ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

Gooブログ「『主語―目的語―動詞』言語の起源と拡散」の紹介

 川・海・舟遊びや山遊びが大好きで、中学生になってからは井上靖の『敦煌』『蒼き狼』、『コン・ティキ号探検記』などを読み、自分の血(当時はDNAの知識はありません)の中には、海人、狩猟民、騎馬民のどの本能が強いのか、ずっと気になっていました。網やヤスで魚をとり、貝を掘り、舟を漕ぎ、弓矢やワナ、空気銃で遊んだり、キャンプをしたりするたびに、本能どう響くかずっと確かめてきましたが、そのような方法では答えはでませんでした。
 そんな変な子供の時からの疑問の延長で、一昨日のはてなブログの「『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」に続き、昨日、Gooブログに「『主語―目的語―動詞』言語の起源と拡散」をアップしました。
https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 日本民族アジア諸国からの多様なDNAを受け継ぎ、「倭音、呉音、漢音」読みを併用して漢字を使いながら、「主語―目的語―動詞(SOV)」言語構造を維持し、中国語の「主語―動詞―目的語(SVO」言語構造を採用していません。朝鮮語は同じ「主―目―動」言語構造ですが、倭音と朝鮮音の併用は見られず、基礎言語も一致していません。
 「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服説」が通説として根強いのですが、イギリスや台湾・フィリピン・インドネシアなどのように言語・文化の異なる多数の少数民族が入り混じってはいません。1万年の土器文化(通説は縄文文化)からみて、わが国は様々な民族の人たちを受けいれ、積極的に中国文化を吸収ながら、独自の言語・文化を維持し、土器人が自律的・内発的発展を遂げたと私は考えています。
 言語学の門外漢の強みで、「主目動・主動目言語等のアフリカ起源説」など、大胆な仮説を提起しています。
 古代史において、「縄文語」→「倭語」→「日本語」の内発的発展論として、ご検討いただければと考えます。雛元昌弘

 

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縄文ノート5 「人類の旅」と「縄文農耕」,「3大穀物単一起源説」

 2014年5月に「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構―海洋交易民族史観から見た鉄器稲作革命」(『季刊日本主義』2014夏に掲載)を書いたとき、12000~5000年前の鳥浜遺跡から見つかったヒョウタンの種がアフリカ西海岸のニジェール川流域が原産地であることを知り、土器人(通説は縄文人)がヒョウタンに水を入れ、竹筏に乗って「海の道」をやってきたことを確信しました。
 さらにニジェールに行っていた次女からアフリカに米があることを知り、アフリカのナイジェリアに水田稲作の指導に行っている元鳥取大学名誉教授の若月利之さんからアフリカ稲が陸稲であることなどを教えられ、イネ科の稲や麦などのルーツもまたアフリカではないかと考えるようになりました。
 この小論は2014年6月に書いたものに一部、加筆したものです。

2020年9月4日に修正し、「縄文ノート18 縄文農耕について:『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」補足」を追加しました。

1.鳥浜遺跡のヒョウタンと米の関係

    岡山や福岡の稲作の起源が7000~5000年前(縄文時代草創期~前期)となる一方で、若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前)では南方系のヤシの実やヒョウタン・リョクトウ・シソ・エゴマ・コウゾ属・ウリが北方系の植物とともに発見されながら、米は見つかっていません。
 若狭での米の栽培はもっと後のことになり、多様な人々が、何次にもわたってこの国に来たようです。
ちなみに、ヒョウタンは西アフリカ、ウリは西アジアから北アフリカ、リョクトウはインド、シソはヒマラヤ・ビルマ・中国、エゴマは東南アジアが原産地とされ、いずれも熱帯・亜熱帯方系ですから、これを持ってきた人たちは寒いシベリアや乾燥した砂漠・草原地帯ではなく、熱帯・亜熱帯の「海の道」をやってきたのは確実です。
ヒョウタン・ウリ系」の人々が日本列島に定住した後、「熱帯ジャポニカ」系の人々、続いて「温帯ジャポニカ系」の人々がこの日本列島にやってきたと考えられます。

2.アフリカイネとアジアイネ(インド型、ジャワ型、日本型)の起源について

 人類の起源が「多地域進化説」から「アフリカ単一起源説」変わったように、栽培植物の起源もまた、「多地域起源説」から「アフリカ単一起源説」に変わる可能性があると考えます。
 その場合、「種の多様化」を考えると、陸稲水稲のアジア稲がアフリカに伝わって陸稲だけが残ったとみるより、陸稲のアフリカ稲がヒョウタンと同じようにアフリカからアジアに伝わり、高度差があり温度変化の大きいミャンマーあたりで「種の多様化」が生じたと見る方が自然です。
 「海の道」から竹筏に乗った人々がヒョウタンに水や種子を入れて鳥浜遺跡にたどり着いたのとは遅れて、アフリカの陸稲は高度差のあるミャンマーあたりで熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカが生まれ、「海の道」を竹筏にのった人々により日本に到達した、と考えます。

