ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート14 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文

 2018年12月の縄文社会研究会へのレジュメ「大阪万博のシンボル『太陽』『お祭り広場』『原発』から次へ」をもとに加筆しました。
 「科学技術大国」「経済大国」の夢破れ、この20年でIT分野では韓国・中国に追い抜かれてしまった「失われた20年」に対し、2020年東京オリンピック、2025年大阪万博で元気になろう、イベント観光と大型公共投資で活路を見出そう、国民の誇りを取り戻そう、というのですが、私には1960年代の古くさい手法に思えてなりません。新産業創出による雇用創造などできるのでしょうか?
 再掲にあたっては、岡本太郎さんの「太陽の塔生命の樹)」などを宗教論や倭語論で補充するとともに、「3つの『太陽の顔』のメッセージ」を追加しています。 雛元昌弘

1. 「イベント熱」時代?

 「1964年→2020年」東京オリンピック、「1970年→2025年」大阪万博と、国をあげてイベント熱に浮かれています。「科学技術大国」「経済大国」の夢破れて、失われた自信・自尊心を、スポーツと産業イベントで回復しようとしていますが、どうでしょうか?
 今、世界はグローバリズムの不均等発展・格差拡大危機、地球温暖化・気候変動による災害多発と中近東・アフリカの農業危機、バブル崩壊寸前のマネー経済・財政危機、米中覇権争い危機の4大危機に加え、日本では少子高齢化危機(労働力・消費減少と福祉費用増大)、房総沖・東京直下・南海大地震危機、福島第1原発による被ばく健康被害拡大と原発再稼働の危険性、新型コロナの4大危機が加わっており、これら山積みする課題に対して無策のまま「イベントで浮かれている場合???」と思わざるをえません。
 この「8大危機」の1つでもはじければ、「2020年東京オリンピック」「2025年大阪万博」は、後に「記憶に残る大事業」などとは言われない可能性があります。
 IT・プラットフォーム(GAFA:ガーファ)では完全に遅れをとり、大企業の世界時価総額ランキングでは50位以内にはトヨタが35位に入るだけという経済3流国化、基礎研究は2流国化、政治・軍事・外交・行政はアメリカ追随の3流国と揶揄されている現状を、二番煎じのオリンピック・万博の大型公共投資国民意識高揚で乗り切ることなどできるでしょうか?
 グローカリズム経済(均等発展を目指す汎地域主義経済)への転換、若者・地方からの新産業創出、自然・歴史・芸術世界観光の推進、自然エネルギーへの転換、新たな国際マネー秩序の構築、核・軍事覇権主義との決別、就業・福祉安定社会の構築、大都市集中から分散型国土形成への転換という「8大プロジェクト」が求められる中で、大阪万博の意味を考えてみたいと思います。

2.大阪万博のシンボル-「美浜原発」と「太陽の塔」と「お祭り広場」

 1970年大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」でしたが、2025年大阪万博は「いのち輝く未来社会のデザイン」とされています。
 1970年大阪万博に対しては、新全総の大規模開発による公害・自然破壊やに反対していた住民運動は、「調和」の名のもとに開発優先の国づくりを行うものと批判し、特に、原発時代の幕開けに対して危機感を持って反対を表明していました。
 1964年東京オリンピックのシンボルが新幹線であったのに対し、大阪万博の科学技術進歩のシンボルは原発でしたが、その後、スリーマイル・チェルノブイリ・フクシマ原発事故がその「進歩」シンボルを打ち砕きました。当時、政府や全マスコミは「アメリカの原発は最先端で実績があり安全」といい、共産党は「アメリカの原発は危険だが、ソ連原発は安全」「民主勢力が使えば安全」と言っていましたが、スリーマイル・チェルノブイリ・フクシマが順にその幻想を打ち砕きました。
 原発が人工的に作りだしたプルトニウム240の半減期は0.3~3.2万年であり、日本列島に旧石器人が住み始めた時から現在までの時間を何倍も超えないないとその毒性はなくなりません。原爆の使用を含めて、全人類史で旧石器人よりはるかに野蛮で未開、非文明なのが現代人と言えます。電力会社によるその第1歩が万博に間に合わせた美浜原発でした。

          美浜原発からの電力による万博会場

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  次の2025年大阪万博は「いのち」をテーマとして、IPS細胞による再生医療などの生命科学人工知能、情報ネットワークなどの科学技術産業による明るい未来社会を歌い上げようとするのでしょうが、自然災害・飢餓・戦争テロ・放射能汚染・自死無差別殺人・新型コロナなどの「いのち」の危機や「野生生物・家畜生物」の「いのち」については、どう考えるのでしょうか?
 2カ国以上への特許出願数は世界1という目先の「成果」指標は上位であるものの、研究者数は世界3位、科学技術論文数は世界4位、ノーベル賞の自然科学分野は5位(米英独仏の次)、科学技術予算の対国内総生産(GDP)比は世界5位、人口100万人当たりの博士号取得者数は世界6位、被引用回数上位10%の科学技術論文数は世界9位、新型コロナ論文数は1.5%など、科学技術2~3流国となった日本産業にとって、2025年大阪万博でメリットのある出番はあるのでしょうか?
 1970年大阪万博の前から「縄文に帰れ」を唱え、1972年の沖縄復帰に対しては「本土が沖縄に復帰するのだ」と語っていた岡本太郎さんは、縄文のシンボルとして「太陽の塔」(最初の仮称は「生命の樹」)をデザインして「お祭り広場」の中心に据えました。会場プランづくりに携わった京大建築学科地域計画の大先輩の西山卯三教授・上田篤助教授たちは京都の町衆が育て守ってきた時代祭から「お祭り広場」をシンボルとして提案しました。
 結果としては、縄文の「太陽の塔生命の樹)」、町衆の「お祭り広場」の基本理念は、各国・企業のパビリオンやイベントに活かされることもなく、見学者やその後の日本社会に影響を与えることはできたんでしょうか? いずれ、検証したいと思います。

3.「縄文」のシンボルは太陽か、「円形石組・立棒(男女性器)」「妊婦土偶」か?

