義』2014年)」参照

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 「大和中心史観」のフィクションから抜け出し、「陸稲栽培を行っていた縄文人スサノオ大国主一族の鉄先鋤の普及により水利水田稲作に転換した」「スサノオ大国主一族は新羅との米鉄交易王であった」という紀元1~4世紀の定点から遡り、縄文時代陸稲栽培の分析に進むべきです。

 

第4の壁 水稲農耕史観

 「縄文・弥生断絶史観」による「縄文=採取漁撈狩猟社会、弥生=水稲農耕社会」との歴史区分は、歴史学だけでなく考古学においても根強いようです。農耕開始は弥生時代水稲栽培からとする「弥生農耕史観」のフィクションです。

 私はスサノオ大国主一族の国を「豊葦原水穂国」「葦原中国」と記紀が記したところに注目しますが、「委奴(いな=稲)国」のように単純に「稲(いな)国」「米(こめ)国」と書かずになぜ「水穂国」と書き、わざわざその場所を「葦原」と書いたのかです。

 「水穂(みずほ)」と書いたということは「陸穂=陸稲(おかぼ)」が別にあり、「葦原(あしはら)」と書いたということは「原(はる=岡原・丘原(おかはら・おかばる)」とは異なる葦の生えた「葦原」での農耕による建国であったことを示しています。「岡原・丘原」での「陸穂=陸稲」栽培から、沖積平野の「葦原」を鉄先鋤で開拓して水利水田(佃=人+田)での「水穂」栽培が行われたことを正確に記録しているのです。

 「豊葦原水穂国」は森を焼いた「原(はら、ばる)」での縄文人天水に頼る焼畑農業に対し、スサノオ大国主一族の「鉄先鋤による沖積平野の葦原での豊かな水穂国」の建国をたたえた名称なのです。

 ヤムイモを「水芋・里芋」の名前で区別したのと同じように、稲についても「水穂・陸穂」の区別が行われていたのです。

 「はたけ」について「畑(火+田)」「畠(白+田)」の2つの倭製漢字が使い分けられていることもまた同じです。焼畑の「畑作(火+田+作)」とともに、秋から春にかけて水田から水を抜いた乾田(畑=白+田)で「畠作」が行われており、区別するために2種類の「畑・畠」の倭製漢字が作られたのです。

 例えば、「蕎麦(そば)」は「蕎+麦」であり、「蕎(和音:そば、呉音:キョウ・ギョウ、漢音:キョウ)」は「サ+夭(人の走る姿)+高」ですから、「高地人の草の麦」というような意味になり、森を切り開いた山人族の焼畑農耕を示しています。

 子どもの頃、母方の播磨の田舎に行くと、芋名月で甘い団子ではなく「サトイモ」を供えるのは意味不明でありがっかりしたものですが、「中秋の名月サトイモを備えて月見する芋名月や、輪切りにしたサトイモを模した「丸餅」を雑煮として西日本で食べる習慣などからみて、その起源は稲や粟を備える祭りより古い可能性」(縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」)があるのです。

 出雲風土記に「嶋根郡・楯逢郡に芋サトイモ、意宇郡・嶋根郡・秋鹿郡・楯逢郡・飯石郡・大原郡に薯蕷ヤマノイモが産物」(縄文ノート26 縄文農耕についての補足)と書かれていることからみても、縄文芋食は裏付けられます。

 水稲中心の農業・食生活しかイメージできず、戦前まで山村で行われていた芋豆栗6穀(陸稲・麦・粟・稗・黍・蕎麦)の焼畑農業を認めない「縄文・弥生断絶史観」は、農耕用語が全て「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造で、倭音倭語がドラヴィダ語に近いという事実や、3国のイネのDNA分析の結果からみて中国・朝鮮からの伝来ではないこと、縄文土器のおこげと吹きこぼれの成分分析でC3植物である「イネ、オオムギ、ダイズ・アズキ、イモなど」が含まれている可能性が高いこと、縄文人由来のY染色体D型が中国人には見られないことなど、国語学や生物学・人類学を無視した偏狭・非科学的な縄文学と言わざるをえません。―「縄文ノート29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」参照

 なお、「縄文ノート29」で指摘しましたが、南川雅男北大教授の古人骨の分析はC3植物の対照分析として「ドングリ等」だけをあげ、「イネ、オオムギ、ダイズ・アズキ、イモなど」の可能性を排除しており、吉田邦夫東大准教授・西田泰民新潟県立歴史博物館専門研究員の縄文土器のおこげの分析もまた、C3植物の対照分析で「イネ、オオムギ」を排除しており、いずれも縄文農耕を可能性を否定するための偏った報告と言わざるをえず、科学的とはとても言えません。

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 いくら骨とおこげのDNA分析が科学的であっても、対照サンプルがイネやムギを排除した偏ったものであったのでは、「縄文農耕を否定するためのエセ科学」という以外にありません。

 大野晋氏の農業関係言語ドラヴィダ語説やドラヴィダ族の「ホンガ」の鳥追い行事の長野・新潟・秋田・青森への伝播、佐藤洋一郎総合地球環境学研究所名誉教授らのRM1遺伝子の分析などからみて、「縄文時代は採取漁撈狩猟の未開段階」「水稲稲作からが農耕時代」とする歴史・考古学者たちの主張はもはや成立しません。―「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源説」「42 日本語起源論抜粋」「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「26 縄文農耕についての補足」参照

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 「森林焼畑農耕」からの1万数千年の縄文文明・文化の見直しが求められます。

 

第5の壁 文献・伝承無視史観

 イギリスの歴史家のアーノルド・J・トインビーやアメリカの国際政治学者のサミュエル・ハンチントンが「日本文明論」を主張しているにもかかわらず、日本の歴史・考古学者は確たる「文明論」を持たず、縄文時代については「未開社会」とし、彼らの「日本文明は中国文明の衛星文明・派生文明」という位置づけを容認しています。

 推古天皇聖徳太子蘇我馬子の遣隋使派遣・冠位十二階制度・十七条憲法制定や、中大兄皇子中臣鎌足による大化の改新から文明国家となった、などと学校で教えられてきたのですから当然といえば当然なのですが、確かに漢字・儒教文化や政治制度でいえば中国文明の影響が大きく、倭音倭語や仏教文化はインド文明の影響を受けてきていますが、縄文1万数千年の文化・文明には独自のものがないのでしょうか?

 縄文文化・文明の独自性の主張するためには縄文遺跡・遺物からだけでは無理であり、記紀風土記などに書かれた紀元前後から4世紀にかけての倭国神話や民間伝承をもとに、縄文遺跡・遺物に見られる文化・文明を読み解くことが必要なのです。ところが日本の歴史・考古学者たちは記紀は8世紀の創作として全否定するか、都合のいいところだけをピックアップして利用してきたのですから、縄文文化・文明解明の手掛かりを放棄してしまっているのです。左派・リベラルの「記紀神話全否定派」と右派の「つまみぐい派」です。

 天皇一族の建国を信じたい右翼は、アマテル神話(アマテラスは本居宣長説)の高天原のある「天安川 (あまのやすかわ)」「筑紫日向(ひな)の橘小門(たちばなのおど)の阿波岐原(あわきばる)」という具体的な地名や天下りに登場する地名、薩摩半島西南端の笠沙の猟師・山幸彦(山人)の龍宮(琉球)訪問の物語、初代大和天皇ワカミケヌ(若御毛沼)の祖母・母が龍宮(琉球)の姉妹であるとする記紀の記述などは都合が悪く、記紀神話の大部分を占めるスサノオ大国主建国神話とともにすべてを排除し、アマテルだけをつまみ食いし、7代孝霊天皇の皇女のモモソヒメ(スサノオの子の大物主を襲名したオオタタネコの妻)とし、さらには卑弥呼にしてしまうという「アマテル=モモソヒメ=卑弥呼」という三位一体の空想を繰り広げていますが、この空想は記紀否定によって始めて可能になるのです。

 一方、戦後の左翼・リベラル派もまた、本居宣長の「世界を照らすアマテラス太陽神」空想説を受け継ぎ天皇絶対神とした命令によって国民を侵略戦争に駆り立てた神道と神社への反発から、記紀神話を全面否定し、歴史書として分析することを回避してきましたから、縄文時代解明の手掛かりも興味なくしてしまいました。

 右派の「高天原空想説」「笠沙3代天皇無視説」「アマテルつまみ食い説」「スサノオ大国主建国否定説」と左派・リベラルの「記紀神話全否定説」とは記紀風土記等の文献や神社伝承無視という点において、共謀・共闘が成立しているのです。

 天皇を無視したい左派・リベラルはともかくとして、右派のみなさんは歴代天皇で最高の文化人・知識人である52代が「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張津島神社(祭神はスサノオ)に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っていることを否定すべきではないでしょう。「天皇(てんのう)の前にスサノオ天王(てんのう)あり」を天皇家は公認しているのです。そしてスサノオは「天王(てんのう)さん」として各地で祀られ、親しまれてきているのです。

 なお、この津島神社の領主でスサノオを祀る剣神社の神官一族の末裔であった織田信長は、5階は正八角形(夢殿や6代天皇陵の形)、6階は正四角形(出雲の方墳や前方後方墳の形)の自室を設けた「天主閣」とした安土城を建設し、自らをスサノオの血を受け継ぐ天主=天王とする絶対君主制を確立しようとしたのです。

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 右派は本居宣長の「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰を受け継ぎ、縄文遺跡のストーンサークルや円形石組を太陽神信仰としていますが、そもそも天皇家が太陽信仰の祭典を行ったことなどなく、宮中にアマテルを祖先神として祀っておらず、空想の積み重ねという以外にありません。