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 下図の「Y染色体亜型」の分布からみると、日本列島に見られる「Ⅾ」型(図の黄緑色)はチベットにしか見られないことからみても、このあたりの地域から温帯ジャポニカが持ち込まれた可能性が高いと考えます。
 

           Y染色体亜型の分布(中田力『科学者が読み解く日本建国史』より)

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  なお「O型」は中国由来と考えられますが、次の機会に詳しく述べるように、日本語が漢字の読みで「倭音、呉音、漢音」を併用しながら、「主語-目的語―動詞」言語構造であり、中国の「主語―動詞-目的語」言語構造ではないことからみて、多DNAの国でありながら、1万年の縄文人は倭語原語であり、そのルーツはインド東部からミャンマーにかけての海から山岳地帯にかけてであると考えます。

 

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 稲はミャンマー起源説(ミャンマー雲南揚子江下流)、雲南起源説、揚子江中流域起源説説がみられ、揚子江流域から朝鮮半島をへて日本にたどり付いたという説が見られますが、ヒョウタン・ウリ・リョクトウ・シソ・エゴマがワンセットで鳥浜遺跡で発見されていることなどからみても、熱帯から亜熱帯にかけての「海の道」から陸稲、続いて水稲もまた同じように日本列島までたどりついたとみるのが自然です。
   揚子江下流域や朝鮮半島南部の稲作もまた、雲南から揚子江下流した「川の道」よりも、「海の道」からの可能性が高いのではないでしょうか。


3.人類の移動と食物について:いつまで「ギャートルズ」?

   これまで、人類の旅(グレートジャーニー)と、ヒョウタンやウリ、稲の伝搬、日本語の起源、縄文研究などはそれぞれ別々に論じられてきましたが、そろそろ、統一的な検討が必要かと思います。
  人類が石器を持ってマンモスなどのほ乳類の獲物を追って世界に拡散したという肉食史観、「はじめ人間ギャートルズ」のギャグ漫画的史学(「チャンバラ考古学」とそっくり)はそろそろ卒業すべき段階でしょう。
  元々、樹上で果物や木の実、昆虫などを食べていた人類の祖先は、動物の肉だけでなく様々な穀類やイモ類、魚貝類を食べながら、世界に拡散したと考えます。野生のチンパンジーの食物の95%が植物性であることをみても、「マンモスハンター説」のような「焼き肉食原始人」イメージではなく、「食物多様性原始人」イメージに変える必要があると考えます。
  旧石器・縄文遺跡からは焼けた猪などの骨がでてきますが、縄文人の骨のコラーゲンの分析によれば、主なエネルギー源は木の実であったという研究もあり、季節によって多様な食生活であった可能性が高いと考えられます。
  2019年11月からNHKスペシャルで始まった食の起源の「第1集『ご飯』~健康長寿の敵か?味方か?~」によれば、アフリカの旧石器人の摂取カロリーの5割以上が糖質であり主食が肉というのは間違いでありでんぷんを加熱して食べると固い結晶構造がほどけてブドウ糖になって吸収され、その多くが脳に集まり、脳の神経細胞が増殖を始めるとされています。火を使うでんぷん食に変わったことにより脳は2倍以上に巨大化したというのです。

   主食は常にでんぷん質のものであった(NHKスペシャル「食の起源 第1集 ご飯」より)

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   さらに、「第3集『脂』~発見!人類を救う“命のアブラ”~」ではオメガ3肪酸(青魚・クルミ・豆類など)が脳の神経細胞を形作り、樹状突起同士を結び付け、高度な神経情報回路を生み出すのを促したとされています。
  猿から人間への頭脳の深化には魚食と穀類の組み合わせが有効であったのであり、海岸・河川そばでの人類の魚介類やイモやイネ科類の摂取こそが人類を誕生させたのであり、日本列島における世界に先駆けた土器鍋によるイモ・雑穀・野菜・茸・栗・魚・貝・肉などの煮炊きによるバランス食文化は、これからの人類にとって重要な示唆を与えると考えます。土器鍋は人類初の主食調理器具の偉大な発明であり、石器時代に次いで土器時代(土器鍋時代)という時代区分を採用すべきと考えます。
  肉食の弊害(アンモニア処理の肝臓・腎臓への負担、尿酸の蓄積、血液酸性化による骨からのカルシウム溶解、カルシウムのリンの置き換え、焼き焦げによるがんの発症)を考えると、魚食と穀物・豆食を組み合わせたバランス食による健康長寿化により、祖父母から孫への教育が可能となり、縄文土器のような高度な芸術・文化を生み出した可能性が高いと考えます。