 岡本太郎さんは「縄文美」に世界で初めて着目し、「縄文」ブームを創り上げた傑出した先進的な芸術家であり、大阪万博で「縄文」を基本コンセプトとして取り上げたのはさすがです。しかしながら、そのシンボルを「生命の樹」から「太陽の塔」に名称を変えたのは、何があったのでしょうか?

 

 縄文のシンボルは「太陽」か、生命を繋ぐ霊(ひ:DNA)信仰の「生命の樹」か?

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  岡本太郎さんは火炎式土器の名称に違和感を覚え、炎ではなくて深海をイメージしていたと言っています。彼は具体的には語っていませんが、「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」という発言と合わせて考えると、岡本さんは「深海(龍宮)」を「琉球(龍宮)」と考えていたと思います。
 それはさておき、太陽は土と水と炭酸ガスともに植物を育てた重要な役割を持っているのは事実ですが、縄文人の信仰対象が太陽であったでしょうか?
縄文社会研究会(2014年4月14日)で、私は「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(後に『季刊 日本主義』31号:2015秋に掲載)を発表しましたが、縄文のシンボルは「太陽」ではなく、生命の根源である男女の性器の結合を示す「円形石組・立棒」や「霊(ひ)」が宿る安産の神器の「妊娠土偶」にすべきと提案しました。

 

             円形石組と立棒

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 「お祭り広場」との関係で言えば、死者(ひ)の霊が天に昇り、降りてくる拠り所である「御柱」や「置山・山車・鉾」とすべきであった、と考えています。
 「お祭り広場」は祇園祭を担った町衆からのイメージでしたが、京都の祇園社(八坂神社)は播磨の広峰神社からスサノオの神霊を移したものであり、播磨総社(祭神はスサノオの子の五十猛と7代目の大国主)では出雲大社の「青葉山」をルーツとする「置山(三つ山祭:20年に1回、一つ山祭:60年に1回)」を正門前に置き、全国の八百万神の神霊を呼び寄せ、送り返す行事を行っています。この「置山」を「山車(キウリヤマ)」にしてスサノオの神霊を移して京都に運んだのが祇園祭の「山鉾」行事のルーツなのです。

 

 出雲大社の「青葉山」から播磨の「三つ山」「一つ山」、祇園祭の「山鉾」へ

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  もし「お祭り広場」を持ち出すのなら、その「お祭り」の基本理念が、全ての死者の霊(ひ)を神として祭る「八百万神」信仰の神事であることを明らかにすべきでした。町衆が担ったということだけでは、お祭り広場は「仏作って魂入れず」であったと言わざるをえません。岡本太郎さんの「太陽の塔生命の樹)」とお祭り広場は、八百万神信仰の「山・山車・山鉾」と「縄文土器鍋」でつくった和食で一体的に演出すべきだったのです。
 横道に逸れますが、「仏作って魂入れず」の格言の面白いところは「仏教」の仏像に、出雲神道の「魂=霊(ひ)=鬼=八百万神」を入れるのです。「仏教の神道化」を正直に告白した格言と言えます。
 「太陽の塔」「お祭り広場」とも、歴史をきちんとふまえれば、そのベースとなった基本理念は「死ねばだれもが神となる」という「霊(ひ)信仰」であり、縄文から続く「八百万神」信仰のスサノオ大国主の建国につながる基本理念であったのです。
 残念ながら、岡本太郎さんを除いて当時から「遅れた縄文、進んだ弥生」「弥生人(中国人・朝鮮人)による稲作」「弥生人縄文人征服」という考えは今に続いており、縄文から続く「お祭り」(祖先霊信仰の神事)の意味も理解されず、縄文のシンボルである「太陽の塔」は「世界を照らす太陽神アマテラス」などと誤解されています。
 岡本太郎さんの「太陽の塔」は、縄文研究が進んだ現在、再評価される必要があり、祇園祭の意味など考えてもいなかった「お祭り広場」についても、その意味が解明される必要があると考えます。

4.「太陽の塔生命の樹)」は「日(ひ)のシンボル」か「霊(ひ)のシンボル」か?

 岡本太郎さんの「太陽の塔(内部:生命の樹)」は、「日(太陽)」のシンボルなのか、それとも縄文から続く「生命=DNAの霊継(ひつぎ:命のリレー)」のシンボルなのか、どちらでしょうか?
 霊(ひ)信仰についてはご存じない方が多いので紹介しますが、祖先霊のことを倭語では「霊(ひ)」と言い、各家の神棚、屋敷神の祠に祀り、各集落ごとには共通の氏神様を祀る神社を置き、さらに国ごとには国神様を祀るという八百万神(やおよろずのかみ)信仰として、現代に続いています。日本人にとって、神は死者の霊(ひ)、魂、鬼神であったのです。
 ちなみに、「鬼」字は「甶(頭蓋骨)+人+ム」からなり、「人が支えた甶(頭蓋骨)を、ム(私)が拝む」という象形文字です。なお「人+ム」は「仏」になります。
「魂」字は「雲+鬼」で「天上の鬼=祖先霊」なり、「魏」字は「委(禾+女)+鬼」で「鬼(祖先霊)に女が稲を捧げる」という字になります。「姓名」の「姓」は「女+生」(女が生まれ、生きる)ですから、もともと中国の姫氏の周時代は母系性社会であった可能性が高く、魏はその諸侯でした。孔子の「男尊女卑」も「尊(酋(酒樽)+寸)」「卑(甶(頭蓋骨)+寸)」からみて、「女は頭蓋骨を掲げ、それに男は酒を捧げる」という祖先霊信仰上の女性上位の役割分担を表しており、孔子は姫氏の周時代の母系制社会を理想としていたことを示しています。
 卑弥呼の「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」からなり、「祖先霊を手で支える」という意味であり、八百万神信仰の倭語では「霊(ひ)巫女」になります。「巫女」は「御子」であり、死者の霊(ひ)を祀る子孫の女性を表します。