 左翼・リベラル派は記紀神話全てを8世紀の創作とし、紀元1世紀からのスサノオ大国主一族の百余国の「委奴(いな=稲)国」の建国記述や、侵略戦争に全面協力した神社の伝承など、全てを否定したため、縄文研究に欠かせない八百万神の「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰」なども無視せざるをえず、縄文宗教を分析する手掛かりを失っています。

 私は古代史研究は歴史学者が大好きな「呉音漢語・漢音漢語」ではなく、「倭音倭語」での分析が必要と考えていますが、記紀風土記を歴史書として倭音倭語による分析を行い、真偽をきちんと分析するところから再構築し、その上で縄文研究に入るべきと強く主張したいと思います。

 それができない限り、スサノオ大国主一族に由来する「山・鉾・屋台行事」「和食」「4つの宗教世界遺産」と「縄文文明の世界遺産登録」は無関係とする以外になく、縄文文明解明の手掛かりは封印されたままになります。

 

第6の壁 拝物・物量史観 

 「弥生人征服史観」が未だに続いている理由として、日本の歴史・考古学者たちが自然環境を軽視し、芸術や言語・民俗・宗教などの「芸術・文化・宗教」を「低級」な科学対象外とし、「物分析」を科学として考えるという薄っぺらで偏狭な科学主義と、ピラミッドやジグラット箸墓古墳などの「大きなことはいいことだ」の「物量崇拝」の文明観にあると考えます。

 この「拝物思想」は「拝金思想」とともに現代の主流思想となっていますから、根強い多数派説を形成しています。しかしながら、日本が科学技術・経済大国から転落しつつあるように、巨大なピラミッドやジグラット、古代都市の古代文明が滅び、中国の統一王朝が民衆反乱により滅亡を繰り返してきたことみても、「物質・物量崇拝」文明を最高の価値観とする文明史観はこれからの「SDGsエス・ディー・ジーズ:Sustainable Development Goals:持続可能な発展目標」の未来への道標にはならないと考えます。

 そもそも「縄文芸術・文化」を世界に認知させ、縄文研究に光を当てたのは芸術家の岡本太郎氏であり、そのことは誰も否定できないと思います。縄文土器を単なる「生活用具」とみるのではなく、芸術作品としての価値を世界の人々は認めたのです。

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 そうである以上、縄文時代の分析・解明にあたっては「芸術・文化」にまず光を当てるべきであり、当時の人々の価値観の中心にあった宗教分析を重視すべきなのです。その手掛かりは、本居宣長の「世界を照らすアマテラス太陽神」という空想ではなく、スサノオ大国主建国の八百万神の「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰」と考えます。

 未だに、冬の寒い時期に女性が土器を作っているイメージが流布していますが、私は縄文芸術家が生まれ、霊(ひ)信仰の神器としてデザイン性の極めて高い火焔型土器(私はホンガ(沸騰)を祝う龍紋土器と考えます)や女神像を製作した、と考えています。黒曜石採掘・流通と同様に、祭器としての土器の分業・交易体制が確立していたのです。

 「山・鉾・屋台行事」「和食」「4つの宗教世界遺産厳島神社熊野古道、富士山信仰、宗像・沖ノ島遺産群)」などを「科学」外の別世界として縄文文化・文明と切り離して考えてきた歴史・考古学者の物神崇拝に対し、縄文時代からスサノオ大国主建国へと連続した芸術・文化・宗教文明としてとらえ、世界にアピールし、世界遺産登録を果たすべきと考えます。

 明治政府は「金精信仰」などは野蛮・未開の民俗として禁止しましたが、縄文時代の石棒・円形石組・ストーンサークルは性器信仰として江戸時代で続き、明治政府の禁止にも関わらず今も祭りとして各地で細々と続いているのです。

 神名火山(神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)、磐座(いわくら)信仰とともに、重要な宗教・文化遺産として位置づけるべきと考えます。

 

第7の壁 天皇中心史観

 第1から第6の「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」「石器-縄文-弥生-古墳時代区分」「大和中心史観」「水稲農耕史観」「文献・伝承無視史観」「ただもの(唯物)史観」がなぜこれほどまでに根強く、歴史・考古学者たちの論理的・統一的・科学的な思考を阻んできたのか、その根本的な理由を考えてみたいと思います。

 古事記によれば「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国」「葦原中国」はスサノオ大国主一族の国であり、「大国主と少彦名が力を合わせて天下を経営し、鳥獣・昆虫害を払い、百姓から今も恩頼りにされている」(日本書紀)とはっきりと書いており、記紀の神話時代のほとんどはスサノオ大国主建国に関わる内容です。

 「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」に固執し、鉄器時代を認めず、大和の箸墓古墳をシンボル化し、縄文稲作を頑として認めず、記紀神話を無視し、宗教分析を輸入概念の「アニミズム」「マナイムズ」などに押し込めるのも、全ては天皇一族がこの国の「本主」「天王」であるという新皇国史観を確立したいからではないでしょうか。

 一方、天皇制にとらわれることのない左翼・リベラル派ですが、朝鮮人・中国人差別への反対からか「天皇一族は弥生人(中国人・朝鮮人)」「稲作は長江流域・朝鮮半島から伝播」とし、記紀神話全否定の「物証分析こそ科学」にこだわり、皇国史観の先兵となり国民を戦争に駆り立てた神社批判と氏族社会身分制度への反発から「神社・民間伝承無視」に陥っているのです。

 右派は天皇を神とする戦前の荒唐無稽な「皇国史観」からは脱し、「天皇中心史観」の再構築を迫られており、「スサノオ大国主一族中心の建国神話」や「高天原の位置を示す天安川・筑紫日向(ひな)の橘小門の阿波岐原などの地名」「猟師(山幸彦=山人)の笠沙天皇家3代」「笠沙2・3代目の妻が龍宮(琉球)の姉妹」などの記紀記載をことごとく無視し、天皇家のルーツは宮崎県の日向(ひむか:景行天皇命名日本書紀が記載した後世の地名)とし、記紀記載を無視して卑弥呼=モモソヒメ、アマテル=卑弥呼=モモソヒメ説というウルトラ空想説まで持ち出し、「高天原・笠沙・琉球ルーツ隠し」の「大和中心史観」に陥っています。

 そして、「物証科学」のシンボルとして三角縁神獣鏡と箸墓を位置づけ、「卑弥呼=モモソヒメ=アマテル」空想説のもとで、右派と左派・リベラルは「大和中心史観」と「ドキドキバカ史観」の共同戦線を張っているのです。

 「弥生時代はなかった」「弥生人(中国人・朝鮮人)征服などなかった」「スサノオ大国主一族も天皇一族も縄文人であった」「弥生人天皇一族による建国は空想」と私は考えていますが、皆さんは「スサノオ大国主一族、天皇一族は弥生人(中国人・朝鮮人)」というフィクションをいつまで信じ続けますか?

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まとめ

 批判というのは創造的作業ではなく、めんどくさくて面白くもない作業なのですが、縄文論を世界にアピールしようとすると、縄文論ををおとしめ、「未開」の閉じ込めてきた歴史・考古学者の「7つの壁」を突破する必要があります。

 すでに「縄文文明論」は芸術・哲学・植物学・農学・民族学民俗学・地理学・経済学・宗教学・社会学国語学・遺伝子学などを網羅した総合的な展開を見せており、必要なのは歴史・考古学者のみなさんが「7つの壁」から外に出てきて、世界標準を目指すことだけだと考えます。

 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録の次に、縄文の世界遺産登録を目指すのであれば、不可欠の作業と考えます。

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ

 世界遺産委員会の諮問機関であるイコモスにより、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録にふさわしいとの勧告がなされたことを喜びたいと思います。4道県など関係者の粘り強い取り組みには支持・敬意を表してきましたが、縄文文化・文明の一部しか申請されていなことから、「日本中央縄文文明(長野・新潟・群馬・山梨)の世界遺産登録」を提案してきました。

 ただ、縄文人のアフリカからのルーツをたどり、世界の氏族・部族共同体社会の文明の中での縄文文明の位置づけを検討するうちに、琉球から日本列島全体の及ぶドラヴィダ海人族・山人族の縄文文化・文明の世界遺産登録が必要と考えるようになりました。日本列島人の起源に関わるアフリカからの「海の道」と「マンモスの道」の横軸(地理軸)での位置づけです。

 一方、スサノオ大国主建国論から縄文社会研究に入った私としては、ユネスコ無形文化遺産されたスサノオ大国主一族の「山・鉾・屋台行事」と4つの宗教世界遺産厳島神社熊野古道、富士山信仰、宗像・沖ノ島遺産群)や世界に広がってきている「和食」と縄文文明を結びつける縦軸(歴史軸)の整理が不可欠と考えるようになりました。 

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 この横軸(地理軸)と縦軸(歴史軸)で「縄文文明」の全体像を明らかにし、世界の古代文明の中に位置付けるためには、「北海道・北東北の縄文遺跡群」に「日本中央縄文遺跡群(長野・新潟・群馬・山梨)」を追加するだけでは不十分であり、日本列島全体の縄文文明の世界遺産登録の申請が必要と考えます。

 侵略を受けることのなかった日本列島での文明・文化の連続的な発展は、世界の失われた古代文明の解明に重要な基準を与えることができるのです。日本は土器分析中心の「ガラパゴス的縄文・弥生研究」に閉じこもることなく、世界史全体、特に失われたアフリカ・アジア・オセアニア南北アメリカの文明の解明に貢献すべきなのです。