4.「3大穀物(米・小麦・トウモロコシ)単一起源説」について

  小麦は、中央アジアコーカサス地方から西アジアのイラン周辺が原産地で、1粒系コムギの栽培は1万5千年前頃に始まり、7500年前頃に普通コムギの栽培がメソポタミア地方で始まり、5000年前ごろにヨーロッパやアフリカに伝えられたとされています。
  一方、水田稲作は、揚子江下流の彭頭山遺跡で約8000年前、河姆渡遺跡で約7000年前から開始されたとされ、日本では約2800年前頃とされています。
  しかしながら、灼熱の気候のアフリカ・インド・東南アジアでは有機物は痕跡を残さす、植民地化され近代化が遅れた国々では、旧石器時代新石器時代の研究は遅れている可能性があります。
  小麦と米は同じイネ科であることから、「米・小麦同一地域起源説」がアフリカにおいて成立する可能性はないでしょうか? 
  さらに、飛躍した仮説になりますが、イネ科のトウモロコシやアワ・ヒエ・キビ、サトウキビ、竹などを含めて、全て単一の「マザー・イネ」のルーツがアフリカの可能性はないでしょうか? 
  パンゲア大陸の時代でみれば、アフリカのニジェール川流域は南アメリカの東端に接しており、アメリカ大陸にしか見られないトウモロコシのルーツは西アフリカに近接していた地域の可能性が高いといえます。通説では最初の被子植物ジュラ紀裸子植物から分化したとされていますが、その前の三畳紀に分化したとする説もあり、後者であればその可能性はあります。

                         「マザー・イネ」の誕生地仮説:パンゲア大陸時代かも

 

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  人類の「アフリカ単一起源説」と同様に、「小麦・米・とうもろこしのイネ科三大穀物単一起源説」を検討してみるべきと考えます。

5.焼米と農耕開始について

  新石器時代に土器が出来て、米や小麦を煮て粥にし、その後に粉にして焼くようになり、穀物が食べられるようになった、と思い込んでいました。しかし、昨年の秋、妻がベランダでのイチゴ栽培の苗床用にもらってきた藁に残っていた稲穂の籾を見つけ、焼いて孫に食べさせ、私も子どもの頃に田舎のどんど焼きで焼米を食べたことがあることを思い出しました。米は脱穀して煮なくても焼いて食べられるのです。
  縄文人脱穀した米の「お粥」を食べるとともに、「焼米」を食べていた痕跡が残っており、たき火をしていた旧石器人もまた、野生の稲を燃やした時に白くはぜ(爆ぜ)、こうばしい香りのする焼米などを見つけ、穀類を食べ始めた可能性があります。
  穀類の栽培は旧石器時代に遡り、ヒョウタンの故郷、ニジェール川流域がイネ科植物のルーツの可能性があります。この「ニジェール川流域イネ科植物単一起源説」説については、ヒョウタンや稲、麦などのDNA解析により、決着が付けられるのを待ちたいと思います。

6.雑穀(ヒエ・アワ・キビ)の栽培

  アワ・ヒエ・キビは雑穀と呼ばれていますが、米・麦・トウモロコシ・サトウキビと同じイネ科であり、西アフリカ原産ではないか、という仮説を私は考えてきました。
  縄文時代からアワ・ヒエ・キビは栽培されている痕跡があり、沖縄の久高島には「イシキ浜に流れ着いた壺(ヒョウタン)の中に麦・粟・アラカ(もしくはクバ=ビロウ)・小豆の種子が入っていた」という伝承が伝えられており、アフリカ西海岸原産のヒョウタンに種子が入れられ、「海の道」を通ってやってきた可能性があります。
  ヒエは三内丸山遺跡などの縄文遺跡から見つかり、「日本ではかつて重要な主食穀物であったが、昭和期に米の増産に成功したことで消費と栽培が廃れた」(ウィキペディア)とされています。古事記スサノオによる5穀起源の記述では「稲・粟・小豆・麦・大豆」があげられ、新嘗祭の供物として米とアワが用いられていることからみても、縄文時代にはアワ・ヒエ・キビを栽培して主食としていた可能性があると考えます。