 

      「卑」「鬼」「魂」「魏」字に共通する「甶(頭蓋骨)」字

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 また、「神」は「示+申」であり、「申(猿)」を人間の祖先とみなして「示(台)」の上に載せて祀ったのか、それとも「申(猿)」を人間の代わりの生贄として「示(台)」の上に載せて神に奉げ、その後には食べたのかもしれません。中国人の野生生物の食習慣からすると後者の可能性が高いと考えますが、もしも前者だとすると、ダーウィンの進化論よりはるか昔の紀元前から中国人は進化論を理解していたことになります。
 なお、日本では比叡山(日枝山=霊枝山)を神那霊山(神奈火山)として琵琶湖側に鎮座する日枝大社は猿を神使としてていますが、スサノオ大物主大神)の子の大年(大物主)の子の大山咋(おおやまくい)と大国主を祭神としています。
 このように、この国はスサノオ大国主一族の八百万神神道の国でしたが、仏教が天皇家によって国教とされ、徳川幕府が葬式を仏式に変えるよう強制してお寺の経済的基盤としたため、死者は「神」から「仏」になって仏壇に祀られるように変わります。
しかしながら女性が妊娠すると安産祈願にはお宮に行き、子供が生まれるとお宮参りをし、七五三のお祝いも神社で行うという神道は残り、家の中には神棚と仏壇があり、古い家では屋敷神・地主神を祀る祠や鳥居がありました。
 さらに、春・夏・秋・正月などの祭りでは、各家から祖先霊を神輿や山車、屋台に乗せて練り歩いて集落の神社に運び、そこから村や町の神社に運び、一緒に山上や海辺の御旅所に運んで祖先霊を天や龍宮に送り、再び迎えて神輿などに移し、コースで村・町の神社から集落の神社へ運び、練り歩いて各家に霊を帰します。私の祖父母の家では、初孫の私は仏壇と神棚にお供えのご飯を運ぶ役であり、どちらにもご先祖を祀ってあると言われていました。
 古事記は始祖神を「参神二霊」とし、「二霊群品の祖となりき」として高御産巣日(たかみむすひ)と神御産巣日(かみむすひ)としていますが、この「産巣日(むすひ)」を日本書紀が「産霊(むすひ)」と書いていることからみても、日=霊(ひ)であり、新井白石が解釈したように「人=霊人」「彦=霊子」「姫=霊女」なのです。そして、この始祖「参神二霊」は出雲大社正面に祀られており、本来の神道はこのスサノオ大国主一族の「八百万神」信仰なのです。
 一方、本居宣長は「天照大御神」の「天照=アマテル」を「アマテラス」と読ませ、「世界を照らす太陽神」を最高神とする一神教とし、天皇家の祖先をこのアマテルとして後の皇国史観に大きな影響を与えます。天皇を世界を支配する太陽神として、大日本帝国のアジア侵略・支配を正当化するイデオロギーとしてわが国の進路を大きく誤らせました。
 このように、この国の神道は八百万神の「霊(ひ)信仰」か「日信仰」か、「出雲神道」か「伊勢神道」かは、宗教論としても歴史認識としても大きなテーマなのです。
植物が枯れて大地に帰り、再び芽生えてくるように死者もまた大地の黄泉の国から蘇る(黄泉帰る)という地神(地母神)信仰や、海人(あま)族の死者は海に帰り、海から再生してくるという海神信仰から、魂魄(こんぱく:魂と身体)は分離して天に昇り、天から山上の磐座(いわくら)や高木(神籬=霊(ひ)漏ろ木)に降りてくるという天神宗教改革をいつ、誰が行ったのかというテーマです。
 縄文時代を世界で初めて芸術の面から高く評価し、「縄文に帰れ」と考えていた岡本太郎さんは、「太陽の塔生命の樹)」をデザインした時、縄文人からの生命(DNA)の連鎖・継承、霊継(ひつぎ)のシンボルとしてデザインしたと私は考えています。

5.3つの「太陽の顔」のメッセージ

 塔の前面の頭頂部、腹部、背中の3つの異なるデザインの顔がそのヒントになりそうです。

 

      太陽の塔生命の樹)の3つの顔:万博記念公園HPより

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 「上の顔は未来」、「腹の顔は現在」「背中の顔は過去」と万博記念公園HPでは説明されていますが、本当でしょうか? 私には「美術優等生」の空想に思えます。
 太陽の塔の内部が生命の誕生からの「原生類時代、三葉虫時代、魚類時代、両生類時代、爬虫類時代、哺乳類時代」の292体の生物のオブジェで満たされていることかみても、その全体は元の「生命の樹」としてみるべきなのです。

 そうすると、下が過去、中が現在、上が未来になりますから、背中の太陽が過去を表していることにはなりません。また、「縄文に帰れ」と述べていた岡本さんが、その輝かしい過去の縄文の顔を「黒い太陽」として描くはずはないでしょう。

 黄金の顔にしても、「太陽」でしょうか? 岡本太郎さんは「縄文に帰れ」と述べ、縄文土器土偶や後の銅鐸に太陽をデザインしたものは0であることを知っていたと思います。また、岡本さんは縄文土偶の顔をいくつも見ているに違いありませんから、てっぺんの黄金の顔は「生命の樹」の顔そのものと考えられます。顔はあくまでその本体の顔をシンボライズしているのです。

 

 縄文土偶参考例:長野県富士見町の井戸尻考古館の「始祖女神像」(同館HPより) 