 今、遺跡・遺物の分析を研究対象とする考古学・歴史学は、縄文時代を「農耕や巨大宗教遺跡・都市、文字」などのない前文明の「未開時代」としてとらえていますが、梅原猛梅棹忠夫安田喜憲川勝平太中尾佐助佐藤洋一郎氏ら哲学・生態学・地理学・経済学・植物学・植物遺伝学の分野の人たちは「縄文文明」の主張を行っています。軍国主義的・帝国主義的なギリシア・ローマ・西欧文明発展史観からの西洋中心史観の「文明観」にとらわれ、残りやすい「石とレンガの文明」しか眼中にない考古学・歴史学がむしろ世界の中では孤立しているのではないか、と考えます。

 今こそ、人間活動の全体、産業(農業・工芸・交易)、労働(分担・分業)、生活(食・衣・住)、社会(共同体・国家)、芸術(音楽・詩・美術)、宗教を総合的にとらえた文明論を打ち立て、その中に日本列島文明を位置付けるべき時と考えます。

 

1 これまでの文明論の経過

 私は歴史については素人で系統的に勉強してきていないため、まず関心のあるテーマについてキーワード検索によるネット情報レベル(ウィキペディアなど)で仮説を考え、それから関係資料を読むという仮説検証型で分析してきました。その結果、紆余曲折の誤りも多いのですが、これまで次のような小論を書いてきました。

 スサノオ大国主建国論を原点として「縄文社会研究会」に入ったことにより、縄文からスサノオ大国主建国を連続したものとして捉えましたから、日本文明を中国文明の一部、あるいは派生型とみる弥生人征服史観ではなく、その独自性(開かれた内発的自立発展、海洋交易民、多DNA共通言語・文化、霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教、妻問・夫招婚の母系制、土器鍋文化、芋豆実穀森林農耕(焼畑循環農耕)、氏族・部族共同体社会など)に着目し、日本列島文明を考えてきました。

 

⑴ 「帆人の古代史メモ」 日本列島文明論 http://blog.livedoor.jp/hohito/

 1 「農耕民文明・狩猟牧畜民文明」から「海洋交易民文明」へ 200317    

 2 「日本列島文明論」のフレーム 200321

 3 「世界4大文明論」対「ギリシア文明・日本文明論」 200323  

 4 「縄文文明論」考 200327 

 5 「土器(縄文)文明論」の検討課題 200329  

 6 日本列島文明論メモ:サミュエル・ハンチントン文明の衝突』より 200403

⑵ 「ヒナフキンの縄文ノート」 https://hinafkin.hatenablog.com/

 Ⅷ 縄文文明論

  Ⅷ-1    「石器―土器―金属器」の時代区分を世界へ 150723→0816

  Ⅷ-2(48) 縄文からの「日本列島文明論」 200729→210228

  Ⅷ-3(50) 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ 200207→210203

  Ⅷ-4(51) 縄文社会・文明論の経過と課題 200926→210204

  Ⅷ-5(58) 多重構造の日本文化・文明 210222

 Ⅸ 世界遺産登録 

  Ⅸ-1(49) 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録をめざして150923→210230 

  Ⅸ-2(59) 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり 210226

  Ⅸ-3(77) 「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産登録の次へ 210603・04・08

 

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2 歴史軸・地理軸からの「多元・多層文明史観」へ

 「古代文明」の定義を巡っては試行錯誤しながら論じてきましたが、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の次のステップとして「縄文文明の世界遺産登録」をめざすとするなら西欧中心史観の「文明」の定義から議論し、世界遺産委員会とユネスコの諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)に新たな認定基準を提案する必要があると考えるに至りました。―「縄文ノート48 縄文からの『日本列島文明論』」「縄文ノート49 『日本中央縄文文明』の世界遺産登録をめざして」「縄文ノート51 縄文社会・文化・文明論の経過と課題」「縄文ノート58 多重構造の日本文化・文明論」

 古代文明論では、水平軸(地理・環境・農耕・交易・産業革命・侵略)の「ヨーロッパ(西欧)中心文明論」と「アジア(東洋)起源文明論(4大古代文明論)」に加え、砂漠・草原地帯の「西・中央アジア文明」を分離した「3地域文明論(西欧、西・中央アジア、南・東アジア)」、アフリカ・アメリカを加えた「四大文明論」「五大文明論」、大陸文明に対して海洋交易と侵略に着目した「海洋文明論」(地中海、日本海東シナ海)を加えた「六大文明論」などがあります。

 また垂直軸(歴史軸)では、灌漑農耕・巨大宗教施設・都市・科学・文字などに着目した「四大文明論(エジプト・メソポタミア・インダス・黄河)」、都市生活・文化を重視した「ギリシア・ローマ・西欧文明論」、生産手段所有関係を基準としたマルクス・エンゲルスの「階級社会文明論」などがあります。

 あくまで仮設段階の整理ですが、次のようになります。

 

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 私の提案は、「縄文ノート77 『北海道・北東北の縄文遺跡群』世界文化遺産登録の次へ」の次図でまとめたように、イコモス(国際記念物遺跡会議)の「農耕・牧畜社会」=「文明段階」、「採集・漁労・狩猟社会」=「未開段階・先史時代」とする西欧中心主義の「一元的段階的文明観」に対し、「多元的重層的文明観」への転換です。

 

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 各文明は時代ごとに、文字はないが高度な芸術(土器・地上絵など)・芸能(骨笛・土笛など)が見られる、都市はないが広域的な交易が行われているなど、発展段階の異なる多層な要素から構成されており、その塊として「アフリカ文明」「古アメリカ文明」「日本列島文明」などの呼称が付けられるべきであると考えます。

 ギリシャ・ローマ・西欧の文明発達史観による文明基準ではなく、これまで未開とされてきたアフリカ・東南アジア・オセアニア南北アメリカを包括した文明観の確立と「文明の交流」を提案すべきと考えます。―「縄文ノート48 縄文からの『日本列島文明論』」、「縄文ノート49 『日本中央縄文文明』の世界遺産登録をめざして」、「縄文ノート51 縄文社会・文化・文明論の経過と課題」参照

 

3 ユネスコ世界遺産登録基準の見直しの提案を

 「縄文ノート77 『北海道・北東北の縄文遺跡群』世界文化遺産登録の次へ」の繰り返しになりますが、アフリカ・アジア・オセアニア・古アメリカの文明観の見直しにより、今、国連が求めている「持続可能な社会(Sustainable society)」あるいは「持続的開発可能な目標(Sustainable Development Goals: SDGsエスディージーズ)」に向けて、現在の世界遺産登録の基準は見直される必要があると考えます。

 この基準を設ければ、森林破壊の工業的農業・牧畜によって壊滅させられてきているアフリカ・アジア・オセアニア南アメリカ焼畑農業は保護されるべき文明なのです。また、これまで「負の世界遺産」とされてきた戦争や奴隷制度、ホロコーストや原爆投下・原水爆実験・原発事故などの遺産もまた、次の時代に向けて記憶を残すべき「命(DNA)の継承」を基準として記憶にとどめるべき遺産とすべきなのです。

 現在、評価基準の5では「人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本」という項目が見られますが、「ふれあい」などではなく重要なのは「全生類の命(DNA継承)」であり、「命(DNA継承)」を中心に置いた文明観からの新たな登録基準⑺を提案すべきと考えます。4人に1人が亡くなった沖縄戦の「命(ぬち)ぞ宝」の教訓を活かすべきです。

 「縄文ノート77 『北海道・北東北の縄文遺跡群』世界文化遺産登録の次へ」から次表を再掲します。 

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4 「縄文文明論」の整理・統合へ

 これまでに梅原猛氏は「森の文明論」、中尾佐助・佐々木高明氏らは「照葉樹林文明論」、梅棹忠夫氏は「遊牧民文明論」「生態史観文明論」「神殿都市論」、安田喜憲氏は「森の文明」「稲作漁撈文明」「日本海文明」「生命文明」など多角的文明論、川勝平太氏は「海洋文明論」を提案してきました。

 今や、「縄文文明論」は芸術・哲学・植物学・農学・民族学民俗学・地理学・経済学・宗教学・社会学国語学・遺伝子学などを含めた、総合的な展開を見せています。

 

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 上田篤元阪大教授の提案により始まった「縄文社会研究会」では、「縄文文化論」と「縄文文明論」の中間に位置するものとして「縄文社会」(主に生活や社会構造、文化・宗教など)を研究テーマとし、「妻問夫招婚の母系社会論」や「森と木の文明論(鎮守の森、巨木建築)」、「家族・共同体論を含めた住宅・集落論」、「倭(和)語論」などをテーマとしてきましたが、私はスサノオ大国主建国論からアプローチしたことにより、主に「海洋交易民論(海人族論)」「霊(ひ)信仰論(神名火山・神籬・動物神使論)」「穀類起源論」「共同体社会論」「縄文人起源論」などを提案してきました。

 岡本太郎氏は考古学・歴史学が発掘・分類してきた縄文土器を「縄文芸術」として新たな文化・文明として世界にアピールしたのですが、「縄文芸術」と認めるとそこには縄文芸術家がいたことになり、精神的・文化的に「高度な分業社会」が成立していたとみるべきです。私はそのレベルの分業社会は「部族社会」に相当し、「未開・野蛮」時代ではなく、「文明社会」として位置付けるべきと考えています。

 この1点だけをとってみても明らかなように、考古学・歴史学に閉じこもっていたのでは縄文文化・社会・文明を論じることはできないのであり、「縄文文明」の世界遺産登録を目標に、各分野の参加をえて議論を深める必要があると考えます。

 

5 「縄文文明」の世界遺産登録へ向けて議論を!