 

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  「阿波・安房」や「淡路」、「日枝・日吉・比延」「吉備」の地名や、古事記の国生み神話の「淡道」「粟国」「吉備児島」は、アワ・ヒエ・キビが主要な穀物であった可能性を示しています。また、古日本語の「あいういぇうぉ」が、「あいういう」(沖縄方言に今も残っています)と「あいうえお」に分岐したと私は考えていますが、出雲の「斐伊川(ひいかわ)」は「ひえかわ」であった可能性があります。

7.大豆・小豆は日本産の可能性

  大豆・小豆の原産地は東アジアとされていますが、原種のツルマメ、ヤブツルアズキは日本にも自生しており、紀元前4000年頃より栽培化されたことが明らかとなっています。
  アマミキヨを始祖神とする海人族(天族)の沖縄の久高島の伝承に「小豆」があり、古事記の国生み神話に「小豆島(あづきしま)」地名があり、スサノオの5穀神話に「小豆」が見られることからみても、豆類について縄文農耕が始まったと見るべきです。
  赤飯を重要なお供え物、行事食とする習慣は「赤米」に由来するとも考えられますが、稲作以前の縄文食に遡る可能性があります。

 

    鋳物師屋遺跡(縄文時代中期)の土器のダイズのレプリカ(南アルプス市文化財mなび)

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8.イモ食のルーツ

  旧石器人・縄文人の主食を論じる時、すっぽり抜け落ちているのは、骨や籾、プラントオパールなどの痕跡が残らない「イモ類」です。
  アフリカ原産のタロイモ(タイモ、エビイモ、タケノコイモ、サトイモ)やヤムイモ(ヤマノイモ、山芋)を主食とした熱帯・亜熱帯・温帯のイモ食文明の探究は「穀類文明史観」のもとで遅れているといわざるをえません。
  現在、ヤムイモの生産地はナイジェリアが7割近くを占め西アフリカが中心で、タロイモもナイジェリア34%を占め、中国17%、カメルーン16.%、ガーナ14%、マダガスカ2%と続いています。
  ヒョウタンや稲と同様に、「マザーイモ」は西アフリカを原産とし、「海の道」を通ってタロイモ・ヤムイモは東進し、日本にたどり付いた可能性があります。「田芋(タロイモ)」「里芋(タロイモ)」「山芋(ヤムイモ)」の「田・里・山」の名称区別からみて、「山芋(ヤムイモ)」も同時に主食としていた可能性があります。
  中秋の名月サトイモを備えて月見する芋名月や、輪切りにしたサトイモを模した「丸餅」を雑煮として食べる習慣などからみて、稲や粟を備える祭りよりその起源は古い可能性があります。縄文時の歯石の分析など、イモ食文化について本格的な研究が求められます。

9.繰り返した人々の渡来

  20万~15万年前にアフリカに生まれた原生人類は、約10万年前に火を起こすようになったとされており、この頃、すでに焼米を食べていたかも知れません。
  人類の「出アフリカ」は約6万年前とされていますが、さらに遡り約12万年前という説も出されています。彼らは、手ぶらで石器だけ持って動物を追って各地に移動したのでしょうか。果物や焼米など穀類、イモの味を忘れ、魚や貝は食べようとしなかったのでしょうか? ヒョウタンに水や種子を入れ、舟で旅をすることはなかったのでしょうか?
  日本の旧石器時代は5~3万年前から、縄文時代は1万6,500年前(鳥浜貝塚は12000~5000年前)から、さらに稲作は7000~5000年前からとされています。
  旧石器人が南と北からまず住み着き、ヒョウタンやウリを持った南からの人々、北方野菜を持った北からの人々、さらに南からイネを持った人々など、何次にもわたってこの国に人々が住み着いたことが明らかです。
  「はじめ人間ギャートルズ」的なマンモスハンターの肉食旧石器人、狩猟漁労採取の縄文人イメージから卒業し、筏や丸木舟に乗る「芋と魚介食の海人族の旧石器人」「芋栗縄文5穀と魚介・猪鹿鳥の土器鍋食の縄文人」像へ転換するとともに、「弥生稲作農耕」説から「土器時代農耕説(縄文時代農耕説)」への転換が求められます。

 