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     長野県茅野市中ツ原(なかっぱら)遺跡の「仮面の女王」

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  「太陽の塔」より1年前の彼の「若い太陽」(日本モンキーパーク)を見ると、顔は「太陽の塔」の腹の顔と同じでデザインですが、周りに太陽のフレア(炎)があります。彼のデザインの太陽にはフレアがなければならないのです。そして、フレアがあるのは背中の「黒い太陽」だけなのです。

 「若い太陽」は、下の写真のように背後にある丸い太陽に、仮面の「太陽の顔」を付けたものなのです。岡本太郎さんにとってこの「太陽の顔」は縄文土偶に見られる「仮面」なのです。従って、太陽の塔の一番上の「黄金の顔」は太陽そのものではなく、「生命の樹」の仮面なのです。

 

 犬山市日本モンキーパークの「若い太陽」(ムーンライトゆかりんさんHPより)

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 ちなみに、最初から「黄金の顔」は私には「鳥」の顔にしか見えませんでしたし、今もそうです。特に、口と鼻から前に出て、上に伸びている金属の飾りは、私には鳥の冠羽(かんう)をシンボライズしたものに見えます。避雷針が必要となり、デザイン的に冠羽として表現したと考えます。 

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 日本モンキーパークの「若い太陽」にはこのような冠羽飾りのようなものはなく、周りには「浅草ウンチビル」(アサヒビール本社)と同じような太陽光・太陽熱をイメージさせるフレア(炎)が11本も出ています。しかしながら、「黄金の顔」には見られないのです。火炎式縄文土器をよく知っている岡本太郎さんが、太陽に炎を付けないわけがないのです。
 「生命の樹」は天に飛び立つ鳥のイメージと重ねて、その顔を鳥にしたのではないか、というのが私の説です。それは、塔の主軸から左右に伸びた羽の形からみても明らかです。これは太陽の手ではなく、空に飛びたつ鳥の羽です。

 

 

     背中の黒い太陽(ウィキペディアより)

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 そして「腹の太陽」は塔の中の「生命」の顔で、黒い不気味な「背中の太陽」はこの「人類の進歩と調和」の万博の背後にある自然を破壊する原発を象徴していると考えます。原発を「地上の太陽」とし、反自然の「黒い太陽」として、「人類の進歩と調和」のシンボルに岡本太郎さんは毒を仕込んだと考えます。『自分の中に毒を持て』といっていた岡本太郎さんは、ちゃんと毒を忍ばせたのです。「お前たちには分からんだろう」と。

 1960(昭和34)年に刊行された『黒い太陽』の中で、岡本太郎さんは「太陽は人間の腹だ この素晴らしいエネルギーが むずむずと 生きている人間の腹の中にあって そこから精気がもりあがり たちのぼっている」と賛美する一方で、「驚異的なエネルギーの源を原子力の連鎖反応に分析してしまった今日、どうやら太陽はあまねき光を失い、スポットライトみたいにこの世界の一部しか照らしださなくなったようだ」「今日は、太陽自体のエネルギーを明らかに分析し、実験的に太陽を作り出した時代だ」と原発を地上の太陽として見ています。

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 そして、「われわれの心の中には別の太陽が輝いている。それは、暗い、やきつく光を持った―黒い太陽。しかし、われわれはこの現代的ニヒリズムをも克服しなければならない。黒い太陽に矢をはなとう。そして赤いカニをしとめなければならない」と、「黒い太陽」=心の中にある原発に矢をはなち、「赤いカニ」=太陽を取り戻そうというのです。「人類の進歩と調和」の進歩の象徴であった美浜原発からの電力による万博に対し、対抗しようとしたのです。

 1954年にはビキニ諸島の水素実験で第五福竜丸をはじめ約1,000隻以上のマグロ漁船が死の灰を浴び、翌1955年には原子力基本法が成立して原発建設が進められており、[1960年の『黒い太陽』はこのような時代状況に対する岡本太郎さんの叫びなのです。

 「生命の樹」から「太陽の塔」への名前変更において、彼なりの芸術的抵抗として背中に「黒い太陽」=原発を背負わせたのです。「生命の樹」から「太陽の塔」と名前を変更しながらも、背中の「黒い太陽」以外の3つの顔のデザインにはフレア(炎:岡本太郎はコロナと呼んでいた)を付けていません。背中の「黒い太陽」だけが「太陽デザイン」であり、「太陽の塔」は「黒い原発の塔」であったのです。

 「太陽にの塔に見える? じゃあそうしとこうか」と面白がり、「お前たちには分からんだろう」と名称を変更したのだと思います。『自分の中に毒を持て』といっていた岡本太郎さんは、見事に主催者を欺いたのです。

 なお、「黒い太陽」マークとナチスとの関係なども、岡本太郎さんが知っていたのかも気になっています。           

6.4番目の「地底の顔」のメッセージ

 実は、「太陽の塔」にはもう一つ、地下に4つ目の顔があり、行方不明になっていましたが、写真をもとに2018年の一般公開に向けて復元されました。

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 「地底の太陽(太古の太陽)」と名付けられていますが、この4番目の顔を含めた統一的な解釈となると、前掲の「上の顔は未来」、「腹の顔は現在」「背中の顔は過去」いう3つの顔の説明は破綻します。

 「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」と主張し、「火炎式縄文土器」を深海のシンボルとしてみていた岡本太郎さんは、この地下に置かれていた顔は大地ではなく、生命の源である「海の顔」としてデザインしたと私は考えます。

 「生命の樹」のオブジェのスタートを原生類時代におき、三葉虫時代、魚類時代、両生類時代と海に生きた生物にこだわっていることからみても、この顔は「地中生物」の顔ではなく「海の顔」であり、波うつ海の中の生物を象徴しているように見えます。

 死後の世界を古事記は「黄泉国」としていますが、倭語の「よみ」は「夜海」(暗い海の底)ではないか、と私は考えています。海人族は「魚や人は海から生まれ、海に帰る」という海神信仰、縄文農耕民は「生物は大地から生まれ、大地に帰る」という地神信仰(地母神信仰)と考えてきましたが、漢語の「黄泉」を当てていることをみると、「黄色い羊水=泉」の中からから生まれる人は、母なる海、海に繋がる地底の泉に帰る、と信じられていたのではないでしょうか?