 Y染色体E型のアフリカ西海岸のナイジェリアのイボ人などと分岐したY染色体D型の縄文人は、「主語-目的語-動詞」言語族の移動、霊(ひ)信仰に基づく天神信仰の神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)・磐座信仰、地母神信仰の母系制社会を示す妊娠土偶や女神像・石棒(金精)・円形石組・環状列石、黒曜石採掘加工・土器製作の広域分業体制、日本海の広域交易体制、イネ科植物や芋・豆・栗類と容器になるヒョウタンなどの栽培、頭脳の発達を促す糖質・魚介食文化、インダス文明の担い手であったドラヴィダ族の信仰・農耕言語(倭音倭語)の継承、アフリカの円形平面住宅を引き継いだ竪穴式住居、東南アジア海人(あま)族の竹筏・丸木舟や照葉樹林帯の山人(やまと)族のモチ食文化など、アフリカからの人類・文化拡散の痕跡をはっきりと残して伝えています。

 その総合的な研究レベルは、世界の人類史の1つの標準モデルとなるものであり、沖縄から九州、若狭、北陸、東北・北海道へと続く対馬暖流の海人族文化・文明や山人族の文化・文明として、全国の縄文文化・文明を網羅した世界遺産登録の申請討が必要と考えるようになりました。

 「縄文ノート59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり」の表をもとに、「縄文文明」の世界遺産登録へ向けた登録申請の表を作成しなおしました。 

  

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6 命(霊継=DNA継承)の文明を世界へ

 思い起こせば、縄文芸術を世界に大きくアピールしたのは岡本太郎氏ですが、そのシンボルといえるのが1970年の大阪万博の「生命の樹」(俗称:太陽の塔)でした。

 

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「縄文ノート31 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」の再掲になりますが、縄文論の原点としてお付き合いください。

 万博広場中心に置かれていた塔は「太陽の塔」とされていますが、全体が「霊(ひ)」を天には運ぶ翼を広げた鳥の形をし、体内には海からの生類の誕生と発展を示す「生命の樹」を置き、地下には生命の海=龍宮(琉球)を示す「海の顔」を、背中には原発を象徴する「黒い地上の太陽」の顔を、腹には苦悩に満ちて怒っている人の顔を、頭には「神使」の鳥の顔を付けたその全体は、岡本氏の当初の命名の「生命の樹」そのものなのです。

 

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 「自分の中に毒を持て」と語っていた岡本太郎氏はちゃんと背中に「黒い地上の太陽=原発」を描き、「世の中が怒りを失っていることに、憤りを感じるのだ」という腹の人間の顔はゆがんで怒りに満ちているのです。

 「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」「火炎式縄文土器は深海のシンボル」と述べていた岡本太郎氏の縄文の原点に帰るならば、「縄文文明」は「生命の文明」「命の文明」としてとらえるべきなのです。

 「人類の進歩と調和」を掲げ、美浜原発からの電力を使うスタートとなった1970年大阪万博に対し、アメリカのスリーマイル島原発ソ連チェルノブイリ原発、日本の福島第1原発と重大事故が相次ぎ、しかも「核のゴミ」のプルトニウム239の半減期は3万年と人類の歴史より長い未来にかけて管理する以外にないのです。地球環境の悪化と食料危機、格差社会の拡大、国家・民族間対立の激化など半世紀を経て「人類の進歩と調和」とは程遠い状態にあります。

 地盤沈下が著しい大阪経済界は景気浮揚策として2025年に再び大阪万博を計画し、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げています。

 「いのち」を掲げる以上、何よりも深刻化する軍事対立や人権抑圧、食料危機、異常気象災害などをテーマにしなければならないと思いますが、そのような志などどこにもなく「医療・製薬産業と観光客誘致のためのイベント」「失敗した臨海部開発の一時的な活用」に終わりそうです。

 1970年にはべ平連の呼びかけで市民グループや芸術家、公害・原発に反対する住民団体などは大阪城公園で「反万博(ハンパク)」のイベントが行われましたが、私なども岡本太郎氏の「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」というシンボルの「生命の樹」の意味はやっと最近になって理解しました。

 2025年大阪万博に対しては、今度こそ、縄文文明から今に続く「命(ぬち)どぅ宝」の文化・文明のアピールを世界に向けて行いたいと考えます。

 「山・鉾・屋台行事」は祖先霊が天に昇り、降り立つアフリカ湖水地方からエジプト・メソポタミアインダス文明などに繋がる神名火山(神那霊山)信仰が日本列島に縄文人によって伝わり、出雲大社の前に置いた青葉山に神霊を移す宗教行事となり、播磨国一宮の伊和神社の宮山神事を経て、播磨国総社の一ツ山神事(60年に1度)と三ツ山神事(20年に1度)となり、さらに各地のお山神事となり、スサノオの霊を播磨の広峰神社から京都の八坂神社に運ぶなど、「山」を動かせるようにしたのが山・鉾・屋台行事であり、スサノオ大国主一族の八百万神信仰に基づいています。―ヒナフキンスサノオ大国主ノート:「神話探偵団74 『一ツ山』『三ツ山』は古代出雲の『青葉山」と同じ?」「神話探偵団75 『一ツ山』『三ツ山』は『舁(か)き山』『曳き山』のルーツ?」参照 https://blog.goo.ne.jp/konanhina/e/d590ba55d06d82e8d54032d30f8bed0f

https://blog.goo.ne.jp/konanhina/e/2797b39793e174df8e0f796386553975

 「厳島神社熊野古道、富士山信仰、宗像・沖ノ島遺産群)」の宗教世界遺産もまたスサノオ大国主一族の八百万神の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰に基づくものであり、女神・を祀る富士山信仰は神名火山(神那霊山)信仰そのものです。

 そして、その原点である神名火山(神那霊山)信仰は、信州の蓼科山福島県の高原山など、縄文時代に遡るのです。―「縄文ノート35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「縄文ノート40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」「縄文ノート44) 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

 一過性の産業・観光イベントとしてでなく、岡本太郎氏が「縄文に帰れ」と構想した命(霊継=DNA継承)の文明のイベントとして「縄文文明の世界遺産登録運動」を提案したいと思います。

 

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号) 

    2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

「縄文ノート81 おっぱいからの森林農耕論」の修正

 記憶力がとみに衰え、「縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」において「高天原(甘木高台)からのニニギの『天下り』逃避行ルート」の図を書いていたことをすっかり忘れていましたので、追加しました。

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 縄文論とは直接には関係しませんが、「縄文時代」→「弥生時代」→「古墳時代天皇家建国)」という「ドキドキバカ史観」が横行し、記紀や魏書東夷伝倭人条、三国史記新羅本紀などの記載を無視した弥生人(中国人・朝鮮人天皇家による建国などという空想がまことしやかに信じられ、「縄文時代」を野蛮・未開時代とする「断絶史観」が幅を利かせている状況に対し、縄文時代からスサノオ大国主の建国へと連続した内発的発展歴史観の確立に向けて、図を1枚、追加しました。

 「縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」から図と次の文章を再掲します。「高天原」=卑弥呼の宮殿の位置については、魏書東夷伝倭人条の「正使陸行・副使水行」の距離・日程計算から旧甘木市の高台であることを突き止めていますので、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)をご参照下さい。

  

  古事記日本書紀によれば、笠沙天皇家初代のニニギの「天下り」は、「筑紫日向(ちくしのひな:旧甘木市蜷(ひな)城)の高天原(甘木=天城の高台)」→「猿田毘古」(佐田)→「浮橋」(浮羽)→「丘:ひたお」(日田)→「久士布流岳」(久重山)→「膂宍之空国(そししのむなくに:猪の背骨のような国のない九州山地)」→「高千穂峰」(高千穂峰などのある霧島連峰)→「笠沙阿多吾田長屋竹屋」(アンダーラインは記紀記載地名)と「空国」の九州山地を縦断した薩摩(狭投馬:さつま)半島南西端への逃避行であり、高天原からの征服王の移動ではありません。卑弥呼の後継者争いで破れた男王派の山人族(やまと:狩猟民)の小部隊が平野部の敵地の国々を避けての逃走経路です。

 

 記紀の神話の全てを8世紀の創作とするトンデモ説が見られますが、大和の官僚たちが地図もない時代にこのような地名を知るわけもなく、また、ニニギが笠沙にたどり着いて『ここは韓国に向い、笠沙の御前(岬)を真来(真北)とおりて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。いとよき地だ』と述べたというのは真実の伝承を伝えている「秘密の暴露」がみられます。

 8世紀に遣唐使などとして漢文を学んだ官僚たちが建国史を創作するなら、大和の三輪山二上山などへ天皇家の祖先は天から天下った、と書けばよいのであって、薩摩半島南西端に3代が猟師(山幸彦=山人)として暮らしていたなどと創作する必要はないのです。

 高天原からのニニギの天下りは、垂直移動ではなく、具体的な地名・地理を述べた水平移動であり。それは征服王の移動などではなく、卑弥呼の後継者争いで破れた男王派の山人族(やまと:狩猟民)の小部隊が平野部の女王・壹与派の敵地の国々を避けて逃走経路であることを記紀は隠していないのです。

 

 

 

縄文ノート81 おっぱいからの森林農耕論

 雑誌では『日経サイエンス』『ナショナル ジオグラフィック』、テレビでは『サイエンスZERO』をよく見るのですが、6月13日のNHKの「おっぱいの科学 “神秘の液体”の謎に迫る」は「肉食・戦争進化説」批判の「糖質・平和進化説」にかっこうの材料を与えてくれました。6月26日(土)午前11:00~30に再放送しますから見ていただければと思います。