「『古代出雲大社』は外階段か内階段(廻り階段・スロープ)か?」の紹介

 本日、Gooブログ」に「『古代出雲大社』は外階段か内階段(廻り階段・スロープ)か?」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 古代史については専門外ですが、今回の古代出雲大社論は、建築学科をでた私にとってほんの少しは専門的と言えるかもしれません。
 古代出雲大社が外部の直階段で再現されているのに対し、私は構造的強度、建造の容易さ・簡便さ、土器時代(通説は縄文時代)からの建築の伝統、天神宗教の御柱(心柱)信仰、仏塔の心柱構造などから、内部の心柱を回るスロープ構造のタワー型建築を考えました。
 「48mの古代出雲大社本殿復元」と「八百万神信仰の出雲大社などの世界遺産登録」を提案していますが、これは私の現役時代の「まちづくり」に関わります。
 縄文論との関係では、弥生人による縄文人征服説に対し、私は海人族の土器社会(縄文社会)の自立・内発的発展の先に「鉄器稲作によるスサノオ大国主建国」を考えており、その百余国建国の王の宗教的権威のシンボルが出雲大社と考えています。八百万神の産霊(むすひ=むすび)・霊(ひ)継信仰は土器社会(縄文社会)の延長上にある、という観点で読んでいただければ幸いです。雛元昌弘

 

出雲大社復元図(復元:大林組、監修:福山敏男、協力:馬庭稔(建築家))

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「『正使陸行・副使水行』の邪馬台国甘木高台説」の紹介

 本日、Seesaaブログ「ヒナフキン邪馬台国ノート」に「『正使陸行・副使水行』の邪馬台国甘木高台説」をアップしました。https://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 「石器―土器(土器鍋)―鉄器」の時代区分で古代史を再構成すべきと私は考え、弥生人による縄文人征服説(外発的発展史観)に疑問を持ち、土器人(縄文人)の内発的発展史観にたつ私は、鉄器稲作を全国に普及させたスサノオ大国主による建国説を主張してきましたが、邪馬台国論争はこのスサノオ大国主建国と山人(やまと)族天皇家の権力奪取の中韓に位置するテーマです。
 私は海人族のスサノオ大国主の建国から遡って土器時代(縄文時代)を考えてきましたが、参考にしていただければ幸いです。雛元昌弘

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「倭語論11 『委奴国』名は誰が書いたか?」の紹介

 本日、Gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」に「倭語論11 『委奴国』名は誰が書いたか?」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
「大和」と書いて「やまと」と読み、覚えることにずっと疑問を感じていた変な子供であった私は、この国の国名にこだわってきました。
 縄文論との関係では、「「弥生時代はなかった」「イシ・ドキ・ドキ・バカ時代区分はおかしい」「石器・土器(土器鍋)・鉄器時代区分にすべきである」と考える私にとって、「委奴国(いなのくに)」=「稲の国」と解釈すると、「委奴国王スサノオ」一族の大国主の国「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」(古事記)とは合致します。 雛元昌弘

中国の記録に現れた国名

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 本日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言北進・東進論」をアップしました。柳田圀男の『蝸牛孝』の「方言周圏論」(天皇中心史観の方言版)批判に続き、性器方言の起源が琉球からの「方言北進・東進」であることを解明しています。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 古代史で根強い日本民族形成の「二重構造説」や「弥生人による縄文人征服説」、古代人口の「西低東高説」、縄文社会の「東日本中心説」(サケ・マス文化論)などに対し、私は「海人族南方起源説」にたち、「方言北進・東進説」を展開しています。なお、これらの説は7300年前の「喜界カルデラ噴火」や「崇神期大疫病」などの破局的災害を無視したものであり、いずれ、その批判をまとめる予定です。
 古日本語=縄文語は北から南ではなく、南から北への「海の道」をたどったことを、カタツムリに次いで性器方言から解明しています。多DNAでありながら、多民族国家とならず、共通語・共通土器鍋文化の縄文社会が形成されたのは、海人族の活発な交流・交易・妻問夫招婚によるものであることを解明する一端となります。雛元昌弘

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「倭語論10 『男尊女卑』について」の紹介

 Gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」に「倭語論10 『男尊女卑』について」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 この国は「男女の格差」を示すジェンダーギャップ指数(2019年)で世界153か国中110位、経済 分野では115位、政治は144位、中等教育就学率128位と、最貧国・後進国であることを世界中に暴露していますが、多くの影響を与えた儒教の「男尊女卑」の解釈が全くの誤りであり、かつてこの国が女王国であった歴史から、未来を展望すべきと考えます。
 縄文時代(筆者説:土器鍋時代・土器時代)から続く海人(あま)族の妻問・夫招婚の母系制社会の歴史を掘り起こす必要があると考えます。 雛元昌弘