 「生命の樹」の4つの顔は、一番上は「鳥の顔」、正面は矛盾を抱えた「人の顔」、地下の顔は生命の源である「海の顔」、背中は「地上の太陽=原発」をシンボル化したものと考えます。

 「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」と主張し、「火炎式縄文土器」を深海のシンボルとしてみていた岡本太郎さんは、海人(あま)族の「龍宮」が「琉球(沖縄)」であり、縄文人のルーツが龍宮であり、海人族の始祖が琉球の始祖のアマミキヨであることを見抜いていたのではないでしょうか?

 あまりにも先駆的な考えであり、その本心を隠し、後世への謎かけ・暗号として、「生命の樹」を「太陽の塔」の名前に変更しながら、デザイン的には「太陽」には見えないように工夫したのではないでしょうか。

7.2025年大阪万博へ向けて

 1970年大阪万博の時、芸術家や住民運動グループなどにより「反万博(ハンパク)」のイベントが大阪城公園であり、友人たちは参加していましたが私は忙しくて参加できませんでした。「太陽の塔」や「お祭りひろば」についての議論・批判が見られたのかどうか、いずれ確認したいと思います。
 2025年大阪万博が「いのち輝く未来社会のデザイン」というなら、対抗して「いのち」を考えるいい機会です。若い人たちは対抗イベントをやるのではないでしょうか。
開発に失敗した広大な大阪湾の埋め立て空地を利用した集中型・巨大施設型の万博(台風の高波や津波などを想定しているのでしょうか?)に対抗して、全国各地で自然豊かな大地を使った芸術イベントや、ネット上に誰もが参加できる無数の「パビリオン・ネットワーク」など、若い皆さんに期待したいものです。
 私としては、岡本太郎さんが残した「縄文に帰れ」をさらに深め、現代の課題と結びつけていきたいと考えます。

「日本列島文明論6 日本列島文明論メモ:サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』より」の紹介

 Livedoorブログの「帆人の古代史メモ」で「日本列島文明論6 日本列島文明論メモ:サミュエル・ハンチントン文明の衝突』より」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 私が文明論について始めて書いたのは2018年8月の「未来を照らす海人(あま)族の『海洋交易民文明』―『農耕民史観』『遊牧民史観』から、『海洋交易民史観』へ」です。11月に修正し、『季刊日本主義』44号(181225)に「海洋交易の民として東アジアに向き合う」として掲載されました。
 その後、2019年4月に縄文社会研究会に向けて書いたのがこの小論です。
 不均等発展による南北格差、都市農村格差、民族・宗教・階級対立をいかに乗り越えられるか、人類は共通の価値観を共有できるか、という観点から、土器(縄文)文化、八百万神信仰などの世界遺産登録運動などを通して、「縄文文明」「日本文明」「日本列島文明」を世界にアピールしたい、と考えています。
 縄文論を世界文明の中でどう位置付けるか、考えてみていただければと思います。雛元昌弘

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「倭語論18 柿本人麻呂の漢字表記からの古代史分析」の紹介

 Gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」で「倭語論18 柿本人麻呂の漢字表記からの古代史分析」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 2019年7月に書いたレジュメ「柿本人麻呂の『「漢字2重表意(ダブルミーニング)用法』」をもとに、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の執筆で当時の最大の難問であった「委奴国」「奴国」を「いなの国」「なの国」と読むか、「いのの国」「のの国」と読むかなどの論点について再考したものです。
 私は言語学も漢文も和文も素人ですが、土器(縄文)人の言語について考える機会としていただければと考えます。雛元昌弘

柿本人麻呂の漢字表記例

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縄文ノート13 妻問夫招婚の母系制社会1万年

   この小論は2014年8月のレジュメ「『縄文日本の会』での意見へのメモ―7.古代史に見られる民衆レベルの母系制社会について」と、2018年12月に書いたレジュメ「妻問夫招・夜這いの『縄文1万年』」を合体し、一部、言語論、土器(縄文)時代農耕論などを加筆しました。
 なおその後、「石器―土器―鉄器」時代区分を提案するようになり、「縄文時代」と書いていた部分を「土器(縄文)時代」と置き換えています。 雛元昌弘

 