 今、「文明論」についてまとめているのですが、パーツで未整理な部分がいろいろと見えてきました。「神山信仰」や「神籬(霊洩木)信仰」については分析したものの、梅原猛安田喜憲氏の「森の文明」論や中尾佐助・佐々木高明氏らの「照葉樹林文明論」との関係は未整理のままでした。

 梅原・安田氏の「森の文明」論については、「縄文の「森の文明」に対し、長江文明を携えた弥生人による「稲作漁撈文明」という旧来の2重構造論であり、「イモ豆栗6穀」の縄文農耕やバランスの取れた豊かな土器鍋食文化とその延長上にある鉄器水利水田稲作へと連続するスサノオ大国主建国を認めない外発的発展史観・征服史観の枠組みから抜け出せていないのはちょっと残念です」(縄文ノート48 縄文からの『日本列島文明論』)といささかわかりにくいコメントしましたが、「森の文明」を「採取漁撈狩猟文明」とみるのか、「縄文農耕」(照葉樹林文明の焼畑農耕)として位置づけるのか、どちらか整理しておく必要がでてきました。

 以下、「おっぱい」→「糖質・食進化説」→「森林農耕説」として検討したいと思います。

 

1 「おっぱい」からの糖質進化論

 「哺乳類」が進化をとげて人間になったという以上、「乳」にこそ人類進化の鍵があるとみるのはあながち荒唐無稽とは思えません。

 世界の石器時代の女性像に巨乳像が見られるのも無関係ではないと考えます。―「縄文ノート75 世界のビーナス像と女神像」参照 

 

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 「おっぱい博士」の浦島匡(ただす)帯広畜産大教授によれば、オットセイには脂肪分が多く、キリンには水分が多いなど、環境に合わせておっぱいの成分が異なるというのです。

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 そして、人のおっぱいには牛と較べて糖質の割合が倍近く多くてタンパク質が少なく、しかも、糖質の割合が生後3~300日の間、増加しているのに対し、タンパク質は50%近く低下しているのです。

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 この事実は、動きの少ない人の乳児はタンパク質を必要としないにも関わらず、脳の活動がきわめて活発で糖質を必要としていることを示しており、糖質こそが人間の脳の活動を支え、進化を促したという説を裏付けます。

 「縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」において、私は次のように書きましたが、強力な裏付けになります。

 

 2019年11月からNHKスペシャルで始まった食の起源の「第1集『ご飯』~健康長寿の敵か?味方か?~」によれば、アフリカの旧石器人の摂取カロリーの5割以上が糖質で主食が肉というのは間違いであり、でんぷんを加熱して食べると固い結晶構造がほどけてブドウ糖になって吸収され、その多くが脳に集まり、脳の神経細胞が増殖を始めるとされています。火を使うでんぷん食に変わったことにより脳は2倍以上に巨大化したというのです。

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 肉食獣の脳が大きいこともなければ、脳の中は筋肉ではないのですから、「肉食進化説」は棄却されるべきでしょう。

 さらに、「第3集『脂』~発見!人類を救う“命のアブラ”~」ではオメガ3脂肪酸(青魚・クルミ・豆類など)が脳の神経細胞を形作り、樹状突起同士を結び付け、高度な神経情報回路を生み出すのを促したとされています。

 猿から人間への頭脳の発達には魚食と穀類の組み合わせが有効であったのであり、海岸・河川地域での魚介類やイモ・イネ科穀類などの摂取こそが人類を猿から進歩させたのです。日本列島における世界に先駆けた縄文土器鍋によるイモ・豆・栗・雑穀・野菜・茸・魚・貝・肉などの煮炊きによるバランス食文化は、これからの人類にとって重要な示唆を与えると考えます。土器鍋は人類初の主食調理器具の偉大な発明であり、石器時代に次いで土器時代(土器鍋時代)という時代区分を採用すべきと考えます。

 

 「肉食と戦争が人類を進化させた」という西欧中心史観の「肉食戦争進化説」が未だに『日経サイエンス』や『ナショナル ジオグラフィック』にも時々顔を出し、「糖質食平和進化説」に対抗していますが、糖質こそ人間の脳の働きを助け、進化させてきたのです。「脳の中には筋肉が詰まっている」のではなく、「脳の中には大量の血液が流れ、糖質が脳の働きを支え、脳の神経細胞を増殖させた」ことこそが人類進歩の鍵なのです。

 また、青魚やナマズなど、さらには母乳に多く含まれるオメガ3脂肪酸のDHA(ドコサヘキサエン酸)は脳、網膜、神経、心臓、精子に多く含まれ、「発達期の赤ちゃんに欠かせないDHA」「子供にDHAサプリ」などという製薬会社の宣伝の片棒を担ぐつもりはありませんが、DHAには「脳神経を活性化し、記憶力の向上などの効果がある」「学習機能向上作用(記憶改善、健脳作用)がある」とされています。

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 サルから人間への進化において、糖質食とともに魚介食が果たした役割も大きいと考えられ、西アフリカや東アフリカ湖水地方での「イモ・豆・穀類・魚介食」の研究が求められます。―「縄文ノート縄文55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」「縄文ノート62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」参照

 縄文人に多いY染色体D型と分岐したE型がニジェール川流域のイボ人などに多く、若狭の鳥浜遺跡や三内丸山遺跡で見つかったヒョウタンの原産地がニジェール川流域であることからみて、この地域で糖質・魚介食によりサルからヒトになった可能性が高いと考えます。

 

2 美味しい香りの焼米・焼麦・焼豆・焼稗・焼きイモからの農耕起源説

 「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」では樹上生活を維持した「チンパンジーは主に果実を食べるが種子、花、葉、樹皮、蜂蜜、昆虫、小・中型哺乳類なども食べる」とし、「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」ではチンパンジーやよりヒトに近いボノボが泳ぎ、ギニアチンパンジーが「水たまりの沢ガニを日常的に食べている」ことや、ボノボが「乾いた土地や沼を掘ってキノコや根粒菌などを食べる」「ヤゴや川虫を食べる」ことを明らかにしています。

 チンパンジーボノボが森林で種子やマメ科の根粒から糖質をとっていたとすると、火事によって森林が焼けた野原の中には香ばしい香りのする焼米や焼麦・焼稗などの穀類やササゲなどの焼豆やゴマ、土中の焼けた根粒やイモ類の美味しい匂いが漂っていたはずで、好奇心の旺盛なチンパンジーボノボはその匂いに引き付けられて食べる機会があった可能性は高いと考えられます。

 「縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」では私は次のように書きました。

 

5.焼米・焼麦と農耕開始について

 新石器時代に土器が出来て、米や小麦を煮て粥にし、その後に粉にして焼くようになり、穀物が食べられるようになった、と思い込んでいました。しかし、昨年の秋、妻がベランダでのイチゴ栽培の苗床用にもらってきた藁に残っていた稲穂の籾を見つけ、焼いて孫に食べさせたことがあり、私も子どもの頃に田舎のどんど焼きで焼米を食べたことがあることを思い出しました。米は脱穀して煮なくても焼いて食べられるのです。

 縄文人脱穀した米の「お粥」を食べるとともに、「焼米」を食べていた痕跡が残っており、たき火をしていた旧石器人もまた、野生の稲を燃やした時に白くはぜ(爆ぜ)、こうばしい香りのする焼米などを見つけ、穀類を食べ始めた可能性があります。

 また、子どもの頃、田舎に行くと「はったい粉」を熱湯で練って食べたことがよくありましたが、炒った麦を粉にして食べる「むぎこ」「むぎこがし」「はったい粉」のルーツは、パン・クッキーよりもはるかに古い可能性があります。「食べられるおいしい麦茶」が2013年7月30日にNHKあさイチ」で【すご技Q 麦茶パワー】として紹介されていましたが、麦もまた「パン食」より前に「焼麦」として食べられ始めた可能性があります。

 棒で穴を掘って種を植えれば、気象条件さえあえば穀類は育つのです。穀類の栽培は旧石器時代に遡り、ヒョウタンの故郷、ニジェール川流域がイネ科穀物の採取・利用のルーツの可能性があります。

 この「ニジェール川流域イネ科植物単一起源説」説については、ヒョウタンや稲、麦などのDNA解析により、決着が付けられるのを待ちたいと思います。

 

 火の使用はこれまで「焼肉」と結びつけられてきましたが、焼畑や畔焼き・野焼きを行うと小動物が焼かれた匂いとともに焼米・焼麦・焼豆・焼イモの香りが漂い、人類は火の使用を始めて糖質・DHAを摂取して進化した公算が高いと考えます。

 若月利之島根大名誉教授によれば、「ヒョウタン」「Y染色体D型の縄文人」の故郷、ナイジェリアの農業と食は次のとおりです。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」参照

 

③ イボの根作は多様性農業の極致です。

④ イボ(とヨルバ)の主食はヤムもち(日本の自然薯と同種)で、大鯰と一緒に食べるのが最高の御馳走。古ヤムのモチは日本のつき立てものモチよりさらにおいしい。貝は大きなタニシをエスカルゴ風に食べます。男性の精力増強に極めて有効。

 

 西アフリカでの火を使った「穀実豆芋魚食」の糖質・DHA摂取こそがヒトの知能を発達させた可能性が高く、火の使用とセットになって焼畑の芋豆穀類の栽培が開始された可能性が高いと考えます。その栽培は木の棒さえあれば簡単にできます。

 私は「3大穀物単一起源説」(縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」)の仮説を立てて調べ、中尾佐助氏の「サバンナ雑穀農耕起源説」説(縄文ノート26 縄文農耕についての補足)やT.T.チャン氏の「ゴンドワナ大陸イネ起源説」(縄文ノート55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸に出合いましたが、さらにDNA分析による雑穀やイモ類の総合的な証明が期待されます。

 

 

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3 「持続可能な森林農耕」論へ

 これまで「縄文農耕」「イモ・豆・栗・縄文6穀農業」「縄文焼畑・水辺水田農耕」「根栽農耕文化と照葉樹林農耕文化(焼畑)」「『火+田』の焼畑が『畑』、『白+田』の乾田が『畠』の和製漢字」などについてバラバラと書いてきましたが、これらを大河沖積平野の灌漑農耕とは区別し、持続可能な「森林農耕」として農耕の起源に位置付ける必要があると考えるに至りました。

 「縄文ノート77 『北海道・北東北の縄文遺跡群』世界文化遺産登録の次へ」(修正)で私は次の図を掲載しましたが、縄文農耕を滅び去った歴史的なエピソードとするのではなく、森林を農地・はげ山に変えて砂漠化を招いた自然収奪型の多収奪型の工業的農業・牧畜ではなく、再生可能な農耕文明の一段階として位置づける必要があると考えます。

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 森林農耕は人類に糖質摂取をもたらし、農耕による「分担・分業生産、交換・交易」による言語・コミュニケーション・数学能力の飛躍的な進歩を人類にもたらしたという歴史的エピソードとして無視することはできません。人類誕生は森林農耕によって実現され、文明のスタートはこの西アフリカで起こった「森林農業」にあると考えます。

 西欧中心史観は焼畑農業を未開段階の農業とし、その生産性の低さや森林破壊・CO2排出を非難して潰滅に追いやり、熱帯地域において大規模プランテーションによる工業型農業に変えてきていますが、都市・住宅建設や製塩・製鉄・製瓦・造船・製紙・熱資源利用による森林伐採と合わせて、森林破壊は再生限度を超えて進行してきています。

 降雨量の減少、河川流量や地下水の減少、農地の塩害、河川・湖・海・農地の貧栄養化、黄砂・砂塵嵐被害、CO2吸収の減少、生態系の破壊(種の絶滅)、気候変動による異常気象など、今や深刻な危機を地球規模でもたらしているのです。

 2015年、国連は「持続可能な開発のための2030アジェンダ」と17の「持続可能な開発目標(SDGs)」を採択し、2016年には気候変動に関するパリ協定が発効しましたが、17の目標のうちの「2.飢餓をゼロ」「6.安全な水とトイレを世界中に」「13.気候変動に具体的な対策を」「14.海の豊かさを守ろう」「15.陸の豊かさも守ろう」には、「森林の保全・回復」と「再生可能な森林農耕」は欠かせないテーマなのです。ここに「森林農業」という自然共生型農業は、現代的な意味を持っていると考えます。

 

4 「弥生人(中国人・朝鮮人)稲作説」の空想から縄文人稲作説へ

 日本では「弥生人(中国人・朝鮮人)による稲作開始説」による「弥生人天皇国史観」が根強く、農耕=文明の始まりを天皇家大和朝廷と結び付け、「縄文農耕」を否定する歴史家が多いのですが、このような「新皇国史観」が成立しないことは、畑作・稲作・食事関係の言語からだけでも明白です。

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  もしも多数の弥生人が長江流域や朝鮮半島から稲を持ってやってきて建国したのなら、農業関係の言語は全て呉音漢語か原朝鮮語のはずです。

 ところが「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」で示した前掲の表1のように、畑作・稲作・食事の言語には倭音倭語があり、それはタミル語(ドラヴィダ語)に近いのです。これは、縄文人ルーツであるY染色体D型がチベットやその周辺の山岳地帯やアンダマン諸島に多いことと符合しているのです。

 さらに、13,000年前の島根県飯南町神戸川上流)の板屋Ⅲ遺跡、12,000年前の鹿児島県の薩摩火山灰下層、約6000年前の岡山市の彦崎貝塚や朝寝鼻貝塚からイネのプラント・オパールが見つかり、天草市大矢遺跡の5000〜4000年前の土器の稲もみの圧痕跡が見られることなどからみて、熱帯ジャポニカ陸稲)の栽培は縄文時代に遡り、約3000年前の佐賀県唐津市の菜畑遺跡の最古の水田跡などにしても、それらは自然河川の水辺水田であり、鉄器を使った沖積平野での大規模な水利水田稲作は紀元1~3世紀のスサノオ一族や「五百鋤々なお所取らして天の下所造らしし大穴持命」と呼ばれた大国主一族による「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国水穂国」「葦原中国」の建国へと連続しているのです。

 紀元2世紀の大国主の時代からみて「千秋長五百秋」は紀元前930年前頃の佐賀県唐津市の菜畑遺跡や紀元前4世紀頃からの水田稲作の広がりとほぼ符合しているのです。適当に「千秋長五百秋」と書いたのが偶然に一致したのではない可能性もあるのです。

 わが国の稲作は、「焼畑稲作(森林農耕)」→「水辺水田稲作」→「葦原(沖積平野)水利水田稲作」と連続した内発的発展を示しているのであり、「弥生人稲作開始説」「弥生人征服説」の空想など成立する余地はありません。

 それは、佐藤洋一郎総合地球環境学研究所名誉教授によるRM1遺伝子の国別分布で、日本はa・b・c型で、中国・朝鮮にみられるd・e・f・g型が見られないことからも裏付けられます。―「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」参照

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 朝鮮に日本に多いb型がないことからみて、朝鮮から日本に稲作が伝わった可能性は否定されます。さらにd・e・f・g型が見られないことも、日本の温帯ジャポニカは中国・朝鮮からではなく、別ルートの可能性が高いことを示しています。

 a~g型の多様な品種のうちabc型だけが長江流域や朝鮮半島から日本に持ちこまれたり、選択的栽培により日本列島だけでa・b・c型に純化した可能性が考えられないでもありませんが、倭人だけが特別の育種技術を持っていた可能性は少ないように思います。さらに他の麦・粟・稗・黍・ササゲ・ゴマやイモ類などのDNA分析による証明が求められます。これらも呉音・漢音とは別に、倭音が今も使われているからです。

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 さらに、「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源説」「縄文ノート29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」「縄文ノート30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」でも次のように書きましたが、赤飯などを撒き、カラス与える神事と囃し言葉が日本に伝わっているのです。

 

 大野晋氏は『日本語とタミル語』の冒頭で南インドに始めて調査に出かけた時の1月15日の「ポンガル」の祭りを体験した時の劇的な出会いを紹介しています。2つの土鍋に牛乳を入れ泡が土鍋からあふれ出ると村人たちが一斉に「ポンガロー、ポンガロー」と叫び、一方の土鍋には粟と米(昔は赤米)と砂糖とナッツ、もう一方の土鍋には米と塩を入れて炊き、カラスを呼んで与えるというのです。日本でも青森・秋田・茨城・新潟・長野に小正月(1月15日)にカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事が残り、「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」と唱えながら撒くというのです。「ホ」は古くは「ポ」と発音されることは、沖縄の「は行」が「ぱ行」となる方言に残っていますから「ポンガ=ホンガ」であり、なんと、インド原住民のドラヴィダ族の小正月の「ポンガ」の祭りが日本にまで伝わっているのです。

 

 赤米神事が長崎県対馬市多久頭魂神社、鹿児島県種子島の宝満神社、岡山県総社市国司神社に残り、赤飯を大地に投げ、こぼす神事が群馬県片品村に残っていることをみても、稲作がドラヴィダ系海人・山人族により伝わり、縄文時代から現在にいたるまで続いていることを示しています。

 

5 天皇一族は縄文人か、弥生人か?

 「弥生人天皇国史観」という根強い「征服王朝史観」による「縄文・弥生断絶史観」について触れておきたいと考えます。縄文文化・文明を日本人の原点とするか、弥生人の征服からを文明社会と考えるかの重要な論点ですので、縄文論とは切り離せないテーマとして補足しておきたいと考えます。

 記紀をそのまま読めば、天皇家の祖先の笠沙天皇家3代(ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズ)は鹿児島県の薩摩半島西南端の笠沙・阿多・長屋・竹屋の「毛のあら物、毛の柔物」を取る「山幸彦(山人:やまと)」であり、初代ニニギの妻の名は阿多都比売で、笠沙天皇家4代目の初代大和天皇家のワカミケヌ(若御毛沼:8世紀に神武天皇命名)の母と祖母は龍宮(琉球)出身の姉妹です。

 右派は「天皇家のルーツは日向」としてこれらの記載を無視し、左派は「記紀神話は8世紀の創作」としていますが、この記載は動かせない事実です。この点では左右の歴史家は協力して、笠沙天皇家3代の歴史を闇に葬ってきたのです。

 重要な点は、この笠沙天皇家3代の歴史を裏付けるような遺跡がいくつもこの地で発見されていることです。

 南さつま市栫ノ原遺跡からは国内最古の丸木舟製作用の12000年前頃の丸ノミ石斧やくんせい施設が発見され、後期旧石器時代から中世までの集落遺跡が連続しています。万之瀬川対岸の「阿多」には縄文前期の阿多貝塚があり、南西約10㎞のところには「笠沙」、南西約4㎞のところには「長屋」、西約2㎞のところには「竹屋神社」があり、天皇家のルーツがこの地であるとする記紀の記載を正確に裏付けています。