1.海人族の土器(縄文)社会の均一性

 土器文化(土器鍋として使う縄文式土器)と煮炊き・蒸し食、竪穴式住居、言語、宗教(土偶・石棒・ストーンサークル)などからみて、1万年6千年前からの土器(縄文)社会はかなり均質であったと考えられます。
 私は2000年に「ひな(日、日向、日南、鄙、委奴、伊那)」の研究を始めた時から、台湾の卑南族(現地ではピュマ、漢語読みではヒナ・ピナ)族に関心を持ってきましたが、台湾の山岳部や東部に住む原住民は12以上の「族群」に分かれ、文化・言語を別にし、それぞれ勇敢で戦闘的であり、独立性を保っていたことに興味を惹かれていました。
 これに対して、わが国は南方・北方系に中国・朝鮮から多様なDNAの人々を受け入れながら、アイヌ以外に多様な原住民は存在せず、土器(縄文)時代の文化などの均一性という点で大きな違いがあり、その差をどう理解すればいいか考え続けてきました。琉球薩摩藩の信仰まで独立国であり、言葉もかなり違いますが言語学的には同一言語とされています。
 土器(縄文)社会は多様なDNAの人々から構成されながらも、なぜ均一な言語・文化社会となったかについては次の4つの理由が考えられます。
 第1は、海人族の活発な交流・交易が考えられます。平野部や山間部に定住する狩猟採取民、焼き畑農耕民であれば、各地にそれぞれ固有の文化が色濃く残ります。インドネシア・フィリピン・台湾と較べた違いではないでしょうか。インドネシア・フィリピン・台湾などとと同じ海人族・母系制社会でありながら多民族・多部族国にならなかったのは、好奇心が旺盛で、双方向に活発な交流・交易を好む民族性があった可能性が高いと考えます。装飾用の貝や黒曜石、ヒスイなどの流通や土器様式の伝搬、後の紀元前後の漢や辰韓(後の新羅)などとの外交・交易がその証拠です。
 第2は、海人族の妻問・夫招婚の開かれた母系制社会が、均一な文化社会を生み出したと考えられます。好奇心・冒険心に富み、移動性のある海人族男性が各地の母系制部族と交流・交易によって文化を均一化させた可能性です。土地に縛られた閉鎖的な父系制社会だと固有の部族文化が残る可能性が高いと考えます。
 第3は、海に囲まれた日本列島への漂着者・避難民が少数の単身男性か家族であり、部族・民族単位の移住ではなかったため、多民族・多部族国にならなかった可能性です。1万年の間、毎年10人の男性が漂着すれば10万人になります。弥生人征服説をとる必要はありません。
 台湾では東海岸にはいくつもの原住民の少数民族がいる一方、中国大陸側の西海岸では福建省南部から台湾海峡を流れる黒潮を越えてやってきた男性単身者が多く、平野部の「平埔(へいほ)族」と混血し、文化的に融合して「ホーロー人」と呼ばれ、「ホーロー語」が台湾では多数派を占めているとされています。家族・部族単位の移住ではなく、男子が少しずつ日本列島に移住し、妻問・夫招婚を繰り返すと、「ホーロー人」と同じように言語・文化を共通にするようになり、さらに活発に交流・交易を重ね、「土器(縄文)人」という言語・文化を同じくする社会が成立したと考えられます。
 第4は、土器鍋の発明により、早期に芋・豆・雑穀・堅果や野菜、茸、魚介や肉などの豊富で健康的な食生活を確保でき、活発な知的活動を促すとともに、多産による交流・交易・通婚圏の拡大、長寿化による祖父母から孫への教育の充実などが活発な文化交流、吸収・発展を実現し、共通の土器(縄文)社会を作ったと考えられます。
これまで、縄文式土器から1万年の縄文時代が考えられてきましたが、「縄文」という共通デザインの土器文化があったわけではなく、「土器鍋」という旧石器時代にはない、また世界独自の共通の食生活文化こそ、その歴史的発展段階ととらえるべきと考えます。
 カヌーやヨットでの日本一周の航海記を読むと、琉球から日本海にかけては北上する対馬暖流(琉球暖流と呼ぶべきと考えます)があり、沿岸部には南下する反流があって、夏には風がなく航行が容易であるという特殊条件が日本海にはあります。さらに、春から夏にかけては「南風(しろばえ)」が吹いて琉球から九州への渡海を容易にし、秋から冬の大陸からの北西風は九州から琉球朝鮮半島から日本列島への渡海を容易にします。
 この恵まれた海流・気象条件のもとで、交流(移住・婚姻を含む)・交易の活発な「多DNA・文化共同体」の1万年の土器(縄文)社会、土鍋食文化の文明社会が成立したと考えます。

2.母系制社会の妻問夫招婚

 最近ではネットで台湾の少数民族についても情報がえらえれるようになってきましたので、そのうちの卑南族についてメモしておきます。
 卑南族の言語は「主語―動詞―目的語」構造でわが国の「主語―目的語―動詞」構造言語とは異なりますが、「原住民の祭礼・祭祀に欠かせない祖霊部屋は巫女信仰のアニミズム」「豊年祭-粟の収穫を祈願する祭祀;収穫祭-粟の収穫を感謝する祭祀;大狩猟祭」「祖霊部屋(巫師部屋)、少年会所、青年(男子)会所」「頭目制度と男子会所による年齢階級組織が混在した母系社会」(ホームページ:沖縄写真通信)はわが国の縄文社会解明のヒントになると考えます。

   祖霊部屋(巫師部屋):三人の巫女に祈る聖なる場所(沖縄写真通信より)

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  『季刊日本主義』43号(181225)の「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(原題「未来を照らす海人(あま)族の『海洋交易民文明』―『農耕民史観』『遊牧民史観』から、『海洋交易民史観』へ」)において、私は「生活手段母系、生産手段父系」の母父系社会説を提案しましたが、卑南族では祖先霊(鬼)を祀り家を継承するのは女性であり、男性は食糧生産などに従事する組織を持っていたのです。
 漢字の「姓」が「女+生」であることや、周王朝が「姫(女+臣)」であることや、その一族の魏が「女+禾+鬼」で「女性が鬼神(祖先霊)に禾(わ:稲)を捧げる」という字であることからみて、中国も春秋・戦国時代を経て男系社会になる前は女系性社会であったと考えられます。わが国もまた卑弥呼(霊御子=霊巫女)の邪馬壹国など、各地に鬼道の女王国があり、母系制社会という点では卑南族と共通しているのです。
 片倉佳史著の『観光コースではない台湾』には、台湾には成人になると女子は家を建ててもらい、男を迎えるという「族群」があると書かれています。「『ケタガラン』とは、かつて台北盆地に住んでいた人々のことで、平埔(へいほ)族の1部族である」「彼らはマレー・ポリネシア系の南方アジア人種で、血統的には他の先住民族と同系であった」「ケタガラン族が母系制社会だったことである。特に結婚の風習が独特だった。彼らは娘が年頃を迎えると小屋を与える習慣があったという。そして、祭事の時など、女は気に入った相手にめぐり逢うと、男の手を引いて自分の小屋へ迎え入れたのだという。これが求婚となる」というのです。
 同じように、魏書東夷伝高句麗条でも「その風俗では、婚姻する時、話が決まると、女の家では母屋の後ろに小屋を作る。これを壻屋と言っている。婿は日が暮れると娘の家へ行き、戸外で名を名乗り、跪いて拝み、娘と一緒に泊まらせてくれるように頼む。これを再三くりかえす。娘の父母はこれを聞き入れて、小屋の中に泊まらせる。かたわらに銭と布地を積む。生まれた子が成長してから、妻を連れて家に帰る」と書かれており、「妻問・夫招婚」であったと考えられます。

3.記紀などに見られる母系制社会と妻問夫招婚

 古事記は、イヤナギ(伊邪那岐:通説はイザナギ)はイヤナミ(伊邪那美:通説はイザナギ)とともに天降ったとされていますが、「天の御柱」を廻わり、イヤナギが先に「あなにやし、えをとこ」(あれまあ、いい男)言ってセックスして水蛭子(ひるこ)がうまれたとしています。これは夫婦の会話というより、対馬壱岐から対馬暖流を下って出雲の揖屋のイヤナミのもとにやってきた時、二人が出会い、イヤナミがイヤナギを誘ってセックスしたという会話です。その結果、障がい者が生まれたので葦船に入れて流し、今度はイヤナギが先に「あなにやし、えをとめ」と言ってセックスし、大八島を生んだとされています。
 この神話は母系制社会から父系制社会に変わった後に、女性主導のセックスは悪く、男性主導がいいと教えたものであり、後のスサノオとアマテルの子づくり競争で、スサノオの子の宗像3女神ではなく、アマテルの生んだ5王子を高天原の後継王とする神話とも符合しています。
 イヤナギの死後、スサノオは筑紫に移り、アマテルや月読、綿津見3兄弟、筒之男3兄弟など26神を生み、大国主が越の沼河比売に婚(よば)いし、「島の埼埼」「磯の埼」に「若草の妻持ち」、180人の御子をもうけたのも、同じように母系制社会の妻問夫招婚を示しています。
 筑紫の高天原から薩摩半島南西端の笠沙(かささ)の阿多に天降ったニニギが阿多都比売をみそめてセックスし、「一宿に妊める。これ我が子には非じ、必ず国つ神の子ならむ」(この子は海幸彦)と疑う話や、ワカミケヌ(後に神武天皇命名)の死後、阿多の阿比良比売の子のタギシミミは父の嫡后(おおきさき)のイスケヨリ比売を妻としますが、これらもまた母系制社会を示す挿話のように思えます。
 魏書東夷伝倭人条には「其会同坐起、父子男女無別」(その会同で座起するのに、父子男女の区別はない)としており、家父長制ではなく、母系制社会であったことを示しています。また、出雲国風土記の意宇郡忌部の神戸では「出湯のある所、海陸を兼ねている。よりて、男女老少、・・・日に集い市を成し、さかりに燕楽(うたげ)す」とし、島根郡の「邑美の冷水」でも「男女老少、時々に叢集いて、常に燕会(うたげ)する」としており、「老若男女」が平等な母系制社会であったことを示しています。
 これらは紀元1世紀の古事記神話や3世紀の魏書東夷伝倭人条、8世紀の出雲国風土記の記述ですが、土器(縄文)時代の妊婦の土偶地母神信仰を示す円形石組・立柱などからみて、土器(縄文)時代からの続く母系制社会の妻問夫招婚を示しています。 
 そして海人族のスサノオ大国主の建国は、4大文明の古代専制国家型の領土争奪の征服戦争によるのではなく、土器(縄文)時代1万年の伝統をふまえ、米鉄交易と妻問夫招婚、八百万神信仰(鬼道)による百余国の建国を成し遂げたと考えます。 


4.「土器(縄文)時代農耕」による定住生活と移動性

 私は現役時代には全国各地の市町村総合計画(5年の基本計画、10年の基本構想)などの策定支援に携わってきましたが、その時、まちづくり・村おこしの地域資源として歴史文化の調査は欠かせませんでした。その時に疑問に思ったのは、長野や群馬などの高原・山間部の畑で黒曜石などの鏃が畑から数多く出てくることと、全国各地でニュータウンや工業団地開発の適地と考えた河川沿いの高台では必ずのように土器(縄文)時代の居住跡があり、どれだけの人々が住んでいたのか、驚かされたことです。
 単に野原や山で猪や鹿を追ったのなら、鏃の分布はもっと拡散して目立たないはずです。今の畑から数多く発見されるということは、当時すでに粟や稗、黍などの雑穀の栽培が行われており、猪や鹿、鳥などの獣害・鳥害を防ぐために、畑の場所で集中的に矢を射て狩りを行ったからではないか、と考えるようになりました。
 気付いたきっかけは、対馬や仕事先の岡山県井原市で鳥害を避けるために畑を金網で全面的に四角く覆っているのを見たことによります。

 

         鳥害・獣害よけの金網で囲った畑(岡山県井原市芳井町

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  思い出されるのは、今から70年近く前、山村の父の実家で囲炉裏を囲んで獣害が話題となった時、祖父が「そろそろ猟師に使いを出せや」と叔父に害獣駆逐を指示していたことです。猟師(山人:やまと)がいないと山村での農業は成立しなかったのです。ニニギが天降りしたとされる薩摩半島の西南端、いまの南さつま市の仕事では「海には亀(天然記念物)が来るし、山には猿や猪がでてくるし、何もできん」との嘆き節が聞かれましたが、それは全国各地の農山村で同じでした。
 また全国各地の仕事先の市町村で見た土器(縄文)人の居住跡の多さについては、①世代代わりとともに移住した、②病気が発生すると住み替えた、③狩猟・採取のフィールド確保のために世帯分離を行った、④焼き畑農業のために移住を繰り返した、⑤芋や豆、雑穀、木の実などの栽培が始まり、豊かな安定した煮炊き食により長寿化が進み、多産となって世帯分離が増えたなどにより、住居址が分散して数多く増えた可能性はあります。
 すでに豆の栽培は土器に残された穀物の痕跡などから考古学的に証明されており、雑穀の栽培についても、石鍬や石包丁や石臼の利用目的から考えてその可能性は高く、「農耕は弥生から」という思い込みから脱する時期と考えます。