 図6のように縄文時代前期の曽畑式土器文化圏は沖縄から韓国に及び、南九州に分布中心があり、ウィキペディアは「朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通しており、櫛目文土器の影響を直接受けたものと考えられている」「南方性海洋性民族(南島系海人族)の担い手が、櫛目文土器の造り手(ウラル系民族)との接触により、影響を受けたものと考えられる」と単に土器様式の説明に終始していますが、「南九州の海人族が沖縄から朝鮮半島まで活発に交易を行っていた」と歴史として論じることを避けています。

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 文化・文明は中国・朝鮮からもたらされた、という「和魂を忘れた漢才」の拝外主義的歴史観は未だに根強いことを思い知らされます。「曽畑」という地名から「蕎麦田」を思い浮かべてソバの花粉が縄文時代の地層にないか調べるなど、視野を広げた研究を望みたいところです。

 なお、古事記はニニギが『ここは韓国に向い、笠沙の御前(岬)を真来(真北)とおりて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。いとよき地だ』といって宮殿をたてて阿多都比売を娶ったと伝えていますが、この地の海人族が韓国と九州西岸を通る対馬暖流に乗って交易していたことを知って驚いたというのです。武器づくりに必要な鉄を入手できる可能性があるからです。実際には、琉球から鉄器を入手したことが、鉄の釣り針を巡る海幸彦との争いとして描かれています)。

 記紀に書かれた地名をきちんと読めば、図7に示したように天皇家の先祖とされるニニギの「天下り」のルートは、北九州からこの地に九州山地を通って笠沙・阿多にやってきたのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

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 卑弥呼なきあとの後継者争いの「相攻伐」で女王(壹与)派に敗れた男王(弟王)派のニニギの逃避行であり、天皇家の祖先が龍宮(琉球)と関りの深い薩摩半島縄文人の末裔の「山人(やまと)」であることを記紀は隠しておらず、「弥生人天皇国史観」など何の根拠もないことが明らかです。

 紀元1~3世紀の百余国のスサノオ大国主一族も、反乱を起こした30国をまとめた卑弥呼も、笠沙3代からの天皇家も、全て縄文人の末裔なのです。

 「弥生人(中国人・朝鮮人)による稲作開始説」「弥生人による縄文人征服説」「弥生人天皇家建国説」「二重構造論」などは、「古事記日本書紀・各国風土記・魏書東夷伝倭人条・三国史記新羅本紀」やヒト・イネDNA分析、「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造の日本語などを無視した空想という以外にありません。それらは「新皇国史観」とでも言うべきイデオロギーの妄想なのです。

 縄文時代(私は土器時代というべきと考えますが)1万年からの連続した文明・文化として、日本史を見直すとともに、世界文明史の解明に向けての役割を果たすことが求められます。

 

5 「森林文明」の時代へ

 地下水の大量利用による大規模農業や工業、都市化により化石水が枯渇する危機については1960・70年代から指摘されてきましたが、2030年には大穀倉地帯であるアメリカなどで危機的になり、世界的な食料危機が心配されはじめました。NASAの研究(ナショナルジオグラフィック・ニュースなど)では、人間の使用量は雨水の供給量を超え、地下水位は2002~2008年に毎年平均30センチ低下しているというのです

 これまで「焼畑農耕」は過去の原始的な農耕として論じられてきましたが、再生不可能な工場生産型農業が化石水の枯渇から行き詰まりを見せている現在、水資源と生態環境について再生可能な「森林農業」の可能性を論じるべき時と考えます。

 日本は鳥取大学の乾燥地研究センターが1949年より先進的に砂漠緑化・砂漠農業などに取り組んできており、高吸水性樹脂を使った砂漠緑化や点滴灌漑農業が提案され、世界の中で重要な役割を果たしてきましたが、水循環の基本となる世界の森林の保全・再生に向け、縄文から続く豊かな「森林文明」の提案が今こそ重要と考えます。

 「おっぱい」の原点からの提案です。 

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート80 「ワッショイ」と山車と女神信仰と「雨・雨乞いの神」

 アフリカからの神山天神信仰の伝播ルートに関心があり、6月17日NHKのBSプレミアムカフェ再放送の「雨を呼ぶ神 マチェンドラ ~ネパール・30万人の祈り~(2001年)」を見ていましたら、神木信仰の20mを超える山車とともに、なんと「ワッショイ ワッショイ」の掛け声が聞こえてきたのです。

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 山神が宿る木の山車を組み立てるツルで編んだ綱を引くときや山車を引くときの掛け声です。さらに「マチェンドラ」は観音様(観音菩薩)というのですから、女神になります。仏教と習合する前の原ネパール宗教では女神信仰だったのです。

 さらにさらに、マチェンドラは「雨の神」なのですが、「霊=靈(旧字体)=雨+口口口+巫(みこ)」(倭音:ひ・ぴ、呉音:リョウ、漢音:レイ)ですから、巫(巫女)が雨乞いをするという字であり、中国や日本でも「雨乞い」の女神信仰があったと思われます

 「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源」において、私は次のように書きました。

 

 「大野氏の『日本語とタミル語』(1981年)の冒頭の、大野氏を驚愕させた印象深いエピソードを紹介したいと思います。

 大野氏は1980年に現地に行き、実際の新年である1月15日に行われる赤米粥を炊いて「ポンガロー、ポンガロ!」と叫び、お粥を食べ、カラスにも与えるポンガロの祭りを実際に体験し、青森・岩手・秋田・新潟・茨城にも1月11日、あるいは小正月(1月15日)にカラスに米や餅を与え、小正月に小豆粥を食べる風習があることを確かめています。

・・・

 カラスに米や餅を与えるのもまた、カラスを猿や狼・鹿・鶏などと同じように先祖の霊(ひ)を天から運び、送り帰す神使としてして見ていたと考えます。

 さらに、秋田・青森では小正月に豆糟(大豆や蕎麦の皮に酒糟などを混ぜたもの)を「ホンガホンガ」と唱えながら撒く「豆糟撒き」の風習があり、長野県南安曇郡では「ホンガラホーイ ホンガラホーイ」と囃しながら鳥追いを行い、餅を入れた粥を食べるというのです。沖縄では「パ行→ハ行」への転換があることからみて、「ホンガ」「ホンガラ」は古くは「ポンガ」「ポンガラ」であったのです。

 ここでは「小正月祝い」「赤米粥と小豆粥、赤飯」「カラス行事」「ポンガロとホンガ・ホンガラ」の共通点があり、ヒンズー教や仏教以前から同じような宗教行事が続いていることが明らかです。

 他の宗教行事に特有な「希少性・固有性・継承性」のある単語、「どんど焼き左義長」などの意味不明語や群馬県片品村の猿追い祭りで地面に赤飯を投げ合う「えっちょう・もっちょう」の掛け声、多くの祭りの「わっしょい」「えっさ」「どっこいしょ」「そーりゃ」「ナニャドラヤ」などの掛け声のルーツについても検討してみるべきと考えます。「希少性・固有性・継承性のある単語」に絞った調査です。」

 

 この最後の「わっしょい」がなんと、ネパールの山車の綱を引く掛け声にもあったのです。あとで妻に説明もせずに画面を見せると「ワッショイ」と聞こえたとビックリしています。ホームページで検索してみると、ブログ「ネパールと日本de出産子育て日記(み•うら)」の「マチェンドラナート祭はじまる」https://ameblo.jp/yucchimonmon/entry-12017825331.htmlにも「ミムナートを引くのは威勢のいい子どもたち。気合い十分‼︎ 日本の山車に似とって、掛け声が「わっしょいわっしょい」に聞こえる。」というのです。

                                 f:id:hinafkin:20210619121321j:plain

 びっくり仰天とともに、昔よく見ていたテレ朝の深夜番組『タモリ倶楽部』の「空耳アワー」を思い出しました。

 ジャングル・ブック・オリジナル・サウンドトラックからは「チンコ すごい」が、エルヴィス・プレスリーの歌からは「お酢をください」が、サイモンとガーファンクルの歌からは「坊さんの乱闘」が確かに聞こえるのです。

 ネパールの「ワッショイ ワッショイ」の掛け声もまた「空耳」の可能性があります。

 しかしながら「ポンガ」の掛け声と同様に、この「ワッショイ」は「雨乞い神事」「女神信仰」「山車づくり」とワンセットであり、単なる音の一致の空耳ではなく、神事としても希少な類似性が見られるのです。

 また、「山車」については、「帆人の古代史メモ」61~66の「『置き山』『曳き山(山車)』『担ぎ山(御輿)』考]1~6で書き、2018年12月のレジュメ「大阪万博のシンボル『太陽』『お祭り広場』『原発』から次へ」で次のように要約しました。

 

6 黄泉帰り宗教から、昇天降臨宗教へ (5) 霊(ひ)信仰は現代に引き継がれている

 祭り屋台や御輿に家々の神棚の祖先霊を乗せて神社に運び、祭神の霊とともに山上や海岸の御旅所に運び、祖先霊を天に送り、パワーアップした神を迎え、山車や御輿に移して神社に迎え、さらに各家の神棚に返す儀式もまた、霊(ひ)の再生儀式である。これらの行事は、宗教儀式から単なる民俗行事に変わり、その意味は忘れられてきつつある。

 この山車のルーツは、姫路の総社(射楯兵主神社)に伝わる20年の1度の「3ツ山大祭」、60年に一度の「1ツ山大祭」の置き山にあり、この祭りは播磨国一宮の伊和神社から伝わり、その前は出雲大社の「青葉山古事記ホムチワケが言葉を話せるようになった物語に登場)」に原型があったと考えられる。なお、総社は広峰神社などに祭られているスサノオの御子の射楯神=五十猛神(倭武命)と大国主を祭っている。栃木県那須烏山市八雲神社の「山あげ祭」や仙北市角館町の「大置山」、高岡市二上射水神社などの「築山」も同じものである。

 広峰神社からスサノオ牛頭天王)の霊を祇園の八坂神社に分霊した時、その途中の篠山市の波々伯部神社(「丹波祇園さん」)で休んだとされ、ここの「お山行事」では、3年ごとに「キウリヤマ(山を台車の上に組んだもの)」を曳き、御旅所に御幸が行われている。これが、山車、曳山、山鉾の原型である。担ぎ山(御輿、山笠、屋台)はさらにその発展型である。」

 

 日本の「山車」は天神信仰の祖先霊を招く「お山」神事に由来し、祖先霊を山から天に送り、迎える「山車(だし:神の乗り物)」ですが、ネパールの「山車」もまた緑で覆った山に見立てており、古事記垂仁天皇の条に書かれた出雲大社の前に置かれた「青葉山」と同じであったと考えられます。

 

                  f:id:hinafkin:20210619121527j:plain

 「他の宗教行事に特有な「希少性・固有性・継承性」のある単語、「どんど焼き左義長」などの意味不明語や群馬県片品村の猿追い祭りで地面に赤飯を投げ合う「えっちょう・もっちょう」の掛け声、多くの祭りの「わっしょい」「えっさ」「どっこいしょ」「そーりゃ」「ナニャドラヤ」などの掛け声のルーツについても検討してみるべきと考えます。「希少性・固有性・継承性のある単語」に絞った調査です」と書きましたが、皆さんも注意してみていただけませんか。

 なお、ツルで編んだ太い綱と木だけで山車の塔を組み立てていく技術を見ていると、徳島県の「祖谷のかづら橋」を思い出します。また20mを越えるネパールの山車の高さは、姫路の播磨総社(射楯兵主神社)18mの「三ツ山・一ツ山」や鉾頭まで約25m(真木15m)の京都祇園祭の山鉾などとの技術的な同質性を感じます。 

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート80 「ワッショイ」と山車と女神信仰と「雨・雨乞いの神」

 アフリカからの神山天神信仰の伝播ルートに関心があり、6月17日NHKのBSプレミアムカフェ再放送の「雨を呼ぶ神 マチェンドラ ~ネパール・30万人の祈り~(2001年)」を見ていましたら、神木信仰の20mを超える山車とともに、なんと「ワッショイ ワッショイ」の掛け声が聞こえてきたのです。

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 木の山車を組み立てるツルで編んだ綱を引くときや山車を引くときの掛け声です。さらに「マチェンドラ」は観音様(観音菩薩)というのですから、女神になります。仏教と習合する前の原ネパール宗教では女神信仰だったのです。

 さらにさらに、マチェンドラは「雨の神」なのですが、「霊=靈(旧字体)=雨+口口口+巫(みこ)」(倭音:ひ・ぴ、呉音:リョウ、漢音:レイ)ですから、巫(巫女)が雨乞いをするという字であり、中国や日本でも「雨乞い」の女神信仰があったと思われます

 「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源」において、私は次のように書きました。

 

 「大野氏の『日本語とタミル語』(1981年)の冒頭の、大野氏を驚愕させた印象深いエピソードを紹介したいと思います。

 大野氏は1980年に現地に行き、実際の新年である1月15日に行われる赤米粥を炊いて「ポンガロー、ポンガロ!」と叫び、お粥を食べ、カラスにも与えるポンガロの祭りを実際に体験し、青森・岩手・秋田・新潟・茨城にも1月11日、あるいは小正月(1月15日)にカラスに米や餅を与え、小正月に小豆粥を食べる風習があることを確かめています。

・・・

 カラスに米や餅を与えるのもまた、カラスを猿や狼・鹿・鶏などと同じように先祖の霊(ひ)を天から運び、送り帰す神使としてして見ていたと考えます。

 さらに、秋田・青森では小正月に豆糟(大豆や蕎麦の皮に酒糟などを混ぜたもの)を「ホンガホンガ」と唱えながら撒く「豆糟撒き」の風習があり、長野県南安曇郡では「ホンガラホーイ ホンガラホーイ」と囃しながら鳥追いを行い、餅を入れた粥を食べるというのです。沖縄では「パ行→ハ行」への転換があることからみて、「ホンガ」「ホンガラ」は古くは「ポンガ」「ポンガラ」であったのです。

 ここでは「小正月祝い」「赤米粥と小豆粥、赤飯」「カラス行事」「ポンガロとホンガ・ホンガラ」の共通点があり、ヒンズー教や仏教以前から同じような宗教行事が続いていることが明らかです。

 他の宗教行事に特有な「希少性・固有性・継承性」のある単語、「どんど焼き左義長」などの意味不明語や群馬県片品村の猿追い祭りで地面に赤飯を投げ合う「えっちょう・もっちょう」の掛け声、多くの祭りの「わっしょい」「えっさ」「どっこいしょ」「そーりゃ」「ナニャドラヤ」などの掛け声のルーツについても検討してみるべきと考えます。「希少性・固有性・継承性のある単語」に絞った調査です。」

 

 この最後の「わっしょい」がなんと、ネパールの山車の綱を引く掛け声にもあったのです。あとで妻に説明もせずに画面を見せると「ワッショイ」と聞こえたとビックリしています。ホームページで検索してみると、ブログ「ネパールと日本de出産子育て日記(み•うら)」の「マチェンドラナート祭はじまる」https://ameblo.jp/yucchimonmon/entry-12017825331.htmlにも「ミムナートを引くのは威勢のいい子どもたち。気合い十分‼︎ 日本の山車に似とって、掛け声が「わっしょいわっしょい」に聞こえる。」というのです。

                                 f:id:hinafkin:20210619121321j:plain

 びっくり仰天とともに、昔よく見ていたテレ朝の深夜番組『タモリ倶楽部』の「空耳アワー」を思い出しました。

 ジャングル・ブック・オリジナル・サウンドトラックからは「チンコ すごい」が、エルヴィス・プレスリーの歌からは「お酢をください」が、サイモンとガーファンクルの歌からは「坊さんの乱闘」が確かに聞こえるのです。

 ネパールの「ワッショイ ワッショイ」の掛け声もまた「空耳」の可能性があります。

 しかしながら「ポンガ」の掛け声と同様に、この「ワッショイ」は「雨乞い神事」「女神信仰」「山車づくり」とワンセットであり、単なる音の一致の空耳ではなく、神事としても希少な類似性が見られるのです。

 また、「山車」については、「帆人の古代史メモ」61~66の「『置き山』『曳き山(山車)』『担ぎ山(御輿)』」考1~6で書き、2018年12月のレジュメ「大阪万博のシンボル『太陽』『お祭り広場』『原発』から次へ」で次のように要約しました。

 

6 黄泉帰り宗教から、昇天降臨宗教へ (5) 霊(ひ)信仰は現代に引き継がれている

 祭り屋台や御輿に家々の神棚の祖先霊を乗せて神社に運び、祭神の霊とともに山上や海岸の御旅所に運び、祖先霊を天に送り、パワーアップした神を迎え、山車や御輿に移して神社に迎え、さらに各家の神棚に返す儀式もまた、霊(ひ)の再生儀式である。これらの行事は、宗教儀式から単なる民俗行事に変わり、その意味は忘れられてきつつある。

 この山車のルーツは、姫路の総社(射楯兵主神社)に伝わる20年の1度の「3ツ山大祭」、60年に一度の「1ツ山大祭」の置き山にあり、この祭りは播磨国一宮の伊和神社から伝わり、その前は出雲大社の「青葉山古事記ホムチワケが言葉を話せるようになった物語に登場)」に原型があったと考えられる。なお、総社は広峰神社などに祭られているスサノオの御子の射楯神=五十猛神(倭武命)と大国主を祭っている。栃木県那須烏山市八雲神社の「山あげ祭」や仙北市角館町の「大置山」、高岡市二上射水神社などの「築山」も同じものである。

 広峰神社からスサノオ牛頭天王)の霊を祇園の八坂神社に分霊した時、その途中の篠山市の波々伯部神社(「丹波祇園さん」)で休んだとされ、ここの「お山行事」では、3年ごとに「キウリヤマ(山を台車の上に組んだもの)」を曳き、御旅所に御幸が行われている。これが、山車、曳山、山鉾の原型である。担ぎ山(御輿、山笠、屋台)はさらにその発展型である。」

 

 日本の「山車」は天神信仰の祖先霊を招く「お山」神事に由来し、祖先霊を山から天に送り、迎える「山車(だし:神の乗り物)」ですが、ネパールの「山車」もまた緑で覆った山に見立てており、古事記垂仁天皇の条に書かた出雲大社の前に置かれた「青葉山」と同じであったと考えられます。

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 「他の宗教行事に特有な「希少性・固有性・継承性」のある単語、「どんど焼き左義長」などの意味不明語や群馬県片品村の猿追い祭りで地面に赤飯を投げ合う「えっちょう・もっちょう」の掛け声、多くの祭りの「わっしょい」「えっさ」「どっこいしょ」「そーりゃ」「ナニャドラヤ」などの掛け声のルーツについても検討してみるべきと考えます。「希少性・固有性・継承性のある単語」に絞った調査です」と書きましたが、皆さんも注意してみていただけませんか。

 なお、ツルで編んだ太い綱と木だけで山車の塔を組み立てていく技術を見ていると、徳島県の「祖谷のかづら橋」を思い出します。また20mを越えるネパールの山車の高さは、姫路の播磨総社(射楯兵主神社)18mの「三ツ山・一ツ山」や鉾頭まで約25m(真木15m)の京都祇園祭の山鉾などとの技術的な同質性を感じます。 

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/