 

        石鍬(長野県富士見町の井戸尻遺跡:井戸尻考古館) 

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              穀物の穂を収穫する石包丁(前同)

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             精穀用の石臼(前同)                 

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 さらに、次のような記紀アマミキヨの五穀伝承や五穀の「倭音(和音)」、さらに吉備国(黍の国)、阿波国(粟の国)、比叡山(稗の山)などの国名・地名からみても、水稲栽培の前に、陸稲とともに五穀の栽培が行われていた可能性が高いと考えます。土器鍋の世界に先駆けての開発は、栗やドングリを食用にしただけではなく、五穀栽培・食用の可能性が高いこと示しています。
 土器(縄文)時代農業と土器鍋食のワンセットの本格的な研究が求められます。

 

「倭音(和音)」と記紀琉球伝承などからみた土器(縄文)時代からの五穀栽培

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5.土器(縄文)時代からの「日本列島文明」論の提案

 以上、「海人族の土器(縄文)社会の均一性」「母系制社会の妻問夫招婚」「「土器(縄文)時代農耕による定住生活」と、今回は触れませんでしたが「霊(ひ)信仰」論を加えると、私は世界史の中で「日本列島文明」の主張が成立すると考えます。
 「縄文社会」を一国的な視点でとらえるのではなく、世界史の中での特徴的な「日本列島文明」として把握し、世界遺産登録運動すべきと考えます。

 

「神話探偵団131 『古事記』が示すスサノオ・大国主建国王朝」の紹介

 Gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」で、「神話探偵団131 『古事記』が示すスサノオ大国主建国王朝」をアップしました。
 8年前(2012年5月)に書き、縄文の講演会で出合った先輩の山岸修氏が編集長をつとめていた『季刊日本主義』16号(120615)に掲載された原稿をもとに、一部、加筆・修正しました。
 縄文論としては、土器(縄文)時代から続く「霊(ひ)信仰」=「鬼道」として見ていただければと思います。雛元昌弘

<目次>
古事記』『日本書紀』などが伝えるスサノオ大国主の建国
皇国史観」対「反皇国史観」の2つのフィクション
天皇家国史観(大和中心史観)」から「スサノオ大国主国史観」へ
「霊(ひ)信仰」こそが「古事記」を読み解く鍵
「欠史16代」を埋める「スサノオ大国主16代」
スサノオ大国主建国」を示す古代王の即位年推計
「鬼道」=「霊(ひ)信仰」からの建国史

大国主・少彦名の「日本の中心になるはずであった」との建国伝承が伝わる高御位山(兵庫県高砂市
天皇家皇位継承は「天津日嗣(ひつぎ)高御座(たかみくら)之業」と言われる)

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「日本列島文明論5 「土器(縄文)文明論」の検討課題」の紹介

 Livedoorブログの「帆人の古代史メモ」で「日本列島文明論5 「土器(縄文)文明論」の検討課題」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 「日本列島文明論4 『縄文文明論』考」の前に書いたメモで、縄文社会研究会で提案したものです。 「石器―土器―鉄器」の時代区分は、武器ではなく生活用具・生活文化を時代区分にしたものであり、文明論としても「健康で安定した土器鍋食文化」「芋穀実菜魚介肉食文化」という新たな時代を切り開いたと考えたからです。
 口頭で発表するためのメモであり、分かりにくく、整理もまだまだ不十分ですが、「縄文社会・文化」を世界文明の中でどのように位置づけることができるか、ご検討いただければと考えます。雛元昌弘

「邪馬台国ノート4 「神籠石(磐座)」「神籠列石(磐境)」が示す霊(ひ)信仰」の紹介

 Seesaaブログ「ヒナフキン邪馬台国ノート」に「邪馬台国ノート4 「神籠石(磐座)」「神籠列石(磐境)」が示す霊(ひ)信仰」をアップしました。https://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 この小論は2017年7月に書いたレジュメ「『神籠(こうご)石・神籠列石』が示す霊(ひ)信仰の磐座(いわくら)と磐境(いわさか)」を加筆・修正したものです。
スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム:梓書院、2009年)においては、邪馬台国甘木高台説にたち、朝倉市杷木町の杷木神籠石(はきこうごいし)や筑後国山門郡(みやま市瀬高町)の女山神籠石(ぞやまこうごいし)など、邪馬壹国を2重に囲む神籠石群を邪馬壹国防衛の山城としていましたが、このレジュメではこの前説を否定し、「神籠石(かみこもりいし)=磐座(いわくら)」「神籠列石(かみこもりれっせき)=磐境(いわさか)」の霊(ひ)宗教施設説に変更しました。
 邪馬壹国の卑弥呼(霊御子・霊巫女)の鬼道については、霊(ひ)信仰=祖先霊信仰としてきましたが、神籠石説で整合性を図っています。
 縄文論としては、土器(縄文)時代から続く霊(ひ)宗教論として「磐座」「磐境」を見ていただければと考えます。土器(縄文)時代の環状列石と四角の磐境、さらには円墳・方墳の関係については、いずれ考察したいと考えています。雛元昌弘

宗像大社の高宮の「神籬(ひもろぎ)」「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)

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